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2010年12月の7件の記事

2010年12月26日 (日)

仲冬(暦)、2010年12月、大雪から小寒まで(二十四節気)、わが家(桜田、金沢)から眺める雪に覆われた犀川べりの風景(2010.12.26)

 (こよみ)の上では、の季節、仲冬(ちゅうとう)とは、二十四節気(にじゅうしせっき)によれば、もう山の峰々が積雪に覆われているという大雪(たいせつ、12月7日)から、寒気がまだ最高までいかないという小寒(しょうかん)の前日(1月4日)までを言います。 

 小寒は、すでに本格的な冬の季節で、寒風と降雪に悩まされる時節です。 暦の上での季節感のずれは、日本の暦の基となった古代中国の暦が、月の満ち欠けをもとにした、太陰暦(たいいんれき)であったからです。その季節感のずれを補うために、日付とは別に、季節を区分する二十四節気が必要となりました。 

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雪で覆われた犀川べりの風景(桜田、金沢、石川、2010年(平成22年)12月26日(日)撮影)

 私は今日、12月27日の昼頃、風雪が弱まるのを見はからって、わが家のマンション(10階)のベランダから、雪で覆われた犀川べり(桜田、金沢)の風景をデジカメで撮影しました。 昨日の12月26日は、冬型の気圧配置(西高東低)で、金沢も朝方から横なぐりの強風を伴った厳しい寒さ、雷鳴と稲光を伴う大雪に見舞われていました。

(参考文献) 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 永原慶事二(監修): 日本史事典、p.97、陰暦、岩波書店(1999).

(追加説明)○ 陰暦(いんれき)は、本来、イスラム暦のように太陰(月)の満ち欠けのみに基づく暦を言います。広義には、1872年(明治5年)以前の日本やその基となった中国の暦のように、暦の1ヶ月を月の満ち欠けを基礎に定め、1年をおおよそ太陽の運行に合わせて作成した暦(太陰太陽暦)を含めて言います。

○ 二十四節気(にじゅうしせっき)は、太陽が春分点から出てから、再び春分点に達するまでを黄経(こうけい)360度とし、これを24等分して、各節気を配置し、1年間の気候の移り変わりが分かるようになっています。各節気の1期間は約15日(16日が五節気)となっています。 二十四節気(日本文化いろは事典): http://iroha-japan.net/iroha/A04_24sekki/

2010年12月24日 (金)

注連飾り(しめかざり)、お正月(五穀を守る年神のお祭り)、門松(年神が降臨する場)、注連縄(禍神の侵入を禁ずる印)、どんど焼き(年神を送り返すお祭り)、私の初詣、とは(2010.12.24)

   お正月は、古くはお盆と並んで、先祖の魂を迎えて祭るものでした。が、仏教の力が大きくなると、お盆先祖の供養など仏教的行事の意味合いが濃くなり、お正月神祭としての意味を強くしていきました。そして、お正月は、年の神(歳の神とも)を迎え、新年の豊作を祈る、つまり五穀を守るという年神のお祭りとなりました。

 元日は、どこの家庭でも、お屠蘇(おとそ)やお雑煮(おぞうに)、お節料理(おせちりょうり)を食べて、新年のお祝いをします。年神へのお供え物は、大根、さといも、人参、餅(もち)などですが、これを混ぜて食べるようになったのが雑煮(ぞうに)です。 お互いに交わす、明けましておめでとう、という言葉には、無事お正月を迎えられた歓びがこもっています。

○ お正月

 お正月は、日本人にとって万事の始まりという意味をもっています。日本のお正月は、年神(歳神とも)が訪れて幸福をもたらすという信仰にもとずいています。

 農耕社会が中心で、年神が授けてくれる幸福とは、五穀(米、麦、粟、豆、黍、または稗)、とりわけお米の豊穣でした。 

○ 門松

 門松(かどまつ、松飾り、飾り松、立て松とも)は、新年に、年神を迎える依代(よりしろ)として家々の門口に立てて飾る松のことです。室町時代の禅僧(臨済宗)、一休宗純(1394~1481)の狂歌門松は冥土(めいど)の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし、これは、門松を立てるごとに年を重ねるので、門松は死に近づく印であるという。

 注連飾り

 注連飾り(しめかざり)は、お正月に門松や玄関、床の間、神棚など、注連縄(しめなわ)を張って飾ることです。 注連縄(しめなわ、標縄、七五三縄とも、シメは占めるの意)は、神前または神事の場に、禍神(まがかみ、災いをなす神、邪神、悪神とも)、不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄のことです。神様に供えるお供え餅が鏡餅(かがみもち)です。

