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2010年10月の11件の記事

2010年10月31日 (日)

秋の暮れ、白山(石川)の麓の柳原町(白山市)の里山、柳原の湧水、堂川のイワナ(岩魚)、とは(2010.10.31)

  白山市(はくさんし)は、2005年(平成17年)2月1日、1市2町5村(松任市・美川町・鶴来町・河内村・吉野谷村・鳥越村・尾口村・白峰村)が合併して誕生しました。

 石川県の南部に位置し、白山の麓から日本海に至る県内で最大の面積を誇り、人口でも金沢市(45万余)に次いで2番目(11万余)となっています。また、市域に沿うように県内最大の河川である手取川が流れ、河口から日本海へと注いでいます。白山市(ホームページ、石川県): http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/index.jsp

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柳原の里山(やなぎはらのさとやま、柳原町、白山市、石川県、2010年(平成22年)10月31日(日)、12時ごろ撮影)

 柳原町(石川郡鳥越村柳原、のち白山市柳原町)は、手取川支流の大日川、その支流の堂川の地域にあります。典型的な里山の過疎地(限界集落!)で、イネの刈り取りも終え、紅葉の季節を迎えようとしていました。

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柳原の湧水(やなぎはらのわきみず、大峰の麓の堂川沿い、柳原町、白山市、石川県)

 柳原町堂川の近くには、山の道路沿いに、水路の土管からすぐ前の堂川に流れ込んでいる湧水があります。水源は背後の白山系の大峰(標高453m)の麓から湧き出したもので、地域の人々の生活水として利用されています。昔は、山の水の通路があり、堂川にそのまま流れ落ちていたという。水質は、向かいの白山系の岳峰(標高505m)の麓から湧き出している地蔵(不動)さまの清水杉森地蔵水とも、杉森、鳥越、のち杉森町、白山市、石川県)と非常によく似ています。私はマイカーでここへ水汲みによく来ています。

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柳原の堂川のイワナ(岩魚)(手取川系大日川支流の堂川、柳原町、白山市、石川県)

 大峰の山の湧水が流れ込んでいる堂川には、季節の折々に小さなイワナ岩魚、稚魚が放流されている?)が群れをなして泳いでいる姿を見かけました。この近くのそば屋さん(登竜門・才次郎、五十谷、鳥越、のち五十谷町、白山市)では、イワナの塩焼きも名物料理の一つとなっています。私は、何度かここで手打ちのおろしそばと岩魚の塩焼きをおいしくいただいたことがあります。登竜門・才次郎(五十谷町、白山市、石川県): http://knaka5010.at.webry.info/200905/article_15.html. 追悼、登竜門才次郎(Yahoo! ブログ、まーがれっとの屋根裏部屋): http://blogs.yahoo.co.jp/margaret1go/25559727.html

 一般に、川魚は、アユ(鮎)より上流にヤマメ(山女)、さらに上流にイワナ(岩魚)が棲息しています。イワナ(岩魚)は、サケ科の魚で、冷寒な水を好み、一生淡水に留まる、アメマス(あめ鱒)の陸封された肉食種で、昆虫などを飛びついて食べ、時には蛇を捕らえて食うという。本州、四国、北海道の高さ1000mほどの山間渓流にも棲息しているという。イワナはヤマメと共に、谷川の釣の好対象となり、美味な川魚です。

(参考文献) 下中邦彦(編): 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994).

(参考資料) ○ 白山の恵み(白山商工会):http://hakusan-no-megumi.jp/

 白山(石川)のふもとに湧き出る名水、弘法池の水(釜清水)、白山霊水(白山比咩神社)、杉森地蔵水(杉森集落)と湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは: http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/96.html

2010年10月26日 (火)

晩秋、2010年10月中旬すぎ、わが家(桜田、金沢)から眺める犀川の天然アユの受精卵放流、琵琶湖(滋賀)の天然のコアユの放流、とは(2010.10.26)

  秋深し(あきふかし)は、10月の中旬、秋たけなわの頃のことです。日中は暖かいのですが、朝方は著しく気温が下がり、手足が寒かったりします。 秋深き 隣は何を する人ぞ 、これは芭蕉の有名な句です。 晩秋(ばんしゅう)は、寒露(かんろ、10月8日)から立冬(りっとう)の前日(11月6日)までのことです。、寒露とは、晩秋から初冬にかけて野草に宿る露のことです。

 アユ鮎、アイとも)は、アユ科の魚で、北海道南部から台湾、中国大陸、朝鮮に分布し、河川の上流、中流の瀬や淵(ふち)にすみ、各縄張り内の付着藻類を食べます。9~12月に、中流、下流の川底に産卵し、産卵後の親は死にますが、ふ化した稚魚は海に下り、プランクトンを食べて越冬します。翌春3~5月に川に上ります。解禁は多く6月1日からです。

○ 犀川(金沢、石川)の天然アユの受精卵放流

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天然アユの受精卵を付着させた木箱とシラサギ(犀川ぶち下流、桜田、金沢、石川、2010年(平成22年)10月26日撮影)

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天然アユの受精卵放流(犀川下流、アユの受精卵を付着させた木箱を沈める作業、玉鉾、金沢、石川、2010年(平成22年)10月19日、北陸中日新聞、朝刊より)

(解説) 金沢漁業協同組合は、犀川(さいがわ)に生息するアユを増やそうと、10月18日(月)、天然のアユの受精卵を金沢市内、桜田(さくらだ)の近く、玉鉾(たまぼこ)の犀川下流に沈める作業を行いました。

 組合員18人は、犀川で捕った産卵期のメス50匹を持ち寄り、腹部を押して約130グラム(約50万粒相当)の卵を搾(しぼ)り出し、オスの精子と混ぜました。受精卵は、樹皮製の網に塗り付け、木箱に固定して川に沈めました。

 八田伸一組合長は、「自然により近い状態で卵をかえらせ、地元で生まれ育った地アユを増やしていきたい」と話しています。受精卵は、2週間程度でふ化し、いったん日本海に出た跡、来年5月頃に遡上(そじょう)するという。

○ 琵琶湖(滋賀)の天然コアユの放流

 日本の川で普通に見られるケイソウ(珪藻)は約350種ほど、そのうちアユが生息できる程度のきれいな水域では、約280種ほどのケイソウがあるそうです。アユは、河底の礫石の表面に付着する藻類(藍藻、緑藻、珪藻など)を食(は)むなど、いわゆる、石垢(イシアカ)、コケを食むのですが、なわばりでその回数が多くなるほど、そこのコケは栄養価の高い藍藻(糸状藍藻)が増えていき、それを食べたアユはよく育つとのことです。

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石川千代松(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%8D%83%E4%BB%A3%E6%9D%BE

 日本各地の河川に放流されている琵琶湖のコアユは、陸封されたために成長が止まったもので、一般の河川に放流すれば大きく育つことを、石川千代松、1860年(安政7年)~1935年(昭和10年)、(東京帝国大学教授)は、1913年(大正2年)の春、琵琶湖のコアユを東京の多摩川上流の釜ガヶ淵に放流し、そこで夏に大きく育ったコアユを確かめ証明されました。下流に玉川上水取水場の羽村堰(せき)があり、魚類の遡上(そじょう)が遮断されていました。この学術研究により、日本各地で釣り用の稚魚のアユの放流事業が盛んとなり、今日に至っています。

 私は、1960年(昭和35年)頃、琵琶湖の近く、高島(岡、新旭、滋賀)の親戚(河原林頼雄様)のお宅に、おじゃましたことがあります。近くの琵琶湖に注ぐ小さな川(水路)の河底では、小鮎が真っ黒になるほど遡上していたのが強く印象に残っています。

(参考文献) 下中邦彦(編): 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); もりたなるお: 落鮎の秋、北陸中日新聞、夕刊、2006年(平成18年)9月27日(水). 

(参考資料) 石垢(イシアカ)の話(友釣酔狂夢譚、ホーム):http://www5e.biglobe.ne.jp/~tomozuri/isiaka.html; 

石川千代松像(彦根観光協会、滋賀): http://www.hikoneshi.com/sightseeing/?itemid=337; 

小鮎塚と石川千代松博士(小鮎釣り、滋賀): http://www012.upp.so-net.ne.jp/sawayaka/newpage093.html

アユ(鮎)の放流(友釣酔狂夢譚、ホーム):http://www5e.biglobe.ne.jp/~tomozuri/ayu3.html

2010年10月24日 (日)

日本の金属鉱山下のカドミウム汚染(農用地土壌、健康障害)、尾小屋鉱山(石川)、鉱毒耐性の藻、コケ、シダ(ヘビノネゴザ)の状態分析、尾小屋鉱毒の川に魚を戻そう、北陸地方の金属鉱山、とは(2010.10.24)

  1968年(昭和43年)5月、厚生省(のち厚生労働省)は、神通川流域(富山県)の農村で多発していたイタイイタイ病は、その上流の三井金属鉱業神岡鉱山(岐阜県)から流出したカドミウムが原因であると認めました。そして、カドミウムを含む用水や米、その他の農産物を常時飲食することにより、人体中にカドミウムが長年にわたって蓄積された結果起こる腎臓の慢性中毒症であることが明らかにされました。

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日本のカドミウムの農用地土壌汚染対策(農と環境と医療(北里大学学長室通信)、北里研究所、北里、神奈川、google画像)

(解説) 国がイタイイタイ病の原因をカドミウムと認めたことから、全国の金属鉱山下の河川流域、製錬所地域において、1ppm(ppmは百万分率)以上のカドミウムを含む玄米を生産する水田は、農用地土壌汚染防止法により、土地改良(客土など)の対象とされました。(カドミウムの農用地土壌汚染対策(農と環境と医療、北里大学学長室通信): http://www.kitasato-u.ac.jp/daigaku/noui/newsletter/noui_no47.html.)

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日本のカドミウム汚染地域と地域住民の健康障害(金沢医科大学公衆衛生学教室、内灘、石川、google画像)

(解説) 神通川流域(富山、神岡鉱山下)以外に、梯川流域(石川、尾小屋鉱山下)、市川流域(兵庫、生野銀山下)、小坂町地域(秋田、小坂鉱山下)、安中市地域(群馬、東邦亜鉛対州鉱山下、安中製錬所周辺)、巌原町佐須地域(長崎対馬、東邦亜鉛対州鉱山下、佐須川、椎根川水系域)などの地域において、潜在的な腎臓障害を持つ多くのイタイイタイ病患者が確認されました。(イタイイタイ病(イタイイタイ病の発見、金沢医科大学公衆衛生学教室ホームページ): http://www.kanazawa-med.ac.jp/~pubhealt/itaiitai/itai1.html.)

