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2011年2月の4件の記事

2011年2月21日 (月)

クリーニング(湿式洗濯)、汚れを落とすしくみ(界面活性剤の作用、乳化、起泡、分散)、ドライクリーニング(乾式洗濯)、とは(2011.2.21)

   クリーニング(洗濯、せんたく)とは、衣料その他の繊維製品などの汚れを、石鹸、合成洗剤などの各種洗剤を用いて落すことですが、その汚れを落とす正体は、洗剤の構成成分である界面活性剤(かいめんかっせいざい)と呼ばれる、水分子と油分子をつなぐ物質です。 水に溶けて水の表面張力を低下させる作用を界面活性といい、少量で著しい界面活性を示す物質を界面活性剤という。

 石鹸は界面活性剤の一つですが、界面活性は水と空気の界面に界面活性剤などが吸着することによって起こります。界面活性剤は、水と空気の界面だけではなく、水と油の界面、水と固体の界面にもよく吸着します。それらは石油や植物の油、動物の脂肪などを原料として作られ、何千種と多く、あらゆるところで使われています。

○ クリーニング(湿式洗濯)

 石鹸高級脂肪酸ナトリウム塩(固体)、カリウム塩(液体)など)は、木綿、麻などのアルカリに強い植物性繊維に向き、洗浄力が大きく、特に肌着(はだぎ)などには好適ですが、硬水ではカルシウム塩(石鹸カス!)ができるので、使えません。

 石鹸の起源については、紀元前3000年、シュメール人(イラク)が木灰と油を混ぜて加熱し医薬用の石鹸を作ったことが粘土板にくさび形文字で記されているという。また、紀元前800年、古代ローマ時代、サポーの丘の神殿で、羊を焼いて供える風習(生贄、いけにえ)があり、その時したたり落ちる羊の脂肪と木灰が混ざった土の固まりができ、これが汚れを落とす不思議な土として珍重されたという。日本へは室町時代の末期、ポルトガル人によって鉄砲と一緒に種子島に伝えられたという。石鹸の歴史(石鹸百科、生活と科学社:http://www.live-science.com/honkan/soap/soaphistory01.html; Hearth: http://www.heart-and-earth.com/soap_contents_history.html.)

 合成洗剤(直鎖型のアルキルベンゼンスルホン酸塩など)は、羊毛、絹、化学繊維などに広く用いられ、硬水でも利用できる利点があります。木綿や麻では、アルカリ剤の洗濯ソーダ(炭酸ソーダ)、石鹸と併用されます。

 世界初の合成洗剤は、1917年(大正6年)、ドイツで石炭から合成されたアルキルナフタレンスルホン酸塩と言われています。(石鹸百科より)

 洗濯石鹸(せんたくせっけん)は、化粧石鹸以外の洗浄用の石鹸で、乳化(にゅうか)、起泡(きほう)、分散(ぶんさん)などの作用を高めるため、石鹸素地にリン酸ナトリウム、炭酸アルカリ、ケイ酸アルカリ、ベントナイト(粘土)などを配合します。そして、冷水によく溶け、洗浄力が大きく、しかも繊維の生地を痛めないことが必要です。それには、粉石鹸、棒状石鹸、ビーズ石鹸、フレーク(小片状)石鹸などがあります。

 化粧石鹸(けしょうせっけん)は、顔や手足の洗浄に用いられる石鹸です。特に精選した原料油を用い、石鹸素地に着色剤、香料などを加え、機械練りして成形します。気泡を入れた浮き石鹸、アルコールや砂糖などを配合した透明石鹸、軟質で糊状を呈するカリ石鹸(軟石鹸ともいう)、殺菌剤を配合した薬剤石鹸などもあります。

○ クリーニングの原理

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汚れを落とすしくみ(洗剤の界面活性剤による洗濯物(繊維)の汚れの除去機構、日本化学会編: 化学ってそういうこと! p.56~57、汚れをおとすしくみって? 化学同人(2003)より) 

(解説) 汚れを落とす正体は、洗剤の中に入っている界面活性剤(かいめんかっせいざい、表面活性剤とも)です。洗剤を溶かすと水の表面張力が小さくなり、布の繊維の間にしみ込みやすくなります。界面活性剤の分子の大きさは約1mmの50万分の1、洗剤の構成成分(一つの分子の中)に水になじむ部分、親水基と油になじむ部分、親油基(疎水基ともをもっています。すなわち、界面活性剤は、その分子の一端に親油基(CH3CH2ーー、脂肪族炭化水素基など、炭素数で約8以上)を、他端に親水基(カルボキシル基、COO-、スルホン酸基、SO3ーなど)をもつため、油脂性の汚れ(タンパク質、脂肪などからなる汗、食べ物のシミなど)を囲んでこれを小さな粒子(コロイド粒子の乳濁液、ミセルとなる!)として繊維表面から分離させ(乳化作用、分散作用とも)、この粒子は表面張力の低下によって多数生じた泡(あわ)に吸着されて運び去られます。

