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2011年5月の6件の記事

2011年5月30日 (月)

わが家(桜田、金沢)近くの街路樹、美しい白い花のような苞(ほう、苞葉とも)が開いたヤマボウシ(山法師、ミズキ科)、小さな球形の果実をつけた新緑のケヤキ(欅、ニレ科)、とは(2011.5.30)

   わが家(桜田、金沢)近くの街路樹は、現在、北陸自動車道の東、金沢市街側(桜田~出雲)には、美しい白い花のようなヤマボウシ(山法師、ミズキ科)、また、北陸自動車道の西、日本海側(示野~松村)には、小さな果実をつけた新緑の美しいケヤキ(欅、ニレ科)の姿が見られます。

 ヤマボウシ(山法師、山帽子とも、ミズキ科)は、大きな花弁(かべん、花びら)のような、先のとがった手裏剣(しゅりけん)に似た4片の白い苞(ほう、花や花の集団である花序、かじょ、の基部につく葉、苞葉、包葉、ほうよう、とも)、総苞片(そうほうへん)を開き、その中心部には包(つつ)まれていた小形の花が咲き、あたかも大きな白い花が咲いているような美しさです。一方、ケヤキはすでに小花の開花も終え、小さな球形の果実をつけ、新緑の美しい樹形となっています。そこで、これらの街路樹の景観をデジカメ写真で撮ってきました。

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ヤマボウシ山法師、ミズキ科、北陸自動車道の東、金沢市街側(桜田~出雲)の街路樹、美しい白い花がたくさん咲いているように見える、中央の背後はわが家(サーパス桜田町一番館)、2011年(平成23年)5月29日撮影)

(解説) ヤマボウシ(山法師、山帽子とも)はミズキ科の落葉高木で、本州から九州の山地に自生しています。高さ5~10メートル、葉は対生し楕円形で先は急にとがり、裏面の脈腋(みゃくえき、葉脈のわき)に黄褐色の毛があります。夏、6~7月、小枝の先に小形の花が20~30個頭状(とうじょう)に集まり、周辺に大きな4枚の白い花弁状の苞(ほう、包葉とも)がつき、全体として一つの美しい花のように見えます。果実は球状の集合果で、9~10月、赤色に熟し、食用にもなります。材を器具、櫛(くし)などとし、樹は並木(街路樹)、庭木として利用されています。

 ヤマボウシ(山法師)の由来は、山法師で、花の房(ふさ)を頭に見立て、総苞(そうほう、全ての包葉)を白い頭巾(ずきん、帽子、ぼうし)に見立てたという説があります。別名はヤマグワ、漢名は四照花です。

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ケヤキ、ニレ科、北陸自動車道の西、日本海側(示野~松村)の街路樹、新緑の美しいケヤキ、中央の南北に走る高架は北陸自動車道、また、ケヤキの枝の基部に小さな果実がなっている、2011年(平成23年)5月30日撮影)

(解説) ケヤキ)はニレ科の落葉高木で、本州から九州、東アジアの山地に多いのですが、農家では防風林にも使われてきました。高さは20~30メートルに近く、周囲約3メートルに達します。葉は狭卵形で先はとがり、縁には鋸歯(きょし、ノコギリの歯のようなギザギザ、凹凸)があります。花は早春、4~5月、新葉と共に生じ、淡黄緑色の小花を開き、雌雄同株で、果実は小さく堅く、ゆがんだ球形で、10月、褐色に熟します。材は強くて木理が美しく、磨けば光沢を生じ、くるいが少ないので、建築用装飾材または器具材として用い、また樹は並木(街路樹)、庭木、防風林、盆栽として利用されています。

 ケヤキ(欅)の由来は、高木でひときわ目立つところから、尊い、または秀でた、などの意味があるが、「けやけき木」からの転訛(てんか、語の本来の音がなまって変わること)と言われています。ケヤはケヤケシと同源で、木理に基づく名?、キは木を意味します。

 私は、はじめ、街路樹のケヤキとヤマボウシは、見た目にはよく似ていて見誤っていましたが、造園の仕事の経験のある息子(高行)に教えてもらい、ようやくそれらの樹木を見分けることができました。

(参考文献) 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991).