 一般に、注連縄左捻り(より、ひねりとも)を定式とし、三筋、五筋、七筋と、順次に藁(わら)の茎を捻り放して垂れ、輪じめ(輪飾り)は、これを結んだ形です。これは神聖視する旧来のしきたりのようです。

 注連縄には様々の型(前垂(まえだれ)注連縄、大根(おおね、だいこんとも)注連縄、牛蒡(ごぼう)注連縄、鼓胴(こどう)注連縄、輪飾)があり、一般的なものはどこの神社でも見られる前垂注連縄(横の縄の太さが同じもの)で、現在では七五三縄を見ることが少なくなっています。

○ どんど焼き

 年神降臨する場が門松ですが、が登場したのは江戸時代で、竹の生命が非常に長いことから、これに永久不変の長寿を託したという。そして、お正月がすぎ去ると、年神を送り返さなければなりません。年神送り返すお祭りどんど焼き(左義長)といって、門松を燃やしました。

 というわけで、お正月というのは、年神を迎えて送り返すまでの滞在期間のことです。お正月の習慣がいつ頃から始まったかは明確には分からないという。 

 

○ 初詣

 初詣(はつもうで、初参り、はつまいり、とも)とは、年が明けてから初めて社寺に参拝し、一年の無事と平安を祈る行事です。

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白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ、神社の本殿(ほんでん)、鼓胴(こどう)型注連縄(しめなわ)、屋根入母屋造(いりもやづくり)、左右は阿吽(あうん)の獅子(しし、狛犬、こまいぬ)、鶴来、白山市、石川) 

 は、毎年お正月になると、息子(高行)と二人で、白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)の本殿を参拝した後、おみくじを引き、初穂料を納め、交通安全のお守りをいただいております。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之(監修):生活歳時記、三宝出版(1994); 樋口清之: 日本の風俗起源を知る楽しみ、大和書房(2002).

(追加説明) ○ 入母屋(いりもや)は、屋根の上部が切妻(きりづま)のように二方へ勾配(こうばい)を持ち、下部は寄棟造のように四方に勾配を持つ屋根形です。

○ 初詣(はつもうで)とは、元日、氏神、またはその年の恵方にあたる方角の神社仏閣にお参りすることです。年のはじめ、身も心もすがすがしい思いで、森厳な社殿にぬかずく気持ちは、信仰の有無にかかわらず、こころよいものがあります。

  鏡開(かがみびらき)は、正月11日、年神にお供えしていた鏡餅をおろして食べる祝儀です。もと武家では男子は具足(ぐそく、甲冑、鎧、兜、かっちゅう、よろい、かぶとなど)に、女子は鏡台に鏡餅を供え、それを割りました。鏡餅は刀で切る(神様とのご縁を切る!)ことを忌(い)み、手や鎚を用いて割ったので、開く、割るなどという。鏡開きの餅は汁粉などにして食べるところが多い。(生活歳時記より)

○ 太陽暦の採用については、明治新政府は、1872年(明治5年)11月9日、旧来の太陰太陽暦法(月を中心とし、1年を12ケ月か13ケ月とする)による天保暦を廃し、新しく太陽暦の採用を決定し、同年陰暦12月3日を1873年(明治6年)1月1日としました。

 太陽暦は太陽の運行を基準とした暦法で、365日を1年と定め、4年ごとにうるう日をおき、100年ごとにうるう年をはぶき、400年ごとにうるう日をはぶくことをやめる。現行のものは16世紀以来のグレゴリオ暦です。(樋口清之、生活歳時記、太陽暦を採用(明5)、p.647、三宝出版(1994)より) 

(追加説明) 金沢城公園の橋爪一の門のしめ飾りは、横幅5.4m、重さ15kgで、わらの両端が弓なりに切り上がった「数の子飾り」と呼ばれるものです。

2010年12月22日 (水)

冬至、一陽来復(冬が去り春が来る)、冬至節(天壇での皇帝の祭り、中国)、とは(2010.12.22)

   今日、12月22日は、24節気の一つ、冬至(とうじ、日南至とも)。この日は、太陽が南半球において1年中で最も遠い南の位置(黄経270度)に行き、北半球における正午の太陽の高さが1年中で最も低く、日照時間も最短となります。そのため昼が1年中で1番短く、夜が1番長くなります。そして、この日から一陽来復(いちようらいふく、冬が去り春が来る)、徐々に日足はのびていきます。 

 わが国では、冬至かぼちゃこんにゃくなどを食べる風習があります。これは、珍しくなった野菜類を、冬の祭りに供えたことの名残りという。また、この日、冷酒を飲み、ゆず湯に入る風習もあります。ゆず湯に入ると無病息災であるといわれ、銭湯(せんとう、風呂屋、ふろや、とも)ではゆず湯が行われる習慣があります。

