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2011年4月の6件の記事

2011年4月25日 (月)

北陸(越の国)の交通路、北陸道(五畿七道)、北陸本線(ループ線、北陸トンネル)、北陸自動車道(敦賀トンネル、木の芽峠下)、北陸新幹線整備計画(長野~金沢)、とは(2011.4.25)

  古来、北陸(ほくりく)は、北陸地方およびそれ以北日本海沿岸も含め、コシの国と総称し、これに越、高志、古志の字をあてました。が、飛鳥時代、701年(大宝元年)の令制(大宝律令)、国号制定のとき、都(みやこ、京都)からの遠近によって、越前(えちぜん、福井、能登、加賀、のち石川)、越中(えっちゅう、富山)、越後(えちご、新潟)の3つに分かれました。

 能登(のと)は、越前から奈良時代初期に分かれ、のち中期に一時越中併合されたことがあります。加賀(かが)は、越前から平安時代初期に分かれています。それまで越前国の加賀郡は、今の金沢市、松任市(のち白山市)、石川、河北(のちかほく市)2郡を含めていました。

 北陸は、富山、石川、福井、新潟の4県の総称であり、古代、越の国の交通路として北陸道五畿七道)、近代、北陸本線ループ線北陸トンネル)、現代、北陸自動車道敦賀トンネル、木の芽峠下)が通じ、また、2014年(平成26年)末には、北陸新幹線(長野~金沢)が開業されることになっています。そこで、改めて、古代から現代まで、北陸の交通体系の発展について調べて見ました。

○ 北陸道

 北陸道(ほくりくどう)は、五畿七道の一つで、畿内から北東方日本海沿岸諸国連絡したです。平安時代中期の延喜式(えんぎしき、律令の施行細則)によれば、若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の7国、また、そこを通ずる街道を、くぬがのみちこしのみちほくろくどうなど(北陸の道意味)、と呼びました。

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五畿七道(ごきしちどう、律令制のもと、古代の行政区画、google画像) 古代の道と駅(大村の歴史、長崎):http://www6.ocn.ne.jp/~fukusige/ayumi/oomura-history/kodainomichi-eki.html

(解説) 駅制(えきせい)は、律令制(大化改新後から奈良時代・平安初期までの約3世紀)のもと、大宝令によって全国的に体系化されました。そして、公用の旅行や緊急の通信のため、五畿七道(ごきしちどう)の駅路は、幅10数メートルから6mほどの直線的な道路網で、原則として30里(約16km)ごとにが、また渡し場には水駅(すいえき)が置かれました。そこには5~20匹の駅馬が配置されました。五畿は山城、大和、河内、和泉、摂津の畿内諸国をさし、七道は他の諸国を東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海道に区分したもので、ごとに京より各国府を通過する駅路を設置しました。

○ 北陸本線 

 北陸本線は、米原(滋賀)から福井、金沢、富山を経て直江津(新潟)間および支線1(2.7km)を含む国鉄線(のちJR本線)で、全長353.9kmに至る鉄道路です。

 1882年(明治15年)長浜~敦賀間の部分開業に始まり、1898年(明治31年)4月1日、 金沢駅まで開通しました。これは、政府の日露戦争を想定した軍事拡張に関連していると言われています。1913年(大正2年)、北陸本線の全線が開通、関西と福井、金沢、富山など北陸地方の諸都市を結び、裏日本縦貫路線の一環を担っています。 

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北陸本線 敦賀(つるが)~新疋田(しんひきだ)、ループ線、1975年(昭和50年)、google画像) 北陸本線(空中写真分布表、福井編): http://airphoto.jp/chubu/fukui.html

(解説) 北陸本線敦賀(つるが)~新疋田(しんひきだ)間は、ループ線となり、ループトンネルがありました。山中の美しい風景が見られましたが、12のトンネルと急坂が続き、通過するのに約40分かかりました。  

 ループ線は、鉄道線路で急勾配を登る方法で、特に山間部で、短区間に高度を一気に登りたい時、線路を螺旋状(らせんじょう)に迂回(うかい)させて、緩勾配をとるように建設します。線路の距離は長くなりますが、それだけ勾配は緩(ゆる)やかになり、本来、走行が困難な急斜面も登ることができます。これは、長大トンネルを掘削する技術を持ち合わせていない時代には欠かせない方法でした。

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北陸トンネル木ノ芽峠下、敦賀側入口、google画像) 敦賀の交通路(交通の近代化): http://homepage2.nifty.com/tsuruga/kindai1.html

(解説) 北陸トンネルは、北陸本線敦賀~南今庄(全長13780m)間を結ぶトンネルで、伊吹山地北端、木ノ芽峠下を通過しています。同線の輸送上のネックとなっていた敦賀~今庄間の連続急勾配区間を解消するためのトンネル(全長13870m)で、1962年(昭和37年)に完成しました。その結果、敦賀~今庄間の通過時間は、ループ区間での約40分から15分に短縮されました。

 1972年(昭和47年)11月6日、午前1時9分頃、列車火災事故が、北陸本線、敦賀駅―南今庄駅(敦賀市、福井)の北陸トンネル内で発生しました。この時、火災対策に問題があり、一酸化炭素中毒により、乗客乗員に多数の死傷者(死者20人、負傷者714人)を出す大惨事となりました。

 北陸トンネル(13870m)は、複線型鉄道トンネルで、1962年(昭和37年)に開通され、1972年(昭和47年)、山陽新幹線の六甲トンネル(16250m)が開通されるまで、日本最長の鉄道トンネルでした。

 私は、冬場に、京都から湖西線経由で北陸トンネルを通り過ぎると、いつも真っ白な雪景色が展開されるので、川端康成の雪国(上越線、群馬と新潟の国境、清水トンネル)を思い出しました。

 ○ 北陸自動車道

 北陸自動車道は、黒崎(新潟)より長岡、上越、富山、金沢、福井を経て米原(滋賀)に至り、名神高速道路に接続する高速道路で、全長476.5km、1972年(昭和47年)一部開通、1997年(平成9年)には全線が開通しました。その高速自動車道は、全線に渡って国道8号線とほぼ平行に走っています。

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敦賀トンネル木の芽峠直下、全長3230m、上り線(米原・名古屋・京都方面)入口、google画像) 

(解説) 敦賀トンネルは、木の芽峠直下に掘ったトンネルで、JR北陸本線の北陸トンネルとほぼ並行する位置を通っています。1977年(昭和52年)12月8日、敦賀IC~武生IC間の開通に伴って供用が開始され、これによって敦賀から富山までが高速道路でつながりました。

 なお、その供用当時は、現在の下り線トンネルにおいて暫定の2車線対面通行供用(最高速度は40km/hに規制)であり、上下線が別々のトンネルになったのは、1980年(昭和55年)のことで、長さは上り線(米原・名古屋・京都方面)は3230m下り線(金沢・富山方面)は2930mでした。

敦賀トンネル木の芽峠直下、Wikipedia): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E8%B3%80%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

 私は、北陸自動車道で、北陸(福井)と近畿(滋賀)を結ぶ2つの長大トンネル、敦賀トンネル(上り線3230m 下り線2930m)と今庄トンネル(上り線2760m 下り線2760m)を、マイカー(ファミリア1500CC)で走るとき、いつも緊張の連続で、通り過ぎるとホッとしました。

○ 北陸新幹線整備計画

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金沢駅JR金沢駅周辺空中写真、中央から側は東口、もてなしドーム、市内中心街、金沢城、兼六園へ、側は西口、真向の50間道路から石川県庁、金沢港、能登へ、google画像) 金沢駅(google画像検索):http://www.google.co.jp/search?q=%E9%87%91%E6%B2%A2%E9%A7%85&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivnsml&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=afysTczdFYm6vQPi-OzTCg&ved=0CE4QsAQ&biw=1004&bih=549

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北陸新幹線(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A

(解説) 北陸新幹線長野~金沢)は、2014年(平成26年)末の完成を目標として整備が進められています。整備区間(東京~金沢)約450km、最高速度は260km/h、金沢~東京の所要時間は、約2時間28分と短縮されます。その経済波及効果として、輸送の時間短縮、確実性、快適性の向上で交通量が増大し、観光や各種産業の活性化、企業立地の促進や商機能の充実、通勤、通学域の拡大などが期待されています。 

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 北陸新幹線パンフレット、北陸の未来を開く、石川県・北陸新幹線建設促進石川県民会議(石川県企画振興部新幹線・交通政策課内)より.

