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2010年9月の10件の記事

2010年9月28日 (火)

昭和の碁聖(呉清源)にまつわる歴史実話、十番碁(打ち込み手合い)では敵なし、囲碁とは調和(易経、陰陽のバランス)、とは(2010.9.28)

   江戸時代、囲碁の歴代四家元(本因坊、安井、井上、林)の間で何か問題が起きると、打ち込み手合い、すなわち十番とか二十番の争碁によって、黒白を決める習わしがありました。 このシステムは、昭和の中頃まで続いていました。

 昭和時代、1927年(昭和2年)3月、初の十番碁は、読売新聞社主催の院社(日本棋院と棋正社)対抗戦の別企画、鈴木為次郎(1883~1960)七段と野沢竹朝(1881~1931)七段の十番碁でした。この十番碁は、野沢の体調不良(肺病)もあって、3年余かかり、鈴木の5勝2敗2ジゴで終わりました。

 その後、読売新聞社は、昭和十番碁シリーズの第二弾として、1939年(昭和14年)~1941年(昭和16年)、木谷実(1909~1975)七段と呉清源(1914~ )七段との打ち込み十番碁を企画、囲碁史をかざる激闘と言われました。この十番碁は、新布石の新風を巻き起こした同士の対決となり人気を呼びましたが、木谷は病気などもあり、6局目で先相先に打ち込まれてしまいました。 新布石(ウィキペデイア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B8%83%E7%9F%B3

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呉清源(ごせいげん、86才、国際親善を説く囲碁界の哲人、福建省、中国、2000年(平成12年)7月17日(月)、北陸中日新聞、朝刊より)  

(解説) 呉清源(1914~ )は、中国の生んだ天才棋士ですが、1928年(昭和3年)10月18日、15才の時来日しました。瀬越憲作(1889~1972)に入門、翌年飛付三段を許され、プロ棋士への道を歩み、1930年(昭和5年)に四段、7年に五段、1939年(昭和14年)に七段となり、有名な木谷実との打ち込み十番碁を開始、1941年(昭和16年)、6勝4敗で先相先に打ち込みました。1950年(昭和25年)、日本棋院から九段に推挙されました。1979年(昭和54年)、日本国籍を取得し、1983年(昭和58年)、現役を引退しました。 呉清源(日本棋院ホームページ): http://www.nihonkiin.or.jp/player/htm/ki001001.htm

 呉清源は、1939年(昭和14)~1956年(昭和31)まで、十番碁において、日本の棋士の強豪たちを次々と打ち込みました。各々の対局者との戦績は以下の通りで、呉清源七段は、向かうところ敵なしの感があり、昭和の碁聖と称賛されました。 呉清源十番碁、木石庵): http://mignon.ddo.jp/assembly/mignon/go_kisi/meikan_seigen.html

①.昭14~16、木谷実七段、4勝6敗、6局で先相先に打ち込まれる ②.昭16~17、雁金準一八段、1勝4敗、カド番のまま中止、③.昭18~19、藤沢庫之助六段、6勝4敗、5局で定先に打ち込まれる、④.昭21~22、橋本宇太郎八段、3勝6敗1ジゴ、8局で先相先に打ち込まれる、⑤.昭23~24、岩本薫八段、2勝7敗1ジゴ、6局で先相先に打ち込まれる、⑥.昭25~26、橋本宇太郎本因坊(2次)、3勝5敗2ジゴ、先相先の手合い、⑦.昭26~27、藤沢庫之助九段(2次)、2勝7敗1ジゴ、9局で先相先に打ち込まれる、⑧.昭27~28、藤沢庫之助(3次)、1勝5敗、6局で定先、以下は中止、⑨.昭28~29、坂田栄男八段、2勝6敗、坂田の先相先、8局で定先となる、⑩.昭30~31、高川格本因坊、4勝6敗、8局で先相先に打ち込まれる。

 呉清源九段は、戦中戦後の「打ち込み十番碁」では、日本の一流棋士をことごとく破り、不敗でした。そして、昭和囲碁最強の棋士と言われ、「囲碁の理想は調和、共存共栄!」と説きました。

 囲碁ではどんなことが大切なんですか。この問いには、「調和です。囲碁はもともと易経から来ているんですね。陰と陽のバランス。だから、碁盤の中では、片方が強すぎてもいけないし、弱すぎてもいけない。携わる人間がお互い最善の手を尽くすと、立派な局になる。それは政治でも経済でも言えることだと思いますね。勝ち負けは、自然に決まるもの。その場で最善を尽くせば、自然に結果もよくなるはずです」

 世界選手権などで、日本人棋士がなかなか勝てずにいますが、原因はどこにあるのでしょうか。この問いには、「定石中毒のせいですよ。昔は定石以外の手を打ったら、破門されたほどですからね。しかし、定石とはいわば素人を教える方便です。日本人はひたすらそれを守るだけだから、新しい発想が生まれないんですよ。私はいつも、定石は忘れろ。そしたら強くなる、と言っています」「碁の考え方が悪いんです。勝てば官軍という考え方、すべて力ずくという考え方。そんな考えがはびこっているんじゃないかな。日本のレベルは一流ですが、わずか十年で中国が追い抜きましたね」

 親交のあった作家の川端康成(1899~1972)は、「呉清源棋談」の中で、呉さんのことを「ただ一人の碁打ちが、中日親善、敬愛の美しい橋をかけている」と書きました。  (2000年(平成12年)7月17日(月)、北陸中日新聞、朝刊より) 

(参考文献) 林裕: 囲碁百科事典、p.215、中国の天才呉清源の来日、金圓社(1965); 菊池達也: 木谷實とその時代、p.65~71、昭和十番碁、機苑図書(2000); 水口藤雄: 囲碁の文化誌、起源伝説からヒカルの碁まで、p.188~189、呉清源、十番碁で敵なし、日本棋院(2002).

(参考資料) 呉清源(極みの棋譜、原作、中の精神、呉清源の伝記の映画化、google動画、2007):http://www.google.co.jp/search?q=%E5%91%89%E6%B8%85%E6%BA%90+%E6%A5%B5%E3%81%BF%E3%81%AE%E6%A3%8B%E8%AD%9C&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&source=univ&tbs=vid:1&tbo=u&ei=NGeiTIvBDsikcfj93IAB&sa=X&oi=video_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBMQqwQwAA

「昭和の碁聖」96歳の呉九段、囲碁名人戦に現る、2010年10月6日(水): http://www.asahi.com/igo/news/TKY201010060335.html.

2010年9月27日 (月)

碁の奇骨(野沢竹朝)にまつわる歴史実話、評の評(本因坊秀哉名人の講評を批判)、本因坊家による破門、とは(2010.9.27)

   野沢竹朝(のざわちくちょう、1881~1931)ほど、「碁」に全てを投げ打った人間は少ないという。奇行に富んでいたが、それは全て碁を中心としたものでした。1915年(大正4年)、「奇美談碁」(尚栄堂)の著者、吉田俊男が語る野沢の言行によれば、「オレは新聞や雑誌に、唯の一つもよく書かれたことがない。しかし、そんなことを構って居ちゃ、碁は上らんテ」「俊男君、古来名人とも謂はれた人は、どこか普通の碁客とは違って居ってナ」など、芸への執心と自負とが会話によく出ています。

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野沢竹朝(のざわちくちょう、1918年(大正7年)10月10日、38才、囲碁評論、「評の評」において、本因坊(第21世)秀哉や中川亀三郎(方円社長)の評に是々非々を加えました、 google画像) 野沢竹朝http://www.igodb.jp/cgi-bin/namej/data/ko00559.htm

(解説) 野沢竹朝(のざわちくちょう)は、1881年(明治14年)、松江(雲州、島根)生まれ、野沢良一の次男、6才の時、はじめて碁を覚え、10才の頃、近郷では囲碁の神童として名が知られ、ほとんど独学とはいえ、1896年(明治29年)、16才、父と名古屋に移った時は、高崎泰策(1839~1907)六段に三子の力を持っていました。その後、1903年(明治36年)、23才、本因坊(第19世)秀栄(1852~1907)に入門した時、直ちに二段を許されました。同年冬には三段、1908年(明治41年)、28才には四段に推挙されした。

 その間、新報新聞碁において、三段のころ五人抜きを連続二度やり、四段に推挙されてからも、さらに五人抜きを数回行っています。そして、坊門の主なところをなで切りにし、「常勝将軍」と呼ばれました。試みに、十人抜きの相手を挙げると、小林健太郎三段、高部道平四段、雁金準一五段、都谷森逸郎三段、関源吉五段、田村保寿(のち本因坊(第21世)秀哉)七段、本因坊(第16世、20世)秀元四段、高部道平四段、井上孝平三段などで、手合割とはいえ、「常勝将軍」の呼名があったのも故なしとしないものです。1915年(大正4年)、35才には五段に進みました 。(野沢竹朝(木石庵): http://mignon.ddo.jp/assembly/mignon/go_kisi/meikan_tikucho.html.)

 1918年(大正7年)10月、38才、雑誌「囲碁評論」(高橋善之助編集)を創刊し、誌上に「評の評」と題して当時の諸新聞に掲載された碁戦の中から1、2局を採択して掲げ、師家の本因坊(第21世)秀哉名人(1874~1940)、並に中川亀三郎(1837~1903)方円社長の講評について、批判を下すという企画は、権威主義の風潮に逆らった破天荒の試みでした。大いに人気を呼びましたが、坊門並に方円社より、激烈な非難を浴び、同年12月16日付を以て本因坊家より破門の処分を受けました。

 ところで、「評の評」の表現は手厳しく、2,3抄を抜き出してみると、九段本因坊秀哉評(小岸・小野田戦)には、「去るにても一局裡に於いて二回迄死活の誤評を為したる原評者の失態は斯界の為めに深く之を遺憾とするものなり」、方円社社長中川亀三郎評(雁金・喜多戦)には、「本譜は難局の事とて大いに原評者の精評を期せしに意外の略評に止まり居りし而巴ならず。黒の敗は、九三、九七、九九の三着に在りしなるを、十数着以前の黒八七を敗手なりと断じ去りたる講評振りには、遉の評者も些か喫驚せしめられたり」

 野沢は孤立の立場となった後も、盛んに独自の見解を誌上に展開しました。その後、1923年(大正12年)1月、43才、古島一雄(1865~1952)代議士、喜多文子(1875~1950)五段の斡旋で、中央棋院設立を機に本因坊秀哉と和解しました。そして、同年9月、関東大震災に逢い、「囲碁評論」は休止となりました。また、肺患が進み、健康を損ねたこともあって、神戸に移り住みました。1924年(大正13年)4月の碁界合同会議には出席しましたが、日本棋院の創立には参加せず、数年後、棋正社に迎えられました。棋正社は、直ちに六段を贈り、さらに七段に進めました。

 1927年(昭和2年)、47才、日本棋院と棋正社の対抗戦に棋正社側の棋士として参加し、鈴木為次郎(1883~1960)七段と十番後を争うことになりました。(野沢竹朝棋譜(囲碁の棋譜でーたべーず): http://wiki.optus.nu/igo/index.php?page=69993d36b3d0ab3671ee9936975dd33f.)

