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2011年3月の4件の記事

2011年3月28日 (月)

チョコレートとココアにまつわる歴史伝承、カカオ(中南米原産、幹生果、種子はカカオ豆)、チョコレート(カカオ豆の脂肪を含有)、ココア(カカオ豆の脂肪を搾取)、とは(2011.3.28)

   チョコレートココアは、独特の香りと風味をもち、おいしく飲み、また、食べると、健康にもよく、がんや動脈硬化、アレルギーを押さえる作用、整腸作用、覚醒作用などがあり、元気のもとになるという。そこで、その秘密について、改めて調べてみました

  カカオカカオノキココアノキとも)は、アオギリ科で、赤道付近の高温多湿の地域、中南米原産(中央アメリカ、メキシコ、西部ベネズエラ、ブラジルなど)の多年性常緑高木です。樹の幹になる果実カカオポッド、幹生果、直径6~12cm、長さ20~35cm、ラグビーボール状)中の種子(カカオ豆、25~75個内蔵)脂肪(カカオバター、55%含む)を除去しないものはチョコレート、除去したものココアの原料とします。 現在、主要な生産地は、アフリカ(コートジボアール、ガーナ、ナイジェリア、カメルーン)、インドネシア(東南アジア)、南米(ブラジル、エクアドル)などの国々です。  

○ カカオカカオノキ、ココアノキとも)

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カカオ
(アオギリ科、多年性常緑高木、 上 樹の幹になっている熟した橙黄または赤褐色のカカオの果実(カカオポッド、幹生果)、 下 カカオの種子(カカオ豆)は、カカオの果実(カカオポッド)中で、白くて粘りのある果肉(パルプ)に包まれ、約30~60粒程入っています、google画像)  カカオ豆とは(日本チョコレート・ココア協会): http://www.chocolate-cocoa.com/dictionary/cacao/characteristic.html.  

(解説) カカオ(加加阿、もとメキシコ語、カカオノキココアノキとも)は、中南米原産のアオギリ科の多年性常緑高木で、高さ約5~10m、は長楕円形、先はとがり平滑です。白い小花(小形五弁、開くと淡紅色)が多数幹や枝にぶら下がって咲き(幹生花)、ごく少数が結実します(幹生果)。果実は長さ約10cmの長楕円形(逆円錐形も)、多肉で、熟すと橙黄または赤褐色、粘質の果肉内に約30~60個程の種子(カカオ豆)が含まれています。種子(カカオ豆)にはテオブロミンと多量の脂肪が含まれています。また、カカオ色素ココア色素とも)はフラボノイド(ポリフェノール)の一種です。

 古くからメキシコでは飲料、薬用とされ、16世紀に欧州へ伝わりました。現在、中南米、アフリカ、東南アジアで広く栽培されています。

(解説) 収穫したカカオ豆は、バナナの葉の上に山積みし、その上にバナナの葉をかぶせて覆い、1週間ほど発酵させます。2日に1回攪拌します。発酵によりカカオ豆に含まれるタンパク質やショ糖が分解され、ペプチド、ブドウ糖、果糖などが生成します。

 その後、十分乾燥させ、このとき生成するポリフェノール類の酸化物は、香りの形成に不可欠です。また、カカオ豆に含まれるポリフェノールが重合することによって、強い苦味と渋味が軽減され、同時にアントシアニンなどの色素の重合によってチョコレート特有の茶褐色になります。 発酵と乾燥を終えたカカオ豆は、各国に出荷されています。

 テオブロミンは、カカオ種子中に1.5~3%含まれるアルカロイドで、茶葉などにも微量含まれています。テオフィリンの異性体で、無色結晶、苦味、ジウレチンに製剤して利尿に使用します。

 テオフィリンは茶葉に含まれるアルカロイドです。カフェインの近縁化合物で、白色粉末、無臭苦味、利尿・強心剤として動脈硬化による疾患、気管支喘息による呼吸困難、狭心症、心臓性浮腫に適用、常用量1回0.2g、1日0.6g、劇薬です。

 カフェインテインとも)は中枢神経興奮剤、白色の粉末または軟らかい結晶です。茶の葉、コーヒー豆等に含まれています。

 アルカロイドは含窒素化合物に属する塩基性の植物成分です。植物塩基とも言われ、ナス科、ケシ科、キンポウゲ科、アカネ科などに属する植物に多く存在し、生理作用の著しいものが多いです。また、モルフィン、アトロピン(鎮痛、鎮痙)、エフェドリン、コデイン(局所麻酔)、ニコチン、アナバシン(殺虫)など医薬や農薬として重要なものがあります。

 脂肪(カカオバター)は、カカオの種子(カカオ豆)から採取した黄色の脂肪(55%含む)で、ステアリン酸・パルミチン酸などのグリセリン・エステル(ココアバター全体の80%以上は、オレオジパルミチン、オレオパルミトステアリン、オレオジステアリンなど)です。

○ チョコレート

 チョコレート(フランス語ではショコラとも)は、カカオの種子(豆)を発酵、炒(い)った粉末(カカオマス、55%もの脂肪を含む)を主原料として、これに砂糖、粉乳、香料などを加えてつくった菓子または嗜好(しこう)飲料です。現在では、植物性の油脂(パーム脂、ヒマワリ油、ナタネ油など)、乳化剤、甘味料などを加えるなど、様々な添加物が配合されることも多いという。

 種子(豆)は、脂肪(カカオバター、55%含む)に富みテオブロミンを含み、チョコレートは飲物としてはココアと同様ですが製造のとき脂肪(カカオバター)を除かない点が異なります。 脂肪(カカオバター)は、カカオの種子(豆)から採取した黄色の脂肪で、ステアリン酸・パルミチン酸などのグリセリン・エステルなどです。常温では固体で、体温付近(28℃前後)で急激に溶けるという天然油脂では極めて珍しい性質をもっています。菓子・薬・石鹸・軟膏の製造にも使用しています。