 

2011年5月20日 (金)

草花遊び(春の季節)、タンポポ(わた毛とばし、風車、ふえ)、カラスノエンドウ(ピーピー豆とも、ふえ)、シロツメクサ(クローバーとも、首かざり)の遊び、アカツメクサ、とは(2011.5.20)

  (くさ)とは、広辞苑によれば、①木質があまり発達しないで軟らかい茎(くき)を有する植物。草本。 ②屋根を葺(ふ)くのに用いる藁(わら)・茅(かや)など。「くさ葺きの屋根」 ③まぐさ。かいば。「馬にくさをやる」 ④草屈(くさかまり、くさむらの中にひそみ、敵陣の様子をうかがう者。忍び物見。ふせかまりとも) ⑥(接頭語的に用いて)本格に準ずるもの。「草野球」「草競馬」など、また、草花(くさばな)は、①草に咲く花。 ②花の咲く種類の草。 とあります。 

  私は、四国の片田舎(引野、松島、のち上板、德島)の育ちですが、子どもの頃、いつの日に覚えたのか、よく草花遊びをしました。身近な草花や木の実を使った遊びですが、懐かしく、今日は好天に恵まれましたので、わが家(桜田、金沢、石川)近くの犀川沿いを散策し、それらを思い出しながら草花遊びを楽しみました。

 タンポポの遊び

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タンポポ(上 セイヨウタンポポ、 わた毛のついた茎、2010年(平成23年)5月20日撮影)

(解説) わた毛とばしは、①わた毛のついた茎(くき)をひとり1本もち、せーので「ふうー!」っとひと息で吹く。 ②わた毛をより多くとばした人が勝ち。

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タンポポの風車(両はしを手に持って、息を吹きかけると回る、2010年(平成23年)5月20日撮影)

(解説) 風車(ふうしゃ)は、①タンポポの花と茎(くき)を切り離す。 ②茎のはしに切りを入れると、茎がくるんと反り返る。 ③両はしが反り返ったタンポポの茎に、近くに生えていた野草の細い茎をさしこむ。 ③茎の両はしをつまんで息を吹きかけるとクルクル回る。

 ふえは、①茎からタンポポの花を切りはなす。 ②はしをつぶして吹く。茎が短いと高い音、茎が長いと低い音が出る。

○ カラスノエンドウの遊び

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カラスノエンドウ(
ピーピー豆とも、  カラスノエンドウ 豆を取り出したさやはしを切りとり、口にくわえて吹くと鳴る、2010年(平成23年)5月20日撮影)

(解説) ふえは、①さやから豆をとりだす。 ②はしを切りとり、切りとらなかった方を口にくわえて吹く。 ふくらんださやの方がよく鳴る。

○ シロツメクサの遊び

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シロツメクサ
(クロ-バーとも、短めに作った腕輪、2010年(平成23年)5月20日撮影)

(解説) 首かざりは、①1本のシロツメクサを軸(じく)にして、ほかのシロツメクサを絡(から)める。花の向きが、互いちがいになるように、つけたしていく。 ②つぎつぎに花をつないで、ちょうどよい長さになったら、別のシロツメクサで、はし同士(どうし)をしばるとできあがる。短めに作ると腕輪うでわ)になる。

○ アカツメクサを発見!

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アカツメクサ(犀川土手、歩道、自転車道沿い、桜田、金沢、2010年(平成23年)5月20日撮影)

 私は、犀川沿いを散策中、はじめてアカツメクサを見つけました。茎が立ちあがって生え、花のすぐ下に葉がついています。 アカツメクサ(ムラサキツメクサ、紫詰草とも)は、江戸時代、欧州(オランダ)から日本(長崎)に輸出された商品(ガラス、陶器、装飾品など)の破損を防ぐため詰められました。花が赤いのでアカツメクサと呼ばれています。

(参考文献) 新村 出: 広辞苑、岩波書店(1991); 高橋勝雄(写真、解説): 野草の名前(春)、山と渓谷社(2002); 上原真穂、小杉みのり編: きせつの草花あそび、小学館(2008).

(参考資料) 草花遊び(春、管理人 あずみ: http://www.geocities.jp/usaginoseisakucho/haru.htm

2011年5月18日 (水)

上の清水(かみのしょうず、粟崎、金沢)にまつわる歴史伝承、加賀藩主の飲用に供された名水、金沢市の地下水と地盤沈下、とは(2011.5.18)

金沢地形は、南東に台地、丘陵、山地、北西に平野、海岸沿いの砂丘からなっています。金沢市街を通り抜け日本海に流下する浅野川犀川は、古くはひとつの大きな川であったという。その堆積土砂が小立野台地をつくり、地下水に恵まれた肥沃な金沢平野を育てました。 

 江戸時代、加賀藩主の飲用に供されたとの言い伝えのある名水、上の清水(かみのしょうず)が今も、内灘の砂丘の近く、粟崎(あわがさき、金沢)に湧いています。 そこで、久しぶりに、わが家(桜田、金沢)から片道7.6km、マイカー(ファミリア1500CC)でそこを訪ね、デジカメ写真を撮ってきました。

○ 上の清水(粟崎、金沢)

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上の清水(かみのしょうず、加賀藩主の飲料として供されたとの言い伝えがある、 2011年(平成23年)5月18日撮影、粟崎金沢