○ 尾小屋鉱山

 尾小屋鉱山(おごやこうざん)は、石川県小松市、加賀山地にある銅山です。小松の市街地から約13kmの山間、梯川(かけはしがわ)の支流鄕谷川(ごうたにがわ)の上流にある尾小屋町に着き、その裏山が尾小屋鉱山です。

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尾小屋鉱山(おごやこうざん、尾小屋、小松、石川)

(解説) 尾小屋鉱山(おごやこうざん)は、1682年(天和2年)頃に金山として始まり、銅鉱脈は、1678年(延宝6年)、加賀藩(5代)藩主、前田綱紀(まえだつなのり、1643~1724)の頃の発見と言われています。その採掘を手がけたのは、石黒源次(1783、天明3年)、山岸三郎兵衛(1879、明治12年)、吉田八百松外6名、元加賀藩家老、横山隆平と弟の隆興(1880、明治13年)、横山隆平、隆宝館尾小屋鉱山(1881年、明治14年)、日本鉱業株式会社尾小屋鉱山(1931,昭和6年)、北陸鉱山株式会社(日本鉱業系列新会社)(1962年、昭和37年)へと、時代の流れにより経営者が変わっています。

 そこでは、主として、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄鉄鉱などが採掘され、選鉱、製錬により、銅のほか亜鉛、鉛、硫化鉄、金、銀などを産出していました。しかし、産銅価格の低迷と鉱害の発生が原因で、1971年(昭和46年)12月、閉山やむなきにいたり、約300年の幕を閉じました。

○ 尾小屋鉱山下、郷谷川下流、梯川流域のカドミウム汚染

 尾小屋鉱山が、重金属鉱害発生源として注目されたのは、1970年(昭和45年)5月、尾小屋鉱山下の梯川(かけはしがわ)流域の農用地の産米から1.0ppm(ppmは百万分率、百万分の一という極めて少ない量)以上のカドミウムを含むものが多く検出され、また、梯川中部河川水から基準値(0.01ppm)を上まわる0.012ppmのカドミウムが検出されてからです。

 1972年(昭和47年)から名古屋鉱山保安監督部(のち中部近畿鉱山保安監督部)、日本鉱業(株)、北陸鉱山(株)、石川県、小松市による鉱害調査と鉱害防止が始まり、1977年(昭和52年)からカドミウム汚染田の客土による土地改良事業も着手され、1986年(昭和61年)には、その約半分の225ヘクタールが指定解除されました。

1992年(平成4年)、小松市のカドミウム汚染田や導水路で最後まで汚染地区として残っていた25.8ヘクタールが、石川県公害対策審議会土壌部会で指定解除となり、17年ぶりに全地区で汚染に終止符が打たれました。汚染指定は小松市の総水田面積の1割強に及び、地表約20cmの土を入れ替える(客土)大規模な工事が行われました。土を入れ替えた水田は山土などを入れたため赤色が目立つので観察田を設け土壌改良を続けるという。

○ 尾小屋鉱山下、郷谷川上流、梯川水系に生息する生物

 1971年(昭和46年)末閉山の尾小屋鉱山(小松、石川)では、主に黄銅鉱が採掘され、採鉱と選鉱に伴う鉱山廃水の汚染により、梯川(かけはしがわ)水系の郷谷川(ごうたにがわ)と梯川の一部を含む約16kmの水域には、生物はほとんど生存しなくなっていました。

 1997年(平成9年)頃、旧尾小屋(おごや)鉱山(小松、石川)下の梯川(かけはしがわ)の鉱毒汚染と水質浄化を河底の礫石に付着した藻類、特にケイソウ(珪藻)の分布状態を調べたことがあります。尾小屋鉱山近くの梯川の岸辺には、重金属耐性のコケ植物(ホンモンジゴケ、キヘチマゴケ)、シダ植物(ヘビノネゴザ)が群生しているのが見られました。

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郷谷川の岸辺のヘビノネゴザと河床の礫石の藻(梯川流域、尾小屋、小松、石川)

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ケイソウの顕微鏡写真(1~6 マガリケイソウ、 7~8 コバンケイソウ

(解説) 尾小屋鉱山に近づくほど藻類中の重金属濃度が高く、特に銅が多く検出され、また、銅、亜鉛、鉛、カドミウムなど鉱山から排出される重金属に耐性が強いとされるマガリケイソウ、コバンケイソウが上流ほど多く、ここでは魚は認められず、下流に行くに従って、この種が減少、他の種類が増える傾向が見られました。 一方、ごく普通の河川に見られるヒゲモが見られる下流方面では、アユやウグイなどの魚が生息するようになっていました。鄕谷川の岸辺には、シダ植物、ヘビノネゴザの群生が見られました。

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郷谷川の岸辺に群生するヘビノネゴザの根、葉柄、葉身などの組織中の銅、鉛、亜鉛及びカドミウム(ppm)の分布

(解説) 尾小屋鉱山下の梯川流域、郷谷川の岸辺に群生するヘビノネゴザのには、銅と鉛は主として根に、亜鉛は根から葉まで全身に、カドミウムは主として葉に取り込まれていることが分かりました。

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ルベアン酸とジチゾンで染色したヘビノネゴザの根の銅(左図)と亜鉛(右図)の分布の顕微鏡写真

(解説) このシダ植物の組織中の銅と亜鉛分布状態をミクロトームによる横断切片の有機試薬染色(銅はルベアン酸、亜鉛はジチゾン)ー顕微鏡観察(400倍)したところ、ヘビノネゴザの根は表皮でおおわれ、その内部に皮層と中心柱があり、中心柱ははっきりした内皮に囲まれた二原型の放射中心柱となっているが、横断切片は、ヘビノネゴザの皮層の細胞壁がルベアン酸で黒色に染色され、銅の大部分がそこに集積されていることが分かりました。一方、ヘビノネゴザの根の皮層の細胞壁と細胞内部、中心柱など組織細胞全体がジチゾンで赤色に染色され、亜鉛の大部分が組織全体に集積されていることが分かりました。

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毒の川に魚を戻そう 石川県小松市の郷谷川、 左 足尾鉱毒事件の渡良瀬川、2010年(平成22年)9月20日(月)、北陸中日新聞、朝刊、より)

(解説) 石川県小松市の尾小屋鉱山下、梯川支流、郷谷川では魚が思うように増えないが、一方、北関東(栃木、群馬県)の足尾銅山下、渡良瀬川ではサケが戻ってきたという。また、郷谷川の上流の抗廃水が流れ出る場所から約7km下流まで、魚はほとんどいないという。このことは、今も尾小屋鉱山の多量の銅、亜鉛などを含む酸性抗廃水が梯川水系の郷谷川にたれ流されている所が何ヶ所かある可能性が高く、近くに適切な大きさの溜池(沈殿池など)つくり、消石灰で中和し、特に銅などの重金属を沈殿除去して排出する必要があると思われます。

 私は、1982年(昭和57年)11月16日、里見信生先生(金沢大学生物学教室)のご案内で、ほかに教職員(2名、西川、高木)、学生(4名、八田、畠、?)と共に、はじめて、梯川流域の小松市出村の白山神社境内、その周辺のカドミウム汚染廃田、尾小屋鉱山周辺などを訪れ、そこで群落をなすシダ植物、ヘビノネゴザの重金属(銅、亜鉛、鉛、カドミウムなど)の取り込み状態について調査、研究したことがあります。その後も、、尾小屋鉱山による梯川流域の河川水、河底泥、川沿いの土壌、廃田などの重金属(銅、鉛、亜鉛、カドミウムなど)汚染と浄化の状態について調査、研究を続け、そこへは何回となく訪れました。

(参考文献) 里見信生: ヘビノネゴザと鉱山、北陸の植物、7巻、p.26(1958); 本浄、八田、西川、里見: 尾小屋鉱山による梯川重金属汚染流域に群落をなすシダ植物ヘビノネゴザの銅および亜鉛の集積について、植物地理・分類研究、32巻、p.158~160(1984); 本浄高治: 指標植物中の重金属の状態分析ー尾小屋鉱山による白山神社重金属汚染地域に群落をなすシダ植物ヘビノネゴザの銅と亜鉛の集積状態についてー、植物地理・分類研究、35巻、p.165~170(1987); 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.136~137、本浄高治、尾小屋鉱山ーカドミウム汚染ー、裳華房(1997); 中西、墨田、弓田、山田、本浄: 石川県尾小屋鉱山下の梯川及び鄕谷川における重金属汚染とその藻における状態(英文)、Anal.Sci.20巻、p.73~78(2004); 山田隆史、墨田迪彰、中西良明、本浄高治: 石川県旧銅山下の河川における付着珪藻群集の分布と化学種分析からみた重金属汚染状態、分析化学、53巻、p.883~889(2004). 

(参考資料) 尾小屋鉱山(日本の金属鉱山、持元宏編): http://www.miningjapan.org/idx/ogoya/index.html.

(追加説明、話題) 

 ヘビノネゴザと鉱山 石川県鶴来町の南方に現在黄銅鉱を採掘している中島鉱山がある。この附近の河原一帯にはヘビノネゴザが大群落をなしている。又、同じく石川県石川郡能美郡国府村の奥にある銅山(遊泉寺銅山!)でも同様の事実を見た。尾小屋鉱山でもそうだと言う。ヘビノネゴザが鉱山と関係ある事について古くは三宅驥一氏が、へびのねござト鉱質トノ関係(植物学雑誌、11巻、p.404(明治30年、1897)で論じておられるし、最近では山中二男氏の、鉱山地帯の研究(予報)、植物分類地理、15巻、p.199(昭和29,1954)に述べられている。(里見信生、北陸の植物、7巻、p.26(昭和33年、1958)、より)

 石川県の金属鉱山には、古くから、宝達金山、金平金銅山、倉谷金銀山、鞍ヶ嶽金山、白山金山、下白山金山、九谷金山、中島銅山、遊泉寺銅山、阿手銅山、尾小屋金銅山などが知られています。カドミウム汚染については、1975年(昭和45年)5月31日、中島銅山(鶴来、石川)による手取川水系の汚染、1985年(昭和60年)6月27日、阿手銅山(大日スキー場、鳥越、石川)による阿手川水系(阿手川上流の金山谷川)の汚染などが認められました。(北国新聞、朝刊より)

 遊泉寺銅山(ゆうせんじどうざん、鵜川町、小松、石川)は、1807年(文化4年)に創業し、藩政時代には加賀藩の有力な財源として栄えました。明治に入ると、吉田茂元首相の実兄である竹内明太郎氏が経営にあたり、機械化を進め、地下270mまで掘り下げ、大規模な採掘をしました。最盛期の1916~1917年(大正5~6年)の頃は月産約56トンを誇っていました。1916年(大正5年)、鉱山用機械を製作する小松鉄工所を興し、今日の大手建設メーカー・コマツの起源とされています。しかし、第1次世界大戦(1914~1918)終了と共に、銅山はすたれ、百年余の歴史を閉じました。(小松東部丘陵(21)、遊泉寺銅山、加賀藩の貴重な財源、1988年(昭和63年)2月22日(月)、北国新聞、朝刊より) コマツ発祥の地、遊泉寺銅山跡(小松だよ!全員集合!!、石川): http://repobitanw.web.fc2.com/page004.html. 遊泉寺銅山跡記念公園(ブナの中庭で、石川):http://blog.goo.ne.jp/repu/e/557b79332d8dde3f6b756ed6550ead85.

 1991年(平成3年)5月10日、小松鉄工所が分離独立してできた小松製作所は、創立70周年を記念して、発祥の地、小松市鵜川町で、遊泉寺銅山跡記念碑の除幕式を行いました。

 2010年(平成22年)、大手建機メーカー・コマツは、JR小松駅近くの小松工場を金沢港(金沢市大野町)近くの金沢工場に移転し、その跡地は、来年5月、研修センター、記念館、緑地公園などに整備されることになっています。また、関係者らによる遊泉寺銅山再生チームが発足、残っている銅山の展望台、高さ20mの煙突などを生かし、遊歩道を整備するなど、市の新たな観光名所として充実させる予定です。コマツKOMATSU、ホームページ): http://www.komatsu.co.jp/

 2017年(平成29年)7月4日、小松市の鉄工業繁栄を支えた遊泉寺銅山跡(同市鵜川町)を明治・大正時代の産業遺産として残すため、市や産業界、地元住民らは、「遊泉寺銅山跡整備事業実行委員会」を設立しました。

○ 福井県の金属鉱山については、面谷鉱山(おもだにこうざん、大野郡和泉村、1922年(大正11年)9月、完全閉山)は銅、中竜鉱山(なかたつこうざん、大野郡和泉村、1987年(昭和62年)10月16日、閉山、のちアドベンチャーランド中竜、2006年(平成18年)11月30日、営業終了)では亜鉛をおもに産出していました。そこの鉱山周辺では、いづれも、シダ植物、ヘビノネゴザの群生を確認しました。また、面谷鉱山の近くの川には、銅に耐性のあるマガリ珪藻しか生息していないことが分かりました。 面谷鉱山(大野市観光協会、福井);http://jigyo.h-onoya.co.jp/archives/718. 

