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2011年4月18日 (月)

安宅・金石地域(加賀、石川)の北前船主、米谷半平(米谷銀行、のち北国銀行)、銭屋五兵衛(河北潟干拓の悲劇)、木谷(木屋とも)藤右衛門(八幡神社奉納の船絵馬)、とは(2011.4.18)

  北前とは、上方(大坂)において、北国・日本海地方をさした呼び方です。北前船(きたまえぶね)は、江戸中期から明治中期にかけ、3月~11月頃、日本海海運に活躍した北陸の廻船(かいせん)、北国船(ほっこくぶね)の上方(大坂)での呼び名です。 

 北前船主は、越前(小浜、敦賀、三国、福井)、加賀(橋立、塩屋、瀬越、安宅、金石、石川)、能登(滝、一宮、黒島、石川)、越中(伏木、新港、岩瀬、富山)、佐渡(新潟)などを拠点とし、船道会(ふなどうかい)とよばれる仲間組合を結成し、大坂と北海道を結ぶ西廻り航路(日本海側)で活躍しました。船乗り(船方とも)は、航海中は夜も6時間交代で、火事や帆に注意し、勤務中は事故が起こらないよう睡眠は少しも許されなかったという。 北前船(石川新情報書府、石川): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kitamae/kikou/isikawa/isikawa_9.htm

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北前船の航路とおもな寄港地(木越隆三著、銭屋五兵衛と北前船の時代、google画像)

(解説) 北前船は、上方大坂)など瀬戸内海と松前北海道)を結ぶ、1672年(寛文12年)、河村瑞賢(かわむらずいけん、1617?~1699、三重)が開拓した西廻り航路を往来し、商人に雇用される運賃積(うんちんずみ)の荷所船(にどこぶね)から、船主が自ら買い取った積荷を輸送先で売却する買積(かいずみ)形態に変り、松前北海道)の鰊、鮭、昆布などの海産物と上方大坂)の米、塩、木綿、酒などの商品を交易し、それらの遠隔地の値段差から大きな利益北前商法!)を得ました。

 江戸時代後期(18世紀後半)から1877年(明治10年)代にかけて隆盛を誇った北前船も、1887年(明治20年)代に入ると暗い影がさし、1897年(明治30年)代には、北前船は急速に衰退して行きました。 その原因として、日本形船(弁財船、べざいせん)の海難事故が多いこと、帆の多い西洋型の船や汽船への乗り換え、電信と鉄道の発達(電信の普及は、価格情報がいち早く伝わり北前商法ができなくなる!)などが要因となっています。その後、船主の多くは、陸に上がって金貸し、地主になり、あるいは北海道の出店に移って倉事業、仲買問屋になり、また千島やサハリンなどの漁業に転じ、北洋漁業の経営者になりました。が、中小の多くの船主の中には、転業に失敗し、その屋敷跡の石垣を残すのみとなった者が少なくないという。北前船の資料館(橋立、加賀市、石川): http://www.city.kaga.ishikawa.jp/kitamae/index.html

 そこで、私が金沢でよく耳にした、安宅(あたか、小松)、金石(かないわ、沢)近辺の北前船主米谷半平(こめたにはんべい、米谷銀行、のち北国銀行)、銭屋五兵衛(ぜにやごへい、河北潟の干拓)、木谷(木屋とも)藤右衛門(きたに、きやとも、とうえもん、八幡神社奉納の船絵馬)にまつわる歴史秘話について調べて見ました。

○ 安宅(あたか、小松)

 安宅(あたか、小松)は、勧進帳(かんじんちょう)、弁慶(べっんけい)と富樫(とがし)の伝説で有名なところです。藩政時代には加賀藩の番所が置かれ、多くの船主が出ました。宮野家(輪島)の客船帳には、安宅の船主として、大門(だいもん)家、角屋、浅黄(あさぎ)家、木場(きば)家、ござ屋、玄覚(げんかく)屋、米屋、松村家、八田(はった)など、30軒以上もあげられています。

 米谷半平(こめたにはんべい)は、1822年(文政5年)に建てられたという茅葺きの家を伝えており、それ以前からの船主です。1891年(明治24年)米谷銀行を創立、1926年(大正15年)2月、加能合同銀行と改称、のち1929年(昭和4年)の昭和恐慌の影響を受け、三行合併により北国銀行となり、当主が初代北国銀行の頭取(のち会長)となっています。 北国銀行は、1943年(昭和18年)12月 、 加能合同、加州、能和の三行合併により設立されました。 

米谷半平(こめたにはんべい、米谷家7代、1892~1946、日本人名大辞典): http://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E8%B0%B7%E5%8D%8A%E5%B9%B3. 米谷銀行(銀行変遷史データベース、銀行図書館): http://koueki.net/bank/details.php?bcode=5761. 

