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2011年7月の7件の記事

2011年7月25日 (月)

洒落(しゃれ、言葉遊び)、地口(じぐち)、秀句(しゅうく)、語呂合(ごろあわせ)、記憶和歌(語呂合の便利な文句)、謎(なぞ)、都々逸(どどいつ)、漫才(まんざい)、段駄羅(だんだら)、とは(2011.7.25)

   洒落(しゃれ)とは、座興にいう気のきいた文句です。日本人にとっては文芸であり、ユーモアを解し、風流を嗜(たしな)む国民性の特徴でもあるという。言葉の洒落(しゃれ)には、地口(じぐち)、秀句(しゅうく、こせごと、かすりとも)、語呂合(ごろあわせ、もじり、語路とも)などがあります。また、人々は昔から、日常生活のちょっとしたことを覚えるのに、記憶和歌(きおくわか、語呂合、ごろあわせ)などを作りました。

 また、言葉遊びには、(なぞ)として、頓智謎解き(とんちなぞとき)、寄席(よせ)での謎解きのほか、都々逸(どどいつ)、漫才(まんざい)などの遊びもあります。

○ 地口(じぐち)

 地口(じぐち)とは、俚諺(りげん)・俗語(ぞくご)などに同音または声音の似通った別の語をあてて、意味の違った文句を作る洒落(しゃれ)です。

舌切り雀」では、「着た切り雀

年の若いのに白髪が見える」では、「沖の暗いのに白帆が見える

 江戸時代、京保年間(1716~1736)にはじめて発生、掛行灯(かけあんどん)に地口の文句を記し、戯画を描き加えたものを地口行灯(じぐちあんどん)といい、神社の祭礼の際などに参道に掛け並べられました。

○ 秀句(しゅうく、こせごととも)

 秀句(しゅうく)とは、本来は優れた詩歌の句を意味しましたが、和歌では巧みな表現、すなわち縁語や掛詞(かけことば)による技巧的表現をさすようになりました。その後、言語遊技の技巧上の顛末を表現するために、こせごと、と呼ぶようになりました。巧みに言いかけたしゃれ句、かるくち、すく、狂、ともいう。

 「高野山 谷の蛍も ひじり哉(かな)」では、ひじり火尻の言掛けです。

 「四方(よも)に春 きたぞ みな見よ 西東」では、きた来たみな見よ皆見よの言掛けです。

(俳諧作法書、毛吹草、1638年(寛永15年)より) 

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御室桜(おむろざくら、お多福桜とも、仁和寺、真言宗、御室、右京区、京都、google画像) 仁和寺(にんなじ、右京区、京都、Wikipedia): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA

(解説) 私は、京都大学大学院(理学研究科化学専攻)の学生であった1965年(昭和40年)の頃、京都の御室仁和寺(おむろにんなじ)を訪れ、境内で「私しゃ お多福 御室(おむろ)の桜 はなは 低うとも 人は好く」、という句の立て札を見つけ、ほとんどの桜の木の高さが人の背丈ほどしかないので、なるほど! と感嘆したことがあります。この句では、はなの言掛けです

 また、1969年(昭和44年)4月、金沢大学(理学部化学科)に助手として勤務し、1975年(昭和50年)1月、アリゾナ大学(ツーソン、アリゾナ、U.S.A.)のリベラルアーツ(化学科)のH.Freiser(ヘンリー・フライザー)教授の下に博士研究員として留学することになった頃、同郷(德島)で何かとお世話になっていた金沢大学理学部(生物学科)の里見信生講師から、縁起担ぎの小さな蛙(かえる)のお守りをいただいたことがあります。 これは、「無事に日本にかえることを祈っている」ということで、かえる(カエル)と帰るの言掛けです。 アリゾナ大学(化学科、ツーソン、アリゾナ、米国):http://parking.arizona.edu/parkingmap/index.php?revNum=1&accordIndex=0&startMap=Building&mapLines=&mapOLays=&mapMIDs=41&mapZoom=15&mapLat=32.230736&mapLng=-110.951571.                         

○ 語呂合(ごろあわせ、もじり、語路とも)

 語呂合(ごろあわせ、語路合せとも)は、江戸時代、天明年間(1781~1789)に発生、江戸で流行しました。蜀山人(しょくさんじん、1749~1823)は、「天明の頃、地口変じて語路といふものとなれり。語路とは、ことばつづきによりて、さもなき言のそれときこゆるなり」と述べています。(仮名世説、1825年(文政8年)より)

 「田舎侍 茶店にあぐら」では、「死なざやむまい 三味線枕

 「水汲む親父 秋の夕暮れ」では、「いずくも同じ 秋の夕暮れ

○ 記憶和歌(きおくわか、語呂合の便利な文句

 漢字(区別) 

