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2011年6月の8件の記事

2011年6月26日 (日)

薩摩藩主(第11代)島津斉彬、お由羅騒動(跡継ぎ)、尚古集成事業(富国強兵、殖産興業)、明治維新への道(将軍継嗣問題、江戸城の無血開城)、薩摩言葉(鹿児島弁)、サツマイモ、サトウキビ、とは(2011.6.26)

   幕末、1842年(天保13年)、清(中国)はアヘン戦争に敗れ、イギリスと南京条約を結び、開国しました。徳川幕府は、オランダからアヘン戦争のことを知らされ、同年、異国船打払令を撤回、薪水給与令を発して、外国との衝突を回避しました。

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島津斉彬(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC

 島津斉彬(しまづなりあきら、1809~1858)は、幕末の薩摩藩主(鹿児島、第11代) 、父は薩摩藩主(第10代)島津斉興(しまづなりおき、1791~1859)の嫡子として江戸薩摩屋敷で誕生しました。母は因幡(鳥取、第6代)藩主池田治道の娘彌姫(いよひめ、賢章院、けんしょういん)です。幼名は邦丸(くにまる)、のち又三郎忠方、さらに16才の時、将軍(第11代)徳川家斉(とくがわいえなり、1773~1841)の1字をもらい斉彬と称しました。

○ お由羅騒動

 幕末の頃、薩摩藩の藩主交代をめぐり内紛が起こりました。薩摩藩主(第10代)島津斉興(62才)の第1子、斉彬(なりあきら、43才)は積極開明的でしたが、天保の藩政改革で自重策をもって成果をを挙げた家老調所広郷(ずしょひろさと、1776~1848)の流れをくむ調所派は、斉彬の継嗣に反対し、斉興の側室お由羅の子、第5子久光(ひさみつ、1817~1887、のち第12代藩主)、35才、を擁立しました。斉彬擁立派も、島津壱岐、高崎温恭以下が調所派を除く画策を進めたが露見し、1849年(嘉永2年)弾圧され、高崎らが自刃しました。その後、福岡藩主黒田斉溥、宇和島藩主伊達宗城(1818~1892)、老中阿部正弘(1819~1857)らの尽力と脱藩した斉彬派の運動により、斉興(62才)は隠居し、斉彬(43才)は1851年(嘉永4年)ようやく家督を継承しました。この世継ぎをめぐる内紛は、お由羅騒動(おゆらそうどう)と呼ばれています。

○ 尚古集成事業(富国強兵、殖産興業)

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尚古集成館(しょうこしゅうせいかん、島津、鹿児島、google画像)

(解説) 1851年(嘉永4年)2月、薩摩(第11代)藩主(島津家第28代当主)に就任した島津斉彬(43才)は、1853年(嘉永6年)6月3日夕方、浦賀(相模、神奈川)にアメリカのペリー来航直後から開国、通商派で、藩の軍事力の近代化、洋式産業の振興をはかるため、尚古集成館(旧集成館機械工場)を建設しました。そして、科学技術を積極的に取り入れ、軍事力を強化、商工業の活動も強く推進(富国強兵殖産興業!)しました。 尚古集成館(ホームページ、島津、鹿児島): http://www.shuseikan.jp/

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礒庭園(いそていえん、仙巌園とも、上 大砲と砲台、 下 反射炉跡、島津、鹿児島、google画像)

(解説) 集成館事業では、まず、鶴丸城内に製錬所をつくり、各種の基礎実験を行い、礒邸内で実用化していきました。集成館では、反射炉、熔鉱炉、鑽開台(さんかいだい、鋳造された砲身の刳りぬき工場)をつくって鉄製の武器(刀剣)、大砲鋳造、地雷や水雷などの起爆剤、雷汞(らいこう、雷酸第二水銀、Hg(ONC)2)の製造など軍事力の強化をはじめ、農具、ガラス、陶磁器などの製造、ガス灯や写真撮影、活字印刷などの事業も積極的に行っています。 また、造船事業にも強い関心をもち、洋式帆船いろは丸、洋式軍艦昇平丸を建造し、日の丸(日章旗)船印と定めました。

 尚古集成館のすぐ北にあるのが礒庭園(いそていえん)、島津氏の礒別邸です。この庭園は仙巌園(せんがんえん)とも呼ばれ、眼前には錦江湾(きんこうわん)と桜島が美しい。入り口を入るとすぐ左手に反射炉跡があります。斉彬が1853年(嘉永6年)、佐賀の反射炉をモデルにして苦心の末に完成させたものです。 礒庭園仙巌園とも、ホームページ、島津、鹿児島): http://www.senganen.jp/

 現在は、炉床の部分しか残っていませんが、かってはこの上に耐火レンガの炉が築かれ、さらに2本の長い煙突が立っていたという。この反射炉の完成で大量の鉄を生産できるようになり、この鉄でつくった大砲が祇園州(ぎおんのす)など各所の砲台に設置され、1863年(文久3年)7月、鹿児島湾での薩英戦争(さつえいせんそう)のとき使用されました。反射炉のすぐ裏側には熔鉱炉跡があり、また、鑽開台(さんかいだい)もすぐ隣の、鶴嶺神社のあるあたりにつくられていたという。

○ 明治維新への道(将軍継嗣問題、江戸城の無血開城)

 江戸幕府は ペリーが来航した1853年(嘉永6年)6月3日後、同月22日に将軍(12代)徳川家慶(とくがわいえよし、1793~1853)がこの世を去り、翌7月、家慶の4男、家祥(いえさち)が家定(いえさだ)と改名して将軍(13代)に就任しました。が、家定は極めて病弱で老中らに幕政を一任しました。家定は公家出身の正室2人を亡くし、3人目は阿部正弘の雄藩協議策により薩摩藩の篤姫(あつひめ、のち天璋院、てんしょういん)をめとりましたが、跡継ぎもいなかったため、将軍就任後まもなく、徳川将軍家の継嗣(けいし、跡継ぎ)の問題が浮上することになりました。 

 1856年(安政3年)、従兄である斉彬の養女となる島津家一門生まれの篤姫(のち天璋院、1836~1883)21才は、右大臣近衛忠熙(このえただひろ、1808~1898)の養女を経て、将軍(13代)徳川家定(とくがわいえさだ、1824~1858)33才の正室として大奥に入ったのは、将軍継嗣問題で、一橋慶喜擁立のためと言われています。

  薩摩藩主島津斉彬は、この将軍継嗣問題においては、安政の改革を行った老中阿部正弘(あべまさひろ、1819~1857、もと福山藩主)、水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき、1800~1860)、宇和島藩主伊達宗成(だてむねなり、1818~1892)らと結び、斉昭の第7子で一橋家養子、当主、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、1837~1913、のち江戸幕府最後の将軍(15代)徳川慶喜)派側に立ち、西郷隆盛(さいごうたかもり、1827~1877)18才らを使って運動しました。彼ら幕政改革派一橋派と呼ばれていました。

 が、1857年(安政4年)、阿部正弘が死去、 また、1858年(安政5年)、家定も死去、同年4月下旬、突如として大老に就任した藩政保守派、将軍家の血縁と幕府の権威回復を重視する南紀派の領袖、彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ、1815~1860)43才は、大老就任直後から強権を発動、御三卿・一橋家の慶喜を支持した薩摩藩島津斉彬、土佐藩山内豊信、越前藩松平慶永らの一橋派の意向に反し、同年5月上旬、将軍(14代)として御三家・紀伊藩主徳川慶福(とくがわよしとみ、1846~1866、のち家茂、いえもち)13才と定めたほか、同年6月、アメリカのハリスに押し切られ、勅許を得ないまま日米通商条約調印を強行し、一橋派や朝廷の強い反発を招くことになりました。

 島津斉彬もまた、1858年(安政5年)7月、藩地天保山で大規模な軍事訓練(富国強兵!)後、48才10ヶ月で急死、藩主の在任は7年半に過ぎなかったのですが、その志(こころざし)は、西郷隆盛(32才)、大久保利通(おおくぼとしみち、1830~1878)29才らに引き継がれました。

 その後、同年9月以降、安政の大獄、1860年(万延元年)3月3日、桜田門外の変、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動の激化、1864年(元治元年)6月、京都での禁門の変(きんもんのへん、蛤御門の変、はまぐりごもんのへん、とも)、1866年(慶応2年)1月、薩長同盟などを経て、最終的には、1867年(慶応3年)、幕府の大政奉還、1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)後、勝海舟(かつかいしゅう、1823~1899、旧幕府陸軍総裁)46才と西郷隆盛(新政府軍、東征大総督府参謀)42才との会談による江戸城の無血開城、明治維新へとつながりました。江戸城の無血開城には、篤姫(天璋院)が西郷隆盛に徳川の家名存続を求める書状を送り、その実現に一役かったと言われています。

○ 薩摩言葉(鹿児島弁)

 鹿児島の方言は、最も難解な方言の部類に属し、鹿児島弁のことを鹿児島語ともいっているほどです。方言は、県内一様に使われるのではなく、地域によって大きな違いがあり、大きく分けると、本土方言に属する薩摩方言(さつまほうげん)と琉球方言に属する奄美方言(あまみほうげん)の地域に2分されます。幕末に活躍した下級武士たちもよく方言を使ったといい、なかでも西郷隆盛の方言は有名ですが、西郷逸話に使われているのは、後人の言葉で、西郷の言葉ではないという。 京都大学大学院の学生の頃、鹿児島出身の後輩(宗像恵君)に鹿児島弁をしゃべってもらったことがありますが、早口で何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。 鹿児島弁(鹿児島の方言);http://www.h4.dion.ne.jp/~kjm/newpage5.html

 私は、1980年(昭和55年)10月13日、はじめて鹿児島を訪れ、鹿児島市内観光バスで尚古集成館を訪れたことがあります。眼前の美しい錦江湾と桜島には不似合いな礒庭園の中の反射炉跡、大砲鋳造など、異様な感じがしたのを覚えています。

(参考文献) 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999); 鹿児島県高等学校歴史部会編: 鹿児島券の歴史散歩、山川出版社(2000); 東京都歴史教育研究会(監修)、成美堂出版編集部編: 図解 幕末・維新、成美堂出版(2009).

(参考資料) 礒庭園砲台と大砲、反射炉跡、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%A3%AF%E5%BA%AD%E5%9C%92%20%EF%BC%88%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E3%81%A8%E5%A4%A7%E7%A0%B2%E3%80%80%E5%8F%8D%E5%B0%84%E7%82%89%E8%B7%A1%EF%BC%89&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=606

(追加説明) ○ サツマイモ(薩摩芋、飢餓食、芋焼酎) 江戸時代の中頃、日本列島はしばしば飢餓に見舞われました。その飢餓から農民を救ったのがサツマイモという。薩摩の国にサツマイモを伝えたのは、揖宿郡山川村の前田利右衛門という人です。1705年(宝永2年)、密貿易で中国に密航した折に利右衛門は、中国からサツマイモを持ち帰ったという。薩摩の人は、その徳をたたえ、利右衛門を「からいもおんじょ(甘藷翁)」と呼んでいます。

 サツマイモを全国的に普及させたことで有名な人は青木昆陽(あおきこんよう、1698~1769)です。昆陽は1734年(京保19年)、凶荒対策に甘藷をと説く「蕃薯考」を著し、将軍(第8代)徳川吉宗(とくがわよしむね、1684~1751)、に上申して、サツマイモが飢餓時にいかに役立つかを説きました。サツマイモは当時かなり普及していたといわれるが、彼の努力によって幕府の手でその栽培法が研究され、」これが普及に大きな貢献をしました。時の人は昆陽を「甘藷(かんしょ)先生」と呼び、千葉県幕張町に神社を建て、「いも神様」とその徳をたたえました。(樋口清之監修: 生活歳時記、p.103、サツマイモの話、三宝社(1994).より)

また、薩摩藩では、サツマイモと米麹(こめこうじ)から焼酎もつくりましたが、尚古集成事業における雷汞(らいこう、雷酸水銀、雷管などの発火具、起爆剤)は、水銀を硝酸に溶解し、これにサツマイモから焼酎をつくる時に蒸留して得られたエチルアルコールを加えて製造(強兵!)したという。

○ サトウキビ(砂糖黍、黒糖、精白糖の原料)

 江戸時代1600年代、日本のサトウキビ栽培は、1610年(慶長15年)、直川智(すなおかわち、奄美大島)、1623年(元和9年)、儀間真常(ぎましんじょう、沖縄)、により、中国福建省から相次いでシネンセ種(中国細茎種)のサトウキビの導入と製糖技術(二本車と三つ鍋による二転子三鍋法、のち首里の真喜屋実清(まきやじっせい)が三つ車の三転子法に改良、圧搾機(あっさくき、砂糖車とも)は木製から石製、明治期から鉄製に改良、牛馬によって回しました)は共に始められたと言う。(民族探訪事典、山川出版社(2005)、p.324、砂糖づくり、より)

 徳川吉宗の奨励策に支援されて日本本土各地に普及し、高品質和糖の原料とされたのもこの種という。1869年(明治2年)、沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的多く、株の再生も中庸で、黒糖原料としての美味しさと栄養性、フラクトオリゴ糖が多いなどの長所を持ち、香川、德島では和三盆の原料として今も用いられています。(伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008)より)

 薩摩藩主島津氏は、奄美大島を支配、琉球をも半ば支配し、当時、砂糖は高価な食べ物で、大きな利益があがりました。薩摩藩は砂糖を藩の専売とし、砂糖を財源にすることで、幕府に対抗できるほどの財力を蓄え(富国!)ました。この藩が、明治維新中心になったのは、ここにも遠因があったという。砂糖は甘味料、調味料として重要ですが、その防腐効果を利用して、砂糖漬、練ようかん、お菓子の金平糖(こんぺいとう)などもつくられます。また、疲労回復の効果もありますが、過度に食べると胃腸を害し、骨格の成長を阻害するという。

 サトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。(川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より) .