(解説) 立て札 昔からこの地域に湧水として広く利用され、又藩主の飲料として供された。 この様な清水が数か所あったが、現在はここ一つだけとなった。(粟崎公民館) わき水は、住宅後方5mの庭にある掘り井戸の集水枡(しゅうすいます)の水(砂丘からの湧き水!)を貯留槽までパイプで引き、近くの側溝に放流しています。 近所の人の話によると、地元では今もこの水を飲料水として利用しているそうです。

 上の清水水質(2005年11月、成分イオン量)は、水温17.0℃、pH6.8、カルシウムイオン3.7ppm、マグネシウムイオン8.6ppm、ナトリウムイオン21.9ppm、カリウムイオン6.2ppm、重炭酸イオン50ppm、塩化物イオン18ppm、硫酸イオン19ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率(100万の中の1の割合)にあたる量です。

 上の清水水質(2005年11月、ヘキサダイヤグラム解析図)は、金城霊沢(兼六園)とも似た図形を示し、淡水性の滞留時間の長い被圧地下水に分類されるナトリウムイオンー重炭酸イオン型とよく似ていました。 が、カルシウムよりマグネシウムの量が多く、またナトリウム及び塩化物イオンの量からも、日本海に近いので、地下水に海水の影響を少し受けていると考えられました。

○ 金沢市の地下水と地盤沈下(北陸自動車道より海側)

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金沢市の地盤沈下の状況(1974年(昭和49年)~2005年(平成17年)まで、31年間の地盤沈下、環境保全課、金沢) 

(解説) 金沢市の地盤沈下は、北陸自動車道より海側の粘土層の厚い地域で進行しており、日本海の内灘からほど遠くない、上の清水の湧いている河北潟に通ずる大野川の西、日本海寄りで近岡町真向かいの粟崎のほか、港、向粟崎、普正寺町、下安原などの地域で18.1~37.3cm沈下、特に大野川の東、金沢市街寄りの近岡町地域で著しく、1974年(昭和49年)~2005年(平成17年)までの31年間に43.5cm沈下しているという。地盤は、年間1~2mm程度は自然に圧密すると言われていますので、自然沈下の範囲を大きく超えているので問題となり、この主要原因は、「冬消雪用に大量の地下水を短時間に集中して揚水すること」が分かりました。

地盤沈下対策(環境局 環境指導課、金沢市):http://www4.city.kanazawa.lg.jp/25040/hozen/

 私は、金沢市の冬場の消雪用の地下水(水温13℃)の利用による地盤沈下を防ぐため、2007年(平成19年)9月、金沢市環境審議会委員として、消雪用井戸の新設を原則禁止する地下水保全施策を答申したことがあります。金沢市の地下水保全条例は、2009年(平成21年)4月1日、施行されました。 金沢市の消雪(地下水を大量使用し地盤沈下、北国新聞):http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20091118001.htm

(参考文献) 金沢市環境保全課編: 金沢のわき水、調査期間、1995年(平成7年)4月~12月; 岩浅真利子: 兼六園にある金城霊沢の水質と水源について(年末報告)、金沢大学理学部化学科分析化学研究室(2005); 北山敏江: 金沢のわき水について、2006年(平成18年)度 石川県民大学校大学院、「石川の博士」養成講座、専修コース(自然)、論文、p.60~63.

(参考資料)  ○ 兼六園の中の名水、金城霊沢と金沢神社の手水舎の水、金沢市内の湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは(2009.6.7): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b450.html

用語解説、各種イオン、ヘキサダイアグラム解析含む): http://unit.aist.go.jp/georesenv/gwrg/glossary.html. 

○ 金城霊沢の水(兼六園)

(追加説明) ○ 金城霊沢水質(2005年11月、成分イオン量)は、、水温14.5℃、pH6.1、カルシウムイオン6.6ppm、マグネシウムイオン5.4ppm、ナトリウムイオン20.4ppm、カリウムイオン6.6ppm、重炭酸イオン55ppm、塩化物イオン11ppm、硫酸イオン20ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率(100万の中の1の割合)にあたる量です。

 金城霊沢水質(2005年11月、ヘキサダイヤグラム解析図)は、各種イオンの溶存量の少ない犀川や浅野川と異なるもので、淡水性の滞留時間の長い被圧地下水に分類されるナトリウムイオンー重炭酸イオン型とよく似ていました。

○ 金沢神社手水舎水質(2005年11月、成分イオン量)は、、水温15.2℃、pH5. 7、カルシウムイオン5.4ppm、マグネシウムイオン3.5ppm、ナトリウムイオン20.8ppm、カリウムイオン8.3ppm、重炭酸イオン40ppm、塩化物イオン14ppm、硫酸イオン25ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率(100万の中の1の割合)にあたる量です。