 中国では、明(1368~1644)と清(1644~1912、はじめ1636、満州国、のち中国)の時代には、冬至冬至節(暦の起点)で、天の子である皇帝(天子)が天に向かって祈ったという。故宮(紫禁城)を中心として東西南北に日壇、月壇、天壇、地壇があります。中国古代宇宙観に基づき、地の方形(四角)天の円形)、南方北円となっています。皇帝(天子)は天の子、天の命令(天命)に従い、地(人民)を統治するという。

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天壇(てんだん、祈年殿、世界遺産、google画像、崇文区、北京、中国) 天壇明・清の皇帝天に向かって毎年豊作を祈った宗教的な祭壇です。1420年、明の永楽帝が建立したのは、天地壇でした。1534年、天壇地壇分離され、天壇と呼ばれるようになりました。 

(解説) 中国では、冬至は太陽の運行の出発点であり、暦の起点とされました。天子(皇帝)は、人民に暦を授けることが大切な任務とされたので、暦の起点である冬至の日天を祭ることは最も厳粛な儀式であったという。

 中国の冬至節では、冬至新年(春節、亜年とも)のごとく大切であるといわれ、かって、皇帝は天壇(てんだん)で天に向かって祈り庶民(人民)は神や祖先を祭った後、一家団欒して宴を楽しみ、冬を祝ったという。今でも中国北方では、羊肉や餃子を食べ、南方ではお団子やワンタンを食べる習慣があり、また、その日に天と先祖を祭る行事もあるという。

 は、2005年(平成17年)9月21日、国際溶媒抽出会議(ISEC2005,北京、中国)のツアーで天壇を訪れ、かって皇帝の神聖な祭壇が、庶民観光の世界遺産となっている景観を眺めて、時の流れを痛感しました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之(監修):生活歳時記、三宝出版(1994).

(追加説明) 一陽来復(いちようらいふく)とは、①陰がきわまって陽がかえってくること。陰暦11月または冬至の称。②冬が去り春が来ること。③悪いことばかりあったのがようやく回復して善い方に向いて来ること。(広辞苑より)

2010年12月20日 (月)

高山右近(キリシタン大名)にまつわる歴史秘話、金沢城(加賀)の菱櫓は南蛮寺(教会、京都)と瓜二つ、前田利家の客将、加賀藩での26年間の影、とは(2010.12.20)

 2001年(平成13年)、金沢城の二ノ丸で復元された菱櫓(ひしやぐら)は、安土桃山時代に京都で建てられた南蛮寺(なんばんじ、教会)と瓜二つ(うりふたつ)、非常によく似ているという。 それには、1588年(天正16年)秋、加賀初代藩主、前田利家(1537~1599)、52才、の客将となった摂津(大阪)高槻(たかつき)城主、キリシタン大名、高山右近(1552?~1615)、36才?、のがあるという。

 金沢城惣構(そうがまえ、城を中心に堀が右回りに二重の「の」の字を描き、さらに浅野川に連結させる)手法は、右近によってはじめて試みられたものです。堀には6~9mの石を積み上げて作った「土居」と呼ばれる壁があり、現在も兼六園付近に残されています。その後、江戸城の修築において、藤堂高虎(とうどうたかとら、1556~1630)により、同様の手法が用いられたという。これには、当時、ヨーロッパで流行した螺旋状(らせんじょう)のデザインの影が見えるという。

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南蛮寺(なんばんじ、教会、都の南蛮寺図扇面に見える京都の南蛮寺、神戸市立博物館所蔵、google画像、京都) 姥柳町(うばやなぎちょう、中京区、京都)近辺に南蛮寺跡があり、発掘の結果、南蛮寺の建物の下部は約11m四方でした。

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金沢城の菱櫓(ひしやぐら、二ノ丸の50間長屋隅、google画像、金沢、石川) 菱櫓の下部は、10.15m四方で、南蛮寺とほぼ同じ大きさの規模でした。

(解説) 京都の教会の南蛮寺と金沢城の菱櫓の建物には、三階建てであること、屋根の形が入母屋(いりもや)であること、 隅柱(すみばしら)が黒く縁取(ふちど)られているなど、瓜二つのような共通点が見られます。これは、加賀初代藩主、前田利家の客将、キリシタン大名、高山右近による金沢城修築の影であるという。 右近は、加賀藩に26年間仕え、築城家として金沢城の修築、高岡城(富山)の築城などにも貢献しています。が、加賀藩での影、足跡、遺物などは極めて少ない という。

