« アマエビ(甘海老)、富山湾のアマエビは氷河期の生き残り、雄性先熟(オスからメスに性転換)、赤い体色で甘く栄養が高い、とは(2010.12.13) | トップページ | 冬至、一陽来復(冬が去り春が来る)、冬至節(天壇での皇帝の祭り、中国)、とは(2010.12.22) »

2010年12月20日 (月)

高山右近(キリシタン大名)にまつわる歴史秘話、金沢城(加賀)の菱櫓は南蛮寺(教会、京都)と瓜二つ、前田利家の客将、加賀藩での26年間の影、とは(2010.12.20)

 2001年(平成13年)、金沢城の二ノ丸で復元された菱櫓(ひしやぐら)は、安土桃山時代に京都で建てられた南蛮寺(なんばんじ、教会)と瓜二つ(うりふたつ)、非常によく似ているという。 それには、1588年(天正16年)秋、加賀初代藩主、前田利家(1537~1599)、52才、の客将となった摂津(大阪)高槻(たかつき)城主、キリシタン大名、高山右近(1552?~1615)、36才?、のがあるという。

 金沢城惣構(そうがまえ、城を中心に堀が右回りに二重の「の」の字を描き、さらに浅野川に連結させる)手法は、右近によってはじめて試みられたものです。堀には6~9mの石を積み上げて作った「土居」と呼ばれる壁があり、現在も兼六園付近に残されています。その後、江戸城の修築において、藤堂高虎(とうどうたかとら、1556~1630)により、同様の手法が用いられたという。これには、当時、ヨーロッパで流行した螺旋状(らせんじょう)のデザインの影が見えるという。

D2200a0as1

南蛮寺(なんばんじ、教会、都の南蛮寺図扇面に見える京都の南蛮寺、神戸市立博物館所蔵、google画像、京都) 姥柳町(うばやなぎちょう、中京区、京都)近辺に南蛮寺跡があり、発掘の結果、南蛮寺の建物の下部は約11m四方でした。

Images2_3

金沢城の菱櫓(ひしやぐら、二ノ丸の50間長屋隅、google画像、金沢、石川) 菱櫓の下部は、10.15m四方で、南蛮寺とほぼ同じ大きさの規模でした。

(解説) 京都の教会の南蛮寺と金沢城の菱櫓の建物には、三階建てであること、屋根の形が入母屋(いりもや)であること、 隅柱(すみばしら)が黒く縁取(ふちど)られているなど、瓜二つのような共通点が見られます。これは、加賀初代藩主、前田利家の客将、キリシタン大名、高山右近による金沢城修築の影であるという。 右近は、加賀藩に26年間仕え、築城家として金沢城の修築、高岡城(富山)の築城などにも貢献しています。が、加賀藩での影、足跡、遺物などは極めて少ない という。

 高山右近(21才?)は、1573年(天正元年)、摂津(大阪)一国の領主(信長委任の一職支配)、荒木村重(1536~1586)の配下に入り、摂津高槻城の城主となりました。1578年(天正6年)、11月16日、26才?、主君の荒木村重が本願寺派、毛利氏と結んで織田信長(1534~1582)に叛(そむ)き、信長の大軍団(明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、織田信忠、佐々成政、前田利家ら)の攻略を受けた時、信長の意を受けたイエズス会宣教師オルガンテイーノの勧めで降伏しました。

 右近はオルガンテイーノと共に、摂津郡山(こおりやま、茨木市、大阪)に陣を進めた織田信長の元に出向きました。まげを落とし、腰の大小もなく、素足に草履(ぞうり)履き、紙衣(かみこ)1枚きりのみすぼらしい姿であったという。信長もその凄愴(せいそう)な姿にしばし声を失い、右近の将才を高く買って、着ていた小袖(こそで)を脱ぎ、吉則(よしのり)の太刀と共に右近に与え、秘蔵の名馬早毛(はやかげ)を贈り、さらに、所領高槻を安堵し、2万石を加増したという。その後、右近は、4万石の高槻城主となり、安土城下のセミナリオ(神学校)建設などにも貢献したという。