 界面活性剤は、乳化作用、分散作用などの特徴を生かして、住まいや食器の汚れを落とす家庭用洗剤、シャンプーやリンス、はみがき、乳液(にゅうえき)や口紅(くちべに)などの化粧品、ケーキ、チョコレートなどの食品、自動車の塗料、新聞紙や雑誌の再生紙へのリサイクルにおいて、紙からインクを取り除く脱墨材など、さまざまな分野に使われています。また、ダスキンのダストコントロールモップは、モップ布(100%ナイロン)に薬液(パラフィン系鉱油剤、非イオン系界面活性剤、陰性イオン系界面活性剤など)を含ませたもので、棚、家具、タンスの表面などのゴミを付着除去します。

 シャボン玉は、界面活性剤の作用によるものです。それは、水が丸くなろうとする表面張力を下げて、広がりやすくする力、さらに、空気と水の界面に吸着しやすい性質によって、大きな水の膜ができ、泡(あわ)やシャボン玉となります。 

○ ドライクリーニング(乾式洗濯)

 揮発性溶剤を使って衣料、その他の繊維製品などの汚れを落とす洗濯をドライクリーニング(乾式洗濯)という。溶剤として、ほとんどは石油系溶剤(工業ガソリン、沸点150~210℃、主成分は脂肪族炭化水素のアルカンなど)ですが、トリクロルエチレンパークロロエチレンとも、発がん性あり!)も使用されています。

 ドライクリーニングは、1855年(安政2年)、フランスの染色工場主のJ.P.ジョリーが、彼のお手伝いさんが石油ランプをテーブルクロス上にひっくり返した時、灯油によりテーブルクロスがきれいになっているのを見て、偶然に発見したと言われています。日本では、1907年(明治40年)、白洋舎の五十嵐健治(1877~1972)がはじめてドライクリーニングを行ったとされています。

 ドライクリーニングは、水で洗うと形態や材質が損なわれる衣類、特に油脂性の汚れが付着した羊毛製品、毛皮製品などに適しますが、水溶性の汚れやシミは除去できないのが欠点です。最近では、洗浄剤を溶解した溶剤を併用し、汚れの除去を増大させています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 大木、大沢、田中、千原(編): 化学事典、東京化学同人(1994); 伊佐、内田、関崎、本浄、増田、宮城(著): 化学の目でみる物質の世界、p.84~85、界面活性剤、p.162、石鹸、内田老鶴圃(2003); 日本化学会編: 化学ってそういうこと! 夢が広がる分子の世界、p.56~57、化学同人(2003).

(参考資料) クリーニングの基礎知識(全国クリーニング生活衛生同業組合、全ク連、東京):http://www.zenkuren.or.jp/index.php?itemid=10

洗濯・染み抜き・クリーニングの大辞典(お洗濯の総合サイト): http://sentaku-shiminuki.com/index.htm

ドライクリーニングの歴史(TLC Home How Dry Cleaning Works) : http://tlc.howstuffworks.com/home/dry-cleaning1.htm

(追加説明) 1980年(昭和55年)頃、米誌「コンシューマーズリポート」が、ニューオルリーンズのミシシッピ川流域の住民の間に多発する胃ガンの原因は、水中の有機塩素化合物トリハロメタンクロロホルム)ではないかと報告して以来、クロロホルムが発ガン性物質として世界的に注目されました。この物質は水道水の原水、河川水を塩素消毒する時に生成されますが、水道水を一度煮沸すると除去することができます。  

 その後、日本各地のテクノパーク(熊本、兵庫、愛知、神奈川ほか)、半導体工場ドライクリ-ニング店の洗浄剤、有機塩素系溶剤の廃液による地下水の汚染、特にドライクリーニングに使われていた有機塩素化合物の溶剤、トリクロルエチレンなども発ガン性の疑いがあることが分かり、その使用と廃液の処理などの規制が強化されました。塩素系の有機溶剤は水より重いので、地下水の凹みに溜まり除去するのが問題となりました。

 また、私の研究分野、「無機化合物、特に金属の溶媒抽出」の研究において、有機塩素系溶媒(四塩化炭素、クロロホルム、クロルベンゼンなど)の使用の規制がありました。.

2011年2月14日 (月)

碁石の微笑(はじめての本)、コスミに良手あり(格言)、太閤碁(逸話)、定石を知らぬ奴には敵わない(川柳)、私のはじめての囲碁愛読書、とは(2011.2.14)

   碁石の微笑は、青木新平著、1956年(昭和31年)5月(初版)、6月(再版)、六月社(大阪)より発行されました。これは、1959年(昭和34年)7月頃、 私がはじめて囲碁に興味を持ち、耽読(たんどく)した、強く印象に残る本です。

 碁石の微笑の序(呉清源)には、「青木さんは、昭和3年の秋、日本に来て間もない私を、上野の動物園につれて行ってくれた人です。ーーー碁石の微笑をひと通りみると、随筆風に、読物を主として、さらに誰でも心得ていなければならぬ碁の鉄則もしくは格言の図解が加えてある。こうした方面ではこのベテランにそつのあるはずがありません。無条件で推薦するものであります。ーーー」と述べられています。