(参考資料) 北陸本線ループ線、google動画検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97%E7%B7%9A%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%9C%AC%E7%B7%9A&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivns&source=univ&tbm=vid&tbo=u&sa=X&ei=TdKqTfSLJobevwP-x8WbCg&ved=0CEYQqwQ

北陸トンネル敦賀~南今庄、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8C%97%E9%99%B8%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=549

(追加説明) ○ ループ線 日本最初のループ線は、1909年(明治42年)開通の肥薩(ひさつ)線大畑~矢岳(やたけ)間に建設されました。肥薩線は熊本県の八代(やつしろ)と鹿児島県の隼人(はやと)を結ぶ、全長124.2kmの単線非電化のローカル線でした。県境をまたぐ人吉~吉松間は特に乗客数が少なく、廃止が検討されましたが、ループ線と急勾配を克服するもう一つの方法、スイッチバックを両方使う全国唯一の駅、大畑駅があることから、その危機をまぬがれました。この区間には、日本三大車窓の一つ、矢岳越え(やたけごえ)もあり、鉄道ファンにも人気の観光路線です。

○ 湖西線(こせいせん)は、山科駅(山科、京都)から琵琶湖の西岸を経由して近江塩津駅(長浜、滋賀)に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線です。山科駅より東海道本線(琵琶湖線)、近江塩津駅より北陸本線につながっています。 

2011年4月19日 (火)

花の季節、2011年4月19日、わが家近くの犀川土手の遊歩道沿いの満開の桜、養花一年、看花三日、とは

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満開の桜並木( 上 若宮大橋近く、犀川左岸の土手、下 示野中橋近く、犀川右岸の土手、桜田、金沢、石川、 2011年(平成23年)4月19日撮影)

(解説) は百花の中の王様であり、春の桜は花王ともいわれ、古来とくに日本人に賞されました。といえばのことであり、日本を代表する花です。桜の咲く頃、急に冷え込むことがあります。花冷え(はなびえ)とは、その頃の季感をいう。昔、農村においては、花見は農作に先立って守らねばならぬ儀礼の一つで、これを花見正月とも言いました。

 花の季節ともなれば、「養花一年、看花三日(ようかいちねん、かんかみっか)」という言葉が思い出されます。一年かけて丹精(たんせい)込め育てた花も見るのはわずか三日である。が、この三日のために人は欣然(きんぜん、よろこぶさま)として、一年の努力を惜しまない人生のこと、すべてこれ、「養花一年、看花三日」の一語につきるという。

 漢和中辞典によれば、養花(ようか)は、花を養う意で、春の花の蕾(つぼみ)がふくらむこと、養花天(ようかてん)は、花曇りのことで、春、花が咲くころの、うす曇りの空模様、養花雨(ようかう)は、花曇りのころに降る雨のことです。また、看花(かんか)は花を見ることです。

(参考文献) 貝塚茂樹、藤野岩友、小野忍編: 漢和中辞典、p.756 看花、p.1211 養花天、養花雨、角川書店(1968); 樋口清之監修:生活歳時記、p.187、4月、卯月、Apr.「養花一年、看花三日」、p,192、桜、p.198、花冷え、三宝出版(1994).

2011年4月18日 (月)

安宅・金石地域(加賀、石川)の北前船主、米谷半平(米谷銀行、のち北国銀行)、銭屋五兵衛(河北潟干拓の悲劇)、木谷(木屋とも)藤右衛門(八幡神社奉納の船絵馬)、とは(2011.4.18)

  北前とは、上方(大坂)において、北国・日本海地方をさした呼び方です。北前船(きたまえぶね)は、江戸中期から明治中期にかけ、3月~11月頃、日本海海運に活躍した北陸の廻船(かいせん)、北国船(ほっこくぶね)の上方(大坂)での呼び名です。 

 北前船主は、越前(小浜、敦賀、三国、福井)、加賀(橋立、塩屋、瀬越、安宅、金石、石川)、能登(滝、一宮、黒島、石川)、越中(伏木、新港、岩瀬、富山)、佐渡(新潟)などを拠点とし、船道会(ふなどうかい)とよばれる仲間組合を結成し、大坂と北海道を結ぶ西廻り航路(日本海側)で活躍しました。船乗り(船方とも)は、航海中は夜も6時間交代で、火事や帆に注意し、勤務中は事故が起こらないよう睡眠は少しも許されなかったという。 北前船(石川新情報書府、石川): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kitamae/kikou/isikawa/isikawa_9.htm

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北前船の航路とおもな寄港地(木越隆三著、銭屋五兵衛と北前船の時代、google画像)

(解説) 北前船は、上方大坂)など瀬戸内海と松前北海道)を結ぶ、1672年(寛文12年)、河村瑞賢(かわむらずいけん、1617?~1699、三重)が開拓した西廻り航路を往来し、商人に雇用される運賃積(うんちんずみ)の荷所船(にどこぶね)から、船主が自ら買い取った積荷を輸送先で売却する買積(かいずみ)形態に変り、松前北海道)の鰊、鮭、昆布などの海産物と上方大坂)の米、塩、木綿、酒などの商品を交易し、それらの遠隔地の値段差から大きな利益北前商法!)を得ました。

 江戸時代後期(18世紀後半)から1877年(明治10年)代にかけて隆盛を誇った北前船も、1887年(明治20年)代に入ると暗い影がさし、1897年(明治30年)代には、北前船は急速に衰退して行きました。 その原因として、日本形船(弁財船、べざいせん)の海難事故が多いこと、帆の多い西洋型の船や汽船への乗り換え、電信と鉄道の発達(電信の普及は、価格情報がいち早く伝わり北前商法ができなくなる!)などが要因となっています。その後、船主の多くは、陸に上がって金貸し、地主になり、あるいは北海道の出店に移って倉事業、仲買問屋になり、また千島やサハリンなどの漁業に転じ、北洋漁業の経営者になりました。が、中小の多くの船主の中には、転業に失敗し、その屋敷跡の石垣を残すのみとなった者が少なくないという。北前船の資料館(橋立、加賀市、石川): http://www.city.kaga.ishikawa.jp/kitamae/index.html

 そこで、私が金沢でよく耳にした、安宅(あたか、小松)、金石(かないわ、沢)近辺の北前船主米谷半平(こめたにはんべい、米谷銀行、のち北国銀行)、銭屋五兵衛(ぜにやごへい、河北潟の干拓)、木谷(木屋とも)藤右衛門(きたに、きやとも、とうえもん、八幡神社奉納の船絵馬)にまつわる歴史秘話について調べて見ました。

○ 安宅(あたか、小松)

 安宅(あたか、小松)は、勧進帳(かんじんちょう)、弁慶(べっんけい)と富樫(とがし)の伝説で有名なところです。藩政時代には加賀藩の番所が置かれ、多くの船主が出ました。宮野家(輪島)の客船帳には、安宅の船主として、大門(だいもん)家、角屋、浅黄(あさぎ)家、木場(きば)家、ござ屋、玄覚(げんかく)屋、米屋、松村家、八田(はった)など、30軒以上もあげられています。

 米谷半平(こめたにはんべい)は、1822年(文政5年)に建てられたという茅葺きの家を伝えており、それ以前からの船主です。1891年(明治24年)米谷銀行を創立、1926年(大正15年)2月、加能合同銀行と改称、のち1929年(昭和4年)の昭和恐慌の影響を受け、三行合併により北国銀行となり、当主が初代北国銀行の頭取(のち会長)となっています。 北国銀行は、1943年(昭和18年)12月 、 加能合同、加州、能和の三行合併により設立されました。 

米谷半平(こめたにはんべい、米谷家7代、1892~1946、日本人名大辞典): http://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E8%B0%B7%E5%8D%8A%E5%B9%B3. 米谷銀行(銀行変遷史データベース、銀行図書館): http://koueki.net/bank/details.php?bcode=5761. 

