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2011年6月26日 (日)

薩摩藩主(第11代)島津斉彬、お由羅騒動(跡継ぎ)、尚古集成事業(富国強兵、殖産興業)、明治維新への道(将軍継嗣問題、江戸城の無血開城)、薩摩言葉(鹿児島弁)、サツマイモ、サトウキビ、とは(2011.6.26)

   幕末、1842年(天保13年)、清(中国)はアヘン戦争に敗れ、イギリスと南京条約を結び、開国しました。徳川幕府は、オランダからアヘン戦争のことを知らされ、同年、異国船打払令を撤回、薪水給与令を発して、外国との衝突を回避しました。

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島津斉彬(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC

 島津斉彬(しまづなりあきら、1809~1858)は、幕末の薩摩藩主(鹿児島、第11代) 、父は薩摩藩主(第10代)島津斉興(しまづなりおき、1791~1859)の嫡子として江戸薩摩屋敷で誕生しました。母は因幡(鳥取、第6代)藩主池田治道の娘彌姫(いよひめ、賢章院、けんしょういん)です。幼名は邦丸(くにまる)、のち又三郎忠方、さらに16才の時、将軍(第11代)徳川家斉(とくがわいえなり、1773~1841)の1字をもらい斉彬と称しました。

○ お由羅騒動

 幕末の頃、薩摩藩の藩主交代をめぐり内紛が起こりました。薩摩藩主(第10代)島津斉興(62才)の第1子、斉彬(なりあきら、43才)は積極開明的でしたが、天保の藩政改革で自重策をもって成果をを挙げた家老調所広郷(ずしょひろさと、1776~1848)の流れをくむ調所派は、斉彬の継嗣に反対し、斉興の側室お由羅の子、第5子久光(ひさみつ、1817~1887、のち第12代藩主)、35才、を擁立しました。斉彬擁立派も、島津壱岐、高崎温恭以下が調所派を除く画策を進めたが露見し、1849年(嘉永2年)弾圧され、高崎らが自刃しました。その後、福岡藩主黒田斉溥、宇和島藩主伊達宗城(1818~1892)、老中阿部正弘(1819~1857)らの尽力と脱藩した斉彬派の運動により、斉興(62才)は隠居し、斉彬(43才)は1851年(嘉永4年)ようやく家督を継承しました。この世継ぎをめぐる内紛は、お由羅騒動(おゆらそうどう)と呼ばれています。

○ 尚古集成事業(富国強兵、殖産興業)

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尚古集成館(しょうこしゅうせいかん、島津、鹿児島、google画像)

(解説) 1851年(嘉永4年)2月、薩摩(第11代)藩主(島津家第28代当主)に就任した島津斉彬(43才)は、1853年(嘉永6年)6月3日夕方、浦賀(相模、神奈川)にアメリカのペリー来航直後から開国、通商派で、藩の軍事力の近代化、洋式産業の振興をはかるため、尚古集成館(旧集成館機械工場)を建設しました。そして、科学技術を積極的に取り入れ、軍事力を強化、商工業の活動も強く推進(富国強兵殖産興業!)しました。 尚古集成館(ホームページ、島津、鹿児島): http://www.shuseikan.jp/

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礒庭園(いそていえん、仙巌園とも、上 大砲と砲台、 下 反射炉跡、島津、鹿児島、google画像)

(解説) 集成館事業では、まず、鶴丸城内に製錬所をつくり、各種の基礎実験を行い、礒邸内で実用化していきました。集成館では、反射炉、熔鉱炉、鑽開台(さんかいだい、鋳造された砲身の刳りぬき工場)をつくって鉄製の武器(刀剣)、大砲鋳造、地雷や水雷などの起爆剤、雷汞(らいこう、雷酸第二水銀、Hg(ONC)2)の製造など軍事力の強化をはじめ、農具、ガラス、陶磁器などの製造、ガス灯や写真撮影、活字印刷などの事業も積極的に行っています。 また、造船事業にも強い関心をもち、洋式帆船いろは丸、洋式軍艦昇平丸を建造し、日の丸(日章旗)船印と定めました。

