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2011年5月 1日 (日)

徳田秋声(金沢出身の作家)にまつわる歴史散歩、徳田秋声文学碑(日本の文学碑第1号、卯辰山、金沢)、書を読まざること三日(碑文)、あらくれ(通俗小説)、とは(2011.5.1)

  金沢城の真向かいにある卯辰山(うたつやま、141m)を、人々は向山(むかいやま、東山、臥竜山、夢香山、茶臼山とも)と呼びました。が、城を上から見下ろすのは不敬であるとして、江戸時代には町人の登山は禁止されていました。市民が登れるようになったのは、加賀金沢藩第14代藩主前田慶寧(まえだやすよし、1858~1900)が卯辰山開拓を始めた1867年(慶応3年)からです。

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望湖台(ぼうこだい、城下町金沢を眼下に、金石港を遠望、卯辰山、金沢、google画像) 望湖台(ぼうこだい、まっぷる、石川県): http://www.mapple.net/spots/G01700148001.htm

(解説) 卯辰山位置は、金沢城の鬼門の方角、丑寅(北東)で、卯辰(東南東)ではないが、中世から港町として栄えた宮腰津(みやこしのつ、犀川河口付近、金石港、金沢)から眺めると、卯辰の方向となるため、日本海を行き交う船乗りたちが名づけたものと考えられています。

 1947年(昭和22年)11月、卯辰山の中腹に日本の文学碑第1号、「徳田秋声文学碑」が建てられました。現在、卯辰山には60を超える記念碑が林立しており、日本一の碑林公園と呼ばれたこともあるという。

○ 徳田秋声文学碑(日本の文学碑第1号、卯辰山、金沢) 

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徳田秋声文学碑(とくだしゅうせいぶんがくひ、土塀と石柱から成る、卯辰山、金沢、google画像)

(解説) 金沢市の卯辰山(うたつやま)にある「徳田秋声文学碑」は、日本の文学碑第1号とされています。文学碑は戦後、1947年(昭和22年)11月に作られたもので、それまでの歌碑や句碑、詩碑などとは性格が異なるという。秋声文学碑の誕生に一役買った詩人の野田宇太郎(1909~1984)は、著書の中で「作家の文学運動の帰結として生まれるもの」と述べています。 卯辰山 徳田秋声文学碑(百万石ネット、金沢): http://www.hyakumangoku.net/guide/s-utatsu/shusei-hi.html

 徳田秋声(とくだしゅうせい、1872~1943)は、本名、末雄、金沢生れ、四高中退後、尾崎紅葉(おざきこうよう、1898~1964)の門に入りました。わが国自然主義文学の第一人者として、名を馳せ、晩年は私小説、心境小説に新生面を開きました。代表的な著作は、「足迹」、「黴(かび)」、「爛(ただれ)」、「あらくれ」などで、未完成の「縮図」が絶筆となりました。自然主義とは、文学で、理想化を行わず、醜悪、顛末なものを忌まず、現実をただあるがままに写しとることを本旨とする立場です。

 金沢では、泉鏡花(いずみきょうか、1873~1939)、室生犀星(むろおさいせい、1889~1962)と並び金沢三文豪と呼ばれています。夏目漱石(1867~1916)から「フィロソフィー(哲学)がない」と批判されました。が、徳田秋声記念館志賀紀雄(69才)前館長は、「人生は不可思議。そんな庶民の人生を、恥ずかしい部分も含めて、飾らずに描いたのが秋声なんです」、「人を導くようなフィロソフィーはいらない。ありのまま、それが秋声の小説。作られた読み物ではない、人生そのものが書いてあるから面白い」と話す。 

徳田秋声記念館(ホームページ、金沢、石川): http://www10.plala.or.jp/tokuda_shusei/kinenkan/top_index.htm

Shusei_tokuda_19381

徳田秋声(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%A7%8B%E5%A3%B0

 徳田秋声は、1871年(明治4年)、武家の4人目の妻の子として生まれました。明治維新で家は没落し、浅野川周辺で転居を繰り返しました。流れが穏やかで「女川」と呼ばれる浅野川、二つの茶屋街が広がるこの界隈(かいわい)で育った秋声が「女を書いたら神様」と言われる作家になったのは偶然ではないという。徳田秋声記念館藪田由梨(28才)学芸員は、「武家の娘達が茶屋に売られる姿を見ていたからこそ、女性の悲哀を描けたんだと思う」と話す。

 病弱だった幼少期の秋声が通ったのが、徳田秋声記念館の裏手の卯辰山、別称「向山」で、秋声は「夢香山」という表記を使いました。「孤独になりたい時など、よく本を懐にして駈け登り、この山は自分の庭のように行きつけになっていた」(「光を追うて」より、一部略)。いま、金沢の街を一望できる標高約140mの展望台の近くには「徳田秋声文学碑」が建っています。 

 秋声は「呪わしくもある故郷」を20才で離れ、71才で死ぬまで東京で暮らしました。代表作の舞台も大半が東京で、鏡花や犀星に比べ金沢への思い入れは薄かったのでは」と 、徳田秋声記念館藪田由梨(28才)学芸員は話す。が、晩年には講演で望郷の念を語り、死の前縁には「古里の雪」(未完)を書きました。