○ 美川(みかわ、もと本吉、石川、のち白山)

 美川(みかわ、もと本吉、石川、のち白山)は、古代に比楽港(ひらのみなと)と呼ばれ、近世には本吉(もとよし)といわれて廻船業が盛んでした。船主は、宝暦・明和頃(1851~1870)からおこった竹内、明翫屋(みょうがんや)、古酒屋(こざかや)、清水屋など多く、明治には二木屋(ふたぎや)、永井、邑井(むらい)などがいます。中でも紺屋三郎兵衛は銭五と並び称せられています。安政の頃10隻余の船をもち、藩の御用金も1858年(安政5年)2500両、1869年(明治2年)1500両とたびたび献上しました。なお美川と手取川をはさんで対岸の港には熊田屋、鹿島屋、魚屋、もず屋など十数名の船主がいました。初代熊田源太郎は、帆船3隻をもち、金融・鉱山から北海道に熊田牧場まで経営しました。

○ 宮腰(みやこし、のち金石、金沢)

 宮腰(みやこし、のち金石、かないわ、金沢)は、金沢の外港として重要な港で、船主には長沖屋(ながおきや)、菓子屋、鶴屋、蔵屋、輪島家、根布屋(ねぶや)など多くいましたが、最大は銭五でした。また、金石の北隣、大野(のち金石、金沢)には、丸屋、川端屋、浅黄屋(あさぎや)などの豪商がいました。

 金石町は、江戸時代初期より宮腰町と呼ばれ、加賀藩の初期から町奉行が置かれた水陸交通の要衝で、大野湊と共に北前船の基地ととして栄え、加賀藩の蔵米や材木、専売品の塩などの商売で城下町経済を支えていました。

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金石街道(かないわがいどう、国道8号線との交差点近く、中橋町の北陸本線高架橋付近から金石港に向かう4車線道路、金沢)

(解説) 1616年(元和2年)、金沢城下から一直線に5kmほど続く金石街道宮腰往還)ができました。明治時代は馬車鉄道、その後並行して電車通り、現在は4車線道路、金石港に向かう幹線道路となっています。

 幕末にできた大野町とは交通利権をめぐって対立が多かったので、1866年(慶応2年)、「金石(きんせき)の交わり」を期待し、両町合併して金石町(かないわまち)となりましたが、明治j時代になって再び別れ、現在に至っています。また、金石港(宮腰港)の北隣には金沢港、大野港があります。近年、金沢新港(無量寺町、金沢)が建設されたため、海運の港としての役割を終え、小漁港となっています。

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銭屋五兵衛(肖像画、石川県銭屋五兵衛記念館 所蔵): http://www.zenigo.jp/

 銭屋五兵衛(ぜにやごへい、銭五とも、1773~1852)は、江戸後期の加賀の豪商、屋号は清水屋です。代々両替を業と浸ましたが、7代目五兵衛(39才)は、1811年(文化8年)、質流れのボロ船120石、3人乗で始めた米の廻送が1851年(嘉永4年)までに持船200隻、まさに海の百万石といわれるまでに成長しました。基本は、遠隔地の値段差を利用する北前商法です。全国30余ヶ所に支店をおき、薩摩(鹿児島)から北海(北海道)まで広く活動しました。

 銭五が扱った産物には、米、麦、豆など穀類、松前や津軽の昆布、ニシンなど海産物、絹、木綿、鉄、石材、ロウ、藍、砂糖、ミカンなど、様々なものがありました。航海期は3月~11月頃で、銭五の船は、冬場には大坂に船を停留させ、3月になると、乗組員は宮腰から陸路大坂に向かい、船を仕立てて松前(北海道)と往復を繰り返しました。

 銭五活躍はこの間40年だが、資産は約300万両、持ち船は2500石積みを筆頭に200数隻、まさに海の百万石にふさわしい富勢を築きました。銭五の発展は、当時の藩の実力者、年寄奥村栄実(おくむらひでざね、1792~1843)の保護(藩直営の年貢米の大坂直送事業を一手に引き受ける御手船あずかり、また会津・南部・津軽などの各藩の御用商人となり、特産物の販路拡張にも貢献する!)によるもので、栄実の死後、革新派の家老、長連弘(ちょうつらひろ、1815~1857)のブレーン集団、黒羽織党(くろばおりとう)が登場すると、たちまち立場が危なくなりました。

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河北潟(かほくがた、 1945年(昭和20年)頃、 1963年(昭和38年)国営事業干拓開始、1985年(昭和60年)完成、かほく市津幡町~金沢市内灘町、google画像)

(解説) 銭屋五兵衛の一族は、企てた河北潟埋立工事(新田2900石、農地を拡大し、農民の収入を増やし 、藩財政を豊かにするのが目的であった!)に対する沿岸漁民の中傷と反対(河北潟の魚が次々死んで浮き上がり、金沢に吐き下す病気が流行、銭五が河北潟に毒物(石灰?)を投入したのではないかとの嫌疑、また銭五の密貿易のうわさが幕府に発覚するのを恐れる藩当局の思惑など、いろいろな要因がからみあって迎えた、1852年(嘉永5年)、銭五(80才)の一族(三男要蔵ほか、40名以上)の投獄、処刑財産(数百億?)没収という終幕が示すように、銭五の生涯はまさに移りゆく藩政末期の改革と反動の渦中にありました。

 藩医黒川良安(1817~1890)は、広大な潟に毒害を発生させることは不可能で、湖水の自然腐敗によると報告しました。が、干拓工事に石灰を投入したことを理由に、銭五の一族は処断され、財産は没収されたという。

銭屋五兵衛(ぜにやごへい、1773~1852,朝日日本史人物事典): http://kotobank.jp/word/%E9%8A%AD%E5%B1%8B%E4%BA%94%E5%85%B5%E8%A1%9B. 銭屋五兵衛(豪商の夢、河北潟の干拓、石川): http://suido-ishizue.jp/nihon/03/06.html.  

 私は、1969年(昭和44年)頃、はじめて、金沢駅よりバスで金石街道沿いの通町(旧宮腰町の中心)にあった銭五の遺品館、銭屋本店を訪れたことがあります。そこには銭五の子孫と称するおじさんがいて、銭五の数々の遺品、海運業の活躍、加賀藩財政の支援、河北潟干拓の悲劇などについて懇切丁寧な説明を受けたことが強く印象に残っています。現在この建物は大野湊緑地公園に移築され、銭五の館として公開されています。

 また、その遺品の中には、銭五の支援を受けたブレーン、大野弁吉(1801~1870,中村屋弁吉とも、京都のからくり師)のからくりの作品(近代技術のあけぼの!)もありました。

 その後、銭五の遺品と諸資料は、1997年(平成9年)7月に開館された石川県銭屋五兵衛記念館(金石、金沢)に展示されています。 石川県銭屋五兵衛記念館(金石、金沢): http://www.zenigo.jp/kinennkann.html

 また、「加賀の平賀源内(ひらがげんない、1728~1780、讃岐、香川)」とも呼ばれる大野弁吉からくりの作品と諸資料は、金石の北隣、大野お台場公園の北側にある石川県金沢港大野からくり記念館に展示されています。 石川県金沢港大野からくり記念館(大野、金沢): http://www.ohno-karakuri.jp/

○ 粟崎(あわがさき、内灘、河北、のち金沢)