○ 世界一大きな桜島大根(さくらじまだいこん)は、江戸時代から作られていたという。 .

 薩摩島津家の家紋丸に十字の十は、キリスト教とは無関係、十全の威力を示す護符マーク であり、災厄を打ち払うということで家紋に選ばれたという。 薩摩島津家家紋の由来、鹿児島): http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_kamon.html. 

 また、島津製作所(京都)の社章薩摩島津家と同じであることについては、創業者島津源蔵の祖先は、井上惣兵衛尉茂一といい、慶弔年間には播州姫路の城主黒田孝高の家臣として明石に住んでいました。関ヶ原の戦い(1600年)に敗れた薩摩の島津義弘は、一族を率いて海路国元に引きあげて参る途中、薩摩灘で海難に遭い、難じゅうをきわめたという。 これを見た井上惣兵衛尉は、多数の船を出して、島津一族を救い、その功によって義弘から島津の性と丸に十の字(くつわ)の家紋を用いることを許されたという。 島津製作所(ホームページ、京都): http://www.geocities.jp/web_royalblue/rika/shimadzu.html

○ 方言と郷土意識(県人会)については、日本人はひじょうに郷土に対する帰巣本能が強く、これを支えているのが、この方言である。これは、相対的に他の郷土を持つ者を疎外すると言った点で、マイナスに働く場合もあるが、やはり、郷土意識のつながりによって、個人が社会から脱落してゆくのを防ぐ役割のほうが強いように思う。東京には、全国の県人会があり、ないのは東京都人会だけである。県人会では、大体、その地方の方言が自由に話され、精神的な開放をもたらし、あるいは近況を報告しあって脱落者をはげまし、ときには就職の世話までして、救いあげていく。方言に象徴される同郷意識が、人間救済の役割を果たしているのである。ーーー (樋口清之、梅干と日本刀、より

2011年6月25日 (土)

家畜法定伝染病(ウイルス)、口蹄疫(牛、豚)、鳥インフルエンザ(鶏)、家畜の殺処分となめとこ山の熊(宮沢賢治)、牛の生肉に付着の病原性大腸菌O111による集団食中毒、とは(2011.6.25)

   家畜法定伝染病(かちくほうていでんせんびょう)は、家畜伝染病予防法に規定されている、口蹄疫(こうていえき、牛、豚)、鳥インフルエンザ(鶏)など26種の伝染病です。その発生の際は、畜主および診断した獣医師は、直ちに市町村長に報告し、家畜防疫員の指示に従わねばなりません。

 家畜伝染病予防法(かちくでんせんびょうよぼうほう、農林省)は、家畜伝染病の発生の予防および蔓延(まんえん)防止により、畜産振興を図るため1951年(昭和26年)に制定された法律です。疾病による家畜死亡の届出義務、予防のための検査・消毒、患畜および疑似患畜の届出・隔離義務、輸出入検疫などを規定しています。口蹄疫鳥インフルエンザの発生には、消毒薬として消石灰を撒布して、ウイルスの蔓延(まんえん)を防ぎます。家畜伝染病予防法(農林水産省): http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26HO166.html.

○ 口蹄疫(こうていえき、牛、豚)と鳥インフルエンザ(鶏)

 家畜法定伝染病(かちくほうていでんせんびょう、ウイルス)については、昨年、2010年(平成22年)、3~7月、宮崎県で口蹄疫(こうていえき)にかかった約29万頭の牛や豚が「殺処分」されたという。 この病気は、牛をはじめ豚、羊、ヤぎなどを冒(おか)す伝染病ですが、動物のウイルス病として、1898年(明治31年)、最初に発見されたものです。口腔粘膜、蹄冠部などに水疱(すいほう)を生じる熱性疾患です。乳牛では乳量が激減します。伝染力は極めて強く、致死率は低い(約1%)のですが、発見されれば、殺処分と定められています。口蹄疫(農林水産省): http://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/katiku_yobo/k_fmd/index.htmll

 また、昨年11月、島根県安来市、今年、2011年(平成23年)1月、宮崎県の宮崎市と新富町、鹿児島県出水(いずみ)市、愛知県豊橋市の五ヶ所の養鶏場で鳥インフルエンザにかかった鶏が見つかり、顔が赤く腫(は)れた鶏がどんどん死んでいきました。数羽でも高病原性が判明すると、その養鶏場では、すべてが「殺処分」されますが、その評価額の8割は国が保障してくれるという。

 その後、2月28日には、昨年11月以降、和歌山県紀の川市に次いで、全国で21例目が、奈良県五条市で見つかり、県や市の職員約160人が、養鶏場の約10万羽の殺処分を行うことになりました。愛知県豊橋市では、2年前にウズラが感染し160万羽を「殺処分」しました。そのウイルス感染ルートとして、渡り鳥(カモ、ナベヅルなど)のほか、野鳥(オオヨシガモ、オシドリ、カイツブリなど)、ネズミ、ハエなどが考えられています。鳥インフルエンザ(厚生労働省): http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou02/index.html

○ 口蹄疫の牛や豚の殺処分(農林水産省)、なめとこやまの熊(宮沢賢治と法華経、日蓮宗の信仰)

 宗教学者、山折哲雄(1931~ )によれば、口蹄疫(こうていえき)による不意打ちの感染で、30万頭近くのが殺されることになり、「殺処分」というこの見慣れない言葉にふれたとき、寺の住職だった父親から「殺生」という言葉をきいて脅(おび)えた子供のころを思い出したという。ーーー

 こんどの事件に出会って私がもっとも衝撃を受けた証言は、被害のどん底につき落とされた農家の方のつぎのような嘆きの言葉だった。「命絶って命をつなぐのが、おれの仕事。出荷して殺されるのは何とも思わないが、このように殺されるのは見るに堪えない」。その激しい言葉が、まさに私自身の心の騒ぎと、居心地の悪さ、遠い記憶にさかのぼる違和感を照らし出したのだった。ーーー

 ふと思う。その居心地の悪さと違和感の根源を、繊細な神経をはたらかせて描こうとしたのが宮沢賢治(1896~1933、岩手県生まれ、法華経、日蓮宗を信仰)だったのではないかと。たとえば、宮沢賢治作、なめとこ山の熊の作品では、毎日のように山に入る熊取の名人が瀕死(ひんし)の熊に言う。 「熊。何も好きこのんでお前を殺すのではない。そうしなければ生きていけないからだ。やい。この次には熊なんぞ生まれなよ」 猟師はやがて熊に襲われて倒れる。命尽きるとき、その熊の前で「熊ども、ゆるせよ」と心の中でつぶやく。まるで自分のからだを差し出すかのようにーーー。

 賢治はいのちを食べることに神経を痛めつづけ、身もだえするように生きてきた人間だった。もしかすると、自分と熊(動物)とのあいだに食うか食われるかの平等の関係を幻想しようとしていたのかもしれない。食うものは食われる、という食物連鎖の原理だ。狩猟民的感覚といえばいえるようなメルヘン幻想である。

 だがやがて牧畜、農業革命がおこって、そのような幻想は打ち砕かれる。「人間は動物を殺して食べることを許されるが、動物が人間を襲って食べることは許されない」という「人間中心の論理」を、われわれ社会がつくったからだった。この人類史的ともいうべき「負い目の感覚」が、「殺処分」という無機質の言葉の背後から立ちのぼり、「われわれをふたたび苦しめはじめている」、のではないだろうか。(山折哲雄(宗教学者):いのちと食と賢治と、2010年(平成22年)6月8日(火)、朝日新聞(朝刊)より)

 哲学者、梅原猛(1925~ )によれば、宮沢賢治の数ある童話の中でも、とりわけ名作の一つである「なめとこ山の熊」は、熊を殺して生計を立てている淵沢小十郎(ふちざわこじゅうろう)という猟師が、その罪を感じて熊にわが身を捧げるという話であるが、小十郎は「法華経」にある、自分の身を殺して他人のために捧げるという薬王菩薩(やくおうぼさつ)であるといってよかろう。また、賢治の多くの詩の中で最もポピュラーな「雨ニモマケズ」という詩は、同じように「法華経」にある、人から馬鹿にされながらも人を愛し、人のために尽くすという常不経菩薩(じょうふきょうぼさつ)の生き方を自己の生活の理想として歌ったものであろう。日蓮(にちれん、1222~1282)以外に彼ほど「法華経」の精神をよく理解し、「法華経」に出てくる菩薩の心を自分の心として自分の人生を生き、自分の歌を歌った仏教者は存在しないと私は思う、と述べています。

 また、宮沢賢治は、はじめ近代浄土真宗の熱烈な信者であったが、法華経や日蓮の著書を読み法華経の信仰に帰したという。そして、日蓮の思想にもとずく新しい宗教団体である田中智学(たなかちがく、1861~1939)の主催する国柱会(こくちゅうかい)に入り、上京して、国中会の本部の下足番(げそくばん)をしていたという。そして、智学のある弟子が何気なく賢治に語った言葉から暗示を受け、文学によって折伏しようとして、おびただしい童話を書き、自らを救い、そして多くの人を正しい教えに導いたのであろう、と述べています。(梅原猛(哲学者):日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009)より) 

○ 宮沢賢治(1896~1933)は、熱心な法華経信者で、街頭で布教、また農村改造の熱意に燃えて農耕指導に従事しました。昼は塾を開き、夜は作詩の生活を送りました。強い情熱と空想力、素朴で健康な作風で知られています。死後、草野心平(1903~1988)、高村光太郎(1883~1956)らによって紹介され、広く知られるようになりました。「風の又三郎」「雨ニモマケズ」「春と修羅」(樋口清之監修:生活歳時記、p.545、宮沢賢治忌、昭和8年9月21日、三宝出版(1994)より)

○ 牛の生肉料理ユッケ」に付いていた病原性大腸菌O111による集団食中毒事件

 2011年(平成23年)4月、富山、福井、神奈川の3県で、焼き肉チェーン店「焼肉酒家えびす」での、牛生肉を使った韓国料理「ユッケ」による病原性大腸菌O(オー)111に感染した4人が死亡し、多数の患者が出るという集団食中毒事件が起こりました。

牛の生肉料理ユッケ」に付いていた病原性(腸管出血性)大腸菌(ベロ毒素により出血性大腸炎を起こす)は、幼児や高齢者だけでなく、抵抗力があるはずの10~40代をも重症化させ、複数の命を奪いました。 1ヶ月が経過した5月8日では、この事件の被害者は、死者4人、重症者24人、中毒患者数102人となる大事件となりました。  

 私は、日常、何気なく、口にしている、卵、カシワ(鶏肉)、豚肉、牛肉など、畜産の現況を知るにつけ、何とも言えない気持になりました。いつの頃からか、食事の時の「いただきます」は、人が生きるため、生き物(動物、植物、微生物など)の命をいただく(命の移し替え!)、感謝の言葉であることを思い出しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 梅原猛(哲学者):日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009); 朝日新聞: 山折哲雄(宗教学者)、いのちと食と賢治と、2010年(平成22年)6月8日(火)朝刊より; 北陸中日新聞: 鳥インフル疑い なぜ豊橋で 気候温暖 渡り鳥適地 野鳥死骸、ネズミが媒介? 感染確定で殺処分、2011年(平成23年)1月27日(木)朝刊より; 朝日新聞: 鳥インフル、「敵」封じ込めに苦闘、通報遅れ、防鳥網に穴、野鳥、高知・滋賀でも、また、ニュースがわからん! 鳥インフル なぜみんな殺すの? 強い感染力 養鶏場ごとに封じ込める、2011年(平成23年)1月27日(木)朝刊より.

(参考資料) 口蹄疫(こうていえき、ウイキペデイア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E8%B9%84%E7%96%AB. 