 高山右近(21才?)は、1573年(天正元年)、摂津(大阪)一国の領主(信長委任の一職支配)、荒木村重(1536~1586)の配下に入り、摂津高槻城の城主となりました。1578年(天正6年)、11月16日、26才?、主君の荒木村重が本願寺派、毛利氏と結んで織田信長(1534~1582)に叛(そむ)き、信長の大軍団(明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、織田信忠、佐々成政、前田利家ら)の攻略を受けた時、信長の意を受けたイエズス会宣教師オルガンテイーノの勧めで降伏しました。

 右近はオルガンテイーノと共に、摂津郡山(こおりやま、茨木市、大阪)に陣を進めた織田信長の元に出向きました。まげを落とし、腰の大小もなく、素足に草履(ぞうり)履き、紙衣(かみこ)1枚きりのみすぼらしい姿であったという。信長もその凄愴(せいそう)な姿にしばし声を失い、右近の将才を高く買って、着ていた小袖(こそで)を脱ぎ、吉則(よしのり)の太刀と共に右近に与え、秘蔵の名馬早毛(はやかげ)を贈り、さらに、所領高槻を安堵し、2万石を加増したという。その後、右近は、4万石の高槻城主となり、安土城下のセミナリオ(神学校)建設などにも貢献したという。

 右近は、1582年(天正10年)、30才?、本能寺の変では、豊臣秀吉(1537~1598)に従い、山崎の戦いでは先陣を務める一方、千利休の高弟の一人で茶人としても幅広く活躍しました。1585年(天正13年)、33才?、6万石に加増されて播磨明石城主になりました。その人徳の影響を受け、多くの大名(黒田孝高、蒲生氏郷ら)や領民がキリシタンになったという。1587年(天正15年)、35才?、秀吉の九州平定に出陣し、その帰途発令されたバテレン追放令(宣教追放令)によって棄教を迫られました。が、右近が選択したのは大名としての保身ではなく、信仰の道でした。

 右近は改易により領地をすべて没収され、1588年(天正16年)5月、36才?、肥後(熊本)に転封(てんぽう)となったキリシタン大名、小西行長(1558~1600)に庇護され、小豆島や肥後などに隠れ住むのですが、同年秋、36才?、加賀初代藩主、前田利家客将(きゃくしょう)となり、1万5千石の扶持を受け、加賀、能登の地で26年間過ごすことになります。その間、秀吉の小田原攻めに功績を上げ、金沢城の修築、高岡城(富山)の築城などにも貢献しました。この頃は、利家が金沢に入城してまだ5年、金沢城は築城途中でした。

 加賀に伝わる「金城深秘録(きんじょうしんぴろく)」や「三壺紀(みつぼき)」によれば、高山右近が金沢築城にかかわるのは、1592年(文禄元年)の文禄の大改修の頃と考えられています。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い直前には、内惣構堀(うちそうがまえぼり)の掘削(くっさく)の指揮もとりました。1602年(慶長7年)、金沢城本丸の天守閣が落雷で炎上、翌年、天守閣に替わって三階櫓が建てられました。右近は、これらの再建にも、また、1609年(慶長14年)、加賀(2代)藩主、前田利長(1562~1614)のため、高岡城(富山)を設計するなど、慶長期加賀藩では築城家として活躍しています。 

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高山右近の銅像(カトリック金沢教会、google画像、広坂、金沢、石川) カトリック金沢教会(天上の青、高山右近邸跡(21世紀美術館付近)から運ばれた石(南坊石)が敷地内に眠る教会、広坂、金沢、石川): http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/place/isikawa/kanazawach.html

(解説) 高山右近は人徳の人として知られています。摂津高槻城主の時、領内の村人が死ぬと、率先して棺桶を担いだという逸話も残っています。その人徳などの影響を受け、牧村正春、蒲生氏郷、黒田孝高らがキリシタン大名になりました。細川忠興、前田利家は洗礼を受けなかったのですが、右近の影響を受け、キリシタンには好意的でした。

 右近は、1588年(天正16年)秋、36才?、前田利家客将となり、加賀藩に26年間仕えています。その間、布教により、1601年(慶長6年)に172人が洗礼を受け、3年後には加賀藩内のキリシタンは1500人に達し、宣教師によるローマへの1615年(元和元年)の年報には、右近が作った南蛮寺(教会)、カトリック金沢教会は、日本で一番栄えたと伝えられました。