 チョコレート菓子は、ペースト状にしたカカオ豆に脂肪や砂糖を加え練って固めますとスウィートチョコレートになります。これにミルクナッツを加え、板状、棒状など各種に成形します。 

マカデミアナッツチョコ(ハワイ、米国、google動画): http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%B3&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivns&source=univ&tbm=vid&tbo=u&sa=X&ei=s8iKTdjzG8TIccj_vP4J&ved=0CIEBEKsE

 私は、1979年(昭和54年)4月、日米国際化学会議でハワイを訪れたとき、マカデミアナッツチョコを作る工場を見学、自分でマカデミアナッツチョコを作り、お土産にもらったことがあります。

○ ココア  

カカオ豆 ココアパウダー

ココアカカオとも、左 ココア豆、 右 ココアパウダー、google画像) チョコとココア豆知識、もっとeガス、大阪): http://shop.plaza.rakuten.co.jp/mot-e-gas/diary/detail/201012230000/

(解説) ココアカカオとも)は、嗜好(しこう)飲料の一種で、カカオの種子(豆)をあぶって殻を取り、すりつぶしたカカオマス(55%もの脂肪を含む)を圧搾して脂肪(カカオバター)を除き(脂肪を約3分の1に減らす)、粉末(ココアパウダー)にします。それに湯、砂糖、牛乳など加えて飲用します。テオブロミンという苦味をもつアルカロイド(弱興奮性)を含むものです。 世界のココア(バンホーテン): http://www.vanhouten.jp/. 

 16世紀初めごろ、チョコレート(ショコラトルとも)は、南米大陸(アステカ、のちメキシコ)から欧州(スペイン)にもたらされ飲用されました。1828年、オランダヴアン・フォーテンがココア豆の脂肪を3分の1に減らして、チョコレートを飲みやすくすることに成功し、ココア苦い汁の意味)を作りました。

 一方、イギリスでは、ココアの製造で余るココアバター(35~40%)を砕いたココア豆に混ぜ、型に流し込んで固める方法が考案され、食べるチョコレートが誕生しました

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991): 秦千里: おいしく食べて元気になる、知られざるチョコレートの科学、p.121~125,化学と工業、Vol.64-2(2011).

(参考資料) チョコレート、ココア 魅惑の世界へ---(日本チョコレート・ココア協会): http://www.chocolate-cocoa.com/

カカオ(カカオノキ、ココアノキとも、アオギリ科、常緑高木樹、google画像): http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%82%AB%E3%82%AA&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=Xm2JTbH3PI29cfyWyboM&ved=0CEwQsAQ&biw=1004&bih=549

チョコレートの歴史(貨幣だったカカオ豆、WIRED VISION): http://wiredvision.jp/news/201007/2010071420.html

(追加説明) チョコレートの歴史 16世紀初頭、現在のメキシコにあたるアステカの皇帝モンテマスは、ショコラトルチョコレートとも)を愛飲していました。ショコラトルは、カカオ豆をすりつぶし、バニラやコショウなどを加え、水に溶かしてかき混ぜたものでした。 これは、とても苦く、完全に溶けきっていない飲み物でしたが、疲労回復や傷の治療、不老長寿など様々な効能があると考えられていました。

 その後、スペインに渡って砂糖が加えられるようになりました。さらに、19世紀半ば、有名なオランダのココア会社の創始者ヴアン・フォーテンは、カカオマスを搾って脂肪分(ココアバター)を3分の1ほど除き、脂肪分の少ないカカオ豆の粉末、いわゆるココアパウダーを発明しました。これがお湯に溶けるココアの原型です。

 一方、イギリスでは、ココアの製造で余るココアバター(35~40%)を砕いたココア豆に混ぜ、型に流し込んで固める方法が考案され、食べるチョコレートが誕生しました。その後も、ミルクを加えるなど様々な改良がなされると同時に、世界中にチョコレートが広まっていきました。(秦千里: おいしく食べて元気になる、知られざるチョコレートの科学、p.121~125,化学と工業、Vol.64-2(2011)より

○ チョコレートとココアの歴史 13~16世紀にかけメキシコ中央高原に強大な勢力を持ったアステカ族は、織物、羽毛、宝石細工、彫刻、石造建築など、独特の文化を誇っていました。豪奢な宮殿に住む皇帝モンテズマ(1480~1520)は、宗教儀式の後で大饗宴を開き、飲み物は酒ならぬチョコレート(チョコラトルとも)を用いました。まだ砂糖はなく、トウモロコシの粉、蜂蜜、ヴアニラを加えて純金の盃にそれをみたし、日に50杯も強壮剤として飲み干すと池に投げ捨てたという。

 やがて、スペインのコルテス将軍の下に大虐殺が行われて、王朝はあえなく崩壊し、1526年故国にチョコラトルを持って帰って国王に献上し、ヨーロッパに伝わりました。砂糖を加えて、さらに香り高いおいしいものとして長い間秘密とされました。

 チョコラトルの原料は、テオブロマカカオ(神の食物の意味)の実を焙煎し、つぶしたものです。メキシコでは、カカオ豆10粒でウサギ一匹、よく働く奴隷は100粒と交換されて通貨の代わりであり、王侯、貴族のみの知りうる高価なものでした。多年性常緑樹の実で、直径6~12cm、長さ20~35cmのラグビーボール状、中に25~75個内蔵されていました。