 粟崎(あわがさき、内灘、河北、のち金沢)は、大野川の河口に大野村と共用する港がありました。金石(かないわ)の銭五に対し、藩政時代を通じて繁栄を誇り、豪商木谷(木屋とも)籐右衛門、島崎徳兵衛三国与兵衛らが活躍の拠点としていた所です。特に木屋は銭五をはるかにしのぐ藩の財政を支えた豪商でした。

 木谷(木屋とも)藤右衛門(きたに、きやとも、とうえもん)は、加賀国石川郡粟崎村(のち金沢市粟崎町)に居住し、屋号は、特に材木や薪を多く扱ったので、木屋(きや)と称し、1777年(安永6年)成立と推定されています。 木屋家は、藩初からの船主で、4代目籐右衛門のとき、藩の御作事方御材木御用(おんさくじかたおざいもくごよう)、御算用場御為替銀(ごさんようばおんかわしぎん)など、おかね御用をつとめて藩と結びつき、1743年(寛保3年)、加賀藩の大坂廻米1万9000石をとりさばいて藩に認められ、5代目籐右衛門は1772年(明和9年)の江戸の大化の際、冥加金(みょうがきん)100貫目を献上、翌1773年(安永2年)、十村(とむら)格に取り立てられています。1800年(寛政12年)には22隻の船をもち、米、材木、船、金融など、多角的経営を行っています。 木屋藤右衛門(粟崎、内灘、のち金沢): http://www.hokkoku.co.jp/subpage/OD20100315501.htm

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粟崎八幡神社奉納絵馬額面(あわがさきはちまんじんじゃほうのうえまがくめん、粟崎、金沢、google画像)

(解説) 江戸時代、全盛期の木屋が加賀藩に負担した御用金、冥加金は、銭五をはるかにしのぎ、実質的には銭五以上に藩の財源を支えた豪商でした。1785年(天明5年)に加賀藩の行った「天明の御改法(ごかいほう)」に巻き込まれ、一時、資産没収の憂き目にあいましたが、おもに福井藩、大聖寺藩、富山藩など、他国の大名への融資などの金融を展開し、不動の地位を確立しました。その威勢は粟崎八幡神社へ数々奉納した豪壮な船絵馬(7枚)や石灯などに名残をしのぶことができます。 粟崎八幡神社奉納絵馬額面、金沢): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/shiteibunkazai/minzoku/emagakumen.html

 粟崎八幡神社から大野川沿いの道を3分ほど北東に行くと、かっての豪勢な木屋家の居宅跡があります。今は数本の老松が残り、ゲートボールに興じる老人の姿がみられる木谷(きや)公園となっています。 木屋藤衛門家(加賀藩、福井藩など諸藩への調達、粟崎、内灘、のち金沢、石川): http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/2006bulletin/2006fpakiyou-nagayama.pdf

 明治維新後、木屋は金融業などに転身を試み、国立第十二銀行副頭取、金沢為替会社惣頭取になったり、美濃畑佐(はたさ)鉱山などの新事業に手をそめるなど、資本家への努力を重ねますが、結局は失敗しました。そして、北陸銀行が松方財政のデフレの影響を受け、1886年(明治19年)に倒産すると破産に追い込まれ、経済的な影響力を失いました。

 私は、2006年(平成18年)3月、金沢大学(理学部、理学研究科)を定年退職し、天気の良い日を見はからって、日本海側、福井(北前航路と若狭: 福井県立若狭歴史民族資料館)、石川(加賀橋立船主集落、北前船主屋敷: 蔵六園、加賀市橋立町の北前船の里資料館、北前船関係者名簿: 美川町石川ルーツ交流館、石川県銭屋五兵衛記念館、風と砂の館: 内灘町歴史民族資料館、羽咋市歴史民族資料館)、富山(富山市岩瀬・水橋の北前船回船問屋: 森家、バイ船の歴史と文化が息づく町散策)など、各地域の北前船の歴史資料館をマイカー(ファアミリア1500CCセダン)で訪ね、温故知新! 時代の流れを痛感しながら、いろいろ勉強させていただきました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 石川県の歴史散歩研究会(代表奥村哲)編: 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、中本義章、p.207~209、銭屋五兵衛、加賀藩の豪商、裳華房(1997); 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999); 牧野隆信: 北前船の里資料館、日本海の商船、北前船とそのふる里、加賀市地域振興事業団(1999); 加藤貞仁、鐙啓記: 北前船 寄港地と交易の物語、無明社出版(2002); 石川県の歴史散歩編集員会(代表木越隆三): 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010).

(追加説明) ○ 弁才船(べざいせん)は、近世、沿岸海運の主力廻船(かいせん)として使用された船型です。弁財船とも書き、のちには千石船とも呼ばれました。中世末に瀬戸内海で発達、近世に入り、菱垣(ひがき)廻船(たる)廻船のほか、中期以降は北前船(きたまえぶね)として日本海沿岸で用いられました。一本水押(みよし)、三階造り、矢倉(やぐら)つきを特色とし、100~2000石積の大船まであり、四角帆と船首の弥帆(やほ、補助帆)により逆風帆走も可能となり、帆走専用、大型化により各地で活躍しました。

 江戸中期までは船首の丸い櫂で漕ぐ北国船(ほっこくぶね)やハガセ船(羽ヶ瀬船、羽賀瀬船とも、越前地域、100~800石積、船釘を用いず造られ、平底で莚帆、帆走性能は劣る!)が主で、後期の近世中期以降は、経済性の優れた帆走専用の弁才船(べざいせん)を改良した、積載量の多い弁財船型の船となりました。

○ 廻船(かいせん、回船とも)とは、沿岸航路にあって、旅客、貨物輸送にあたる船のことです。中世以来瀬戸内海、淀川、北九州、伊勢湾などを中心に次第に発達し、近世以降江戸・大坂間の定期船である菱垣(ひがき)廻船(たる)廻船をはじめとして、北国廻船、奥羽廻船などがあり、1671年(寛文11年)、幕命を受けた河村瑞賢(かわむらずいけん、1618~1699)による西廻り航路(日本海沿岸を西廻りに、酒田から佐渡小木、能登福浦、下関などを経て大坂に至り、さらに紀伊半島を廻り江戸に至る航路)、東廻り航路(日本海沿岸より北上し、津軽海峡を経て太平洋岸を南下し、房総半島を廻り江戸に至る航路)の開発と共に全国諸港を結んで発展していきました。 

 廻船経営は、買積(かいづみ)(船頭自ら積荷を売買すること)と運賃積(うんちんづみ、賃積とも、船主の指示に従って売買すること)とに大別できるが、その中間タイプもあります。廻船と荷送人との間にあっては積荷を斡旋する廻船問屋があり、円滑な輸送が行われていました。

○ 北前船ミニ知識 養子と阿波(あわ)さま 北前船の船乗りは、体格がりっぱで気前(きまえ)もよいので、各地の港でロマンスが生まれています。橋立(はしだて、加賀、石川)のある船乗りは、東廻りをして伊豆の下田(静岡)に入港した時、養子にほしいと毎日頼まれ、しまいには逃げて船に帰ったそうです。

 また、瀬越(せごえ、加賀、石川)のある船乗りは、四国の阿波(德島)に寄港した時、1人の娘と深い仲になりました。しかし、知らぬ土地のことで泣いて別れました。ところが娘は積荷の間に隠れて、知らぬ間に乗船してしまいました。船乗りはどうにもできず船頭に頼んで瀬越(加賀)へ連れて帰り、土蔵に隠しておきました。そのあと船頭から父親に話をつけてもらい、やっとのことで夫婦となりました。村ではこの嫁さんを「阿波さま」と呼んでいました。この家のごちそうの作り方や味つけは村でも一風変わっていたそうで、黒砂糖を料理に多く使うので、村人が驚いたということです。(牧野隆信: 北前船の里資料館、日本海の商船、北前船とそのふる里、p.45、養子と阿波さま、加賀市地域振興事業団(1999)、第7版、より

○ 粟崎遊園(あわがさきゆうえん、河北郡内灘町、のち金沢市内灘町)と呼ばれた遊園地は、1925年(大正14年)、浅野川電気鉄道(のち北陸鉄道)社長で、材木商であった平澤嘉太郎によって開設され、1941年(昭和16年)、軍に接収され閉園しました。 粟崎遊園(内灘町、金沢): http://www.town.uchinada.lg.jp/webapps/www/info/detail.jsp?id=113. 

