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2010年10月14日 (木)

石見銀山(島根)と佐渡金銀山(新潟)にまつわる歴史伝承、ジパング(黄金の国、東方見聞録)、銀の国(石見銀山、世界遺産)、道遊の割戸(佐渡金山、相川、佐渡島)、とは(2010.10.14)

 ジパング(ジャパンの語源とも、日本)は、マルコ・ポーロ(1254~1324、イタリア)の「東方見聞録(とうほうけんぶんろく、1438~1485年頃出版」により、「黄金の国」として、ヨーロッパに紹介されました。ヨーロッパ人の中には、これを信ずる人々が多く、1492年、スペイン王室の援助により航海しアメリカ大陸を発見した、クリストファー・コロンブス(1451?~1506、イタリア)もその一人でした。

16世紀の中頃、室町時代の末頃に、初めて日本を訪れたヨーロッパ人たちは、そこが「黄金の国」にならずとも「銀の国」であることを知って驚きました。その頃の日本は、戦国時代の末期にあたり、諸大名はしきりに銀山石見銀山、佐渡金銀山、生野銀山などを発掘し、銀をたくわえました。やがて、豪華な桃山文化がこのような豊富な銀の力を背景として花開きました。

 ヨーロッパ諸国の中で、スペインはアメリカ大陸から銀をヨーロッパに運び、その銀をもってポルトガルがアジアに進出しました。ポルトガルは中国で生糸や絹織物、金などを買い入れ、日本に渡り、中国で仕入れたものを売りつけ、日本の銀を手に入れました。日本人は、海外の産品を欲しがったので、高く売れました。

 日本との貿易でポルトガルは、さらに銀の量をふやし、再び中国に渡り、この銀をもとでに大量の品を買って、ヨーロッパに帰りました。当時のポルトガルの繁栄には、日本の銀が大きく貢献しました。

 このような日本の銀の流出は、安土桃山時代から江戸時代(1573~1603)初期にかけて、年間10数万キロに達したといわれ、実に世界の産出銀の3分の1を占めました。

○ 石見銀山(島根県太田市の銀山、大森銀山とも)

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石見銀山(上 釜屋間歩付近、仙ノ山本谷地区にあるテラス状の巨大な岸壁遺構、左下に見えるのが釜屋間歩の入り口、 下 龍源寺間歩 銀山地区大谷にある抗口、抗口前の両脇にシダ植物ヘビノネゴザが繁茂しています、2010年4月1日撮影、大田市、島根、google画像) 世界遺産 石見銀山遺跡(大田市、島根): http://ginzan.city.ohda.lg.jp/

(解説) 石見銀山(いわみぎんざん)は、14世紀に発見、16世紀初頭、室町時代の末期、1526年(大永6年)、博多の豪商、神谷寿禎(かみやじゅてい、生没年不詳)が、海上からはるか南の山が輝くのを見て驚き、発見したとされています。寿禎は、出雲大社(いずもたいしゃ)近くの鷺(さぎ)銅山経営者、三島清右衛門(みしませいえもん)に相談し、3人の技術者を連れて探索し、銀鉱石を発掘したという。

 天文年間の灰吹法(はいふきほう、金や銀を含む鉱石を鉛と共に焼き、金や銀の鉛合金を作り、それに空気を吹き込み金属鉛を酸化鉛(灰)に変え、分離した金や銀を灰の中から取り出す方法)の導入により、当時の日本及び東アジアを代表する世界でも最大級の銀山へと発展しました。近世初期の銀山奉行、大久保長安(おおくぼながやす、ちょうあんとも、1545~1613)の時代に最盛期を迎えましたが、間もなく衰退しました。1923年(大正12年)休山となりました。その後、この灰吹き法は、石見銀山の技術者によって、佐渡金銀山、生野銀山の金、銀の精錬に伝えられました。

 また、当時守護大名として岩見を支配していた大内義興(おおうちよしおき、1477~1529)の支援を背景に、寿禎は銀山の開発を進めていきました。大内・尼子・毛利3氏が激しく争奪し、のち江戸幕府直轄となりました。江戸初期、1ヵ年の運上銀は3600貫、1640年(寛永17年)頃、最盛期人口10万人という盛況ぶりでしたが、18世紀には衰えました。

 江戸時代、「岩見銀山猫(ねこ)いらず」と呼ばれ、ヒ素系の殺鼠剤(さっそざい)は同銀山産のヒ石から製したと称され、「岩見銀山」は殺鼠剤の異称となりましたが、ヒ石産地には異説があります。

 石見銀山は、その発見から発展の時期と、日本経済の商業的な発展と重なり、岩見の銀は国内で流通したばかりでなく世界的にも有名になりました。16世紀後半からマカオを拠点に来日するようになったポルトガル人との活発な交易を支えました。貿易商たちは、銀の世界的な価格差を利用した仲介貿易で莫大(ばくだい)な利益を得ています。

 1549年(天文18年)、日本(鹿児島)に初めてキリスト教を伝えた、フランシスコ・ザビエル(1506~1552、スペイン)は、ジョアン・ロドリゲス(ツヅとも、1561?~1633、ポルトガル))神父に宛(あ)てた書簡のなかで、当時の日本を「銀の島」と紹介しています。17世紀初頭、日本の銀産量は年間200トンで、世界の銀産高の3分の1に達したとも言われています。石見銀は「佐摩銀」とも呼ばれ、この頃の文献では「ソーマ銀」という良質の日本銀として記載されています。