 第一局の観戦記を受け持った村松梢風の筆によれば、野沢と鈴木の性格は正反対であったという。野沢については、「此の人の態度には何となく人を馬鹿にしてゐる処がある。が、傲慢と云ふには大変愛嬌があり過ぎる。時々洒落た冗談を云ふが、とにかく相手を頭から呑んで掛かっている」とあり、一方の鈴木は、「丁度其の正反対、何処迄も質実、寡黙、謹厳、真面目一方だ。沈思黙考久しうして容易に石を下さない」とのことです。

 鈴木は、四段の時に先二にまで打ち込まれていました。この頃、野沢の肺患はいよいよ進み、それを嫌って別室対局(部屋を別々にしてそれぞれ碁盤に対し、間のふすまを三尺ほど開けて遠く向かい合い、着手を記録係が伝達するという、古今未曾有の対局)が行われました。途中、野沢の病状進行もあり、再三の延長によって、第九局まで三年以上の年月を要しています。結果は、野沢に昔日の冴えなく、1930年(昭和5年)、50才の第九局には、カド番となり、肺病に倒れ、翌1931年(昭和6年)1月に亡くなりました。享年51才。

(参考文献) 林 裕: 囲碁百科事典、綜合囲碁講座 別巻、金圓社(1965); 藤沢朋斉: 古今名局の鑑賞、綜合囲碁講座 第十巻、p.260、奇骨竹朝、金園社(1968); 瀬越憲作: 囲碁百年1 先番必勝を求めて、p.196~197,反骨竹朝、平凡社(1968); 木谷実: 囲碁百年2 新布石興る、p.40~42、鈴木・野沢十番後、平凡社(1968)安藤如意著(渡邊英夫改補): 坐隠談叢、新樹社(1983).

2010年9月22日 (水)

室生犀星(金沢出身の詩人、作家)にまつわる歴史実話、犀川神社(御影大橋の近く)、雨宝院(犀川大橋の近く、幼少期を過ごした真言宗の古刹)、性に目覚める頃(自叙伝風の私小説)、とは(2010.9.23)

  犀川は、白山山脈(白山連峰の奈良岳)を源流にもち、金沢市内を東西に流れています。先日、9月21日(火)の午後、犀川右岸の歩道を歩いて、室生犀星ゆかりの犀川大橋のすぐ近く、雨宝院を訪れました。

 そこへ行くまでに、小さな橋が数多くあり、示野中橋、若宮大橋、小豆田大橋、JR北陸線の鉄道橋、御影大橋、御影新橋、新橋、犀川大橋など、それほど大きな橋でもないのですが、大の名がつく橋を多く見受けました。

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犀川神社(さいがわじんじゃ、左の背後に見えるのは御影大橋、中央通り町近く、金沢、石川) 御影大橋(みかげおおはし)の近くの道路沿い(犀川右岸)に犀川神社があります。 犀川神社(神社探訪、金沢、石川): http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/isikawa/kanazawa/saikawa/saikawa.html

 私は、1969年(昭和44年)4月、金沢大学(理学部、城内キャンパス)に勤務し始めてから10月まで、ここから歩いて数分、中央通り町で下宿(米沢美津子様方、木羽教授に依頼、事務の山田氏の紹介)したことがあります。

 そこから歩いて、金沢の中心街(長町、片町、香林坊)を横切り、金沢大学城内キャンパス(金沢城址)に通ずる宮守坂をのぼり、さらに城内を横切り、理学部化学教室(鉄筋4階建ての3階、黒門のすぐ前)に通いました。金沢は戦災にあわなかったので、街中は迷路(袋小路、七曲がり、甲州兵法!)となっており、時々道に迷いました。

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犀川大橋(さいがわおおはし) 金沢の繁華街の片町から広小路へ、犀川大橋の中程から下流に見えるのは新橋、手前の左岸に雨宝院の銅葺きの宝塔と本堂が見えます。 犀川大橋(土木遺産、金沢、石川):http://www.hrr.mlit.go.jp/kanazawa/mb2_jigyo/bunkazai/saigawa/index.html

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室生犀星(野町尋常小学校卒、金沢):http://www.kanazawa-city.ed.jp/nomachi-e/saisei/saisei.htm

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雨宝院(うほういん、高野山真言宗、千日町、金沢、石川) 犀川大橋を渡って、右に曲がると犀川交番所で、その隣りの道路右脇(犀川左岸)に雨宝院があります。 雨宝院(散歩道倶楽部、金沢): http://www.kanazawa1.com/data.php?s=omise&l=uhoin&d=uhoin&k=11&t=02

 雨宝院は、諸国行脚の僧が、安土桃山時代、1595年(文禄4年)、当地の廃寺を再興したことに始まるという。千日山雨宝院といい、高野山真言宗の古刹で、犀川のほとりに建っています。室生犀星(1889~1962)は、生後まもなくここに貰われ、幼少期を過ごしたことで知られています。現在、犀星の位牌をはじめ、自筆原稿や手紙などゆかりの品が展示されています。

 また、雨宝院の前の掲示板には、1919年(大正8年)10月、31才、はじめて中央公論に発表した自叙伝風の短編小説(私小説)、「性に目覚める頃」の作品の一節が紹介されていました。

 この作品は、1960年(昭和35年)頃(?)、映画化されたものを見たことがあります。若い女の人(参詣を装って賽銭を盗む少女!)が一人、お寺(雨宝院!)の本堂へお参りしていた時、その姿を、一人の少年(犀星!)が、お寺の境内の陰からそっと見つめていたのが印象に残っています。

 「性に目覚める頃」の作品の中で、「犀川」については、次のように紹介されています。 東京では、隅田川ほどあるこの犀川は、瀬に砥がれたきめのこまかな柔らかい質に富んでゐて、茶の日には必要缼くことのできないものであった。私は、そんなとき、手桶をもって、すぐ瀬へ出てゆくのであった。庭から瀬へ出られる石段があって、そこから川へ出られた。

 この犀川の上流は、大日山といふ白山の峯つづきで、水は四季ともに澄み透つて、瀬にはことに美しい音があるといわれてゐた。私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった。上流の山山の峯のうしろに、どつしりと聳えてゐる飛騨の連峯を霧の中に眺めながら、新しい手桶の水を幾度となく汲み換へたりした。汲んでしまってからも、新しい見事な水がどんどん流れてゐるのを見ると、いま汲んだ分よりも最つと鮮やかな綺麗な水が流れてゐるやうに思って、私は神経質にいくたびも汲みかへたりした。

 また、「雨宝院」については、次のように紹介されています。  寺のことはたいがい父がしてゐた。本堂に八基の金燈籠、観音の四燈、そのほか客間、茶室、記帳場 総て十二室の各座敷の仏壇の仏画や仏像の前には、みな灯明がともされてゐた。それらは、よちよちと油壺と燈心草とをのせた三宝を持った父が、前と夕との二度に、しづかな足袋ずれを畳の上に立てながら點(とも)して歩くのであった。

 寺へ来る人人は、よく父の道楽が、御燈明を上げることだなどと言ってゐた。それほど父は高価な菜種油を惜しまなかった、父自身も、「お燈明は佛の御馳走だ。」と言ってゐた。

 1889年(明治22年)、旧加賀藩の足軽、小畠家の私生児として生まれた犀星は、貰い子となり雨宝院で育てられました。明治維新後の金沢の町は、士族の没落と著しい経済困窮の結果、多くの孤児や貰い子、身売りが横行しており、雨宝院のような所の人々が、孤児救済の一端をになっていました。この辺りの千日町という町名の由来は、雨宝院の山号によるものです。

 雨宝院から犀川沿いに街路をたどると、三差路の広見(ひろみ)に至り、ここで左手の広い道をしばらく進むと、室生犀星記念館があります。ここは、犀星の生家跡であり、一帯は裏千日町と呼ばれました。記念館では、室生犀星の生涯や作風などを知ることが出来ます。室生犀星記念館(ホームページ): http://www.kanazawa-museum.jp/saisei/

(参考文献) 株式会社乃村工藝社株式会社博文堂編: 犀星ー室生犀星記念館ー、金沢市室生犀星記念館(2002); 石川県の歴史散歩編集委員会(代表、木越隆三)編: 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010).

(参考資料) ○ 室生犀星(金沢出身の作家)にまつわる歴史実話、ふるさとは(小景異情)、山のあなたの(カール・ブッセ、上田敏訳、海潮音)、桃源郷(陶淵明、宏村、中国)、とは(2009.7.6): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/muro.html

 

 

2010年9月20日 (月)

秋(2010年9月20日)、犀川の遊歩道沿いを散策したときに見られたヒガンバナ(彼岸花)とキクイモ(菊芋)の花咲く風景

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ヒガンバナ(彼岸花曼珠沙華、マンジュシャゲとも、犀川遊歩道沿い、桜田、金沢、2010年(平成23年)9月27日撮影)

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キクイモ(菊芋、キク科ヒマワリ属の花、クズ(葛)と共生、桜田、金沢、2010年9月20日撮影)

 私は2010年、9月20日、犀川の土手の遊歩道を散策したのですが、ヒガンバナ(彼岸花)が、今年はどうしたことか(夏の猛暑、異常気象の影響?)、その姿が全く見られませんでした。

(参考文献) 樋口清之: 暮らしのジャーナル、生活歳時記、p.548、曼珠沙華、p.549、秋分、秋分の日、三宝出版(1994); 高橋勝雄: 山渓名前図鑑、野草の名前 秋・冬、p.37、イタドリ、p.252~253、曼珠沙華、山と渓谷社(2003).

(追加説明) ヒガンバナ(彼岸花)

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ヒガンバナ(彼岸花、犀川遊歩道沿い、桜田、金沢)

 ヒガンバナ彼岸花、別名は曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、天国の花の意味、古代インドの梵語で赤い花を表します)は、秋の彼岸(ひがん)の頃に花が咲く時に葉がないのは、この世(此岸、しがん)でなく、あの世(彼岸、ひがん、仏教における理想の境地)の花だという。

 別名で、死人花、捨子花、幽霊花、仏花、仏様花などは、死に関する名前ですが、決して不快な花ではなく、これは、墓地に植えられることが多かったためだろうか? この他、狐のたんぽぽ、狐のかみそり、狐のたいまつ、狐ぐさ、狐ばな、狐のおうぎ、狐のかんざし、などがあります。昔の人は、狐が化けたものと思ったのかもしれません。

 普通、日本各地に分布し、人里近くの草やぶ、土手、道端に自生します。もともとは、中国の長江(揚子江)の流域が原産地で、古い時代(奈良時代以前と平安時代以降の2説があります)に日本へ渡来しました。

 遠く、祖先の誰かが飢餓(きが)の時を考え、墓地や川の土手などに植えたものではないか、という。その球根には多量のデンプン質が含まれています。が、危険なリコリンというアルカロイド毒も含まれているので、水に晒(さら)して溶解させ、除去する必要があります(要注意!)。植村 榮: 化学よもやま話 4 GONSHAN. GONSHAN. 何処へ行く 彼岸花の毒、化学と工業、Vol.67-9 September, p808(2014).