 その後、関ヶ原以降10年間、徳川家康(1543~1616)はキリシタンの布教を黙認していましたが、1613年(慶長18年)12月、キリシタン禁教令を発し、1614年(慶長19年)1月17日、62才?、右近は国外追放となり、26年間過ごした加賀を立ち去り、京都所司代に引き渡され、その後、大阪から船で長崎に護送され、家族と共に長崎からガリオタ船に乗り、同年12月21日、マニラに到着しました。彼の宣教活動は海外にも伝わっており、スペイン人のフィリピン総督から歓迎されました。が、マニラ到着から45日後、1615年(慶長20年)2月3日、63才?、熱病のため死去したとされています。

 右近は、時の権力者の圧力に屈せず、信仰の志を変えることはありませんでした。現在、右近の出身地、大阪府高槻市の中心部にある市立城趾公園には、カトリック高槻教会高山右近の銅像が立ち、どのような迫害にも屈しなかった強い信仰の信念が後世に伝えられています。

(参考文献) 永原慶二(監修): 日本史事典、p.724、高山右近、岩波書店(1999); 北川章人(発行): 加賀百万石異聞・高山右近(2002年1月~12月、北国新聞、富山新聞掲載:http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon26.html.をもとに加筆、構成)、北国新聞社(2003); 宮元健次: 名城の由来、そこで何が起きたのか、光文社新書(2006); 朝日新聞(朝刊): 歴ナビ、旅する日本史、ゆかりを訪ねて、5 高山右近、祈りの灯は消えない、2009年(平成21年)10月10日(土)より.

(参考資料) 金沢城の惣構跡(金沢市、石川): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/torikumi/sougamaechousa.html

キリシタン大名、高山右近と前田氏カトリック金沢教会、広坂、金沢、石川):http://www.church-kanazawa.sakura.ne.jp/ukon/index.html

カトリック高槻教会高山右近、google画像、高槻市、大阪):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E9%AB%98%E6%A7%BB%E6%95%99%E4%BC%9A&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=581

(追加説明) 

○ 高山右近(たかやまうこん)は、安土桃山時代から江戸初期の武将でキリシタン大名です。名は長房、号は南坊といい、高山(豊能町、大阪)の有力者一族の出身、摂津(大阪)生まれ、父はキリシタン武将、高山飛騨守図書(ずしょ、洗礼名ダリヨ)の子です。1564年(永禄7年)、12才?、父の影響でキリスト教の洗礼を受けました。洗礼名、ジュストは、ポルトガル語で「正義の人」を意味するという。 

 高山右近、1568年(永禄11年)、16才?、織田信長が上洛し、右近父子は和田惟政に従い、摂津芥川城を預かりました。1569年(永禄12年)、織田信長はルイス・フロイスに京都布教を許可しました。その後、1570年(元亀元年)、18才?、高槻に移りました。1571年(元亀2年)、19才?、荒木村重が和田氏と戦い、惟政戦死、右近父子は馬塚、糟塚を守りました。1573年(天正元年)、21才?、右近父子、和田惟長を討ち、高槻城主となり、友祥と称します。その後、荒木村重に属し、2万石の高槻城主となりました

〇 高山右近は、信仰に命をささげた殉教者として、日本カトリック司教協議会がローマ法王庁に申請、フランシスコ法王が2016年1月に列福を承認しました。これは世界カトリック教会の最高の崇敬対象の「聖人」に次ぐ「福者」の称号で、それを授ける列福式が2017年2月7日、大阪市中央区の大阪城ホールでありました。今後は、右近が亡くなった2月3日を記念日として毎年、祈りがささげられることになりました。(2017年(平成29年)2月8日(水)、北陸中日新聞、朝日新聞、朝刊より)

 隠れキリシタン寺本行寺(小島町、七尾市、石川県)

 本行寺(法華宗)は15世紀、茶人円山梅雪(ばいせつ)が開いたとされる。客将として前田利家に招かれた高山右近が、1614年(慶長19年)に国外追放されるまで加賀藩の重臣らとともに滞在。境内に修道所を建て、信仰と医学、建築など西洋知識を広める拠点とした。寺には右近の書状や渾天儀(こんてんぎ、天体の位置を測定する道具)、合掌した胸の奥に十字架が隠された隠れキリシタン秘仏など、博物館やカトリック関係者も注目する宝物が多数残る。

 境内の一角にある供養塔「ゼウスの塔」、ここでは寺に400年間伝わるとされるキリシタンの例祭「霊魂祭(アニマー)」が5月下旬に毎年行われている。「お願いを申し奉る、ゼウス、キリシタ様、母上サンタマルヤ様ーーー」。

 本行寺を含めた山の寺寺院群、前田利家の父母が眠る長齢寺(曹洞宗)では、現存する唯一の作とされる青年期の利家像、僧侶姿の父利春が描かれた国の重要文化財など、前田家ゆかりの貴重な宝物を見ることができる。

(2017年(平成29年)6月27日(火)、朝日新聞、朝刊より)