 尚古集成館のすぐ北にあるのが礒庭園(いそていえん)、島津氏の礒別邸です。この庭園は仙巌園(せんがんえん)とも呼ばれ、眼前には錦江湾(きんこうわん)と桜島が美しい。入り口を入るとすぐ左手に反射炉跡があります。斉彬が1853年(嘉永6年)、佐賀の反射炉をモデルにして苦心の末に完成させたものです。 礒庭園仙巌園とも、ホームページ、島津、鹿児島): http://www.senganen.jp/

 現在は、炉床の部分しか残っていませんが、かってはこの上に耐火レンガの炉が築かれ、さらに2本の長い煙突が立っていたという。この反射炉の完成で大量の鉄を生産できるようになり、この鉄でつくった大砲が祇園州(ぎおんのす)など各所の砲台に設置され、1863年(文久3年)7月、鹿児島湾での薩英戦争(さつえいせんそう)のとき使用されました。反射炉のすぐ裏側には熔鉱炉跡があり、また、鑽開台(さんかいだい)もすぐ隣の、鶴嶺神社のあるあたりにつくられていたという。

○ 明治維新への道(将軍継嗣問題、江戸城の無血開城)

 江戸幕府は ペリーが来航した1853年(嘉永6年)6月3日後、同月22日に将軍(12代)徳川家慶(とくがわいえよし、1793~1853)がこの世を去り、翌7月、家慶の4男、家祥(いえさち)が家定(いえさだ)と改名して将軍(13代)に就任しました。が、家定は極めて病弱で老中らに幕政を一任しました。家定は公家出身の正室2人を亡くし、3人目は阿部正弘の雄藩協議策により薩摩藩の篤姫(あつひめ、のち天璋院、てんしょういん)をめとりましたが、跡継ぎもいなかったため、将軍就任後まもなく、徳川将軍家の継嗣(けいし、跡継ぎ)の問題が浮上することになりました。 

 1856年(安政3年)、従兄である斉彬の養女となる島津家一門生まれの篤姫(のち天璋院、1836~1883)21才は、右大臣近衛忠熙(このえただひろ、1808~1898)の養女を経て、将軍(13代)徳川家定(とくがわいえさだ、1824~1858)33才の正室として大奥に入ったのは、将軍継嗣問題で、一橋慶喜擁立のためと言われています。

  薩摩藩主島津斉彬は、この将軍継嗣問題においては、安政の改革を行った老中阿部正弘(あべまさひろ、1819~1857、もと福山藩主)、水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき、1800~1860)、宇和島藩主伊達宗成(だてむねなり、1818~1892)らと結び、斉昭の第7子で一橋家養子、当主、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、1837~1913、のち江戸幕府最後の将軍(15代)徳川慶喜)派側に立ち、西郷隆盛(さいごうたかもり、1827~1877)18才らを使って運動しました。彼ら幕政改革派一橋派と呼ばれていました。

 が、1857年(安政4年)、阿部正弘が死去、 また、1858年(安政5年)、家定も死去、同年4月下旬、突如として大老に就任した藩政保守派、将軍家の血縁と幕府の権威回復を重視する南紀派の領袖、彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ、1815~1860)43才は、大老就任直後から強権を発動、御三卿・一橋家の慶喜を支持した薩摩藩島津斉彬、土佐藩山内豊信、越前藩松平慶永らの一橋派の意向に反し、同年5月上旬、将軍(14代)として御三家・紀伊藩主徳川慶福(とくがわよしとみ、1846~1866、のち家茂、いえもち)13才と定めたほか、同年6月、アメリカのハリスに押し切られ、勅許を得ないまま日米通商条約調印を強行し、一橋派や朝廷の強い反発を招くことになりました。

 島津斉彬もまた、1858年(安政5年)7月、藩地天保山で大規模な軍事訓練(富国強兵!)後、48才10ヶ月で急死、藩主の在任は7年半に過ぎなかったのですが、その志(こころざし)は、西郷隆盛(32才)、大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878)29才らに引き継がれました。