 右近は、1582年(天正10年)、30才?、本能寺の変では、豊臣秀吉(1537~1598)に従い、山崎の戦いでは先陣を務める一方、千利休の高弟の一人で茶人としても幅広く活躍しました。1585年(天正13年)、33才?、6万石に加増されて播磨明石城主になりました。その人徳の影響を受け、多くの大名(黒田孝高、蒲生氏郷ら)や領民がキリシタンになったという。1587年(天正15年)、35才?、秀吉の九州平定に出陣し、その帰途発令されたバテレン追放令(宣教追放令)によって棄教を迫られました。が、右近が選択したのは大名としての保身ではなく、信仰の道でした。

 右近は改易により領地をすべて没収され、1588年(天正16年)5月、36才?、肥後(熊本)に転封(てんぽう)となったキリシタン大名、小西行長(1558~1600)に庇護され、小豆島や肥後などに隠れ住むのですが、同年秋、36才?、加賀初代藩主、前田利家客将(きゃくしょう)となり、1万5千石の扶持を受け、加賀、能登の地で26年間過ごすことになります。その間、秀吉の小田原攻めに功績を上げ、金沢城の修築、高岡城(富山)の築城などにも貢献しました。この頃は、利家が金沢に入城してまだ5年、金沢城は築城途中でした。

 加賀に伝わる「金城深秘録(きんじょうしんぴろく)」や「三壺紀(みつぼき)」によれば、高山右近が金沢築城にかかわるのは、1592年(文禄元年)の文禄の大改修の頃と考えられています。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い直前には、内惣構堀(うちそうがまえぼり)の掘削(くっさく)の指揮もとりました。1602年(慶長7年)、金沢城本丸の天守閣が落雷で炎上、翌年、天守閣に替わって三階櫓が建てられました。右近は、これらの再建にも、また、1609年(慶長14年)、加賀(2代)藩主、前田利長(1562~1614)のため、高岡城(富山)を設計するなど、慶長期加賀藩では築城家として活躍しています。 

Images3_3

高山右近の銅像(カトリック金沢教会、google画像、広坂、金沢、石川) カトリック金沢教会(天上の青、高山右近邸跡(21世紀美術館付近)から運ばれた石(南坊石)が敷地内に眠る教会、広坂、金沢、石川): http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/place/isikawa/kanazawach.html

(解説) 高山右近は人徳の人として知られています。摂津高槻城主の時、領内の村人が死ぬと、率先して棺桶を担いだという逸話も残っています。その人徳などの影響を受け、牧村正春、蒲生氏郷、黒田孝高らがキリシタン大名になりました。細川忠興、前田利家は洗礼を受けなかったのですが、右近の影響を受け、キリシタンには好意的でした。

 右近は、1588年(天正16年)秋、36才?、前田利家客将となり、加賀藩に26年間仕えています。その間、布教により、1601年(慶長6年)に172人が洗礼を受け、3年後には加賀藩内のキリシタンは1500人に達し、宣教師によるローマへの1615年(元和元年)の年報には、右近が作った南蛮寺(教会)、カトリック金沢教会は、日本で一番栄えたと伝えられました。

 その後、関ヶ原以降10年間、徳川家康(1543~1616)はキリシタンの布教を黙認していましたが、1613年(慶長18年)12月、キリシタン禁教令を発し、1614年(慶長19年)1月17日、62才?、右近は国外追放となり、26年間過ごした加賀を立ち去り、京都所司代に引き渡され、その後、大阪から船で長崎に護送され、家族と共に長崎からガリオタ船に乗り、同年12月21日、マニラに到着しました。彼の宣教活動は海外にも伝わっており、スペイン人のフィリピン総督から歓迎されました。が、マニラ到着から45日後、1615年(慶長20年)2月3日、63才?、熱病のため死去したとされています。