〇 本行寺(七尾の山の寺寺院群、きまっし金沢、金沢の総合情報):http://kimassi.net/noto/hongyouji.html

〇 長齢寺(七尾の山の寺寺院群、きまっし金沢、金沢の総合情報):http://kimassi.net/noto/tyoureiji.html

2010年12月13日 (月)

アマエビ(甘海老)、富山湾のアマエビは氷河期の生き残り、雄性先熟(オスからメスに性転換)、赤い体色で甘く栄養が高い、とは(2010.12.13)

 日本人は、昔からエビが大好きな民族ですが、その約8割を占める輸入エビは、クルマエビ(車海老)の仲間が多く、褐色、赤色、淡紅色、白色など固有の体色で大別されています。これらのエビは、おもにインド、インドネシア、オーストラリア、中米など、暖かい南の海沿岸域で打瀬網など用いて漁獲されています。

 アマエビ(甘海老)の仲間は、日本海から北海道のほか、北極を囲む、北太平洋、北大西洋に広く分布しています。特に、ベーリング海、アラスカ、カナダ西岸、アイスランド、グリーンランド、ノルウェーなど、寒い北の海深海域で底引網、かご(籠)など用いて漁獲され、日本へ多量に輸入されています。アマエビは、ホッコクアカエビ(北国赤海老)の市場における呼び名です。

アマエビ(甘海老、ホッコクアカエビとも、石川の四季のさかな、google画像、農林水産部水産課、石川県)

(解説) 石川県の代表的な一品として、舌先でトロッととろけるアマエビ(甘海老)の生の刺身があります。アマエビの学名は、ホッコクアカエビ(コエビ亜目、タラバエビ科、タラバエビ属)、別名トウガラシエビ、ナンバンエビとも呼ばれています。体はやや細長く、全体が淡紅色で、体長が約10cmです。島根県以北の日本海、オホーツク海から北太平洋、北大西洋西部に分布し、陸棚斜面の砂泥の海底で、水深は200~500m、水温は0~8℃近く、冷たい深海に生息しています。

 山陰地方で獲れるアマエビに似たエビに、ドロエビ(泥海老、モサエビ、クロザコエビとも、エビジャコ科)があります。また、北海道、千島、樺太に分布する寒海性のアマエビに似た体長13cmほどのエビに、ホッカイエビ(北海海老、ホッカイシマエビとも、タラバエビ科)があります。これらの種も、雄性先熟、いずれもアマエビの仲間のようですが、アマエビとは別種のエビという

   

富山湾の海洋構造模式図、夏に北から見た様子、google画像、富山県水産試験場、富山) 富山湾は、駿河湾、相模湾に次いで、全国で3番目に深い湾です。沿岸から10~20kmの所で深さが1000mに達する急深な海底地形が特徴です。 富山湾を科学する(富山県水産試験場からの報告、No2、2002年): http://www.pref.toyama.jp/branches/1661/suisan/no02.html

(解説) 富山湾アマエビは、10cm足らずの小型の赤いエビで、かって日本海域氷河期の頃生き残りとも言われています。それは、富山湾には、北アルプスの雪解け水が深海にまで流れ込むからです。そのため、深海の海水温度が極めて低い。今から1万5000年前、世界中の海に分布していたオキアミの一種アマエビは、氷河期が終わりを迎え、間氷期(かんぴょうき)に入ってからも、富山湾が氷河期と同じ海域を保っていたので、そこで生き残ることが出来たという。すなわち、富山湾の深海は氷河期の環境を残存していたという。

 アマエビは、成長の過程で性転換する雄性先熟(ゆうせいせんじゅく)のエビで、若い時はオス、成長してメスになります。その性転換は、ふ化後4~6年目の春に起こるという。卵を抱いたメスは、200~300mの少し浅い場所へ移動し、稚エビを放出します。寿命は11年程度で、3度ほど産卵して一生を終えるという。四季を通して漁獲されますが、晩秋から初春にかけてが旬です。ことに冬は、緑色の卵をたっぷりと抱えて、味が一段とよくなる時期です。おもに底引網で獲られますが、水深300m程の所に、かご(籠)を仕掛けて獲る、エビかご漁も行われています。

 このエビの生のトロッとした甘味は、グリシン、アラニン、セリンなどのアミノ酸類によるものです。特に、グリシンが体液中に大量あり、他のアミノ酸は補助的に含まれています。グリシンは最も簡単な化学構造(NH2CH2COOH)をした唯一の甘味を持つアミノ酸です。その名前の由来は、ギリシャ語、glukus(sweet)、「甘い」、という。これらのアミノ酸は、マツバガニ、ホタテガイなどの甘味成分ともなっています。また、アマエビの赤い体色成分は、キサントフィル類のカロチノイドの一種で、アスタキサンチンと呼ばれるものです。

