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2010年11月の6件の記事

2010年11月26日 (金)

コーヒー(珈琲)にまつわる歴史伝承、コーヒーの原産地はエチオピア、日本へは江戸中頃に伝わる、おいしくて健康によいコーヒー、とは(2010.11.26)

   コーヒー(珈琲)は、多くの人々に飲まれている嗜好(しこう)飲料です。コーヒーの木(コーヒーノキ、アカネ科、常緑樹)の実の種が、コーヒーの原料である生豆(なままめ)です。これを焙煎(ばいせん)後、粉末とし、適温の湯で抽出すると、おいしいコーヒーとなります。しかし、いつ頃から飲用されるようになったのか、はっきりしないという。

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コーヒーの木(コーヒーノキ、アカネ科の常緑小高木、中部アフリカのエチオピア原産、果実は長楕円形で、実の中に2個の種子があります、google画像、植物図鑑、三省堂)  コーヒーの木(アカネ科、植物図鑑、三省堂): http://www.weblio.jp/content/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%A8

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コーヒーの生産地(世界のコーヒーの主産地は熱帯地域で、コーヒーベルトと呼ばれています、google画像)

(解説) コーヒーの原産地はアフリカのエチオピアで、17世紀初頭、海を制覇(せいは)したオランダ船によってヨーロッパ各地に広められました。その後、18世紀から19世紀にかけ、コーヒーの木がアメリカ大陸に移植されました。そして、中南米、アフリカ、アジアなどの熱帯地域(コーヒーベルト)がコーヒーの主な生産地となりました。日本は、気候風土の点から栽培がむずかしく、もっぱら輸入に頼っています。

○ コーヒーの歴史

 コーヒーの木(コーヒーノキ、樹木)の原産地は、アフリカのエチオピアのアビシニア高原あたりに自生していたアラビカ種という。そこでは、ガラ族の遊牧戦士たちのエネルギー源として、種(種子)でなく実(果実)をすりつぶし、油を加えて食べていたようです。その後、実を発酵させて酒として飲み、さらに乾燥した実を煮出して薬用(煎じ薬)としました。現在も、イエメン人は、コーヒーの種を飲用に使わず、実から種を取り出した外皮と、果肉を乾燥させたキシルを煮出して飲んでいます。

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コーヒーの豆(コーヒーの種子、 焙煎豆(ばいせんまめ)、 生豆(なままめ)、コーヒーの実(コーヒーチェリー)から皮や果肉を取り除くと、緑色の種子(豆)が出てきます。 この種子(豆)を、水洗いし、天日干しで乾燥させ、薄皮などを取ると、コーヒーの生豆が出来上がります、完熟したチェリーはかすかに甘いが、果肉が少ない、自家焙煎コーヒーガイド、google画像)

(解説) コーヒーの乾燥させた種(生豆、なままめ、グリーンビーンズ)を、煎(い)った焙煎豆(ばいせんまめ、ローストビーンズ)とし、煮出して飲み始めたのは、1300年代(ヨーロッパではルネサンス、日本では室町時代)の頃からと言われています。また、焙煎豆を乳鉢(にゅうばち)に入れ、砕いて粉末とし、湯の中に入れ飲用としたのは、さらにその後となります。 が、いつの頃からそのようになったか、はっきりしないという。

 世界ではじめてのコーヒーハウスは、1554年、コンスタンテイノーブル(現イスタンブール)に開店しました。その後、これが世界中に拡大、世界中のいたるところにコーヒーショップができています。レストランの食事の後にはコーヒーが飲まれ、世界中のカフェではコーヒーが最も多く飲用されています。

 日本にコーヒーが伝えられたのは、1724年(享保9年)、江戸時代中期、第8代将軍、徳川吉宗(1684~1751)の時とされています。しかしそれより以前、長崎出島のキャピタンらを相手とする丸山の遊女たちは、すでにコーヒーを飲み、ミルをオランダ茶臼(ちゃうす)、カップを手附皿附大猪口(てつきさらつきおちょこ)と呼んでいました。

 オランダでの呼び名koffie(コーフイ)はそのまま日本の呼び名となりました。また、エチオピアkaffa(カーファ)州の呼び名は、フランスで語源としてcafe(カフェ)となり、やがて店そのものを表す名として、多くは画家のアトリエが使われました。一方、街の呼び売りコーヒーの屋台店は、cabaret(キャバレー)と呼ばれました。ヨーロッパにおいては、さまざまな文化の担い手として、カフェやコーヒーの果たした役割は大きく、産業革命もこれなくしては成立しなかったという。

 日本のコーヒー店の起りは、1888年(明治21年)、東京日本橋の「洗愁亭」、上野に開かれた「可否茶館」という。ちなみに、コーヒー豆の炒(い)り方は、ヨーロッパでは深く、アメリカでは浅いのですが、日本人の好みは、どちらかといえば、ヨーロッパに近いようです。 しかし、日本では、カフェは大正から昭和にかけて、音楽余興つきの風俗営業となって、警視庁から不良少年養成所と呼ばれ、キャバレーも日本的な解釈により、本来の意味とは違ったものになってしまいました。