 秋声は、1943年(昭和18年)、太平洋戦争中に東京で死去しました。終戦直後に、地元金沢で文学碑を建てようという機運が高まり、有志が集まりました。当時の金沢市長(第16代)武谷甚太郎も建設会役員に名を連ね、卯辰山の市有地が敷地に選ばれました。

 1947年(昭和22年)に有志が上京、秋声の長男、徳田一穂(1903~1981)を介して野田と会い、野田が建築家谷口吉郎(1904~1979)を紹介しました。1904年(明治37年)金沢生まれの谷口は、四高、東京大建築科を経て、当時の東京工大教授でした。

 金沢市北部の浅野川のほとりにある徳田秋声記念館藪田由梨(28才)学芸員は、「谷口は職人の街である金沢の町並みをイメージし、土塀をえらんだ。秋声の文章に職人の技巧を感じたようだ」と解説しています。

○ 書を読まざること三日(碑文)

 徳田秋声文学碑の完成は1947年(昭和22年)11月、山の中腹に、高さ約2m、横約6mの土塀が建ち、その前に一穂の字で「秋声文学碑」と書かれた高さ1mほどの石柱が据えられました。土塀には「現代日本文学全集18編」、1928年(昭和3年)に収められた秋声の巻頭文が碑文として刻まれました。

碑文(ひぶん、石柱の背後の土塀、卯辰山、金沢、google画像)

(解説) 石柱の背後の土塀碑文には「書を読まざること三日、面(つら、顔)に垢(あか)を生ずとか昔しの聖(ひじり)は言ったが、読めば読むほど垢(あか)のたまることもある」などとあります。創作活動の行き詰まりなど、当時の苦境から自分を奮い立たせようと書いた一文とみられています。他に室生犀星が寄せた文章が副碑として刻まれました。 書を読まざること三日(碑文): 日本文学全集第18節、徳田秋声、(改造社刊)(自筆序詞にこう書いた、「書を読まざること三日、面に垢を生ずとか、昔しの聖は言ったが、読めば読むほど垢のたまることもある。体験が人間に取って何よりの修養だと云ふことも言はれるが、これも当てにならない。むしろ書物や体験を絶えず片端から切払ひ切払ひするところに人の真実が研かれる」。  

 金沢では、文学碑の完成に合わせて記念講演が行われ、川端康成(1899~1972)が「日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ」と、賛辞をを送りました。秋声が故郷金沢を書いた短編で絶筆となった「古里の雪」も記念出版されました。

 後に谷口吉郎は著書「記念碑散歩」で、秋声の碑は「文学碑の第一号」となるもので、設計に尽力し、機会に恵まれたことはこの上ない幸せ」と振り返っています。谷口は東工大名誉教授などを経て1979年(昭和昭和54年)に没しました。

○ あらくれ(徳田秋声、通俗小説)

 広辞苑によれば、あらくれ(荒くれ)とは、荒々しいこと、乱暴なこと、また、そういう人、のことです。通俗小説、 あらくれ」は、図書カード: No.119、著者: 徳田秋声、出版社: 新潮文庫、新潮社、 初版発行日:1949年(昭和24年)10月31日発行、1969年(昭和44年)6月20日21刷改版、 入力に使用: 1982年(昭和57年)9月15日38刷): http://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card199.html. 

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あらくれ(映画ポスター、成瀬巳喜男監督、水木洋子脚本、1957(昭和32年)、google画像) あらくれ(映画ポスター、市川市文学プラザ、千葉): http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/mizuki_05ten.html

(解説) あらくれ男勝りの主人公 お島の半生をいきいきと描いた作品です。主人公の生きた時代の庶民の暮らしが物語に織り込まれて展開されています。1915年(大正4年)から新聞の連載小説として掲載されました。そのため、本編は新聞の1連載毎に区切られた形式となっています。 あらくれ(徳田秋声、通俗小説): http://www.geocities.jp/web_hon/04/tokuda.htm

 私は、1970年(昭和45年)4月頃、金沢城内にキャンパス(本部、教養部、教育学部、法文学部、理学部)があった金沢大学の理学部(化学教室分析化学研究室)に勤務し1年経っていましたが、学生諸君とはじめて、満開の桜並木道を歩いて卯辰山に登り、徳田秋声文学碑の周辺を散策したことがあります。その後、何回となく徒歩で、あるいはマイカーで、一人で、あるいは知人と、卯辰山、少し離れた山沿いの健民公園など訪れ散策しました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 金沢ふるさと愛山会編: 石川/あるさと100山、椋鳥書房(2009); 石川県の歴史散歩編集委員会(代表木越隆三)編: 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010); 日本の「文学碑」第1号、徳田秋声文学碑 誕生の経緯(金沢の記念館が企画展): 北陸中日新聞、2011年(平成23年)1月21日(金)朝刊、より; 週刊まちぶら第143号、ぐるっと ほくりく、 徳田秋声記念館かいわい 金沢市、「人生そのもの」に思い: 朝日新聞、2011年(平成23年)1月23日(日)朝刊、より.

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