 金沢神社手水舎水質(2005年11月、ヘキサダイヤグラム解析図)は、金城霊沢と非常によく似ていて、水源が同じであることが確認できました。

○ 卯辰山花菖蒲園の湧き水水質(2005年9月、成分イオン量)は、水温16.0℃、pH6. 7、カルシウムイオン6.6ppm、マグネシウムイオン2.4ppm、ナトリウムイオン18.2ppm、カリウムイオン3.6ppm、重炭酸イオン59ppm、塩化物イオン21ppm、硫酸イオン20ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率(100万の中の1の割合)にあたる量です。

 卯辰山花菖蒲園の湧き水水質(2005年9月、ヘキサダイヤグラム解析図)は、金城霊沢と金沢神社の手水舎の水と非常によく似ていることから、これらの湧き水は、医王山(いおうぜん)のふもとの小立野台地(こだつのだいち)の下を流れる医王山系の伏流水であると考えられました。

2011年5月 9日 (月)

野草名にまつわる歴史伝承、雑草ということ(草)はない(昭和天皇のお言葉)、タンポポ(キク科)、カラスノエンドウ(マメ科)、シロツメクサ(クローバーとも、マメ科)、とは(2011.5.9)

  雑草(ざっそう)とは、広辞苑には、自然に生えるいろいろな草。また、農耕地で目的の栽培植物以外に生える草。「雑草が生い茂る」「雑草のように育つ」、とあります。

 宮中侍従物語入江相政編)には、田中侍従の随想、「雑草とご愛草」の中に、陛下の有名な「雑草ということはない」とのお叱りのお言葉が記されています。入江侍従長あとがきによれば、なんにしてもこの本は、九人(執筆は、入江侍従長、徳川侍従次長、安楽侍従、卜部侍従、小林侍従、角田侍従、田中侍従、山本侍従、口絵は、北白川女官長)が、両陛下のお側で、来る日も来る日も、春風のうちに暮らしているという、ただそういう物語なのである。(1980年(昭和55年)4月 入江相政)

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昭和天皇((しょうわてんのう、第124代、裕仁、ひろひと、1901~1989、google画像) 昭和天皇(昭和の日、田中直侍従、随想、雑草と愛草、Soーnet ブログ): http://wa-no-kokoro.blog.so-net.ne.jp/2011-03-21

(解説) この物語の吹上御苑(ふきあげぎょえん)の四季の中に、田中直(たなかなおる、1923~2006)侍従が、「雑草とご愛草」のタイトルで、1965年(昭和40年)頃、侍従を拝命してから間もなくの出来事ですが、昭和天皇((しょうわてんのう、第124代、裕仁、ひろひと、1901~1989)から、「雑草ということはない。」とお叱(しか)りを受けたことを、以下のように随想して書いておられます。

 吹上御所の四季   雑草とご愛草  

 両陛下のお住まいは、皇居内の吹上地区にある。 徳川家康は、天正18(1590)年、江戸城に入って、間もなくこの城の大改築に取りかかっているが、吹上地区は、それほど大きな修理も加えられずに、昔の面影を今にとどめている。たとえば、この地区で最も高い地主山(じしゅやま)や、この山の上にあったーーー

 今から15年近く前の、私が侍従を拝命してからまもなくの出来事。暑かった夏もそろそろ峠を越えて、朝晩ややしのぎやすくなってきた9月初旬のことである。庭園課の係から、「吹上広芝のお庭の草が茂りすぎたので、那須からのお帰りまでに手を入れたいが」との申し込み。 ーーー

 私は、さっそく吹上にとんだ。なにしろ那須からのお帰りまでに数日を残すだけだし、広芝の広さもわかっていたから。なるほど、名も知れない野草の薮であり、いたるところに繁茂しているススキは、その一部が建物にまでよりかかっている状態。その中に混じって、色とりどりの野草が咲き乱れてはいたが、その名前は知るよしもない。ただ、オミナエシやキクやハギぐらいはなんとかわかった。これらの雑草も、おそらく両陛下の那須へのお留守中に繁茂してしまったものだろう。

 さっそく係と相談して、建物から10メートルくらいの雑草は全部刈り払ってしまい、特に両陛下のお住まいの裏にあるわれわれ侍従室の前の庭は、全部刈ってしまうように頼んだ。係の人は少々変に思っていたようでもあったが。ーーー  やっと刈り払いも終わり、9月中旬、両陛下は那須からお帰りになった。ところが、吹上からすぐ来るようにとの連絡、陛下からのお召しだという。私は、お庭をきれいにしたのでおほめのお言葉でもと期待しつつ。ーーー