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碁石の微笑(表紙、青木新平著、六月社、1956) 囲碁は烏鷺(うろ)とも呼ばれるので、碁石の黒石を烏(からす)、白石を白鷺(しらさぎ)として擬人化し、碁盤の4足をクチナシ(口なし!)の花模様として囲んだ微笑(ほほえ)ましい絵となっています。(装幀: 高木四郎)

(解説) 碁石の微笑から囲碁の本質と奥深さ、面白さを学び、対局により腕をみがき、1年足らずで初段(日本棋院)になりました。今でもこの本の格言、逸話、川柳など懐かしく想い出されます。

  囲碁の格言技術篇、四五の名言に集約)として、 ツケにはハネよ、二目(にもく)の頭は見ずハネよ、コスミに妙手あり、ケイマにツケコシ、逃げは一間トビ、攻めはケイマ、シチョー知らずに碁を打つな、「亀の甲」六十目、シチョーのノビ出し七目の損、ノゾキにツガぬ馬鹿はなし、キリチガイ一方をノビよ、一間トビに悪手なし、

 ヘボのアキ三角、ボーシにケイマ、四隅取られて碁を打つな、ポン抜き三十目、二子にして捨てる、石を割かれるな、一石碁に負けなし、ハイハイする児はよく育つ、先劫トルべし、三手の寄せ劫、劫にあらず、花見劫、死はハネにあり、左右同形中央に手あり、眼あり眼なしはカラの攻合い、五目中手は十三手、タケフの両ノゾキ、

 下手がハネてもハネ二目、渡り八目、下手碁にダメなし、石飛んでその碁に勝たず、大石死せず、初劫に劫なし、近所劫に立たず、両劫三年、曲り四目は眼でござる、「2の一」に手あり、三子のまん中、眼あり眼なしも時にこそよれ、ダメのツマリは身の詰まり、下手の両ズケ、ハネツギ十三目、二立三析、下手の考え休むに似たり、岡目八もく

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コスミに良手あり(コスミのさまざまな場合と働き、下図は秀策流黒7のコスミ、p.14~15.碁石の微笑、より)

(解説) 「一間トビに悪手なし」は、一間トビを全面的に支持したのですが、この場合はコスミを全面的に支持しているというわけではありません。碁盤というものはご承知のように縦横十九の直線からできている。そして石はこの線に従って連絡するものです。そこでこの線に沿ってノビるとかトブとかいう直線的な行動はすぐに頭に浮かんでくるものですが、コスミとかケイマという斜(ナナメ)の動きは、思考の盲点になり易いのです。

 この盲点に妙手が隠されている場合があるというのがこの格言です。そして斜行するものはコスミとケイマと二つありますが、ケイマには多少の欠陥はあっても、コスミにはそれがないために、また死活、攻合いのように場所が狭くなっても打てるために、コスミを取り上げたものと思います。

 コスミを代表する名手としては、秀策流黒7のコスミがあります。他の定石に変遷があっても、この黒7は永久に良手として残るものであると、本因坊秀策自身で折り紙をつけたものです。

○ 囲碁の逸話として、碁なりせば劫を打ちても活くべきに死ぬるばかりは手もなかりけり(初代本因坊算砂の辞世)、本能寺三劫の局、三劫の局、太閤碁、天元の局、本因坊二世算悦、松平肥後守をたしなむ、道悦、遠島を覚悟する、道策、名人碁所となる、道策終生のの傑作、唐人の泣き手、道策のハメ手、道知、仙角の争碁、

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太閤碁(たいこうご、真似碁、まねご、囲碁の微笑、p.90~92、六月社、1956)

(解説) 碁盤というものは天元を除けば、全部対称点があるのですから、その天元を最初に打って置けばそういうことも可能のようですが、上図のような手段があって、実際には真似碁(まねご)は成立しないという。 

 秀吉が信長のあとをついで、やはり碁を奨励し算砂を寵遇したのですが、次のような巷説があります。まだろくに碁の打ち方も知らない秀吉が、本因坊が打っているのを見て、「わしだって碁は打てる。先をもてば恐らく本因坊にも負けないだろう」といったので、本因坊もこれを怪しんで、「それなら一つ対局いたしてみましょう」と言うことになって、盤に対したのです。

 そこで秀吉は石をとるやいなや、第一手を天元に打った。そしてその後は、本因坊の打つ手に従って、その対称点に打って行く、いわゆる真似碁(まねご)をやったので、さすがの本因坊も手段に窮して石を投じたということです。実際は、上図のように真似碁は成立しませんので、まったくの俗説ということになります。

察元、大名行列にて算砂の墓参、元丈・知得、因徹吐血の勝負、因徹吐血の局、丈和夢中の局、外山算節、打ち掛けの碁、永久の打ち掛け、耳赤の名手、「耳赤」の碁、「先番でした」、雄蔵の傑局、雄蔵一生の傑作、明治以後