 一方、涛々園(とうとうえん、石川郡金石町、のち金沢市金石町)と呼ばれた遊園地は、1931年(昭和6年)、金石電気鉄道(のち北陸鉄道)が開園、運営し、粟崎遊園が近くにあり、競い合うように拡張されていたのですが、戦後、1943年(昭和18年)閉園しました。涛々園 (金石町、金沢):http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20090805104.htm

北陸鉄道(会社概要): http://www.hokutetsu.co.jp/company_info/gaiyo/index.html

(追加説明、話題)

〇 「北前船寄港地」日本遺産

 文化庁は2017年4月28日、地域の有形、無形の文化財をテーマでまとめる「日本遺産」に、石川県加賀市を含む北海道から福井の7道県にまたがる「北前船寄港地・船主集落」など23道府県の17件を新たに認定しました。

 荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~[北海道、青森、秋田、山形、新潟、石川、福井]

 2015年から毎年認定しており、今回の第3弾で計54件となりました。認定は、地域の魅力を国内外に分かりやすく伝え、国内外の多くの人が歴史を体感し、楽しめるよう、観光振興につねげるのが狙いです。

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船主や船頭の家屋が残る加賀橋立伝統的建造物群保存地区、石川県加賀市橋立町で(同市提供)

(北陸中日新聞:「北前船寄港地」日本遺産、加賀市など11市町、船主集落、絵馬、民謡も、第3弾17件、2017年(平成29年)4月29日(土)より)

〇 北前船研究者全国から集う 加賀でセミナー

 北前船に関する研究発表を行う「全国北前船セミナー」が8月27日、加賀市山田町のセミナーハウスあいりすで始まり、全国の研究者ら約80人が参加した。

 同市の全国北前船研究会が1984年(昭和59年)からほぼ毎年開いており、今回は4月末の「北前船寄港地・船主集落」の日本遺産認定後、初の開催になった。

 初日は、札幌市の一級建築士で文化財の調査などをしている渡辺一幸さんが「北陸産古瓦にたどる北前船の風景」と題し、記念講演した。北海道の歴史的建造物の屋根瓦の中には、北前船によって運ばれた越前や加賀産の瓦があり、その屋根瓦が風景をかたちづくっている地域があることなどを紹介した。

(北陸中日新聞:前船研究者全国から集う 加賀でセミナー、2017年(平成29年)8月25日(月)より)

 

2011年4月11日 (月)

香辛料(調味料)、インド料理(カレーライス)、韓国料理(キムチチゲ、ビビンバ、クッパ)、中国料理(麻婆豆腐)、とは(2011.4.11)

  香辛料(こうしんりょう、スパイスとも)は、料理、飲物、加工食品等に、芳香、辛味などの風味を与える調味料のことです。このものには、防臭効果、防腐効果、殺菌効果、薬効効果、ダイエット効果などあり、健康にも役立ち、食欲がないときでも、ご飯がおいしく食べられ、なおかつ消化しやすくしてくれるという。 そこで、香辛料を使った、よく口にするインド料理カレーライス)、韓国料理キムチチゲ、ビビンバ、クッパ)、中国料理麻婆豆腐、マーボートウフ)について調べて見ました。

○ 香辛料

 香辛料(こうしんりょう、espice、especeとも、英語でspices)という語は、12世紀(1150年頃)の「シャルルマーニュ大帝の旅」(武勲詩?)の中で初めて用いられました。 さらに、いくたの心地よき香辛料(espice) 食事のあとに、 口にして美味しいもの (バラ物語より)  ショウガ、コショウ、ニッケイ、そして他の香辛料(espices) (アルブランより)

 その原産地は、オリエント東洋、アジア)で、古代ギリシャ・ローマの昔から、絹の国(秦、中国)の商人たちによってシルクロードの経路でもって欧州(ギリシャ)に交易によりもたらされました。

 欧州では、獣肉料理を主とするため防腐、防臭の上から欠くことができず、しかも多くは東洋からもたらされたもので高価であり、膨大な利潤を生む交易品で、貨幣の代用にもなったという。ことに、ニッケイシナモン)、コショウペッパー)が珍重され、アラビアを通じて南インド、モルッカ諸島から運ばれていました。 香辛料の歴史(馬込と大田区の歴史を保存する会、東京):http://www2u.biglobe.ne.jp/~KA-ZU/17-2.html.         

香辛料の植物には、コショウ、チョウジ、ショウガ、ニッケイ(シナモン)、ニクズク(ナツメッグ)、ターメリック(ウコン)のほか、トウガラシ、カルダモン(ショウズク)、サフラン、ポワヴロン、ピメント、ヴァニラ、ケイパーなどがあります。香辛料の世界史、口絵、富田瑞穂、より) リュシアン・ギュイヨ著(池崎一郎、平山弓月、八木尚子訳): 香辛料の世界史、白水社(2006).

(解説) 香辛料は、ケシ、コショウ、ショウガ、サンショウの類、特殊な植物の種子、茎、樹皮、葉、根など多くは乾燥した製品をいい、そのまま、あるいは粉末にして使用します。これには防腐、防カビなどの効果もあり、民間薬として通用するものも多く、芳香の強いものは香料となります。芳香を主とするものは、クローブ(チョウジとも)、ペパーミント(コショウハッカ)、シナモン、ローリエ(乾ゲッケイ葉)など、辛味にはペッパー(コショウとも)、ジンジャー(ショウガとも)、マスタード(カラシとも)など、色素としてはカーキュマ、ターメリック(ウコンとも)などがあります。 香辛料とは(全日本スパイス協会): http://www.ansa-spice.com/M04_Spice/Spice.html

 日本料理では、古来トウガラシ、サンショウなどが薬味として使用されました。薬味は、香辛料で、ふつうでき上がった料理にそえるか、あえるのに用い、香味をそえ味覚を刺激します。材料はすべて植物性で、生鮮品と乾燥品があり、併用する場合もあります。ふつう用いられるのは、ワサビ、ショウガ、サンショウ、カラシ、ネギ、シソ、セリ、ウド、ミツバ、シュンギク、タデ、ダイコンオロシ、ノリなどです。

 トウガラシの辛味成分は、カプサイシン(バ二リン誘導体、脂溶性)です。この物質は、揮発性が高くないので、舌や口腔(こうこう)内にとどまります。一方、ワサビの辛味成分は、アリルイソチオシアネートです。この物質は、ワサビをすりおろしたとき、水とミロシナーゼという酵素の働きで、ワサビに含まれているシニグリンが加水分解してできます。この物質は揮発性なので、食べると口腔内で揮発して鼻腔にまで広がり、鼻にツーンときます。

 また、トウガラシを食べると、体が温かくなり、汗が出てきますが、これはカプサイシン交感神経を刺激する作用があるためです。交感神経がカプサインにより刺激されると、神経の末端からノルアドレナリンの分泌が増加したり、副腎から血液中へアドレナリンの分泌が促進されます。これらの物質は、発汗をうながしたり、エネルギー代謝活発にすることによって体脂肪を燃焼させたり、血行を促進したりします。その働きは、ダイエット効果としても注目されています。一方、ワサビアリルイソチオシアネートには、このような作用がありません。

 七味唐辛子(しちみとうがらし、七色唐辛子とも)は、赤トウガラシ粉にサンショウ、アサの実、ケシの実、ゴマ、陳皮(ミカンの皮)、ナタネなどを混ぜ合わせたものです。ドジョウ汁、鯉こくの吸い口、めん類の薬味などに使用されます。

