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2010年9月 7日 (火)

明治維新(ペリー来航から西南戦争まで)、王政復古(幕藩体制の封建社会から天皇制統一国家の資本主義社会へ)、近代化政策(富国強兵、文明開化、殖産興業)、とは(2010.9.7)

 明治維新(めいじいしん)は、近世(江戸時代)の幕藩体制を崩壊させ、近代(明治時代)の天皇制の統一国家を形成し、封建社会から資本主義社会への移行の出発点となった、政治的、経済的、社会的、文化的な変革、と考えられています。始期終期については、諸説があり、確定していないようです。

 広義には、幕藩体制の矛盾が顕在化した1830年代(天保期)から、明治憲法の体制が成立した1889~1890年(明治22~23年)までを言います。その他始期を欧米資本主義に組み込まれる1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀(神奈川)に来航から、終期を1871年(明治4年)廃藩置県、1873年(明治6年)維新の3大改革(学制、徴兵令、地租改正)、1876年(明治9年)秩祿処分、日朝修好条規、1877年(明治10年)西南戦争とするなど諸説があります。

● 江戸時代(1603~1867)

○ ペリー来航(1853年)と日米和親条約(1854年)

 1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令官、ペリー(1794~1858)の率いる4隻の黒船(くろふね、蒸気軍艦)が、突如、三浦半島の浦賀沖(うらがおき、神奈川)に現れました。日本との友好通商、日本沿岸で遭難した捕鯨船への石炭と食糧の供給、難破民の保護を求めるアメリカ大統領、フィルモア(1800~1874)の国書を携えての来航でした。当時、北太平洋で操業するアメリカの捕鯨船が日本近海でも捕鯨を行い、鯨の肉は食べないのですが、鯨の表皮から鯨油を取り、灯油を作っていました。幕府は,浦賀に近い久里浜で国書を受領し、翌年に返答することを約束しました。

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ペリー提督、上陸の図(1854年2月10日、横浜村、神奈川、google画像) 

(解説) 1854年(安政元年)1月16日、ペリー率いるアメリカ艦隊は、再び江戸湾(東京)に姿を現し、強行に通商条約の締結を迫りました。今度は、最新の蒸気軍艦ポーハタン号を旗艦(きかん)とする計7隻の大陣容でした。艦隊が湾内羽田沖まで進入して威嚇(いかく)すると、ついに幕府は横浜村(のち横浜市、神奈川)での会見を申し入れました。そして、江戸時代、鎖国後はじめて、同年3月3日、下田(静岡)、箱館(函館、北海道)の開港とアメリカ艦船に燃料や食糧などの供給、難破民の救助と引渡しなどを定めた日米和親条約(神奈川条約)が締結されました。そして、日米和親条約とほぼ同じ内容の和親条約が、同年8月にはイギリスと、12月にはロシアと、翌1955年(安政2年)12月にはオランダとの間で締結されました。

○ ハリス着任(1856年)と日米修好通商条約(1858年)、安政の大獄(1858年6月24日、旧暦)と桜田門外の変(1860年3月3日)

 1856年(安政3年)7月アメリカ総領事ハリス(1804~1878)が下田(伊豆国、静岡)に着任しました。1858年(安政5年)6月には、日米修好通商条約が締結されましたが、それは関税自主権がなく、治外法権を認める、アメリカに一方的に有利な内容の条約となっていました。

 幕府の大老、南紀派(なんきは、御三家、紀伊藩)登用の彦根藩主(第15代)、井伊直弼(いいなおすけ、1815~1860)がハリスに押し切られ、孝明天皇(こうめいてんのう、1846~1866,第121代)の勅許(ちょくきょ)をえないまま日米修好通商条約に1858年(安政5年)6月19日(旧暦)調印しました。そこで、この条約が違勅(いちょく)調印であることを、一橋派(ひとつばしは、御三卿、一橋家)の藩主(越前松平慶永、水戸徳川慶篤と徳川斉昭、尾張徳川慶勝)及び一橋慶喜(のち15代将軍、徳川慶喜、1837~1913)らは、大挙して江戸城登城批判しました。

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桜田門外の変を描いた絵図( 1860年3月3日、白いたすきをかけているのが尊王攘夷派の武士、桜田門外、江戸、google画像) 