 漢字の記憶に便利な歌では、「」、「」、「」の区別は、「キ・コの声 オノレ・ツチノト下につく、 イ・スデは なかばに シ・ミはみなつく」とか「ミ・シは上、 ヤム・イはスデになかばノミ、 オノレ・ツチノト・コ・キ下につく」。「」、「」、「」、「」、「」の区別は、「言うは誰、金は錐(きり)なり、手にて推(お)す、木は椎(しい)なるぞ、 禾(のぎ)は稚(おさな)し」 また、「」、「」、「」、「」の区別は、「木は栽(うえ)る、衣裁(た)つなり、異なるは、戴(いただ)くなり、車載(の)すなり

単位(換算)

 マイルでは、「陸でいうマイルは二七十四、四十五と一にこそ」

 華氏では、「摂氏(せっし)に九をかけ それを五にて割り、三十二足せば 華氏(かし)の度となる」

年月(大小)

 一年の日数月の大小を覚えるために、「一年は 三百六十五日間 五時間と四十八分四十六秒」。「一三五、七八十や十二月、は二四六九(にしむく、西向く)十一(さむらい)と知れ」。 この歌(にしむく さむらい)は、子供の頃、母親から教えてもらったことを覚えています。

数値(換算)

 √2=1.41421356、「ひとよ ひとよに ひとみごろ

 √3=1・7320508、「ひとなみに おごれや人並みに 奢れや)

 √5=2.2360679、「ふじさんろく おうむなく富士山麓 オウム鳴く)」

 π=3.14159265、「さんいし いこくに むこう産医師 異国に 向こう)」

年号(歴史)

 平安遷都 794年、なくよ うぐいす へいあんきょう(鳴くよ 鶯 平安京) 

 鎌倉幕府 1192年、いいくに つくろう(いい国 作ろう

 応仁の乱 1467年、ひとのよ むなしい おうにんのらん(人の世 空しい 応仁の乱)  

化学(炎色反応、周期律) 

 炎色反応 Li Na K Cu Sr Ba については、「リアカ(Li、 赤) ナキ(Na 、黄) ケイムラ(K、 紫) ドウセ(Cu、 青) カリルト スレモ クレナイ(Sr、 紅) バリョク(Ba、 緑)、リアカー なき けい村 どうせ 借りると するも くれない  ばりょく)」

 周期律(元素の原子番号順、1~20番) H He Li Be B  C  N  O  F Ne  Na Mg Al Si P S Cl Ar K Ca (1~20番) については、「スイ(水、H)ヘイ(兵、He)ノ  り(離、Li)ベツ(別、Be)カ ホカノ(他の、B、C、N、O) フネ(船、F、Ne)ガキタ(水兵の 離別か 他の 船が来た)。 ナマエアル(名前ある、Na、Mg、Al) シリニ(尻に、Si、P) イオウカ(硫黄か、S) クロアリカ(黒蟻か、Cl、Ar、K) カユシ(痒し、Ca) (名前ある 尻に 硫黄か 黒蟻か 痒し)」

 私が中学校、高等学校の生徒のとき、いつの頃からか覚えた、記憶に残るいくつかの記憶和歌(きおくわか、語呂合の便利な文句)などがあり、時折思い出して、今も使っていますが、とても便利です。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記、p.95、便利な記憶和歌、p.297、都々逸の起源、三宝出版(1994); 鈴木棠三: ことば遊び、講談社(2009).

(参考資料) 地口(じぐち、言葉遊び、フリー百科事典、ウイキペデイア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8F%A3

語呂合せ(ごろあわせ、記憶術、フリー百科事典、ウイキペデイア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%9E%E5%91%82%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B

(追加説明)  言葉遊びには、(なぞ)として、頓智謎解き(とんちなぞとき)、寄席(よせ)での謎解きのほか、都々逸(どどいつ)、漫才(まんざい)などの遊びもあります。

○ 頓智謎解き(とんちなぞとき)、寄席(よせ)での謎解きは、 1814年(文化11年)10月頃、江戸、浅草観音の境内に小屋掛けし、頓智謎の看板を掲げて興行を始めた謎解き坊、春雪(しゅんせつ、はるゆきとも、たやすく解ける意!、生没未詳、盲人)と名のる座頭は、一席16文で、客からカケの言葉を出題させて解いていたという。 はげあたま とかけて  おとし味噌 ととく 心は すらずとよい(我衣より)、 十六七の娘 とかけて 繁盛な店 ととく 心は もうけがあろう(豊芥子日記より)

 1817年(文化13年)、三笑亭可楽(さんしょうていからく、1777~1833)は、春雪(しゅんせつ)が江戸を去った年の冬頃から謎解きをはじめたという。 可楽のなぞ とかけて けいせいの帯び ととく 心は かけてからとく(板行 可楽なぞ、表紙より) 