○ 囲碁の川柳篇として、見物はみな強そうな口をきき、定石を知らぬ奴(やつ)には敵わない、一目の負けに座布団撫(な)でまわし、碁敵(がたき)はにくさもにくし懐(なつ)かしし、えらそうな顔している方が五子(ごもく)置きなど(全39句)、面白(おもしろ)、可笑しく(おかしく)、解説付きで紹介されています。

 定石を知らぬ奴(やつ)には敵わない (解説) 名人に定石なしといいますが、なにも名人に限ったことではありません。碁には元来定石などというものはないのだとも言えます。あるのは力です。力がなくては、いくら定石を知っていても役にたたない。「あいつは筋が悪いよ」などといわれる人の碁をみると、決して筋がわるいどころではない。こういう人はなかなか鋭いところを持っているものです。自分に納得(なっとく)が行かない手でなければ打たないという強い人です。

 碁はどうしても自分の手を打たなければなりません。うろおぼえの形をたよりに、ハテ、定石はこの辺に打ったはずだ、ではだめです。着点というものは、一点に限る。一路をずらし、一道をはずれても、全然違ったものです。この辺りなどというような着点はないのです。たとえば五目中手(なかで)にしても。打つ手はただ一点です。それをはずしては、生死が逆転するのです。

 もうひとつ誤解され易いのは、定石がすべてを尽(つく)くしていると思われ勝ちなことです。定石は単なる打ち方のひとつにすぎないので、そう打てばそうなるというだけのことである。決してすべてではありません。無限の変化のひとつです。大海の一波にすぎないのです。

(参考文献) 青木新平: 碁石の微笑、六月社(1956).

2011年2月 7日 (月)

国有林(林野庁)、戦後の植林の主役、スギと花粉症、春と秋の花粉症、日本各地の自然特性(県花・県木・県鳥)、クマの出没(里山の放置ではなく餌不足)、とは(2011.2.7)

   日本の国土は約7割が森林です。森林は木材の生産のほか、水源かん養(良質な水を育む)、山地災害の防止(洪水の緩和)、二酸化炭素の吸収・貯蔵(光合成)などの働きもあり、野生鳥獣の生息の場(奥山)、人間にとっては散策、生活の場(里山)ともなっています。

○ 国有林野の分布

 国有林野が所在する面積は、760万ヘクタールあり、国土の約2割、森林面積の約3割を占めています。

国有林野の分布状況都道府県別では全ての都道府県に、また、市町村別では、約半分の市町村国有林野が所在しています、google画像、林野庁)

(解説) 全国各地の国有林は、地形の急峻な奥地の山々や河川の源流に多く分布しています。また、民有林に比べて原生的な天然林が広く分布し、野生の動植物の生息地や生育地として重要な森林も多く含まれています。そして、保安林の約5割、国立公園の約6割が国有林となっています。

 国有林野事業は、第2次世界大戦で荒廃した森林の整備や、戦後の復興期から高度経済成長期にかけての旺盛な木材需要に対する積極的な資材供給などを行ってきました。その結果、231万ヘクタールに及ぶ人工林(国有林野面積の約3割)が造成されたほか、461万ヘクタールの天然林(国有林野面積の約7割)が維持・管理されています。 国有林(林野庁): http://www.rinya.maff.go.jp/j/kokuyu_rinya/welcome/what.html

○ 植林(人工林)の主役、スギと花粉症

 人間が植えた同種の木が並ぶ森林を人工林(じんこうりん)といい、普通、スギヒノキマツなど葉が針のように細くとがった針葉樹(しんようじゅ)を植えます。これに対し、自然に生えた種々の木が入り混じった森林を天然林(てんねんりん)と呼んでいます。主に、ブナコナラ、シイ、カシ、サクラなど葉の幅が広い広葉樹(こうようじゅ)が生えています。

 第2次世界大戦の間、木がたくさん切られ、軍の建物や防空濠、船、鉄道、紙などが作られました。戦後も、空襲(くうしゅう)で焼けた家の材料やまき、炭などに使われました。このため、裸のようになった山々で、植林が始まります。多くは、生長が早く、まっすぐ伸び、軟らかくて軽いため加工がしやすいスギでした。

 さらに、1960~70年代(昭和昭和35~45年)になると、建築ブームが起き、材木が不足して値段がはね上がりました。この時、国が持ち主の国有林では、たくさんの木を切って安く売り、値段を下げる役割を果たしました。が、国有林の森林は次々と姿を消し、スギなどが植えられました。また、民間の人が持ち主である民有林でも、国の計画によってスギなどが植林されました。そうした人々には、国から多くの補助金が支給されたので、多くの山が一度にスギなどの人工林に変わってしまいました

 が、その後、外国から値段の安い材木(外材)が輸入されるようになり、国産は安い値段でしか売れなくなってしまいました。その原因は、1951年(昭和26年)、GHQ占領下で、丸太の関税をゼロにされたこと、1964年(昭和39年)、外貨割当制度がなくなり、製材の関税がゼロとなり、木材が完全に自由化されたことに起因しています。