(解説) 井伊直弼は、1858年(安政5年)6月24日(旧暦)、一橋派の登城批判に対し、大弾圧に乗り出しました。この安政の大獄(あんせいのたいごく)による処罰者は、一橋派の大名、公家をはじめ、尊王攘夷(天皇を尊び外国人を排除)の志士にまで及びました。これには、とりわけ尊王を旨とする(水戸学、儒教思想)派の水戸藩の反発を招き、1860年(万延元年)3月3日(旧暦)、井伊は水戸浪士によって桜田門外で暗殺されました。攘夷論(じょういろん)は、異質の文化をもつ国や民族を「夷狄(いてき、野蛮人、やばんじん)」と位置づけ、それを排除しようとする儒教(じゅきょう)の中華思想に基づいた考え方です。この桜田門外の変を境に、幕府の権威はかげりを帯びるようになりました。<

○ 尊王攘夷(天皇を尊び外国人を排除する)運動の激化(1861~1864年)

 桜田門外の変以降、幕府公武合体(こうぶがったい)、すなわち、公(朝廷)と武(幕府)の協力により国難を乗り切ろうとしました。そして、1862年(文久2年)2月、江戸で皇女和宮(1846~1877が14代将軍徳川家茂(1846~1866)に降嫁(こうか)しました。そして、幕府は、一橋慶喜(のち15代将軍、徳川慶喜)を将軍後見職に、松平春嶽(慶永、1828~1890)を政事総裁職に任命しました。

 これに対し、長州、土佐などの各藩から京都に参集した尊王攘夷派尊攘派)の志士たちは、公武合体派の薩摩藩と血を血で洗う暗闘を繰り広げました。長州藩の過激派が尊攘派の公家と内通し、倒幕をもくろんでいることが露見し、1863年(文久3年)8月18日、禁裏(きんり)九門の一つ、境町御門の警護にあたっていた長州藩が、突然その任を解かれました。これは、公武合体派薩摩藩京都守護職にあった会津藩と通じ、尊攘派京都から一掃しようとしたクーデターでした。これは八月十八日の政変と呼ばれています。

 この政変により、三条実美(さんじょうさねとも、1837~1891)ら尊攘派公家7人が京都を追放され、長州へと逃れました。世にいう「七卿落ち(しちきょうおち)」です。これを境に長州、薩摩の両藩の関係は、いったん断絶状態となりました。

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薩英戦争を描いた絵図(1863年7月2日、薩摩藩は、嵐の中、イギリス艦隊との激しい砲撃戦を展開しましたが、攘夷(外国人の排除)は不可能であることを悟り、賠償支払いに応じ和平しました。その後、イギリスに軍艦購入の周旋(しゅうせん)を依頼し、薩英関係は緊密となっていきました。、鹿児島湾内、背後の山は桜島、google画像)  

(解説) 安政の大獄以来、鬱屈(うっくつ)していた尊王攘夷派の志士たちは、幕府高官や外国人を次々と襲撃(しゅうげき)する過激事件を起こし、世はまさに激動の時代に突入しました。尊王攘夷派による過激事件としては、東禅寺襲撃事件(1861~1862年、江戸)、坂下門外の変(1862年、江戸)、イギリス公使館焼討ち事件(1862年、江戸)、生麦事件(1862年、生麦、横浜近く)、寺田屋事件(1862年、伏見)、天誅組の変(1863年、五条)、生野の変(1863年、生野)、長州藩外国船砲撃事件(1863年、下関)、薩英戦争(1863年、鹿児島)などが起こっています。

○ 禁門の変(蛤御門の変)と第1次長州征討、下関戦争(1864年)

 幕府は、1862年(文久2年)8月、尊王攘夷派志士たちのテロが横行する幕末の京都を治めるため、京都守護職(きょうとしゅごしょく)を設置し、その職に任じられた会津藩主、松平容保(まつだいらかたもり、1835~1893)は、同年12月、約1000人の藩兵を率いて上洛し、新撰組(しんせんぐみ)や京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)を組織して、尊攘派を厳しく取り締まりました。

 1864年(元治元年)6月、京都の旅籠(はたご)池田屋で決起を画策していた長州藩士、吉田稔麿(1841~1864)ら尊攘派が、新撰組、局長近藤勇(1834~1868)、土方歳三(1835~1869)らに殺傷される事件が起こりました(池田屋事件、京都三条河原町)。