 1580年、ひとりのスペイン人が板状のチョコレートを作ったが、主流は飲み物でスプーンを立てておけるほど濃いものでした。カカオ豆を焙煎し、皮と胚芽を除いてつぶしたものをカカオマスという。これは55%もの脂肪を含むので、どろどろのペースト状になり、大変飲みにくい。

 1828年、オランダヴアン・ホフテンがこの脂肪を3分の1に減らして、チョコレートを飲みやすくすることに成功し、ココア(苦い汁の意味)を作りました 飲み物から食べ物、つまり板状のチョコレートになったのはヴィクトリア時代(1837~1901)初期のことで、カカオマスにさらにココアバターを加えて、形のあるものにしました。28℃前後で溶け軟らかくなるので、口の中の感触が楽しいものになります。ホワイトチョコレートはココアバターだけを使っているので、苦味はなく白く仕上がっています(焙煎したカカオマスは使わない)。(樋口清之監修: 生活歳時記、p.841~842、三宝社(1994)より)

2011年3月21日 (月)

日本の国旗(日の丸)、国歌(君が代)、天皇の称号、元号(明治、大正、昭和、平成)の起源、天皇陛下ビデオメッセージ(東日本大地震)、とは(2011.3.21)

 日本には、10年程前まで、国旗日の丸日章旗)、国歌君が代と定めた法律がありませんでした。そこで、政府は、1999年(平成11年)8月13日、国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)を制定し、施行しました。

 日本の元号年号とも)は、飛鳥時代、645年に大化と号した、大化元年、から始まりました。その後、天皇が制定権を持ち、古くは何かの理由でしばしば元号が改められています。 が、明治以降は、一世一元となり、1979年(昭和54年)公布の元号法も、皇位の継承があった場合に限り改められる、と規定されました。

○ 国旗(日の丸)の起源

 日本の国旗(日の丸)は、太陽をかたどったデザイン(意匠)で、日章旗とも呼ばれています。飛鳥、白鳳時代、第42代文武天皇(もんむてんのう、683~707)の701年(大宝元年)の頃には、すでに日の丸の原型らしきものが使われています。

 室町時代末期、武田信玄(1521~1573)、上杉謙信(1530~1578)などの戦国武将が、日の丸の旗印を使っていたという。江戸時代末期、日本船と外国船を区別するため、日章旗が本格的に使われるようになりました。

 明治時代、1870年(明治3年)1月27日付、太政官布告57号によって、日本の商船は日の丸を国旗として掲げることとし、その寸法(旗の縦横の比率、日章の位置と大きさ)が公示されました。が、これを国旗とする明文はありませんでした。

 日章旗の布地は、白色の長方形で、縦横の比率(縦1:横1.5)は、最も美しいとされる黄金分割の比率(縦1:横1.6)とほぼ同じです。また、日章は赤で、その直径は縦の5分の3、日章の上下のあきを等しくし、日章の中心は旗面の中心より横の100分の1だけ旗竿(はたざお)の側に近寄ることとしました。

 これとは別に同年10月3日付、太政官布告651号で、海軍御旗章国旗章並諸旗章が規定されたため、同じ日の丸でも商戦用と軍艦用とで寸法に若干相違が生じる結果となりました。なお、陸軍国旗は旭日旗で、商船と海軍の日の丸とは規格が違います。1931年(昭和6年)、大日本帝国国旗法案が国会で審議されましたが廃案になりました。

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日章旗日の丸、明治時代、商船と旧帝国海軍の旗、のち国旗、google画像)

(解説) 日の丸日章旗)は、 アジア太平洋戦争では戦意高揚の手段とされ、戦場でも侵略のシンボルとして用いられました。そのため、第2次大戦後、日の丸の自由掲揚が連合軍によって禁止されました。が、1949年(昭和24年)から自由に掲揚できるようになり、1950年(昭和25年)代以降復活、文部省は学習指導要領の改訂を重ねながら、教育現場での使用を推進、同時に国旗の呼称を与え義務化され、1999年(平成11年)、国旗国歌法で法制化されました。

○ 国歌(君が代)の起源

日本の国歌(君が代)の歌詞は、平安時代、1018年(寛仁2年)頃、三十六歌仙の一人、藤原公任(ふじわらのきんとう、966~1041)が撰集した歌謡集、和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)に見えますが、作者不詳です。その歌詞は、君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで この歌の主題は、皇統(天皇の血統)の永続性で、天皇の治世を祝った歌となっています。古今集には、我が君はーーー、古今和歌六帖には、君が代は 限りもあらじ 長浜の 真砂の数は よみつくすとも、など類似の歌があります。

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(解説) 現在の君が代(国歌)のは、1880年(明治13年)、宮内省式部寮雅楽課が作曲したものです。文部省は、1893年(明治26年)8月、この曲を宮内省楽師、林広守(はやしひろもり、1831~1896)の作曲とし、小学校における祝祭日の儀式用唱歌に制定、公示しました。以後、事実上の国家として歌われました。1950年(昭和25年)には、君が代斉唱(せいしょう)を進める大臣通達が出されました。

 天皇の称号の起源

 もともと日本には天皇という称号はありませんでした。4世紀半ば頃、大和政権が成立したと考えられますが、その頂点にあったのは大王(おおきみ)でした。大王が天皇という表現に変わったのは、6世紀末から7世紀、第33代推古天皇(すいこてんのう、554~628)の頃ではないかと言われています。

 飛鳥時代、645年(乙巳、皇極4年)8月、大化改新(たいかのかいしん)後は、中大兄皇子(なかのおうえのおうじ、626~671、のち第38代天智天皇、てんじてんのう)の頃、外国の使者に、明御神宇日本天皇(あきつかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)と署名しています。これは、日本という公式の称号と並んで、日本の統治者であり、明つ神たるべき、天皇という称号が、はじめて登場してきたものと考えられています。