○ 美川(みかわ、もと本吉、石川、のち白山)

 美川(みかわ、もと本吉、石川、のち白山)は、古代に比楽港(ひらのみなと)と呼ばれ、近世には本吉(もとよし)といわれて廻船業が盛んでした。船主は、宝暦・明和頃(1851~1870)からおこった竹内、明翫屋(みょうがんや)、古酒屋(こざかや)、清水屋など多く、明治には二木屋(ふたぎや)、永井、邑井(むらい)などがいます。中でも紺屋三郎兵衛は銭五と並び称せられています。安政の頃10隻余の船をもち、藩の御用金も1858年(安政5年)2500両、1869年(明治2年)1500両とたびたび献上しました。なお美川と手取川をはさんで対岸の港には熊田屋、鹿島屋、魚屋、もず屋など十数名の船主がいました。初代熊田源太郎は、帆船3隻をもち、金融・鉱山から北海道に熊田牧場まで経営しました。

○ 宮腰(みやこし、のち金石、金沢)

 宮腰(みやこし、のち金石、かないわ、金沢)は、金沢の外港として重要な港で、船主には長沖屋(ながおきや)、菓子屋、鶴屋、蔵屋、輪島家、根布屋(ねぶや)など多くいましたが、最大は銭五でした。また、金石の北隣、大野(のち金石、金沢)には、丸屋、川端屋、浅黄屋(あさぎや)などの豪商がいました。

 金石町は、江戸時代初期より宮腰町と呼ばれ、加賀藩の初期から町奉行が置かれた水陸交通の要衝で、大野湊と共に北前船の基地ととして栄え、加賀藩の蔵米や材木、専売品の塩などの商売で城下町経済を支えていました。

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金石街道(かないわがいどう、国道8号線との交差点近く、中橋町の北陸本線高架橋付近から金石港に向かう4車線道路、金沢)

(解説) 1616年(元和2年)、金沢城下から一直線に5kmほど続く金石街道宮腰往還)ができました。明治時代は馬車鉄道、その後並行して電車通り、現在は4車線道路、金石港に向かう幹線道路となっています。

 幕末にできた大野町とは交通利権をめぐって対立が多かったので、1866年(慶応2年)、「金石(きんせき)の交わり」を期待し、両町合併して金石町(かないわまち)となりましたが、明治j時代になって再び別れ、現在に至っています。また、金石港(宮腰港)の北隣には金沢港、大野港があります。近年、金沢新港(無量寺町、金沢)が建設されたため、海運の港としての役割を終え、小漁港となっています。

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銭屋五兵衛(肖像画、石川県銭屋五兵衛記念館 所蔵): http://www.zenigo.jp/

 銭屋五兵衛(ぜにやごへい、銭五とも、1773~1852)は、江戸後期の加賀の豪商、屋号は清水屋です。代々両替を業と浸ましたが、7代目五兵衛(39才)は、1811年(文化8年)、質流れのボロ船120石、3人乗で始めた米の廻送が1851年(嘉永4年)までに持船200隻、まさに海の百万石といわれるまでに成長しました。基本は、遠隔地の値段差を利用する北前商法です。全国30余ヶ所に支店をおき、薩摩(鹿児島)から北海(北海道)まで広く活動しました。

 銭五が扱った産物には、米、麦、豆など穀類、松前や津軽の昆布、ニシンなど海産物、絹、木綿、鉄、石材、ロウ、藍、砂糖、ミカンなど、様々なものがありました。航海期は3月~11月頃で、銭五の船は、冬場には大坂に船を停留させ、3月になると、乗組員は宮腰から陸路大坂に向かい、船を仕立てて松前(北海道)と往復を繰り返しました。