○ コーヒーの生産、おいしいコーヒー、コーヒーと健康

 コーヒーの木(コーヒーノキ)の移植は、まず種をまき、苗木を育て、それを畑に植え替えることですが、移植した樹木は3~5年ほどで実をつけ、はじめてコーヒーの収穫ができるようになります。世界のコーヒーの品種は、アラビカ種とカネフォーラ種に大別され、アラピカ種は、栽培種の中で全体の約70%の生産量を占めています。また、アラピカ種は、交配や突然変異により、さまざまな品種が生まれました。

 コーヒーの実は、緑色から徐々に赤色に変化して完熟し、見た目がサクランボに似ていることからチェリーとも呼ばれています。これを収穫、精製し、種子(生豆)だけにした状態で出荷されます。

 アラビア(イスラム教の国)では、14世紀初め、コーヒーの種子を焙煎(ばいせん)する知恵により、コーヒーを独特の色とアロマ(芳香成分)を持つものに変えました。すなわち、焙煎によりコーヒー豆の水分が取り除かれ、豆の成分は化学変化を起こし、コーヒーの生命とされる芳香物質のカフェオールとなりました。コーヒー豆は、1~2%のカフェインを含み、カフェオールにより芳香を発します。

 コーヒーの焙煎した豆は、現在では、電動ミルで簡単に粉末になります。 が、摩擦熱や微粉のためにコーヒーの味が悪くなるので、手で挽(ひ)く方がよいという。 また、コーヒーは有機質なので、好ましい成分を抽出するには93~95℃の湯が適温で、おいしい飲むコーヒーとなります。さめるとタンパク質とタンニンが結びついて濁るので、熱いうちに次の湯を供するとよい。コーヒーの抽出には、ドリップ式が基本で、ペーパードリップ式、サイフォン式、エスプレッソ式などよく用いられています。水は、鉄分、銅、マンガンなど(コーヒーと反応し味が劣化する)含まない軟水がよく、水道水の場合は、カルキ(塩素)臭があるので、よく沸騰させたり、また、浄水器で軟化させて用いるのがよい。

 世界各地に産出する豆は、ブラジル、モカ、スマトラ(マンダリン)、ジャマイカ(ブルーマウンテン)などそれぞれ個性的で、くせ(酸味、苦味、甘味、香、風味など)があり、2~4種類を配合して、バランスのとれたまろやかな味をつくるのをブレンドという。一般に、そのベースとして、ブラジルやコロンビアがよく使われています。

 インスタントコーヒ-は、濃縮したコーヒー液を粉霧乾燥あるいは凍結乾燥によって粒状にしたもので、湯や水を加えるだけでよいものです。1901年(明治34年)、日本人が米国でソリュブルコーヒーとして発売したのが初めてと言われています。

 脂っこい西洋料理の後は、ブラックに限る(カフェノワール)という。コーヒーは、口の中を爽(さわ)やかにすっきりさせますが、飲み方にはいろいろなヴァリエーシヨンがあります。また、コーヒーを飲む時の脇役として、コーヒー用生クリーム、シュガー(琥珀色のコーヒーシュガーは、氷砂糖にカラメルをコーテイングしたもので、ロイヤルシュガーという)、さらにブランデー、ワイン、ラム、スパイス、ジュース、シナモンステイツク、アイスクリーム、ココア、チョコレート、ミルクなど、楽しい組み合わせがあり、それぞれ豪華な名前がつけられています。

 コーヒーと健康については、コーヒーの成分、カフェインには、眠気防止、疲労回復、クロロゲン酸にはガンの予防作用があり、また、コーヒーは善玉コレステロール(高比重リポタンパクコレステロール)を高め動脈硬化の予防になるという。 コーヒーと健康(全日本コーヒー協会): http://ajca.or.jp/health/index.html

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、p.104、インスタントコーヒー、p.498、コーヒー、平凡社(1973); 樋口清之: 生活歳時記、p.661、p.838~841、コーヒー、日本へは吉宗の時代に伝わる、三宝出版(1994); 堀口俊英: 珈琲の教科書、新星出版社(2010).

(参考資料) コーヒの豆(google画像):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%82%B3%EF%BC%BE%E3%83%92%E3%83%BC%E8%B1%86&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=rxzvTOWhKdOOcZHMvIYK&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=7&ved=0CHEQsAQwBg&biw=1004&bih=581

おいしいコーヒーの入れ方(全日本コーヒー協会): http://ajca.or.jp/recipe/point.html

(追加説明) ○ コーヒ生豆の主要成分は、カフェイン、クロロゲン酸などのポリフェノール類、糖類、アミノ酸などですが、焙煎(ばいせん)の熱で分解や成分相互間の反応が起こり、香りや色、味の成分が生じます。非常に複雑な反応のため、焙煎で生まれる成分の多くは、未だ不明な点が多い。 

 おいしいコーヒーをつくるための条件は、よい生豆、焙煎そして配合(ブレンド)で、コーヒーの香りは、以前は800種と言われていたものが、今では1000種を超えているという。(OVERVIEW  おいしいコーヒーを飲むために、化学と工業、Vol.66-9, p.701-706(2013)より)