 そのため、山の持ち主は、林業に見切りをつけて、ゴルフ場を開発したり、売ったりしました。枝を落としたり、多く生えすぎないように切る間伐(かんばつ)などの手入れがされなくなりまし。その結果、現在では、春になると、スギがたくさんの花粉をまきちらして花粉症の問題を起こすようになりました。 木を植えた日本人の歴史(みんなの森、データ編): http://www.minnanomori.com/data/info02/frame01.html

○ 春と秋の花粉症

 春の花粉症は、主にハンノキ属、スギ、ヒノキ科などにより1~6月頃、秋の花粉症は、主にブタクサ属、ヨモギ属、セイタカアワダチソウ、イラクサ科、カナムグラなどにより8~11月頃に引き起こされています。また、自動車の排気ガス、工場の煙突などの煤煙も原因となっているいう。

(解説) 春先花粉症は、主に針葉樹スギ、ヒノキなど)、特にスギの花粉によるものですが、にも花粉症はあります。空き地などに繁殖する雑草(ヨモギ、セイタカアワダチソウ、ブタクサなど)が引き起こし、春の花粉症に比べれば症状は軽いのですが、カゼ(風邪)と間違える人も多いという。 秋の花粉症を疑え(最近ひどい鼻水、風邪? アレルギー? 医療保険、西日本新聞): http://qnet.nishinippon.co.jp/medical/doctor/feature/post_425.shtml

○ 日本各地の自然特性(県花・県木・県鳥)

 各都道府県には、郷土を代表する県の花、県の木、県の鳥が定められています。 県花 は、1953年(昭和28年)に NHK が企画した郷土の花 の設定運動がきっかけとなり、翌1954年(昭和29年)、政府もこの運動に協力して選定されました。現在ほとんどの都道府県で、このとき決められた郷土の花を 県花 としています。 続いて、1963年(昭和38年)に 県鳥、1966年(昭和41年)に県木 が定められました 

郷土の花クロユリ 県の木アテ 県の鳥イヌワシ

石川県の県花・県木・県鳥(左 クロユリ、白山に群落している高山植物、中 アテ(能登ヒバ、ヒノキアスナロとも)、能都地方に多く、輪島漆器のの素材、右 イヌワシ、白山中心に生息、天然記念物、google画像、石川県)石川県の概要シンボル、人口): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kensei/koho/gaiyo/p1.html

(解説) 北陸地方の県花・県木・県鳥、富山県はチューリップ・タテヤマスギ・ライチョウ、石川県はクロユリ・アテ・イヌワシ、福井県はスイセン・マツ・ツグミとなっています。 日本の各都道府県の県花・県木・県鳥(haruのデータルーム): http://www1.odn.ne.jp/haru/data-list/ken_hana.html

 トキ(朱鷺、コウノトリ目トキ科、Nipponia nippon)は新潟県県の鳥ですが、また佐渡市(新潟県)と輪島市(石川県)の市の鳥となっています。日本産のトキは、2003年(平成5年)絶滅したので、佐渡島では、中国産のトキをとり寄せ、2008年(平成10年)から毎年人工繁殖して放鳥しています。その後、富山県の黒部市、氷見市で飛来が確認され、また、2010年(平成12年)4月16日、石川県の能登半島、輪島市の近く、穴水町で40年ぶり飛来が確認されました。 トキ(朱鷺、google画像検索): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%83%88%E3%82%AD&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=ux0UTbj_G4fQcYybiNsK&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=5&ved=0CF0QsAQwBA&biw=1004&bih=581

○ クマの出没(里山の放置ではなく餌不足)

 南部久男氏(富山市科学博物館)は、富山県でのクマの出没を過去の事例により調べた結果、クマの出没原因として、1953年(昭和28年)頃は燃料革命以前で、薪炭林は管理され、里山は荒れていなかった。が、極端に餌が不足した年は、しばしばクマは平野に出没していたという。(2008年(平成20年)1月26日、北日本新聞より) 日本熊森協会(クマたちの棲む豊かな森を次世代に、実践自然保護団体):http://kumamori.org/infomations/esabusoku/

 宮沢賢治作、なめとこ山の熊の作品では、毎日のように山に入る熊取の名人が瀕死(ひんし)の熊に言う。 「熊。何も好きこのんでお前を殺すのではない。そうしなければ生きていけないからだ。やい。この次には熊なんぞ生まれなよ」 猟師はやがて熊に襲われて倒れる。命尽きるとき、その熊の前で「熊ども、ゆるせよ」と心の中でつぶやく。まるで自分のからだを差し出すかのようにーーー。

 賢治はいのちを食べることに神経を痛めつづけ、身もだえするように生きてきた人間だった。もしかすると、自分と熊(動物)とのあいだに食うか食われるかの平等の関係を幻想しようとしていたのかもしれない。食うものは食われる、という食物連鎖の原理だ。狩猟民的感覚といえばいえるようなメルヘン幻想である。