 可楽(からく)に次いで、都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか、1804?~1852、常陸、のち茨城)も寄席で謎解きを演じたという。都々逸を歌い、客が掛ける謎にそのまま節をつけて解いて聞かせました。大阪にも巡業しましたが、天王寺の塔という題が出た時、三味線に合わせて、天王寺の塔 とかけては ハエハエ、 虎屋の饅頭 ととく わいなわいな、 とうで五じゅうじゃ ないかいな、 とやりました。 

○ 都々逸(どどいつ)は、俗曲の一種、最も代表的な座敷歌で、典型的な近世歌謡曲、7・7・7・5型をもっています。19世紀はじめ名古屋(熱田の宮の私娼街)で起こり、天保年間(1830~1844)に都々逸坊扇歌江戸の寄席で、新しい曲風で歌って以来普及しました。「そいつはどいつじゃ」の囃子詞(はやしことば)が曲名となりました。 

 世間では、私娼女(ししょうめ、飯盛女とも)を「おかめ」といって軽蔑しましたが、ここに集まってきた遊治郎の間に、「おかめ買うやつあ 頭で知れる。 油付けずの二枚折」という唄が唄い出され、神戸節、名古屋節の名で諸国に伝わりました。しかもこの唄の終わりには、「そいつはどいつじゃ、 どどいつどいどい」というおはやしがつきました。それで、しゃれ好きの連中が、この唄を「どどいつ節」というようになったという。 

 この流行俗謡には、雅言を用いず、主に男女相愛の情を口語をもって作り、ふつう7・7・7・5の4句を重ねます。「潮来(いたこ)」「よしこの節」より化したという。

 潮来節は、江戸後期の流行歌で、潮来(茨城)の舟唄が座敷唄となり、文化・文政年間に大流行しました。元歌は「潮来出島の 真菰(まこも、イネ科の大形多年草)の中に あやめ咲くとや しをらしや」。

 よしこの節は、江戸時代の流行歌で、潮来節の変化したものとされ、囃子詞(はやしことば)「よしこのよしこの」といったからという。内容・形式は都々逸と同系統で、文政の頃から三都に行われ、上方では明治時代まで唄われました。

○ 漫才(まんざい)は、二人(ぼけ・つっこみ)が掛合いで滑稽な話をかわす演芸、またその芸人のことです。関西で、大正中期、万歳(まんざい)が舞台で演じられることから始まり、昭和初年掛合い話が中心となりました。

 万歳(まんざい)は、年の始めに、風折烏帽子(かざおりえぼうし)を戴き、素襖(すおう)を着て、腰鼓を打ち、当年の繁盛を祝い、賀詞を歌って舞い、米銭を請うものです。太夫と才蔵とが連れ立ち、才蔵のいう駄洒落(だじゃれ)を太夫がたしなめるという形式で、滑稽な掛合いを演じます。千秋万歳(せんずまんざい)に始まり、出身地により、大和万歳、三河万歳、尾張万歳、伊予万歳などがあります。漫才はこれらの現代化で、関西に起りました。

○ 江戸時代輪島(能登、石川)の塗職人の間ではやった言葉あそびに「段駄羅(だんだら)」がありました。これは、俳句や川柳と同じ五七五の形式で、真ん中の七の部分に同じ音で二つの意味を持たせ、前半と後半を別の世界でつなげるものです。輪島市が募集した最優秀に、金沢市白菊町、大鋸谷晃子さん(68)の「常識は覆るかな/靴買えるがなヘソクリで」、優秀賞には同市泉野町、吉村雅彦さん(72)の「就職も神頼みする/上田のみする減反で」が選ばれました。(2011年(平成23年)5月28日(土)、北陸中日新聞、朝刊より)

 

2011年7月21日 (木)

日本庭園の起源(祭祀の場)、環状列石(ストーンサークル、縄文時代)、環濠(弥生時代)、前方後円墳(古墳時代)、日本庭園の歴史、坪庭、とは(2011.7.21)

   日本庭園は、歴史的には、古くは祭祀(さいし、まつり、神や祖先を祭ること)、儀式(ぎしき、公事・神事・仏事などの行事)のに始まり、その後、饗宴(きょうえん、もてなしの酒盛り)、逍遙(しょうよう、散歩とも)、接遇(せつぐう、接待とも)などのとして、あるいは観賞(かんしょう、見て楽しむこと)の対象となりました。

 庭園(ていえん)とは、広辞苑(第6版)によれば、「観賞・逍遙などのため、樹木を植え、築山・泉池などを設けた庭。特に計画して作った庭。日本庭園。洋風庭園。」、とあります。

○ 日本庭園の起源環状列石、環濠、前方後円墳、縄文・弥生・古墳時代)