2010年11月22日 (月)

アシ(葦、ヨシとも)、昔の日本は豊葦原の瑞穂国(国譲り神話、出雲、島根)、犀川(石川)土手下の湿地、吉野川(德島)第十堰の水辺と湿地に群生するアシ(葦)の風景(2010.11.22)

  昔の日本には、河川や湖沼が多く、そこには必ずと言っていいほど、アシ(葦、別名 ヨシ)が繁っていました。湿地に群生する姿は緑色です。昔はこれを青之(あおし)といい、青之がアシになったという。後世になって、アシは「悪し」に通じるので、ヨシ「良し」とも呼ばれるようになりました。

 日本は、神話の世界では、大八州(おおやしま、多くの島からなる意)、豊葦原(とよあしはら)中つ国(なかつくに)、あるいは、瑞穂国(みずほのくに)と呼ばれていました。古事記では、本州・九州・四国・淡路・壱岐・ 対馬・隠岐・佐渡などの「八つの島」の総称とされています。古事記(こじき)は、奈良時代(710~794)、太安万侶(おおのやすまろ、?~723)編纂(へんさん)、現存する日本最古の歴史書ですが、神話、伝説、多数の歌謡を含み、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語っています。

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国譲り神話(くにゆずりしんわ、天の神、天照大神(あまてらすおおかみ)が、天の岩屋戸の事件を起こし天上の世界(高天原)から追い払われた弟、地の神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子、大国主神(おおくにぬしのかみ、だいこくさまとも)から大八州(おおやしま)、豊葦原の瑞穂国(日本)を譲られたとする話、google 画像、出雲、島根)  国譲り神話(出雲大社、島根):http://www.izumooyashiro.or.jp/kamigami/izumo/yuzuri.html. 

(解説) 神話の世界では、豊葦原(とよあしはら、豊かな葦原)中つ国は、日本の美称(びしょう)で、大国主神(おおくにぬしのかみ、だいこくさまとも)がつくられた豊穣(ほうじょう、穀物の実りが豊かな)国のことです。また、瑞穂国は、みずみずしい稲穂の実る国のことで、これも日本の美称です。

 日本書記は、奈良時代、舎人親王(とねりしんのう、676~735)らの撰、現存する日本最古の勅撰の正史ですが、神話、伝説、記録などを修飾の多い漢文で記述した歴史書です。その中に、大国主大神はこの国づくりの大業が完成すると、天照大御神に、その豊葦原の瑞穂国をお譲りされたとあります。

 大国主命(おおくにぬしのみこと、だいこくさまとも)は、日本神話では、出雲国(いずものくに)の主神で、豊葦原の瑞穂国づくりを終え、それを天照大神にゆずり、隠退して、出雲大社(島根)に祀られています。天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、伊弉冉尊(いざなみのみこと、女神)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと、男神)の女(ムスメ)で、皇室の祖神という。日の神と仰がれ、伊勢神宮(三重)に祀られ、皇室並びに国民崇敬の中心とされました。 天照大御神(伊勢神宮、三重): http://www.isejingu.or.jp/arukikata/naiku-index.html,

 万葉集(まんようしゅう)は、奈良時代、大伴家持(おおとものやかもち、718?~785)編纂(へんさん)、現存最古の歌集ですが、歌数は4500余り、その中にアシの歌が、47ほど含まれているという。 葦(あし、万葉の生き物たち): http://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0511_2.htm

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犀川べりのアシ(葦)(北陸自動車道の日本海側(西)の陸橋下、犀川の右岸の土手の湿地で群生するアシ、示野(しめの)、金沢、石川)

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吉野川第十堰アシ(葦)( 吉野川左岸(北側、背後は四国山脈、上板町、藍住町)の第十堰近く、水辺と河川敷のアシの群生、 下 吉野川右岸(南側、背後は阿讃山脈、国府町、石井町)の第十堰近く、水辺のアシの群生、google画像、德島)

 アシ(葦)は、日本各地の池沼や川岸や沢辺などに群生していました。一般に、アシは地下水位の高い地域に群生するという。 アシは若芽が食用に、茎が簾(すだれ)など、根茎が薬用になりました。また、アシの茎で作った「よしず」の下は気温が下がるので、夏には窓際の日よけに用いられました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 日本自然保護協会編: 指標生物、自然をみるものさし、平凡社(1994); 永原慶二編: 日本史事典: 岩波書店(1999); 高橋勝雄: 山渓名前図鑑、野草の名前、秋・冬、山と渓谷社(2003).