 ということで、天皇(てんのう)は、律令国家の君主の称号で、古くは、すめらみこと、すめろぎ、すめろき、すめらき、すべらぎなどと呼ばれ、大王号にかわって登場しました。かっては金石文に見えることから、7世紀前半成立とも考えられてきましたが、今日では、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686、てんむてんのう)の時より使われ始め、飛鳥浄御原令で皇后号と共に制度化されたとする説が有力です。また、唐(中国)第3代皇帝高宗(こうそう、649~683)の天皇号採用との関連も指摘されています。

 明治憲法では、大日本帝国の元首です。が、現在の日本国憲法では、日本国および日本国民統合の象徴とされ、国家的儀礼としての国事行為のみを行い、国政に関する権能は持っていません。男系の男子がこの地位を継承することになっています。天皇陛下は天皇の敬称です。

○ 元号(明治、大正、昭和、平成)の起源 

 第122代明治天皇(めいじてんおう、1852~1912、61才、陸仁、むつひと)の時代、明治という元号は、1868年(慶応4年)9月に採用されました。同時に一代の天皇について一つの元号という制度(一世一元)も定まりました。明治の語の由来は、周代(中国)、周易(易経とも)、「聖人南面して(位についての意)天下に聴き、明に嚮(きょう、向う)して治む」からとったとする説と、秦代(中国)、尚書(書経ともの「明君の治」からとったとするという二つの説があります。

 第123代大正天皇(たいしょうてんおう、1879~1926、48才、嘉仁、よしひと)の時代、明治から大正への改元は、1912年(明治45年)7月30日です。大正の出典は、周代(中国)、周易(易経とも)、「大いに享(きょう、まつりごと)を正すをもって天の道なり」からきています。これは、天道に従って政治(まつりごと)を正すという意味です。大正天皇は、病弱のため短命で、1926年(大正15年)12月25日に崩御されました。 そして、昭和と改元されました。

 第124代昭和天皇(しょうわてんのう、1901~1989、89才、裕仁、ひろひと)の時代、昭和の出典は、秦代(中国)、尚書(書経とも)、「百姓昭明、万邦協和」でした。つまり、主君と人民が一致し、世界の平和をめざそうという意味です。この改元のとき、光文という元号のうわさが一部に流れ、新聞にも発表されてしまいました。一説によると、最初、光文と決められたがもれてしまったので、急に、昭和に改められたとも言われています。 昭和天皇は、1989年(昭和64年)1月8日に崩御されました。そして、平成と改元されました。

 第125代今上天皇(きんじょうてんのう、1933~  、77才、喜寿、明仁、あきひと)の時代、平成の出典は秦代(中国)、尚書(書経とも)、「地平天成」、漢代(中国)、史記(紀伝体史書)、「内平外成」で、わが国の現在の年号となっています。 

 2011年(平成23年)3月16日(水)、天皇陛下は、3月11日(金)、大きな被害が出た東日本大地震(M9.0)に対し、被災者や支援活動に携わる人々を励ます、国民へのメッセージをビデオで発表しました。 

○ 天皇陛下noビデオメッセージ、YouTube(google動画): http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%9B%E4%B8%8B+%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivnsu&source=univ&tbm=vid&tbo=u&sa=X&ei=4hiITaDfHYHfcebu8asM&ved=0CDgQqwQ

 東日本大地震は、3月11日(金)午後2時46分ごろ、三陸沖のマグニチュード(M)9の本震から約25分間で、M6~7級の地震が次々と誘発して起こりました。 その頃、私の家のマンション(10階、桜田町、金沢)では、約5分間ほど建物がゆっくりと大きく横ゆれしていました。

 その時どこの震源の地震か分からなかったのですが、阪神大震災(1995年1月17日午前5時46分、M7.2、その当時は3階、平和町、金沢の官舎でいたのですが、短時間とはいえ縦ゆれの激しいものでした)のことを思い出し、直感的に、日本のどこかで大きな地震災害が起こったのではないかと思いました。一日も早く復興が進みますように また 気を落としませんように!

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、p.325、君が代、p.1159、日の丸、平凡社(1973); 新村出: 広

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、p.325、君が代、p.1159、日の丸、平凡社(1973); 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之(監修); 生活歳時記、p.435、元号の名称の由来、p.633、国旗の起源、p.737、天皇の称号の起源、三宝社(1994); 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999).

(参考資料) 日の丸(画像検索、google画像):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%97%A5%E3%81%AE%E4%B8%B8&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=UGA-TZ_rJYO3cMju5cAC&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CFkQsAQwAw&biw=1004&bih=606

君が代(楽譜、google画像):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%20%E6%A5%BD%E8%AD%9C&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=606

(追加説明) ○ 国旗は、国家を象徴する標識で、国家の祝祭日や外国に敬意を表する場合に掲揚します。日章旗(日本)のほか、星条旗(アメリカ合衆国)、三色旗(フランス共和国、旧ロシア帝国、旧ドイツ帝国)、五星紅旗(中華人民共和国)など、世界各国に国旗があります。 世界の国旗(外務省): http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kokki/index.html

○ 国歌は、国家的祭典や国際的行事で、国民及び国歌を代表するものとして歌われる歌です。君が代(日本)のほか、星条旗(アメリカ合衆国)、ラ・マルセイエーズ(フランス共和国)、義勇軍行進曲(中華人民共和国)など、世界各国に国歌があります。世界の国歌(世界の民謡、童謡): http://www.worldfolksong.com/anthem/index.html,