 長州藩は、長州軍を京都に進発させ、2000の藩兵で京都を包囲し、無実を主張する訴状を差し出しましたが、拒絶されたため、公武合体派排除京都奪還の決行に踏み切りました(禁門の変、蛤御門の変とも)。京都御所に押し寄せた長州軍は、会津軍の警護する蛤御門(はまぐりごもん)へ殺到、御所内に突入しかけましたが、薩摩軍に背後を襲われ敗北を喫しました。

 一方、幕府は、1864年(元治元年)7~12月、禁門の変を理由に長州藩追討の勅命(ちょくめい)を得て、15万の軍勢を長州に進発させました(第1次長州征討)。ところが、征長軍は長州を包囲したものの、戦火をを交えぬまま12月に撤兵を開始しました。これは、尊攘派に代わり、長州藩の実権を掌握(しょうあく)した佐幕派(さばくは、幕府補佐派とも)が謝罪に務め、禁門の変の責任者である3家老の切腹などを約したからです。

 この第1次長州征討長州藩の謝罪降伏で集結した裏には、幕府軍参謀(さんぼう)の薩摩藩士、西郷隆盛(さいごうたかもり、1827~1877)の配慮がありました。征討に先立ち、西郷は、幕臣勝海舟(かつかいしゅう、1823~1899)と会談し、その際、公武合体限界と、雄藩連合による新政権の実現を説得されました。一時は、長州藩の撃滅(げきめつ)を決意した西郷でしたが、勝の意見に従い、長州藩の温存を図りました。

  その間、1864年(元治元年)8月には、前年、1863年(文久3年)5月10日、下関海峡で砲撃(長州藩の攘夷の実行!)を受けた英米仏蘭4国による連合艦隊が、長州藩報復攻撃を開始しました。長州藩は、1863年(文久3年)6月、高杉晋作(たかすぎしんさく、1839~1867)の発案により農民、町民らで組織された奇兵隊(きへいたい、民兵)の反撃もむなしく、降伏しました(下関戦争)。そして、長州藩は、高杉晋作に講和を一任し成立させました。が、攘夷(外国人の排除)は不可能であることを実感させられました。その後、高杉晋作が功山寺で挙兵、長州藩は武力による倒幕へと進んでいきました。

○ 薩長同盟(1866年1月)と第2次長州征討(1866年6月~12月)

 1863年(文久3年)8月18日、長州藩の尊攘派の京都からの追放にからむ八月十八日の政変以来、宿敵となっていた薩長両藩の連合を実現に導いたのは、土佐藩浪士、坂本龍馬(さかもとりょうま、1835~1867)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう、1838~1867)でした。二人は、新体制実現のためには、薩長両藩の連合が不可欠と感じ、両者の会談を斡旋(あっせん)しました。

 薩摩藩士、小松帯刀(こまつたてわき、清廉とも、1835~1870)は、京都で坂本龍馬らと懇意になり、薩長同盟樹立のために藩論をまとめるべく奔走ました。また、坂本龍馬が新撰組による寺田屋襲撃事件で負傷した際には、妻のお龍と共に鹿児島城下の原良の屋敷に招き、療養に務めさせました。 

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薩長同盟の締結(1865年1月20日、前列左より、 桂小五郎(のち木戸孝允)、勝海舟、小松帯刀、後列左より、西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎、薩摩二本松藩邸、上京区、京都、合成写真、google画像) 

 世界最初銀塩写真は、1839年(天保10年)にフランスで発表されたダゲレオタイプ(銀メッキをかけた銅板に像を直接定着させる方式)とされる。さらに改良が加えられ、日本には、1848年(嘉永元年)に写真機が輸入され、坂本龍馬らが撮影されました。(朝日新聞:文化の扉 はじめての銀塩写真、2012年(平成24年)10月29日(月)朝刊)

薩長同盟の成立(奇兵隊、のろのろホームページ): http://www.geocities.jp/mill_c2002/noronoro/hagi/kiheitai_4.html

(解説) 1865年(慶応元年)4月、長州藩の武器密輸を理由に、再び幕府が征長の途についた(第2次長州征討)との報が届くと、坂本と中岡は、両藩の和解工作を開始しました。その必死の説得が功を奏し、翌年1月、ついに長州藩桂小五郎(かつらこごろう、のち木戸孝允、きどたかよし、1833~1877)と薩摩藩西郷隆盛の会談が実現し、両藩は軍事同盟(薩長同盟)締結(ていけつ)して、反幕府(倒幕)の立場を鮮明にしました。