「どうして庭を刈ったのかね。」 「雑草が生い茂ってまいりましたので、一部お刈りいたしました。」 「雑草ということはない。」 私は、とっさには陛下のおっしゃった意味がよくわからなかった。「どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草としてきめつけてしまうのはいけない。注意するように」というような内容のお叱りであったと記憶している。私はこうべを深くたれてお部屋を出た。

 なるほど、その後陛下のお言葉に雑草ということをお聞きしたことがない。「雑草の科学」(沼田真編、研成社)の中に、「雑草は、作物に対する一群の植物のカテゴリーであって、植物学的ないし生物学的概念ではない。人間が自分のために栽培し収穫しようとする作物に対して、作物以外のすべての植物、招かれざる客として作物栽培の場に入り込む植物である。栽培されたもの、まきつけられたものでないという意味では雑草はナチュラルであるが、それが人がつくりだした環境に生ずるという点では、半自然的な植物群落をつくるといってよい」と。

 吹上地区には、招かれざる客として入り込む植物はありえないのである。そういえば、先人たちは、うまい言葉を考えた。吹上の植物はすべてご愛草であって、雑草ではないと。なるほど、こよなく自然を愛される陛下にとっては、すべての植物はご愛草なのである。

 ただ、吹上にも招かれざる客が来る。それはヒメジョオンであり、ハルジョオンであり、ヒメムカシヨモギの類である。つまり、これらは外来の繁殖力の旺盛な植物であって、他の植物の害となる。これが陛下の雑草といってよいだろう。これらの植物は、陛下もご自身でできるだけお抜きになるのである。 (田中)

 最近、ふと、陛下の雑草のお言葉を思い出し、私がよく散策する、桜田町近くの犀川土手沿い、北陸自動車道付近、耕作地の道端で目にした、雑草タンポポ(キク科)、カラスノエンドウ(マメ科)、シロツメクサ(クローバーとも、ナデシコ科)などをデジカメで撮影し、それらの名の由来についても調べて見ました。

 タンポポ(蒲公英、キク科)

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タンポポ(蒲公英、外側の総包片(そうほうへん)が下に反転したセイヨウタンポポ、キク科、桜田町近くの北陸自動車道付近、2010年5月9日撮影)

(解説) 日本語タンポポという名の由来については古く、蕾(つぼみ)の形が鼓(つづみ)に似ているため、鼓草(つづみそう)と呼ばれていました。鼓(つづみ)をたたく音がタンポポになったという。

 また、タンポポの花をつけている花茎を切り出すと、中はストローのように空洞です。その花茎の小さな断片の両端にいくつかの切れ込みを入れ、水につけます。少し時間が経(た)つと両端の切り込みが反り返り、鼓(つづみ)のような形になります。その姿から、「タンポンポン、タンポンポン」という、鼓(つづみ)の音が聞こえて来るようであり、「タンポポという名が生まれた」とも言われています。

 花の基部を包んでいる緑の部分は、外総包片(がいそうほうへん)と呼ばれ、これが反り返っているのは、外来種のセイヨウタンポポです。これが反り返っていないのが、日本の在来種で、カントウタンポポカンサイタンポポなどです。セイヨウタンポポは、欧州原産で、明治時代、北海道で食用の野菜牧草として輸入しましたが、全国に広まったという。

 外来種、在来種を問わず、タンポポの花は、朝に開き夕方に閉じます。花をつけていた柄(花茎)の先端には、やがて、まん丸に綿毛が展開します。この綿毛の展開には、湿度が低いことが大切です。セイヨウタンポポのタネは、風に飛ばされて、いろいろな場所に落下、そこで季節を問わず発芽します。近年、在来種は、田舎の畑の畦(あぜ)や山の麓の野原などにしか見られません。これも人間の土地開発がもたらした現象です。セイヨウタンポポの根は、ふつう太く、長く、土の中、どこまで掘っても深くにまで伸びているという。若葉食用は生薬の蒲公英(ほこうえい)で健胃、泌乳剤になります。

○ カラスノエンドウ(烏の豌豆、マメ科)

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カラスノエンドウ(烏の豌豆、マメ科、チョウチョウのような形の小さくきれいな赤紫色の花、桜田町近く犀川土手沿い、2010年5月9日撮影) 

(解説) カラスノエンドウの名の由来については、カラスというのは昔は、物の大きさのたとえに使っていたと考えられ、人間の食べるエンドウより小さく、ごく小さなスズメノエンドウよりも大きいので、カラスの名がついたという。このカラスノエンドウの実が、やがて真っ黒になる。そこからカラスという名がついたとも言われています。