〇 天皇陛下は、2014年(平成26年)12月23日、81歳に。 良い日本をつくる努力を続ける。平和で健全な国切に願う、と語りました。

 

2011年3月14日 (月)

小堀遠州(大名、茶人、造園家)にまつわる歴史秘話、加賀3代藩主前田利常にあてた書状の発見、長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3字の筆跡、頼久寺(高梁市、岡山)の庭園、砂糖の道、とは(2011.3.14)

  江戸時代前期、近江小室藩(おうみこむろはん、滋賀)の初代藩主(1万余石)、茶道遠州流の祖、小堀遠州(こぼりえんしゅう、もと政一、1579~1647)が、加賀3代藩主、前田利常(まえだとしつね、1593~1658)にあてた書状を、2009年(平成21年)春頃、美術商男性(71才)が、骨董市(こっとういち、名古屋)で入手したという。1642年(寛永19年)から1646年(正保3年)の間に書かれたもので、10月6日付で、遠州から利常を指す「中納言様」あてになっていて、小堀の名があるほか、署名の花押(かおう)は、遠州が晩年に用いた型と一致し、真筆(しんぴつ)と確認されました。

○ 加賀3代藩主、前田利常にあてた書状

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小堀遠州から加賀3代藩主、前田年常あての書状、2009年(平成21年)春頃に発見(美術商、金沢)、2009年(平成21年)7月30日(木)、北陸中日新聞、朝刊より 

(解説) 書状(縦16cm、横64.5cm)の文面には、利常から、タカ狩りで捕らえられたツルを贈られたことに礼を述べ、新茶を披露する「口切りの茶事」で、そのツルを食用に使うと知らせています。続いて、江戸幕府3代将軍、徳川家光(とくがわいえみつ、1604~1651)が幕府の行事に出席することを記し、利常の正室、珠姫(たまひめ、1599~1622)は家光の姉にあたるので、弟の将軍の動向を知らせる意味もあり、遠州が将軍家と前田家の間で重要な役割を果たしていたことが分かるという。

 後半部分では、利常が室町時代の僧侶、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394~1481)の書を掛け軸にするよう遠州に頼んでいた親密さを示す内容という。また、遠州は、金沢城本丸の茶室の作庭を指示するなど前田家とのつながりの深さが推測されます。

○ 長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3文字の筆跡

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長生殿(ちょうせいでん、小掘遠州命名と筆跡による「長生殿」の三字、森八、金沢、google画像) 長生殿本舗森八(金沢、石川): http://www.mapple.net/spots/G01700036104.htm

加賀(金沢)の名菓の長生殿と主な原料の阿波(徳島)の和三盆にまつわる歴史伝承、砂糖、日本三大銘菓、和三盆の歴史、、とは(2009.6.9): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-3853.html

(解説)  森八(もりはち、金沢)は、1625年(寛永2年)菓子屋を創業、3代目八左衛門(町年寄役)は、藩主より江戸表に召され、約350年前、加賀3代藩主前田利常創意により、唐墨(からすみ、中国の墨)に似た長方形に作り上げ、小掘遠州命名筆跡による「長生殿」の三字篆書体、てんしょたい)を原型とする、名菓長生殿(ちょうせんでん)を世に生み出しました。 長生殿は、茶の湯の和菓子にも用いられ、和三盆(白砂糖)は徳島産、紅花は山形産、加賀米(もち米)は落雁粉、飴(あめ)などで作った「落雁(らくがん)」と呼ばれる高級和菓子ですが、ずっと同じ所の材料を用いながら、昔と変わらぬ製法で作っているという。 森八(金沢):http://www.morihachi.co.jp/

 前田年常は、幕府作事奉行でもあり、将軍茶道指南でもあった小堀遠州を取り立て、茶の湯の指導、美術工芸の育成、格調高い文物の収集にも力を入れました。

 ところで、德島(もと阿波)のサトウキビからの和三盆(白砂糖)の製法は、約210年余前、1798年(寛政10年)頃に確立したと言われています。となると、阿波の和三盆が入手できたのは、江戸末期に近く、德島11代藩主、蜂須賀治昭(はちすかはるあき、1758~1814)、加賀11代藩主、前田治脩(まえだはるなが、1745~1810)の頃(北前船?)と考えられますので、それまで(約140年間?)長生殿の原料の白砂糖は、長崎を経て中国から輸入した唐三盆(とうさんぼん、白砂糖)でも使っていたのだろうか?

○ 小堀遠州(こぼりえんしゅう)

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小堀遠州像 (こぼりえんしゅうぞう、春屋宗園賛(部分)、しゅんおくそうえんさん、孤篷庵、こほうあん、縦102.0横32.0、google画像)

(解説) 小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579~1647)は、江戸初期の武将、茶人、造園家です。名は政一、通称作助。大有宗甫、狐篷庵(こほうあん)と号す。近江国(おうみのくに、滋賀)坂田郡小堀村(のち長浜市)に生まれ、豊臣秀吉(とよとみひでよし、1536~1598)、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)に仕え、1608年(慶長13年)、遠江守(とおとうみのかみ、静岡)に任じられ、遠州(えんしゅう)と呼ばれ、江戸幕府の作事奉行(禁裏や二条城など)、国奉行はじめ、伏見奉行などの役職を歴任しました。

 土木、建築、造園に優れ、多くの名園や茶席を残しました。古田織部(ふるたおりべ、1544~1615、茶人、利休の高弟、美濃、岐阜)に茶を学び、遠州流の祖となり、徳川家光(とくがわいえみつ、1604~1651)の茶道師範をはじめ、多くの大名に茶を教えました。その茶の湯(遠州流)は、利休風のわび茶を基本にしながらも、東山時代(15世紀後半)以来の書院の茶を復活させて優雅な王朝文化の要素を取り入れ、「きれいさび」といわれる茶風を軸に、寛永(1624~1644)文化の中心として活躍しました。