2010年11月15日 (月)

碁の名手(安井算哲)にまつわる歴史実話、初手天元(碁打ち、二世安井算哲)、のち貞享暦(太陰太陽暦とも、天文歴学者、渋川春海)、安井算哲の殿堂入り、とは(2010.11.15)

 江戸時代、1612年(慶長17年)2月13日、徳川家康(1543~1616)は、碁打衆将棋衆(8名)を集めて年俸を定めました。このとき年俸を決められた碁衆の4人は、それ後およそ230年間、それぞれの碁の家元(本因坊、井上、安井、林)となり、上手(7段)以上の棋士によって、五百数十局の御城碁が打たれました。

 本因坊家(50石)は一世本因坊算砂(日海上人、1559~1623)、井上家(50石)は算砂の弟子で、のち名人碁所となった中村道碩(1582~1630)を祖としました。そして、道碩以来、本因坊家と特別に深いつながりがありました。林家(50石)の祖は林門入斎(1583~1667)です。

 一方、安井家(30石)は、後々囲碁の世界で本因坊家と対立し、しのぎを削る厳しい闘いを展開しています。安井家の一世は安井算哲(古算哲とも、1590~1652)です。のち、長子の二世安井算哲(のち渋川春海、1639~1715)が碁方を離れて天文方に転じたので、弟子の算知を養子として跡目にし、のち二世安井算知(1617~1703)となりました。当時、一般に力碁で、モリモリ打つ手法を安井流と言ったそうで、本因坊算砂、中村道碩の軽い手筋でサバク手法とは両極的な存在でした。

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渋川春海(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%B5%B7

 渋川春海(しぶかわはるみ、しゅんかいとも、二世安井(保井)算哲、のち渋川と改姓、1639~1715)は、江戸前期の暦学者、幕府天文方です。碁所(ごどころ)家元、安井算哲の子で、では上手七段)となり、お城碁にも出仕しています。彼は渋川助左右衛門春海として、1000年の間、唐代の「宣明暦」を一歩も出なかったわが国で、渾天儀(こんてんぎ)を作って天体を観測、天球儀、地球儀も作り、「宣明暦」に誤りが多いのを痛感し、1684年(貞享元年)、「宣明暦」を改めて「貞享暦」を作ったことで有名です。日本人の手になる最初の暦です。同時に七曜暦を復興しました。この年に新設された天文方に任ぜられ(以降渋川家が世襲)、天文、暦学の研究に専念しました。

○ 天元の局

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天元の局(てんげんのきょく、先番 安井算哲 ― 九目勝 先相先の白番 本因坊道策、朝日新聞: 囲碁史に残る初手天元、時代小説「天地明察」 棋士も注目、2010年(平成22年)6月25日(金)、朝刊より)

(解説) 1670年(寛文10年)10月17日、二世安井算哲(八段、のち渋川春海、1639~1715)、32才は、将軍らの御前で対局する御城碁(おしろご)に出仕し、本因坊道策(七段、三世の跡目、のち四世、1645~1702)、26才と対局したとき、第一着を碁盤の中央に打ちました。これは、囲碁史に残る有名な「天元の局」です。

 この碁、白はどこといって特に妙着を打っているわけではないようですが、常に天元の効果をけずることを念頭において全局のバランスを考慮しつつ、巧みに黒の気勢をはずして、いたる処に実利を確かめ、100手目のころには、すでに細碁、それも白に有利を思わせます。全局的に黒の打方が当を得なかったのが敗因であって、つまりは力量の差とというほかないでしょう。(青木新平著: 碁石の微笑、p.93~95、天元の局、六月社(1956)より)

 囲碁は、盤上の石を打つ場所が19路×19路(391路)で、1年の日数に近く、暦学と関係が深いという。坐隠談叢によると、算哲は、天文その他の学問から割り出し、こう考えました。「天文の理(ことわり)を囲碁に応用し、局面第一着の石は、盤面中央の一石にありとの断案を下し、名けて大極、又は天元の一目と称し、以(もっ)て天下敵なしとせり(黒をもって天元に第一着を打てば必勝なり!)」。結果は、算哲の志ともちがって、道策に9目負けを喫しました。敗れた算哲は「益々碁道の玄妙さは、はかりしれない」と嘆き、以来、天元は打たなかったと伝えられています。ただ、敗因は天元そのものにはなく、その後の打ち方、さらに「棋聖」とうたわれることになる道策との実力差にある、という見方が一般的です。

 これが囲碁の「天元」という言葉のはじめとされ、現在はタイトル戦の名称にもなっています。「天元」とは、万物生育のもとです(広辞苑)。算哲が通じていた算術には、算木(さんぎ)を用いて高次方程式を解く中国の「天元術(てんげんじゅつ)」があり、これは関孝和(1642~1708)らの和算につながっています。この天元術が命名の由来とも考えられています。

 沖方丁(うぶかたとう、1977~ )著、時代小説、「天地明察」(角川書店)において、主人公で天文暦学者の渋川春海は、江戸時代に実在した碁打ち安井算哲のことで、日本に改暦を残す一方、碁盤中央の星を「天元」と呼んだ最初の人物ともいわれ、囲碁棋士たちの間で話題になっているという。

(参考文献) 安永一: 囲碁名勝負物語、時事通信社(1972); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973);安藤如意(原著)、渡邊英夫(改補): 坐隠談叢、新樹社(1983); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 中山典之: 囲碁の世界、岩波新書(1988); 水口藤雄: 囲碁の文化誌、起源伝説からヒカルの碁まで、日本棋院(2002); 日本棋院編: 日本棋院創立80周年記念、囲碁雑学手帳、月刊碁ワールド1月号第2付録、日本棋院(2005); 朝日新聞: 時代小説「天地明察」、棋士も注目、囲碁史に残る初手天元、2010年(平成22年)6月25日(金)、朝刊より.