○ インド料理(カレーライス)

インドのカレー(手前 インドのカレー、 背後 インドのナン(パンに相当)、インド、google画像) インドのカレー(Wikipedia): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC#.E3.82.A4.E3.83.B3.E3.83.89.E3.81.AE.E3.82.AB.E3.83.AC.E3.83.BC

(解説) カレーは南方インドのタミル語でソースを意味し、幾つかの香辛料を混ぜ合わせた、刺激性淡黄色の粉末の洋風料理の調味料です。香辛料として、アニス(セリ科)、ウコン、コショウ、コエンドロ(セリ科)、メース(ニクズク科)、チョウジ、トウガラシ、ナツメグ、ニッケイ、カーダモン、オールスパイス(フトモモ科、ピメントとも)などが含まれ、 カレーライスのほか、煮物、ソースなど料理に広く使用されます。カレーライス(ライスカレーとも)は、インド風料理で、肉や野菜などを混ぜて煮た汁にカレー粉、小麦粉など加え、米飯に加えたものです。  

○ 韓国料理(キムチチゲ、ビビンバ、クッパ)

キムチチゲキムチ鍋とも、韓国、google画像) キムチチゲ((Wikipedia): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A0%E3%83%81%E3%83%81%E3%82%B2. 

(解説) キムチチゲ(キムチ鍋とも は、辛口の鍋料理、スープ料理で、白菜キムチが味の主体で、具には肉類または魚介類、野菜、豆腐などが使われます。

 キムチ(沈菜、韓国語kimchi、キミチとも)は、韓国の漬け物で、野菜(白菜等)を主体に、魚肉、塩辛、獣肉、香辛料、果実等数多く取り合わせて数日漬け込み、密閉するだけで重しはしない。トウガラシの強い辛味が特徴で、塩漬けにした白菜の葉の間に、魚貝類、大根、ニンニク、ショウガ、トウガラシ、ネギなどの繊切(せんぎり)または微塵切(みじんぎり)と塩辛などを挟み入れ漬け込みます。

ビビンバクッパ(左 石焼きビビンバ、右 野菜クッパ、和龍園、東京、google画像)  

(解説) ビビンバは、韓国の主食料理の一種で白飯の上に野菜の和え物を主にしたいろいろな具をのせ、混ぜ合わせて食べます。 クッパは、スープとご飯を組み合わせた雑炊のような料理で、焼肉店での定番という。

○ 中国料理(麻婆豆腐、マーボードウフ)

麻婆豆腐(マーボードウフ、上にかけてある黒い粉が花椒(カショウ)、四川省、中国、google画像)  麻婆豆腐マーボードウフ、Wikipedia): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E5%A9%86%E8%B1%86%E8%85%90

(解説) 麻婆豆腐中国語、マーポードウフ)は、四川料理の一つで、挽肉(ひきにく)と赤唐辛子(赤トウガラシ)・花椒(カショウ、サンショウの同属異種)、豆板醤(トウバンジャン、豆瓣醤とも、空豆が主原料)などを炒め、鶏がらスープを入れて豆腐を煮た料理で、唐辛子(トウガラシ)の辛さである辣味(ラーウェイ)と花椒(カショウ)の痺(しび)れるような辛さである麻味(マーウェイ)を特徴とします。

 私は、家内が韓国料理(キムチチゲ)を作ってくれたとき、いつも食欲がわき、必ずご飯のおかわりをしています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991): リュシアン・ギュイヨ著(池崎一郎、平山弓月、八木尚子訳): 香辛料の世界史、白水社(2006); 日本味と匂学会(代表、山本隆)編: 味のなんでも小事典、講談社(2010).

2011年4月 4日 (月)

日本三景にまつわる歴史伝承、天橋立(丹後、京都、台風災害)、松島(陸奥、宮城、東日本大震災)、厳島(安芸、広島、台風災害)、新日本三景、富士山世界文化遺産、とは(2011.4.4)

  日本三景(にほんさんけい)は、古来、天橋立(あまのはしだて、丹後、京都)、松島(まつしま、陸奥、宮城)、厳島(いつくしま、安芸、広島)と呼ばれる三つの景勝地です。

 江戸初期の儒学者、林鵞峰(はやしがほう、春斎とも、1618~1680)が、日本国事跡考に「丹後天橋立(たんごあまのはしだて)、陸奥松島(むつまつしま)、安芸厳島(あきいつくしま)、三処を奇観と為す」と書いたのが日本三景の始まりとされています。三景はいずれも海や木々など、自然の優れた景観ですが、それを守るのも一苦労するという。2006年(平成18年)、林鵞峰の誕生日(7月21日)が、日本三景の日と制定されました。

○ 天橋立(あまのはしだて、特別名勝、丹後、京都)

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天橋立(あまのはしだて、飛龍観股のぞき、京都、google画像) ここからの眺めは、天橋立が天に舞い上がる龍のように見えるので飛龍観と呼ばれ、また、股のぞきの名所として知られています。

(解説) 京都府北部、宮津市宮津湾にある砂嘴(さし、砂州、さす、とも)、延長約3km、幅40~110m、の白砂の松林で、北は大天'橋、南は小天橋と呼ばれ、回転橋で連絡、西に阿蘇海をかかえ、北岸にある成相(なりあい)山の傘松公園からの縦一文字(6000本の松?)と、大内峠(おうちとうげ)からの横一文字の景色は有名です。天橋立(日本三景、観光ガイド、京都): http://ama.hanayade.net/30/post_10.html

 天橋立は白砂の浸食が進んだため、海底の砂を移動して地形の維持に努めています。2005年(平成17年)の台風では樹齢400年を超える名松が倒れてしまい、接ぎ木で子孫を残そうと試みられているという。宮津線天橋立駅に近い。

 私は、天橋立には、1968年(昭和43年)9月、京都大学近く、下別当町(北白川、左京区)で下宿(村井良治様)していたとき、隣部屋(2階)の下出敏幸君(経済学部、三重)にさそわれ、JR列車で訪れたことがあります。股のぞきは絶景!でした。湯川秀樹夫妻もおしのび?で来られたという。1982年(昭和57年)5月には、金沢からマイカー(ファミリア1500CC)で家族3人(高治、尊子、高行)訪れました、白砂の松林を歩いていると、岩見重太郎の仇討ちの場、試し切りの石と立て札があったのを覚えています。

 松島(まつしま、特別名勝、陸奥、宮城)

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多門山(たもんざん、松島四大観偉観、松島湾南側、七ケ浜町、宮城、google画像)

(解説) 宮城県中部、松島湾一帯の景勝地で、湾内外に散在する大小260余の島々は沈水した松島丘陵のかっての高台で、波食により奇観を呈し、白い岩肌(いわはだ)と松が調和しています。湾岸に瑞巌寺、五大堂、観瀾亭、塩竃神社があります。大鷹森、富山、多聞山、扇谷からなる眺めを松島四大観、また、雄島夕照、瑞巌寺晩鐘、霞浦帰雁、塩釜暮煙などを松島八景と呼ぶ。 松島(日本三景、観光ガイド、陸前、宮城): http://nihonsankei.jp/matsushima.html

 ところで、「松島や ああ松島や 松島や」は、かつては松尾芭蕉(まつおばしょう、1644~1694)の作とされてきましたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期、狂歌師、田原坊作ではないかと考えられています。 松島と芭蕉(芭蕉作という松島やの句、松嶋や さてまつしまや 松嶋や!、田原坊作?): http://www.bashouan.com/puBashous.htm

 松島はマツクイムシの被害で森林が消滅してしまった島もあり、薬剤注射で防御中だという。東北本線、仙石線が通じ、バス交通も発達、湾内に観光船が就航しています。

 私は、1996年(平成8年)9月、JR列車で松島を訪れ、洞窟(修行の場?)のそばを通り、瑞巌寺にお参りし、はじめて観光船に乗って松島湾内の島めぐりをしましたが、多くの小島の松林が印象に残っています。