(参考資料) 曼珠沙華(まんじゅしゃげ、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9B%BC%E7%8F%A0%E6%B2%99%E8%8F%AF&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

2010年9月18日 (土)

トイレ(便所)にまつわる歴史実話、古代人のトイレ(便所)は水洗式であった、川に流す(厠、川屋)は南方系文化、便器を置く(座り式、しゃがみ式)は北方系文化、私の郷里の家のトイレ、とは(2010.9.18)

   トイレ(toilet、便所)のことを(かわや)と言いますが、その呼び名には、手水(ちょうず)、手水場(ちょうずば)、便所(べんじょ)、雪隠(せっちん)などがあり、川の流れに落とす川屋(かわや)からカワヤの名が出たとの説も広く知られています。この他にも、昔から、はばかり、ご不浄(ごふじょう)、遠方(えんぽう)、東司(とうす)、後架(こうか)、高野山(こうやさん)、閑所(かんじょ)、装者所(よそものどころ)など、多くのトイレ(便所、仏教からきた言葉で、便利な所という意味です)の呼び名があります。

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 縄文時代、弥生時代のトイレ(便所)(水洗式、川岸に張り出した所に杭を打ち込み、丸い棒をくくりつけ、その上に丸い棒を並べ、適度の空間ができるようにくくりつけて固定し、そこに股がり、川に直接落として排便していました。その付近の川底から糞石(化石)が見つかることがあるそうです、google画像) トイレの歴史(TOTOトイレ博物館): http://www.woodssite.net/remodel/HAKUBUTUKAN.html

(解説) 古代人の便所は水洗式だった、と読み取れる歌が、奈良時代、「万葉集」巻十六に出ています。 香塗(こうぬ)れる 塔になよりそ川くまの くそふな喰(は)める 痛き女(め)やっこ (あの人は糞尿を食っているフナを食べている汚ならしい女だ、というような、相手の女をののしった歌です。) これは、川の上に便所を作っていた証拠と言えます。現在でも、便所のことを(かわや)、すなわち、川屋(かわや、川家とも)と呼んでいますが、それはこの名残と思われます。 

 世界の便所は、流すか、捨てるか、埋(う)めるの三通りですが、川に流すのは南方系文化、便器を置くのは北方系文化と言われています。それにしても、溜桶(ためおけ)をいけて、便を貯(た)めておくのは、農業用の肥料に使うところからきた、日本独自の知恵らしいという。

 また、世界の便器を大別すると、座り式(いす式)便器としゃがみ式便器に分かれます。この境界は、トルコのイスタンブールで、ここより西は座り式、東はしゃがみ式です。現在でもこの境界は変わっていません。日本では、古代、平安時代から、しゃがみ式便器が使われていましたが、これに「きんかくし(きぬかけとも)」がついているのは、現在まで日本の便器だけです。

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農家の外便所(瓦屋根 の外便所、人糞を肥料に使うのに便利なように外便所としたものです、google画像)  農家の外便所(おさごえ民家園、福井): http://www.morisen.co.jp/toilet_ko/no4.html

(解説) 農家の外便所は、屋外や土間で働く時間が大半だったからで、用足しのつど履物(はきもの)を脱いで家へ上って入れなかったからです。肥料として使う点でも屋外の方が便利でした。その位置は、母屋(おもや)の巽(たつみ、東南)の方角に多いのですが、母屋と一緒になったものは、明治の後半になってからです。なお、母屋には、内便所のある家もありました。

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金沢と堤の便所神(郷土玩具文化研究会、大阪、google画像)  郷土玩具便所神含む): http://www.h2.dion.ne.jp/~hushimi/09rekai/09reikai.htm

(解説) 便所神は、カンジョガミ、シモヤノカミ、セッチンサマなどと呼ばれ、便壺(べんつぼ)の下に人形を埋めたり、隅の柱に祀(まつ)ったりしました。妊婦が便所掃除に精出せば、強い子が生まれるとの言い伝えもあります。用便にいくことを「高野(こうや)にまいる」というのも信仰とのつながりを示唆(しさ)しています。落とし紙以前は、竹片、木片、葛(くず)の葉、わら、キビわらなどを用いました。

○ 日本のトイレ(便所)の歴史

 原始、縄文時代、トイレ(便所)は、川岸に張り出した所にあり、川に直接排便していました。現在、遺跡では杭(くい)の先だけが川底に残っている所もあり、その付近の川底から糞石(ふんせき、化石)が見つかることがあります。弥生時代、縄文時代と同じように、川に直接排便していました。これが厠(川屋、かわや)の原型です。「かわや」は、南方系の様式で、現在のボルネオやタイの水上トイレに見られるように、簡単な屋根ぐらいは設けられていたと考えられます。

 本居宣長(もとおりのりなが、1730~1801)の古事記伝によれば、「古厠は溝流の上に造て、まりたる屎(しかばね)は、その水に流失る如く構たる故に河屋とは言なり」とあります。

 古代、古墳時代、古代人は住居を構え、その周りには敵や野獣から身を守るため、堀が掘られ、その堀がトイレになったようです。ここからは、糞石、糞虫(ふんころがし)、寄生虫の卵などの化石が発見されました。 飛鳥時代、近年の発掘調査によれば、藤原京(ふじわらきょう、694~710、16年間)では、トイレ(便所)は、汲取式(くみとりしき)らしく、堀込んだ穴に板をわたし、そこにまたガって排便したようです。一定程度たまると捨てるわけですが、まだ肥料として使用するという習慣はないので、飛鳥川か溝に捨てたのだろうという。トイレ(便所)のことを厠(かわや)というように、飛鳥川の水に流す水洗式もありました。結局は、事態はそう変わるわけではなく、やはり水に流してしまうのであり、最後は処理なしで捨てられることになりました。

 奈良時代平城京(へいじょうきょう、710~784,74年間)では、秋篠川が平壌宮から下へ、北から南へ流れていたので、上流階級の貴族たちは、川から水を引き込んだ、都大路の道路側溝を屋敷内に引き込み、その引き込んだ水路の上に屋根をつけた厠(かわや)で、その水路をまたいで排便したようです。なお、都の庶民は、外の道路側溝に排便したようです。

 その後、長岡京(ながおかきょう、784~794,10年間)から京都の平安京(794~1185,391年)へと遷都、平安時代平安京では鴨川が平安宮から南端の朱雀門の方へと流れていましたので、トイレ(便所)の厠(かわや)の利用もあったと考えられますが、残念ながら、トイレ(便所)の遺構はまだ発見されていないようです。しかし、藤原京、平城京あるいは絵巻物などに見えた数少ない例などから、おおよそは想像することが出来ます。

 古代、平安時代の便器、「きんかくし(きぬかけとも)」がついているしゃがみ式便器(おまる)ですが、この「きんかくし」は、板とその上についた丸い棒でした。当時の高貴な人たちは、この「きんかくし」を後にして、用を足しました。 トイレ(便所)で出された糞尿は、砂の入った箱(御小用箱)に落ち、家来がその箱の糞尿を捨てました。また、男性は、杉の葉を敷き詰めた箱の中に、小便しました。杉の葉により、尿の臭いと音が消されたようです。

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街角で排便する庶民(国宝、餓鬼(がき)草紙、作者未詳、平安時代末期から鎌倉時代初期に描かれた絵巻物、東京国立博物館蔵、google画像) 餓鬼草紙(文化遺産オンライン、東京国立博物館蔵); http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=13814

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慕帰絵詞(ぼきえことば)に描かれたトイレ(便所)(本願寺三世の覚如の伝記を描いた絵巻、藤原隆章、隆昌作、室町時代、1351年(観応2年)、穴を掘った上に足場の板を渡した造りのトイレ(便所)、西本願寺蔵、google画像) 

(解説) 中世、鎌倉時代、絵巻「餓鬼草紙」の中に食糞餓鬼が群がって脱糞したりして、周囲に紙や糞べらが散らばっている、いわゆる野糞の様子の絵があります。これは、現在の街角の公衆トイレ(便所)に当たるものです。ここでは、尻(しり)の始末に紙を使っていますが、日本人がトイレ(便所)でを使うようになったのは、平安時代で、それも貴族だけでした。戦国時代には、大名も尻を紙で拭くようになったようです。一般の庶民たちは、葛(くず)の葉、わら、キビわら、竹片、木片などを使っていました。

 近世、江戸時代から明治時代は、汲取式トイレ(便所)となり、糞は便器の下に設けられた便槽に溜められ、農作物の肥料に利用されました。また、近代、明治時代、木製の便器は腐食しやすく、耐久性を高めるために、陶器製の便器が登場しました。そして、便器の形状も歪みの出にくい小判形に変わり、その形状が、現在の和風便器の形状として引き継がれています。 

 私の郷里(引野、松島、のち上板、德島)の家は、典型的な農村の草葺屋根(麦ワラ屋根、築100年?、7人家族)で、戦後、小学生の頃は、母屋の南向きの玄関のすぐ左に立ち小便のトイレがありました。また、母屋の正面玄関のすぐ南側に、外風呂(鉄釜、ゲス板、排水はトイレへ、燃料は主に麦わら)と外便所(しゃがみ式、下は溜め槽、汲み取り肥料へ)からなる瓦屋根の小さな家(小屋!)が建っていました。さらに、母屋の西隣りに牛小屋、そのすぐ南にニワトリ小屋、ウサギ小屋もあり、イヌ(シロ)、ネコ(トラ、タマ)もいて、また、母屋の瓦屋根の軒下のスキマにはスズメが巣をつくり、また、母屋の家の中にはツバメが巣をつくり、子育てしていて、全てが家族のようなものでした。

 また、母屋は、時代の流れで、1955年(昭和30年)頃には、草葺き屋根はトタンで覆ったトタン屋根となり、改築、増築により、内風呂(燃料は重油、ボイラー)、内便所(便所が満杯になると、村の役場に連絡し、バキュームカーにより取りに来てもらい、処理場へ、海に捨てる?と聞いたことがあります)となりました。

 また、井戸からツルベでカメに汲み置く水も吉野川からの簡易水道へ、燃料も薪からプロパンガスに変わり、燃料となるシバ刈りもなくなり、里山は草木の生い茂る状態(自然の植生遷移!)になっていきました。

 そのため、たくさん生えていたマッタケも次第に姿を消していったようです。その後、吉野川からの取水による農業用水(北岸用水)の完成により、溜池や野井戸も使われなくなり、周囲に草木が生い茂り、特に野井戸は落ちて危険ということで、現在は、飲み水の井戸も含め、全てセメントの板を上に置き、フタをされています。

 その後、母屋とその他の屋敷の建物の傷みも激しく、目立つようになり、家庭の事情もあり、2002年(平成14年)8月には、これらの全ての建物を取り壊し、2003年(平成15年)1月には、二階建ての現代風の建物に生まれ変わり、トイレ(便所)も水洗式となり、水洗トイレと台所の排水を処理する合併浄化槽が備え付けられています。

(参考文献) 大島暁雄、佐藤良博、松崎憲三、宮内正勝、宮田登編(著): 図説 民族探訪事典、p.73~74、便所(厠、かわや)、山川出版社(2005); 樋口清之: 梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、p.92~94、古代人の便所は水洗式であった、祥伝社黄金文庫(2005); 上田正昭、井上満郎: 平安京の風景、文英堂(2006).

(参考資料) 世界のトイレの歴史(google画像): http://www.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&tbs=isch%3A1&sa=1&q=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=.

(追加説明) ○ 私の故郷の屋敷の周辺は、樹木、竹薮、果樹などで囲まれていました。草葺屋根(麦ワラ屋根)の母屋の北側(裏)は竹薮(真竹)、大きなエノキ(榎木)、ムクノキ(椋の木)、ツバキ(椿)、ウメ(梅)、小ビワ、ユスランベ、東側は大きなカシノキ(樫の木)、ムクノキ(椋の木)、サクラ(桜、ソメイヨシノ)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、東南に大きなヤマモモ(山桃の木、老木となり台風で倒壊)、東南には、大きな渋柿の木(上部が台風で折れる)、一方、母屋の南側(表)は大きな夏ミカン、大きなタナカビワ(老木となり台風で倒壊)、スダチ、キンカン、インドヤシ、南西側に大きなクスノキ(楠木)、ウメバガシ(外トイレの背後)、西側にはモモ(桃)と柿(甘ガキ、フユウ)畑、その下はクサイチゴ、小ビワ、サクランボ(桜桃)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、西北に大きなクリ(栗)の木があり、自然豊かな姿でした。 

 これらの樹木も、母屋を新築した時、ほとんど伐採したので、現在、昔の面影が少し残っている程度で、家の周辺は見違えるほど明るく、見通しも良くなっています。また、屋敷の周辺の畑の畦(あぜ)には、茶の木が植えてありましたが、現在もその名残の姿を見ることができます。

 家は草葺屋根(麦ワラ屋根、のち赤色トタンを被せる)で、家の周囲を囲む屋敷林は、おもに夏の台風(東南風)、冬の風(北西風)から家を守る防風林と思われます。

2010年9月16日 (木)

山下 清(放浪の画家)にまつわる歴史実話、阿波(德島)の土柱の絵、土柱の散文(兵隊の位にして、鳴門は「左官」で、土柱は「尉官」というところだろうな)、とは(2010.9.16)