○ 富山県の金属鉱山としては、古くから、松倉金山、虎谷金山、河原波金山(以上旧松倉村)、下田金山(げたきんざん、上市町)、吉野銀山(大沢野町)、亀谷銀山(おがいぎんざん、大山町)、長棟鉛山(なだとえんざん、大沢野町)などが知られていました。松倉金山: http://heartland.geocities.jp/matsukurajyou/mount/matukurakinzan/matukurakinzan.htm

○ 尾小屋地下実験施設(金沢大学環日本海域環境センター、低レベル放射能実験施設(LLRL)、尾小屋、小松、石川):http://llrl.ku-unet.ocn.ne.jp/

〇 尾小屋鉄道 復元へ  「ポッポ汽車」と親しまれ、かって尾小屋鉱山(石川県小松市)の鉱山鉄道として活躍した尾小屋鉄道。廃線から今年で40年。車両の修復や保管を担う有志グループが、大正時代から走っていた木造客車「ハフ1」のトタン張りの天井に隠れていた製造当時の木製天井を発見し、当初の姿に復元しようと奮闘している。製造から百年を来年に控え、「百歳の誕生日はきれいな姿で迎えてほしい」と7月中の完成を目指す。

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保存客車、1919年(大正8年)に開通、新小松から尾小屋間(16.8㎞)、尾小屋鉱山の鉱石や資材を輸送したほか、沿線住民の移動手段としても活躍。1977年(昭和52年)廃止されたが、線路幅が標準より狭い762ミリで、生活路線では国内最後の非電化軽便鉄道でした。

(北陸中日新聞(竹内なぎ): ポッポ汽車 誕生時の姿再び 小松 尾小屋鉄道復元へ 来年100歳 貴重な保存客車、2017年(平成29年)6月17日(土)より)

2010年10月21日 (木)

神岡鉱山(岐阜)にまつわる歴史実話、鉱石、イタイイタイ病(カドミウム汚染、神通川流域)、アユの味日本一(神通川、第1回全国利きアユ大会)、神岡鉱山(周辺の景色)、とは(2010.10.21)

   四日市ぜんそく(三重)、イタイイタイ病(富山)、阿賀野川水銀中毒(新潟水俣病とも、新潟)、水俣病(熊本)は、産業優先の高度成長末期、激しい健康被害を受けた被害者が損害賠償を請求した訴訟で、四大公害訴訟(よんだいこうがいそしょう)と呼ばれています。

 神岡(かみおか)は、岐阜県北部、吉城(よしき)郡(のち飛騨市)の町で、中心の船津は飛騨山地を流れる高原川流域にある鉱山集落で、銅、亜鉛、鉛、銀などを含む鉱石を多産する三井金属鉱業神岡鉱山(かみおかこうざん)の製錬所と社宅が集まっています。

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銅 鉛 亜鉛 鉱石(黄金色の鉱物は、黄銅鉱(CuFeS2)、鉛灰色は方鉛鉱(PbS)、黒褐色は閃亜鉛鉱(ZuS)、黄白色は黄鉄鋼(FeS2)、下の灰白色の部分は鉱化作用をまぬがれた晶質石灰岩、神岡鉱山 茂住抗(岐阜)産、神岡鉱山資料館蔵、google画像)

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鉛 亜鉛 鉱石(鉛灰色の鉱物は方鉛鉱(PbS)、黄褐色は閃亜鉛鉱(ZnS)、桃色の部分は菱マンガン鉱(MnCO3)で、金(Au)と銀(Ag)も含む、上国鉱山(北海道)産、神岡鉱山資料館蔵、google画像)  神岡鉱山資料館(バーチャルミュージアム、神岡町、吉城郡、のち飛騨市、岐阜県): http://dac.gijodai.ac.jp/vm/virtual_museum/database/page/H11-PCD2583-014.html

(解説) 神岡鉱山(かみおかこうざん)は、岐阜県神岡町にある日本最大の亜鉛、鉛、銅、銀の鉱山です。江戸時代から金森宗貞(かなもりむねさだ、のち打它宗貞、うたむそうてい、茂住宗貞、糸屋彦次郎とも)、1559(永禄2)~1643(寛永20)、が開き、採掘が進み、茂住(もずみ、神岡)などの鉱山も開き、金山奉行を務めました。1874年(明治7年)以降、三井鉱山三井グループによって近代的経営が始まりました。1986年(昭和61年)の合理化で三井金属鉱業から分離独立、神岡鉱業となり、 亜鉛鉱山として、亜鉛、鉛、銀、金の地金のほかに、金属粉の製造を行っていましたが、2001年(平成13年)、神岡鉱山鉱石採掘は中止となりました。

 カドミウム汚染は、亜鉛や銅の鉱山、製錬所から排出される有害金属カドミウムによる農地汚染(カドミウム汚染米!)のことで、イタイイタイ病の原因となりました。1ppm(ppmは百万分率、100万分の1という極めて少ない量)以上含有の玄米を生産する水田は、農用地土壌汚染防止法により土地改良の対象とされました。1997年(平成9年)末現在、水田からカドミウムを除去する対策を必要とする指定の農地は、富山県神通川流域や秋田県平鹿地方など全国57地域で6110haに上り、その内の6割弱が客土などの対策を完了しました。

○ イタイイタイ病(神通川流域、富山県)

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イタイイタイ病左図 カドミウム汚染程度別地域区分、右図 50歳以上女子人口に対するイタイイタイ病患者有病率、神通川流域、富山、google画像) イタイイタイ病(イタイイタイ病の発見、金沢医科大学公衆衛生学教室ホームページ): http://www.kanazawa-med.ac.jp/~pubhealt/itaiitai/itai1.html

(解説) イタイイタイ病は、富山県神通川流域の農村に多発し、大正年間(1912~1926)以来、中年婦人、特に頻回(ひんかい)経産婦に多く見られる骨軟化症様の病気で、四肢、骨盤、脊椎、肋膜に変形、萎縮、骨折を来たし、わずかな刺激で病的骨折が起こり、日夜苦痛を訴えました。カドミウムによる腎障害から、カルシウムの再吸収が妨げられて起こると考えられています。

 金属鉱山から流出したカドミウムが体内に蓄積して骨軟化症や腎臓障害を起す公害病で、全身に激痛を伴います。富山県神通川流域で発生したイタイイタイ病は、1955年(昭和30年)、その地域の萩野昇(はぎののぼる、1915~1990)開業医により発見され、1968年(昭和43年)5月、厚生省(のち厚生労働省)は、岐阜県三井金属鉱業神岡鉱山から流出したカドミウムが原因であると認めました。

 1967~1969年(昭和42~44年)に訴訟され、反公害世論の高まりを背景に、1971~1973年(昭和46~48年)の間、いずれも被害民が第1審で勝訴、確定しました。この裁判の過程で、企業と癒着(ゆちゃく)した行政の責任、また企業側証人としていたずらに論点をはぐらかし、原因究明を遅らせた科学者の責任が浮き彫りにされました。四大公害訴訟で確定した金銭賠償方式は、1973年(昭和48年)の公害健康被害補償法で制度化されましたが、賠償額の増大は、新たに認定問題を生みました。1997(平成9年)年末、現存認定患者は9人(総数156人)でした。

○ アユの味日本一(神通川、第1回 利きアユ全国大会)

 1999年(平成11年)9月4日(土)、イタイイタイ病で社会問題となった富山県の神通川流域の水質を河底の礫石に付着している藻類、特にケイソウの分布状態により調査したことがあります。その結果、神岡鉱山下の近くの神通川や下流では、一般に鉱山から重金属(銅、亜鉛、鉛、カドミウムなど)が排出された時に見られるマガリケイソウ、コバンケイソウなどの分布は観察されず、重金属による水質汚染は認められないことが分かりました。

 その日の朝日新聞の朝刊に、河川環境の指標となるアユを食べ比べて自然保護を考えよう(清流を復活させたい)と、高知県友釣連盟(内山顕一、代表理事長)が、9月3日、初の利きアユ全国大会を高知市内で開いたこと、四万十川はじめ、新潟や愛知、和歌山など10県の27河川からとれた約2500匹を、橋本大二郎知事ら約200人が食べ比べたこと、姿、香り、身など5項目で吟味、さらにアユの塩焼きなども食べた市民による人気投票もあり、最優秀に富山県の神通川のアユが選ばれた新聞を目にして驚き、その記事をスクラップして地元の方にお見せしたことがあります。 

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アユの味日本一神通川)、第1回 利きアユ全国大会、高知、1999年(平成11年)9月4日、朝日新聞朝刊、より)

(解説) 2008年(平成20年)11回までにグランプリをとったのは、神通川(富山)、高知県内の4河川(安田川は2回、野根川、松葉川、新庄川)、和良川(岐阜県)、宇佐川(山口県)、雫石川(岩手県)、寒河江川(山形県)、損保川(兵庫県)、長良川(岐阜県)で、気象条件なども含め、その年に最もアユに適した環境が保たれていた川のアユが一番おいしかったそうです。その後、2009年(平成21年)の第12回グランプリは、寒河江川(山形県)、揖保川(兵庫県)、2010年(平成22年)の第13回グランプリは、揖保川上流(兵庫県)のアユであったという。( 第13回 清流めぐり利き鮎会、2010年(平成22年)9月、高知): http://tollotjoe.livedoor.biz/archives/51624852.html#.)

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神岡鉱山(かみおかこうざん、神岡鉱山と製錬所、2004年(平成16年)9月25日(土)、調査、撮影)

 私は、1973年(昭和48年)7月19~23日、金沢大学理学部化学教室(木羽敏泰教授、寺田喜久雄助教授、松本健技官、飴野清研究生)と共に、神通川上流の高原川本流及び支流、梓川上流の上高地周辺、旧平金鉱山廃坑を中心とする小八賀川上流地域での河底泥(でい)採取の調査研究で、はじめて神岡鉱山を訪れ、また、神岡製錬所を見学させていただいたことがあります。その後、何回かマイカーでここを訪れたことがあります。

 神岡鉱山の山麓や製錬所、神通川周辺には、金属鉱山に特有のシダ植物、ヘビノネゴザの散生あるいは群生が見られましたが、そのヘビノネゴザの根には、土壌中の重金属量に比例して、多量の亜鉛、鉛、少量の銅などの重金属の蓄積が著しいことを確認しました。 

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 木羽敏泰、寺田喜久雄、本浄高治、松本健、飴野清: 濃度相関マトリスクによる河底でい試料の相関性の検討、分析化学、24巻、p.18~25(1975); 岐阜県高等学校教育研究会社会科部会(編集委員長、近藤晋潤)編: 岐阜県の歴史散歩、山川出版社(1990); 原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 金沢大学日本海域研究所報告、第30号、p.171~193、重金属と指標植物ー自然環境の回復-(1999);  朝日新聞(朝刊): きれいな川にはうまいアユ、高知で味比べ、1999年(平成11年)9月4日(土); 朝日新聞(朝刊): 味の決め手は川の環境? 日曜 ナントカ学2、2007年(平成19年)6月24日(日)、より.

(参考資料) 三井金属リサイクル株式会社神岡鉱業株式会社、産業廃棄物処理含む):http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/group/mkr/office.html

神岡鉱山(気ままに鉱山、炭坑めぐり、神岡(のち飛騨市)、岐阜): http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/kamioka01.html

イタイイタイ病(google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%97%85&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

鮎釣りWorld(富山県): http://turiworld.net/toyama.html; アユ)は、川魚の王として、万葉の昔から賞味(塩焼き、鮎ずしなど)されてきました。鮎には、独特の香味がある香魚とも言われ、また、その腸、子の塩漬け(うるか)は、珍味とされています。

スーパーカミオカンデ(東京大学宇宙線研究所、付属神岡宇宙素粒子研究施設装置、東茂住、神岡町、飛騨市、岐阜県): http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/location.html

2010年10月19日 (火)

足尾銅山(栃木)にまつわる歴史実話、日本の公害の原点(足尾銅山鉱毒事件)、鉱山廃水の浄水処理(中才浄水場、渡良瀬遊水池)、禿山の復元(植林と自然修復)、とは(2010.10.19)

  日本の代表的な4大銅鉱山といえば、足尾銅山(あしおどうざん、栃木)、日立鉱山(ひたちこうざん、茨城)、別子銅山(べっしどうざん、愛媛)、小坂鉱山(こさかこうざん、秋田)のことです。

 足尾銅山(足尾町、のち日光市、栃木)の鉱床の発見は、江戸時代、慶長年間(1596~1615)とされ、江戸幕府直轄(ちょっかつ)の鉱山となっていました。 明治時代、日本の産業資本の生成発展期にあたる1890~1907年頃に渡良瀬川沿岸の農地を荒廃させる足尾銅山鉱毒事件が起こりました。足尾銅山は、日本ではじめて公害が社会問題になった所として、日本の公害の原点と言われています。

○ 足尾山地

 足尾山地(あしおさんち)は、栃木と群馬の両県にまたがる山地です。大部分が秩父古生層からなり、主脈に地蔵岳(1274m)、根本岳(1197m)などがそびえ、多くの銅鉱床、マンガン鉱床があり、足尾銅山などで採掘されました。足尾の西部の円錐状の成層火山(せいそうかざん)である皇海山(すかいさん、2144m)、庚申山(こうしんざん、1901m)は、日光国立公園に属しています。