 石見銀山は、16世紀以降、約400年にわたり採掘が続いた鉱山跡や町並みが残る「核心地域(コアゾーン)」(約442ヘクタール)が、2007年(平成19年)に世界遺産に登録されました。

 私は、1989年(平成元年)6月、石見銀山の遺跡を訪ねたことがあります。大森代官所跡、昔の坑道の中の人形を使った過酷な採掘作業の姿が、強く印象に残っています。また石見銀山の近くには、金属鉱山に特有のシダ植物ヘビノネゴザの散生と群生が見られました。

(追加説明) 福石場の一般公開

 石見銀山は、2017年7月、世界遺産登録から10年目を迎え、その心臓部とされる採掘現場が初めて一般公開されます。16世紀の大航海時代、ヨーロッパまで名が届いたほどの産出量を支えた「福石場(ふくいしば)」です。地元ではボランティアガイドらが準備を進めています。「福石」とは白っぽい火山岩にできた銀鉱石の愛称。(2017年(平成29年)5月21日(日)朝日新聞より) 

石見銀山通信(石見銀山ガイドの会): http://iwami-gg.jugem.jp/?eid=2284

〇 佐渡渡金銀山(新潟県佐渡島内の相川町を中心とした金銀山の総称)

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佐渡金山(上 露天掘りの「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」、金鉱石(新生代の地層の石英脈)が掘り尽くされ、山頂から麓にかけて2つに断ち割られた奇観、2008年8月9日撮影、産業遺跡、訪問紀、相川、佐渡、新潟、google画像、 下 金銀鉱、 白い部分は石英、黒い筋が銀の硫化物で、その中に金の粒が含まれている、佐渡鉱山産、新潟)、 2014年3月、石川県立自然史資料館へ寄贈 佐渡金山(産業遺跡、訪問紀、未来航路): http://miraikoro.3.pro.tok2.com/travels/Niigata_Gunma/Sado_Tomioka02.htm#header

(解説) 佐渡金銀山(さどきんぎんざん)は、古くから西三川(にしみかわ)の砂金採取が行われましたが、1542年(天文11年)から鶴子銀山(つるしぎんざん)が開発され、1601年(慶長6年)に鶴子銀山の山師が相川金山を発見しました。相川金山は、1603年(慶長8年)に大久保長安(おおくぼながやす、ちょうあんとも、1545~1613)が佐渡奉行になるに及んで開発が進みました。大久保は、岩見銀山の灰吹き法の技術を佐渡金銀山の金銀精錬技術として導入し、佐渡金山を隆盛に導きました。

 この時期、精錬に水銀アマルガム法(金や銀を含む鉱石を細紛し、液体の水銀と振り混ぜてアマルガム(水銀合金)を作り、それを加熱して水銀を蒸発除去し、あとに残った金や銀を取り出す方法)が行われましたが、水銀の確保が困難で定着しなかったようです。鎮目惟明(しずめこれあき、1564~1627)が奉行の1620年(元和6年)代に最盛期を迎え、年平均6~9トンを産出したと推定されます。産金銀からは佐渡金銀と総称される小判や印銀も鋳造されました。

 17世紀中頃から不振となり、坑内湧水(こうないゆうすい)が多く、水替人足(みずかえにんそく)の確保にも苦悩して、幕末まで産出量は低迷し、次第に衰微してゆきました。18世紀には銅山の開発も進み、鋳銭も行われました。1869年(明治2年)官営となり、1896年(明治29年)三菱に払い下げられ、金銀量も増大しましたが、近年は月700トンほどを細々と掘り続けていました。が、鉱石の品質の低下と枯渇により、1989年(平成元年)3月末、388年の歴史を終え、休山となりました。それまでに掘り進んだ坑道の延長は、相川から東京までの距離にあたる約400キロですが、その大部分は水に没しているという。

 私は、1983年(昭和58年)10月、新潟港から高速船ジェットフォイルに1時間ほど乗船し、佐渡へ渡り、佐渡金銀山の遺跡を訪ねたことがあります。露天掘りの跡、道遊の割戸(どうゆうのわれど)、昔の坑道の中の人形を使った過酷な採掘作業の姿が、強く印象に残っています。また佐渡金山の近くには、金属鉱山に特有のシダ植物、ヘビノネゴザの散生と群生が見られました。また、そのヘビノネゴザの根には、土壌中の重金属量に比例して、銅、鉛、亜鉛などの蓄積が著しいことを確認しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.595、銀の国・日本、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 金沢大学日本海域研究所報告、第30号、p.171~193、重金属と指標植物ー自然環境の回復-(1999).

(参考資料) 石見銀山(日本の銀、シルバーアクセサリー、東京): http://www.silveracce365.com/japan-silver.html

佐渡金山(ゴールデン佐渡、相川、佐渡、新潟): http://www.sado-kinzan.com/

(追加説明) 山吹(やまぶき)は、①バラ科落葉低木、鮮黄色の五弁花、一重、八重。②山吹色の略。③(山吹色であるからいう)金貨。大判や小判。転じて、一般に金銭をいう。④昔の鉱山で採取した鉱石を溶かして、金・銀・銅などに分離すること。(広辞苑より)

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