 だがやがて牧畜、農業革命がおこって、そのような幻想は打ち砕かれる。人間は動物を殺して食べることを許されるが、動物が人間を襲って食べることは許されない、という人間中心の論理をわれわれ社会がつくったからだった。(山折哲雄(宗教学者):いのちと食と賢治と、2010年(平成22年)6月8日(火)、朝日新聞(朝刊)より)

○ 宮沢賢治の数ある童話の中でも、とりわけ名作の一つである「なめとこ山の熊」は、熊を殺して生計を立てている淵沢小十郎(ふちざわこじゅうろう)という猟師が、その罪を感じて熊にわが身を捧げるという話であるが、小十郎は「法華経」にある、自分の身を殺して他人のために捧げるという薬王菩薩(やくおうぼさつ)であるといってよかろう。また、賢治の多くの詩の中で最もポピュラーな「雨ニモマケズ」という詩は、同じように「法華経」にある、人から馬鹿にされながらも人を愛し、人のために尽くすという常不経菩薩(じょうふきょうぼさつ)の生き方を自己の生活の理想として歌ったものであろう。日蓮以外に彼ほど「法華経」の精神をよく理解し、「法華経」に出てくる菩薩の心を自分の心として自分の人生を生き、自分の歌を歌った仏教者は存在しないと私は思う。

 宮沢賢治は、はじめ近代浄土真宗の熱烈な信者であったが、法華経や日蓮の著書を読み法華経の信仰に帰したという。そして、日蓮の思想にもとずく新しい宗教団体である田中智学(たなかちがく)の主催する国柱会(こくちゅうかい)に入り、上京して、国中会の本部の下足番(げそくばん)をしていたという。そして、智学のある弟子が何気なく賢治に語った言葉から暗示を受け、文学によって折伏しようとして、おびただしい童話を書き、自らを救い、そして多くの人を正しい教えに導いたのであろう。(梅原猛(哲学者):日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009)より)

○ 宮沢賢治(1896~1933)は、熱心な法華経信者で、街頭で布教、また農村改造の熱意に燃えて農耕指導に従事しました。昼は塾を開き、夜は作詩の生活を送りました。強い情熱と空想力、素朴で健康な作風で知られています。死後、草野心平(1903~1988)、高村光太郎(1883~1956)らによって紹介され、広く知られるようになりました。「風の又三郎」「雨ニモマケズ」「春と修羅」(樋口清之監修:生活歳時記、p.545、宮沢賢治忌、昭和8年9月21日、三宝出版(1994)より)

○ 日本の林業  2011年(平成23年)は、国連が定めた国際森林年です。日本の国内で使われる木材は約7割が輸入で、国産材は3割弱にすぎないという。1964年(昭和39年)に輸入が完全に自由化され、安価な外材が多く入ってきているためです。国は自給率を2020年(平成32年)に50%以上とする目標を立て、「森林・林業再生プラン」に必要な施策をまとめました。努力すれば林業は成長産業になり得るという。(北陸中日新聞、日本の林業、2011年(平成23年)3月20日(日)、朝刊より)

 江戸時代、1661年(寛文元年)、幕府と諸藩は林産資源保続のため、御林(おはやし、官有林)を設け、著名な御林には,津軽藩のヒバ林,秋田藩のスギ林,尾張藩の木曾ヒノキ林があり、明治維新後,多くは国有林となっているようですね!

加賀藩では、1663年(寛文3年)、加賀藩の三州(加賀、越中、能登)で、「七木の制」が定められ、松(まつ)、杉(すぎ)、樫(かし)、槻(けやき)、檜(ひのき)、栂(つが)、唐竹(からたけ)の七つの樹木が禁伐木となっています!

2011年2月 1日 (火)

立春、節分(2月3日、旧正月)と豆まき、追儺(ついな)の鬼、太陰暦(旧暦)と太陽暦(新暦)、とは(2011.2.1)

  立春(りっしゅん)は、節分の翌日2月4日頃にあたります。この日を年越しと考える風習があり、正月節、歳正月などともいう。八十八夜、二百十日、二百二十日などはこの日から起算します。

 立春は冬と春の分かれ目にあたります。この日の夜、社寺では悪魔を追い払い、春を迎える意味で、儺(ついな、鬼遣いとも)が行われます。立春の前夜または当日、社寺で行われる祭儀は、節分祭と言われています。

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節分祭古式追儺式、吉田神社、吉田山、左京区、京都、docoico.net、観光情報、google画像) 

 私は、1965年(昭和40年)頃、京都大学近く、北白川下別当町(左京区)で下宿(村井良治様方)していましたので、歩いて節分祭の吉田神社にお参りしたことがあります。火炉祭(古神札焼納神事)のとき目にした大きな火柱を今でもはっきり覚えています。火焔が天に昇ると、春が訪れる(立春)という。参拝者には、その炎が無病息災をもたらし、新春の幸運を授けると言われる。