 2011年(平成23年)3月11日、東日本大地震(M9.0)、大津波襲来したとき、松島島々対岸の松島町を守ってくれたという。松島が守ってくれた対岸の町、松島町、(読売新聞、2011年3月23日、より): http://news.goo.ne.jp/topstories/life/35/2584ca7c20a227bcbf1ca657c530faa5.html

○ 厳島(いつくしま、伊都岐島、宮島とも、世界遺産、特別名勝、安芸、広島)

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厳島神社(いつくしまじんじゃ、 大鳥居、  客社祓殿正面、宮島町、広島、google画像)

(解説) 瀬戸内海の西部、広島湾の北西部に浮かぶ小島で、面積約30平方メートル、花崗岩(かこうがん)からなり、その最高所は海抜530mの弥山(みせん)、ひとつの島が宮島町です。北岸に海上社殿の厳島神社があり、門前町(鳥居前町とも)宮島が発達、島全体が神社地として保護され、天然記念物の弥山原生林に覆われています。 宮島(みやじま、観光公式サイト): http://www.miyajima-wch.jp/

 私は、1993年(平成5年)10月、JR列車と連絡船で宮島を訪れ、厳島神社を参拝し、周辺を散策したことがあります。海中の大鳥居、客社祓殿、平家納経(へいけのうきょう)、原生林など、歴史の重みを感じました。 2004年(平成16年)、台風で国宝の能舞台が倒壊し、約8億円をかけて修復が行われましたた。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 世界の「ふしぎ雑学」研究会: 図解、日本の「三大」なんでも事典、三笠書房(2008).

(参考資料) 天橋立(あまのはしだて、google画像検索): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%A4%A9%E6%A9%8B%E7%AB%8B&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=zAOHTci1CMP0cOX6uY4D&ved=0CFoQsAQ&biw=1004&bih=549

松島四大観(まつしましたいかん、google画像検索); http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E8%A6%B3&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=549

厳島(いつくしま、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8E%B3%E5%B3%B6%EF%BC%88&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=LBOHTbjMFcyrcci45IkD&ved=0CFwQsAQ&biw=1004&bih=549

(追加説明) ○ 1915年(大正4年)、女性誌「婦人世界」が全国投票で選定した「新日本三景」は、大沼(おおぬま、函館、北海道)、三保の松原(みほのまつばら、静岡、中部)、耶馬溪(やばけい、大分、九州)と各地からバランスよく選ばれています。 

 大沼は、渡島駒ヶ岳の噴火で生じた三湖に浮かぶ大小126の島々、33の湾、湖畔の原始林があり、三保の松原は、駿河湾に面する白砂青松と富士山の景観、万葉集にも詠まれました。耶馬溪は、溶岩台地が浸食されてできた渓谷に数々の絶壁、奇峰、石門、紅葉も人気があります。

大沼(おおぬま、函館、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%A4%A7%E6%B2%BC&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=549

三保の松原(みほのまつばら、静岡、google画像):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%B8%89%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%9D%BE%E5%8E%9F&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=549

耶馬溪(やばけい、大分、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E8%80%B6%E9%A6%AC%E6%BA%AA&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=549

 私は、1981年(昭和56年)は1人で、また、1998年(平成10年)は家内と2人で、北海道旅行の途中、大沼公園を訪れ、齣ヶ岳を遠望、洞爺湖の観光船に乗り、雄大な美しい景色を目にしたのが印象に残っています。

 富士山世界文化遺産(2013年(平成25年)6月22日登録、山梨県事務局、静岡県事務局): http://www.fujisan-3776.jp/

2011年4月 1日 (金)

出雲(いずも、神話の国、島根)にまつわる歴史伝承、出雲大社(大国主命、国譲り)、因幡の白兎(大国様の言うとおり)、玉造温泉(神の湯)と勾玉(まがたま)、地震と火山帯、とは(2011.4.1)

  古来、出雲(いずも、島根県の東部)は、神話の国、奈良時代、713年(和銅6年)、出雲風土記によれば、八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)が、八雲立つ(やくもたつ)と言われたので、八雲立つ出雲という。712年(和銅5年)、古事記には、地の神、須佐之男命(すさのうのみこと)の歌として、「八雲立つ 出雲八垣つまごみに 八重垣つくるその八重垣を」があります。 

 出雲大社(島根)には、地の神(国つ神系)、天の岩屋戸の事件を起こし天の世界(高天原)から追放された須佐之男命(すさのおのみこと)の、地の神、大国主命(おおくにぬしのみこと)が祀られています。天の女神(天つ神系)、天照大神(あまてらすおおみかみ)とその、地の神(国つ神系)、須佐之男命(すさのおのみこと)の両親は、天の神、伊弉冉尊(いざなみのみこと、女神)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと、男神)です。

 ○ 出雲大社(いずもたいしゃ、大国主神、天照大神への国譲り、島根)

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出雲大社(いずもたいしゃ、拝殿(御仮殿)、平成大遷宮、2008年(平成20年)4月、仮殿遷座祭、2013年(平成25年)5月、本殿遷座祭、島根、google画像)

(解説) 出雲大社(いずもたいしゃ、いずもおおやしろとも)は、島根県簸川郡(ひかわぐん)大社町杵築(きづき)東に鎮座する旧官幣大社で、地の神、大国主命を祀っています。大国主神の国譲りを喜んだ天の神、天照大神(伊勢神宮)が、その望みをいれて壮大な社殿を建て、天穂日命(あめのほひのみこと)を仕えさせたという。社殿は大社造(たいしゃづくり)と称し、日本最古の神社建築の様式です。延喜式内の名神大社、出雲国の一宮、全国出雲神社(1171社)の総本社で、縁結び、開運(福)、農耕の神として信仰されています。出雲大社ご案内(出雲大社社務所、島根): http://www.izumooyashiro.or.jp/guide.html

 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

○ 因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ、素兎とも、大国主命の救助、鳥取)

 出雲神話の一つで、古事記には、淤岐島(おきのしま)から因幡国(いなばのくに、鳥取県の東部)に渡るため、白兎(しろうさぎ)が海の上に並んだ鰐鮫(わにざめ)の背を欺(あざむ)き渡ったが、最後に鰐鮫に皮を剥ぎ取られ、八十神(やそがみ)の教えに従って潮に浴したためにかえって痛み、苦しんでいるのを大国主命(おおくにぬしのみこと)が救ってやりました。その結果、兎(うさぎ)の予言通り、大国主命は兄弟の八十神(やそがみ)たちをさしおいて、八十比売(やがみひめ)をめとったという。山陰本線白兎駅(鳥取県)の近くに白兎神社があります。 白兎海岸(神話の神々に出会う旅、小林晴明、宮崎みどり、島取): http://www5c.biglobe.ne.jp/~izanami/coramu1/inaba.html

 唱歌大黒様  作詞:石原和三郎、 作曲:田村虎蔵
 1.大きな袋を肩にかけ 大黒様(だいこくさま)が来かかると
   ここに因幡の白兎(しろうさぎ) 皮をむかれて赤はだか

 2.大黒様はあわれがり きれいな水に身を洗い
   蒲(がま)の穂綿にくるまれと よくよく教えてやりました

 3.大黒様の言うとおり きれいな水に身を洗い
   蒲(がま)の穂綿にくるまれば 兎は元の白兎

 4.大黒様はだれだろう 大国主(おおくにぬし)のみこととて
   国をひらきて世の人を たすけなされた神様よ

○ 玉造温泉(たまつくりおんせん、神の湯、島根)と勾玉(まがたま)