(参考資料) 第一着天元(1670年(寛文10年)10月17日、本因坊道策ー安井算哲(のち渋川春海)、古今著名局集、木石庵): http://mignon.ddo.jp/assembly/mignon/go_meikyoku.html

渋川春海の天元の局天地明察、たかお日記、高尾紳路九段、オフィシャルブログ): http://blog.goo.ne.jp/s-takao-san/e/487e3f209a53ae6ef32e880010bc859f

渋川春海と貞享の改暦(ホームページ、富山市科学博物館、富山): http://www.tsm.toyama.toyama.jp/_ex/curators/aroom/edo/re-jokyo.htm

渋川春海(もと二世安井算哲、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%B5%B7&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=-K_TTKPuNJP0cezjzfkE&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=3&ved=0CDUQsAQwAg&biw=1004&bih=552

(追加説明) ○ 太陽暦の採用については、明治新政府は、1872年(明治5年)11月9日、旧来の太陰太陽暦法(月を中心とし、1年を12ケ月か13ケ月とする)による天保暦を廃し、新しく太陽暦の採用を決定し、同年陰暦12月3日を1873年(明治6年)1月1日としました。

 太陽暦は太陽の運行を基準とした暦法で、365日を1年と定め、4年ごとにうるう日をおき、100年ごとにうるう年をはぶき、400年ごとにうるう日をはぶくことをやめる。現行のものは16世紀以来のグレゴリオ暦です。(樋口清之、生活歳時記、太陽暦を採用(明5)、p.647、三宝出版(1994)より) 

○ 天元戦は、1975年(昭和50年)以来、新聞三社連合、日本棋院、関西棋院など主催、囲碁のタイトル戦となっています。 天元戦(囲碁のポータルサイド、日本棋院): http://www.nihonkiin.or.jp/match/tengen/. 

○ 二百十日とは、立春から数えて210日目の日をいう。陽暦で9月1、2日頃。稲(中稲)の開花時期に当たり、台風の襲来時期であるので、農家の厄日として警戒されている。 

 徳川幕府の暦編纂係保井(渋川)春海が、品川の一老漁師から教えられたものという。春海は釣好きで、この日も品川の沖へ舟を乗り出そうとした。その時、老漁師が海上の一点を指さして、今日は立春から数えて210日目に当たるが、50年来の体験によると、このような時は午後から大荒れになるから、釣りに出るのはやめなさいといった。果たしてその日は大暴風雨になったという。 後に春海が「貞享暦(太陰太陽暦とも)」を編んだ際、このことを暦の中に掲げ、人の口にのぼるようになった。

 二百二十日とは、立春から220日目の日。210日の10日後の日。9月11日頃に当たる。この前後は台風のくることが多く、210日につぐ、第2の厄日として農家に恐れられている。統計的にも210日以降、9月下旬に台風が集中しているので、むしろ210日前後が警戒を要する。(樋口清之監修:生活歳時記、p.507、二百十日、p.525、二百二十日、三宝出版(1994)、より)

○ 安井算哲ら殿堂入り 日本棋院は6月22日、江戸時代に活躍した安井算哲(やすいさんてつ、2世、渋川春海とも、1639~1715)と、中国の政治家で囲碁を通じ日中交流に貢献した故陳毅(ちんき、1901~1972)氏の囲碁殿堂入り(第9回囲碁殿堂表彰)を発表しました。(2012年(平成24年)6月23日(土)、北陸中日新聞朝刊より) 日本棋院囲碁殿堂入り第9回囲碁殿堂表彰): http://www.nihonkiin.or.jp/news/2012/06/9_10.html.

2010年11月13日 (土)

紅葉の季節(2010年11月中旬)、金沢幹線道路(桜田、金沢)沿いのヤマボウシ(山法師)の風景(2010.11.13)

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ヤマボウシ(山法師)の紅葉(上 右側の歩道は、犀川沿いを通って上辰巳(金沢中心街側)へ、 下 右側の歩道は、わが家の横を通って観音堂(日本海側)へ、金沢幹線道路(観音堂・上辰巳線)沿いのヤマボウシ(山法師)並木、桜田~出雲、金沢、石川)

(解説) ヤマボウシ(山法師、山帽子とも)はミズキ科の落葉高木で、本州から九州の山地に自生しています。高さ6~10メートル、葉は対生し楕円形で先は急にとがり、裏面の脈腋(みゃくえき、葉脈のわき)に黄褐色の毛があります。夏、6~7月、小枝の先に小形の花が20~30個頭状に集まり、周辺に大きな4枚の白い花弁状の苞(ほう、包葉とも)がつき、全体として一つの美しい花のように見えます。果実は球状の集合果で、9~10月、赤色に熟し、食用にもなります。材を器具、櫛(くし)などとし、樹は並木(街路樹)、庭木として利用されています。