鳥インフルエンザ(とりいんふるえんざ、ウイキペデイア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B6

口蹄疫(こうていえき、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8F%A3%E8%B9%84%E7%96%AB&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=606

鳥インフルエンザ(とりいんふるえんざ、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%B3%A5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B6&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=606

(追加説明) ○ 家畜(かちく)は、野生の動物から、人間がその生活に役立つように品種改良し、飼育し、繁殖させているものです。それには、哺乳類、鳥類、魚類(コイなど)、昆虫類(カイコ、ミツバチなど)がありますが、類は特に家禽(かきん、鶏、アヒル、シチメンチョウ、ハトなど)と呼ばれ、実用種(肉用、卵用、特殊なものに伝書バトなど)、愛がん用(オナガドリなど)、競技用(シャモなど)があります。そして、狭義の家畜哺乳類(ほにゅうるい、牛、豚、馬、羊、ヤギ、犬など)をさします。その用途によって肉用、役用、毛用などに分けられています。

○ 宮沢賢治の家は、花巻(岩手)で金貸し業を営み、熱烈な浄土真宗の信者でした。近代浄土真宗を信じ、親鸞没後の異義を嘆き批判した唯円(ゆいえん)の書、歎異抄(たんにしょう)を重視しました。そして、1901年(明治34年)に雑誌、精神界を編集・発刊し、歎異抄の近代的普及に貢献した、暁烏敏(あけがらすはや、1877~1954,真宗大谷派僧侶、石川)を招いて講演会を開き、賢治も講話に耳を傾けています。

 賢治もまた近代浄土真宗の熱烈な信者でしたが、のち浄土真宗を捨てて、日蓮宗の信者になりました。その理由については、賢治は深くは語らないが、近代浄土真宗の信仰には、菩薩行(ぼさつぎょう)が欠如していると思ったからではなかろうか。

 菩薩行(ぼさつぎょう)とは、菩薩大乗仏教の修行者)としての(ぎょう)のことです。大乗仏教(だいじょうぶっきょう)については、出家して修行を積んだ者しか救われないとする上座部(小乗)仏教に対して、釈迦の入滅語400~500年後に、民衆全てが救われるとした大乗仏教が誕生しました。 大乗とは、だれでも乗れる大きな乗り物といった意味があります。

梅原猛(哲学者):日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009)より) 

○ 法華経(ほけきょう、ほっけきょうとも)は、妙方蓮華経、1世紀前後に西北インドで成立した初期大乗教典でサンスクリット語の原題は、白蓮のように正しい教えで、無量義経観音賢経と合わせて法華三部経と呼ぶ。中国、日本を通じて最も讃仰された教典で、天台宗、日蓮宗のように本経に基づいて教義を形成する宗派もありました。(岩波、日本史辞典より) 法華経の話(宗教、人生): http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/6623/hokekyou.html

○ 浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、親鸞(しんらん、1173~1262)が法然の教えをさらに純化し、阿弥陀仏の他力本願を信ずることによってのみ往生成仏できると説く。

 日蓮宗(にちれんしゅう)は、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)のお題目を唱え、浄土教のように来世ではなく、現世ですべての衆生(動物、植物、山、川、草、木などすべてが仏性をもっている!)は仏になれる、そして、個人も国家も救われなければならないと日蓮(にちれん、1222~1282)は説く。

 天台宗(てんだいしゅう)は、日本で興った最初の宗派で、日本仏教の母体となり、比叡山からは多くの名僧を生んだ。法華経を根本教典とし、すべての衆生(動物、植物、山、川、草、木などすべてが仏性をもっている!)は仏になれると最澄(さいちょう、767~822)が説く。

 真言宗(しんごんしゅう)は、永遠の宇宙仏である大日如来を真実の仏とし、大日経金剛頂教などを教典に、大日如来と一体化して修行を行えば、即身成仏(そくしんじょうぶつ、この身このまま仏になる)できると空海(くうかい、774~835)が説く。(中日サンデー版、日本の仏教、北陸中日新聞、2004年(平成16年)10月31日(日)、朝刊より)

○ つながる”いのち”  生物は、すべて他のいのちに依存しているそんな当たり前の事実を、屠殺場(とさつじょう)は静かに語りかける。ーーー「今の社会では、いのちが見えにくい。昔はどの家でも鶏(にわとり)を飼っていて、鶏をしめるのは当たり前でした。いのちのある鶏と、食べ物としての鶏、両方が見えた時代だった」

 「人間だけじゃないかな、自分の手で殺さなくなったのは、他の生き物は、死にもの狂いで餌(えさ)を得る」 いのちが見えづらくなり、真摯(しんし)にいのちと向き合う姿勢(しせい)が薄れていったとき、わたしたちは謙虚(けんきょ)さや自然に対する畏敬(いけい)の念を失うのかも知れない。(本橋カメラマン、大阪松原市の屠殺場、週刊朝日、2011年(平成23年)6月24日、より)

2011年6月22日 (水)

夏至(2011年6月22日)、わが家から眺める犀川の新緑と中州でのアユ釣りの風景

   新緑の季節が過ぎると、青葉の季節となります。青葉若葉とは、濃淡さまざまな緑葉の混じった姿で、若葉、新樹の光は夏らしい輝きを見せます。今年の6月22日は、一年中で最も昼が長くなる24節気の夏至。太平洋高気圧からの南風でフェーン現象も発生し、金沢も31.9℃と今年の最高を記録し、暑い1日となりました。

 そこで、金沢市中心部を流れる犀川の下流域、若宮大橋下、示野中橋近くのサーパス桜田町一番館(10階)、わが家から眺める犀川の新緑と中州でのアユ釣りの風景をデジカメで撮影しました。

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犀川の風景(犀川の新緑と中州でのアユ釣りの風景、背後は金沢中心街、桜田、金沢、2011年6月22日撮影) 

 水量が少なくなった犀川の中州付近で、いつもながらのアユ釣りの姿が見られました。 6月22日夜に大雨洪水注意報が発令され、金沢市は犀川右岸の御影大橋下の放水路を開放し、放水終了後に水門を閉じました。が、翌日、23日の朝、用水からの放水路出口近くの水たまりに多くのアユが泳いでいるのが見つかりました。(2011年6月24日、北陸中日新聞、朝刊より) 

 犀川の水たまりで泳ぐアユは、水門を開いたときに放水路に向かって遡上(そじょう)したアユが、放水路の水門を閉めたことで水がなくなり、河原に隔てられて川の本流へ戻れなくなり、水たまりに集中したと見られています。そこで、金沢市職員が約20m離れた本流に向かってスコップなどで水路を掘削し、幅1mほどの水路をつくり、アユを本流に逃がしてやり、さらに、小型の重機を出して幅1m、深さ50cmほどの水路を整備したという。

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犀川の堰堤(アユの群れが遡上、手前は大豆田大橋、背後は北陸本線架橋、桜田、金沢、2011年6月22日撮影) 

 私は5月下旬、犀川の大豆田大橋下流では、アユの群れが堰堤(えんてい)を遡上(そじょう)する様子が見られ、激しい流れに逆らい段差を超えようと身をくねらせジャンプしている、と新聞に出ていましたので、早速歩いて朝昼の2回そこを訪ねたのですが、よく分かりませんでした。先日、釣り人のいる犀川の中州に降りて、川の中を眺めていたところ、10cmほどのアユが群れをなして泳いでいて、時折水面に飛び跳ねる姿を目にすることができました。

囲碁にまつわる歴史伝承、囲碁の起源と伝来(中国、朝鮮、日本)、囲碁の棋具(碁盤、碁石、碁笥、別称)、日本の囲碁ゆかりの地名、とは(2011.6.22)

   中国には、「囲碁四千年」という言葉があり、古代文明の発祥地、黄河流域起源とされています。が、確たる証拠はありません。伝説によれば、紀元前2350年頃、堯帝(ぎょうてい、伝説上の聖帝、中国)が囲碁を発明したという。その目的は、丹朱(たんしゅ)という息子があまり賢くなかったので、囲碁によって賢明な皇帝に育てることでした。が、その教育はうまくいかず?、堯帝は庶民出の(しゅん)を次の皇帝としました。

 また、殷代(いんだい)、紀元前1500~1000年頃、甲骨文(こうこつもん)の中に(き、碁の古代語)の文字(地名説?)があります。これは、動物の骨や亀の甲羅に刻まれた古代文字ですが、占いや易の記録として残したものという。

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堯帝像(ぎょうていぞう、伝説上の聖帝、中國圍棋故事、回燕京書院綱頁、中国、google画像) 

(解説) 堯帝(ぎょうてい)は、碁盤(ごばん)や碁石(ごいし)を道具として占いを行い、天下を治めたという説があります。現代の標準碁盤(19路盤)でいえば、361交点1年日数(太陽が天を周回する日数で、真ん中のは、天元ないし太極とし、また、碁盤を4等分して四季(春夏秋冬)、白石昼(陽)黒石夜(陰)としました。 

○ 古代の碁盤(漢代:17路五星盤、随代以降:19路五星盤、事前置碁法、中国)

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石棋盤(漢代、17路盤、中國圍棋故事、回燕京書院綱頁、中国、google画像)

(解説) 千禧年在墨竹工卡縣加瑪鄉村北側,相傳為吐蕃松贊干布出生地的「強巴米久林宮殿」遺址出土之「密芒」棋盤棋盤。盤刻於長1.44米、寬0.56米、厚0.18米的菱形花崗巖表面中央,棋盤長寬均為0.44米,正方形,兩端各鑿有一塊放置子的凹坑。凹坑直徑0.11米、深0.04米,棋盤表面均有磨損,線條較為模糊。但可以數清有多少格。該棋盤縱橫有17道線,為17×17格,共289個交叉點以放置棋子棋盤沒有位點和邊框。

 1952年(昭和27年)、河北省(望都県、中国)の漢代(かんだい)の劉氏(りゅうし)の墓(182年埋葬)の陪葬品として、石棋石榻(せきとう、石の対局椅子)が発見されました。これは17路5星の石盤でした。この現存最古石盤出土により、邯鄲淳(かんたんじゅん)著、芸経の中の「棊局縦横各17道、合わせて289道」という文章が立証されることになりました。この碁盤(中国では花点)の形はハートの5花点でした。

 2007年(平成19年)5月15日、龍坑(寧夏自治区、中国)の漢墓群で古代の碁盤と陶片の碁石発見されました。(中国史ニュースリンクログ2007年、碁盤と碁石の発見含む、中国): http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/news2007.html.)

中國圍棋故事堯帝像(ぎょうていぞう)、漢代、17路盤、随代、19路盤含む、中國圍棋故事、回燕京書院綱頁、中国): http://go.yenching.edu.hk/chhis.htm

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青磁碁盤随代19路盤、中國圍棋故事、回燕京書院綱頁、中国、google 画像)

(解説) 1959年,河南安陽市北郊隋開皇十五年(594)張盛墓中出土一件圍棋盤小明器,保存完整,是迄今發 現世界上最古老的19道棋盤。現藏河南省 博物館。 該圍棋盤,正方形, 高4厘米,邊長各10.2厘米。盤上刻縱 橫17道,加上邊線便成縱橫19 道。這 些縱橫直線交織成許多小方格,共有 361目,與今之圍棋完全相同。為便于 識別棋子位置,每角4×4處和中央, 各有一小孔,形成「星位」。盤之四 側,有類似壺門的裝飾,通過施灰白釉,用特制白瓷圍棋盤隨葬是不多見的。參考《安陽隋張盛墓發掘記》《考古》1959年第10期。

 1959年(昭和34年)、河南省(安陽市、中国)の随代(ずいだい)の張盛(ちょうせい、生没不明)の墓の陪葬品より19路5星小型青磁盤出土しました。 随代(ずいだい)以降になると、「19路5星盤」に変化していますが、今から100年程前までの長い間、5星(花点)のままだったという。その碁法の様式は「互先事前置碁法」という、対局前に四隅の相対する星(4の四)に白黒各2子を交互に置き合い、そして、第1手は白石から打ち始めるものでした。

○ 囲碁の棋具(碁盤、碁石、碁笥、別称、中国、日本)

 碁盤(ごばん)、石(ごいし)、碁笥(ごけ、碁石の容器)などには、多彩な別称が与えられてきました。次のような代表的な言葉は、いずれも歴史を感じさせてくれます。

 碁盤(ごばん)の別称: (棊、棋)局(ききょく、碁盤、棋盤)、(棊、棋)枰(きへい、碁盤)、楸枰(しゅうへい、碁盤、碁局)、棋盤石(岩)、棊(棋)盤、など。 碁盤は、碁を打つのに用いる盤です。方形で四脚、表面に縦横各19条の罫線(けいせん)を引いて、361の目をつくったものです。

 碁盤は、木製では、鹿児島、宮崎、大分、岐阜、茨城、栃木、神奈川などの各県産の(かや)の柾目(まさめ、天柾)を上等としましす。そのほか、桂(かつら)などもよく用いられています。

 碁石(ごいしの別称: (棊、棋)子(きし、碁石)、弈子(えきし、碁石)、(棋、碁)子、(棋、碁)石、唐石、那智黒(なちぐろ)、日向蛤(ひゅうがはまぐり)、など。 碁石は、囲碁に用いる円形の小さい石です。標準碁石は、直径約2.2cmで、白黒2種があり、正式には白石180個、黒石181個です。

 白石は日向(ひゅうが、宮崎)の(はまぐり)の(から)で、黒石那智黒(なちぐろ、炭素を含む珪質頁岩(けいしつけつがん、粘板岩)、和歌山)でつくるのを上等とします。はまぐり碁石(歴史、原田清吉、日向、宮崎): http://www.city.hyuga.miyazaki.jp/goishi/goishi/index.html. 