 玉造温泉(たまつくりおんせん、神の湯)は、島根県の北東部、八束(やつか)郡玉湯(たまゆ)町玉造、宍道湖(しんじこ)南岸に湧く(50~72℃)、ナトリウム・カルシウム・硫酸塩・塩化物泉(含食塩石膏ボウ硝塩泉?)です。古来、奈良時代から知られ、療養客出雲大社参拝客宿泊が多いという。 玉造温泉(公式ホームページ、玉造温泉旅館協同組合); http://www2.crosstalk.or.jp/onsen/onsen/index.html

 玉造温泉周辺では、勾玉(まがたま)など玉類を産しました。華仙山(かせんざん)はメノウ(瑪瑙、主成分は膠状ケイ酸、石英など)産地、特産に布志名(ふじな)焼があります。出雲玉作跡(史跡公園)があり、玉作湯神社は多数の玉出土品を蔵しています。勾玉(まがたま、曲玉、まがりたま、とも)は、古代、古墳時代、装身具の一つで、副葬品にも供せられました。

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日本列島の火山帯とプレート(地震と火山帯が横たわる日本列島、google画像)

(解説) 日本の温泉(25℃以上、または溶存物質総量が1kg中に1000mg(1g)以上含有するもの)は、火山帯の地域に多く分布しています。日本列島の火山帯は、主として、活火山、休火山、及び比較的新しい死火山などが分布する帯状の地域です。東日本火山帯と西日本火山帯とに二大別され、さらに細分して那須火山帯、冨士火山帯、白山火山帯などと呼んでいます。 玉造温泉(たまつくりおんせん、島根)と近くの皆生温泉(かいけおんせん、鳥取)は、白山火山帯(狭義の大山火山帯)に属する温泉と思われます。

○ 白山火山帯(大山火山帯とも)、白山山麓の温泉と噴泉塔(中宮温泉、岩間温泉、岩間噴泉塔、白山温泉など)、とは(2014.1.14): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-5160.html 

 私は、1972年(昭和47年)6月12日、家内(尊子)と出雲大社を参拝、日御碕の灯台とウミネコを眺め、玉造温泉へと旅したことがあります。神の国、壮大な出雲大社、ウミネコの声、玉造温泉のお土産店で見た天然メノウ碁石など強く印象に残っています。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 北陸中日新聞東京本社サンデー版編集部(石川徹也担当): 日本の神々、2005年(平成17年)2月13日(日)、朝刊より.

(参考資料) 天然メノウ碁石(google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%80%80%E7%A2%81%E7%9F%B3&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=606

(追加説明) ○ 日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと、男神)は、天上の国、高天原(たかまのはら、たかまがはらとも)にいる天つ神(あまつかみ)の命を受け伊弉冉尊(いざなみのみこと、女神)と共に初めてわが国土や神を生み、山海・草木をつかさどりました。伊弉冉尊(いざなみのみこと、女神)は、火の神を生んだために死に、夫神と別れて黄泉国(よみのくに、冥土、めいど)に住むようになりました。

 その子供、素戔嗚尊(すさのおのみこと、男神)は、天照大神(あまてらすおおみかみ、女神、伊勢神宮)の弟ですが、凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こし、高天原(たかまのはら)から追放され、出雲国(島根)で八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、天照大神に献じました。また、新羅(しらぎ)に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。 

 出雲国の主神、大国主命(おおくにぬしのみこと)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子とも六世の孫ともいう。少彦名神(すくなびこなのかみ)と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)・医薬などの道を教え、国土を天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に譲って杵築(きずき)の地に隠退し、現在、出雲大社に祀っています。(広辞苑より) 天孫降臨(てんそんこうりん、神々の降臨):http://inoues.net/mystery/gods.html

○ 日本神話天の岩屋戸事件(あまのいわやとじけん)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の暴状を怒り天の岩戸に籠もったため、天地が常闇(とこやみ)となりました。群神が相談して、種々のものを飾り、天児屋根命(あまのこやねのみこと)が祝詞を奏し、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が舞ったところ、大神が出てきて、世が再び明るくなりました。北半休で冬至に太陽の力が弱まり復活する型の神話です。(広辞苑より) 

 旧暦10月を、神無月(かんなづき、かみなづきとも)という。この名の由来については、最も一般的な解釈は、全国の神さまが出雲に集まって地方にいなくなるからという。なぜ10月に集まるかというと、10月26日が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の命日で、神様がこぞって酒造りをするという(地方によっては、縁結びの相談だというところもある)。地方出発は9月30日で帰京が10月30日と、細かい日程まで分かっている地方も多い。おかげで、出雲地方だけは、この月を神有月(かみありつき)といっています。(生活歳時記より)

○ 皆生温泉(かいけおんせん)は、1900年(明治33年)に発見された鳥取県の西部、米子市北部、弓ヶ浜の美保湾岸に湧く(80~90℃)、塩化土類、硫酸塩を含む食塩泉です。砂丘に森林が続き、隠岐や大山(だいせん)を遠望できます。

○ 日御碕(ひのみさき)は、島根半島の北西端、島根県簸川(ひかわ)郡にある岬です。高さ44mの灯台があります。付近の経島(ふみしま)は、ウミネコ(天然記念物)の繁殖地で、天然記念物に指定されています。

○ 遺跡に見る「神(カミ)と国家」については 人々は古代から、心の「よりどころ」を求めています。病気や不作など、心配ごとは絶えず、天変地変や外敵の脅威も逃れたい。だから人知を越えたものを創案し、神(カミ)と呼びました。その神(カミ)が「古代国家の成立に関係している」という学説が広瀬和雄教授(歴史民族博物館)より提唱されました。

 「自然神の神(カミ)は弥生時代に豊作を保障するものとして登場し、やがて亡き首長(王)が神(カミ)とされるようになった。その神(カミ)の座所として、前方後円墳前方後方墳がつくられるようになった」と、近著「カミ観念と古代国家」(角川学芸出版)で述べています。 

 前方後円墳の後円部は、方形と円形の二つの区画から成っています。古来、中国では、大地は人の住む世界を方形で表します。「亡き首長が眠っているのがその方形の区画の部分で、前首長が神(カミ)になった空間である円形で、ここで神(カミ)に昇華した」とみています。 そして、軍事、外交とイデオロギー的一体性で保たれ、大和政権が運営した首長層の利益共同体を「前方後円墳国家」と呼ぶ。こうした体制は3世紀には整ったとみています。(2011年(平成23年)1月23日(日)、朝日新聞、朝刊より) 

○ 日本の神々の中で、民族の神自然崇拝と祖先崇拝)については、古来、火山噴火や地震・津波などの自然災害の多い日本列島に住む人々は、山や海、川から恵みを得て生活していく中で、自然を畏怖し、自然そのものを「」として崇拝していました。やがて、田畑の開墾(かいこん)が広がると、祖先霊(氏神産土神、鎮守神とも)を「山の神」と考えました。春には「田の神」として里に降りて作物の豊作をもたらし、収穫後の秋には山に戻ると信じるところも多くなりました。「道祖神(どうそじん)」は、集落の外部から侵入してくる疫病(えきびょう)や災害などをもたらす悪霊などを防ぐために村境などに祀られます。「海の神」は、海洋を支配する神で、海上交通の守護神となっています。 (2005年(平成17年)2月13日(日)、北陸中日新聞、朝刊より)

○ 日本国家は、外国からの渡来の弥生人(朝鮮からの渡来人など)が、日本の土着の縄文人(土着倭人、アイヌ人など)を征服してつくった国家という。この建国の経過の事情が国譲りの神話などの形で語られているのではなかろうか? 砂鉄の産地としての出雲: http://homepage2.nifty.com/kodaijin-tamat/index.files/satetunomichi.htm

 ところで、弥生時代前期は、刃物として石器が使われ、中期になると朝鮮半島(百済、くだら)から鉄がもたらされ、鉄器の生産が始まりました。後期には鉄器が全国的に普及し、石器のほとんどが姿を消しています。鉄器は工具から農具という展開を見せ、農耕に飛躍的な発展をもたらす一方、武器としても用いられました。 

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