 紅葉(こうよう)のしくみは、晩秋、気温が10℃以下になると、葉の根元に瘤(こぶ、離層)ができ、葉から茎への物質の移動が困難となり、葉の組織内に糖分(ブドウ糖、蔗糖など)が蓄積され、これらの成分からアントシアニンという紅色の色素(鮮紅色、紫赤色の色素、アントシアニジンの配糖体)が形成されます。同時に、葉の中のクロロフィルという色素(緑色、葉緑素、マグネシウムのテトラピロール環中心配位体)は分解され、葉は赤く色づき、紅葉となります。

 私は11月中旬、わが家(桜田、金沢)の近く、金沢幹線道路(観音堂・上辰巳線)沿いの街路樹、ヤマボウシ(山法師)の美しい紅葉の姿を目にし、デジカメで撮影しました。また、その冬芽(休眠芽、越冬芽とも)が紅葉の葉の基部にできているのが分かりました

(参考文献) 日本自然保護協会編: 指標生物、自然をみるものさし、平凡社(1994); 主婦の友編: 花木&庭木図鑑200,p.172~173,ヤマボウシ(山法師)、主婦の友社(2009). 

2010年11月10日 (水)

初冬、2010年11月中旬のころ、わが家(桜田、金沢)の近く、野草(ヨシ、オギ、ススキなど)が群生あるいは散生する犀川べりの風景(2010.11.10)

  初冬(しょとう)は、立冬(りっとう、11月7日)から大雪(たいせつ)の前日(12月6日)までを言います。立冬は、これから冬に入る、はじめの節で、この頃は太陽の光も一段と弱く、日足も目立って短くなり、冬の気配が感じられるようになります。

 現在11月中旬で時雨の季節、犀川の土手の桜、ソメイヨシノ紅葉し、犀川べりに群生あるいは散生した野草、オギ、ススキなどは白い穂をなびかせ、また、それらの近くに群生したセイタカアワダチソウの黄色の花、マント群落のツル植物のクズの葉の緑など、色とりどりモザイク状に入り混じり、美しい晩秋の風景を演出しています。また、犀川中州にはヨシ(アシとも)の生育も見られます。

 時雨(しぐれ)とは、冬のはじめから中頃にかけて、降っていると思ったら、さっとあがり、これが断続し、時には降り続く雨のことです。向こう側は日がさしているのに、こちら側は降っていたり、なかなか情趣深い雨です。石川など北国に多く、また、京都にも多い雨ですが、昔から、朝、家を出る時、弁当忘れても傘忘れぬな!とよく言われています。

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犀川の上流の景色(河川敷、土手、遊歩道、上流のは若宮大橋、右岸の川べりには、枯れた褐色の葉と白い穂のオギの群生域、その近くの黄色域はセイタカアワダチソウの群生、また緑色域は、ツル植物、クズのマント群落となっています。左岸の背後の土手には、紅葉したの並木となっています、桜田、金沢、石川、2010年(平成22年)11月17日撮影)  

(解説) 一般に、ヨシ、オギ、ススキなどの野草は、全体の形がよく似た大型の多年草ですが、水分に対しての反応が異なり、シが最も水位の高い範囲に、オギはそれより上のやや湿った範囲に、ススキは乾いた範囲に群生していますので、これらの植生を通して土地の乾き具合を知ることができます。

 そして、広い河川敷の群落を高い所から眺めると、水ぎわから土手に向けて、ヨシ、オギ、ススキの順に、帯状にあるいはモザイク状に分布しているのが分かります。 オギは、穂がススキより遅く出て、長くて多く、大きく垂(た)れ、白銀色になびき、やや低地でばらばらに生育(1株ずつ離れ、株立ちしない!)しています。

 オギの大群落(オギは白い花の集団、花序(かじょ)が馬の尾に似る大形の草ですが、昔は木に思われ、尾木(おぎ)となり、のち荻(おぎ)になったという。

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犀川の中流の景色右岸の川べりの緑色域は、ほとんど、クズのマント群落となっています。また褐色の葉と白い穂のオギの散生も見られます。左岸の向かいの土手の右側には、紅葉したの並木、河川敷には白い穂のオギの群生 が見られます。また、黄色域はセイタカアワダチソウの群生、緑色域は、クズのマント群落となっています。また、中州にはヨシアシとも)の生育も見られます、桜田、金沢、石川、2010年(平成22年)11月17日撮影)

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犀川の下流の景色(下流のは示野中橋、右岸の川べりには、枯れた褐色の葉と白い穂のオギの群生、その近くの黄色域はセイタカアワダチソウの群生、また緑色域は、ツル植物、クズのマント群落となっています。左岸の土手には、紅葉したの並木が見られます。また褐色の葉と白い穂はオギの群生あるいは散生となっています、桜田、金沢、石川、2010年(平成22年)11月17日撮影)