 碁笥(ごけ)の別称: 棊子合子(きしごうし、碁石のふたのある器、はこ)、碁奩(ごげ、碁石のはこ)、碁(棊、棋)笥(ごけ、碁石を入れる円い器)、など。 碁笥は碁石を入れる円い器です。木製の碁笥は、栗(くり)のほか欅(けやき)、桑なども用いられています。

 現在、碁笥(木製)を生産しているのは群馬、広島、宮崎、石川県に各1社ほどです。なかでも金沢市に本社、穴水町(能登)に工場がある「谷口」は、1947年(昭和22年)創業、全国で生産される碁笥の60%を製造しています。(木製碁笥 穴水で6割生産 創業者の知恵 日本一導く、2010年(平成22年)10月21日(木)、北陸中日新聞、朝刊より) 欅工芸谷口(ホームページ、金沢):http://nttbj.itp.ne.jp/0762235451/index.html

○ 日本への伝来(5世紀頃、倭の国、日本)

 奈良時代の史書、古事記(こじき、712年(和銅5年)成立)には、「於能呂嶋(おのごろしま)」と、日本ではじめての文字が地名?の当て字として使われ、また、716年(霊亀2年)、常陸(ひたち)風土記(717~724,選進)、出雲(いずも)風土記(733年成立)には、碁石がとれる浜辺(玉江浜)の記述が見られます。また、唐(中国)の歴史書、隋唐・倭国伝(636年成立)には、「(倭の国人)棊博(きはく、囲碁)・握槊(あっさく、双六)・樗蒲(ちょぼ、博打)の戯を好む」と、日本での囲碁事情が書かれています。

 538年(宣化3年)頃、仏教が百済(朝鮮)より日本へ伝来しています(囲碁も伝来?)。 したがって、少なくとも6世紀、早くて5世紀頃には、囲碁が倭(わ)の国(日本)に伝わっていたとも考えられます。ということで、江戸時代(1603~1868)の記録に、吉備真備(きびのまきび、695~775)が遣唐使の一員として唐から囲碁を移入したとする説がありましたが、現在は否定されています。

 伝来ルートについては、641年、百済(くだら、朝鮮)の義慈王(ぎじおう、?~660,在位641~662、百済最後の王)から藤原鎌足(ふじわらのかまたり、614~669)あてに碁石撥鏤棊子(ぱちるのきし)と碁石入れ、銀平脱合子(ぎんへいだつのごうし)がられていたことが東大寺献物帳(国家珍宝帳)に記録されています。

 この時、木画紫壇棊局(もくがしたんのきょく)の碁盤一面は、専用の碁盤入れ、金銀亀甲龕(きんぎんきっこうのがん)に収められているので、3点セットが朝鮮から日本へ同時に贈(おく)られていました。ということで、日本への伝来としては、朝鮮から日本のほか、中国から朝鮮を経由して日本、中国から直接に日本、天仁(インド)からチベットを経て日本などのルートが考えられています。が、断定するに足りる資料や証拠はありません。

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碁盤木画紫檀棊局、もくがしたんのききょく、亀(スッポン)を象(かたど)った二つの引出しは、アゲハマ入れと考えられています、正倉院蔵奈良、google画像)

(解説) シルクロードの終着点、東大寺の正倉院(しょうそういん、756~758年建立、奈良)には、聖武天皇(しょうむてんのう、701~756)遺愛の棋具(木画紫檀棊局など)国宝の碁盤や碁石、碁笥など11点が1200年もの長い間、大切に保存されています。 

 私は、日本棋院、囲碁殿堂資料館には、これまで何度か足を運び、囲碁の歴史に関する展示物、資料など興味深く拝見し、いろいろご教示いただいたことがあります。

 私の郷里(上板、德島)の家には、榧(かや、柾目)の碁盤、黒(那智黒)と白(日向の蛤の殻)の碁石、栗製の碁笥があります。現在、わが家(桜田、金沢)では、もっぱら、桂(かつら、柾目)の碁盤、黒と白のガラス製の碁石、栗模様のプラスチックス製の碁笥を使っています。

(参考文献) 貝塚茂樹、藤野岩友、小野忍: 漢和中辞典、角川書店(1968); 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 水口藤雄: 囲碁大全、p.23~31、悠久の歴史、四千年のドラマを旅する、囲碁のルーツを探る、囲碁、日本へ渡来、日本経済新聞社(1996); 日本棋院編: 日本棋院創立80周年記念、囲碁雑学手帳、月刊碁ワールド1月号第2付録(2005); 永原慶二: 日本史辞典、岩波書店(1999); 囲碁の歴史、日本棋院80年の歩み: 日本棋院 囲碁殿堂資料館、囲碁殿堂(2004年11月15日開館、五番町、千代田区、東京)、ご案内、パンフレット、より.

(参考資料) 日本棋院(ホームページ、東京): http://www.nihonkiin.or.jp/. 日本棋院 囲碁殿堂資料館(5番町、千代田区、東京):http://www.nihonkiin.or.jp/igodendou/info.htm.

(追加説明) 

〇 日本の囲碁に関する地名には、碁盤坂(函館、北海道; 船井、京都)、碁石(字碁石、久慈、岩手; 柴田、宮城; 本荘、秋田; 南設楽、愛知; 船井、京都: 玉野、岡山)、碁点(村山、山形)、碁石沢(石岡、茨城)、碁石町(村山、新潟)、碁石村(氷見、富山; 羽咋、石川)、碁盤田(西加茂、愛知)、碁石鼻(福岡、福岡)、碁石ヶ森(野村、愛媛)、碁石婆(ごいしばえ、三瓶、愛媛)、碁盤石(字、名東、德島)、碁要(ごよう、三野、德島)などが見られます。 (水口藤雄編: 囲碁ゆかりの地名・寺社・石碑・扁額・石盤、囲碁大全、p.176~177、囲碁に関する地名より)

〇 蛙股と囲碁の彫刻

蛙股の囲碁の彫刻は、三嶋大社(三島市大宮町、静岡県)にも見られます。吉備真備が唐の名人と囲碁を打って勝ったときの様子を彫った物と言われ、この勝負に勝ったことよって、暦学の書を日本に持ち帰ることを許されたと伝えられています。三嶋神社(ホームページ): http://www.mishimataisha.or.jp/precinct/carve_h02.html

江戸時代の記録に、吉備真備が遣唐使の一員として唐から囲碁を移入したとする説があります。が、現在は否定されているようです。 

この囲碁の彫り物は、南宮大社(垂井、岐阜)の蟇股にも見られる。南宮大社(ホームぺージ) :https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&q=%e5%8d%97%e5%ae%ae%e5%a4%a7%e7%a4%be%ef%bc%88%e5%9e%82%e4%ba%95%ef%bc%89

 

2011年6月17日 (金)

イネ(稲)にまつわる歴史伝承、イネの起源、分類と品種、米の栄養成分、イネの生育と栽培、病虫害、収穫、米の生産と流通、とは(2011.6.17)

   (いね、イネ科、一年生作物)は、世界では、古くから栽培され、紀元前数千年すでに、インド、中国などで栽培されていました。日本へは、紀元前1世紀ごろ(縄文末期までに)まず北九州に伝えられ、以後次第に東に進み、北上したという。古くから年貢(ねんぐ)や小作料もおもに(こめ)で納められていました。

 は、イネの籾(もみ)から籾殻(もみがら)を除いた果実である玄米、および各種精白米強化米(ビタミンなどの栄養成分を加えた米)の総称です。 みのる(実る、稔る)は、広辞苑には、「稲がみのる」、実るほど頭(あたま)の下がる(頭(こうべ)を垂(た)れる、とも)稲穂(いなほ)かな、その意味は、学識(がくしき、学問や物事を正しく判断、評価する力)や徳行(とっこう、人のふみ行うべき道にかなったよい行い)が深まると、その人柄態度が謙虚(けんきょ、ひかえめで素直なこと)になることにたとえる、とあります。

○ 起源

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世界のお米の分布ジャポニカ種、ジャバニカ種、インデイカ種、google画像) 世界のお米の分布(ミツハシ・丸紅ライス(株)、東京): http://www.mmrice.jp/info/knowledge.html

(解説) インドから東南アジアの熱帯地方には、20数種のイネ属の野生種自生しています。イネの起源については、1種の野生種より生じたとする単元説と、2種以上の交雑を経て栽培イネになったとする多元説があります。 サチバ種は東南アジア起源で、現在、世界各地の熱帯、温帯で栽培されています。サチバ種には、籾(もみ)の丸くて短い日本型(ジャポニカ種)、細長いインド型(ジャバニカ種)、大粒のジャワ型(インデイカ種)の3亜種があります。また、グラベリマ種はアフリカ起源で、現在はアフリカの一部でわずかに栽培されています。

 細胞遺伝学的には、オリザ、サチバ、フォルマ、スポンタネア以外は、栽培イネに直接関係しないと言われています。イネ栽培の発祥地は現在のところ、東南アジアの熱帯から亜熱帯説が最も有力です。そこから、東アジア、西アジア、地中海沿岸、17世紀に新大陸に伝わったという。

 分類と品種

イネの品種は非常に多く、外米といわれ米粒が大形で細長く砕けやすいインド型と、丸く砕けにくくて粘りのある日本型に大別され、各々澱粉(でんぷん)の性質によってうるち)ともち、餅とも)があります。水の要求量により、水稲陸稲とがありますが、植物学的には同一です。

 また、成熟(せいじゅく、十分に実ること)が遅いか速いかによって、早稲(わせ、早生とも)、中稲(なかて、中手とも)、晩稲(おくて、晩生)があります。現在日本では、水稲日本型うるち米が全収穫量のほとんどを占めています。明治以後、品種改良により多くの品種が作られ、栽培限界が急速に北上し、北海道での栽培が可能となりました。現在は1000品種以上あります。 

 現在、作付け日本一はコシヒカリですが、ササニシキ、日本晴、あきたこまち、ひとめぼれなども人気が高い品種です。水稲の品種開発、2008年(平成20)年3月(農林水産省): http://www.komenet.jp/

○ 栄養成分 

日本産、うるち)米の各種栄養成分の含量は、ふつう玄米(カッコ内は白米)100g中、水分は15.5(15.5)g、糖質72.5(76.6)g、タンパク質7.4(6.2)g、脂質2.3(0.8)g、リン0.3(0.15)g、カルシウム10(6)mg、1.1(0.4)mg、ビタミンB1 0.36(0.09)mg、B2 0.1(0.03)mg、ニコチン酸4.5(1.4)mg、などです。精白度が高くなるにつれて糖質以外の栄養素は少なくなります。糯(もち)米は粳(うるち)米と比べて各栄養素の含有率はほぼ同じですが、形態上は一般に糯(もち)米のほうが透明度が低いです。

○ 生育と栽培

 イネ(稲)の栽培(稲作)は、北緯50°から南緯35°で行われ、大部分は東南アジアが主産地で、生産、消費されますが、米国、ブラジル、イタリア、メキシコ、スペインその他アジア以外でも生産されています。直接本田に種子をまく直播(じきまき)栽培は、一貫した機械化が可能で米国などでは広く行われていますが、日本では陸稲を除けば、非常に部分的です。

 日本では、イネの栽培(稲作)はほとんど水田で営まれ、細分化した耕地に多量の労働力と肥料を要しましたが、第2次大戦後は、土地改良、品種改良、農薬の普及、技術改善、機械の導入などで稲作投下の労働量はかなり減少しています。