 また、遠州七窯(えんしゅうなながま)を興し、中興名物の名でよばれる茶道具を残すなど、茶道における業績が最も高く評価されています。 遠州七窯(えんしゅうなながま)は、小堀遠州が指導し、好みの茶陶を焼かせた窯で、志戸呂(しとろ、静岡)、膳所(ぜぜ、滋賀)、朝日(あさひ、京都)、赤膚(あかはだ、奈良)、古曽部(こそべ、大阪)、上野(あがの、福岡)、高取(たかとり、福岡)の7窯で、古曽部を伊賀(いが、三重)とする説もあります。

 小堀遠州は、江戸初期、本職の徳川幕府官僚としては、城や寺院の建築に携わり、行政にも腕を振るいました。また、作庭の名人にして大茶人、書家(能筆)、歌人(和歌)、香道家として名をはせ、いけ花、造園、「遠州好み」といわれる茶室や茶道具など、多芸多才ぶりを遺憾なく発揮しました。

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頼久寺の庭園(らいきゅうじ、臨済宗高梁市、たかはしし、岡山、google画像) 小堀遠州が、備中兵乱後で備中松山城が荒廃していたため、仮住まいしていた頼久寺です。

(解説) 頼久寺の庭園(国の名勝)は、白砂を敷き詰めて海に見立て、鶴島亀島を浮かべ、後方にサツキを植えて大きく刈り込みを入れ、青い海の波がうねる様子(枯山水!)を表しています。 刈り込みの手法はその後、遠州の得意技となりました。 さらに、遠望する愛宕山の山容を取り込んだ借景が奥行きを醸し出す。心にくい演出となっています。 頼久寺(小京都、高梁市、岡山):http://blogs.yahoo.co.jp/kitayan_boy/50819461.html

 遠州の活躍の出発点とも言える地が、現在の高梁市(たかはしし、岡山)です。1600年(慶長5年)、徳川家康から備中(岡山)国奉行を命じられた父、正次に同行して来ましたが、4年後に父が亡くなると、備中国奉行を15年間務めました。備中松山城を整備する間、頼久寺を仮の館として政務にあたり、この寺の庭もつくりました。

 遠州は、備中国奉行と平行して、駿府城(静岡)の作事奉行もこなし、遠江守(とおとうみのかみ)を授かりまいた。遠州(えんしゅう)とも呼ばれる由縁です。この間、御陽成院御所、名護屋城天守、伏見城本丸などの造営や改修の監督役を務め、また、京都二条城二ノ丸庭園、南禅寺金地院庭園などの造園、石清水八幡宮(懸造り)の空中茶室(閑雲軒)も手がけ、将軍家の茶道指南役も務めました。 

 茶道史に詳しい熊倉功夫(くまくらいさお、1943~ 、国立民族学博物館名誉教授)によれば、「才能と深い教養が仕事を呼び、人脈を広げる。遠州の交友は、武士、公家、僧侶、町人と実に多彩」、多忙さは晩年まで続き、50才半ばの遠州が新春に友と交わした俳句が面白いという。 年こせば 大草伏(おおくたびれ)て ねの日かな 次々と舞い込む仕事に疲れて寝正月を決め込む!とのことです。

 私は、1969年(昭和44年)4月、金沢大学(理学部)につとめ始め、はじめて日本3名菓の一つ、長生殿を口にしたとき、これは ふるさと(引野、上板、阿波、德島)、和三盆の味だ! とすぐ分かりました。また、高校(阿波)の竹内秀夫先生(教頭、国語、柔道担当)が石川出身であることを思い出し、えも言われぬえにし(縁)を感じました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 落雁和菓子とサイエンス、日本三名菓随一加賀の長生殿と阿波特産の和三盆、啓林(高理編、No.333)、p.5~8、啓林館(1999); 北陸中日新聞: 小堀遠州の書状を発見、利常あて親密な文面、幕府の動向知らせる、金沢の美術商入手、2009年(平成21年)7月30日(木)、朝刊より; 朝日新聞: 小堀遠州、庭は大海へ続いていた、歴ナビ、旅する日本史、ゆかりを訪ねて、2011年(平成23年)2月19日(土)、朝刊より.

(参考資料) 小堀遠州(こぼりえんしゅう、google画像):  http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B0%8F%E5%A0%80%E9%81%A0%E5%B7%9E&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=fjN3TcTaNdCrceKp5YgF&ved=0CG4QsAQ&biw=1004&bih=567

枯山水(かれさんすい、伝統的な日本庭園): http://www.geocities.co.jp/sankyo_niwaishi/zen_gardens.html

枯山水(かれさんすい、京都、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9E%AF%E5%B1%B1%E6%B0%B4+%E4%BA%AC%E9%83%BD&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=OB1_TZDWIYG8cNGFleUG&ved=0CFIQsAQ&biw=1004&bih=567

竜安寺石庭(枯山水、幾何学的美しさ、西ヨーロッパの庭園で流行していた黄金分割手法が見られるという、小堀遠州作?、京都): http://ameblo.jp/matsu-niwa/entry-10370124021.html

(追加説明) 頼久寺(らいきゅうじ、臨済宗、高梁市、岡山)は、室町時代、足利尊氏が諸国に建立させた安国寺の一つ。小堀遠州作の庭園(枯山水!)は国の名勝に指定されています。生島裕道住職のによると、「庭園は明るく開放感があるでしょう。遠州の茶道にも通じます。例えば、茶碗を見るとよく分かります、戦国の動乱期から安定期に向かう時代の変化を、3人の茶人は体現しているようです」。  