 私は11月のはじめから中旬のころ、わが家(桜田、金沢)の近くを散策したとき、犀川の水辺(中州)、川岸の湿地にはヨシ(良し、葦、蘆、アシとも、イネ科ヨシ属)が、河川敷の湿った荒れ地から土手まではオギ(萩、イネ科ススキ属)の大群落が目立つようになっていました。

 また、土手の上の乾いた荒れ地では、ススキ(イネ科ススキ属、薄、芒、別名、尾花、茅)の散生が見られ、また、アメリカ産の帰化植物、セイタカアワダチソウ(背高泡立草、別名、背高秋の黄輪草)も、オギとススキの近くに群生しているのが目につきました。

 犀川べりと土手に見られるオギ、ススキ、セイタカアワダチソウ、クズなどの野草の植生は、自然を見るものさしとなり、自然界の植物遷移のありのままの姿であると思いました。

(参考文献) 樋口清之: 生活歳時記、三宝出版(1994); 日本自然保護協会編: 指標生物、自然をみるものさし、平凡社(1994); 高橋勝雄: 山渓名前図鑑、野草の名前、秋・冬、山と渓谷社(2003).

(追加説明) ○ オギ(萩)は、イネ科ススキ属の多年草で、日本各地に分布、沼や川のほとり、湿った荒地などに群生します。ススキの小穂には長い針のような毛、芒(のぎ)がありますが、オギには小穂が多数つき、芒(のぎ)がつきません。オギの小穂につく毛は小穂の3~4倍と長い。ススキの毛は小穂と同じくらいの長さです。したがって、オギの花の集団は白く光る毛で美しく見えます。ススキは大株立ちになりますが、オギは株立ちしせず、根茎が横に伸び、ばらばらに生え、高さ2mにもなります。ススキより穂が多く垂れています。古くから屋根葺き材として知られていた草です。

○ ススキ(尾花)は、イネ科ススキ属の多年草で、日本各地の乾いた草原、荒地、道端などに大株立ちして自生しています。ススキは茎の上部で多数の枝に分かれ、すき間なく小穂が密生しています。秋には、背丈が1~2mにも育ち、穂をつけ、中秋の名月に月見だんごと並んだ姿は秋を象徴しています。風になびく穂が、けものの尾に見えることから、あきの七草では、尾花と言われています。昔は、ススキを刈って屋根を葺き、かやぶきの屋根にしたので、ススキのことをカヤと呼ぶこともあります。

○ クズ(葛、葛葛、くずかずら、とも)は、マメ科クズ属の多年草で、日本各地に分布し、道端、草やぶ、川の土手など草や木がある日当たりのよいところなら、どこにでも生えます。葉の脇から伸びた花柄(かへい)に多数の花が房状につきます。花弁は濃赤紫色です。葉は3小葉で構成され、小葉の形は菱形か楕円形です。太い根からクズ粉が採れます。太いつるが10mほど伸びます

○ セイタカアワダチソウ(背高泡立草)は、キク科アキノキリンソウ属の多年草で、北米が原産地。明治時代に観賞用として導入。戦後、空き地や道路脇、土手などに急速に増殖しました。小さな黄色の花、頭花は、花びら状の舌状花(ぜつじょうか)と花の中心部の筒状花(とうじょうか)とで構成され、頭花の背後には、総包片(そうほうへん)があります。花の集合、花序(かじょ)は、針葉樹形で先が鋭く尖(とが)っています。長楕円形の葉は、茎に互生し、多数が密生しています。一般に、黄色い小さな花が泡立つように見えます

○ ヨシ、オギ、ススキなどの野草の河川岸辺、土手での生育は、土壌の地下水位の高低とつながりがあり、順に低くなっています。また、海に近い原野では、海水の影響もあり(?)、チガヤ(茅)草原がよく見られます。この種は、春から秋にかけて、白いふわっとした穂を一面になびかせています。その中の所々に、淡い黄褐色の穂のヤマアワの群落が混じるのを見ることがあります。そこでは、ヤマアワの生育地域の地下水位がチガヤの所より高いことが分かります。

 ススキは、土手の上の方の乾いた所で固まって生育(大株となり、株立ちする!)し、オギに比べて穂は少し短く、突っ立って(少し垂れて!)います。穂も白くなり、葉も枯れはてた冬のススキは、枯尾花(かれおばな)とも呼ばれています。ヨシは湿地に生え、ススキに似た淡紫色の多数の小穂の花が円錐状につきます。これらの野草は、昔から土の湿り気を知る指標植物として知られています。

 大正(1912~1926)の末期、「俺は河原の枯れすすき」という「船頭小唄」が流行しましたが、切々とした哀感のこもった名曲です。作詞・野口雨情、作曲・中山晋平。(生活歳時記、p.652、枯尾花(かれおばな)、より)

2010年11月 6日 (土)

松葉ガニにまつわる歴史伝承、ズワイガニ(雄の松葉ガニと雌の香箱ガニ)の解禁、江戸時代、因幡鳥取藩主(鳥取)から美作津山藩主(岡山)へのお歳暮、松葉ガニ、とは(2010.11.6)

  日本海の冬の味覚の代表、松葉ガニ(ズワイガニの雄)の解禁日は、立冬(りっとう、11月7日)の前日、6日となっています。普通、水深200~400mに生息し、底引き網(沖合底びき網漁)で漁獲されます。冬の数ある漁獲物の中で花形と言っても良いものです。深海にすむため、本格的な漁は大正時代(1912~1926)頃から始まったという。

松葉ガニ(ズワイガニの雄、市場魚介類の図鑑、株式会社アーズ、google画像) ズワイガニ(雄、市場魚介類図鑑、株式会社アーズ):http://www.zukan-bouz.com/kani/kumoganika/zuwaigani.html. 