  阿波(德島)の天然記念物の観光として、鳴門の渦潮(うずしお、鳴門海峡)、大歩危峡(おおぼけきょう、吉野川中流域)と共に、奇勝土柱(どちゅう、阿讃山脈の南麓、阿波、德島)が有名です。

 土柱は、阿讃山脈の急傾斜地の下に堆積した土砂、和泉砂岩層(約130万年前の地層)を風雨が浸食して出来た土の柱で、現在の地形になるには約3万年かかったという。世界でも珍しい地形で、1934年(昭和9年)には国の天然記念物、1961年(昭和36年)には、高越山(こうつざん)や岩津の名勝を含めて、県立自然公園に指定されています。

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土柱( 上 土柱の絵(放浪の画家、山下 清氏) 下 土柱の写真(波涛嶽など)、阿波、德島、google画像)  

(解説) 1956年(昭和31年)10月10日、ハダカの王様、山下 清(やましたきよし、1922~1971)氏が来県され、德島、鳴門を見て、土柱に来遊、その時の絵と散文、語り口などが、德島新聞には、1956年(昭和31年)10月11日、文芸春秋には、1956年(昭和31年)12月号に発表されました。

 その頃、私は高校生でしたが、德島新聞に出ていた山下画伯の姿、土柱の絵、山下語録などが強く印象に残っています。そして、その年の10月下旬、村のお祭りの頃、親友(松田容和君)にさそわれて、土柱を見に自転車で行き、大規模な山崩れの奇景!を眺め、近くの山々を不思議な思いで見て回ったことを覚えています。その後、機会を見て、家族や知人とも何回か訪れました。

○ 土柱にて(散文)                                          山下 清

 德島から土柱へゆくとちゅう、六十ぐらいのよぼよぼのおじいさんが自動車にひかれそうになった。あんな人をおいぼれというのだろうか。でも六十になっても、はたちくらいの人のように元気な人もいるだろう。はたちの人と六十の人と、どっちがえらいのだろうか。はたちの人は力がつよいし、六十の人は世の中のいろんなことを知っているから頭がいい。どっちもいいところをもっているから、えらさはきっと同じだろうな。はたちはおとなのはじまりで、六十はおとなの終わりなんだな。

 六十ぐらいの人は、きたないけれど、六十ぐらいの人を一万人も二万人も並べたら、きたなく見えないようになるだろうな。そのなかへ四十ぐらいの女の人を一人か二人つれてきたら、その人はきっと、はたちぐらいの若さに見えるだろうな。一人二人かいないんだから、めだつんだな。

 土柱みたいな景色は世界に二つか三つしかないとおしえてくれた。だから土柱が有名になったんだろう。ここは、東京でいえば銀座みたいなもんだろうな。こんなところが日本じゅうあったら、六十の人がたくさんいるのと同じで、きっとつまらないだろう。岩ばかりの絵はあまりかかないので、はじめはちょっとまごついたが、めづらしいのでかいてみた。ここの景色は兵隊の位にしたら将校かな。おなじ将校でも、まえにみた鳴門にくらべるとちょっと下だな鳴門は「左官」で、土柱は「尉官」というところだろうな。(文芸春秋 1956(昭31)、12月号)

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軍隊における階級(呼称一覧、google画像)

○ 土柱(三山六嶽三十奇)

 土柱は、「三山六嶽(さんざんろくがく)三十奇」と言われ、千帽子(せんぼうし)山に波涛嶽(はとうがだけ)、扇子(せんす)嶽、その西方500mの高歩頂(たかぶちょう)山の橘(たちばな)谷沿いに橘嶽、さらに西500mの円山(まるやま)の五明谷(ごみょうだに)に沿って灯籠(とうろう)嶽、不老(ふろう)嶽、筵(むしろ)嶽の六つの奇勝ががあります。土柱のうち最も雄大なものは、波涛嶽で、海中に大波の騒ぐ姿に似ていて、南北90m、東西50mの間に多数(20余り?)の土の柱がそびえ立っています。

 土柱は、一般に、土塔、土筍、土板、雨裂天然溝とも呼ばれ、風雨などの浸食作用により造成されます。阿波の土柱は、何れも阿讃山脈の南斜面にある扇状地の古期洪積層の80m~200mの旧段丘にできたものです。 

 この地域は、県下でも稀な雨量の少ない半乾燥地で、土壌が軟弱で、植物の生育が悪く、山肌を露出し、雨水により、土壌の浸食が行われやすい特殊な地形となっています。 また、阿讃山脈は、中生代の白亜紀に属する和泉砂岩層であり、その地質は、砂岩、頁岩(けつがん、泥板岩)、粘板岩、石灰岩などのよって構成され、風雨の浸食による風化に弱く、河川の浸食により、南麓には扇状地が大きく発達しています。

(参考文献) 藤井孝志: 天然記念物 阿波の土柱、土柱堂(1970); 德島史学会(代表、湯浅良幸)編: 德島県の歴史散歩、p.61~62、阿波の土柱、山川出版社(1995).

(参考資料) 山下清の画像(google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E3%80%80%E6%B8%85&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=gsGQTKC7PIaecPql3M0M&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBUQsAQwAA

土柱(阿波、德島、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%9C%9F%E6%9F%B1&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

2010年9月13日 (月)

力石と力餅にまつわる歴史伝承、神社や寺院での力比べ(信仰に通じた体力の養成)、尾山神社のさし石(金沢、石川)、兼仲公の力石、大山寺の力餅(上板、德島)、とは(2010.9.13)

  古代、村の神社(鎮守)や寺院には、力石(ちからいし)という大きな石があって、それを何回持って歩けるかという競技もありました。それは、農耕社会では力技(ちからわざ)が必要であり、石を持って長い距離を歩けることは、神や仏の加護(かご)が強いことだと祝って、それを奨励しました。つまり、力強い労働力を養うために、信仰に結びつけ、力比(ちからくら)べの技を競いました。また、新年には、鏡餅を持ち運ぶ「力餅(ちからもち)」の力比べもありました。

 力石 

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尾山神社のさし石(差しいし、力石とも、加賀藩主前田家より拝領、丸の内、尾山町、金沢、石川、google画像)、 力石は金沢城の石垣にも使われている戸室石(とむろいし)を加工したもので、手前の二つが赤戸室石、背後の二つが青戸室石のように見えます。 

(解説) 力石は日本各地の神社や寺院の境内などにあり、力比(ちからくら)べや力試(ちからだめ)しに用いる石のことです。5斗石、8斗石などと重量が定められています。差し上げれば千人力になるとか近親の病気が治(なお)ると言われています。また、肩上げ、両差し、片手差しなどといって力を競います。平安時代末期、源為朝(みなもとのためとも、1139~1170)や武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい、?~1189)が持ち上げたと伝える力石も日本各地にあります。 (全国の「力石」の研究(四日市大学健康科学研究室、体育史学の分野から調査、三重):http://www.za.ztv.ne.jp/takashim/chikara1.htm.)

 民族文化財としての「力石」(昔の農村の若者は、米俵を担ぐ力仕事が多く、その米俵一俵は16貫(60kg)を基準としていました。ということで、力自慢をするには16貫が最低基準であり、それ以上の重さを持ち上げなければならなかった、松原市、大阪): http://www.city.matsubara.osaka.jp/10,145,51,259.html; 河内松原の「力石」(松原市、大阪): http://www.k3.dion.ne.jp/~kawatino/wark/pages/tikaraisi.htm.)

 私の故郷(上板、德島)には、室町時代、弘治・永禄年間(1555~1569)、阿波の七条城主、七条兼仲(しちじょうかねなか、けんちゅうとも)まつわる「兼仲公の力石」の伝説があります。七条兼仲は、若い頃から村の大山寺(たいさんじ)の観世音菩薩を厚く信奉し、すこぶる大力の武将であったという。

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兼仲公の力石(七条、上板町、德島、google画像)  力石(上板町七条、2002年1月、四国放送、德島):http://www.jrt.co.jp/tv/asa630/databank/roots/020124.htm

(解説) 上板町七条の仁界、上板勤労青少年の家の東約100mの田圃(たんぼ)の中に、一つの大きな石があります。高さ1.4m、周囲約3mもある大きなもので、とても大人一人の力で動かすことが出来るようなものではありません。この石は、兼中公が若い日、大山寺の観世音菩薩に大力を授かるよう祈願し、その結願の17日目の日に、力だめしのため、大山寺からここまで担(かつ)いで帰ったものだと伝えられています。

 昔は、この石を撫(な)でると力が強くなると信じられ、また、体のひ弱い子供は丈夫になると言われ、随分遠くからも、沢山の人がこの石を撫でに来たという。大山寺には、大力を授かったお礼に、七条兼仲(しちじょうかねなか、生没年未詳)が奉納したという七重の石塔が、今日も残っています。七条兼仲(しちじょうかねなか、七条城主、板野郡、德島):(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%9D%A1%E5%85%BC%E4%BB%B2(ウィキペディアより)

 力石は阿讃山脈の和泉砂岩層の和泉砂岩?で、その昔、大山寺の麓、泉谷川の氾濫により運ばれてきたものとも考えられます。また、1558年(永禄元年)、阿波の大旱魃(だいかんばつ)後、宮川内谷川の大洪水が起こり、濁流が七条村に押し寄せてきて、今までまっすぐ南に流れていた宮川内谷川は、この時から東に向きを変えて、七条村の方へ流れる今日の川筋に変わったと云われているので、力石はこの大洪水の時に上流から流れてきたものとも考えられます宮川内谷川は土成町(のち阿波市)北部の阿讃山脈を源流とし、吉野町(のち阿波市)、上板町を東西に流れ、上板町神宅で泉谷川と合流し、さらに板野町で吉野川と合流しています。その延長は19km、よく知られる暴れ川で、毎年のように大水害をもたらし、流域住民に莫大な被害を与えてきました。

○ 力餅

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大山寺の力餅(たいさんじのちからもち大山寺境内、2010年1月17日(日)、 大山寺の「力餅」は上板町のイベントで、本尊千手観音の初会式の法会にお供えした紅白の鏡餅を抱えて歩いた距離を競う伝統行事です。男性用169kg、女性用50kg、小学生用45kg、幼児用10kgとなっています、大山、神宅、上板、德島、google画像)

(解説) 力餅(ちからもち)と言えば、ふつう一種のねじ切り餅で、食べると力が強くなるというもので、各地に名物が出ています。昔は山越えするとき携(たずさ)えました。一方、石を運ぶ「力石」と同じように、鏡餅(かがみもち)を運ぶ「力餅」の力比べの競技が、毎年お正月に、今も各地の神社や寺院で行われています。 

〇 力もち大会薬王寺淡路島、兵庫、You Tube): http://www.youtube.com/watch?v=1t-6yaAWQfY

 私の故郷(上板、德島)の大山寺(たいさんじ)は、大山(おおやま)、標高691mの中腹にある弘法大師が開いた真言宗(醍醐派)のお寺で、本尊は千手千眼観世音菩薩、阿波西国25番札所、縁結びのご利益があるというので、遠近から参拝者が多い。麓の神宅から「大山寺参道」の道しるべを頼りに5km余りの山道を登ると、杉の木立の美しい霊気ただよう仁王門に着きます。急な石段を登り鐘楼を過ぎると、イチョウやカエデの老木がそびえる境内の正面に、千手観音像を祀る本堂が見えてきます。

 大山寺で毎年初会式(はつえしき)において行われている力餅(ちからもち)行事は、400年の伝統があります。1月の第3日曜日には、今も境内に腕に自信のある豪傑が集い、老若男女の鏡餅を運ぶ「力餅」が開催されています。

 大山寺 奉納力餅大会〈2017年、平成29年、YouTube(Chinatsu Dan)::https://youtu.be/QE8mKnhh4AQ 大きな鏡餅を抱えて歩いた距離を競う恒例の力餅大会が15日、上板町神宅の大山寺であり、町内外から86人が出場し、約800人の観客から大きな声援や拍手が送られた。餅を載せる三方と合わせ146キロを持つ男性の部は、
鳴門市撫養町岡崎の会社員段洋司さん(40)が11連覇を果たした(徳島新聞,2017.1.19)

 今日では、働いたから休養する、それがレクリエーションですが、古代人は、まず休養して、再生産をしておいて働く、つまり、休養でした。そして、働くための体力をつける力石力餅のレクリエーションはすべて、信仰に通じていました。 

 私の故郷の家(引野、松島、のち上板、德島)の北東、大山(標高691m)の中腹、大山寺には、1962年(昭和37年)の頃、はじめて、松島中学(母校)の親友、川城毅、横田昂治の両君と徒歩でお参りしたことがあります。この大山の麓には、松島中学校の桃(?)の果樹園があり、泉谷川の渓谷に沿ってそこに行く途中、大小の和泉砂岩の中にアヤメ石(水生の藻植物、コダイアマモの化石)を見つけたことがあります。

(参考文献) 児島公一: 上板昔読本、教育出版センター(1979); 湯浅良幸(德島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); 樋口清之: 梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社黄金文庫(2005); 石川県の歴史散歩編集委員会(代表、木越隆三)編: 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010).