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大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき、大湯ストーンサークル縄文時代、十和田、鹿角市、秋田、google画像) 大湯環状列石(文化遺産オンライン、文化庁):http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=137714

(解説) 縄文時代(じょうもんじだい、紀元前12000年~紀元前500年頃)、環状列石(ストーンサークル)は、石あるいはいくつかの石を組み合わせたもの(配石遺構、はいせきいこう)を環状に配置するもので、環の直径は約10~50mほどです。大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき、十和田、鹿角市、かづのし、秋田)は、単位となる配石遺構が墓群であることが明らかにされており、祖先や自然に対する「祭祀、さいし、まつり」の場であったと考えられています(小林達夫氏、1937~ 、考古学、より)。これらは、広い意味での庭園と見ることもできるという(小野健吉氏、1955~ 、日本庭園史、より)。

 弥生時代(やよいじだい、紀元前400年~300年)は、水田稲作を基盤とする社会が形成された時代です。弥生時代中期に造営された田和山遺跡(たわやまいせき、松江市、島根)は、集落では春に豊作を祈り、秋には稔りに感謝する「祭祀、さいし、まつり」の場と考えられています。

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田和山遺跡(たわやまいせき、環濠、弥生時代、松江市、島根、google画像) 田和山遺跡(松江市ホームページ、島根):http://www1.city.matsue.shimane.jp/k-b-k/bunkazai/bunkazai/kouennado/tawayama-park/tawayama/cyousakeika/02a.html

(解説) 田和山遺跡(たわやまいせき、松江市、島根)の発掘調査では、宍道湖(しんじこ)を望む丘陵(きゅうりょう)の中腹にめぐらされた三重の環濠(かんごう、周囲に堀をめぐらせること)が明らかにされ、濠(ほり、堀)で守られた形の頂上部では多数の柱穴が見つかっています。つまり「祭祀、さいし、まつり」の場は、眺望の優れた場所に集落防御の象徴である環濠(かんごう)をめぐらせていました。これも、広い意味での庭園と見ることもできるという(小野健吉氏、日本庭園史、より)。

 古墳は、当時の支配者であった豪族(首長)の墓ですが、3世紀(弥生時代)から8世紀の初め(飛鳥、白鳳時代)にかけて築造されています。これらは、朝鮮半島の百済(くだら)からの仏教伝来の影響によるものと考えられます。 一般に、古墳は、気候が温和で水に恵まれ米作に適した土地や平野や海を見下ろす景勝の台地に築造されています。こうした場所は、人が集まり集落が出来やすく、富と権力を握った豪族がよく現れました。

 古墳時代(こふんじだい、300年半ばから700年末頃)には、地域を治める豪族、首長階級の墳墓(ふんぼ)として盛土(もりつち)による大型の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が出現しています。前方部は矩形(長方形)で本来は「祭祀、さいし、まつり」の場であり、その後方に遺体を納める円丘がついています。

 その後、5世紀まで、鹿児島県から岩手県に及ぶ巨大前方後円墳(200m超の前方後円墳は、全国で37基、うち34基が近畿で、奈良県19基、大阪府14基、京都府1基)が現れ、大王(歴代天皇)だけでなく、有力豪族も競って造営したと見られています。

 権力の象徴であった前方後円墳は、6世紀に入ると急速に規模を縮小、7世紀に入ると姿を消し、円墳、方墳、八角墳へと小規模化し、横穴式石室など普及しています。これは、国の形の変化など考えられています。(歴ナビ、旅する日本史、迫れ 巨大古墳の謎、2010年(平成22年)9月25日(土)、朝日新聞、朝刊より)

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行燈山古墳(あんどやまこふん、前方後円墳古墳時代、崇神天皇陵(すじんてんのうりょう、第10代、生没不明)、天理市、奈良、googleがぞう) 行燈山古墳(崇神天皇陵、天理市、奈良): http://www.city.tenri.nara.jp/kanko/walk/himiko/course.html

(解説) 周濠を持つ前方後円墳の最初期のものとして、400年前半に築造されたと見られる行燈山古墳(あんどやまこふん、崇神天皇陵、すじんてんのうりょう、第10代、生没不明、天理市、奈良)と少し遅れて築造されたと見られる渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん、景行天皇陵、けいこうてんのうりょう、第12代、生没不明、天理市、奈良)があります。これらの古墳は、傾斜地に造られていますが、墳丘の周囲に水面をめぐらせるために、周濠を区切る堤を築いて水面は階段状にするという技法を採用しています。