○ 足尾銅山

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足尾銅山(あしおどうざん、黄銅鉱(おうどうこう)と電解銅(でんかいどう)、足尾町(のち日光市)、栃木県) 2014年3月、石川県立自然史資料館へ寄贈

(解説) 足尾銅山(あしおどうざん)は、江戸時代、1610年(慶長15年)に発見され、銅山奉行が直轄、1661~1687年(寛文元年~貞享4年)最盛期を迎え、1684年(貞享元年)には、銅40万貫(1500トン、1貫は3.75キログラム)を産出しました。1877年(明治10年)、古河市兵衛(ふるかわいちべえ、1832~1903)が買収後、明治時代(1868~1912)の中後期には、近代的な採鉱、製錬法の採用により、生産量も急増し、国内銅生産量の40%以上を占め、1917年(大正6年)には1万7000トンの産銅量に達し、全国一の銅山となりました。しかし、銅山の急速な近代化が、足尾銅山の鉱毒事件(こうどくじけん)の原因となりました。

 1968年(昭和43年)頃は、古河工業が経営、月産銅量500トン、製錬量は輸入鉱、国内鉱を含め3000トンでした。一帯は荒涼とした銅山特有の景観を呈していました。1972年(昭和47年)、古河工業は、採掘条件の悪化と鉱害問題の再燃を理由に、足尾銅山の閉山(鉱山部廃止)を発表し、翌1973年(昭和48年)2月28日、足尾に銅山が発見されてから370年余、その長い歴史に終止符を打ちました。1877年(明治10年)、古河に経営が移ってから、1973年(昭和48年)の閉山までの96年間に掘られた坑道の長さは、1200kmで、東京から博多までの長さになるという。

 また、2005年(平成17年)より、栃木県日光市(旧足尾町)は、足尾銅山の世界遺産登録を目指して活動しています。しかし、足尾製錬所をはじめ施設群のいくつかは、20年間放置され、2010年(平成22年)6月、ほとんど解体されたという。 

○ 足尾銅山鉱毒事件

 足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、足尾銅山の製錬所から出る煙害(亜硫酸ガスなど)や山火事、製錬用薪炭作りの乱伐により、足尾山林の荒廃を招き、大洪水を頻発(ひんぱつ)させ、また、足尾銅山から流れ出た有害重金属(特に銅、亜鉛など)を含む酸性の廃水のたれ流しにより、群馬と栃木の両県にまたがって、渡良瀬川(わたらせがわ)沿岸に深刻な漁業被害、農地(桑畑)や農作物(稲作)の鉱毒被害が発生しました。

 特に、1890年(明治23年)の洪水による鉱毒被害の激化は、農民を鉱毒反対運動へと駆り立て、1896年(明治29年)の大洪水による被害拡大に伴い、それまでの地元からの数次の建議、上申にもかかわらず改善がみられなかったため、代議士、田中正造(たなかしょうぞう、1841~1913)の指導のもと、1897年(明治30年)、数千人の農民が政府に鉱業の停止を求める請願運動て大挙上京し、鉱毒問題は社会問題となりました。

 さらに、1900年(明治33年)、鉱毒悲歌を歌って大挙上京中、警官との衝突により大乱闘となり、68名が検挙され前橋監獄に収容されるという、川俣事件(かわまたじけん)が起こりました。1901年(明治34年)、田中は天皇に直訴、代議士を辞し、鉱毒問題を政治問題化させていきました。社会主義者やキリスト教徒らの支援があり、1902年(明治35年)には内閣に鉱毒調査会が設置され、予防工事が命じられましたが、十分な解決を見ませんでした。

 足尾銅山の鉱毒が社会問題化したのは、産業資本の生成発展期にあたる1890年頃から1907年頃までの間で、政府による鉱毒問題の治水問題への転換、1907年(明治40年)に谷中村(やなかむら)の廃村、遊水池化を経て、鉱毒問題は一応の解決を見ました。しかし、その後も鉱毒被害は続き、今なお足尾には禿山(はげやま)、下流に広大な渡良瀬遊水池(渡良瀬川下流、利根川水系、洪水防止の調整池!)を残しています。

 足尾鉱毒事件の発生後、運動の拠点となったのが、雲龍寺(うんりゅうじ、曹洞宗)で、現在は、足尾鉱毒事件の核心をなす寺として有名で、境内には田中正造の墓、救現堂、足尾鉱毒事件被告碑、歌碑などがあります。また、群馬県館林市の渡良瀬川近くにある足尾鉱毒事件田中正造記念館では、鉱毒事件や田中正造の関係資料を紹介しています。

○ 足尾銅山の廃水の浄水処理と渡良瀬遊水池

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中才浄水場(なかさいじょうすいじょう、足尾銅山からの汚染水を処理、日光市、栃木、google 画像) 中才浄水場(足尾銅山の世界遺産登録をめざして、日光市、栃木): http://www.nikko-ashio.jp/heritage/jousui/nakasaijousui.html

(解説) 足尾銅山は、1973年(昭和48年)に閉山された後も、足尾銅山から渡良瀬川に流れ出た重金属(特に銅、亜鉛など)を含む酸性水は、中才浄水場(なかさいじょうすいじょう)などで石灰による中和、重金属の沈殿、ろ過などの 処理が続けられており、洪水の調整池としての渡良瀬遊水池とあいまって、渡良瀬川の水質は改善されています。魚も徐々に戻り、館林市でも数年前からサケがよく見られるようになっているという。

 川に魚を回復させた鉱毒対策の事例では、岩手県八幡平市の松尾鉱山跡が知られています。鉱山跡から流れ出た強酸性水で魚がすまなくなっていた北上川は、バクテリアや石灰を使った中和処理施設が1982年(昭和57年)に完成したことにより、水質が改善され、今ではサケの遡上(そじょう)もみられるという。一方、源流に鉱山跡がある松川、百々川(須高、長野)と梯川の支流、鄕谷川(小松、石川)では、鉱害対策が不十分で、抜本的な対策が取られておらず、魚がほとんどいないという。

○ 足尾銅山の禿山の植林と自然修復

 日本の公害の原点、足尾銅山の下流域の鉱害事件は有名ですが、銅山の北側の上流は、製錬所からの煙害で今も荒廃地が残っています。

 国や県の予算で、荒れ果てた足尾銅山の植林として、1985年(昭和60年)頃、土と肥料と種が一緒に入っている「植生袋」を植え付け、山をもとの緑にする工事が進められました。

 禿山(はげやま)に少しでも緑を残そうと、NOP法人「足尾に緑を育てる会」が今年も一般の参加を募って植樹デーを、2010年(平成22年)4月24日、25日に開きました。この会は、1996年(平成8年)に発足、植樹は今年で15回目、総計10万本を超えそうだという。

 煙害が収まったのは排煙脱硫技術(亜硫酸ガスの除去)が実用化された1956年(昭和31年)で、この頃から治山事業が本格化し、約2500ヘクタールあった禿山(はげやま)は、一部で緑が戻ってきたが、それでも約半分は荒れたままだという。足尾の山が真に回復するには、さらに100年、200年かかるだろうが、長い目で活動を続けたいとのことです。

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足尾銅山(あしおどうざん、上 禿山(はげやま)、山麓のヘビノネゴザの大群落、山奥のリョウブ林、1988年(昭和63年)7月30日、調査、撮影、 下 河川の中州にはアシヨシとも)の群生、川岸にはススキの散生、2004年(平成16年)9月3日、撮影)

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(解説) 足尾銅山の自然修復として、特に足尾銅山周辺は、山麓からヘビノネゴザの大群落で覆われ、山奥に行くにつれてススキ、イタドリ、クズやササ、そしてウツギやリョウブの林へと続いて、人間社会の動きとは別に、自然が己(おの)が力で本来の植生を回復しようしている涙ぐましい姿が見られました。このような植生遷移は、尾小屋鉱山(石川)、別子銅山(愛媛)の山林でも見られました

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足尾銅山(銅、亜鉛汚染地域)、磐梯精錬所(カドミウム汚染地域)、多磨地域(非汚染地域)で生育しているヘビノネゴザとイタドリの根と葉の中の銅、亜鉛、カドミウム含量

(解説) 足尾銅山の山麓には、金属鉱山に特有のシダ植物、ヘビノネゴザの大群生が見られましたが、そのヘビノネゴザの根には、土壌中の重金属量に比例して、銅、亜鉛などの重金属の蓄積が著しいことを確認しました。一般に、ヘビノネゴザでは、銅と亜鉛は葉より根に、カドミウムは根より葉に多く取り込まれていましたが、イタドリでは、銅、亜鉛、カドミウム共に葉より根に多く取り込まれてていました。また、一般にヘビノネゴザとイタドリの組織中の細胞内部の細胞質よりも細胞壁に多量の銅、亜鉛、カドミウムが分布していました。

 また、足尾銅山で生育していた、ヘビノネゴザイタドリ、バッコウヤナギ、ヨモギ、ノガリヤス、リョウブなどの植 物は、いずれも体内(組織中)でメタロチオネイン(細胞質に取り込まれた重金属と結合、無毒化)を作る種類ばかりでした。このことは、重金属で汚染された土壌で生育可能な植物種は、このような特殊な蛋白質を合成できる種類(この特性は、遺伝子配列の変化で獲得、後天的)に限られると考えられます。 

 この重金属耐性の獲得の謎の解明は今後の課題です。というのも、重金属で汚染されていない地域で生育した同じ種の植物を汚染地に移植しても、全てが生育するわけでもなく、枯死するものも多く、また重金属の取り込みも必ずしも多くないからです。

 足尾銅山のヘビノネゴザには、根の細胞壁に90%(2899ppm)の銅(ペクチン酸錯体)を、また、細胞質に10%(325ppm)の銅(メタロチオネイン錯体)が取り込まれていることが報告されています。すなわち、ヘビノネゴザは、細胞壁の中に有毒な銅を閉じ込め、その毒性を軽減していると考えられます。また、生命の根源である細胞質に入っている銅は、ヘビノネゴザがメタロチオネインと呼ばれる蛋白質を作り、これが銅と結合して複核錯体の形で存在し、細胞液中に溶け出さないので、これが細胞液中の銅を無害にしてくれていると考えられています。 

 鉱山地帯では、ヘビノネゴザの群落状態は、金属鉱脈がどの方向に走っているかの目印にもなります。また、このシダは、4月頃に芽を出し11月頃には地上部の全てが枯れてしまう夏緑性のシダ植物ですが、土壌中の重金属は、その量(可吸態、根に取り込み得る化学形)に応じて、すき好むのではなく、受動的に体内に取り込みながら、繁茂と枯死を繰り返し、枯死してできた腐植酸は有毒な重金属を包み、無毒化し、重金属の周辺への拡散を防ぎながら、自然を回復させている姿にも見えます。 

 私は、1988年(昭和63年)7月29日(金)~31日(日)、里見信生先生(金沢大学理学部生物学教室)のご案内で、酒井雄一郎君(学生、4年生)と共に、マイカーで北陸自動車道、関越自動車道を走り、日光東大植物園、日光東照宮、足尾銅山、安中製錬所など、フィールド調査研究で、はじめてこれらの地域を訪ねました。そこでは、金属鉱山でよく目にする、シダ植物ヘビノネゴザが、いずれの所(園内、境内、山麓、周辺など)にも群生していたこと、また、足尾銅山の昔の坑道の中の人形を使った過酷な採掘作業の姿など、強く印象に残っています。その後、2004年(平成16年)9月3日、JR、上野、高崎、桐生(群馬)、足尾線(わたらせ渓谷鉄道)を利用して、16年ぶりに足尾銅山を訪れ、徐々に禿山の緑が回復していることを実感しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 本浄高治: 週刊朝日百科、植物の世界(朝日新聞社)、重金属と植物、汚染地の土壌改良者たち、p.13-316~13ー318(1996); 群馬県高等学校教育研究会歴史部会編: 群馬県の歴史散歩、p.70、足尾鉱毒事件と雲龍寺、山川出版社(1998); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 金沢大学日本海域研究所報告、第30号、p.171~193、重金属と指標植物ー自然環境の回復-(1999); 小出五郎: 足尾銅山400年ー産業遺産の保全、廃墟観光のススメー、化学と工業、Vol.63-7、July、p.549~550(2010); 朝日新聞(朝刊): 環境エコロジー、足尾銅山、山よみがえれ 市民の輪、2010年(平成22年)4月23日(金); 北陸中日新聞(朝刊): 鉱毒の川に魚を戻そう、足尾鉱毒事件の渡良瀬川、努力実りサケ帰る、2010年(平成22年)9月20日(月).