 銭五活躍はこの間40年だが、資産は約300万両、持ち船は2500石積みを筆頭に200数隻、まさに海の百万石にふさわしい富勢を築きました。銭五の発展は、当時の藩の実力者、年寄奥村栄実(おくむらひでざね、1792~1843)の保護(藩直営の年貢米の大坂直送事業を一手に引き受ける御手船あずかり、また会津・南部・津軽などの各藩の御用商人となり、特産物の販路拡張にも貢献する!)によるもので、栄実の死後、革新派の家老、長連弘(ちょうつらひろ、1815~1857)のブレーン集団、黒羽織党(くろばおりとう)が登場すると、たちまち立場が危なくなりました。

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河北潟(かほくがた、 1945年(昭和20年)頃、 1963年(昭和38年)国営事業干拓開始、1985年(昭和60年)完成、かほく市津幡町~金沢市内灘町、google画像)

(解説) 銭屋五兵衛の一族は、企てた河北潟埋立工事(新田2900石、農地を拡大し、農民の収入を増やし 、藩財政を豊かにするのが目的であった!)に対する沿岸漁民の中傷と反対(河北潟の魚が次々死んで浮き上がり、金沢に吐き下す病気が流行、銭五が河北潟に毒物(石灰?)を投入したのではないかとの嫌疑、また銭五の密貿易のうわさが幕府に発覚するのを恐れる藩当局の思惑など、いろいろな要因がからみあって迎えた、1852年(嘉永5年)、銭五(80才)の一族(三男要蔵ほか、40名以上)の投獄、処刑財産(数百億?)没収という終幕が示すように、銭五の生涯はまさに移りゆく藩政末期の改革と反動の渦中にありました。

 藩医黒川良安(1817~1890)は、広大な潟に毒害を発生させることは不可能で、湖水の自然腐敗によると報告しました。が、干拓工事に石灰を投入したことを理由に、銭五の一族は処断され、財産は没収されたという。

銭屋五兵衛(ぜにやごへい、1773~1852,朝日日本史人物事典): http://kotobank.jp/word/%E9%8A%AD%E5%B1%8B%E4%BA%94%E5%85%B5%E8%A1%9B. 銭屋五兵衛(豪商の夢、河北潟の干拓、石川): http://suido-ishizue.jp/nihon/03/06.html.  

 私は、1969年(昭和44年)頃、はじめて、金沢駅よりバスで金石街道沿いの通町(旧宮腰町の中心)にあった銭五の遺品館、銭屋本店を訪れたことがあります。そこには銭五の子孫と称するおじさんがいて、銭五の数々の遺品、海運業の活躍、加賀藩財政の支援、河北潟干拓の悲劇などについて懇切丁寧な説明を受けたことが強く印象に残っています。現在この建物は大野湊緑地公園に移築され、銭五の館として公開されています。

 また、その遺品の中には、銭五の支援を受けたブレーン、大野弁吉(1801~1870,中村屋弁吉とも、京都のからくり師)のからくりの作品(近代技術のあけぼの!)もありました。

 その後、銭五の遺品と諸資料は、1997年(平成9年)7月に開館された石川県銭屋五兵衛記念館(金石、金沢)に展示されています。 石川県銭屋五兵衛記念館(金石、金沢): http://www.zenigo.jp/kinennkann.html

 また、「加賀の平賀源内(ひらがげんない、1728~1780、讃岐、香川)」とも呼ばれる大野弁吉からくりの作品と諸資料は、金石の北隣、大野お台場公園の北側にある石川県金沢港大野からくり記念館に展示されています。 石川県金沢港大野からくり記念館(大野、金沢): http://www.ohno-karakuri.jp/

○ 粟崎(あわがさき、内灘、河北、のち金沢)

 粟崎(あわがさき、内灘、河北、のち金沢)は、大野川の河口に大野村と共用する港がありました。金石(かないわ)の銭五に対し、藩政時代を通じて繁栄を誇り、豪商木谷(木屋とも)籐右衛門、島崎徳兵衛三国与兵衛らが活躍の拠点としていた所です。特に木屋は銭五をはるかにしのぐ藩の財政を支えた豪商でした。