(参考資料) ○ 日本各地の弁慶の力石」(google画像): 

2010年9月 9日 (木)

相撲にまつわる歴史伝承、相撲の起源(豊作祈願の信仰、しめ綱を巻いてシコを踏む、塩を撒く)、力士のシコ(四股、醜)名、相撲取(節会相撲、勧進大相撲、上覧相撲)、とは(2010.9.9)

  古代相撲(すもう、角力、すまひとも)は豊作祈願の信仰から起こったという。相撲取は、しめ綱(締綱)を巻いてシコ(四股)を踏(ふ)みます。シコを踏むというのは、地力(じりき)を高める呪術(じゅじゅつ)です。ドシンドシンと土を踏むので、地面の力が震動して、よく物ができるというわけです。相撲は、また、村相撲をとって勝ったほうが豊作だ、という占(うらな)いでもありました。

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横綱奉納土俵入り羽黒山、第36代横綱(1941~1953)、シコを踏む羽黒山、横綱が足を踏み下ろす時、観客は「よいしょ!」と掛け声をかける、明治神宮、東京、google画像) 横綱羽黒山の奉納土俵入り(ハワイ大学、エンターテイメント資料): http://www.hawaii.edu/cjs/?page_id=269

(解説) 相撲取がしめ綱(締縄)を巻くのは、神に仕える姿で、相撲取は神の奉仕者です。を撒(ま)くのは、体を清める儀式です。相撲で「シコを踏む」の「シコ」を「四股」と書くのは、その動作をあらわすために、あとから当てた字で、もともと「醜(シコ)」と書きます。この醜(シコ)は、みにくいという意味ではなく、強いことを意味する言葉です。相撲で「シコを踏む」のは、取り組む前の準備運動であると同時に、一種の示威(しい)運動です。「踏む」というのは、足で土俵を踏むことではなく、相手を醜(シコ)、つまり強者と見なし、「相手の醜(シコ、強者)を踏み破る」ということです。

 また、相撲取の「シコ名」も、本来は「醜名」と書き、「四股名」は当て字です。これは、本名のほかに自分を強く見せようとするための別名で、相撲の場合は、「シコを踏む者の名」の意味で「醜名」という。また同時に、「アダ名」という本来の解釈から、相撲取の出身地や顔つき、クセや特技などからのものが多くありました。

 この「シコ名(醜名)」にも、時代によって流行があったようです。例えば、江戸時代の天明以前には、「××山」「○○嶽」と言ったものが多く、ついで、体の大きさを天然気象で表す「谷風」「雷電」と言ったものが流行しました。次にはやったのが、郷土ゆかりの山や川、名所を冠するもので、「常陸山」「小野川」「安芸ノ海」などです。戦後は、若乃花以来、「乃」をつける襲名(しゅうめい)が大流行し、大鵬が出てからは中国の史実から拾ったものが流行しています。 

○ 相撲の歴史

 712年、古事記には、建御雷神(たてみかづきのかみ)と建御名方神(たてみなかたのかみ)の二神が、力くらべをして国ゆずりが行われたとの記述があります。さらに、638年、垂仁天皇(すいにんてんのう、生没不明、第11代)の7年7月、出雲の住人、野見宿禰(のみのすくね)と大和の住人、当麻蹶速(たいまのけはや)が、天皇の命令によって相撲をとって、宿禰が勝ったと、720年、日本書紀に見えますが、これが一般にわが国の国技と言われている相撲(すもう)のはじめとされていますが、もとより信ずるに足りないものです。

 古代、奈良時代、聖武天皇(しょうむてんのう、701~756、第45代)の時、各地から相撲人(すまいびと、力士)が集められ、節会(せちえ)相撲が行われるようになり、のち300余年の間、宮中の儀式、相撲節会(すまいのせちえ)として続きました。平安時代、朝廷では相撲節(すまいのせち)として儀式化し、洗練され、京都や地方の寺社の相撲会(すまいえ)として広まりました。

 中世、鎌倉時代、寺社修復を名目とした勧進相撲(かんじんずもう)も発生しました。室町末期になると、相撲取の職業力士が生まれ、土俵も考案されました。

 近世、江戸時代、武士(大名、旗本)は屋敷内で、足軽などに相撲を取らせ観戦して楽しみ、庶民は江戸、京都などの街の四辻や広小路で辻相撲を楽しみましたが、のち群集となり、治安上禁止されました。が、木戸銭を取る勧進相撲が許可され、次第に恒常的に行われ、やがて相撲を業とする者たちの集団も生まれました。

 ところで、相撲取が職業化したのは、1624年(寛永元年)で、元祖は明石志賀之助(あかししがのすけ、生没未詳、初代横綱)です。江戸四谷塩町の笹寺の境内で、寄(よ)せ相撲と言って、晴天6日、諸国相撲を公開したのがはじめてで、有料勧進相撲が許されたのは、1684年(貞享元年)3月からです。以後、毎年3月に深川八幡宮境内で興業するようになりました。  石川県出身の横綱には、阿武松(おうのまつ)、第6代横綱(1828~1835)、輪島(わじま)、第54代横綱(1973~1981)の二人がいます。

 1744年(延享元年)、江戸、京都、大坂の三都で四季に一度ずつの四季勧進大相撲の開催が幕府に公認されました。三都の年寄、頭取を師匠とする相撲取や各地の相撲取が合同で大興行を行うもので、1778年(安永7年)3月、江戸の大相撲の場合、番付に記された相撲取の数は158人にのぼりました。

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第11代将軍、徳川家斉の上覧相撲第4代横綱、谷風を賜り、これを手に「敬い奏げて四方に振り回し」舞って見せたのが現在の弓取式の始まりという、1791年(寛政3年)6月、江戸城吹上、google画像) (上覧相撲(すもうの歴史ナビ、google画像): http://sports.geocities.jp/sumou_caffe/index.html,)

(解説) 江戸名物と言われた回向院(えこういん)境内の大相撲がはじまったのは、1789年(寛政3年)4月です。この回向院の大相撲の興業日数10日でした。1791年(寛政3年)には、第11代将軍、徳川家斉(とくがわいえなり、1773~1841)による上覧相撲が催され(6回挙行)、第4代横綱、谷風、第5代横綱、小野川両横綱のほか強豪、大関雷電も江戸城吹上庭の土俵に上がり、大力士の活躍が人気を呼びました。(上覧相撲(相撲錦絵ネット、2004、google画像): http://www.sumo-nishikie.net/champion.php.)

 近代、明治時代、一時衰えましたが、高砂浦五郎(たかさごうらごろう、1838~1900,初代、前頭筆頭)らが改革を進め、1889年(明治22年)、相撲会所を合議制の東京大角力協会に改組し、明治後期には、人気力士として第20代横綱梅ヶ谷、第19代横綱、常陸山が現れました。年一回の相撲も二回(1月場所、5月場所)となり、回向院の大相撲も1909年(明治42年)1月場所で終わりました。

 そして、相撲も競技化が進み、1909年(明治42年)5月、両国の国技館の開設を機に、国技としての今日の相撲の基礎が確立しました。大正時代、1925年(大正14年)相撲道の隆盛と経営の安定を期し(財)大日本相撲協会に改組、1927年(昭和2年)大坂大角力協会を統合し、1958年(昭和33年)日本相撲協会と改称しました。

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双葉山、横綱土俵入り立波三羽烏、左より 太刀持ち 大関名寄岩、 横綱(第35代)双葉山、 露払い 大関(のち第36代横綱)羽黒山、1930年(昭和10年)初期、google画像)  立波三羽烏(エピソード、北国博物館、名寄市、北海道): http://www.city.nayoro.lg.jp/www/contents/1250051159980/index.html

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第35代横綱、双葉山(立浪部屋)の69連勝は、1939年(昭和14年)1月場所、4日目、西前頭3枚目安芸ノ海(出羽海部屋、のち第37代横綱)に敗れました(1939年(昭和14年)1月15日、読売新聞、google画像) 

(解説) 昭和時代、1928年(昭和3年)ラジオ放送が始まり、1936年(昭和11年)から第35代横綱、双葉山の活躍で黄金時代を迎えました。また、戦後は、1953年(昭和28年)5月からのテレビ中継など、観賞スポーツとして発展しました。現在、本場所は年6回、各15日間(幕下以下の取組は7日間)ですが、この日取りになったのは、第2次大戦後のことです。

 私が小学生の頃、相撲はラジオ放送でした。が、大相撲の地方巡業もあり、松島小学校(松島村、のち上板町、德島)の校庭の土俵で、力士の稽古相撲、第38代横綱照國の土俵入りなど見たのを覚えています。

(参考文献) 下中邦彦(監修): 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 暮らしのジャーナル、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 生活歳時記、樋口清之: 梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社黄金文庫(2005).