 その後、同年9月以降、安政の大獄、1860年(万延元年)3月3日、桜田門外の変、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動の激化、1864年(元治元年)6月、京都での禁門の変(きんもんのへん、蛤御門の変、はまぐりごもんのへん、とも)、1866年(慶応2年)1月、薩長同盟などを経て、最終的には、1867年(慶応3年)、幕府の大政奉還、1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)後、勝海舟(かつかいしゅう、1823~1899、旧幕府陸軍総裁)46才と西郷隆盛(新政府軍、東征大総督府参謀)42才との会談による江戸城の無血開城、明治維新へとつながりました。江戸城の無血開城には、篤姫(天璋院)が西郷隆盛に徳川の家名存続を求める書状を送り、その実現に一役かったと言われています。

○ 薩摩言葉(鹿児島弁)

 鹿児島の方言は、最も難解な方言の部類に属し、鹿児島弁のことを鹿児島語ともいっているほどです。方言は、県内一様に使われるのではなく、地域によって大きな違いがあり、大きく分けると、本土方言に属する薩摩方言(さつまほうげん)と琉球方言に属する奄美方言(あまみほうげん)の地域に2分されます。幕末に活躍した下級武士たちもよく方言を使ったといい、なかでも西郷隆盛の方言は有名ですが、西郷逸話に使われているのは、後人の言葉で、西郷の言葉ではないという。 京都大学大学院の学生の頃、鹿児島出身の後輩(宗像恵君)に鹿児島弁をしゃべってもらったことがありますが、早口で何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。 鹿児島弁(鹿児島の方言);http://www.h4.dion.ne.jp/~kjm/newpage5.html

 私は、1980年(昭和55年)10月13日、はじめて鹿児島を訪れ、鹿児島市内観光バスで尚古集成館を訪れたことがあります。眼前の美しい錦江湾と桜島には不似合いな礒庭園の中の反射炉跡、大砲鋳造など、異様な感じがしたのを覚えています。

(参考文献) 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999); 鹿児島県高等学校歴史部会編: 鹿児島券の歴史散歩、山川出版社(2000); 東京都歴史教育研究会(監修)、成美堂出版編集部編: 図解 幕末・維新、成美堂出版(2009).

(参考資料) 礒庭園砲台と大砲、反射炉跡、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%A3%AF%E5%BA%AD%E5%9C%92%20%EF%BC%88%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E3%81%A8%E5%A4%A7%E7%A0%B2%E3%80%80%E5%8F%8D%E5%B0%84%E7%82%89%E8%B7%A1%EF%BC%89&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=606

(追加説明) ○ サツマイモ(薩摩芋、飢餓食、芋焼酎) 江戸時代の中頃、日本列島はしばしば飢餓に見舞われました。その飢餓から農民を救ったのがサツマイモという。薩摩の国にサツマイモを伝えたのは、揖宿郡山川村の前田利右衛門という人です。1705年(宝永2年)、密貿易で中国に密航した折に利右衛門は、中国からサツマイモを持ち帰ったという。薩摩の人は、その徳をたたえ、利右衛門を「からいもおんじょ(甘藷翁)」と呼んでいます。

 サツマイモを全国的に普及させたことで有名な人は青木昆陽(あおきこんよう、1698~1769)です。昆陽は1734年(京保19年)、凶荒対策に甘藷をと説く「蕃薯考」を著し、将軍(第8代)徳川吉宗(とくがわよしむね、1684~1751)、に上申して、サツマイモが飢餓時にいかに役立つかを説きました。サツマイモは当時かなり普及していたといわれるが、彼の努力によって幕府の手でその栽培法が研究され、」これが普及に大きな貢献をしました。時の人は昆陽を「甘藷(かんしょ)先生」と呼び、千葉県幕張町に神社を建て、「いも神様」とその徳をたたえました。(樋口清之監修: 生活歳時記、p.103、サツマイモの話、三宝社(1994).より)

