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2010年10月 4日 (月)

辞世にまつわる歴史逸話、昔の有名人(武将・禅僧・俳人・文人・本因坊など)の死生観(辞世の句と偈頌)、とは(2010.10.4)

   辞世(じせい)とは、広辞苑によれば、この世に別れを告げること、死ぬこと、また、死に際に残す偈頌(げじゅ、遺喝、ゆいげとも)、詩歌、辞世の句などのことです。日本人で名のある人は、自分の死に際し、辞世の句を詠むのをならいとしました。この風習が盛んになったのは源平時代と言われています。いつの頃からか心に残るものがいくつかあります。

○ 平安時代から鎌倉時代、室町時代の頃の辞世は、

 僧、真言宗開祖、海(774~835)3月21日、62才、832年(天長9年)に高野山の万灯会で「虚空(こくう)尽き、衆生(しゅじょう)尽き、涅槃(ねはん)尽きなば、我(わ)が願いも尽きん」と大誓願を立て、示寂。 921年(延喜21年)、諡号(しごう)弘法大師。 高野山、奥の院の空海廟、「この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける」 そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。 このことにより、弘法大師信仰が1200年を経た今日まで続いています。

 また、秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)、序詩には、「ーーー生まれ生まれ生まれ生まれて 生(しょう)の始めに暗く 死に死に死に死んで 死の終わりに冥(くら)し」 生がどこから始まりどこで終わるのか、答えられないでいるのだ。だからこそ、その刹那(せつな)をどう生きるのか(過去や将来を考えず、一瞬一瞬を大切に生きれば足りるとする!)、そのことが重要な課題となるのだ、と空海はいう。

 武将、薩摩守忠度(さつまのかみただのり、平忠度、清盛の末弟、1144~1184)2月7日、41才、「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを むかしながらの 山桜かな」 平家物語、都落の際、師の藤原俊成(1114~1204)に詠草を託しました。のち、一の谷合戦で岡部忠澄(?~1197)に討たれました。

 文人、吉田兼好(1283?~1352以降?)、70才?、随筆、徒然草(つれづれぐさ)、第七段の中で、「もしもあだし野の露(つゆ)の消える時がなく、鳥部山(とりべやま)の煙(けむり)が立ち去ることがないふうに、人の命がいつまでも此(こ)の世に住み長らえるのがあたりまえであるなら、いかにも趣(おもむき)が無(な)くてつまらない、世の中は定め無(な)きことこそ妙味(みょうみ)がある。ーーー」 徒然草の中心思想は、無常観(むじょうかん)であると言われています。兼好は、平常心で無常と対座し、人の命も人の世も、はかないからこそ生きる価値があり、一瞬一瞬を大切にして生きるべきだと説きました。

 兼好の辞世の句は、かへり来(こ)ぬ 別れをさてもなげくかな 西にとかつは 祈るものから (自分は世を去るが、それはやはり悲しいことだ。ただ西方浄土に行けるよう、祈りはするけど。)

○ 戦国時代(安土桃山時代)から江戸時代初期の頃の辞世は、

 武将、本多忠勝(ほんだただかつ、1548~1610)12月3日、63才、彼は死に際して息子たちから遺言をきかれ、ただ一言「死にたくない」と言いました。意外に思った息子が、「始めあれば終わりあるのがこの世のならい」と諫(いさ)めますと、忠勝は辞世を一句「死にともな まだ死にともな 死にともな 御恩を受けし 君を思えば」と詠みました。

 武将、織田信長(おだのぶなが、1534~1582)6月2日、49才、彼が好んだとされる「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内(うち)をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり 一度(ひとたび)生(しょう)を得て 滅(めつ)せぬ者のあるべきか」(人間にとっての50年は、神が住む天の時間に比べれば一瞬のことにすぎない。この世に生まれた者は必ず滅びるのだから。)は、幸若舞(こうわかまい)「敦盛」の一節です。

 武将、豊臣秀吉(とよとみひでよし、1537~1598)8月18日、62才、、「つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ」(人の一生などは、すぐ消える露のようにはかないものだ。大坂城を作り、栄華を極めたように思われているが、夢でしかない。) わが身(わかみ)を露(つゆ)になぞらえるのは、鎌倉以来の古典的な無常観、さらに、自分が最終的なよりどころとしていた難波(なにわ)を、「ゆめのまたゆめ」とすることによって、秀吉が、心の底では無常を痛切に感じていたことを示しています。

 武将、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)4月17日、75才、、「嬉(うれ)しやと 二度さめて一眠り うき世の夢は 暁(あかつき)の夢」 (お終いと目を閉じたが、嬉しいことにまた二度も目覚めた。一眠りしょう。この世のことは暁の空のようにひと時のことだ。)「先に行く あとに残るも同じこと 連(つ)れて行けぬを 別(わかれ)とぞ思ふ」 家康の家訓によれば、「人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くが如(ごと)し 急ぐべからず ーーー」という。