 薩長同盟では、再び幕長戦争が開戦したときには、薩摩藩は参戦しないこと、長州藩が必要とする軍事物資は、薩摩藩名義で外国から輸入すること、などが明記されました。これによって、長州藩は軍備増強を図ることができました。このとき、長州藩が武器や軍艦を購入できるように仲介したのが、坂本龍馬と、彼が設立した日本初の貿易会社、亀山社中(かめやましゃちゅう、海運業、薩摩藩の援助で長崎に設立)でした。

 1866年(慶応2年)6月、幕府軍が芸州口、大島口、石州口、小倉口の四方から長州攻撃を開始、第2次長州征討の戦端が開かれました。長州軍は、高杉晋作(たかすぎしんさく、1839~1867)、大村益次郎(おおむらますじろう、1824~1869)らの活躍で勝利を重ねました。それは、長州軍が最新式の銃を備え、洋式銃陣(じゅうじん)を敷いたのに対し、幕府軍は戦国以来の火縄銃(ひなわじゅう)による集団戦術をとったからです。また、長州軍が四国(英米仏蘭)連合艦隊との戦いを経験していたのに対し、幕府軍には実践の経験がなかったことも理由の一つに挙げられます。

 1866年(慶応2年)7月、14代将軍、徳川家茂(いえもち、1846~1866)が急死したのを機に、薩摩藩から征長中止が建白されました。朝廷内にも中止を求める声が高まり、8月、朝廷からの勅命により休戦が成立しました。そして、一橋慶喜が15代将軍徳川慶喜として就任しました。

○ 大政奉還(1867年10月14日)

第2次長州征討で幕府の権威が地に落ちたと見た薩摩藩の西郷隆盛大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878)は、倒幕派の公家、岩倉具視(いわくらともみ、1825~1883)に働きかけ、朝廷からの「倒幕の密勅(みつちょく)」の降下を画策、武力討幕をもくろみました。

 討幕派と幕府の対立の間で、一役を買おうとしたのが、土佐藩でした。前藩主、山内容堂(やまのうちようどう、豊信とも、1827~1872)の腹心、後藤象二郎(ごとうしょうじろう、1838~1897)は、坂本龍馬の立案した新国家構想「船中八策(せんちゅうはっさく)」をもとに、大政奉還(たいせいほうかん)を幕府に建白しました。その主旨は、天皇のもとで大名らの合議による政権を樹立することでした。

 最近、坂本龍馬が暗殺される5日前に福井藩重役宛て手紙が見つかった、と高知県などが13日発表しました。その手紙の「新国家」福井藩士の出仕望むとの書状の一部より、手紙中央上部に「新国家」の文字が記述されていることが確認されました。(2017年(平成29年)1月14日(土)、北陸中日新聞、朝日新聞、朝刊より)

 その一方で、土佐藩は、薩摩藩と「薩土盟約(さつどめいやく)」を締結し、大政奉還の実現に向け協力を誓い合いました。薩摩藩にとっても、いざというとき、倒幕に持ち込む同盟者が必要でした。

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大政奉還を描いた絵図(1867年10月13日、第15代将軍、徳川慶喜は、京都の二条城で諸藩の重臣に大政奉還について諮問し、翌日、朝廷に奏上しました、頓田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、google画像)

(解説) 1867年(慶応3年)10月13日、岩倉の工作が実り、ついに薩摩藩に「倒幕の密勅」が降下されました。翌日には、長州藩にも降下されますが、同じ14日、15代将軍、徳川慶喜(1837~1913)から大政奉還奏上されました。徳川慶喜の構想は、一旦朝廷に大政を返上したうえ、新たな政権のもとで盟主(めいしゅ)となり、行政権を行使しようとするものでした。大政奉還を受け、10月21日、朝廷より「倒幕の密勅」の取り消しが布達(ふたつ)されました。 

○ 明治新政府の誕生(1867年12月9日)