生育段階 作業
 ↓
4月上旬種もみの準備 ①種もみの準備
 種もみを塩水につけて、選びます。塩水は真水に比べると種もみが沈みにくいので、中身のしっかりと詰まった重くてよい種もみを選ぶことができます。
 選んだ種もみは病気にかからないように消毒し、芽がでやすいように水に浸します。
種もみ選択
中旬
種まきの時期種まき②種まき
 育苗箱に肥料を加えた土を入れ、種もみをまき、うすく土をかぶせます。
 種もみを直接田んぼにまく直まき栽培も一部にありますが、多くは種もみから芽や根が出て10数cmほどに育てた苗を田んぼに植えるのが一般的です。
播種機
下旬
苗を育てる時期育苗
育苗
③育苗
 種もみをまいた育苗箱を、育苗ハウスで育てます。じょうぶな苗が育つよう温度に気をつけたり水をかけてやります。
田起こし 代かき
5月上旬
④田起こし・代かき
 肥料と土がよくまざるように、また、土がやわらかくなるよう田起こしをします。田起こしは前の年の稲わらや稲かぶを分解しやすくする効果もあります。
 また、田植えの前には田んぼに水を入れ、代かきをします。代かきは、田んぼの水もれを防いだり、水の深さにむらがでないようにしたり、そして、苗が同じ深さに植えられるようにするためです。
田起こし
中旬
田植えの時期田植え
田植機
⑤田植え
 田植えは一定間隔に苗を数本(3~5本)ずつ植える作業です。
 写真の田植え機は苗を植えると同時に肥料もまけるようになっています。機械で植えられなかった所は人の手で植えます。田植えのあとの天気がいいと苗の根付きも早くなります。
 都道府県別の田植えの最盛期
田植えの最盛期
下旬
稲が根付く時期
草取り 草刈り ■ 防除
◆田植え時期の違い
 田植えの最盛期とは、県内の半分以上で田植えが済んだ時期をいい、上の図は平成15年から19年までの5年間の平均値により色分けをしました。
       全国で田植えの最盛期が最も早いのは沖縄県で3月5日、最も遅いのは佐賀県の6月20日となっています。全国的にみると、北が早く、南が遅くなっています。これは、稲の品種による違い(寒地には早生種が多く、暖地には晩生種が多い)や、南では麦の刈取り後に田植えを行う二毛作が多いことなどの理由によります。
 なお、早期栽培と普通期栽培が行われている徳島県、高知県、宮崎県及び鹿児島県は普通期栽培を、二期作(同じ水田で年二回、水稲生産を行うこと)が行われている沖縄県は一期作をとりました。
6月上旬
茎が増える時期
中旬
草取り
⑥草取り・草刈り
 稲が良く育つように田んぼの雑草をとります。除草剤という薬剤を使うので、最近は人の手で草取りをすることも少なくなりました。畦(あぜ)の草は害虫のすみかになるので、こまめに草を刈って害虫の発生を予防します。
下旬
7月上旬 いもち病
⑦防除
 稲も病気にかかりますが、最も恐ろしいのは「いもち病」という病気です。また、ウンカやカメムシなどの害虫も、おいしい稲をねらっています。薬剤を散布してこれらを防除します。
中干し
穂や花粉ができる時期
中旬
⑧中干し
 茎の増える時期が終わると田んぼの水をぬいて土をかわかします。これを「中干し」といいます。中干しは、空気中の酸素を土の中に取り入れ、根をしっかり張らせるために行います。また、稲の生育を調整したり、田んぼの土をかたくして秋の稲刈り作業をしやすくする効果もあります。
中干し
下旬
8月上旬
稲の花が咲き稲に実がはいる時期
出穂と開花
中旬出穂  茎の中から穂が出ることを「出穂(しゅっすい)」といいます。この前後の時期の気象条件の良否が収穫量に大きく影響します。
下旬
9月上旬開花
 稲もほかの植物と同じように花を咲かせますが、その時間はわずか2時間ほどしかありません。
 右の写真は稲の花です。伸びているのがおしべです。
中旬
下旬稲刈り時期稲刈り 脱穀 コンバイン
⑨稲刈り・脱穀
 いよいよ稲刈りです。
 最近はコンバインを使う農家がほとんどです。刈り取りと同時に脱穀までしてくれます。機械化が進んで作業はずいぶん楽になりました。
乾燥 もみすり
 都道府県別の稲刈りの最盛期
田植えの最盛期
◆稲刈り時期の違い
 稲刈りの最盛期は、県内の半分以上で稲刈りが済んだ時期をいい、上の図は平成15年から19年までの5年間の平均値により色分けをしました。
       全国で稲刈りの最盛期が最も早いのは沖縄県で6月27日、最も遅いのは群馬県の10月16日となっています。田植えの時期や品種の違いによって、稲刈りの時期も違ってきます。
 なお、早期栽培と普通期栽培が行われている徳島県、高知県、宮崎県及び鹿児島県は普通期栽培を、二期作が行われている沖縄県は一期作をとりました。
乾燥・もみすり
⑩乾燥・もみすり
 稲刈りのあともみを乾燥させ、もみがらをとり、玄米にします。最近は、カントリーエレベーターという施設に乾燥から出荷までをまかせる農家も増えています。
カントリーエレベーター
もみから白米
もみ もみすり(右矢) 玄米 精米(右矢) 白米
もみ・名 玄米・名 白米・名
 稲からとった実が「もみ」です。
 これが種もみになります。
 もみすりして、もみからもみがらをとったものが「玄米(げんまい)」です。
 玄米のかたちで取り引きされています。
 精米して、玄米からぬか(はいや種皮)をとったものが「白米(はくまい)」です。
 私たちがお店で買うのが白米です。これをごはんにして食べます。

イネ(稲)の生育と栽培(米作り、米はどうやって作られているのか、農林水産省、google画像)   米のできるまで(統計部、農林水産省): http://www.toukei.maff.go.jp/dijest/kome/kome05/kome05.html

(解説) 日本の場合、水稲では一般に苗代(なわしろ)に種子をまき、約40日後に田植をします。田植に先立ち本田耕起(こうき、水田を耕す)、代掻(しろかき、牛や馬が引きずるくわ、トラックターなどで水田の土をかきならす)を行います。なお従来は田植後数回、中耕除草が行われましたが、除草剤の進歩と中耕の効果が疑問視されたため、今日ではほとんど行われていません。最近では、田植機により苗を植えると同時に肥料もまけるようになっています。

 イネ(稲)は基部で多数にに分かれ(分けつ)束生し、1メートル内外に生長します。草丈は、改良種では1mを超えず、茎の内部は中空で数個の節があります。は長線形で、葉身と葉鞘(ようしょう、葉の下部が鞘、さや、状)とからなり互生(ごせい、葉が交互に一枚ずつ方向を異にしていること)します。

  田植後約30日での生長点が分化し、葉鞘(ようしょう)に包まれた初穂ができ、さらに約30日後に出穂(しゅっすい)します。出穂前25日くらいに硫安などの窒素肥料を追肥します。には100個内外の小花がつき、雄しべ6本、雌しべ1本、柱頭は羽毛状で二つに分かれます。出穂当日または翌日、午前中に開花、自家受粉し、種子は開花後30~40日、秋に完熟(かんじゅく)します。

○ 病虫害

イネ(稲)の病気の大部分は糸状菌の寄生によるものです。いもち病、萎縮病(いしゅくびょう)、菌核病(きんかくびょう)など数十種が知られているが、特に全国的に被害の大きいのは、いもち病である。これらの病気に対しては、抵抗性の強い品種の選択、適切な農薬による防除、ウンカ類などの媒介昆虫の駆除が必要です。イネ(稲)の害虫は、特に被害の大きいニカメイチュウ、サンカメイチュウ、ウンカ類のほか、イネドロオイムシ、イネハモグリバエ、イネカメムシ、イネヨトウなど120種以上が知られています。いずれも適当な殺虫剤により駆除が可能です。

○ 収穫

日本では1970年現在、水稲陸稲の合計で作付面積は約292万ヘクタール、収穫量は約1269万トンです。作付面積の約97%は水稲で、刈り取りは従来の鎌(かま)によるものから、人力、動力刈取機へと進歩し、米国で行われているコンバイン(刈取りと脱穀)も導入されつつありました。刈った穂は束にして稲掛に掛けえ乾燥し、脱穀後、籾摺(もみすり)機にかけて玄米にし、出荷や貯蔵するのが普通でした。

 最近は、コンバイン(稲刈り、籾の乾燥、籾殻を取り除き玄米とする)を使う農家がほとんどで、さらにカントリーエレベーター(大型乾燥機と温度と湿度を管理した貯蔵庫のサイロタワーをエレベーターでつないだ大型倉庫)という施設に、乾燥から出荷(籾をすり玄米にして全国各地に送る)までをまかせる農家が増えています。

 なお中国南部などでは同一の田で年2回イネを栽培、収穫します。これを二期作といいます。日本では一毛作にせよ二毛作にせよ、年1回栽培、収穫するのが普通ですが、四国南部高知では二期作が行われています。 

○ 生産と流通

 米(こめ)は、古くは「晴」の日の食物に用いられ、主食として普遍化したのは比較的に新しい。明治以後、主食品中に占める割合が高くなり、現在の食生活変貌(へんぼう)の過程にもなお第1位の主食です。しかし、酒、みそ、醤油、菓子などの原料としての消費も増加しています。

 1968年の世界総生産量は28351万トン(籾、もみ)、日本の輸出量は小麦に比して少なく約700万トン(精米)で、この頃はタイ、ビルマ、米国、アラブ連合大輸出国でした。日本は耕地面積328万ヘクタール、生産量1877万トン(籾、もみ)、輸入量は27万トン(精米)でした。1969年(昭和44年)、流通に政府が関与しない自主流通米の制度が導入され、1992年(平成4年)、食糧管理制度撤廃されました。そして、1993年(平成5年)、ウルグアイ・ラウンド交渉で、米の市場開放が決まり、農民は、休耕や他の農作物への転換を余儀なくされました。農林水産省(参考になるホームページ、イネ・コメ・田んぼ含む): http://www.maff.go.jp/j/agri_school/a_zyoho/sanko.html#01

  現在、世界米生産量は、中国(31%)が最大で、以下、インド(22%)、インドネシア(9%)、バングラデシュ(7%)、ベトナム(5%)、タイ(4%)、ミャンマー(ビルマ、2%)、フィリピン(2%)、ブラジル(1.9%)、日本(1.7%)、米国(1.7%)、パキスタン(1.4%)などの順となっています。 世界米生産量(NOCS!公式サイト、USDA,米農務省、2010年8月発表資料) : http://nocs.myvnc.com/study/geo/rice.htm

 私が小学生の戦後まもなくの頃は、郷里(引野、松島、のち上板、德島)の自宅近くの東、西北の畑では陸稲、大麦、小麦、粟(あわ)、タカキビ、コキビ、トウモロコシ(ナンバ)のほか、サトウキビ、サツマイモ、サトイモ、ジャガイモ、タマネギ、ネブカ、ワケギ、ラッキョウ、大根、カブラ、白菜、キャベツ(玉菜)、菜の花(アブラナ、ナタネ)、ゴマ、フキ、ゴボウ、ニンジン、コンニャク玉、ホウレンソウ、春菊(シュンギク)、アカジソ、アオジソ、ニラ、パセリ、落花生(ソコマメ)、カボチャ、大豆、ソラマメ、エンドウ、アズキ、ササゲ、インゲンマメ、枝豆(アゼマメ)、ショウガ、ミョウガ、トウガラシ、ピーマン、トマト、キュウリ、スイカ、キンウリ、マクワウリ、カンピョウ、クサイチゴ(フウユウ柿の木の下の周辺)、ウド、タバコ、ワタ(綿花)、桑、茶、柿、桃、など、近くの西の田畑では水稲と大麦の二毛作、遠くの南の田では湿地であり水稲のみを栽培していました。梅雨前の4~5月頃、水田で綱(つな)を張り、長方形の木枠(きわく)などを使い、手で苗を植えていました。が、しばしば水田のヒル(蛭)が足に吸いつき、取り除くと真っ赤に出血したことがありました。

 また、田の草を手で、あるいは手押しの草取り機、八反ずり(田すりとも)などで取り除き、水の管理(溜池と用水、野井戸、バケツつき鎖の滑車、ポンプつき発動機など)、稲刈り、ハデかけ(乾燥)、リヤカーによる稲束の自宅の庭への運搬などの手伝いをしました。米と麦の最終の脱穀作業は、農協から借りた機械(井関農機、松山、愛媛など)を使い、順番に各家を回り、地域ごと(隣組)の協同作業で行われていました。作業後、自宅周辺の黄色に熟して甘い大きなタナカビワ、小ビワなどみんなで一緒に食べていたのを覚えています。

 春先、田んぼには、田起こし前に、緑肥として、レンゲ(蓮華)が植えられていて、きれいな赤紫の花が咲いていたのを覚えています。また、家の近くの水田には、よく鯉(こい)を放して(草取り?)いました。が、台風の頃には田の水があふれ、かなりの鯉がいなくなっていました。大きくなった赤鯉(あかごい)は自宅の井戸に放し飼いしていました。その頃は、水田のタニシ(田螺)をバケツに一杯になるほど取り、甘辛く煮て食たのが懐かしく思い出されます。

(参考文献) 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991).