 古墳周濠(しゅうごう、古墳の周囲に掘られた堀)の意味については、水稲耕作を基盤とする初期ヤマト政権の中心、大和(やまと)、河内(かわち)の首長、豪族たちが、農耕祭祀(さいし)をつかさどり、豊かな水を保障する呪的(じゅてき)な機能の役割を演じていたと考えられています(白石太一郎氏、1938~ 、考古学、より)。多くの墳丘は全面が葺石(ふきいし)で覆われた石の山で、水面と墳丘の織りなす景観は美しく、広い意味での庭園と見ることもできるという(堀口捨巳氏、1895~1984,建築史、より)。 

 ということで、日本庭園の起源は、環状列石(ストーンサークル、縄文時代)、環濠(弥生時代)、前方後円墳、湧水・流路祭祀の場(古墳時代)など、遺跡発掘の調査に基づく考古学的な解釈から、祭祀もしくは儀式の場として認識させられるという。  

(参考文献) 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史辞典、岩波書店(1999); 小野健吉: 日本庭園-空間の美の歴史、岩波新書(2009).

(追加説明) ○ 日本庭園の歴史  縄文・弥生・古墳時代(日本庭園の起源、環状列石、環濠、前方後円墳) 

 飛鳥時代(朝鮮の百済、新羅から伝来の庭園、宮廷の儀式や饗宴(きょうえん)のための庭園、方形池、石の像、曲池) 酒船石(さかふねいし)遺跡の庭園遺構(祭祀の場、7世紀半ばに百済の渡来人が築造、明日香村、奈良、ストーン・ワーク):http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tetsuzan/web/sakafune-iseki.htm

 飛鳥(あすか)の語源については、朝鮮半島から飛んできた鳥、すなわち渡来人を意味しているとの説もあります。663年(天智天皇2年)、白村江(はくそんこう、はくすきのえとも)で唐(とう、中国)・新羅(しらぎ、朝鮮)軍と日本・百済(くだら、朝鮮)軍が戦い、百済を救援した日本軍は敗れ、百済は滅亡、その時、多数の百済人が日本に渡来(亡命)しました。 白村江の戦い(錦江近郊、韓国): http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm; 飛鳥京(奈良): http://www.asuka-tobira.com/asukakyo/asukakyo2.htm.)

 奈良時代(中国の唐から伝来の庭園(宮殿庭園)に基づく日本独自のデザインの庭園(曲池、州浜の護岸、自然石の景石・石組)、儀式(公事)や饗宴(きょうえん、節会、曲水宴)の場としての庭園、寺院と庭園(園池、仏教文化) 猿沢池園地(さるさわいけえんち、興福寺南花園の池、奈良公園ガイド、奈良県):http://nara-park.com/annnai2_6.html

 平安時代(日本独自のデザインがさらに洗練された庭園、池庭、寝殿造庭園、浄土庭園、院御所の庭園) 神泉苑(しんせんえん、東寺真言宗の寺院の園池、禁苑(きんえん)、すなわち、桓武天皇専用の庭園、行幸、曲宴、饗宴にも使用、二条城の南方の木立の中、中京、京都、京都・大阪スポットガイド): http://www.kyoto-osaka.com/guide/spot/0025_shinsenen.html. 浄土庭園(じょうどていえん、平等院、日本の名園、40庭、宇治、京都):http://members3.jcom.home.ne.jp/seiwaen.asano/byodouin.htm

 鎌倉・室町時代(京都の有力貴族による寝殿造庭園、武家・禅宗の隆盛と庭園文化・デザインへの影響、無窓礎石(むそうそせき)による眺望を生かした構成・石組の庭園、禅宗思想に基づく枯山水(かれさんすい)の庭園) 曹源池庭園(そうげんちていえん、天龍寺、夢窓礎石作庭、嵐山や亀山を借景とした庭園、嵯峨、右京区、京都): http://www.mario-k.net/kyoto/shaji/126.html; 方丈庭園(ほうじょうていえん、竜安寺枯山水、日本の名園、40庭、右京区、京都): http://members3.jcom.home.ne.jp/seiwaen.asano/ryoanji.htm

 室町後半・安土・桃山時代・江戸初期(戦国時代、戦国大名の居館(本館)の枯山水の庭園、庭園文化の地方への広まり、京都の町衆による草庵の茶の芽生え、千利休による侘茶(わびちゃ)の大成、茶室にいたる庭園空間としての露池(ろじ、茶庭)の成立、千利休から古田織部、小堀遠州へ、江戸時代の庭園・建築などにも大きな影響を与えることになりました。また、書院造庭園(庭景、景石、豪華な石組、珍しい植栽)が確立) 一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき、10ヶ所余りの庭園遺構、城戸ノ内町、福井市、福井): http://www.city.fukui.lg.jp/d620/bunka/iseki/; 狐篷庵(こほうあん、江戸初期、茶室と露池(茶庭)、忘筌、ぼうせん、小堀遠州作庭、大徳寺山内に創建した塔頭(たっちゅう、小さな寺院)、増田建築研究所、紫野、北区、京都): http://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/jap/hstj/kita/kohouan1.html