 アマエビは、美味しいばかりでなく、そのタンパク質は、100g中に20gとタイ(鯛)より多いという。また、タウリンも多く含まれ、脳卒中、高血圧、心臓病などの成人病の予防食としても大いに効果があるという。最近では、殻の中にキチンがあり、これがコレステロールの低下や脂肪分の代謝促進に効果があることも知られています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 石川化学教育研究会編: 科学風土記ー加賀・能登のサイエンスー、p.64~65、板垣英治、アマエビはなぜ甘い?、裳華房(1997); 石川県農林水産部水産課(鞍月、金沢市): 石川の四季のさかな、春: カレイ、サヨリ、夏: イカ、秋: アマエビ、冬: ズワイガニ、コウバコガニ、ブリ(パンフレット、2010)、金沢港いきいき魚市(無量寺町、金沢市): アマエビ(甘海老、No,21、p.42~43、パンフレット、2010).

(参考資料) ○ ホッコクアカエビ(甘エビ、市場魚貝類図鑑): http://www.zukan-bouz.com/ebi/tarabaebi/tarabaebi.html

石川の四季のさかなのさかな、あまえびほか、農林水産部水産課、石川県): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/suisanka/siki/siki.html

○ イセエビ(伊勢海老)

 イセエビは中部以南の太平洋岸と九州の西岸でとれる大型のエビです。もと三重県の伊勢地方でよくとれたのでこの名があります。小さなもので150~160g、大きいものになると700~800gあります。パーティーなどに供されるものは、おおよそ300~400gです。生きたままで刺身にしたり、具足煮、鬼殻焼、ボイルなどの方法で調理します。

 

2010年12月 6日 (月)

冬を迎える風物詩、兼六園の雪吊り(ゆきづり)、武家屋敷の土塀の薦掛け(こもかけ)、とは(2010.12.6)

  北海道、東北をはじめ、日本海側の新潟、北陸、山陰地方では、降雪量が非常に多く、積雪、寒風害から庭木を守るため、雪吊りやその他の雪除け作業を行なっています。

 特に、北陸の雪水分を多く含み、大粒で軟らかく、重い雪(淡雪、牡丹雪)なので、樹木の葉の上に積もりやすく、枝折れの害を起こしやすい。が、気温の急激な低下による寒気の害や霜の害は極めて少ないという。そのため、冬の樹木の枝に雪を積もらせないよう、樹木の枝を支柱を使って縄で吊り上げます。その時、縄の吊り方や張り方に細心の注意を払っています。

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兼六園雪吊り唐崎、霞が池のそば、加賀(13代)藩主・前田斉泰(まえだなりやす、1811~1884)が近江八景の一つである琵琶湖畔(大津、滋賀)の唐崎の松から種子を取り寄せて育てたクロマツ(黒松)のリンゴ吊り、金沢、石川、google 画像)  雪吊りの風景は、1967年(昭和42年)1月25日売り出しの郵便切手の図柄にも採用されました。巨大な円錐状の幾何学模様が大空に浮かぶ兼六園の冬を代表する景観です。

(解説) 兼六園には名木や枯木が多く、これらの樹々を倒木や枝折れから守るため、できる限り自然の形で育つようにと雪吊りが考え出されました。雪吊りは、おもにマツ類(アカマツ、クロマツ)のほか、ツツジなどに施されます。江戸時代のはじめ、1663年(寛文3年)の加賀藩史料に、竹木の「雪折、風折、立枯、念を入相改。附、雪前無滞竹巻せ可申事」(改作方勤仕帳)とあります。

 兼六園では、毎年11月初旬から1ヶ月余かけ、雪吊りの作業を行います。その代表的なものは、「りんご吊り」と名づけられている手法です。樹木ごとに芯柱(しんばしら、アスナロ、真竹など)が立てられ、百数十本から多いもので260本に及ぶ縄が樹木を囲むように張られます。りんご吊りのほか、幹吊り(樹木の幹から縄を張る)、竹又吊り(三つ叉、四つ又吊りとも、竹を立てて縄を張る)、しぼり(低木の枝を全て上に集め、縄で下から巻き上げて結ぶ)などがあります。

 りんご吊りの名称は、1875年(明治8年)、西洋リンゴが日本に入り、20年ほどでたわわな実をつけ、その重さから枝折れを防ぐために木の中心柱を立て縄で枝を吊り上げたそうですが、この方法を雪国の植木職人が雪吊りに採用したものだという。ということで、りんご吊りは、明治の終わり頃にはじめられたと言われています。加賀(石川)の植木職人は「りんご吊り」を「芯立て」と呼んでいます。