(解説) ズワイガニの雄(おす)は、山陰地方(島根県、鳥取県、兵庫県の香住、柴山)では松葉ガニ、福井県では越前ガニ、そして石川県では加能ガニと呼んでいます。これに対して、ズワイガニの雌(めす)は、石川県ではコウバコガニ(香箱ガニ、甲箱ガニとも)、福井県ではセイコガニと呼んで区別しています。このコウバコガニの甲羅の中の赤い塊(未成熟卵)を内子、腹に抱く成熟卵を外子という。

 ズワイガニは、甲殻類クモガニ科、雄は甲長12cm、甲幅13cm、脚を拡げると70cmにもなり、脚は長くて丈夫です。一方、雌は雄の1/3以下の大きさです。甲形は丸みのある三角形、甲はあまり堅くなく、表面に疣(ぼい)状突起があり、体色は薄い茶褐色です。寒海の食用ガニで、北米、アラスカ、アリューシャン(アレウトとも)諸島から日本海に分布し、一般に、70~300mの海底にすんでいます。カニ刺網、機船底引網で漁獲され、富山、石川、福井、兵庫、鳥取、島根などが主産地です。ズワイガニの刺身、茹(ゆ)ガニ、鍋物、コウバコの卵の煮付けも美味なもので、旬(しゅん)は冬期です。

 ズワイガニ美味、この旨味(うまみ)の本体は、核酸関連物質である5`ーイノシン酸、アミノ酸のグリシン、アラニン、アルギニン、グルタミン酸などです。これらの成分が適当な割合で混ざり合うことにより、ズワイガニの旨味を引き立てているという。なお、5`ーイノシン酸は、鰹節(かつおぶし)の旨味成分としても知られています。

 ズワイガニ甲羅は、「甲羅蒸し」の容器として利用されています。カニの甲羅は、クチクラと呼ばれるもので、堅くて消化できません。しかし、これをアルカリ処理するとキチンが得られレ、さらに脱アセチル化によりキトサンが得られます。キトサンは、グルコサミンの重合体であり、バイオポリマーとして、外科手術の際の縫い糸などにも利用されています。 

○ 松葉ガニのお歳暮。(因幡鳥取(第6代)藩主、池田治道(鳥取)から美作津山(第5代)藩主、松平康哉(岡山)へ、江戸中期、1782年(天明2年)12月5日、朝日新聞、2010年(平成22年)1月21日(木)、朝刊より)

(解説) 江戸時代の中頃、松葉ガニが高級な「お歳暮」として贈られていたことが、鳥取県博物館(鳥取市)の調査で分かりました。1782年(天明2年)、鳥取藩の記録係にあたる「御右筆(ごゆうひつ)」の山田左平太が、仕事用に書き留めていたメモの贈答品記録に、「12月5日、 津山 越後守様 鱈(たら)弐本 松葉蟹(かに)五枚ーーー」、と書かれていました。因幡鳥取(第6代)藩主、池田治道(いけだはるみち、1768~1798、鳥取)が松葉ガニやタラといった地元食材を年末の贈り物として、美作津山(第5代)藩主、松平康哉(まつだいらやすちか、1752~1794、岡山)に贈ったときの記録です。当時の大名は、地元産品を贈りあって交流を深めていたという

 私は、金沢の中心街、武蔵の近江町市場(青草町、金沢市)、金沢港のいきいき魚市(無量寺町、金沢市)で、11月6日の解禁日の頃、しばしば松葉ガニの旬(しゅん)のものを買い求めました。白浜(和歌山)の親戚(河畑家)から和歌山産のミカン、南高梅などが贈られてきますので、金沢産の和菓子、旬の松葉ガニなど贈らせていただきました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 石川化学教育研究会編: 科学風土記ー加賀・能登のサイエンス-、p.66~67、板垣英治、ズワイガニとコウバコガニ、裳華房(1997).

(参考資料) ズワイガニ(北陸の魚介類、自然人 net、金沢): http://hokuriku.biz/fishes/%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%8B.html

近江町市場(ホームページ、青草町、金沢市):  http://ohmicho-ichiba.com/金沢港いきいき魚市(ホームページ、無量寺町、金沢市): http://www.ikiiki.or.jp/

香住観光協会(ホームページ、香住、香美町、兵庫): http://kasumi-kanko.com/

 私は、香住の親戚(川端家)の旅荘、佐小(下浜、香住)を何度か訪れ、カニすき料理など堪能させていただいたことがあります。

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