 木谷(木屋とも)藤右衛門(きたに、きやとも、とうえもん)は、加賀国石川郡粟崎村(のち金沢市粟崎町)に居住し、屋号は、特に材木や薪を多く扱ったので、木屋(きや)と称し、1777年(安永6年)成立と推定されています。 木屋家は、藩初からの船主で、4代目籐右衛門のとき、藩の御作事方御材木御用(おんさくじかたおざいもくごよう)、御算用場御為替銀(ごさんようばおんかわしぎん)など、おかね御用をつとめて藩と結びつき、1743年(寛保3年)、加賀藩の大坂廻米1万9000石をとりさばいて藩に認められ、5代目籐右衛門は1772年(明和9年)の江戸の大化の際、冥加金(みょうがきん)100貫目を献上、翌1773年(安永2年)、十村(とむら)格に取り立てられています。1800年(寛政12年)には22隻の船をもち、米、材木、船、金融など、多角的経営を行っています。 木屋藤右衛門(粟崎、内灘、のち金沢): http://www.hokkoku.co.jp/subpage/OD20100315501.htm

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粟崎八幡神社奉納絵馬額面(あわがさきはちまんじんじゃほうのうえまがくめん、粟崎、金沢、google画像)

(解説) 江戸時代、全盛期の木屋が加賀藩に負担した御用金、冥加金は、銭五をはるかにしのぎ、実質的には銭五以上に藩の財源を支えた豪商でした。1785年(天明5年)に加賀藩の行った「天明の御改法(ごかいほう)」に巻き込まれ、一時、資産没収の憂き目にあいましたが、おもに福井藩、大聖寺藩、富山藩など、他国の大名への融資などの金融を展開し、不動の地位を確立しました。その威勢は粟崎八幡神社へ数々奉納した豪壮な船絵馬(7枚)や石灯などに名残をしのぶことができます。 粟崎八幡神社奉納絵馬額面、金沢): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/shiteibunkazai/minzoku/emagakumen.html

 粟崎八幡神社から大野川沿いの道を3分ほど北東に行くと、かっての豪勢な木屋家の居宅跡があります。今は数本の老松が残り、ゲートボールに興じる老人の姿がみられる木谷(きや)公園となっています。 木屋藤衛門家(加賀藩、福井藩など諸藩への調達、粟崎、内灘、のち金沢、石川): http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2006bulletin/2006fpakiyou-nagayama.pdf

 明治維新後、木屋は金融業などに転身を試み、国立第十二銀行副頭取、金沢為替会社惣頭取になったり、美濃畑佐(はたさ)鉱山などの新事業に手をそめるなど、資本家への努力を重ねますが、結局は失敗しました。そして、北陸銀行が松方財政のデフレの影響を受け、1886年(明治19年)に倒産すると破産に追い込まれ、経済的な影響力を失いました。

 私は、2006年(平成18年)3月、金沢大学(理学部、理学研究科)を定年退職し、天気の良い日を見はからって、日本海側、福井(北前航路と若狭: 福井県立若狭歴史民族資料館)、石川(加賀橋立船主集落、北前船主屋敷: 蔵六園、加賀市橋立町の北前船の里資料館、北前船関係者名簿: 美川町石川ルーツ交流館、石川県銭屋五兵衛記念館、風と砂の館: 内灘町歴史民族資料館、羽咋市歴史民族資料館)、富山(富山市岩瀬・水橋の北前船回船問屋: 森家、バイ船の歴史と文化が息づく町散策)など、各地域の北前船の歴史資料館をマイカー(ファアミリア1500CCセダン)で訪ね、温故知新! 時代の流れを痛感しながら、いろいろ勉強させていただきました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 石川県の歴史散歩研究会(代表奥村哲)編: 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、中本義章、p.207~209、銭屋五兵衛、加賀藩の豪商、裳華房(1997); 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999); 牧野隆信: 北前船の里資料館、日本海の商船、北前船とそのふる里、加賀市地域振興事業団(1999); 加藤貞仁、鐙啓記: 北前船 寄港地と交易の物語、無明社出版(2002); 石川県の歴史散歩編集員会(代表木越隆三): 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010).