2011年6月13日 (月)

落葉低木、アジサイ(紫陽花)にまつわる歴史伝承、アジサイの名前(由来)、アジサイの花(咲き型)、アジサイの花の色(七変化)、とは(2011.6.13)

   アジサイ(落葉低木、高さ1~2m、ユキノシタ科は、紫陽花と書くため、中国からの渡来種に見えますが、日本の自生種です。ガクアジサイ(額紫陽花、アジサイの母種)の改良種とされています。その代表がヤマアジサイ(山紫陽花、サワアジサイとも、山の中に自生)、また、花祭の甘茶をとるアマチャ(甘茶、アジサイの変種)の木も、ヤマアジサイの一種で、4月8日の灌仏会(かんぶつえ)に甘露になぞらえて用い、また硯(すずり)に入れてすれば書が上達するという。

○ アジサイの名前の由来(集真藍、あずさあい)

 アジサイは、すでに、奈良時代、「万葉集(まんようしゅう)」にも歌われていて、「安治佐為」、「味狭藍」、「集真藍」など、表記されていました。まだ、「額ぶち型」の花だったので、真藍(あお)い花を集(あつ)めるという意味の「集真藍、あずさあい」がその名の由来という。その後、中国で似た花に「紫陽花」の文字を当てているのを知った人が、手まり咲きの花に「紫陽花」とつけたという。そして、現代になり、牧野富太郎(まきのとみたろう、1862~1957)博士は、ガクアジサイは日本固有の草だから。「紫陽花」は誤りと主張しました。 牧野植物園(ホームページ、高知): http://www.makino.or.jp/

○ アジサイの花の咲き型(額ぶち咲き、手まり咲き)

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ガクアジサイ額紫陽花額ぶち咲き型、アジサイの母種google画像

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アジサイ紫陽花、手まり咲き型、アジサイの変種google画像

(解説) アジサイの花には、「額ぶち咲き型」と「手まり咲き型」があります。「額ぶち咲き型」は、ガクアジサイ、タマアジサイ、ヤマアジサイ、エゾアジサイの標準型の花です。花の中心部に小さな両性花(雄花、雌花があり結実する)があり、周辺部に4弁の装飾花(雌雄花なく結実しない、花弁状のがくのみ)がいくつか付きます。装飾花を額縁(がくぶち)と見なし、「額ぶち咲き型」と呼びました。

 一方、よく目につくアジサイの花は、全ての花が装飾花無性花)で、半球形になった「手まり咲き型」です。花弁状に見えるのは、全てがくです。がくは葉の一種ですので、花弁のように散ることはありません。花が咲いた後、花弁状のがくは、反転し、次第に緑がかってきます。そして、冬になっても、がくは残っています。この品種は江戸時代後期に広がったガクアジサイの変種ですが、アジサイといえば、この花を指すようになりました。

○ アジサイの花の色、七変化

 アジサイ花の色は、発色の色素及び補助色素、、土壌のpHアルミニウム量(一般に酸性では、アルミニウムイオンがアジサイの根から吸されやすくなり変、またアルカリ性では、アルミニウムイオンが吸収されにくくなるので変するという)、開花からの日数などにより、様々に変化するという。

 花の色は、クロロフィルの葉緑素、マグネシウムポルフィリン化合物)、カロチノイド((カロテノイドとも、黄、橙、赤、紫のポリエン色素、カロチン(カロテンとも)、キサントフィル)、フラボン白、黄色、無色の色素、ポリフェノールの一種、配糖体)などで構成されています。

 まずクロロフィルが色あせるとカロチノイドが目立ってきます。つぎにカロチノイドも分解し、フラボンが強くなり、見た目にくなります。この頃、光合成によって葉が作った糖分が花の方にまわってくるので、アントシアニン赤、青、紫、紫黒の色素、ポリフェノールの一種、配糖体)に変わり、そのあと胞液の酸でマグネシウムが分解し、カリウムが結合してに変化するという。

 このようにして、アジサイの花は、緑、黄、青、赤、紫の順に変化します。この変化から「七変化(しちへんげ)」の名もあり、また、「移り気」の花言葉が生まれ、パリではお針子(おはりこ、雇われて針仕事をする女)のペット・ネームとなりました。イペット・ジローのデビュー曲は、このお針子を歌った「あじさい娘」である。

 アジサイは、日本では梅雨の時期(6~7月頃)を色どる代表的な花であり、にも「つゆ空ゆ 陽はさしにけり  てまりなす あじさいの花の色にいでつつ」(香取秀真、かとりほつま、1874~1954)などがあり、また古くより、を乾かし、煎じて飲むと、解熱薬となり、は瘧(おこり、マラリア)の治療薬用にもなるといわれ、重宝されました。が、アジサイは毒性(青酸配糖体?)があり、中毒を起こすので注意を要します。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991): 樋口清之: 生活歳時記、p.325、アジサイの花言葉「移り気」、三宝出版(1994); 大木、大沢、田中、千原編: 化学辞典、東京化学同人(1994); 高橋勝雄(写真、解説): 野草の名前(夏)、和名の由来と見分け方、山と渓谷社(2003).

(参考資料) ガクアジサイ(画像検索、google画像): http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AC%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=FA_ZTYXxHI2GvAPR2bmvBw&ved=0CEMQsAQ&biw=1004&bih=548

アジサイ( 画像検索、google画像): http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%B5%E3%82%A4&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivnsl&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=7xDZTZeTO42qvQPP8onGBw&ved=0CD8QsAQ&biw=1004&bih=548

2011年6月10日 (金)

ウラン(天王星の名に由来)、原子力(核エネルギーの利用と問題)、放射能(人体と生命への影響)、私の体験(放射性トレーサーによる溶媒抽出の研究)、とは(2011.6.10)

   1789年、M. H. Klaproth(M. H. クラプロート、1743~1817、ドイツ)は、Saxony(ザクセン、ドイツ)地方産のピッチブレンド(閃ウラン鉱)から新元素(のちウラン酸化物と判明!)を発見し、1781年、F. W. Herschel(F. W. ハーシェル、1738~1822、ドイツ生まれ、イギリス)が発見した新惑星、Uranus(ウラヌス天王星)にちなんでウラン命名しました。

○ 原子力(核エネルギーの利用と問題)

 原子核分裂(げんしかくぶんれつ)は、ウラン、トリウム、プルトニウムなどの重い原子核が、中性子などの照射によってほぼ同程度の大きさの2個の原子核に分裂する現象で、1938年、Otto Hahn(オットーハーン、1879~1968、ドイツ)らが発見しました。この際、大きなエネルギーの放出を伴い、これを用いて原子爆弾原子力発電が開発されました。

 1945年7月、人類初の核実験がアラモゴード(ニューメキシコ、米国)で成功し、J. R. Oppenheimer(J. R. オッペンハイマー、1904~1967、米国)は、実験責任者でしたが、広島(ウラン爆弾)、長崎(プルトニウム爆弾)への原爆投下後、「科学者は罪を知った」と語ったという。

 原子力発電は、化石燃料を利用する火力発電での問題、燃料の燃焼によって二酸化炭素や硫黄酸化物などの地球環境に影響を与える排ガスを生じず、また、他のいろいろなエネルギーに少ない損失で変えることができるというすぐれた性質をもっています。しかし、原子炉の核燃料の中には、核分裂によって生じた有害な放射性物質蓄積さtれます。放射性物質が外部に洩(も)れると環境汚染をひき起こすことが考えられるので、使用済の燃料をいかに安全に長期間管理するかという問題を抱えています

 1979年3月28日、スリーマイル島(ペンシルバニア、米国)での炉心熔融(メルトダウン)による放射性物質(希ガスのキセノン、ヨウ素)の放出(水素爆発は起こらず、セシウムの放出は確認されていない)、1986年4月26日、チェルノブイリ(ソ連、のちウクライナ)での炉心が直接大気に露出し、約10日間、大量の放射性物質(希ガスのキセノン、ヨウ素、セシウム、ストロンチウムなど)放出などの原子力発電所大事故がありました。

 一方、福島(日本)の場合は、2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災のとき起きた、東京電力福島第一原発での炉心熔融(メルトダウン)から炉心貫通(メルトスルー)、水素爆発による放射性物質(希ガスのキセノン、ヨウ素、セシウム、ストロンチウム、コバルト、テルル、プルトニウムも確認!など)放出の大事故ですが、今なお解決の先が見えない深刻な状態です。 

 2000年4月、事故14年目の追悼式で、ロシア副首相は、チェルノブイル事故当時の現場処理に携わった86万人の作業員の内、5万5千人以上が亡くなった事実を明らかにしました。2005年には、ロシアの社会保険発展相が、この事故で健康を害した人は、ロシアで145万人であると述べています。2006年4月現在、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの健康被害者は700万人とされています。

 なかでも、これらの国の子供たちの白血病甲状腺障害は悲惨なものです。また、事故後に生まれた18才以下の子供たちのなかで、体内被ばくによって健康を害している人は22万6千人いるという。被害は年を経るにつれて大きくなるであろうし、そのうちに肝臓ガンなどの晩発性のガン患者があらわれるであろう。ーーーーーー

 国や電力会社は何を考えているのだろうか。自分たちが、今、よければ私たちの子孫はどんなに苦しんでもよいというのだろうか? 皆さん、どうぞ放射能の恐ろしさをお友達に、家族に話していただきたい。人類は滅亡するかも知れないのだ。

 私たちは節約をして生きなければならない。特に電気は節約しなければならない。力を合わせて、地球を守ろうではないか!(いのちと放射能(ちくま文庫)、文庫版への長いあとがき、2007年8月15日 柳澤桂子、より)

 使用済み核燃料(再処理と保管の政策)

 日本では、使用済み燃料の再処理ができないので、イギリスとフランスに頼んで再処理してもらっていました。が、もう再処理してくれないばかりか、残っている使用済み燃料を返してきました。そこで、下北半島、六ヶ所村(青森)にフランスの技術を採用して再処理工場をつくり、使用済み燃料を再処理して、プルトニウムを取り出す計画が立てられました。

 再処理工場というのは、使用済み燃料を切り刻んで、硝酸溶液のなかに溶かして、使用済み燃料の中にあるウラン(94%)、プルトニウム(1%)、核分裂生成物(5%)を分けて取り出すための施設です。

 セラフィールド(イギリス)の再処理工場からの放射性セシウム-137の放出により、ヨーロッパ周辺の海域において、表面海水の放射性セシウムによる汚染が起こりました。周辺諸国からの抗議もあり、現在は放射能の放出が大幅に減少しています。 また、セラフィールド(イギリス)とラ・アーグ(フランス)の再処理工場付近では高率な白血病の発生が、政府によって確認されているという。

 イギリスとフランスで再処理され副生する高レベルガラス固化体は、日本に返還され、現在、六ヶ所再処理工場で保管されています。このガラス固化体の側に立つと数秒で死亡するとのこと、40年ほど冷却したのち、地下深く埋めてしまおうとしています。これは、数万年、生命環境から隔離しなければなりません。

 一方、米国、カナダ、北欧、ドイツでは、使用済み燃料を再処理せず、そのまま保管する政策をとっています。この方式でも使用済み燃料を数万年の間、管理しなければなりません。が、再処理して環境を汚染するよりはまだましな選択です。完全な埋め捨てにはせず、科学技術の進歩を待ち、その時点で取り出し再利用も可能にしておくようです。

 ところで、日本の再処理工場、原子力発電所などの排気筒では、空中に大量の放射性希ガス、Kr(クリプトン)ー85、放射性炭素、C(炭素)-14などが放出され、また、海洋放出口では、沖合3km、水深44mから使用済み燃料のトリチウムなどのいろいろな放射性廃液が放出されています。

 これは、国の放射能規制法が余りに非現実的なものであり、この「国による不法行為」には、原子力(核燃料サイクル)を最優先させる国のエネルギー政策、その背景には、大規模予算に群がる官僚、政治家、電気事業者、大企業の緊密な利権関係が挙げられています。 (2007年8月、柳澤桂子: いのちと放射能(ちくま文庫)、 解説、永田文夫(三陸の海を放射能から守る岩手の会 世話人)、より).