 初代本因坊、碁の名手、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ、1559~1623)5月16日、65才、「碁(ご)なりせば 劫(こう)を打ちても活(い)くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」 1623年(元和9年)5月16日示寂、法名日海上人。碁では、死(しに)石も劫(こう)の手段により活(い)かすことができるが、人の死については、手の打ちようがないという。

○ 江戸時代中期から後期の辞世は、

 俳人、松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694)10月12日、51才、「旅に病(や)んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」(旅の途中で重い病気にかかってしまった。寝ていて、夢で野原を駆け回るのだが、野原は枯野で、今の自分の人生のようだ。)1694年(元禄7年)5月、江戸を出て長崎に向かっていましたが、大阪に入って発病し、門人の看病にもかかわらず、ついに同年10月12日に一生を閉じました。

 俳人、加賀千代(かがのちよ、1703~1775)9月8日、73才、「月も見て 我はこの世を かしく哉(かな)」 (月も見たし、私はこのへんで、謹んでこの世から失礼いたします。) 秋も深まりつつある9月8日、病気と老衰が重なり、この句を詠み残して、福増屋の白烏、なを夫婦、孫、すへ女らに見守られて亡くなりました。

 禅僧、良寛(りょうかん、1758~1831)1月6日、74才、3句、「散る桜 残る桜も 散る桜」 「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉」(形見に何を残す必要がありましょうか。春は桜、夏はほととぎす、秋はもみじ、これらが私の形見だと思ってください。)彼の和歌の中に、「良寛に 辞世あるかと 人問はば なむあみだぶつ といふと答えよ」と詠われいて、私の辞世は「南無阿弥陀仏」と示し、浄土教にも深い信仰心を持っていました。

 文人、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、1765~1831)8月7日、68才、「此の世をば どりゃお暇(ひま)に せん香(こう)の 煙とともに 灰(はい)左様なら」 (さあ、この世を線香の煙と一緒に失礼しよう。では、はい(灰)さようなら。)滑稽本作者らしい、まことにおもしろい辞世の句です。

 禅僧、仙厓(せんがい、1750~1837)10月7日、88才、彼は正直に書く、「来時知来處 去時知去處 不撤手懸厓 雲深不知處」(この世に来た時に、どっちから来たか知っとらんしゃったこと、去る時にもどっちに行きんしゃあか分かるくさ。ばってん、今、崖(がけ)っぷちにぶらさがっとって、手ば放されんけん、雲が深うて、行き先がよう見えんばい。長性寺、野口氏訳)、「老師、そげな心細かごたあ遺偈やら、格好わるかばい」弟子がそう言ったかどうか、定かでない。しかし更に一言を求められた仙厓は、「死にとうもない」と答えたと言われています。(玄侑久:仙厓 無法の禅(23)、北陸中日新聞、2010年(平成22年)10月1日(金)、夕刊より)

○ 明治時代辞世は、

 俳人、正岡子規(まさおかしき、1867~1902)9月19日、35才、3句、「糸瓜(へちま)咲(さい)て 痰(たん)のつまりし 仏かな」 (庭で咲いている糸瓜の花を見ながら、痰をつまらせている私は、もはや、この世の人ではない。まるで仏のようだ。)「痰(たん)一斗 糸瓜(へちま)の水も 間にあはず」 「をとゝひの へちまの水も 取らざりき」 これら糸瓜を詠んだ句より、子規の忌日9月19日を糸瓜(へちま)忌と言い、また、雅号の一つから、獺祭(だっさい)忌とも言います。

(参考文献) 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.235、辞世の句(歌)いろいろ、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 宣田陽一郎編: 魂をゆさぶる 辞世の名句、成美堂出版(2009). 

(追加説明) ○ 辞世の名句 (宣田陽一郎編: 魂をゆさぶる 辞世の名句、成美堂出版(2009)、より) 

 平安時代  

 西行法師(さいぎょうほうし、73才) 願(ねが)はくは 花の下(もと)にて春死なむ そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ (死ぬときは、春、咲き誇るきれいな桜の下で死にたいものだ。如月(きさらぎ)の満月の頃に。)西行は、23歳のとき出家、26歳から諸国行脚50年、1190年(建久元年)2月16日に亡くなったという。この歌は、山家心中集(自選歌集、約600首)の中にあり、年齢的にも西行の辞世歌でなく、釈迦入涅槃の2月15日とは違うのではないかとも言われています。

 鎌倉時代 

 親鸞(しんらん、90才) 恋(こひ)しくば 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱(とな)ふべし 我(われ)も六字(ろくじ)の中にこそあれ (私は死ぬが、もし、私に会いたくなったら、南無阿弥陀仏と唱えなさい。私はこの言葉の中に生きているから。)