(参考資料) 日本相撲協会(公式サイト): http://www.sumo.or.jp/

2010年9月 7日 (火)

明治維新(ペリー来航から西南戦争まで)、王政復古(幕藩体制の封建社会から天皇制統一国家の資本主義社会へ)、近代化政策(富国強兵、文明開化、殖産興業)、とは(2010.9.7)

 明治維新(めいじいしん)は、近世(江戸時代)の幕藩体制を崩壊させ、近代(明治時代)の天皇制の統一国家を形成し、封建社会から資本主義社会への移行の出発点となった、政治的、経済的、社会的、文化的な変革、と考えられています。始期終期については、諸説があり、確定していないようです。

 広義には、幕藩体制の矛盾が顕在化した1830年代(天保期)から、明治憲法の体制が成立した1889~1890年(明治22~23年)までを言います。その他始期を欧米資本主義に組み込まれる1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀(神奈川)に来航から、終期を1871年(明治4年)廃藩置県、1873年(明治6年)維新の3大改革(学制、徴兵令、地租改正)、1876年(明治9年)秩祿処分、日朝修好条規、1877年(明治10年)西南戦争とするなど諸説があります。

● 江戸時代(1603~1867)

○ ペリー来航(1853年)と日米和親条約(1854年)

 1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令官、ペリー(1794~1858)の率いる4隻の黒船(くろふね、蒸気軍艦)が、突如、三浦半島の浦賀沖(うらがおき、神奈川)に現れました。日本との友好通商、日本沿岸で遭難した捕鯨船への石炭と食糧の供給、難破民の保護を求めるアメリカ大統領、フィルモア(1800~1874)の国書を携えての来航でした。当時、北太平洋で操業するアメリカの捕鯨船が日本近海でも捕鯨を行い、鯨の肉は食べないのですが、鯨の表皮から鯨油を取り、灯油を作っていました。幕府は,浦賀に近い久里浜で国書を受領し、翌年に返答することを約束しました。

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ペリー提督、上陸の図(1854年2月10日、横浜村、神奈川、google画像) 

(解説) 1854年(安政元年)1月16日、ペリー率いるアメリカ艦隊は、再び江戸湾(東京)に姿を現し、強行に通商条約の締結を迫りました。今度は、最新の蒸気軍艦ポーハタン号を旗艦(きかん)とする計7隻の大陣容でした。艦隊が湾内羽田沖まで進入して威嚇(いかく)すると、ついに幕府は横浜村(のち横浜市、神奈川)での会見を申し入れました。そして、江戸時代、鎖国後はじめて、同年3月3日、下田(静岡)、箱館(函館、北海道)の開港とアメリカ艦船に燃料や食糧などの供給、難破民の救助と引渡しなどを定めた日米和親条約(神奈川条約)が締結されました。そして、日米和親条約とほぼ同じ内容の和親条約が、同年8月にはイギリスと、12月にはロシアと、翌1955年(安政2年)12月にはオランダとの間で締結されました。

○ ハリス着任(1856年)と日米修好通商条約(1858年)、安政の大獄(1858年6月24日、旧暦)と桜田門外の変(1860年3月3日)

 1856年(安政3年)7月アメリカ総領事ハリス(1804~1878)が下田(伊豆国、静岡)に着任しました。1858年(安政5年)6月には、日米修好通商条約が締結されましたが、それは関税自主権がなく、治外法権を認める、アメリカに一方的に有利な内容の条約となっていました。

 幕府の大老、南紀派(なんきは、御三家、紀伊藩)登用の彦根藩主(第15代)、井伊直弼(いいなおすけ、1815~1860)がハリスに押し切られ、孝明天皇(こうめいてんのう、1846~1866,第121代)の勅許(ちょくきょ)をえないまま日米修好通商条約に1858年(安政5年)6月19日(旧暦)調印しました。そこで、この条約が違勅(いちょく)調印であることを、一橋派(ひとつばしは、御三卿、一橋家)の藩主(越前松平慶永、水戸徳川慶篤と徳川斉昭、尾張徳川慶勝)及び一橋慶喜(のち15代将軍、徳川慶喜、1837~1913)らは、大挙して江戸城登城批判しました。

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桜田門外の変を描いた絵図( 1860年3月3日、白いたすきをかけているのが尊王攘夷派の武士、桜田門外、江戸、google画像) 

(解説) 井伊直弼は、1858年(安政5年)6月24日(旧暦)、一橋派の登城批判に対し、大弾圧に乗り出しました。この安政の大獄(あんせいのたいごく)による処罰者は、一橋派の大名、公家をはじめ、尊王攘夷(天皇を尊び外国人を排除)の志士にまで及びました。これには、とりわけ尊王を旨とする(水戸学、儒教思想)派の水戸藩の反発を招き、1860年(万延元年)3月3日(旧暦)、井伊は水戸浪士によって桜田門外で暗殺されました。攘夷論(じょういろん)は、異質の文化をもつ国や民族を「夷狄(いてき、野蛮人、やばんじん)」と位置づけ、それを排除しようとする儒教(じゅきょう)の中華思想に基づいた考え方です。この桜田門外の変を境に、幕府の権威はかげりを帯びるようになりました。<

○ 尊王攘夷(天皇を尊び外国人を排除する)運動の激化(1861~1864年)

 桜田門外の変以降、幕府公武合体(こうぶがったい)、すなわち、公(朝廷)と武(幕府)の協力により国難を乗り切ろうとしました。そして、1862年(文久2年)2月、江戸で皇女和宮(1846~1877が14代将軍徳川家茂(1846~1866)に降嫁(こうか)しました。そして、幕府は、一橋慶喜(のち15代将軍、徳川慶喜)を将軍後見職に、松平春嶽(慶永、1828~1890)を政事総裁職に任命しました。

 これに対し、長州、土佐などの各藩から京都に参集した尊王攘夷派尊攘派)の志士たちは、公武合体派の薩摩藩と血を血で洗う暗闘を繰り広げました。長州藩の過激派が尊攘派の公家と内通し、倒幕をもくろんでいることが露見し、1863年(文久3年)8月18日、禁裏(きんり)九門の一つ、境町御門の警護にあたっていた長州藩が、突然その任を解かれました。これは、公武合体派薩摩藩京都守護職にあった会津藩と通じ、尊攘派京都から一掃しようとしたクーデターでした。これは八月十八日の政変と呼ばれています。

 この政変により、三条実美(さんじょうさねとも、1837~1891)ら尊攘派公家7人が京都を追放され、長州へと逃れました。世にいう「七卿落ち(しちきょうおち)」です。これを境に長州、薩摩の両藩の関係は、いったん断絶状態となりました。

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薩英戦争を描いた絵図(1863年7月2日、薩摩藩は、嵐の中、イギリス艦隊との激しい砲撃戦を展開しましたが、攘夷(外国人の排除)は不可能であることを悟り、賠償支払いに応じ和平しました。その後、イギリスに軍艦購入の周旋(しゅうせん)を依頼し、薩英関係は緊密となっていきました。、鹿児島湾内、背後の山は桜島、google画像)  

(解説) 安政の大獄以来、鬱屈(うっくつ)していた尊王攘夷派の志士たちは、幕府高官や外国人を次々と襲撃(しゅうげき)する過激事件を起こし、世はまさに激動の時代に突入しました。尊王攘夷派による過激事件としては、東禅寺襲撃事件(1861~1862年、江戸)、坂下門外の変(1862年、江戸)、イギリス公使館焼討ち事件(1862年、江戸)、生麦事件(1862年、生麦、横浜近く)、寺田屋事件(1862年、伏見)、天誅組の変(1863年、五条)、生野の変(1863年、生野)、長州藩外国船砲撃事件(1863年、下関)、薩英戦争(1863年、鹿児島)などが起こっています。

○ 禁門の変(蛤御門の変)と第1次長州征討、下関戦争(1864年)

 幕府は、1862年(文久2年)8月、尊王攘夷派志士たちのテロが横行する幕末の京都を治めるため、京都守護職(きょうとしゅごしょく)を設置し、その職に任じられた会津藩主、松平容保(まつだいらかたもり、1835~1893)は、同年12月、約1000人の藩兵を率いて上洛し、新撰組(しんせんぐみ)や京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)を組織して、尊攘派を厳しく取り締まりました。

 1864年(元治元年)6月、京都の旅籠(はたご)池田屋で決起を画策していた長州藩士、吉田稔麿(1841~1864)ら尊攘派が、新撰組、局長近藤勇(1834~1868)、土方歳三(1835~1869)らに殺傷される事件が起こりました(池田屋事件、京都三条河原町)。

 長州藩は、長州軍を京都に進発させ、2000の藩兵で京都を包囲し、無実を主張する訴状を差し出しましたが、拒絶されたため、公武合体派排除京都奪還の決行に踏み切りました(禁門の変、蛤御門の変とも)。京都御所に押し寄せた長州軍は、会津軍の警護する蛤御門(はまぐりごもん)へ殺到、御所内に突入しかけましたが、薩摩軍に背後を襲われ敗北を喫しました。

 一方、幕府は、1864年(元治元年)7~12月、禁門の変を理由に長州藩追討の勅命(ちょくめい)を得て、15万の軍勢を長州に進発させました(第1次長州征討)。ところが、征長軍は長州を包囲したものの、戦火をを交えぬまま12月に撤兵を開始しました。これは、尊攘派に代わり、長州藩の実権を掌握(しょうあく)した佐幕派(さばくは、幕府補佐派とも)が謝罪に務め、禁門の変の責任者である3家老の切腹などを約したからです。

 この第1次長州征討長州藩の謝罪降伏で集結した裏には、幕府軍参謀(さんぼう)の薩摩藩士、西郷隆盛(さいごうたかもり、1827~1877)の配慮がありました。征討に先立ち、西郷は、幕臣勝海舟(かつかいしゅう、1823~1899)と会談し、その際、公武合体限界と、雄藩連合による新政権の実現を説得されました。一時は、長州藩の撃滅(げきめつ)を決意した西郷でしたが、勝の意見に従い、長州藩の温存を図りました。

  その間、1864年(元治元年)8月には、前年、1863年(文久3年)5月10日、下関海峡で砲撃(長州藩の攘夷の実行!)を受けた英米仏蘭4国による連合艦隊が、長州藩報復攻撃を開始しました。長州藩は、1863年(文久3年)6月、高杉晋作(たかすぎしんさく、1839~1867)の発案により農民、町民らで組織された奇兵隊(きへいたい、民兵)の反撃もむなしく、降伏しました(下関戦争)。そして、長州藩は、高杉晋作に講和を一任し成立させました。が、攘夷(外国人の排除)は不可能であることを実感させられました。その後、高杉晋作が功山寺で挙兵、長州藩は武力による倒幕へと進んでいきました。

○ 薩長同盟(1866年1月)と第2次長州征討(1866年6月~12月)

 1863年(文久3年)8月18日、長州藩の尊攘派の京都からの追放にからむ八月十八日の政変以来、宿敵となっていた薩長両藩の連合を実現に導いたのは、土佐藩浪士、坂本龍馬(さかもとりょうま、1835~1867)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう、1838~1867)でした。二人は、新体制実現のためには、薩長両藩の連合が不可欠と感じ、両者の会談を斡旋(あっせん)しました。

 薩摩藩士、小松帯刀(こまつたてわき、清廉とも、1835~1870)は、京都で坂本龍馬らと懇意になり、薩長同盟樹立のために藩論をまとめるべく奔走ました。また、坂本龍馬が新撰組による寺田屋襲撃事件で負傷した際には、妻のお龍と共に鹿児島城下の原良の屋敷に招き、療養に務めさせました。 

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薩長同盟の締結(1865年1月20日、前列左より、 桂小五郎(のち木戸孝允)、勝海舟、小松帯刀、後列左より、西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎、薩摩二本松藩邸、上京区、京都、合成写真、google画像) 

 世界最初銀塩写真は、1839年(天保10年)にフランスで発表されたダゲレオタイプ(銀メッキをかけた銅板に像を直接定着させる方式)とされる。さらに改良が加えられ、日本には、1848年(嘉永元年)に写真機が輸入され、坂本龍馬らが撮影されました。(朝日新聞:文化の扉 はじめての銀塩写真、2012年(平成24年)10月29日(月)朝刊)

薩長同盟の成立(奇兵隊、のろのろホームページ): http://www.geocities.jp/mill_c2002/noronoro/hagi/kiheitai_4.html

(解説) 1865年(慶応元年)4月、長州藩の武器密輸を理由に、再び幕府が征長の途についた(第2次長州征討)との報が届くと、坂本と中岡は、両藩の和解工作を開始しました。その必死の説得が功を奏し、翌年1月、ついに長州藩桂小五郎(かつらこごろう、のち木戸孝允、きどたかよし、1833~1877)と薩摩藩西郷隆盛の会談が実現し、両藩は軍事同盟(薩長同盟)締結(ていけつ)して、反幕府(倒幕)の立場を鮮明にしました。

 薩長同盟では、再び幕長戦争が開戦したときには、薩摩藩は参戦しないこと、長州藩が必要とする軍事物資は、薩摩藩名義で外国から輸入すること、などが明記されました。これによって、長州藩は軍備増強を図ることができました。このとき、長州藩が武器や軍艦を購入できるように仲介したのが、坂本龍馬と、彼が設立した日本初の貿易会社、亀山社中(かめやましゃちゅう、海運業、薩摩藩の援助で長崎に設立)でした。