 また、高木仁三郎(たかぎじんざぶろう、1938~2000)核化学者は、著書の中で、原子力の歴史の総括として、「このへんで核の時代に終止符を打ち、現存する核兵器やプルトニウムや放射性廃棄物を、知恵を合わせて厳格に管理していくことに努め、より平和で安全なものへと文明を転換していく努力をすれば、まだ間に合うと思うのです。

 ーーーー、日本でも、その方向にもっと大胆に踏み出すことが望まれます。大事なことは、私たちが未来を自分の手にすることができると、希望を持ち続けることでしょう。開けてしまったパンドラの箱を閉じることはできないでしょうが、その中に残った「希望」を取り出し、育てていくことはできるのではないでしょうか」と訴えておられます。 (2000年7月、高木仁三郎: 原子力の神話からの解放(講談社)、パンドラの箱は閉じることはできるのかー結びに代えて、より)

○ 放射線(医学、農業、工業、考古学、トレーサー法への利用)

  原子核の崩壊によって出る放射線には、物質を突き抜ける能力(透過力)の小さい順に、α線(アルファ線、ヘリウムの原子核の流れ)、β線(ベータ線、高速の電子の流れ)、γ線(ガンマ線、非常に波長の短い電磁波)などがあります。これらの放射線を放出する性質を放射能(ほうしゃのう)といい、いずれも気体を電離(物質中の原子から電子を引きはがしてイオンをつくること)し、写真作用、蛍光作用を示します。

 放射能をもつ原子核が崩壊によって初めの数の半分になるまでの時間半減期(はんげんき)という。 放射性元素半減期は、(ウラン)-239は23.5分、(ヨウ素)-131は8.04日、Sr(ストロンチウム)-89は50.5日、Cs(セシウム)-134は2.06年、Kr(クリプトン)-85は10.7年、Sr(ストロンチウム)-90は28.8年、Te(テルル)ー132は3.20日、Pu(プルトニウム)ー239は2.41×10の4乗年、(カリウム)-40は1.28×10の9乗年、(ウラン)-238は4.47×10の9乗年、Th(トリウム)-232は1.41×10の10乗年などです。

 放射線は、医学では、病気の診断やがんの治療、農業では、突然変異を起こさせて植物を品種改良したり、食品保存のために発芽をおさえたりするのに利用されています。工業では、ジェットエンジンなどの非破壊検査(対象を壊さずに内部を調べること)、プラスチックの強度や耐熱性の向上、医療器具の減菌などに使われています。考古学では、微量な放射線を出す元素の分析を利用して年代測定を行っています。また、植物などに微量の放射性同位体を注入することにより、生体内での元素の動きや化学反応のしくみを調べることができます。このような放射性同位体の利用法をトレーサー法といい、農学、医学、工業などで広く用いられています。

 放射能(人体と生命への影響)

 2005年(平成17年)6月、米国科学アカデミーは「放射能の被ばくには、これ以下なら安全と言える量はない」ことを、大規模疫学(えきがく)調査に基づき公表しました。

 柳澤桂子(やなぎさわけいこ、1938~ )、生命科学者によれば、「少量の放射線でも危険!放射能の生命への作用については、細胞分裂中DNA複製されるとき最も放射線に弱く傷つきやすいということ、細胞分裂が盛んな胎児子ども最も被害を受けやすいこと、また放射能の種類によっては、体内に入ると、(ヨウ素)-131は甲状腺Sr(ストロンチウム)-90はなど特定の臓器に集まり、被ばくされます」とのことです。また、放射性Cs(セシウム)ー137は全身に、のち数ヶ月で尿中に排出され、放射性希ガスのKr(クリプトン)-85は吸い込んでも、血液と循環し、呼気として排出されるという。

 人間が大量の放射線を浴びると吐き気、嘔吐(おうと)、下痢(げり)や神経症状などの急性放射線障害を起こし、ひどい場合には死に至ります。また、急性障害が起こらない量の放射線でも、浴びた放射線の量に応じて、後になってがん遺伝子障害を発病する危険が増えると考えられています。

○ 私の体験(放射性トレーサーによる溶媒抽出の研究)

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京都大学放射性同位元素総合センター、1961年(昭和36年)当時の分館(京都大学化学研究所、放射性同位元素総合研究室) 京都大学放射性同位元素総合センター(ホームページ): http://www.rirc.kyoto-u.ac.jp/

 私は、1964年(昭和39年)、京都大学大学院(理学研究科化学専攻、放射化学研究室、修士課程)の学生の頃、北部構内(追分町、北白川、左京区)の京都大学化学研究所、放射性同位元素総合研究室(1971年、昭和46年より京都大学放射性同位元素総合センター、2011年、平成23年より京都大学 環境安全保健機構へ)で、はじめて、放射性トレーサーとして、Eu(ユーロピウム)ー152(半減期13.5年),ー154(半減期8.59年)を用い、β・ジケトン(ベンゾイルトリフルオロアセトン)による希土類元素(ユーロピウム)の溶媒抽出における酸素および窒素原子含有溶媒の協同効果を研究したことがあります。

 実験室に入室したとき、白衣姿の重松恒信(1916~2003)先生が大きなビーカーの中の溶液をガラス棒で攪拌(かくはん)しておられましたが、それはウラン溶液ということで強く印象に残っています。

T. Shigematsu(重松), T. Tabushi(田伏), M. Matsui(松井), T. Honjo(本浄): The Solvent Extraction of Europium Ions with Benzoyltrifluoroacetone. The Synergistic Effect of Oxygen- and Nitrogen-containing Solvents, Bull. Chem. Soc. Jpn(日本化学会欧文誌).,39(巻), 165-169(ページ)(1966). 

 論文リスト(1957~1979、重松恒信教授): http://inter3.kuicr.kyoto-u.ac.jp/publications/pub1957-1979_J.html

 放射性物質を扱うということで、病院のような雰囲気の実験室への入退室のとき、スリッパを履きかえ、白衣も着替え、放射能汚染をチェックしました。実験台の上には、片面がビニールあるいはポリエチレンシートの防水した濾紙(ろし)を敷き、ビニールあるいはゴム手袋をはめ、実験しました。

 抽出分液漏斗(ぶんえきろうと)中の水溶液と有機溶媒中の希土類元素(ユーロピウム)の放射能は、安全ピペッターを用いて、それぞれの溶液の一定量をガラス試験管に採取し、NaI(ヨウ化ナトリウム、Tl、タリウム)シンチレーションカウンターでγ(ガンマ)線を計数し、抽出率を算出、ユーロピウムの抽出挙動を調べました。

 小さなガラスビンに入ったユーロピウムの高放射性原液(オークリッジ・ナショナルラボラトリー、テネシー、米国)は、鉛ブロックで囲まれた鉛の容器内に貯蔵されていて、1分間に数十万カウント程度の強さの量を注射針で採取し、実験のとき数万カウントになるよう酸でうすめて使用しました。

 実験廃液は、水溶液と有機溶液に分けてポリ容器に入れて保管し、また濾紙やペーパータオルなどの紙類はビニールの袋に入れ、放射性物質の管理規則に従い処理されました。ガラス器具は塩酸あるいは硝酸溶液に浸した後、水道水、蒸留水で順次洗浄し、自然乾燥あるいは電気乾燥しました。

 実験室には、手で持ってγ(ガンマ)線を測定できる、GM(ガイガーミューラー)カウンターが置いてあって、放射能汚染をチェックしました。水溶液中の水素イオン濃度を測定する日立・堀場pHメーターのガラス電極に放射性物質が塩酸あるいは硝酸で洗浄しても落ちないほど強く吸着していて、GM(ガイガーミューラー)カウンターの針が大きく振れて驚いたことを覚えています。

  実験中は必ず白衣にフイルムバッチをつけ、定期的に放射能の被ばくをチェックし、大学の保健管理センターでは血液検査を受け、徹底的な健康管理が行われていました。

 また、京都大学原子炉実験所(熊取、泉南、大阪)に、1964年(昭和39年)頃、はじめて、指導を受けていた田伏先生と訪れ、筒井先生、東村先生、岩田先生による管理の研究施設を見学し、会議にもオブザーバーとして出席しました。その後、トレーサー実験のため、原子炉の熱中性子による希土類元素(Nd、Tb,Lu)酸化物の照射の時、また、ずっと後、金沢に来てから小山先生主催の研究報告会の時など、何度か訪れたことがあります。

 1963年(昭和38年)、初代所長として木村毅一教授(1904~1992)が就任され、1968年(昭和43年)、京都大学本部近くの教室で研究の想い出話を交えた定年退官の最終講義をされることになり、私も研究仲間にさそわれて拝聴したのですが、真ん前の席で湯川秀樹教授(1907~1981)が静かにうなずきながら聞いておられ、講義を終えた木村教授が涙を流さんばかりに感激しておられたのが印象に残っています。

 京都大学原子炉実験所記念碑には、木村教授の言葉、「凡てのことは、今ここにこめられてあり、今ここはおのずからある」が刻まれています。仏教雑誌で見た「一切」を、「凡て」に替えた言葉という。京都大学原子炉実験所(ホ-ムページ): http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/

(参考文献) E. Peligot: Ann, Chim. Phys., (3) 5, 5~47(1842);  本浄高治: 無機化合物の有機溶媒への抽出の歴史、1842~1941、化学史研究、第16号、p.22~27(1981); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 太田次郎、山崎和夫編(太田、山崎、磯崎、植松、江里口、西田、福岡、本浄、増沢、本川、山崎、山本ほか13名): Science、高等学校 理科総合A(改訂版)、物質とエネルギー、啓林館(2005); 柳澤桂子: いのちと放射能、ちくま文庫(2007); 高木仁三郎: 原子力神話からの解放ー日本を滅ぼす九つの呪縛、講談社(2011).

(参考資料) ウランの科学的歴史(ウランガラス同好会): http://uranglass.gooside.com/UranHistory/UranHistory.htm

(追加説明) ○ ウラン元素の発見者、M. H. Klaproth(M. H. クラプロート)は、天然産の黄色酸化物を炭素で還元して黒色の金属性物質を得て、これをウランの金属だと考えました。その後、約50年間、それを疑う人は誰もいなかったのですが、1841年E. M. Peligot(E. M. ペリゴー、1811~1890、フランス)が無水四塩化ウランを金属カリウムで還元し、金属ウランの単離(たんり)にはじめて成功し、M. H. Klaproth(クラプロート)が得たものはウランの酸化物UO2であることを明らかにしました。したがって、E. M. Peligot(ペリゴー)こそ近代ウラン化学のパイオニアーと考えられます。

 ウラン鉱物放射線は、1897年、A. H. Becquerel(A. H. ベクレル、1852~1908、フランス)によって発見されました。その翌年、1898年、Pierre ・Curie(ピエール・キュリー、1859~1906、フランス)、Marie・ Curie(マリ・キュリー、1867~1934、ポーランド生まれ、フランス)夫妻は、ヨアヒムスタール鉱山(チェコスロバキア)で得たウラン鉱石からラジウムポロニウム抽出成功し、自然に放射性壊変を起こす元素の存在が世界で初めて明らかにされました。 

○ 放射能をもつ放射性元素として、天然に存在するものはウラン系列、アクチニウム系列、トリウム系列の諸元素があります。また、人工的につくられるネプツニウム系列の元素もこれに属します。なお、超ウラン元素はすべて人工放射性元素です。

 超ウラン元素(ネプチニウム、プルトニウム)の命名は、ウランにおけるウラヌス(天王星)と同じように、その当時発見された新惑星名にちなんで、ネプチニウムはNeptune(ネプチューン、海王星)、プルトニウムはPluto(プルトー、冥王星)が当てられました。これらの元素は、1940年、ウランに中性子をぶつけてつくり出された最初の超ウラン元素で、E. M. McMillan(E. M. マクミラン、1907~1991、米国)とP. H. Abelson(P. H. アベルソン、1913~2004、米国)によって人工合成されました。

○ 原子は原子核と電子からできています。原子核は正の電気をもつ陽子と電気をもたない中性子からできています。原子核の陽子や中性子の数は原子の種類によって異なります。自然界に存在する原子には、原子番号(陽子の数)は同じであるが、質量数の異なる原子が存在し、これらを互いに同位体アイソトープ)という。原子核中の陽子の数と中性子の数の和を、その原子の質量数という。

 天然の元素の中で最も原子番号の大きいウランには、質量数の異なるU(ウラン)-238、U(ウラン)ー235、U(ウラン)ー234の同位体があります。 このうちU(ウラン)ー235に中性子をぶつけると、ウランの原子核は2つに分裂し大きなエネルギーを放出します。これを核分裂という。

 Uー235の核分裂と連鎖反応については、まずウランの原子核に中性子が当たり、核分裂すると、2~3個の中性子と放射線が飛び出し、分裂した核などの運動エネルギーとなります。核分裂で飛び出した中性子は、また別のウランの原子を核分裂させます。このように、核分裂が連続的に起こる反応を連鎖反応という。 U-235が1kg核分裂をしたときに生じるエネルギーは、石油2000kl(ドラム缶約1万本)のエネルギーに相当します。

○ 無機化合物の有機溶媒への抽出の歴史 1842年、E. M. Peligot(E. M. ペリゴー、1811~1890、フランス)が硝酸ウラニルの硝酸水溶液からジエチルエーテルへの溶解と抽出の発見がイオン会合抽出の最初の報告です。無機化合物の有機溶媒への抽出に関する発展の足どりはかなり遅かったのですが、第二次世界大戦(1939年9月1日~1945年8月15日)後、アメリカで溶媒抽出法がウラン、プルトニウムなど核エネルギー工業に必要な超純物質を得るための最もすぐれた手段であることが認識され、大きな発展をとげるようになりました。