(参考資料) 足尾銅山(足尾銅山観光管理事務所、日光市、栃木): http://www.miharu-e.co.jp/ja7fyg/kouzan/asio/asio.html

渡良瀬遊水池(山とんぼ、栃木、群馬、茨城、埼玉): http://www.kimurass.co.jp/yusui.htm

足尾鉱毒事件田中正造記念館(NPO法人ホームページ): http://www.cnet-ga.ne.jp/syozou/index.html

(追加説明) ○ 本庫鉱山(北海道枝幸町)では、かって銅や亜鉛を掘り出していました。その山に分け入ると、ヨシなどの茂った湿地が突然現れます。生い茂ったヨシが鉄や亜鉛などの金属成分を吸収し、植物の細胞などの中に固定され、湿地内に蓄積され、鉱毒の浄化が行なわれています。

2010年10月15日 (金)

日本国名と貨幣にまつわる歴史伝承、国名の由来(大和、倭、日本など)、貨幣の単位(両、分、朱、貫、文、円、践など)、建国記念の日(2月11日)、とは(2010.10.15)

  日本(にほん、にっぽんとも)は、わが国の国号で、初代、神武天皇(じんむてんのう、生没年未詳)の建国の地とする大和(やまと)を国号とし、「やまと」、「おほやまと」と言い、古く中国では、「(わ)」と呼びました。大化改新の頃も、東方、すなわち日の本の意から「日本」と書いて、「やまと」と読み、奈良時代以降は、「にほん、または、にっぽん」と音読するようになりました。現在でも、日本の読み方については、法的な根拠はなく、どのように読んでも問題ないようです。

 貨幣(かへい)は、本来はそれ自身が交換されるものと等価の商品で、昔は貝殻、獣皮、宝石、布、農産物など、のち貨幣商品として最も適した金、銀のような貴金属、また銅などが次第に用いられるようになりました。江戸時代、金貨、銀貨などの鋳造、鑑定、発行は、江戸幕府直轄の、金座(きんざ)、銀座(ぎんざ)で行いました。

 中国では、おもに貨幣として銀貨を用いていたので、それを扱う金融機関を銀行(ぎんこう)と呼びました。中国の銀については、ポルトガルが、日本から安く買い入れた銀(石見銀山産など!)を中国に高く売りつけ、一方、中国から生糸、絹織物、金などを安く買い入れ、また日本に渡り、これらの品物を日本に高く売りつけ、銀を安く買い入れるなどの貿易により、大きな利益をあげました。

○ 日本の国名の由来

 飛鳥、白鳳時代(592~710)、701年(大宝元年)、「日本」という国号が、対外的な国号として定められました。そのことが、翌年施行された「大宝律令(たいほうりつりょう)」に、正式な国号として記録されています。

 古くは、「日本」は、「大八州(おおやしま)」、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」などの名で呼ばれていたことが、古事記と日本書紀に記録されています。その後、大和朝廷の勢力が広まるに伴い、大八州の政治的な中心地の地方名、「大和(やまと)」が、そのまま総名とされるに至りました。一方、中国ではわが国のことを、「(わ)」と呼んでいました。

 大宝律令にある「日本」は、はじめの頃は「やまと」とか「ひのもと」とか読まれていましたが、漢字の知識が広まっていくにつれて、字音で読むようになり、奈良時代(710~794)以降は、「にほむ」と発音されていました。室町時代(1338~1573)に入り、「にほむ」は、「にほん」あるいは「にっぽん」の読み方となり、これは東国的な発音の影響と言われています。

 昭和時代(1926~1989)初期以来、しばしば「にっぽん」という読み方に統一しようとする運動があり、1934高治年(昭和9年)、文部省の臨時国語調査会で「にっぽん」を正式名称とする決議がなされましたが、国家的制定まで至らず、今日に及んでいます。

○ 日本の貨幣の単位

 日本は、708年(和銅元年)、中国の貨幣をまねて、「和同開珎(わどうかいちん)と呼ばれる貨幣をつくりました。和同開珎には、の2種があり、銀1文(もん)が銅4文に相当し、この頃は、銅貨が銀貨より高かったらしい? とのことです。

 「(もん)」という通貨単位は、中国の重量単位から来ています。また、「(りょう)」という重さの単位も、中国では周(紀元前1046~256)の頃からありました。1両は10文にあたります。日本でも、平安時代(794~1192)、すでに砂金を紙に包んで、「金何両(きんなんりょう)」と目方を表示し、1両は12グラムほどでした。それゆえ、武田信玄(1521~1573、甲斐、山梨)の甲州金、豊臣秀吉(1537~1598)の天正大判、小判、徳川家康(1543~1616)など、正式の金貨が鋳造された時には、そのまま「」が貨幣の単位とされました。「両」の4分の1を「分(ぶ)」、そのまた4分の1を「朱(しゅ)」としました。また、「貫(かん)」は「分」と同じで、「文」の千分の1は、「貫」または「分」となります。

 明治時代(1868~1912)、1871年(明治4年)、新政府は、幕府の「両」をきらって「」という単位を決めました。財務担当参議、大隈重信(1838~1922、肥前、佐賀)が、欧米流に、金貨円形にすること(それまでの金貨、大判、小判などは楕円形でした)、十進法に改めることを主張しました。この時、大隈は、「元(げん)」という名を提案しましたが、衆議で「円(えん)」に修正したとも、彼自身が、「みんな指で輪(わ)を作って、金(かね)を表しているじゃないか」と衆議に押しつけたとも言われています。また、この時、「円」の百分の1を「践(せん)」としました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.87、「日本」という国名、p.201、貨幣の単位の歴史、三宝出版(1994).

(参考資料) 日本の国名の由来(黒門アカデミー): http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/nihon.htm

貨幣(通貨)の単位(コインの散歩道、しらかわただひこ): http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/A014.htm

(追加説明) ○ 神武天皇(じんむてんおう、生没年未詳)は、記紀伝承によれば、初代(第一代)の天皇で、名は神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と呼ばれています。伝承では、高天原(たかまがはら)から降臨(こうりん)した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫で、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと、彦火火出見尊、ひこほほでみのみこと、の子)の第4子で、母は玉依り姫命(たまよりひめのみこと、海神の娘)です。

 日向国(ひゅうがのくに、宮崎)の高千穂宮(たかちほのみや)を出て、瀬戸内海を経て、紀伊国(きいのくに、和歌山)に上陸、霊剣「韴霊(ふつのみたま)」と道案内の「八咫烏(やたがらす)」の導きで土豪(どごう)の長髄彦(ながすねびこ)らを平定して辛酉の年(かのとのとりのとし、前660年)大和国(やまとのくに、奈良)畝傍(うねび)の橿原宮(かしはらのみや)で即位したという。

 日本書紀の紀年に従って、明治以降、この年を紀元元年としました。畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)はその陵墓としています。

 ○ 建国記念の日(けんこくきねんおひ)は、国民の祝日の一つで、2月11日です。この日は、旧紀元節にあたり、1872年(明治5年)、神武天皇即位の日を設定して祝日としたもので、第2次大戦後に廃止されましたが、1966年(昭和41年)、「建国記念の日」という名で復活し、翌年から実施されました。

 現在世界的には、キリスト誕生の日を元年とする(紀元前4年を誕生ともいう)西暦紀元が使われていますが、日本では、1872年(明治5年)、神武天皇即位の年を西暦紀元前660年と定めて、これを皇紀元年(こうきがんねん)と呼びましたが、今は普通用いない。1940年(昭和15年)11月10日、紀元2600年記念式典挙行され、奉祝の提灯行列(ちょうちんぎょうれつ)、もち米の特配などがありました。

○ 四大節(しだいせつ)は、旧制の祝祭日とされた、三大節(さんだいせつ)の新年(しんねん、天皇の四方拝、1月1日)、紀元節(きげんせつ、神武天皇即位の日、2月11日)、天長節(天皇誕生の祝日)に、のちに明治節(明治天皇の誕生日、11月23日、、この日は国民の祝日の文化の日で、意義を異にしています)を加えた総称です。(広辞苑(岩波書店)、歴代天皇事典(PHP文庫)、より)

2010年10月14日 (木)

石見銀山(島根)と佐渡金銀山(新潟)にまつわる歴史伝承、ジパング(黄金の国、東方見聞録)、銀の国(石見銀山、世界遺産)、道遊の割戸(佐渡金山、相川、佐渡島)、とは(2010.10.14)

 ジパング(ジャパンの語源とも、日本)は、マルコ・ポーロ(1254~1324、イタリア)の「東方見聞録(とうほうけんぶんろく、1438~1485年頃出版」により、「黄金の国」として、ヨーロッパに紹介されました。ヨーロッパ人の中には、これを信ずる人々が多く、1492年、スペイン王室の援助により航海しアメリカ大陸を発見した、クリストファー・コロンブス(1451?~1506、イタリア)もその一人でした。

16世紀の中頃、室町時代の末頃に、初めて日本を訪れたヨーロッパ人たちは、そこが「黄金の国」にならずとも「銀の国」であることを知って驚きました。その頃の日本は、戦国時代の末期にあたり、諸大名はしきりに銀山石見銀山、佐渡金銀山、生野銀山などを発掘し、銀をたくわえました。やがて、豪華な桃山文化がこのような豊富な銀の力を背景として花開きました。

 ヨーロッパ諸国の中で、スペインはアメリカ大陸から銀をヨーロッパに運び、その銀をもってポルトガルがアジアに進出しました。ポルトガルは中国で生糸や絹織物、金などを買い入れ、日本に渡り、中国で仕入れたものを売りつけ、日本の銀を手に入れました。日本人は、海外の産品を欲しがったので、高く売れました。

 日本との貿易でポルトガルは、さらに銀の量をふやし、再び中国に渡り、この銀をもとでに大量の品を買って、ヨーロッパに帰りました。当時のポルトガルの繁栄には、日本の銀が大きく貢献しました。

 このような日本の銀の流出は、安土桃山時代から江戸時代(1573~1603)初期にかけて、年間10数万キロに達したといわれ、実に世界の産出銀の3分の1を占めました。

○ 石見銀山(島根県太田市の銀山、大森銀山とも)

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石見銀山(上 釜屋間歩付近、仙ノ山本谷地区にあるテラス状の巨大な岸壁遺構、左下に見えるのが釜屋間歩の入り口、 下 龍源寺間歩 銀山地区大谷にある抗口、抗口前の両脇にシダ植物ヘビノネゴザが繁茂しています、2010年4月1日撮影、大田市、島根、google画像) 世界遺産 石見銀山遺跡(大田市、島根): http://ginzan.city.ohda.lg.jp/

(解説) 石見銀山(いわみぎんざん)は、14世紀に発見、16世紀初頭、室町時代の末期、1526年(大永6年)、博多の豪商、神谷寿禎(かみやじゅてい、生没年不詳)が、海上からはるか南の山が輝くのを見て驚き、発見したとされています。寿禎は、出雲大社(いずもたいしゃ)近くの鷺(さぎ)銅山経営者、三島清右衛門(みしませいえもん)に相談し、3人の技術者を連れて探索し、銀鉱石を発掘したという。

 天文年間の灰吹法(はいふきほう、金や銀を含む鉱石を鉛と共に焼き、金や銀の鉛合金を作り、それに空気を吹き込み金属鉛を酸化鉛(灰)に変え、分離した金や銀を灰の中から取り出す方法)の導入により、当時の日本及び東アジアを代表する世界でも最大級の銀山へと発展しました。近世初期の銀山奉行、大久保長安(おおくぼながやす、ちょうあんとも、1545~1613)の時代に最盛期を迎えましたが、間もなく衰退しました。1923年(大正12年)休山となりました。その後、この灰吹き法は、石見銀山の技術者によって、佐渡金銀山、生野銀山の金、銀の精錬に伝えられました。

 また、当時守護大名として岩見を支配していた大内義興(おおうちよしおき、1477~1529)の支援を背景に、寿禎は銀山の開発を進めていきました。大内・尼子・毛利3氏が激しく争奪し、のち江戸幕府直轄となりました。江戸初期、1ヵ年の運上銀は3600貫、1640年(寛永17年)頃、最盛期人口10万人という盛況ぶりでしたが、18世紀には衰えました。