 千利休(せんのりきゅう、1522~1591)が愛用した黒楽茶碗は、余分なデザインを排し、求道的な精神が感じられる。 千利休、茶碗google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91%E3%80%80%E8%8C%B6%E7%A2%97&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

その弟子、古田織部(ふるたおりべ、1544~1615)の茶碗は大胆にゆがみ強烈な個性を主張している。 古田織部、茶碗(google画像) http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8F%A4%E7%94%B0%E7%B9%94%E9%83%A8%E3%80%80%E8%8C%B6%E7%A2%97&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

織部を師とした小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579~1647)は、均整のとれた優美な白い茶碗を好んだとされる。小堀遠州、茶碗(google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B0%8F%E5%A0%80%E9%81%A0%E5%B7%9E%E3%80%80%E8%8C%B6%E7%A2%97&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

(追加説明) ○ 長生殿(ちょうせいでん)は、中国、清代の戯曲。洪昇(こうしょう、1645~1706)の作。50幕。1679年(88年とも)なる。長恨歌、秋雨梧桐などに範をとり、玄宗皇帝と楊貴妃の愛情を、楊家一門の栄華や安祿山の反乱など、唐王朝の興亡を背景に描く。文辞の美麗なること清代随一の秀作とされ、桃花扇と並称される。(小百科事典より)

 日本3名菓、加賀の長生殿は、唐墨(からすみ、中国の墨)に似た長方形の最高級の茶菓子ですが、その頃は唐三盆(とうさんぼん、中国の高級白砂糖)を使っていたので ?、小堀遠州は、清代の戯曲、長生殿の思いを、名菓に寄せて命名したのだろうか? 遠州の筆跡、長生殿の3字の書体は、篆書体(てんしょたい、秦代より前に使用されていた書体、印鑑の書体)です。

○ 長生殿本舗 森八 店主敬白によれば、長生殿は往昔白色長方形に胡麻をふりかけしものなりしが後水尾帝(ごみずのおてい、第108代天皇、1596~1680)これを叡覧ましまして 「田の面に落つる雁のやう」と宣ひしより落雁と名付そめけり、其後年常卿(加賀藩前田家三代藩主)の創意により、唐墨の形にまなび、小堀遠州卿これに長生殿と題し給ふ、これ墨形長生殿の始となす。その後渦形、ねじ梅、糸巻、鱗鶴、末広、青海波など次々次に生まれ、雲上に召されしこと屡々なりしかばいつしか御所落雁とも称ふるに至れり

 そもそも長生殿は家伝の精粉と、昔ながらの製法になる高価にして無類極上なる四国の特産の純和三盆糖とをもて製し、彩るに本紅を用ひたれば、高尚優雅にして永く蓄蔵に耐へ、日本名菓の随一と感賞せらるること昔も今も変わることなし。ここに縁起と光栄とのあらましをしるし、猶いやましのご愛顧をねがひまつると

○ 砂糖の道  長崎から佐賀へ、そして小倉へと続く長崎街道は「シュガーロード」とも呼ばれています。砂糖の道です。スペイン、ポルトガル、中国などから渡ってきた砂糖や南蛮菓子が、この街道を通して全国に広まりました。(JAF Mate 2011 ④ 、ジャフメイト、おくにnavi 佐賀県、p.12、佐賀・吉野ヶ里、シュガーロード、より) 

 

2011年3月 7日 (月)

折紙(おりがみ)にまつわる歴史伝承、伝承折紙(鶴、兜、奴さん)、創作折紙(造形美の創造)、折紙の科学(オリガミ数学)、とは(2011.3.7)

   折紙(おりがみ、遊技)は、折紙細工(おりがみざいく)の略で、紙を折りたたんでいろいろな形を作る手芸です。紙を折り、儀式などに用いることは、古代から行われいますが、遊技的折紙の出現は、平安時代とされています。色紙なども用い、多くの形が工夫されました。昔からよく知られている、鶴(つる)、兜(かぶと)、奴さん(やっこさん)などは伝承折紙(でんしょうおりがみ)と呼ばれています。

 明治時代(1868~1912)から大正時代(1912~1926)の頃、折紙が小学校の教材に取り入れられ、また、旧来の伝承折紙(でんしょうおりがみ)の形にとらわれず、紙の面と線の屈曲によって造形美を創造する創作折紙(そうさくおりがみ)も作られるようになりました。

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折り紙で作られたウサギやツル、アジサイなど(北陸折紙コンベンション、加茂町、加賀市、石川県、2011年(平成23年)1月17日(月)、北陸中日新聞、朝刊より) 

(解説) 2011年(平成23年)1月15日(土)と16日(日)の両日、全国の折り紙愛好家が集う第5回北陸折紙コンベンション(石川テレビ放送後援)が、加賀市(石川県)で開かれました。同市加茂町の日本折紙博物館で折り紙教室があり、日本折紙協会会員約120人が花々やカエルなど、創作折紙(そうさくおりがみ)を楽しみました。 北川路子館長は、「折り紙は一枚の紙から何でも作ることができる。自分で新しい物を作ることができるのも醍醐味(だいごみ)」と話していました。 日本折紙博物館(加茂町、加賀市、石川県): http://www.origami-hakubutsukan.ne.jp/

 私は、小学生のとき、いつの頃から、鶴(つる)、兜(かぶと)、奴さん(やっこさん)、箱(はこ)、紙鉄砲(かみでっぽう)などの伝承折紙(でんしょうおりがみ)を覚えました。それらを思い出して作りながら、その歴史についても調べて見ました。