 そして、E. M. Peligotによる硝酸ウラニルのエーテル抽出の発見が約100年後原子エネルギー開発において息を吹き返し、日本と世界の歴史を大きく変えることになりました。その後、エーテル(エチルエーテルとも)は沸点が35℃と低く、引火性があるので、より安定なリン酸トリブチル(TBP、沸点289℃)が開発され、ウラン、プルトニウムの抽出剤として用いられました。

○ 核燃料再処理 原子爆弾製造のマンハッタン計画では、照射ウランからプルトニウムを抽出するのに、リン酸ビスマス法の名で知られている沈殿分離法(共沈)が用いられました。しかし、現在では、抽出剤にリン酸トリブチル(TBP)、トリオクチルアミン(TOA),テノイルトリフルオロアセトン(TTA)を用いるPu(プルトニウム、Ⅳ)の溶媒抽出法が広く用いられています。(大木、大沢、田中、千原編: 化学辞典、東京化学同人(1994).より)

 ウラン同位元素(U-235,U-238)の熱拡散による分離 天然のウランには-238(99.28%)とー235(0.715%)の同位体があり、-235は原子核燃料に使われています。両者はウランのフッ化物(UF6)にして加熱すると56℃でガスとなるので、細いノズルから噴出させ、質量数の違いによる拡散速度の差を利用(1分子質量のわずかの差を利用)して分離し、-235の含有量を高めることができます。原子爆弾製造のマンハッタン計画において、ー235がこの方法で分離濃縮されたのは有名です。現在では遠心分離法が広く用いられています。(本浄(代表)、今泉、上田、澤田、田口、永長、長谷川、山田共著: 基礎分析化学、化学同人(1998).より)

○ 日本では、1957年(昭和32年)8月27日、午前5時23分、茨城県東海村の日本原子力研究所(のち日本原子力研究開発機構)の実験用1号原子炉が臨界(りんかい、中性子がウランー235にぶつかり、安定した核分裂の連鎖反応が続くこと)に成功し、はじめて、「原子の火」がともり、その後の原子力発電につながりました。1970年(昭和45年)代に原子力発電所の建設ラッシュとなり、1971年(昭和46年)には福島第1原発の運転が始まりました。(2011年(平成23年)6月4日(土)、サザエさんをさがして、原子力発電、「本当のあたたかさとは何だろう、何のために発展するのか?」、朝日新聞、朝刊より

○ 人の世 私たちはこの広大な宇宙の一点に生きています。150億年という宇宙の歴史の一点に生きています。時間的空間的に宇宙というスケールで自分を見つめてみようではありませんか。この宇宙の中で、人間とは自分とはいったい何なのでしょう。40億年の生命の歴史の中で、私とはいったい何なのでしょう。人間はどこからきて、どこえいくのでしょう。

 1.1日1日をていねいに、心をこめて生きること 2.お互いの人間存在の尊厳をみとめ合って(できればいたわりと愛情をもって)生きること 3.それと自然との接触を怠らぬこと 

結局のところ人の世詩も幸せもこの他になく、それ以外はすべて空しいことにすぎないのではないかな。

 これは、医師であった細川宏((ほそかわひろし、1922~1967、解剖学者、東大医学部教授)氏が、ガンで亡くなる28日前に書き残されたものです。これは、細川氏だけでなく、多くの宗教家や修行者や思索者や苦しみを生きぬいた人々が到達する共通の結論です。すべての欲を捨て去ったときに、人間は人間にとって一番大切なものが何であるかということを知るのです。(2007年8月、柳澤桂子: いのちと放射能(ちくま文庫)、 より)

しなう心  苦痛のはげしい時こそ しなやかな心を失うまい やわらかにしなう心である ふりつむ雪の重さを静かに受けとり 軟らかく身を撓(たわ)めつつ 春を待つ細い竹のしなやかさを思い浮かべて じっと苦しみに耐えてみよう(悲しみに耐える人の心情に重なり合います、細川宏さんの遺稿詩集、詩集 病者・花、現代社、より)

○ 素顔を見つめる  諸君。諸君がもし生活に多少とも退屈し、おれはこのままでええんやろうかと、ふと思われることがあればーーー、いやいや、きっと、そう思われるにちがいない。ーーーー そう思われたならば、ワシは諸君に一つの場所に行ってみることをお奨めする。それは病院だ。ーーー、病院とは、生活のなかで他人にみせる仮面ばかりかむっているワシらが、遂に自分の素顔とむきあわねばならぬ場所だ。

 わしは長い間、病院生活をやっとったから、これだけは確実に言えるのだが、夕暮れに灯(ともしび)がうるむ病院の窓では社会の地位や仕事がなんであれ、自分の人生をじっとふりかえる人びとが住んでいる。病苦のおかげでみんな、そうせざるをえんのでなア。 ワシらの生活には仮面をぬいで、自分の素顔とみきあおうとする時はそうざらにない。いや、ひょっとすると、素顔をみることが怖(おそろ)しいのかもしれんなア。ーーー(樋口清之編:生活歳時記、p.328、遠藤周作(1923~1996,作家)、素顔を見つめる、ぐうたら生活入門、三宝出版、より)

2011年6月 6日 (月)

草木名と諺、風習、マツ(松)、タケ(竹)、ウメ(梅)、カシワ(柏)、キリ(桐)、ヤナギ(柳)、クスノキ(楠)、サクラ(桜)、ツツジ(躑躅)、クリ(栗)、カキ(柿)、とは(2011.6.6)

   草木名は、古代の人々の信仰生活様式と深く結びついているものが少なくないという。 そこで、身近な草木由来(ゆらい)、(ことわざ)と風習(ふうしゅう)などついて、改めて調べて見ました。

○ 松竹梅

 松竹梅(しょうちくばい、)は、三つとも寒に堪(た)えるので、中国では歳寒の三友(さいかんのさんゆう、冬の寒い季節に友とすべき三つのもの)と呼んで、画の題材とされました。わが国では、めでたいものとして慶事(けいじ)に用いられます。

 マツ)は、真(マ)と霊(チ)の木、の約転(やくてん、語中の連続する2音節において、母音や音節の脱落や母音変化によって別音となること、「ござらせる」が「ござっしゃる」となる)で、古くはマトともマツとも言いました。

 一説に、神がその木に天降ることをマツ(待つ)意味です(門松!)。また一説に、葉が二股(ふたまた)に分かれるところからマタ(股)の転化(てんか)とも言われています。 松の事は松に習え、竹の事は竹に習えは、三冊子(さんぞうし、俳諧論書、3冊、服部土芳(1657~1730)著、1702年成立、1776年刊)に見える松尾芭蕉(1644~1694)の言葉。私意を離れ対象と一体化することに風雅(俳句、俳文、おどけ、たわむれ、滑稽など)のまことがあるという教えです。

 タケ(竹)は、長(タ)け生(は)える意味です。竹八月に木六月は、は陰暦八月(葉月、はづき、八月)に、は陰暦六月(水無月、みなづき、六月)に伐採するのが最もよいという意味です。竹を割ったようとは、竹がまっすぐにすぱっと割れるところから、さっぱりとした性質のたとえです。邪悪な心や曲ったところのない気性をいう。江戸時代、門松が登場、竹の生命が非常に長いことから、これに永久普遍の長寿を託したという。

 ウメ(梅)は、薬用の烏梅(ウバイ)の転じたものです。一説にはウは接頭語で、メは梅の韓音マイが転じたものとも言われています。梅の花をかたどった紋所梅鉢、裏梅など種々あり、梅鉢(うめばち)は加賀100万石前田藩の紋所の名です。

 梅と桜とは、美しい物、また、よい物の並んでいるたとえです。梅に鶯は、とりあわせのよいことのたとえです。梅は食うとも核(さね)食うな、中に天神寝てござるとは、生梅の核(さね、種の中心部、仁、じん)に毒(アミグダリン、青酸配糖体)のあることを戒めた句です。

○ 端午の節句

 カシワ(柏)は、炊事に使う木の意味で、炊(カシ)箸(ハ)からきたとも、また堅(カシ)葉(ハ)木の略とも言われています。多くのカシワの葉を使う、食物や酒を盛った木の葉、また食器の意味です。柏餅(かしわもち)は、円形扁平状(えんけいへんぺいじょう)のしんこ餅を二つに折り、中に餡(あん)を入れて、カシワの葉で包んだもので、端午の節句(たんごのせっく、五月五日の節句)の供物(くもつ、ぐもつとも、そなえもの)とします。

○ 皇室の紋章

 キク(菊)は、重陽(ちょうよう、奇数の陽数、九が二つ重なる、クク、に由来します。 紋所と模様の名で、皇室の紋章(一六の重弁)、宮家共通の裏菊、ほかに菊水、乱菊などがあります。

 キリ(桐)は、伐(カ)るの名詞形です。これは、キリが伐(き)りこめば伐(き)りこむほど育つことを意味します。桐の薹(と)は、桐の花や葉にかたどった紋所の名で、とともに皇室の紋章ともされ、神紋にも用います。五三の桐、五七の桐、唐桐など種々、その変形も多いです。 皇室の紋章(こうしつのもんしょう、菊紋、桐紋、名字と家紋、google画像): http://www.harimaya.com/kamon/column/kiku.html. 

○ 柳に風、柳に雪折れ無し、柳は緑花は紅

 ヤナギ(柳)は、矢の木の転化(てんか)で、古代人はこの木のまっすぐな枝をそのまま矢に使ったからだとされています。また、楊之木(カワヤナギ)の意味とも言われています。柳に風と受け流す(柳に風、柳に受けるともとは、少しも逆(さか)らわずに巧みに受け流すことです。柳に雪折れ無しとは、柔軟なものは堅剛なものよりもかえってよく事に堪えることのたとえです。柳は緑(みどり)花は紅(くれない)とは、自然のままで少しも人工の加わらないさまです。また、物事に自然の理が備わっていることのたとえです。禅宗では、悟りの心境をいい表す句です。

○ 楠学問

 クスノキ(楠)は、薬(クス)の木、または、奇(クス)しき木、に由来します。クスは臭しと同源とも言われています。楠は南国から渡来した木の意味です。楠学問(くすのきがくもん)とは、クスノキが生長は遅いが大木になるように、ゆっくりではあるが学問を大成させた人のことです。一方、梅の木学問(うめのきがくもん)とは、梅の木が生長は速いが大木にならないように、進み方は速いが学問を大成させないままで終わる人のことです。

○ 日本の国花

 サクラ(桜)は開(サク)に接尾語、ラがついたものです。咲麗(サキウラ)の略とも言われています。古来、花王と称せられ、わが国花として、古くは花といえばサクラを指しました。芝居で、役者に声を掛けるよう頼まれた無料の見物人のことです。転じて、露天商などで、業者と通牒(つうちょう)し、客のふりをして他の客の購買心をそそる、まわし者の意味があります。

 ツツジ(躑躅)は、花が全開せずに筒(ツツ)の状(ジ、じょうたい)の意味です。世界のほぼ全域にわたり50属約1500種あり、春から夏にかけ、赤・白・紫・橙色などの大形の合弁花(ごうべんか、花弁の一部分または全部が合着(ごうちゃく、くっついて一つになること)している花冠、多くは管状、漏斗状、鐘状、ツツジ、キキョウ、アサガオ、キクなど)を単独形、または散形花序(かじょ、主軸の先端から多数の花柄が散出して、傘骨状に拡がって咲く花、ニンジン、ウド、サクラソウなど)に開きます。

 桃栗三年柿八年 

 モモ(桃)は、一つの木にたくさんの実がなる(もも)、赤い実の燃え実がなまってモモ、真実(まみ)が転化(てんか)などの諸説があります。原産は中国、古くからわが国各地で栽培、邪気(じゃき、病気などを起こす悪い気、もののけ)を払う力があるとされました。仁、葉は薬用となります。紋所の名で、桃にかたどったものもあります。桃栗三年柿八年(ももくりさんねん かきはちねん)は、芽生えの時から、桃と栗とは三年、柿は八年たてば実を結ぶの意味です。

 クリ(栗)は、クリの実がクルクルころがることからきた言われています。また木の皮が黒灰色のため、黯(クリ)の意味とも言われています。万葉集(まんようしゅう、山上憶良(660~733?)歌、巻第五)、(うり)はめば 子ども思ほゆ (くり)はめば まして偲(しぬ、しのぶ)はゆ ーーー。

 カキ(柿)は、真っ赤(まっか)な実がなることから赫実木(カムキ)といい、この中一字、ム、が脱落したものです。赤木(アカキ)の上一字、ア、また柿色(カキイロ)を略したものとも言われています。柿衣(かきそ)は、渋染めの柿色の布子(ぬのこ)、木綿の綿入れ、古くは麻布の袷(あわせ)または綿入れで、江戸時代、酒屋の奉公人の仕事着に使われました。

(参考文献) 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之(監修); 生活歳時記、p.241、語源の話、植物篇、三宝社(1994).

(参考資料) 草木名のはなし(和泉晃一): http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/sub8.html

日本家紋研究会(関西支部): http://kamon.main.jp/index.htm

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