 1866年(慶応2年)6月、幕府軍が芸州口、大島口、石州口、小倉口の四方から長州攻撃を開始、第2次長州征討の戦端が開かれました。長州軍は、高杉晋作(たかすぎしんさく、1839~1867)、大村益次郎(おおむらますじろう、1824~1869)らの活躍で勝利を重ねました。それは、長州軍が最新式の銃を備え、洋式銃陣(じゅうじん)を敷いたのに対し、幕府軍は戦国以来の火縄銃(ひなわじゅう)による集団戦術をとったからです。また、長州軍が四国(英米仏蘭)連合艦隊との戦いを経験していたのに対し、幕府軍には実践の経験がなかったことも理由の一つに挙げられます。

 1866年(慶応2年)7月、14代将軍、徳川家茂(いえもち、1846~1866)が急死したのを機に、薩摩藩から征長中止が建白されました。朝廷内にも中止を求める声が高まり、8月、朝廷からの勅命により休戦が成立しました。そして、一橋慶喜が15代将軍徳川慶喜として就任しました。

○ 大政奉還(1867年10月14日)

第2次長州征討で幕府の権威が地に落ちたと見た薩摩藩の西郷隆盛大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878)は、倒幕派の公家、岩倉具視(いわくらともみ、1825~1883)に働きかけ、朝廷からの「倒幕の密勅(みつちょく)」の降下を画策、武力討幕をもくろみました。

 討幕派と幕府の対立の間で、一役を買おうとしたのが、土佐藩でした。前藩主、山内容堂(やまのうちようどう、豊信とも、1827~1872)の腹心、後藤象二郎(ごとうしょうじろう、1838~1897)は、坂本龍馬の立案した新国家構想「船中八策(せんちゅうはっさく)」をもとに、大政奉還(たいせいほうかん)を幕府に建白しました。その主旨は、天皇のもとで大名らの合議による政権を樹立することでした。

 最近、坂本龍馬が暗殺される5日前に福井藩重役宛て手紙が見つかった、と高知県などが13日発表しました。その手紙の「新国家」福井藩士の出仕望むとの書状の一部より、手紙中央上部に「新国家」の文字が記述されていることが確認されました。(2017年(平成29年)1月14日(土)、北陸中日新聞、朝日新聞、朝刊より)

 その一方で、土佐藩は、薩摩藩と「薩土盟約(さつどめいやく)」を締結し、大政奉還の実現に向け協力を誓い合いました。薩摩藩にとっても、いざというとき、倒幕に持ち込む同盟者が必要でした。

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大政奉還を描いた絵図(1867年10月13日、第15代将軍、徳川慶喜は、京都の二条城で諸藩の重臣に大政奉還について諮問し、翌日、朝廷に奏上しました、頓田丹陵作、聖徳記念絵画館蔵、google画像)

(解説) 1867年(慶応3年)10月13日、岩倉の工作が実り、ついに薩摩藩に「倒幕の密勅」が降下されました。翌日には、長州藩にも降下されますが、同じ14日、15代将軍、徳川慶喜(1837~1913)から大政奉還奏上されました。徳川慶喜の構想は、一旦朝廷に大政を返上したうえ、新たな政権のもとで盟主(めいしゅ)となり、行政権を行使しようとするものでした。大政奉還を受け、10月21日、朝廷より「倒幕の密勅」の取り消しが布達(ふたつ)されました。 

○ 明治新政府の誕生(1867年12月9日)

 倒幕派は、徳川慶喜のもと列藩会議(れっぱんかいぎ)構想が実現する前に、明治新政府を成立させる行動に出ました。

 1867年(慶応3年)12月9日、京都御所の九門を諸藩兵が固めるなか、御所内において王政復古の大号令明治新政府成立!)が発せられました。そして、新政府は、王政復古を諸外国に通告、五箇条の御誓文で基本綱領を掲げ、政体書によって政治制度を確立、政府基盤を全国的に構築しました。すなわち、摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)、幕府(ばくふ)などの制度は廃止され、新たに総裁(そうさい)、議定(ぎじょう)、参与(さんよ)などの三職が設けられました。

 その日の夜、御所内の小御所(こごしょ)において、初の三職会議が開催されました。最大の議題は、15代将軍、徳川慶喜の「辞官納地(じかんのうち)」(官位辞退と領地返上)でした。前土佐藩主、山内容堂らは反対したものの、徳川慶喜の排斥を強硬に主張する岩倉具視らの前になす術(すべ)はありませんでした。

 「辞官納地」の勅令を伝えられた徳川慶喜は、幕臣の暴発により朝敵になることを恐れ、大坂城へと退去しました。入れ代わるように長州藩兵が入京し、京都は薩長の軍事支配下に置かれました。

 大坂城の徳川慶喜のもとには、5000もの旧幕府兵が続々とつめかけ、薩長討伐の気勢が高まりました。これに会津(あいづ)藩兵3000,桑名(くわな)藩兵1500などを加えた旧幕府軍1万5000は、京都に向け進発しました。これに対する薩長藩兵は4500と、その三分の一にも満たないものでした。

○ 戊辰戦争(1868年1月3日~1869年5月)

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戊辰戦争の経過図(地図で訪ねる歴史の舞台、日本、p.86、帝国書院(1999)、google画像) 脱藩大名の戊辰戦争(しょうちゃんのブログ): http://plaza.rakuten.co.jp/syoucyann1582/diary/200910280000/

(解説) 1868年(明治元年)1月3日、京都南部の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で、旧幕府軍と薩摩と長州を中心とする新政府軍が衝突し、戊辰戦争(ぼしんせんそう、鳥羽・伏見の戦いとも)が始まりました。新政府に反発した会津と桑名などの諸藩が、15代将軍、徳川慶喜をおしたて、薩長討伐に立ち上がりました。しかし、旧幕府軍は新政府軍の近代兵器の前に敗れ「朝敵(ちょうてき)」(勝てば官軍、負ければ賊軍!)として追われることになりました。

 晴れて「官軍」となった新政府軍は、京都を進発し、3月には、江戸へと迫りました。江戸城総攻撃が噂(うわさ)されるなかで、新政府の西郷隆盛と旧幕府の勝海舟が会談し、15代将軍、徳川慶喜も恭順(きょうじゅん)の意を示し、1868年(明治元年)4月、江戸城が新政府軍に明け渡されました(江戸城の無血開城!)。

 江戸湾にいた旧幕府海軍総裁、榎本武揚(えのもとたけあき、1836~1908)は、艦隊を率いて箱館(函館)に脱出しました。一方、新政府軍は、会津藩追討に乗り出し、東方へ進攻しました。会津をはじめ東北諸藩は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結び、激しい戦いを繰り広げました。しかし、新政府軍の猛攻に、旧幕府軍は、4月には宇都宮の戦い、5月には上野の戦い、5~7月には長岡の戦いに敗れ、次々と脱落していき、9月には会津藩、庄内藩、仙台藩も降伏しました。

 1868年(明治元年)10月、旧幕府艦隊を率いる榎本武揚は、土方歳三(1835~1869)らと共に箱館(函館)の五稜郭(ごりょうかく)を占領しました。翌年4月、新政府軍は海陸から攻撃を開始、抵抗していた榎本武揚らも、翌1869年(明治2年)5月に降伏し、1年半に及ぶ戊辰戦争は終わりを告げました。 

● 明治時代(1868~1877)

○ 東京遷都、文明開化と殖産興業(1868~1878年頃)

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東京遷都(1869年(明治2年)3月28日、皇城、遷都?、東京、google画像) 

(解説) 1868年(慶応4年)は、9月8日に改元され明治元年となり、その翌年の3月28日、若き天皇、睦仁(明治天皇)は江戸城改め皇城(のち宮城、皇居)に入り、城の中に太政官府設置しました。一般にはこれを東京遷都としています。

 幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の目には、ちょんまげに和装(わそう)、裸(はだか)にふんどし姿の日本人は「野蛮な未開人」と映(うつ)りました。明治政府は、外交の妨げになると判断し、官礼服を洋服にし、断髪令(だんぱつれい)などを出して(散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする!庶民にも洋風化を強要しました。

 1872年(明治5年)には、近代学校制度を定めた法令「学制(がくせい)」を公布し、義務教育の徹底を図りました。また、同年には、それまでの太陰暦(たいいんれき)を廃して、太陽暦を採用しました。が、旧暦1872年12月2日の翌日が1873年1月1日となったため、人々を混乱させました。

 こうした政策に合わせ、西洋の文物が大量に流入したため、洋服や洋風建築、洋食など、人々の暮らしは大きく変化しました。しかし、こうした文明開化の波が広がったのは大都市に限られ、地方の農村に洋風生活が定着するのは、昭和に入ってからのことでした。

 一方、明治政府は、特に、近代国家建設のため、「富国強兵(ふこくきょうへい)」のスローガンのもと、近代産業を保護し育成する殖産興業(しょくさんこうぎょう)の政策を推進しました。

 日本各地に、輸出の花形である製糸工場や軍備増強を担う軍需工場など、模範工場を設立しました。また、旧幕府や諸藩所有の鉱山などを手に入れ、外国人技師を雇い、最新の設備を導入して近代化を進めました。

 また、産業と経済の流れをスムーズにするため、インフラの整備も急ピッチで進められ、近代式の郵便電信などの通信網、鉄道蒸気船などの交通網が全国に広がりました。

○ 廃藩置県と地租改正(1871~1873年)

 明治政府の発足後も、諸藩の領地や領民は、依然として、旧来の藩主が治めていました。そこで、1869年(明治2年)1月、政府の大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878、薩摩藩)、木戸孝允(きどたかよし、1833~1877,長州藩)らは、薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)の各藩主を説得し、領地と領民を政府に返上させました(版籍奉還、はんせきほうかん)。諸藩もこれにならい、6月には、全国の土地と人民が政府の支配下に置かれる形式が整えられました。

 しかし、旧藩主は、知藩事(ちはんじ)に任命され、その後も藩政を執(と)ったため、実質的には明治維新前と変わりませんでした。そこで、明治政府は、強力な中央集権国家の建設には、藩の一挙全廃が不可欠と考え、1871年(明治4年)7月、天皇の名のもとに、廃藩置県(はいはんちけん)を断行しました。そして、鹿児島から西郷隆盛を招いて、薩長土3藩の約1万人からなる御親兵(ごしんぺい)を組織し、諸藩の反抗に備えましたが、抵抗は少なく、廃藩は受け入れられました。 廃藩置県によって、天皇国家統合(かなめ)となり、天皇制の統一国家が実現しました。 

 ところが、明治政府の財政は、火の車であり、諸藩から引き継いだ債務は、当時の歳入の2倍にも上がりました。そこで、政府は、安定した財源基盤と近代的な土地所有を確立するため、田畑勝手作り(でんばたかってづくり)を認め、田畑永代(えいたい)売買の禁を解くなどの措置をとり、1873年(明治6年)に地租改正(ちそかいせい)条例公布し、以後、1870年代を通じて改正事業が実行されました。地租改正の内容は、土地(地券、ちけん)所有者に、金納・定額で地価の3%にあたる地租を納入させるというものでした。

 1876年(明治9年)、茨城県や三重県などで地租改正反対一揆が激化すると、翌年、地租は、地価の3%から2.5%に減額され、農民の負担が大幅に軽減されました。

○ 不平士族(主に薩長土肥の下級武士)の反乱(1874~1877年)

 1873年(明治6年)、岩倉使節団(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら)が欧米を視察していたとき、西郷隆盛、板垣退助(1837~1919)らが預かる留守政府内では、征韓論(せいかんろん)が高まっていました。それは、朝鮮(清の属国!古くは高句麗、新羅、百済の三国からなり三韓と呼んでいました)が明治新政府を認めず、鎖国を続けるので、武力で開国させようとするものでした。