 江戸時代、「岩見銀山猫(ねこ)いらず」と呼ばれ、ヒ素系の殺鼠剤(さっそざい)は同銀山産のヒ石から製したと称され、「岩見銀山」は殺鼠剤の異称となりましたが、ヒ石産地には異説があります。

 石見銀山は、その発見から発展の時期と、日本経済の商業的な発展と重なり、岩見の銀は国内で流通したばかりでなく世界的にも有名になりました。16世紀後半からマカオを拠点に来日するようになったポルトガル人との活発な交易を支えました。貿易商たちは、銀の世界的な価格差を利用した仲介貿易で莫大(ばくだい)な利益を得ています。

 1549年(天文18年)、日本(鹿児島)に初めてキリスト教を伝えた、フランシスコ・ザビエル(1506~1552、スペイン)は、ジョアン・ロドリゲス(ツヅとも、1561?~1633、ポルトガル))神父に宛(あ)てた書簡のなかで、当時の日本を「銀の島」と紹介しています。17世紀初頭、日本の銀産量は年間200トンで、世界の銀産高の3分の1に達したとも言われています。石見銀は「佐摩銀」とも呼ばれ、この頃の文献では「ソーマ銀」という良質の日本銀として記載されています。

 石見銀山は、16世紀以降、約400年にわたり採掘が続いた鉱山跡や町並みが残る「核心地域(コアゾーン)」(約442ヘクタール)が、2007年(平成19年)に世界遺産に登録されました。

 私は、1989年(平成元年)6月、石見銀山の遺跡を訪ねたことがあります。大森代官所跡、昔の坑道の中の人形を使った過酷な採掘作業の姿が、強く印象に残っています。また石見銀山の近くには、金属鉱山に特有のシダ植物ヘビノネゴザの散生と群生が見られました。

(追加説明) 福石場の一般公開

 石見銀山は、2017年7月、世界遺産登録から10年目を迎え、その心臓部とされる採掘現場が初めて一般公開されます。16世紀の大航海時代、ヨーロッパまで名が届いたほどの産出量を支えた「福石場(ふくいしば)」です。地元ではボランティアガイドらが準備を進めています。「福石」とは白っぽい火山岩にできた銀鉱石の愛称。(2017年(平成29年)5月21日(日)朝日新聞より) 

石見銀山通信(石見銀山ガイドの会): http://iwami-gg.jugem.jp/?eid=2284

〇 佐渡渡金銀山(新潟県佐渡島内の相川町を中心とした金銀山の総称)

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佐渡金山(上 露天掘りの「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」、金鉱石(新生代の地層の石英脈)が掘り尽くされ、山頂から麓にかけて2つに断ち割られた奇観、2008年8月9日撮影、産業遺跡、訪問紀、相川、佐渡、新潟、google画像、 下 金銀鉱、 白い部分は石英、黒い筋が銀の硫化物で、その中に金の粒が含まれている、佐渡鉱山産、新潟)、 2014年3月、石川県立自然史資料館へ寄贈 佐渡金山(産業遺跡、訪問紀、未来航路): http://miraikoro.3.pro.tok2.com/travels/Niigata_Gunma/Sado_Tomioka02.htm#header

(解説) 佐渡金銀山(さどきんぎんざん)は、古くから西三川(にしみかわ)の砂金採取が行われましたが、1542年(天文11年)から鶴子銀山(つるしぎんざん)が開発され、1601年(慶長6年)に鶴子銀山の山師が相川金山を発見しました。相川金山は、1603年(慶長8年)に大久保長安(おおくぼながやす、ちょうあんとも、1545~1613)が佐渡奉行になるに及んで開発が進みました。大久保は、岩見銀山の灰吹き法の技術を佐渡金銀山の金銀精錬技術として導入し、佐渡金山を隆盛に導きました。

 この時期、精錬に水銀アマルガム法(金や銀を含む鉱石を細紛し、液体の水銀と振り混ぜてアマルガム(水銀合金)を作り、それを加熱して水銀を蒸発除去し、あとに残った金や銀を取り出す方法)が行われましたが、水銀の確保が困難で定着しなかったようです。鎮目惟明(しずめこれあき、1564~1627)が奉行の1620年(元和6年)代に最盛期を迎え、年平均6~9トンを産出したと推定されます。産金銀からは佐渡金銀と総称される小判や印銀も鋳造されました。

 17世紀中頃から不振となり、坑内湧水(こうないゆうすい)が多く、水替人足(みずかえにんそく)の確保にも苦悩して、幕末まで産出量は低迷し、次第に衰微してゆきました。18世紀には銅山の開発も進み、鋳銭も行われました。1869年(明治2年)官営となり、1896年(明治29年)三菱に払い下げられ、金銀量も増大しましたが、近年は月700トンほどを細々と掘り続けていました。が、鉱石の品質の低下と枯渇により、1989年(平成元年)3月末、388年の歴史を終え、休山となりました。それまでに掘り進んだ坑道の延長は、相川から東京までの距離にあたる約400キロですが、その大部分は水に没しているという。

 私は、1983年(昭和58年)10月、新潟港から高速船ジェットフォイルに1時間ほど乗船し、佐渡へ渡り、佐渡金銀山の遺跡を訪ねたことがあります。露天掘りの跡、道遊の割戸(どうゆうのわれど)、昔の坑道の中の人形を使った過酷な採掘作業の姿が、強く印象に残っています。また佐渡金山の近くには、金属鉱山に特有のシダ植物、ヘビノネゴザの散生と群生が見られました。また、そのヘビノネゴザの根には、土壌中の重金属量に比例して、銅、鉛、亜鉛などの蓄積が著しいことを確認しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.595、銀の国・日本、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 金沢大学日本海域研究所報告、第30号、p.171~193、重金属と指標植物ー自然環境の回復-(1999).

(参考資料) 石見銀山(日本の銀、シルバーアクセサリー、東京): http://www.silveracce365.com/japan-silver.html

佐渡金山(ゴールデン佐渡、相川、佐渡、新潟): http://www.sado-kinzan.com/

(追加説明) 山吹(やまぶき)は、①バラ科落葉低木、鮮黄色の五弁花、一重、八重。②山吹色の略。③(山吹色であるからいう)金貨。大判や小判。転じて、一般に金銭をいう。④昔の鉱山で採取した鉱石を溶かして、金・銀・銅などに分離すること。(広辞苑より)

2010年10月10日 (日)

四季折々の雲の形(春の霞・夏の雲の峰・秋の鰯雲・冬の凍雲など)、飛行機雲、地震雲、とは(2010.10.10)

   は、空気中の水分が凝結(ぎょうけつ)し、微小(びしょう)な水滴(すいてき)または氷晶(ひょうしょう、氷の微細な結晶)からできた雲粒(くもつぶ)が集まって、大気中に浮かんで見えるものです。水滴の場合、ふつう半径10ミクロン(0.000001メートル)程度のものが1立方センチに50~500個浮かんでいます。

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10種雲形(国際雲図帳(うんずちょう)、国際気象機関(WMO)、港区ポータルサイト、東京、google画像) 10種雲形(自然人.net、金沢、石川): http://shizenjin.net/guide/cloud/

(解説) 国際的に定められた最も基本的な10種雲形(じっしゅうんけい)は、雲の形を幕状(まくじょう)と団塊状(だんかいじょう)に分類し、次に雲の出現する高さ、雲粒が水滴か氷晶かによって10の雲形(絹雲、絹積雲、絹層雲、高積雲、高層雲、層積雲、層雲、乱層雲、積雲、積乱雲)に分類したものです。

 の成因となる上昇気流には、温暖前線、寒冷前線、低気圧に伴う大規模な暖気上昇、台風や雷雲などで見られる垂直な熱上昇気流、山を吹き上る風、上空の気流波に伴う小規模な上昇気流などがあり、それぞれの場合に生じる特有の雲形(うんけい、国際雲級図の十種雲形)や低気圧や前線など伴われた雲の分布の雲系(うんけい、気象衛星から撮影)を観測し、大気の動きを予測することができます。

○ 春の雲

 霞(かすみ)は、春になると、空の色、野づら、山谷(さんや)など遠くのものがかすんで見え、横に筋(すじ)を引いたようにたなびく霞が生じます。薄い層雲、もや、煙霧(えんむ)を通して見た場合は、春霞(はるがすみ)と呼び、春は霞(かすみ)、秋は霧(きり)といって、その感じを区別しています。霞の夜は朧(おぼろ)という。霧といえば、目の前に深く立ちこめます。が、霞は遠く微(かす)かなもの、ほのかなやさしい感じのもので、気温の逆転層の存在が関係しています。

○ 夏の雲

 雲の(くものみね)といえば、夏の積乱雲のことです。入道雲、積乱雲、雷雲、峰雲ともいう。垂直に天高く延びた濃い雲で、巨大な塔や山の形をしているので、これらの名があります。日射の強い時に激しい上昇気流によって生じます。この雲は水滴と氷晶からできていて、雷電、しゅう雨、突風などを伴うことが多い。

○ 秋の雲

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鰯雲(いわしぐも、長浜、滋賀、材信工務店運営スタッフ、2007年(平成19年)11月7日(水)、google画像、http://www.novelog.jp/novelog/2007/11/1223_7f23.html#tp.)

(解説) 鰯雲(いわしぐも)は、巻積雲(天高く、高度約7000m!)の俗称です。雲の広がりは小さいことが多いのですが、一端が水平線まで延びていることも、また空一面に広がっていることもあります。さざ波に似たもの、魚のうろこのように見えるもの(うろこ雲)、鯖(さば)の斑紋のようなもの(鯖雲)もあります。この鰯雲が出ると鰯が集まると言われています。

○ 冬の雲

 冬の雲(ふゆのくも)については、冬はどんよりと雲が垂(た)れこめた曇り日が多く、陰うつですが、晴れた日に空を半ば閉ざしたような雲は、色といい姿といい実に美しいものです。寒い空にじっと凍ったように動かずにいる雲のことを凍雲(いてぐも)という。寒雲(かんうん)、冬雲と呼ぶこともあります。

○ 飛行機雲

 飛行機雲(ひこうきぐも)は、大気中の温度が低く湿気の多いところを飛行機が飛ぶと、その航跡に尾を引くようにできる人工雲です。おもにジェット機などのエンジンから出る排気ガス中の水分により発生します。

(追加説明)

 雷雲からガンマ線 なぜ出る?

 雷雲の中では、宇宙線によって電子がはじき出されます。この電子が雷雲の電場によって光速近くまで加速され、窒素分子などに衝突してガンマ線が出ます。(朝日新聞:2017.9.14、朝刊)

2010年10月 7日 (木)

秋の七草(万葉集)にまつわる歴史伝承、春の七草との違い、米国に帰化したクズ(葛)、とは(2010.10.7)

  奈良時代、秋の七草は、山上憶良(やまのうえのおくら、660~733)が、万葉集(巻8)で、「秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数(かぞ)ふれば 七草(ななくさ)の花」と詠み、これに続く、「萩(はぎ)の花 尾花(おばな) 葛花(くずばな) 撫子(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし) また藤袴(ぶじばかま) 朝顔(あさがお)の花」という歌が、昔から人々によく知られています。

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秋の七草(右上から  ヤマハギ、ススキ、クズ、 左上から カワラナデシコ、フジバカマ、オミナエシ、キキョウ、田中修著、雑草のはなし、口絵、p.22~23、秋の七草、中公新書(2007)、より)

(解説) ここで詠まれた萩はヤマハギ、雄花はススキ、なお、現代では、朝顔のかわりにキキョウをあてています。秋の七草は、川辺に多いクズ(マメ科)とフジバカマ(キク科)を除き、ハギ(マメ科)、ススキ(イネ科)、、ナデシコ(ナデシコ科)、オミナエシ(オミナエシ科)、キキョウ(キキョウ科)などの5種は、草原に生える植物です。秋の七草は、春の七草に比べ、影が薄く、実態としても各地から姿を消しつつあるという。それは、草原が土地開発そのもので失われたほか、近年は、放牧や草刈り(年4,5回は必要!)が減り、林へと植生遷移を起こしていることに起因しているという。(北陸中日新聞: 秋の七草影薄く、2010年(平成22年)9月27日(月)、朝刊、より)