 雪吊りは、兼六園だけでなく、観光地、公共的な敷地をはじめ、一般住宅の庭木にも行われており、人々の生活の一部となっています。そして、3月中旬から彼岸にかけて取り外しの作業が始まり、本格的な春を迎えることになります。

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薦掛け(こもかけ、金沢中心街の片町、香林坊近く、武家屋敷の土塀、長町、金沢、石川、google画像)

(解説) 薦掛け(こもかけ)は、雪や雨から土塀(どべい)がはがれ落ちることや、内部に含まれる水分の氷結によるひび割れを防ぐために、藁(ワラ)と縄(ナワ)できめ細かく編まれた薦(コモ)を土塀の屋根下に下げていく作業です。

 薦(こも)は高さ95㎝、幅がそれぞれの土塀に合わせて1~4mほどで、下部には揺れ動かないように、竹の棒を通しますが、薦にくくりつける際に、縄を「男結び」という技で結ぶという。江戸時代から続く冬の風物詩という。

 また、風除け(かざよけ)は、西の季節風の強い日本海沿岸地方に多く、家の北側に板や蘆(ヨシ)、荻(オギ)、芒(ススキ)、藁(ワラ)などで塀(へい)ほどの高い囲みをします。大規模なものもあれば、簡単で粗末なものもあります。風除の準備が終わると、やがて、北国は厳しい冬を迎えることになります。

 仲冬(ちゅうとう)は、大雪(たいせつ、12月7日か8日頃)から小寒(しょうかん)前日(1月4日)までをいいいます。その頃には、山の峰々は積雪に覆われ、平地も北風が吹きすさんで、冬将軍がいよいよ到来したのかと感じられるようになります。 

(参考文献) 樋口清之: 生活歳時記、三宝出版(1994); 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、p.236~244、雪吊り、橋本確文堂(1997).

(参考資料) 兼六園の雪吊り(金沢、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%85%BC%E5%85%AD%E5%9C%92%E3%80%80%E9%9B%AA%E5%90%8A%E3%82%8A&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=Lnz7TNy-IILprAf05KGVCA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=2&ved=0CCwQsAQwAQ&biw=1004&bih=581

武家屋敷の薦掛け(金沢、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%B1%8B%E6%95%B7%E3%80%80%E9%87%91%E6%B2%A2%E3%80%80%E8%96%A6%E6%8E%9B%E3%81%91&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=581

2010年12月 2日 (木)

落葉の季節(2010年12月はじめ)、わが家(桜田、金沢)近くの金沢幹線道路沿いのヤマボウシ(山法師)、葉柄(枝)のもと近くの冬芽、中国の諺の樹高千丈、落葉帰根、落地生根、とは(2010.12.2)

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ヤマボウシ(山法師)の落葉と冬芽 上辰巳(東北、金沢中心街)歩道沿い、 観音道(西北、日本海)歩道沿い、桜田、金沢、石川、2010年(平成22年)12月2日撮影)

 落葉したヤマボウシ(山法師)の葉柄(枝)の付け根(離層、りそう)には、冬期を越え春になって成長する冬芽(ふゆめ、とうが、越冬芽休眠芽とも)が形成されているのが見られました。

冬芽や葉痕の観察(富山県総合教育センター、富山): http://rika.el.tym.ed.jp/cms/751f7269/188abf7814/51ac82bd306830ed30c330c8

愉快な冬芽・葉痕達(鎌倉発、旬の花、神奈川):http://shizuka.sakura.ne.jp/kobo/fuyume_index.htm

 中国の諺樹高千丈(じゅこうせんじょう)、落葉帰根(らくようきこん)は、樹木がどんなに高くても、落ちる葉は、また、根元に帰り、腐葉土となり、木を育てると言う。

 これは、中国禅宗六祖、慧能(えのう)、638年(貞観12年)~713年(先天2年)の言葉で、人間が年老いて昔を懐かしみ、生まれ育った故郷に帰りたくなる思いを、高木の落ち葉に喩えた、とも言われています。 一方、落地生根(らくちせいこん)は、地に落ち、そこで根を下ろす、すなわち、自分がいま生きている場所が故郷である、という言葉です。

 私は12月はじめ、わが家の近くを散策したところ、金沢幹線道路(観音堂・上辰巳線)沿いのヤマボウシ山法師)の街路樹は紅葉の葉を落として枝だけの姿になっていました。

(参考文献) 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之: 生活歳時記、三宝出版(1994); 岩瀬徹、大野啓一: 写真で見る植物用語、全国農村教育協会(2004).

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