 江戸時代(池庭、露地(茶庭)、枯山水などの技法を組み入れた総合庭園様式の回遊式庭園(かいゆうしきていえん)の成立、江戸や各領国の大名屋敷の中の接待・社交の場としての大名庭園、京都、江戸のほか全国各地での作庭と庭園文化の広まり、寺社のほか上級武士、豪商、豪農の屋敷での庭園の営み、庶民の興味をひく観光の対象としての庭園文化の成立) 桂離宮(かつらりきゅう、京都の庭園と伝統建築、桂、西京区、京都): http://www.zoukei.net/kyoto.htm. 兼六園(けんろくえん、ホームページ、大名庭園、金沢、石川):http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/

 明治・大正・昭和時代(洋館と一体、イタリア式庭園(幾何学式庭園、丘陵部斜面、芝生含む)、フランス式庭園(平面幾何学式庭園、広大な芝生含む)、大規模な別荘庭園、邸宅庭園、従来の日本式庭園がイギリス式庭園(風景式庭園、広大な苑池、芝生含む)の影響を受けて現れた新しいタイプの日本式庭園(明治式、近代式、当世流など)、自然主義風景式庭園、芸術、環境としての庭園、公共造園、庭造りも自由となり、急速に流行、一般の民家にも普及) 神苑(しんえん、平安神宮、公共造園、国指定文化財等データベースWeblio辞典、岡崎西、左京区、京都): http://www.weblio.jp/content/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E8%8B%91

○ 庭、場(にわ)は、広辞苑によれば、①広い場所.物事を行う場所。②邸内または階前の、農事に使う空地。③草木を植え築山・泉池などを設けて、観賞・逍遙などをする所。庭園。④波の平らかな(漁業を行う)海面。転じて、穏やかな天候。日和(ひより)。⑤家の出入口や台所などの土間。⑥家庭、とあります。 

○ 坪庭(つぼにわ)は、屋敷内の庭園。中庭。中庭(なかにわ)は、建物に囲まれるように、その間にある庭。内庭。内庭(うちにわ)は、家の棟と棟と、または室と室との間にある庭。中庭。壺庭。  

 日本庭園の歴史をたどると、坪庭(つぼにわ)が現れるのは、京都、江戸のほか全国各地での作庭と庭園文化の広まりを見せた、江戸時代の終わり頃と考えられます。そのルーツは、千利休の露地(茶庭)にあるという。

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坪庭(つぼにわ、お茶屋、志摩、東山、金沢、google画像) 

(解説) 京都金沢のうなぎの寝床と呼ばれる奥に長い町家、料亭などには、心を癒(いや)す落ち着きのある坪庭(つぼにわ)があり、黒松、五葉松、羅漢槙(らかんまき)、紅葉、ヤツデ、青木、オモト、シダなどの草木を植え、苔(こけ)むした石灯籠や庭石(景石)、飛石(とびいし)、蹲い(つくばい、石の手水鉢)などが置かれていて、日本の自然景観を小さくした見立ての世界がありました。(小林忠雄、北陸大学教授、金沢らしさ、坪庭空間の美学機能的な癒しの世界、2011年(平成23年)3月6日(日)、北陸中日新聞、朝刊より)

 風情ある坪庭(つぼにわ、お茶屋、志摩、金沢、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&pq=%E5%9D%AA%E5%BA%AD%EF%BC%88%E3%81%8A%E8%8C%B6%E5%B1%8B%E3%80%81%E5%BF%97%E6%91%A9%E3%80%81%E9%87%91%E6%B2%A2%EF%BC%89&xhr=t&q=%E5%9D%AA%E5%BA%AD%E3%80%81%E3%81%8A%E8%8C%B6%E5%B1%8B%E3%80%81%E5%BF%97%E6%91%A9%E3%80%81%E9%87%91%E6%B2%A2&cp=10&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&biw=1024&bih=552&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.&wrapid=tljp1311393996437091&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi

○ 作庭記(さくていき)は、平安時代に書かれた日本最古の庭園書です。鎌倉時代から江戸時代中頃までは「前栽秘抄(せんざいひしょう)」と呼ばれていました。前栽(せんざい)は植栽(しょくさい、植え込み)を主とした寝殿の前庭を指し、寝殿造の庭園の意匠と施工法を文章で説明しています。 

 その編著者については、同書に見える高陽院修造の記述などから、藤原頼道(ふじわらよりみち、992~1074)の子(橘俊遠の養子)で修理大夫(しゅうりだいぶ)を長年勤めた橘俊綱(たちばなのとしつな、1028~1094)とする説が有力で、11世紀後半にはその大本が成立したものと見られています。

作庭紀(さくていき、概要、データ):http://www.nakatani-seminar.org/kozin/niwa/sakuteiki/sakuteiki.html