 また、カラスノエンドウは、「シーピーピーピーピーマメ」とも呼ばれています。このマメの膨(ふく)れた莢(さや)を摘み取り、莢の片側を開き、指を入れて中に詰まったマメを全て取り除きます。莢のつけ根になっていた方を少しちぎって、尖(とが)った方を口にくわえて、口を細めて閉じるように吹くと、きれいな澄んだ音がします。この音が「シーピーピー」のように聞こえるので、これが、「シーピーピー」と呼ばれる理由と考えられます。 

 カラスノエンドウの根には、小さなコブのような粒々がたくさん付いています。この中には根粒菌が空気を窒素肥料に変えこの植物に供給しているので、緑肥ともなり、自然の中の土は次第に肥やされていきます。欧州原産で、若芽や豆は食用にできます。

○ シロツメクサ(白詰草、クローバーとも、マメ科)

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シロツメクサ(白詰草、クローバーとも、マメ科、桜田町近く耕作地の道端、2010年5月9日撮影)

(解説) シロツメクサの名の由来については、白い花を咲かせるのでシロ、また、ツメクサは緩衝材として荷物に詰められたことから白詰草と呼ばれました。江戸時代、ガラスや陶器を欧州などから送る際、箱にクッション材として詰めたので、花の白いツメクサとも呼ばれています。

 花が白いシロツメクサは、ふつうクロバーの名前で親しまれています。なお、花が赤いツメクサは、アカツメクサ(赤詰草、ムラサキツメクサとも)と呼ばれています。また、シロツメクサの根には多くの根粒菌が生息し、緑肥、牧草としても利用できるので、オランダゲンゲ、オランダウマゴヤシとも呼ばれています。 普通に見かけるクローバーは、三つ葉ですが、まれな変異体(突然変異!)として、四つ葉~八つ葉が確認されています。

(参考文献) 入江相政編(入江侍従長、徳川侍従次長ほか、侍従6名執筆、口絵は北白川女官長); 宮中侍従物語、吹上の四季、田中 直侍従、p.224~230,雑草とご愛草、テイビーエス・ブリタニカ(1980); 新村 出: 広辞苑、岩波書店(1991); 高橋勝雄(写真・解説): 野草の名前、春、和名の由来と見分け方、山渓名前図鑑、山と渓谷社(2002); 田中 修: 雑草のはなし、見つけ方、たのしみ方、中公新書(2007).

2011年5月 5日 (木)

新緑の季節(2011年5月5日、若葉)、石川県庁、行政庁舎(19階)の展望台から眺めた金沢の風景

 5月の声を聞くと、木々は萌え生ずる若葉をつけ、新緑の美しい季節となります。今日、5月5日(木)は、朝から好天に恵まれ、子どもの日の祝日でしたが、石川県庁の行政庁舎の展望台(19階)が一般に開放されていました。

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石川県庁 金沢から富山に向かう8号線沿いの歩道、石川県庁裏側、左から右へ、議会庁舎(4階)、行政庁舎(19階)、警察本部庁舎(7階)、 石川県庁正面玄関、鞍月、金沢、2011年5月5日(木)撮影)

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石川県庁舎、行政庁舎(19階)から眺めた金沢の風景 東西に金沢駅港線50間道路、中央の南北に北陸自動車道が交差、背後に金沢市街、卯辰山遠望 県立中央病院眼下、右端の南北の北陸自動車道の背後に立山遠望、鞍月、金沢、2011年5月5日(木)撮影)

 私は午後2時頃、わが家(桜田、金沢)近くの犀川の新緑を眺め、国道8号線沿いを散策しながら徒歩で約30分、石川県庁を訪れ、正面玄関を入り、左側のエレベーターで19階の展望台に約20秒で着き、そこから眺めた金沢の風景をデジカメで撮りました。

 石川県庁舎、行政庁舎(19階)の展望台は、普段から開放されており、今までに何回となく、マイカーで、あるいは徒歩で散策しながら訪れたことがあります。今日は子どもの日、祝日のこともあり、お子さん連れの家族を多く見かけました。

2011年5月 1日 (日)

徳田秋声(金沢出身の作家)にまつわる歴史散歩、徳田秋声文学碑(日本の文学碑第1号、卯辰山、金沢)、書を読まざること三日(碑文)、あらくれ(通俗小説)、とは(2011.5.1)

  金沢城の真向かいにある卯辰山(うたつやま、141m)を、人々は向山(むかいやま、東山、臥竜山、夢香山、茶臼山とも)と呼びました。が、城を上から見下ろすのは不敬であるとして、江戸時代には町人の登山は禁止されていました。市民が登れるようになったのは、加賀金沢藩第14代藩主前田慶寧(まえだやすよし、1858~1900)が卯辰山開拓を始めた1867年(慶応3年)からです。