 暦の上でこの日から春になるので、春立つ春くるなど、春の季語になっています。まだまだ寒さは厳しいのですが、日中は長くなり、野には草木が芽吹いてきます。春夏秋冬など、暦の上での季節の分け方は、太陰暦(旧暦、陰暦とも)に基づいているので、実際の季節感とは多少ずれています。

○ 節分と豆まき

 節分(せつぶん、旧正月とも)とは、季節の移り変わる時、すなわち、立春、立夏、立秋、立冬の4つの節の中の立春の前日をいい、太陰暦(旧暦)では元日から7日正月までの間、太陽暦(新暦)では2月3・4日、にあたります。この日、年男が、福は内、鬼は外、と唱えて豆をまく習慣があります。

 節分の日に自分の年よりひとつだけ多く豆を食べる習慣も、節分が年越しに行われたことを象徴しています。この日が太陽暦(新暦)にそのまま移されて、2月3日の節分という行事が始まりました。

 節分鬼打ちの起源は、奈良時代末、第42代文武天皇(683~707)の706年(慶雲3年)の頃、諸国に悪疫が流行したので、鬼儺(おにやらい、鬼払いとも)の儀式をしたのが始まりと言われています。

 また、一説には、第59代宇多天皇(867~931)の頃に、鞍馬山の奥の僧正谷に住んでいた鬼神が、都に乱入しようとしたので、3石3斗の豆を炒(い)って投げ、鬼の目をつぶしその災難から逃れたのが始まりとされています。これは、後代の人のこじつけ話ではないかという。

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追儺の鬼(ついなのおに、神に扮した追儺方相(ついなほうそう)が矛(ほこ)と楯(たて)をもって疫鬼を追っているところ(平安中期、惟宗允亮著、政事要略より)、google画像) 

(解説) 古来、大晦日(おおつごもり、おおみそか)の夜、宮中の年中行事の一つに、追儺(ついな)といって、悪鬼を払い疫病を除く儀式がありました。古く中国に始まり、わが国には7~8世紀、文武天皇の頃に伝来し、朝廷の年中行事となりました。これが後世、民間にも広まり、節分の夜豆をまいて禍を払う行事となりました。

 室町時代の頃、追儺と節分の豆まきが結びついたと言われています。鬼打豆と称し、炒(い)った豆をまいたり、東京の周辺では、この日の夕暮れ、柊(ひいらぎ)の枝に焼いたイワシの頭をさしたものを戸口に立てる習俗が見られます。 これは鬼が柊(ひいらぎ)のトゲで眼をさし、焼いたイワシの臭いに弱いとの俗信からくる追儺(ついな)の一種です。

 ということで、節分の豆まきは、新しい春、新しい年のために、豆をまいて、幽鬼を外に追い出し、新しい魂を再生産し、労働力を再生産しようという行事です。 また、大豆を煎(い)って節分の豆まきをするのですが、かっては、追儺会(つなえ)に五穀そのものを使っていました。いつしかダイズ(大豆)は、米作民族の間では神秘な力をもつとされ、呪術的に重視されてきたアズキ(小豆)と同じように考えられるようになったという。

 太陰暦(旧暦)と太陽暦(新暦)

 太陰暦(旧暦、太陰(月)の満ち欠けのみに基づく暦)では、1ヶ月を29日あるいは30日、1ヵ年を12ヶ月、1年を24節気に分け、節の前の日を節分と言いました。24節気の中でも立春は冬が終わり、春の始まる日として重要な意味をもっていました。また、太陰暦(旧暦)では、立春とお正月が非常に接近しており、この節気が特別な意味をもちはじめ、節分と言えば、この日を指すようになりました。

 太陽暦(新暦、太陽の運行に基づく暦)では、1年は365日、4年ごとに閏年(うるうどし)を置き、100年ごとに閏年を省き、また、400年ごとに閏日を省くことをやめました。現行のものは16世紀以来のグレゴリオ暦です。

 明治新政府は、1872年(明治5年)11月9日、旧来の太陰太陽暦法(太陰暦と太陽暦とを折衷した暦、すなわち、1ヶ月を月の満ち欠けを基礎に定め、1年をおおよそ太陽の運行に合わせて作成した暦)による天保暦を廃し、新しく太陽暦(新暦)の採用を決定し、太陰暦(陰暦)1872年(明治5年)12月3日1873年(明治6年)1月1日としました。 日本の暦法の変遷(かわうそ@暦): http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0060.htm

 明治新政府が、太陽暦を正式に採用したのは、開国に伴う諸外国との条約交渉があちらの日付(新暦、太陽暦)とこちらの日付(旧暦、太陰暦)が異なるとうまくいかない、あるいいは旅行のスケジュールが全然組めない、などが主たる理由という。それ以前に日本人に親しまれていた暦が太陰暦でした。これは、古来、日本人は農耕によって生活を営んできましたので、満月から数えて何日に目にこの作業をしようという具合に月の満ち欠けを農業労働の基準としていました。というわけで、農耕社会にとっては、太陰暦は都合の良い暦でした。