 春の七草は、「芹(せり)、なずな、御形(ごぎょう)、はこべら、仏(ほとけ)の座、すずな、すずしろ、これや七草」と詠まれていますが、この呼び方は古語で、なずなはぺんぺん草、御形(ごぎょう)は母子草(ははこぐさ)、はこべらははこべ、仏の座はたびらこ、すずなはかぶ、すずしろはだいこんのことです。七草(ななくさ、七草の節句の略)は、これらを食用として、1月7日の朝、七草の入った粥(かゆ)を食べ、邪気を払い、長寿と幸福を祈りました。現代の生活では、芹(せり)、すずな、すずしろ以外の七草もそう簡単に手に入らなくなり、七草の行事もほとんど行われなくなっています。

 秋の七草は、見て楽しむものであり、これに伴う習俗も七種の花をいっしょに神にささげるというような行事は少なく、一つ一つの花が別々の神の祭祀(さいし)に関係をもっています。たとえば、ススキ(尾花)は月見の行事と関係しています。また、ナデシコ(撫子)はトコナツともいい、はやり正月といって、不幸の多い年は、夏にもう一度正月をする風習があり、その時この花を飾って祝うことがあったという。

○ ハギ(萩)は、マメ科の落葉低木の植物で、根には根粒菌(こんりゅうきん)が住み、空気中の窒素を取り込むので、痩(や)せた土地でもよく育ち、古くから日本各地に自生しています。ハギの仲間の植物には、ミヤギノハギ、シラハギ、マルバハギ、ヤマハギなどの種があり、秋に七草に出てくるヤマハギは、背丈が1~3mにも成長し、葉は1~2cmの卵形か楕円形で、3枚の小葉に分かれています。夏から秋に、チョウチョのような形の紅紫色の花を咲かせます。花は、朝に開き夕方に閉じます。

○ ススキ(尾花)は、イネ科の多年草の植物で、日本各地の草原、荒地、道端などに自生しています。茎の上部で、多数の枝に分かれます。枝には、すき間なく小穂が密生しています。秋には、背丈が1~2mにも育ち、穂をつけ、中秋の名月に月見だんごと並んだ姿は秋を象徴しています。風になびく穂が、けものの尾に見えることから、あきの七草では、尾花と言われています。昔は、ススキを刈って屋根を葺き、かやぶきの屋根にしたので、ススキのことをカヤと呼ぶこともあります。

○ クズ(葛)は、マメ科の多年草の植物で、日本各地に分布し、道端、草やぶ、川の土手など草や木がある日当たりのよいところなら、どこにでも生えます。葉の脇から伸びた花柄(かへい)に多数の花が房状につきます。花弁は濃赤紫色です。

 クズ(葛)の根は、直径10~20cmの塊根で、ここに多くの栄養が蓄えられていいます。 根にあるデンプンは、食用となり、葛湯(くずゆ)、葛餅、葛まんじゅう、葛切り、肉や魚のあんかけや吸い物に使われる葛粉です。葛粉の最高級品は、吉野(よしの、奈良)で産する吉野葛です。クズという名も、クズの産地、国栖(くず、吉野、奈良)の地名に由来すると言われています。宝達葛(ほうたつくず、能登、石川)の作業は、11月から4月にかけての冬期にあり、葛根の粉砕、冷水でのあく抜き、葛根汁の抽出、水さらし法(デンプン粒が不溶性であることを利用)によるデンプンの精製、乾燥などの操作があります。

 クズ(葛)は薬効にも優れていて、お腹(なか)をこわしたり、風邪を引いたときに、葛湯を飲むとよく効きます。根を煎じたものは、葛根湯(かっこんとう)として、風邪による発汗、解熱(げねつ)によく効く漢方薬として使われています。葛根湯のエキスは、痛みや炎症を抑える作用も知られています。

 クズ(葛)は、1876年(明治9年)、建国100年記念の博覧会に観賞用として、はじめて米国に持ち込まれ、飼料用や緑化用の植物として広がりました。また、その力強い繁殖力を利用し、堤防などの決壊を防ぐ土壌保全の植物として、米国に持ち込まれました。ところが、今では大繁茂して嫌われものの「帰化植物」となっています。米国では「Kudzu vine」と呼ばれています。vineはツルであり、さしずめクズカズラです。また、ハハコグサ(母子草、御形、春の七草の一つ!)、トキワカゼなども北米に帰化し、すでに野生化しているという。

○ ナデシコ(撫子)は、ナデシコ科の多年草の植物で、花期は7~10月、高さ30cm~1mで、山野の日当たりのいい草地や川原などに生えています。昔は川原にも自生していました。花は美しく、直径4~5cmの大きさで花びらは裂けています。草姿は可憐で、子のように撫(な)でたい草なので、カワラナデシコ(河原撫子)と呼ばれています。

○ オミナエシ(女郎花)は、オミナエシ科の多年草の植物で、花期は 8~10月、高さは50cm~1mで、日本各地に分布し、野山の草むらや土手に自生しています。山地や丘陵の日当たりのいい草原で見かけます。茎の上部で、枝分かれした先に小さな黄色い花が多数集まっています。葉は茎に対生し葉は羽状の切れ込みがあります。

 フジバカマ(藤袴)は、キク科の多年草の植物で、花期は8~9月、高さは40cm~1mで、奈良時代かそれ以前に、中国から香草として渡来してきた草です。葉を半乾きにすると、桜餅をつつむ桜の葉の香りがします。関東以西の本州、四国、九州に分布し、人里近くの川原の土手などに自生しています。太い根茎を持ち、洪水で他種が流される中でも自生地を確保してきました。茎は枝を分け、小さな花(頭花)を多数咲かせます。花をつけた柄がまとまり、傘形に見えます。護岸工事など河川開発で好条件を失い、環境省レッドデータブックで準絶滅危惧(きぐ)種に指定されています。

○ キキョウ(桔梗)は、キキョウ科の多年草の植物で、花期は7~9月、北海道、本州、四国、九州に分布し、山地や丘陵の草原に自生しています。青紫色の花は先が6裂した鐘形で、茎先に咲きます。葉は茎に互生しています。キキョウの根は、毒虫治療、胃腸薬、中耳炎の薬、痰切り剤などに使われています。園芸用採取や土地開発などで、絶滅危惧種に指定されています。

(参考文献) 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.539、秋の七草、三宝出版(1994); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、板垣英治、p.150~151,宝達葛、裳華房(1997); 高橋勝雄(写真、解説): 野草の名前(夏、秋と冬)、山と渓谷社(2003); 田中修: 雑草のはなし、見つけ方、たのしみ方、中公新書(2007).

(参考資料) 秋の七草(画像検索、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%A7%8B%E3%81%AE%E4%B8%83%E8%8D%89&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=0VusTOe0IIvBcYS42cgE&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=6&ved=0CDkQsAQwBQ

2010年10月 4日 (月)

辞世にまつわる歴史逸話、昔の有名人(武将・禅僧・俳人・文人・本因坊など)の死生観(辞世の句と偈頌)、とは(2010.10.4)

   辞世(じせい)とは、広辞苑によれば、この世に別れを告げること、死ぬこと、また、死に際に残す偈頌(げじゅ、遺喝、ゆいげとも)、詩歌、辞世の句などのことです。日本人で名のある人は、自分の死に際し、辞世の句を詠むのをならいとしました。この風習が盛んになったのは源平時代と言われています。いつの頃からか心に残るものがいくつかあります。

○ 平安時代から鎌倉時代、室町時代の頃の辞世は、

 僧、真言宗開祖、海(774~835)3月21日、62才、832年(天長9年)に高野山の万灯会で「虚空(こくう)尽き、衆生(しゅじょう)尽き、涅槃(ねはん)尽きなば、我(わ)が願いも尽きん」と大誓願を立て、示寂。 921年(延喜21年)、諡号(しごう)弘法大師。 高野山、奥の院の空海廟、「この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける」 そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。 このことにより、弘法大師信仰が1200年を経た今日まで続いています。

 また、秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)、序詩には、「ーーー生まれ生まれ生まれ生まれて 生(しょう)の始めに暗く 死に死に死に死んで 死の終わりに冥(くら)し」 生がどこから始まりどこで終わるのか、答えられないでいるのだ。だからこそ、その刹那(せつな)をどう生きるのか(過去や将来を考えず、一瞬一瞬を大切に生きれば足りるとする!)、そのことが重要な課題となるのだ、と空海はいう。

 武将、薩摩守忠度(さつまのかみただのり、平忠度、清盛の末弟、1144~1184)2月7日、41才、「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを むかしながらの 山桜かな」 平家物語、都落の際、師の藤原俊成(1114~1204)に詠草を託しました。のち、一の谷合戦で岡部忠澄(?~1197)に討たれました。

 文人、吉田兼好(1283?~1352以降?)、70才?、随筆、徒然草(つれづれぐさ)、第七段の中で、「もしもあだし野の露(つゆ)の消える時がなく、鳥部山(とりべやま)の煙(けむり)が立ち去ることがないふうに、人の命がいつまでも此(こ)の世に住み長らえるのがあたりまえであるなら、いかにも趣(おもむき)が無(な)くてつまらない、世の中は定め無(な)きことこそ妙味(みょうみ)がある。ーーー」 徒然草の中心思想は、無常観(むじょうかん)であると言われています。兼好は、平常心で無常と対座し、人の命も人の世も、はかないからこそ生きる価値があり、一瞬一瞬を大切にして生きるべきだと説きました。

 兼好の辞世の句は、かへり来(こ)ぬ 別れをさてもなげくかな 西にとかつは 祈るものから (自分は世を去るが、それはやはり悲しいことだ。ただ西方浄土に行けるよう、祈りはするけど。)

○ 戦国時代(安土桃山時代)から江戸時代初期の頃の辞世は、

 武将、本多忠勝(ほんだただかつ、1548~1610)12月3日、63才、彼は死に際して息子たちから遺言をきかれ、ただ一言「死にたくない」と言いました。意外に思った息子が、「始めあれば終わりあるのがこの世のならい」と諫(いさ)めますと、忠勝は辞世を一句「死にともな まだ死にともな 死にともな 御恩を受けし 君を思えば」と詠みました。

 武将、織田信長(おだのぶなが、1534~1582)6月2日、49才、彼が好んだとされる「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内(うち)をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり 一度(ひとたび)生(しょう)を得て 滅(めつ)せぬ者のあるべきか」(人間にとっての50年は、神が住む天の時間に比べれば一瞬のことにすぎない。この世に生まれた者は必ず滅びるのだから。)は、幸若舞(こうわかまい)「敦盛」の一節です。

 武将、豊臣秀吉(とよとみひでよし、1537~1598)8月18日、62才、、「つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ」(人の一生などは、すぐ消える露のようにはかないものだ。大坂城を作り、栄華を極めたように思われているが、夢でしかない。) わが身(わかみ)を露(つゆ)になぞらえるのは、鎌倉以来の古典的な無常観、さらに、自分が最終的なよりどころとしていた難波(なにわ)を、「ゆめのまたゆめ」とすることによって、秀吉が、心の底では無常を痛切に感じていたことを示しています。

 武将、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)4月17日、75才、、「嬉(うれ)しやと 二度さめて一眠り うき世の夢は 暁(あかつき)の夢」 (お終いと目を閉じたが、嬉しいことにまた二度も目覚めた。一眠りしょう。この世のことは暁の空のようにひと時のことだ。)「先に行く あとに残るも同じこと 連(つ)れて行けぬを 別(わかれ)とぞ思ふ」 家康の家訓によれば、「人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くが如(ごと)し 急ぐべからず ーーー」という。

 初代本因坊、碁の名手、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ、1559~1623)5月16日、65才、「碁(ご)なりせば 劫(こう)を打ちても活(い)くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」 1623年(元和9年)5月16日示寂、法名日海上人。碁では、死(しに)石も劫(こう)の手段により活(い)かすことができるが、人の死については、手の打ちようがないという。

○ 江戸時代中期から後期の辞世は、

 俳人、松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694)10月12日、51才、「旅に病(や)んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」(旅の途中で重い病気にかかってしまった。寝ていて、夢で野原を駆け回るのだが、野原は枯野で、今の自分の人生のようだ。)1694年(元禄7年)5月、江戸を出て長崎に向かっていましたが、大阪に入って発病し、門人の看病にもかかわらず、ついに同年10月12日に一生を閉じました。

 俳人、加賀千代(かがのちよ、1703~1775)9月8日、73才、「月も見て 我はこの世を かしく哉(かな)」 (月も見たし、私はこのへんで、謹んでこの世から失礼いたします。) 秋も深まりつつある9月8日、病気と老衰が重なり、この句を詠み残して、福増屋の白烏、なを夫婦、孫、すへ女らに見守られて亡くなりました。