 倒幕派は、徳川慶喜のもと列藩会議(れっぱんかいぎ)構想が実現する前に、明治新政府を成立させる行動に出ました。

 1867年(慶応3年)12月9日、京都御所の九門を諸藩兵が固めるなか、御所内において王政復古の大号令明治新政府成立!)が発せられました。そして、新政府は、王政復古を諸外国に通告、五箇条の御誓文で基本綱領を掲げ、政体書によって政治制度を確立、政府基盤を全国的に構築しました。すなわち、摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)、幕府(ばくふ)などの制度は廃止され、新たに総裁(そうさい)、議定(ぎじょう)、参与(さんよ)などの三職が設けられました。

 その日の夜、御所内の小御所(こごしょ)において、初の三職会議が開催されました。最大の議題は、15代将軍、徳川慶喜の「辞官納地(じかんのうち)」(官位辞退と領地返上)でした。前土佐藩主、山内容堂らは反対したものの、徳川慶喜の排斥を強硬に主張する岩倉具視らの前になす術(すべ)はありませんでした。

 「辞官納地」の勅令を伝えられた徳川慶喜は、幕臣の暴発により朝敵になることを恐れ、大坂城へと退去しました。入れ代わるように長州藩兵が入京し、京都は薩長の軍事支配下に置かれました。

 大坂城の徳川慶喜のもとには、5000もの旧幕府兵が続々とつめかけ、薩長討伐の気勢が高まりました。これに会津(あいづ)藩兵3000,桑名(くわな)藩兵1500などを加えた旧幕府軍1万5000は、京都に向け進発しました。これに対する薩長藩兵は4500と、その三分の一にも満たないものでした。

○ 戊辰戦争(1868年1月3日~1869年5月)

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戊辰戦争の経過図(地図で訪ねる歴史の舞台、日本、p.86、帝国書院(1999)、google画像) 脱藩大名の戊辰戦争(しょうちゃんのブログ): http://plaza.rakuten.co.jp/syoucyann1582/diary/200910280000/

(解説) 1868年(明治元年)1月3日、京都南部の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で、旧幕府軍と薩摩と長州を中心とする新政府軍が衝突し、戊辰戦争(ぼしんせんそう、鳥羽・伏見の戦いとも)が始まりました。新政府に反発した会津と桑名などの諸藩が、15代将軍、徳川慶喜をおしたて、薩長討伐に立ち上がりました。しかし、旧幕府軍は新政府軍の近代兵器の前に敗れ「朝敵(ちょうてき)」(勝てば官軍、負ければ賊軍!)として追われることになりました。

 晴れて「官軍」となった新政府軍は、京都を進発し、3月には、江戸へと迫りました。江戸城総攻撃が噂(うわさ)されるなかで、新政府の西郷隆盛と旧幕府の勝海舟が会談し、15代将軍、徳川慶喜も恭順(きょうじゅん)の意を示し、1868年(明治元年)4月、江戸城が新政府軍に明け渡されました(江戸城の無血開城!)。

 江戸湾にいた旧幕府海軍総裁、榎本武揚(えのもとたけあき、1836~1908)は、艦隊を率いて箱館(函館)に脱出しました。一方、新政府軍は、会津藩追討に乗り出し、東方へ進攻しました。会津をはじめ東北諸藩は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結び、激しい戦いを繰り広げました。しかし、新政府軍の猛攻に、旧幕府軍は、4月には宇都宮の戦い、5月には上野の戦い、5~7月には長岡の戦いに敗れ、次々と脱落していき、9月には会津藩、庄内藩、仙台藩も降伏しました。

 1868年(明治元年)10月、旧幕府艦隊を率いる榎本武揚は、土方歳三(1835~1869)らと共に箱館(函館)の五稜郭(ごりょうかく)を占領しました。翌年4月、新政府軍は海陸から攻撃を開始、抵抗していた榎本武揚らも、翌1869年(明治2年)5月に降伏し、1年半に及ぶ戊辰戦争は終わりを告げました。 

● 明治時代(1868~1877)

○ 東京遷都、文明開化と殖産興業(1868~1878年頃)

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東京遷都(1869年(明治2年)3月28日、皇城、遷都?、東京、google画像) 

(解説) 1868年(慶応4年)は、9月8日に改元され明治元年となり、その翌年の3月28日、若き天皇、睦仁(明治天皇)は江戸城改め皇城(のち宮城、皇居)に入り、城の中に太政官府設置しました。一般にはこれを東京遷都としています。

 幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の目には、ちょんまげに和装(わそう)、裸(はだか)にふんどし姿の日本人は「野蛮な未開人」と映(うつ)りました。明治政府は、外交の妨げになると判断し、官礼服を洋服にし、断髪令(だんぱつれい)などを出して(散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする!庶民にも洋風化を強要しました。

 1872年(明治5年)には、近代学校制度を定めた法令「学制(がくせい)」を公布し、義務教育の徹底を図りました。また、同年には、それまでの太陰暦(たいいんれき)を廃して、太陽暦を採用しました。が、旧暦1872年12月2日の翌日が1873年1月1日となったため、人々を混乱させました。

 こうした政策に合わせ、西洋の文物が大量に流入したため、洋服や洋風建築、洋食など、人々の暮らしは大きく変化しました。しかし、こうした文明開化の波が広がったのは大都市に限られ、地方の農村に洋風生活が定着するのは、昭和に入ってからのことでした。

 一方、明治政府は、特に、近代国家建設のため、「富国強兵(ふこくきょうへい)」のスローガンのもと、近代産業を保護し育成する殖産興業(しょくさんこうぎょう)の政策を推進しました。

 日本各地に、輸出の花形である製糸工場や軍備増強を担う軍需工場など、模範工場を設立しました。また、旧幕府や諸藩所有の鉱山などを手に入れ、外国人技師を雇い、最新の設備を導入して近代化を進めました。

 また、産業と経済の流れをスムーズにするため、インフラの整備も急ピッチで進められ、近代式の郵便電信などの通信網、鉄道蒸気船などの交通網が全国に広がりました。

○ 廃藩置県と地租改正(1871~1873年)

 明治政府の発足後も、諸藩の領地や領民は、依然として、旧来の藩主が治めていました。そこで、1869年(明治2年)1月、政府の大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878、薩摩藩)、木戸孝允(きどたかよし、1833~1877,長州藩)らは、薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)の各藩主を説得し、領地と領民を政府に返上させました(版籍奉還、はんせきほうかん)。諸藩もこれにならい、6月には、全国の土地と人民が政府の支配下に置かれる形式が整えられました。

 しかし、旧藩主は、知藩事(ちはんじ)に任命され、その後も藩政を執(と)ったため、実質的には明治維新前と変わりませんでした。そこで、明治政府は、強力な中央集権国家の建設には、藩の一挙全廃が不可欠と考え、1871年(明治4年)7月、天皇の名のもとに、廃藩置県(はいはんちけん)を断行しました。そして、鹿児島から西郷隆盛を招いて、薩長土3藩の約1万人からなる御親兵(ごしんぺい)を組織し、諸藩の反抗に備えましたが、抵抗は少なく、廃藩は受け入れられました。 廃藩置県によって、天皇国家統合(かなめ)となり、天皇制の統一国家が実現しました。 

 ところが、明治政府の財政は、火の車であり、諸藩から引き継いだ債務は、当時の歳入の2倍にも上がりました。そこで、政府は、安定した財源基盤と近代的な土地所有を確立するため、田畑勝手作り(でんばたかってづくり)を認め、田畑永代(えいたい)売買の禁を解くなどの措置をとり、1873年(明治6年)に地租改正(ちそかいせい)条例公布し、以後、1870年代を通じて改正事業が実行されました。地租改正の内容は、土地(地券、ちけん)所有者に、金納・定額で地価の3%にあたる地租を納入させるというものでした。

 1876年(明治9年)、茨城県や三重県などで地租改正反対一揆が激化すると、翌年、地租は、地価の3%から2.5%に減額され、農民の負担が大幅に軽減されました。

○ 不平士族(主に薩長土肥の下級武士)の反乱(1874~1877年)

 1873年(明治6年)、岩倉使節団(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら)が欧米を視察していたとき、西郷隆盛、板垣退助(1837~1919)らが預かる留守政府内では、征韓論(せいかんろん)が高まっていました。それは、朝鮮(清の属国!古くは高句麗、新羅、百済の三国からなり三韓と呼んでいました)が明治新政府を認めず、鎖国を続けるので、武力で開国させようとするものでした。

 しかし、帰国した大久保らは内治優先を唱えて征韓論に反対し、政府征韓派(西郷隆盛、江藤新平、板垣退助)と内治派(大久保利通、岩倉具視、伊藤博文)とに分裂しました。その結果、閣議決定をしていた西郷隆盛の朝鮮派遣は覆(くつがえ)され、内治派が勝利すると、征韓派はいっせいに下野(げや)しました(明治六年の政変)。