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望湖台(ぼうこだい、城下町金沢を眼下に、金石港を遠望、卯辰山、金沢、google画像) 望湖台(ぼうこだい、まっぷる、石川県): http://www.mapple.net/spots/G01700148001.htm

(解説) 卯辰山位置は、金沢城の鬼門の方角、丑寅(北東)で、卯辰(東南東)ではないが、中世から港町として栄えた宮腰津(みやこしのつ、犀川河口付近、金石港、金沢)から眺めると、卯辰の方向となるため、日本海を行き交う船乗りたちが名づけたものと考えられています。

 1947年(昭和22年)11月、卯辰山の中腹に日本の文学碑第1号、「徳田秋声文学碑」が建てられました。現在、卯辰山には60を超える記念碑が林立しており、日本一の碑林公園と呼ばれたこともあるという。

○ 徳田秋声文学碑(日本の文学碑第1号、卯辰山、金沢) 

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徳田秋声文学碑(とくだしゅうせいぶんがくひ、土塀と石柱から成る、卯辰山、金沢、google画像)

(解説) 金沢市の卯辰山(うたつやま)にある「徳田秋声文学碑」は、日本の文学碑第1号とされています。文学碑は戦後、1947年(昭和22年)11月に作られたもので、それまでの歌碑や句碑、詩碑などとは性格が異なるという。秋声文学碑の誕生に一役買った詩人の野田宇太郎(1909~1984)は、著書の中で「作家の文学運動の帰結として生まれるもの」と述べています。 卯辰山 徳田秋声文学碑(百万石ネット、金沢): http://www.hyakumangoku.net/guide/s-utatsu/shusei-hi.html

 徳田秋声(とくだしゅうせい、1872~1943)は、本名、末雄、金沢生れ、四高中退後、尾崎紅葉(おざきこうよう、1898~1964)の門に入りました。わが国自然主義文学の第一人者として、名を馳せ、晩年は私小説、心境小説に新生面を開きました。代表的な著作は、「足迹」、「黴(かび)」、「爛(ただれ)」、「あらくれ」などで、未完成の「縮図」が絶筆となりました。自然主義とは、文学で、理想化を行わず、醜悪、顛末なものを忌まず、現実をただあるがままに写しとることを本旨とする立場です。

 金沢では、泉鏡花(いずみきょうか、1873~1939)、室生犀星(むろおさいせい、1889~1962)と並び金沢三文豪と呼ばれています。夏目漱石(1867~1916)から「フィロソフィー(哲学)がない」と批判されました。が、徳田秋声記念館志賀紀雄(69才)前館長は、「人生は不可思議。そんな庶民の人生を、恥ずかしい部分も含めて、飾らずに描いたのが秋声なんです」、「人を導くようなフィロソフィーはいらない。ありのまま、それが秋声の小説。作られた読み物ではない、人生そのものが書いてあるから面白い」と話す。 

徳田秋声記念館(ホームページ、金沢、石川): http://www10.plala.or.jp/tokuda_shusei/kinenkan/top_index.htm

Shusei_tokuda_19381

徳田秋声(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%A7%8B%E5%A3%B0

 徳田秋声は、1871年(明治4年)、武家の4人目の妻の子として生まれました。明治維新で家は没落し、浅野川周辺で転居を繰り返しました。流れが穏やかで「女川」と呼ばれる浅野川、二つの茶屋街が広がるこの界隈(かいわい)で育った秋声が「女を書いたら神様」と言われる作家になったのは偶然ではないという。徳田秋声記念館藪田由梨(28才)学芸員は、「武家の娘達が茶屋に売られる姿を見ていたからこそ、女性の悲哀を描けたんだと思う」と話す。

 病弱だった幼少期の秋声が通ったのが、徳田秋声記念館の裏手の卯辰山、別称「向山」で、秋声は「夢香山」という表記を使いました。「孤独になりたい時など、よく本を懐にして駈け登り、この山は自分の庭のように行きつけになっていた」(「光を追うて」より、一部略)。いま、金沢の街を一望できる標高約140mの展望台の近くには「徳田秋声文学碑」が建っています。 

 秋声は「呪わしくもある故郷」を20才で離れ、71才で死ぬまで東京で暮らしました。代表作の舞台も大半が東京で、鏡花や犀星に比べ金沢への思い入れは薄かったのでは」と 、徳田秋声記念館藪田由梨(28才)学芸員は話す。が、晩年には講演で望郷の念を語り、死の前縁には「古里の雪」(未完)を書きました。

 秋声は、1943年(昭和18年)、太平洋戦争中に東京で死去しました。終戦直後に、地元金沢で文学碑を建てようという機運が高まり、有志が集まりました。当時の金沢市長(第16代)武谷甚太郎も建設会役員に名を連ね、卯辰山の市有地が敷地に選ばれました。