 禅僧、良寛(りょうかん、1758~1831)1月6日、74才、3句、「散る桜 残る桜も 散る桜」 「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉」(形見に何を残す必要がありましょうか。春は桜、夏はほととぎす、秋はもみじ、これらが私の形見だと思ってください。)彼の和歌の中に、「良寛に 辞世あるかと 人問はば なむあみだぶつ といふと答えよ」と詠われいて、私の辞世は「南無阿弥陀仏」と示し、浄土教にも深い信仰心を持っていました。

 文人、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、1765~1831)8月7日、68才、「此の世をば どりゃお暇(ひま)に せん香(こう)の 煙とともに 灰(はい)左様なら」 (さあ、この世を線香の煙と一緒に失礼しよう。では、はい(灰)さようなら。)滑稽本作者らしい、まことにおもしろい辞世の句です。

 禅僧、仙厓(せんがい、1750~1837)10月7日、88才、彼は正直に書く、「来時知来處 去時知去處 不撤手懸厓 雲深不知處」(この世に来た時に、どっちから来たか知っとらんしゃったこと、去る時にもどっちに行きんしゃあか分かるくさ。ばってん、今、崖(がけ)っぷちにぶらさがっとって、手ば放されんけん、雲が深うて、行き先がよう見えんばい。長性寺、野口氏訳)、「老師、そげな心細かごたあ遺偈やら、格好わるかばい」弟子がそう言ったかどうか、定かでない。しかし更に一言を求められた仙厓は、「死にとうもない」と答えたと言われています。(玄侑久:仙厓 無法の禅(23)、北陸中日新聞、2010年(平成22年)10月1日(金)、夕刊より)

○ 明治時代辞世は、

 俳人、正岡子規(まさおかしき、1867~1902)9月19日、35才、3句、「糸瓜(へちま)咲(さい)て 痰(たん)のつまりし 仏かな」 (庭で咲いている糸瓜の花を見ながら、痰をつまらせている私は、もはや、この世の人ではない。まるで仏のようだ。)「痰(たん)一斗 糸瓜(へちま)の水も 間にあはず」 「をとゝひの へちまの水も 取らざりき」 これら糸瓜を詠んだ句より、子規の忌日9月19日を糸瓜(へちま)忌と言い、また、雅号の一つから、獺祭(だっさい)忌とも言います。

(参考文献) 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.235、辞世の句(歌)いろいろ、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 宣田陽一郎編: 魂をゆさぶる 辞世の名句、成美堂出版(2009). 

(追加説明) ○ 辞世の名句 (宣田陽一郎編: 魂をゆさぶる 辞世の名句、成美堂出版(2009)、より) 

 平安時代  

 西行法師(さいぎょうほうし、73才) 願(ねが)はくは 花の下(もと)にて春死なむ そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ (死ぬときは、春、咲き誇るきれいな桜の下で死にたいものだ。如月(きさらぎ)の満月の頃に。)西行は、23歳のとき出家、26歳から奥州、四国など各地を行脚50年、1190年(建久元年)2月16日に亡くなったという。この歌は、山家心中集(自選歌集、約600首)の中にあり、年齢的にも西行の辞世歌でなく、釈迦入涅槃の2月15日とは違うのではないかとも言われています。

 西行が俗世を見切るきっかけは、親友の死に無常を感じたから、つりあわない高貴な女性を愛し失恋したから等々、古くから諸説がある。「西行法師絵物語(江戸時代)」では、仕事から帰宅して、お帰りなさいと駆けよってくる幼い愛娘のあまりのかわいらしさに、これこそ魔縁、出家の足かせと、縁側から蹴落とし俗世への思いをたち切っていた。真偽はわからないが、名場面として語り草となっている。

 鎌倉時代 

 親鸞(しんらん、90才) 恋(こひ)しくば 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱(とな)ふべし 我(われ)も六字(ろくじ)の中にこそあれ (私は死ぬが、もし、私に会いたくなったら、南無阿弥陀仏と唱えなさい。私はこの言葉の中に生きているから。)

 室町時代 

 一休禅師(いっきゅうぜんじ、88才) 極楽(ごくらく)は 十万億土(じふまんおくど)とはるかなり とても行かれぬ わらじ一足 (極楽は十万億土も離れた遠い所だという。まったく遠すぎて、わらじ一足ではとても行けそうにない。) この世にて 慈悲も悪事もせぬ人は さぞや閻魔(えんま)も困りたまはん

 戦国時代 

 細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ、38才) 散(ち)りぬへき とき知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ (命あるものは、命が終わるときを知らなければならない。それでこそ、花は花として美しく輝き、 人は人になれるのだから。)

 江戸時代 

 小堀遠州(こぼりえんしゅう、69才) 昨日(きのふ)といひ 今日(けふ)と暮らしてなすことも なき身の夢(ゆめ)の さむるあけぼの (今までの人生と残した仕事さえ、亡くなって逝(ゆ)く自分には、曙(あけぼの)の中で はかなくさめていく 夢のような気がする。) 

 小林一茶(こばやしいっさ、65才) ああままよ 生きても亀の 百分の一 (鶴は千年、亀は万年という。しかし、自分のように気ままに生きても、人はせいぜい 亀の百分の一さ。)

 高杉晋作(たかすぎしんさく、29才) おもしろき こともなき世をおもしろく 住(す)みなすものは 心なりけり (この世は心の持ち次第だ。不満を言わずに気持ちを変えれば、世の中は面白く、楽しくなってくる。)

 明治時代 

 西郷隆盛(さいごうたかもり、51才) ふたつなき 道にこの身を捨小舟(すてこぶね) 波たたばとて 風吹かばとて (たったひとつの自分が信じる道に、身は小舟のように捨てよう、波風がたったときの備えとして。)

 昭和時代 

 宮沢賢治(みやざわけんじ、38才) 病(いたつき)のゆゑにも朽(く)ちぬ いのちなり 御法(みのり)に棄(す)てば うれしからまし (私は病気のために死んで逝(ゆ)くが、深く信じている法華経の世界に生きることができるので嬉(うれ)しい。) 臨終の床の中から父に残した言葉は、「法華経を一千部印刷して皆さんに配って下さい」だった。

○ 人の世 (柳澤桂子: いのちと放射能、ちくま文庫(2007)、より)

  私たちはこの広大な宇宙の一点に生きています。150億年という宇宙の歴史の一点に生きています。時間的空間的に宇宙というスケールで自分を見つめてみようではありませんか。この宇宙の中で、人間とは自分とはいったい何なのでしょう。40億年の生命の歴史の中で、私とはいったい何なのでしょう。人間はどこからきて、どこえいくのでしょう。

 1.1日1日をていねいに、心をこめて生きること 2.お互いの人間存在の尊厳をみとめ合って(できればいたわりと愛情をもって)生きること 3.それと自然との接触を怠らぬこと 

結局のところ人の世詩も幸せもこの他になく、それ以外はすべて空しいことにすぎないのではないかな。

 これは、医師であった細川宏((ほそかわひろし、1922~1967、46才、解剖学者、東大医学部教授)氏が、ガンで亡くなる28日前に書き残されたものです。これは、細川氏だけでなく、多くの宗教家や修行者や思索者や苦しみを生きぬいた人々が到達する共通の結論です。すべての欲を捨て去ったときに、人間は人間にとって一番大切なものが何であるかということを知るのです

○ 素顔を見つめる (樋口清之編:生活歳時記、p.328、遠藤周作(1923~1996,作家)、素顔を見つめる、ぐうたら生活入門、三宝出版(1994)、より) 

  諸君。諸君がもし生活に多少とも退屈し、おれはこのままでええんやろうかと、ふと思われることがあればーーー、いやいや、きっと、そう思われるにちがいない。ーーーー そう思われたならば、ワシは諸君に一つの場所に行ってみることをお奨めする。それは病院だ。ーーー、病院とは、生活のなかで他人にみせる仮面ばかりかむっているワシらが、遂に自分の素顔とむきあわねばならぬ場所だ。

 わしは長い間、病院生活をやっとったから、これだけは確実に言えるのだが、夕暮れに灯(ともしび)がうるむ病院の窓では社会の地位や仕事がなんであれ、自分の人生をじっとふりかえる人びとが住んでいる。病苦のおかげでみんな、そうせざるをえんのでなア。 ワシらの生活には仮面をぬいで、自分の素顔とみきあおうとする時はそうざらにない。いや、ひょっとすると、素顔をみることが怖(おそろ)しいのかもしれんなア。ーーー

○ 人生意気に感ず魏徴述懐詩、人生感意気、功名誰復論: http://3rd.geocities.jp/cgdxs125/index29.html) 人間は人の意気に感じて行動する。金銭や名誉は問題外であるということ意気とは、①きだて。心ばえ。きまえ。心もち。気性、②気力。気合。気概(困難にくじけない強い意気)。いきごみ。、③意気地(事を貫徹しようとする気力)のあること。心意気。(広辞苑より)

〇 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

毎年毎年花は同じように咲く 毎年毎年人の顔ぶれが異なる!

自然の悠久さと人間の生命のはかなさを対峙させ、人生の無常を詠歎した句です。

唐詩選 中国唐代の詩人 劉廷芝(劉希夷とも、651~679)

代悲白頭翁    白頭を悲しむ翁に代りて

古人無復洛城東  古人無復洛城の東に無く
今人還対落花風  今人還た対す 落花の風

年々歳々花相似  年々歳々、花相い似たり
歳々年々人不同  歳々年々人同じからず

寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔の子
応憐半死白頭翁  応に憐れむべし 半死の白頭翁

2010年10月 1日 (金)

秋、10月のはじめ、示野中橋から眺めたわが家、犀川のシラサギ、近くの誉田神社(示野中町)の盤持ち石(力石)、とは(2010.10.1)

 10月の声を聞き、今年の夏の猛暑、その後の残暑もやっと過ぎ去り、朝夕は肌寒さを感じるようになってきました。今日の金沢の空は、朝方から晴れていて、日中は暑くなりそうです。

 ところで、10月は、旧暦で神無月(かんなづき)と呼び、一般的には、諸国の神々が出雲大社に集まり、その土地土地の神が留守になる神無月(かみなしづき、出雲だけは神有月)という信仰に基づくものです。しかし、その由来については異説も多いという。その他の異名には、初霜月、小春、小六月、陽月、無陽月、良月、孟冬、玄冬、玄英、始水、応境など多くの呼び名があり、これからも寒暖の変化がうかがえます。

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示野中橋の石碑 示野中橋モニュメント由来の説明、  モニュメント傍からサーパスマンションを遠望、手前が二番館、その右隣がわが家の一番館、示野中町、金沢、2010年(平成22年)7月28日撮影)

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シラサギ 犀川の上流の中州の浅瀬近くを飛んでいるシラサギ、  犀川の浅瀬でじっと立って、魚(落ち鮎!)を狙(ねら)っているシラサギ、全身が真っ白い鳥の群れ、桜田、金沢、2010年(平成22年)10月1日撮影) 

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盤持ち石(ばんもちいし、ばんぶちいし、さし石、力石とも、誉田神社(ほんだじんじゃ)、示野中町、金沢、2010年(平成22年)10月1日撮影)

 盤持ち石の由来によれば、数百年の昔より、当町をはじめ近在の人達がお宮の境内や村の広場のバンブチ場に集まって腕と力量を競い合った石です。格好な石が数個あって、目方の重いものや担ぎ難いものは、米、何斗石と呼ばれ、これを担ぐのは力だけでなく技が必要でした。当時米一俵(五斗俵七十五キロ)を担ぐと一人前の若衆として仲間入りが出来ました。なお、この盤持ちは昭和初期まで続けられました。

 私は、わが家近くの犀川の周辺を散策していた時、シラサギの群れが犀川の中州の浅瀬近くを飛んでいるのが目につき、また犀川の浅瀬に立ち、魚(落ち鮎!)を捕獲している姿が見られたのでデジカメ写真に撮りました。

 また、犀川の示野中橋から歩いて数分の示野中町の誉田神社(ほんだじんじゃ)にお参りした時、盤持ち石(ばんもちいし、ばんぶちいしさし石、力石とも)が境内に展示されていたので、これもデジカメ写真に撮りました。

(参考文献) 樋口清之(監修): 暮らしのジャーナル、生活歳時記、新装改訂版、三宝出版(1994).

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