 伝承折紙(でんしょうおりがみ)

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伝承折紙(でんしょうおりがみ、左より (つる)、(かぶと)、(はこ)、奴さん(やっこさん)、など)

(解説) 平安時代(794~1192)末期、藤原清輔(ふじわらのきよすけ、1104~1177)の歌集、「清輔朝臣集」の中に「青きすじある紙にてかへるのかたを作りて書きつけてやりける」という詞(ことば)があり、すでに(かえる)が折られていたことが分かります。主に宮廷や公家たちの間に、折紙が遊びとして流行していたという。

 室町時代(1338~1573)、紙に切り込みを入れずに、折るだけで形をつくる芸術意識が芽生え、江戸時代(1603~1868)、和紙の手漉(てす)き技術が発達し、さらに造形美を追求、千羽鶴に代表される、折紙芸術へと育っていったという。明治時代(1868~1912)、義務教育制度の普及に伴い、折紙(おりがみ)が小学校や幼稚園の手工教育に取り入れられ、また和紙に代わって洋紙の製造が盛んとなり、安価な色紙が売り出され、一般庶民の中に急速に広まりました。

 また、生活様式の変化に従い、鶴、兜、奴さんなど、遊技用の伝承折紙にとらわれず、オルガン、ポスト、郵便配達夫、教会、灯台、ヨット、エプロンなど、新しい題材の創作折紙が作られ、一般に普及しました。

 大正時代(1912~1926)初期、センカ紙(仙貨紙、楮製の和紙)で作った15cm四方の色紙が全国の文具店で市販され、折り方の種類も増え、折り紙が一般に広く普及しました。

○ 創作折紙(そうさくおりがみ)

 昭和時代(1926~1989)初期、内山光弘(1878~1967、京都)が、「光弘式折り紙」を考え出し、数十種類の基本型から創作への技術を考案しました。そして、古来の伝承折紙の模倣から、現代の新しい素材を、新しい造形感覚で作る創作折紙へと発展しました。現在、日本では創作折紙を研究、愛好する人々も多く、数万の千変万化の折紙細工の作品が創作され紹介されています。 光弘式折り紙(東玄喜、google画像): http://ori23.exblog.jp/13717954/

 また、吉澤章(1911~2005、栃木)は、創作折紙の第一人者で、日本の折紙を世界に紹介することに多大な貢献をされました。吉澤章の折紙作品(おりがみ広場): http://origamist.sakura.ne.jp/menu/yoshizawa/yoshizawa.html

○ 折紙の科学(オリガミ数学)

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折りたたんだ紙を組み合わせた「オリガミ」の作品を手にするエリック photo.Yu Miyaji (google画像)

(解説) 一枚の四角い紙を何回も折りたたみ、はさみを一回だけ入れる。紙を広げると、様々な形や模様が生まれます。では、この折紙でどれだけの種類の形が作れるのだろうか。そんな純粋な疑問に、真っ正面から取り組んだ数学者がいます。エリック・デイメイン(28才)、2001年(平成13年)、米マサチューセッツ工科大(MIT)に20才というMIT史上最年少の若さで招かれた天才数学者です。

 エリックは、まず図形の中に円を描く計算幾何学の手法を使って折り線を導き、さらにどの順番で折り線を入れていけばすべての図形を一つの線上に乗せられるかのアルコリズム(算法)を編み出しました。これによって、「紙を折りたたみ、一回切るだけで、どんな多角形でも無限に作れる」、ということを証明しました。

 エリックは、「オリガミ数学」と呼ばれる分野で斬新なアイデアを次々と打ち出し、その研究は今や、車のエアバックの折りたたみ方や、スペースシャトルの搭載する望遠鏡の収納などにも応用されています。 朝日新聞グローブ、第33号(エリック、数学という力): http://globe.asahi.com/feature/100201/01_1.html

 私は、折紙の科学(オリガミ数学)による造形の真理(原理)の証明を知るにつけ、その奥深さに驚嘆しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 「朝日新聞グローブ」第33号: 数学という力(オリガミ数学)、折って、1回はさみを入れるだけでーーー、どんな形でも無限に作れる。エリックは証明した、2010年(平成22年)2月1日、朝刊より.

(参考資料) 日本折紙協会(ホームページ、東京): http://www.origami-noa.jp/

日本折紙協会(google画像、東京): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%8A%98%E7%B4%99%E5%8D%94%E4%BC%9A&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

(追加説明) ○ 折紙(おりがみ、室町時代は清音、おりかみ)とは、広辞苑によれば、①折った紙、特に、奉書、鳥の子、檀紙などを横に二つ折ったもので、消息、進物の目録、鑑定書などに用いる。また、「たとうがみ(畳紙)」のこと。②書画、刀剣、器物、技量などの鑑定書。転じて、一般に保障すること。極書(きわめがき)。③色紙(いろがみ)で、鶴、風船などを折る子供の遊び。折紙細工(おりがみざいく)。 また、それに用いる紙、などの説明がなされています。

○ 折紙と化学、 私は、1960年(昭和35年)頃、大阪大学の鎚田龍太郎教授が、折紙を使って分子模型(金属錯体?)を作り、化学雑誌(化学同人)に紹介していたのを覚えています。 有機化学美術館・分館(佐藤健太郎、グルコース分子): http://blog.livedoor.jp/route408/archives/51080822.html

○ 折紙と図形(白銀比)、真四角(正方形)を二つ折りした長方形の2辺の比率は、白銀比(1:√2)と呼ばれ、畳(たたみ)の縦と横の比、またA判用紙(A3、A4,A5)の縦と横の長さの比となっています。

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