 明治新政府は、1876年(明治9年)、日曜日を休暇と定めました。当初は1日と6日の日を休日と定めていましたが、外国官署や商社との関係で日曜の扱いに不便を感じていました。また、陰暦を用いていたので、曜日と日が合いませんでした。そこで、1872年(明治5年)の太陽暦採用を経て、1876年(明治9年)のこの日、日曜は休日、土曜は12時より休暇とすることを決定しました。

 週休二日制については、日本では1980年(昭和55年)代頃から採用され始めたといわれ、1992年(平成4年)5月からは国家公務員の完全週休二日制、2002年(平成14年)度からは公立学校の完全週五日制が実施されています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 樋口清之: 日本の風俗 起源を知る楽しみ、大和書房(2002); 大島、佐藤、松崎、宮内、宮田(編著): 図説 民族探訪事典、山川出版社(2005).

(追加説明) ○ (おに)は、一般に悪鬼のイメージの方が強いのですが、民族芸能の中では、むしろ人々に幸運をもたらす善鬼の方が多い。それは、鬼が、神霊の変化した形として受け止められているからです。

 節分豆まきなどで、追い払われる鬼は追儺の鬼です。追儺は、中国の行事を模倣したもので、悪霊の化身である悪鬼を払い、厄払いの意味が根底に込められています。ところが、修正会(しゅしょうえ、正月に修する法要)や花祭りに登場する鬼をよく見ると、決して悪霊の化身のような存在ではなく、祭りの最中に出現し、1年間の災厄をすべて取り除き、幸運をもたらすことを約束してくれる存在となっています。

○ 鬼とは、中国では、怨みをもって死んだ人の霊魂が鬼だと言われています。古代、日本では、人を食う異形の怪物が鬼となっています。が、鬼の概念が中国から伝えられ、仏教の影響を受けてからは、餓鬼、厄鬼、地獄の赤鬼や青鬼、羅生門で渡辺綱に腕を切られた鬼、こぶとり爺の鬼などが出現しました。

 中国においては、鬼神であり、その姿も、不動・愛染・隆三世など、明王(みょうおう)と呼び、仏教の天部(てんぶ)の神の憤怒(ふんぬ)した形で、諸悪魔を降伏する諸尊ですが、邪鬼(じゃき)の影響を受けて、恐ろし気です。特に浄土教の普及により、地獄の中で、亡者(もうじゃ)をいためつける働きをしています。地獄の恐ろしい羅卒(らそつ)だということが、鬼のイメージを固定させました。

 また、は美男、美女に化け、音楽、双六、詩歌などに優れたものとして人間世界に現れます。 が、後に陰陽道の影響で、人身に、牛の角や虎の牙を持ち、裸で虎の皮のふんどしをした形をとっています。怪力で性質は荒い。

○  鬼門(きもん)は、陰陽道(おんみょうどう)では、鬼が出入りするといって万事に忌み嫌う方角で、艮(うしとら)、すなわち東北の方角(陰陽が転化する方角)のことで、鬼方ともいう。災難を避けるために鬼門の方角に神仏を祭るのが鬼門除け(きもんよけ、丑寅除けとも)です。

 平安時代、794年(延暦13年)、桓武天皇の命をうけて生まれた京の都、平安京は、中国渡来の思想(陰陽道)、四神相応(ししんそうおう)という東(青龍、鴨川)、西(白虎、山陰道)、南(朱雀、巨椋池)、北(玄武、船岡山)の守護神に守られた形勝の地でした。最大の鬼門封じには、比叡山、天台宗の総本山、延暦寺を配置しました。当時の人々は、比叡山そのものを鬼門封じの要(かなめ)とし、災いが生じると、ここで加持祈祷が行われました。また、比叡山の鎮守、日吉大社の神獣、(さる)も鬼門封じとして、都をより強固に守ったという。

○ オニのほか、大荷ということで、商家や運送業の人々にとっては、オニは外ではなく、オニは内という。

 改暦騒動とは、日本が太陽暦の採用を決定したのは1872年(明治5年)11月9日でした。そして、その年の12月3日をもって、1873年(明治6年)1月1日ときめました。ところがこのとき、こんな布告が出ました。「このたびの改暦については、本年12月1日、2日の両日を、いま11月30日、31日と定む」ーーーつまり太陰暦の11月29日までしかないので、それに余分の2日をくっつけて、12月をなくしてしまいました。たった2日でも12月があることになれば、政府は役人に12月分の給料を払わなければならなかったからです。(生活歳時記より)

○ 「曜日」の「」は「」を意味する言葉です。キリスト教団が、7日間をまとめて1週間とし、それぞれの日に、太陽と月、それに当時知られていた5つの惑星(火・水・木・金・土)の名を割りふると決めたのは、325年(日本は古墳時代!)、ニケヤ宗教会議です。それがキリスト経が伝わるより早く、シルクロードから唐(中国)を経て、日本に入ってきました。(生活歳時記より)

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