 右近は、時の権力者の圧力に屈せず、信仰の志を変えることはありませんでした。現在、右近の出身地、大阪府高槻市の中心部にある市立城趾公園には、カトリック高槻教会高山右近の銅像が立ち、どのような迫害にも屈しなかった強い信仰の信念が後世に伝えられています。

(参考文献) 永原慶二(監修): 日本史事典、p.724、高山右近、岩波書店(1999); 北川章人(発行): 加賀百万石異聞・高山右近(2002年1月~12月、北国新聞、富山新聞掲載:http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon26.html.をもとに加筆、構成)、北国新聞社(2003); 宮元健次: 名城の由来、そこで何が起きたのか、光文社新書(2006); 朝日新聞(朝刊): 歴ナビ、旅する日本史、ゆかりを訪ねて、5 高山右近、祈りの灯は消えない、2009年(平成21年)10月10日(土)より.

(参考資料) 金沢城の惣構跡(金沢市、石川): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/torikumi/sougamaechousa.html

キリシタン大名、高山右近と前田氏カトリック金沢教会、広坂、金沢、石川):http://www.church-kanazawa.sakura.ne.jp/ukon/index.html

カトリック高槻教会高山右近、google画像、高槻市、大阪):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E9%AB%98%E6%A7%BB%E6%95%99%E4%BC%9A&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=581

(追加説明) 

○ 高山右近(たかやまうこん)は、安土桃山時代から江戸初期の武将でキリシタン大名です。名は長房、号は南坊といい、高山(豊能町、大阪)の有力者一族の出身、摂津(大阪)生まれ、父はキリシタン武将、高山飛騨守図書(ずしょ、洗礼名ダリヨ)の子です。1564年(永禄7年)、12才?、父の影響でキリスト教の洗礼を受けました。洗礼名、ジュストは、ポルトガル語で「正義の人」を意味するという。 

 高山右近、1568年(永禄11年)、16才?、織田信長が上洛し、右近父子は和田惟政に従い、摂津芥川城を預かりました。1569年(永禄12年)、織田信長はルイス・フロイスに京都布教を許可しました。その後、1570年(元亀元年)、18才?、高槻に移りました。1571年(元亀2年)、19才?、荒木村重が和田氏と戦い、惟政戦死、右近父子は馬塚、糟塚を守りました。1573年(天正元年)、21才?、右近父子、和田惟長を討ち、高槻城主となり、友祥と称します。その後、荒木村重に属し、2万石の高槻城主となりました

〇 高山右近は、信仰に命をささげた殉教者として、日本カトリック司教協議会がローマ法王庁に申請、フランシスコ法王が2016年1月に列福を承認しました。これは世界カトリック教会の最高の崇敬対象の「聖人」に次ぐ「福者」の称号で、それを授ける列福式が2017年2月7日、大阪市中央区の大阪城ホールでありました。今後は、右近が亡くなった2月3日を記念日として毎年、祈りがささげられることになりました。(2017年(平成29年)2月8日(水)、北陸中日新聞、朝日新聞、朝刊より)

« アマエビ(甘海老)、富山湾のアマエビは氷河期の生き残り、雄性先熟(オスからメスに性転換)、赤い体色で甘く栄養が高い、とは(2010.12.13) | トップページ | 冬至、一陽来復(冬が去り春が来る)、冬至節(天壇での皇帝の祭り、中国)、とは(2010.12.22) »

● かなざわ(金沢城、兼六園、野田山、加賀藩主前田家墓所)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1802629/48371760

この記事へのトラックバック一覧です: 高山右近(キリシタン大名)にまつわる歴史秘話、金沢城(加賀)の菱櫓は南蛮寺(教会、京都)と瓜二つ、前田利家の客将、加賀藩での26年間の影、とは(2010.12.20):

« アマエビ(甘海老)、富山湾のアマエビは氷河期の生き残り、雄性先熟(オスからメスに性転換)、赤い体色で甘く栄養が高い、とは(2010.12.13) | トップページ | 冬至、一陽来復(冬が去り春が来る)、冬至節(天壇での皇帝の祭り、中国)、とは(2010.12.22) »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