 私は、京都でいた頃、何回か訪れ、観賞、逍遙した、金閣寺、銀閣寺、桂離宮、修学院離宮、龍安寺、西芳寺(苔寺)、神泉苑、平安神宮神苑、平等院などの日本庭園の何とも言えぬ美しさが強く印象に残っています。

2011年7月18日 (月)

犀川(金沢)のアユ(鮎)つり、加賀竿(かがさお)と加賀毛針(かがけばり)によるアユ(鮎)つり、とは(2011.7.18)

   犀川(さいがわ、金沢)のアユ(鮎)解禁日は、毎年6月16日となっています。江戸時代、100万石の加賀前田藩主は、外様大名のため、表だって武芸を磨(みが)けば幕府から謀反(むほん)の疑いを持たれるので、武士の足腰を鍛える訓練として、竹の加賀竿(かがさお)と擬似餌(ぎじえ、疑似餌とも)の加賀毛針(かがけばり)によるアユ釣(鮎つり)を奨励したと言われています。 

 アユ(鮎)は、代表的な川釣魚で、一般に友釣(ともづり、アユかけばりをつけた糸に生きたアユをおとりとしてつないで水中に放し、攻撃に来た他のアユを針にかけて釣る)、どぶ釣(川のどぶで擬餌針で釣る)、ころがし(転がし、おもりをつけた糸に多くの釣針を仕掛け、瀬をころがすように移動させて、回転する針でアユをひっかける)、鵜飼(うかい、夏、かがり火をたいてアユなどを寄せ、飼い馴らした鵜を使ってアユをとる)、(やな、木を打ち並べて水を堰(せ)き一ヶ所に流すようにし、そこに流れてくるアユを梁簀(やなす)に落とし入れてとる)などの捕(と)り方があります。

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犀川のアユ釣(鮎つり、江戸時代、毛針箱から毛針を選ぶ武士、金沢城下図屏風、google画像)

(解説) 加賀藩では、加賀竿(かがさお)と加賀毛針(かがけばり)によるアユ釣(鮎つり)を武士の心身鍛練として奨励していたという。武士の釣人の格好は、帯刀はもちろん菅笠をかむり陣羽織に似た殺生羽織でした。大きな石が転がった川辺を歩くことは足腰を鍛え、竹の竿(さお)さばきは、剣術の間合いにも通じ、隠れた武芸の鍛練となったともいわれます。 加賀竿(かがさお、伝統工芸、石川新情報書府、金沢):http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/jouka/japanese/1600/index.html. 

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加賀毛針(かがけばり、目細八郎兵衛商店、安江町、金沢、google画像)

(解説) 加賀毛針(かがけばり)は、長さ1cmほどの釣針に、赤や黄など色とりどりの羽根を巻き付け、その針を覆(おお)うように6本の蓑毛(みのげ)をつけます。最後に針の根元に、漆(しつ)に鉄粉をまぶして丸め、金箔(きんぱく)をかぶせた「玉」をつけると、完成します。  加賀毛針(目細八郎兵江衛商店、金沢):http://www.meboso.co.jp/contz/pages/kebari.shtml

 毛針(けばり、毛鉤とも)は擬餌針(ぎじばり)の一つで、羽毛などを巻きつけた釣針(つりばり)です。蚊針(かばり)とも呼ばれ、羽毛などで蚊(か)の形に作った擬餌針(ぎじばり)です。アユ、イワナ、ヤマメ、ハヤなどを釣るのに用います。蚊頭(かがしら)、蠅頭(はえがしら)ともいう。

 江戸時代、加賀藩では武士だけがアユ釣(鮎つり)できる特権を持っていました。明治時代、庶民にもアユ釣(鮎つり)が開放され、専業の毛針屋も現れました。1890年(明治23年)、加賀だけで使われていた毛針が、全国の名産品を東京に集めた内国勤業博覧会に出品され、その美しさから高い評価を受け、愛好者が関東や東北に広がりました。 加賀毛針(伝統工芸、石川新情報書府、金沢): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/jouka/japanese/1700/index.html

 加賀毛針の老舗(しにせ)、目細八郎兵衛商店は、創業が1575年(天正3年)と古く、もともとは、優れた縫(ぬ)い針の製造で名を上げ、加賀藩主から「めぼそ」の名をもらったという。20代目当主の目細勇治社長(42)は、「美しさと、よく釣れること。両方を兼ね備えてこそ、加賀毛針なんです」と語っています。例えば、毛針の種類は600種以上、キジ、ヤマドリ、クジャクなど様々な鳥の羽根を伝統的に使い、川の水が濁ると、赤っぽい色の毛針、稚魚が小さい解禁当初のときは赤(水生昆虫?)、大きくなってくると黄(珪藻?)や黒(他のアユ?)がよく釣れるという。