また、薩摩藩では、サツマイモと米麹(こめこうじ)から焼酎もつくりましたが、尚古集成事業における雷汞(らいこう、雷酸水銀、雷管などの発火具、起爆剤)は、水銀を硝酸に溶解し、これにサツマイモから焼酎をつくる時に蒸留して得られたエチルアルコールを加えて製造(強兵!)したという。

○ サトウキビ(砂糖黍、黒糖、精白糖の原料)

 江戸時代1600年代、日本のサトウキビ栽培は、1610年(慶長15年)、直川智(すなおかわち、奄美大島)、1623年(元和9年)、儀間真常(ぎましんじょう、沖縄)、により、中国福建省から相次いでシネンセ種(中国細茎種)のサトウキビの導入と製糖技術(二本車と三つ鍋による二転子三鍋法、のち首里の真喜屋実清(まきやじっせい)が三つ車の三転子法に改良、圧搾機(あっさくき、砂糖車とも)は木製から石製、明治期から鉄製に改良、牛馬によって回しました)は共に始められたと言う。(民族探訪事典、山川出版社(2005)、p.324、砂糖づくり、より)

 徳川吉宗の奨励策に支援されて日本本土各地に普及し、高品質和糖の原料とされたのもこの種という。1869年(明治2年)、沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的多く、株の再生も中庸で、黒糖原料としての美味しさと栄養性、フラクトオリゴ糖が多いなどの長所を持ち、香川、德島では和三盆の原料として今も用いられています。(伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008)より)

 薩摩藩主島津氏は、奄美大島を支配、琉球をも半ば支配し、当時、砂糖は高価な食べ物で、大きな利益があがりました。薩摩藩は砂糖を藩の専売とし、砂糖を財源にすることで、幕府に対抗できるほどの財力を蓄え(富国!)ました。この藩が、明治維新中心になったのは、ここにも遠因があったという。砂糖は甘味料、調味料として重要ですが、その防腐効果を利用して、砂糖漬、練ようかん、お菓子の金平糖(こんぺいとう)などもつくられます。また、疲労回復の効果もありますが、過度に食べると胃腸を害し、骨格の成長を阻害するという。

 サトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。(川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より) .

○ 世界一大きな桜島大根(さくらじまだいこん)は、江戸時代から作られていたという。 .

 薩摩島津家の家紋丸に十字の十は、キリスト教とは無関係、十全の威力を示す護符マーク であり、災厄を打ち払うということで家紋に選ばれたという。 薩摩島津家家紋の由来、鹿児島): http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_kamon.html. 

 また、島津製作所(京都)の社章薩摩島津家と同じであることについては、創業者島津源蔵の祖先は、井上惣兵衛尉茂一といい、慶弔年間には播州姫路の城主黒田孝高の家臣として明石に住んでいました。関ヶ原の戦い(1600年)に敗れた薩摩の島津義弘は、一族を率いて海路国元に引きあげて参る途中、薩摩灘で海難に遭い、難じゅうをきわめたという。 これを見た井上惣兵衛尉は、多数の船を出して、島津一族を救い、その功によって義弘から島津の性と丸に十の字(くつわ)の家紋を用いることを許されたという。 島津製作所(ホームページ、京都): http://www.geocities.jp/web_royalblue/rika/shimadzu.html

○ 方言と郷土意識(県人会)については、日本人はひじょうに郷土に対する帰巣本能が強く、これを支えているのが、この方言である。これは、相対的に他の郷土を持つ者を疎外すると言った点で、マイナスに働く場合もあるが、やはり、郷土意識のつながりによって、個人が社会から脱落してゆくのを防ぐ役割のほうが強いように思う。東京には、全国の県人会があり、ないのは東京都人会だけである。県人会では、大体、その地方の方言が自由に話され、精神的な開放をもたらし、あるいは近況を報告しあって脱落者をはげまし、ときには就職の世話までして、救いあげていく。方言に象徴される同郷意識が、人間救済の役割を果たしているのである。ーーー (樋口清之、梅干と日本刀、より

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