 一方、新政府の政策によって、平民の苗字を許可(1870年)、徴兵令公布(1873年)、秩祿処分と廃刀令公布(1876年)など、士族(旧武士階級)の特権は次々と失われていきました。なかでも、1876年(明治9年)の秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、多くの士族を困窮に落とし入れました。それは、廃藩置県後も華士族などに秩祿(家禄、賞典祿)が支給されましたが、国家の歳出の約30%を占め、国家財政を圧迫していました。そこで、政府は金祿公債証書(きんろくこうさいしょうしょ、それぞれの禄高の数年分相当額に利子をつけた公債)を与えて、禄制を全廃する措置をとりました。

 一人あたり平均は、華族が6万4000円程度だったのに対し、士族は5000円足らずに過ぎませんでした。下級武士のなかには、生活苦から金祿公債を手放して没落していく者も現れました。

 その結果、士族の間で政府に対する不満が募(つの)り、1873年(明治6年)の征韓派の政変を機に、西日本の士族(主に薩長土肥の下級武士)により、佐賀の乱(首領、江藤新平、島義勇、不平士族、佐賀、1874)、敬神党の乱(不平士族、神風蓮、熊本、1876)、秋月の乱(宮崎車之助、秋月藩士、福岡、1876)、萩の乱(首領、前原一誠、長州藩士、山口)など、反乱が続出しました。このことから、明治維新の立役者を自負する薩長土肥の下級武士の怒りがいかに強かったかが推測されます。

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西南戦争( 熊本城戦争図、安達銀光(吟光)、1877年(明治10年)3月版、福田龍次郎版元(東京)、鹿児島新聞、google画像) 

(解説) 1877年(明治10年)2~9月の鹿児島士族を中心とする西南戦争(せいなんせんそう)は、最後の反政府士族の最大の反乱でした。西郷隆盛は、各地の士族反乱に対しては、自重の姿勢を貫いていました。が、1877年(明治10年)2月15日、私学校生徒ら1万3000人が西郷を担いで起つと、熊本などの保守、民権両派の士族7000人、徴募兵約1万人もこれに呼応しました。反乱軍は、熊本城の政府軍との攻防戦、田原坂(たばるざか)の激戦で敗北、以来、大分、宮崎、鹿児島を敗走し9月24日、西郷が城山で自刃、反乱は鎮圧され、士族の武力による抵抗は急速に衰えていきました。このとき、政府は最新の兵器と6万余の兵力、大量の軍夫を投入しました。死者は官軍6843人、反乱軍約5000人とのことです。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 野島博之(監修)、成美堂出版編集部(編): 図解日本史、成美堂出版(2006); 東京都歴史教育研究会(監修): 成美堂出版編集部(編): 図解幕末・維新、成美堂出版(2009); 詳説日本史図麓編集員会編: 詳説日本史図麓、山川出版社(2009).

(参考資料) わらべ歌(一かけ二かけて三かけて、西南戦争、西郷隆盛の墓参り): http://mippi.jp/mmland/warabeutaset.htm

(追加説明) ○ 西郷隆盛の評価の変遷 西郷隆盛の人間像をめぐる評価は、彼が西南戦争で没して後、今日まで再転、再々転しています。まず、西南戦争の終戦直後は、西郷は「逆賊」でした。しかし、福沢諭吉は、「西郷は官員の敵にして、人民の敵にあらず」と「丁丑公論」に書きました。また、内村鑑三は、「維新における西郷の役割を余さずに書くことは、維新史の全体を書くことになる」と述べています。

 戦後になると、左翼思想家の間から、維新までの西郷は革命的、征韓論以降の西郷は反動、という見解も出されました。1970年(昭和45年)、自衛隊に乱入し自決した三島由紀夫は、40才になるまで「茫漢とした大人物らしさ」に集まる俗衆の人気がいやで西郷ぎらいであったが、「近ごろになって、ようやく西郷の真の偉大さが分かるようになった」と告白しています。西郷隆盛をめぐる評価は、今もなお混沌としています。不思議な人物です。(樋口清之(監修): 生活歳時記、p.553,西郷隆盛評価の変遷、三宝出版(1994)より)

 

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