 室町時代 

 一休禅師(いっきゅうぜんじ、88才) 極楽(ごくらく)は 十万億土(じふまんおくど)とはるかなり とても行かれぬ わらじ一足 (極楽は十万億土も離れた遠い所だという。まったく遠すぎて、わらじ一足ではとても行けそうにない。) この世にて 慈悲も悪事もせぬ人は さぞや閻魔(えんま)も困りたまはん

 戦国時代 

 細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ、38才) 散(ち)りぬへき とき知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ (命あるものは、命が終わるときを知らなければならない。それでこそ、花は花として美しく輝き、 人は人になれるのだから。)

 江戸時代 

 小堀遠州(こぼりえんしゅう、69才) 昨日(きのふ)といひ 今日(けふ)と暮らしてなすことも なき身の夢(ゆめ)の さむるあけぼの (今までの人生と残した仕事さえ、亡くなって逝(ゆ)く自分には、曙(あけぼの)の中で はかなくさめていく 夢のような気がする。) 

 小林一茶(こばやしいっさ、65才) ああままよ 生きても亀の 百分の一 (鶴は千年、亀は万年という。しかし、自分のように気ままに生きても、人はせいぜい 亀の百分の一さ。)

 高杉晋作(たかすぎしんさく、29才) おもしろき こともなき世をおもしろく 住(す)みなすものは 心なりけり (この世は心の持ち次第だ。不満を言わずに気持ちを変えれば、世の中は面白く、楽しくなってくる。)

 明治時代 

 西郷隆盛(さいごうたかもり、51才) ふたつなき 道にこの身を捨小舟(すてこぶね) 波たたばとて 風吹かばとて (たったひとつの自分が信じる道に、身は小舟のように捨てよう、波風がたったときの備えとして。)

 昭和時代 

 宮沢賢治(みやざわけんじ、38才) 病(いたつき)のゆゑにも朽(く)ちぬ いのちなり 御法(みのり)に棄(す)てば うれしからまし (私は病気のために死んで逝(ゆ)くが、深く信じている法華経の世界に生きることができるので嬉(うれ)しい。) 臨終の床の中から父に残した言葉は、「法華経を一千部印刷して皆さんに配って下さい」だった。

○ 人の世 (柳澤桂子: いのちと放射能、ちくま文庫(2007)、より)

  私たちはこの広大な宇宙の一点に生きています。150億年という宇宙の歴史の一点に生きています。時間的空間的に宇宙というスケールで自分を見つめてみようではありませんか。この宇宙の中で、人間とは自分とはいったい何なのでしょう。40億年の生命の歴史の中で、私とはいったい何なのでしょう。人間はどこからきて、どこえいくのでしょう。

 1.1日1日をていねいに、心をこめて生きること 2.お互いの人間存在の尊厳をみとめ合って(できればいたわりと愛情をもって)生きること 3.それと自然との接触を怠らぬこと 

結局のところ人の世詩も幸せもこの他になく、それ以外はすべて空しいことにすぎないのではないかな。

 これは、医師であった細川宏((ほそかわひろし、1922~1967、46才、解剖学者、東大医学部教授)氏が、ガンで亡くなる28日前に書き残されたものです。これは、細川氏だけでなく、多くの宗教家や修行者や思索者や苦しみを生きぬいた人々が到達する共通の結論です。すべての欲を捨て去ったときに、人間は人間にとって一番大切なものが何であるかということを知るのです

○ 素顔を見つめる (樋口清之編:生活歳時記、p.328、遠藤周作(1923~1996,作家)、素顔を見つめる、ぐうたら生活入門、三宝出版(1994)、より) 

  諸君。諸君がもし生活に多少とも退屈し、おれはこのままでええんやろうかと、ふと思われることがあればーーー、いやいや、きっと、そう思われるにちがいない。ーーーー そう思われたならば、ワシは諸君に一つの場所に行ってみることをお奨めする。それは病院だ。ーーー、病院とは、生活のなかで他人にみせる仮面ばかりかむっているワシらが、遂に自分の素顔とむきあわねばならぬ場所だ。

 わしは長い間、病院生活をやっとったから、これだけは確実に言えるのだが、夕暮れに灯(ともしび)がうるむ病院の窓では社会の地位や仕事がなんであれ、自分の人生をじっとふりかえる人びとが住んでいる。病苦のおかげでみんな、そうせざるをえんのでなア。 ワシらの生活には仮面をぬいで、自分の素顔とみきあおうとする時はそうざらにない。いや、ひょっとすると、素顔をみることが怖(おそろ)しいのかもしれんなア。ーーー

○ 人生意気に感ず魏徴述懐詩、人生感意気、功名誰復論: http://3rd.geocities.jp/cgdxs125/index29.html) 人間は人の意気に感じて行動する。金銭や名誉は問題外であるということ意気とは、①きだて。心ばえ。きまえ。心もち。気性、②気力。気合。気概(困難にくじけない強い意気)。いきごみ。、③意気地(事を貫徹しようとする気力)のあること。心意気。(広辞苑より)

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