 しかし、帰国した大久保らは内治優先を唱えて征韓論に反対し、政府征韓派(西郷隆盛、江藤新平、板垣退助)と内治派(大久保利通、岩倉具視、伊藤博文)とに分裂しました。その結果、閣議決定をしていた西郷隆盛の朝鮮派遣は覆(くつがえ)され、内治派が勝利すると、征韓派はいっせいに下野(げや)しました(明治六年の政変)。

 一方、新政府の政策によって、平民の苗字を許可(1870年)、徴兵令公布(1873年)、秩祿処分と廃刀令公布(1876年)など、士族(旧武士階級)の特権は次々と失われていきました。なかでも、1876年(明治9年)の秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、多くの士族を困窮に落とし入れました。それは、廃藩置県後も華士族などに秩祿(家禄、賞典祿)が支給されましたが、国家の歳出の約30%を占め、国家財政を圧迫していました。そこで、政府は金祿公債証書(きんろくこうさいしょうしょ、それぞれの禄高の数年分相当額に利子をつけた公債)を与えて、禄制を全廃する措置をとりました。

 一人あたり平均は、華族が6万4000円程度だったのに対し、士族は5000円足らずに過ぎませんでした。下級武士のなかには、生活苦から金祿公債を手放して没落していく者も現れました。

 その結果、士族の間で政府に対する不満が募(つの)り、1873年(明治6年)の征韓派の政変を機に、西日本の士族(主に薩長土肥の下級武士)により、佐賀の乱(首領、江藤新平、島義勇、不平士族、佐賀、1874)、敬神党の乱(不平士族、神風蓮、熊本、1876)、秋月の乱(宮崎車之助、秋月藩士、福岡、1876)、萩の乱(首領、前原一誠、長州藩士、山口)など、反乱が続出しました。このことから、明治維新の立役者を自負する薩長土肥の下級武士の怒りがいかに強かったかが推測されます。

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西南戦争( 熊本城戦争図、安達銀光(吟光)、1877年(明治10年)3月版、福田龍次郎版元(東京)、鹿児島新聞、google画像) 

(解説) 1877年(明治10年)2~9月の鹿児島士族を中心とする西南戦争(せいなんせんそう)は、最後の反政府士族の最大の反乱でした。西郷隆盛は、各地の士族反乱に対しては、自重の姿勢を貫いていました。が、1877年(明治10年)2月15日、私学校生徒ら1万3000人が西郷を担いで起つと、熊本などの保守、民権両派の士族7000人、徴募兵約1万人もこれに呼応しました。反乱軍は、熊本城の政府軍との攻防戦、田原坂(たばるざか)の激戦で敗北、以来、大分、宮崎、鹿児島を敗走し9月24日、西郷が城山で自刃、反乱は鎮圧され、士族の武力による抵抗は急速に衰えていきました。このとき、政府は最新の兵器と6万余の兵力、大量の軍夫を投入しました。死者は官軍6843人、反乱軍約5000人とのことです。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 野島博之(監修)、成美堂出版編集部(編): 図解日本史、成美堂出版(2006); 東京都歴史教育研究会(監修): 成美堂出版編集部(編): 図解幕末・維新、成美堂出版(2009); 詳説日本史図麓編集員会編: 詳説日本史図麓、山川出版社(2009).

(参考資料) わらべ歌(一かけ二かけて三かけて、西南戦争、西郷隆盛の墓参り): http://mippi.jp/mmland/warabeutaset.htm

(追加説明) ○ 西郷隆盛の評価の変遷 西郷隆盛の人間像をめぐる評価は、彼が西南戦争で没して後、今日まで再転、再々転しています。まず、西南戦争の終戦直後は、西郷は「逆賊」でした。しかし、福沢諭吉は、「西郷は官員の敵にして、人民の敵にあらず」と「丁丑公論」に書きました。また、内村鑑三は、「維新における西郷の役割を余さずに書くことは、維新史の全体を書くことになる」と述べています。

 戦後になると、左翼思想家の間から、維新までの西郷は革命的、征韓論以降の西郷は反動、という見解も出されました。1970年(昭和45年)、自衛隊に乱入し自決した三島由紀夫は、40才になるまで「茫漢とした大人物らしさ」に集まる俗衆の人気がいやで西郷ぎらいであったが、「近ごろになって、ようやく西郷の真の偉大さが分かるようになった」と告白しています。西郷隆盛をめぐる評価は、今もなお混沌としています。不思議な人物です。(樋口清之(監修): 生活歳時記、p.553,西郷隆盛評価の変遷、三宝出版(1994)より)

 

2010年9月 1日 (水)

戦後の日本の民主化(GHQ、五大改革指令)、農地改革(小作農から自作農へ、地主制度の崩壊)、農業協同組合(設立と事業内容、農林族)、農地改革の功罪、とは(2010.9.1)

   戦前、日本の農村の地主制度において、小作農地主(米倉のある家) に対して収穫物の約半分にあたる高率の現物小作料を納めていました。その結果、凶作(きょうさく)、飢饉(ききん)は小作農民の生活を直接的に圧迫し、小作争議(こさくそうぎ)に結びつきました。一方、貧困農民層の増加は、資本家には低賃金で働く労働者を、軍隊には過酷な戦場に耐える兵士を贅沢(ぜいたく)に供給する一因になったと考えられています。

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部、日比谷、東京)、 バターン号のタラップを降りるGHQ最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥 (1880~1964,厚木飛行場、神奈川、1945年8月30日、google画像より)

(解説) 戦後、1945年(昭和20年)10月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部、General Headquarters of the  Supreme Commander for the Allied Powers、1945年10月~1922年4月、第一生命本社ビル、日比谷、東京)は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう、1872~1951、第44代 )内閣に対し、日本の民主化のため、次のような五大改革指令を出しました。

 ①女性参政権の付与(1945.12)、②労働組合の結成奨励(労働三法制定、1945.12~1947.4)、③教育の自由主義的改革(教育三法制定、1947.3~1948,7)、④秘密警察などの廃止(政治犯釈放、治安維持法、特別高等警察廃止、1945.10)⑤経済機構の民主化(財閥の解体、1945.11~1951.7、農地改革、1946.10~1950,7)

 これらの五大改革は、ほとんどが実施され、戦後の日本の民主化政策に反映され、日本が民主主義国となる根幹となりました。

 戦後、日本の民主化政策の一環として、GHQは、農地改革として、小作農の自作農化を推進(すいしん)し、日本の農村に長く続いてきた地主制度を、3年ほどで崩壊させました。 これには、日本の農村において、地主制度への不満をもつ小作農民が組織化され、社会主義運動が活発となることへの懸念と、低廉(ていれん)な労働力で巨富(きょふ)を獲得した資本家が復活し、軍国主義体制が再燃することを防止するなどのネライもあったと考えられています。

○ 農地改革 

  農地改革は、第2次大戦後、日本の民主的改革の一環として、日本資本主義の基盤であった地主制の解体を目的として行われた、農地の所有・利用関係の土地改革です。1945年(昭和20年)、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が行った第1次改革は、GHQの農民解放指令に基づく自作農創設の政策でしたが、GHQはその改革を不十分とし、1946年(昭和21年)、「農地改革覚書案」(対日理事会の英国案が骨子)を日本政府に勧告しました。

 

第2次農地改革(農村を訪れ農地改革について農民と話すGHQ職員、1948年(昭和23年)6月、千葉、昭和毎日新聞、google画像)

(解説) 第2次改革が策定され、自作農創設特別措置法と改正農地調整法が成立し、による農地買収は1947年(昭和22年)3月から1950年(昭和25年)7月まで、16回にわたって行われました。1948年(昭和23年)末の第10回買収までに、約90%の買収及び売り渡しが完了しました。その頃には、各県の小作地は戦前の15~40%程度に減少しています。

 その主な内容は、不在地主制の否定、在村地主の貸付地保有限度の引下げ(1町歩)、農地の移動統制、耕作権の物権化、地主による土地取上げ禁止、小作料の金納化などです。不在地主の全所有地と、在村地主の貸付地のうち都道府県で平均1町歩、北海道で4町歩を超える分とを、国が地主から強制買収して小作人に極めて安く売り渡しました。 その結果、耕作面積の46%を占めた小作地は、10%に減少、地主階級は消滅し、旧小作農の経済状態は著しく改善されました。

 また、山林の未解放、地主保有地の残存、零細農経営の存置など不徹底な面もありましたが、農地改革は、農業生産力の発展の契機となりました。そして、改革の成果を維持するために、1952年(昭和27年)、農地法が制定されました。

 この農地改革に対し、地主の多くは、先祖から受けついできた土地を取り上げられることに承服しませんでした。そして、地主による異議申し立て訴願(そがん)、訴訟(そしょう)が全国で相次ぎましたが、1953年(昭和28年)、買収価格に対する違憲訴訟敗訴(はいそ)によって一応の決着をみました。

○ 農業協同組合(略称、農協、JA)

 農民協同組合は、1900年(明治33年)、産業組合に始まり、第2次大戦中の農業会を経て、戦後、農民の自主的な協同組織として、今日の農業協同組合(略称、農協)が設立されました。農協の設立は任意(行政庁の認可は必要)で、組合員の加入・脱退は自由となっています。

農協のマーク(1992年(平成4年)4月、麦のマークからJAのマークに衣替えしました、google画像より)

(解説) 農業協同組合1947年(昭和22年)の農業協同組合法に基づき、農民を正組合員とし、その事業は、信用、購買、販売、共済、福利厚生、生活文化改善などに使用する共同施設の設置、団体協約の締結などとされています。これら事業を兼営する総合農協の割合が高く、農業生産の伸び悩みと競争激化により、農協経営は近年厳しい局面にあり、農協合併の促進、全国・都道府県・単位農協(個別の農協)の3段階制から全国・単位農協の2段階制への移行など、組織再編が進展しています。

○ 農地改革の功罪

 日本の農地は、農地改革の推進によって民主化され、国から小作人が極めて安い価格で農地を手に入れることができて、自作農家が過半数を占めるようになりました。 一方、農地が細分化され、農業経営が非能率になりました。そして、1961年(昭和36年)、大規模農家を目指した「農業基本法」の制定も、農業生産量は飛躍的に増大しましたが、農業機械の導入などによる労働時間の減少で、農家は兼業化(都会や工業地帯などに出稼ぎに出て行くことなど)へと向かい、規模の拡大は必ずしも進みませんでした。(農地改革(シルバー回顧録): http://homepage3.nifty.com/yoshihito/nouchi.htm.)                   

 戦前小作農は、活発に労働運動を展開弾圧(だんあつ)を受けました。が、戦後自作農は、農業協同組合に参集し、やがて、保守政治家(自由民主党、農林族)の支持基盤を形作ることにもなりました。

 敗戦直後、食料不足を克服するため、政府は「食料増産・自給政策」を推進しました。政策の中心は米の増産でした。しかし、食糧管理制度(米など主要食糧を国が管理し、需給や価格調整、流通の規制を行う目的で制定)に守られて米作に励んだ結果、1965年(昭和40年)代前半には、米の生産過剰が表面化し、1970年(昭和45年)には、過剰米720万トンに達し、「減反」へと政策の舵(かじ)を切ることになりました。また、生産者米価が消費者米価を上回る「逆ざや」状態などの問題も生じました。

 1969年(昭和44年)、流通に政府が関与しない自主流通米の制度が導入され、1992年(平成4年)、食糧管理制度撤廃されました。そして、1993年(平成5年)、ウルグアイ・ラウンド交渉で、米の市場開放が決まりました。農民は、休耕や他の農作物への転換を余儀なくされ、また、貿易の自由化とあいまって、日本の食料自給率は次第に低下していき、1970年(昭和45年)では60%となり、昭和末期には50%を切り、2002年(平成14年)では40%となり、先進国中では最低の数値となり、打開策が検討されています。

(参考文献) 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 野島博之(監修): 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 詳説日本史図麓編集員会編: 詳説日本史図麓、山川出版社(2009).

 

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