(追加説明) ○ 弁才船(べざいせん)は、近世、沿岸海運の主力廻船(かいせん)として使用された船型です。弁財船とも書き、のちには千石船とも呼ばれました。中世末に瀬戸内海で発達、近世に入り、菱垣(ひがき)廻船(たる)廻船のほか、中期以降は北前船(きたまえぶね)として日本海沿岸で用いられました。一本水押(みよし)、三階造り、矢倉(やぐら)つきを特色とし、100~2000石積の大船まであり、四角帆と船首の弥帆(やほ、補助帆)により逆風帆走も可能となり、帆走専用、大型化により各地で活躍しました。

 江戸中期までは船首の丸い櫂で漕ぐ北国船(ほっこくぶね)やハガセ船(羽ヶ瀬船、羽賀瀬船とも、越前地域、100~800石積、船釘を用いず造られ、平底で莚帆、帆走性能は劣る!)が主で、後期の近世中期以降は、経済性の優れた帆走専用の弁才船(べざいせん)を改良した、積載量の多い弁財船型の船となりました。

○ 廻船(かいせん、回船とも)とは、沿岸航路にあって、旅客、貨物輸送にあたる船のことです。中世以来瀬戸内海、淀川、北九州、伊勢湾などを中心に次第に発達し、近世以降江戸・大坂間の定期船である菱垣(ひがき)廻船(たる)廻船をはじめとして、北国廻船、奥羽廻船などがあり、1671年(寛文11年)、幕命を受けた河村瑞賢(かわむらずいけん、1618~1699)による西廻り航路(日本海沿岸を西廻りに、酒田から佐渡小木、能登福浦、下関などを経て大坂に至り、さらに紀伊半島を廻り江戸に至る航路)、東廻り航路(日本海沿岸より北上し、津軽海峡を経て太平洋岸を南下し、房総半島を廻り江戸に至る航路)の開発と共に全国諸港を結んで発展していきました。 

 廻船経営は、買積(かいづみ)(船頭自ら積荷を売買すること)と運賃積(うんちんづみ、賃積とも、船主の指示に従って売買すること)とに大別できるが、その中間タイプもあります。廻船と荷送人との間にあっては積荷を斡旋する廻船問屋があり、円滑な輸送が行われていました。

○ 北前船ミニ知識 養子と阿波(あわ)さま 北前船の船乗りは、体格がりっぱで気前(きまえ)もよいので、各地の港でロマンスが生まれています。橋立(はしだて、加賀、石川)のある船乗りは、東廻りをして伊豆の下田(静岡)に入港した時、養子にほしいと毎日頼まれ、しまいには逃げて船に帰ったそうです。

 また、瀬越(せごえ、加賀、石川)のある船乗りは、四国の阿波(德島)に寄港した時、1人の娘と深い仲になりました。しかし、知らぬ土地のことで泣いて別れました。ところが娘は積荷の間に隠れて、知らぬ間に乗船してしまいました。船乗りはどうにもできず船頭に頼んで瀬越(加賀)へ連れて帰り、土蔵に隠しておきました。そのあと船頭から父親に話をつけてもらい、やっとのことで夫婦となりました。村ではこの嫁さんを「阿波さま」と呼んでいました。この家のごちそうの作り方や味つけは村でも一風変わっていたそうで、黒砂糖を料理に多く使うので、村人が驚いたということです。(牧野隆信: 北前船の里資料館、日本海の商船、北前船とそのふる里、p.45、養子と阿波さま、加賀市地域振興事業団(1999)、第7版、より

○ 粟崎遊園(あわがさきゆうえん、河北郡内灘町、のち金沢市内灘町)と呼ばれた遊園地は、1925年(大正14年)、浅野川電気鉄道(のち北陸鉄道)社長で、材木商であった平澤嘉太郎によって開設され、1941年(昭和16年)、軍に接収され閉園しました。 粟崎遊園(内灘町、金沢): http://www.town.uchinada.lg.jp/webapps/www/info/detail.jsp?id=113. 

 一方、涛々園(とうとうえん、石川郡金石町、のち金沢市金石町)と呼ばれた遊園地は、1931年(昭和6年)、金石電気鉄道(のち北陸鉄道)が開園、運営し、粟崎遊園が近くにあり、競い合うように拡張されていたのですが、戦後、1943年(昭和18年)閉園しました。涛々園 (金石町、金沢):http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20090805104.htm

北陸鉄道(会社概要): http://www.hokutetsu.co.jp/company_info/gaiyo/index.html. 

 

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