 1947年(昭和22年)に有志が上京、秋声の長男、徳田一穂(1903~1981)を介して野田と会い、野田が建築家谷口吉郎(1904~1979)を紹介しました。1904年(明治37年)金沢生まれの谷口は、四高、東京大建築科を経て、当時の東京工大教授でした。

 金沢市北部の浅野川のほとりにある徳田秋声記念館藪田由梨(28才)学芸員は、「谷口は職人の街である金沢の町並みをイメージし、土塀をえらんだ。秋声の文章に職人の技巧を感じたようだ」と解説しています。

○ 書を読まざること三日(碑文)

 徳田秋声文学碑の完成は1947年(昭和22年)11月、山の中腹に、高さ約2m、横約6mの土塀が建ち、その前に一穂の字で「秋声文学碑」と書かれた高さ1mほどの石柱が据えられました。土塀には「現代日本文学全集18編」、1928年(昭和3年)に収められた秋声の巻頭文が碑文として刻まれました。

碑文(ひぶん、石柱の背後の土塀、卯辰山、金沢、google画像)

(解説) 石柱の背後の土塀碑文には「書を読まざること三日、面(つら、顔)に垢(あか)を生ずとか昔しの聖(ひじり)は言ったが、読めば読むほど垢(あか)のたまることもある」などとあります。創作活動の行き詰まりなど、当時の苦境から自分を奮い立たせようと書いた一文とみられています。他に室生犀星が寄せた文章が副碑として刻まれました。 書を読まざること三日(碑文): 日本文学全集第18節、徳田秋声、(改造社刊)(自筆序詞にこう書いた、「書を読まざること三日、面に垢を生ずとか、昔しの聖は言ったが、読めば読むほど垢のたまることもある。体験が人間に取って何よりの修養だと云ふことも言はれるが、これも当てにならない。むしろ書物や体験を絶えず片端から切払ひ切払ひするところに人の真実が研かれる」。  

 金沢では、文学碑の完成に合わせて記念講演が行われ、川端康成(1899~1972)が「日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ」と、賛辞をを送りました。秋声が故郷金沢を書いた短編で絶筆となった「古里の雪」も記念出版されました。

 後に谷口吉郎は著書「記念碑散歩」で、秋声の碑は「文学碑の第一号」となるもので、設計に尽力し、機会に恵まれたことはこの上ない幸せ」と振り返っています。谷口は東工大名誉教授などを経て1979年(昭和昭和54年)に没しました。

○ あらくれ(徳田秋声、通俗小説)

 広辞苑によれば、あらくれ(荒くれ)とは、荒々しいこと、乱暴なこと、また、そういう人、のことです。通俗小説、 あらくれ」は、図書カード: No.119、著者: 徳田秋声、出版社: 新潮文庫、新潮社、 初版発行日:1949年(昭和24年)10月31日発行、1969年(昭和44年)6月20日21刷改版、 入力に使用: 1982年(昭和57年)9月15日38刷): http://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card199.html. 

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あらくれ(映画ポスター、成瀬巳喜男監督、水木洋子脚本、1957(昭和32年)、google画像) あらくれ(映画ポスター、市川市文学プラザ、千葉): http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/mizuki_05ten.html

(解説) あらくれ男勝りの主人公 お島の半生をいきいきと描いた作品です。主人公の生きた時代の庶民の暮らしが物語に織り込まれて展開されています。1915年(大正4年)から新聞の連載小説として掲載されました。そのため、本編は新聞の1連載毎に区切られた形式となっています。 あらくれ(徳田秋声、通俗小説): http://www.geocities.jp/web_hon/04/tokuda.htm

 私は、1970年(昭和45年)4月頃、金沢城内にキャンパス(本部、教養部、教育学部、法文学部、理学部)があった金沢大学の理学部(化学教室分析化学研究室)に勤務し1年経っていましたが、学生諸君とはじめて、満開の桜並木道を歩いて卯辰山に登り、徳田秋声文学碑の周辺を散策したことがあります。その後、何回となく徒歩で、あるいはマイカーで、一人で、あるいは知人と、卯辰山、少し離れた山沿いの健民公園など訪れ散策しました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 金沢ふるさと愛山会編: 石川/あるさと100山、椋鳥書房(2009); 石川県の歴史散歩編集委員会(代表木越隆三)編: 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010); 日本の「文学碑」第1号、徳田秋声文学碑 誕生の経緯(金沢の記念館が企画展): 北陸中日新聞、2011年(平成23年)1月21日(金)朝刊、より; 週刊まちぶら第143号、ぐるっと ほくりく、 徳田秋声記念館かいわい 金沢市、「人生そのもの」に思い: 朝日新聞、2011年(平成23年)1月23日(日)朝刊、より.

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