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犀川のアユ釣(鮎つり、桜田、金沢、2011年6月22日撮影) 

 近年、犀川の毛針釣に適した場所は、8ヶ所ほどと言われ、アユの遊漁者数は約1500人、解禁日の巡回報告では釣人数は約430人で、友釣も人気があります。毛針釣は、餌(えさ)を深く食い込ませるのでなくパッと飛びついてきた瞬間に針に引っかけて釣るのですが、かかったアユに逃げられることも少なくないという。

(参考文献) 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 中澤隆二: 平成18年度石川の博士養成講座(生涯学習)、専修コース(自然)、犀川と鮎、p.64~66(2006); 朝日新聞: 百年企業@北陸、加賀毛針を作り続ける目細八郎兵衛商店(金沢市)、精巧のの技 美と実用共存、2011年(平成23年)1月27日(木)、朝刊より.

(参考資料) 犀川のアユ(鮎)(犀川、金沢、google動画検索): http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%e7%8a%80%e5%b7%9d%e3%81%ae%e9%ae%8e#hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%8A%80%E5%B7%9D%E3%81%AE%E9%AE%8E&um=1&ie=UTF-8&tbo=u&tbm=vid&source=og&sa=N&tab=wv&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.&fp=7069075daf83de7c&biw=1024&bih=552

伝統工芸36種加賀竿、加賀毛針含む、石川県立伝統工芸館、金沢、石川): http://www.ishikawa-densankan.jp/craft/index.html

(追加説明) ○ アユ(アユ科の硬骨魚、鮎、香魚、年魚、あいとも)は、体長約30cm、日本(北海道南部)から台湾、中国大陸、朝鮮に分布、背部はオリーブ色、9月から12月に中、下流の川底に産卵する。産卵後の親は死に、ふ化した稚魚は海に下り、プランクトンを食べて越冬します。翌春、3月から5月に川を上ります。その後、珪藻(けいそう)を食べ、肉に香気があります。寿命は普通一年なので年魚の字を当てるが、越年鮎も知られています。

 アユ稚魚は、海で主としてプランクトンを食べて大きくなり、初春(2月初旬から中旬)体長4cmぐらい(シラスアユとも)になると河口に群がり水生昆虫を捕食しながら川を遡上(そじょう)しはじめます。稚魚(12cm、コアユとも)は成長するにつれて、飼料は動物質(水生昆虫!)から植物質(珪藻、藍藻!)のものに変わり、特に川底の石に付着した珪藻、藍藻類を食べながら、さらに上流に遡上(そじょう)しながら成長します。

 また、天然アユ放流アユは稚魚のときは共に群れて行動します。が、成長するにつれ単独行動が強くなり、一般に放流アユの方が天然アユよりも闘争性が早く現れます。アユは、水のきれいな珪藻類の付着した礫石の多いところを中心に約50cm程度の生活圏(縄張り!)を守りながら適当な場所に移っていきます。ということで、アユの好む川の珪藻の付着した底石とアユの通り道を探し求めることがアユ釣の最も大切なことです。

○ 釣竿(つりざお)は、魚釣に用いる竹などの竿(さお)で、延竿(のべざお、1本の適当な長さの釣竿)と継竿(つぎざお、数本を継ぎ合わせて用いる釣竿)とがあります。 竿は竹製のほか、スチール製、最近ではグラスファイバー製が多いようです。

 釣糸(つりいと)は、釣針をつけ、魚を釣るのに用いる糸で、テグス(天蚕糸、楓蚕、樟蚕の幼虫の体内から絹糸せんを取り出し、酸と食塩水とに浸し、引き伸ばして精製した白色透明の糸)、人造デグス(ナイロン)、絹渋糸(きぬしぶいと)、麻(あさ)糸などを用います。

○ 釣針(つりばり)は、魚をつるためのはりで、普通は「し」の字形をしています。古くは動物の角や骨で作られました。現在のものは多くは鋼製で、黄銅製もあり、丸型、角型、そで型が基本で、一般に、先端近くに、かかった魚が抜けないようにしたもどしの部分があります。擬餌針(ぎじばり)は、生餌に似せて鳥の羽毛(毛針)、魚皮、ゴム、プラスチック等をつけたものです。

2011年7月 9日 (土)

梅雨明け(2011年7月9日、晩夏)、犀川の河川敷(桜田、金沢)のオギ(イネ科)の草刈り、手取川の川北大橋(川北、石川)道路法面の草刈り、手取川大洪水で運ばれた百万貫の岩、とは

  金沢気象台は9日、北陸地方は梅雨明けしたと見られる(昨年より8日、平年より15日早い!)と発表しました。金沢では、最高気温が33.9℃、小松34.9℃、真夏のような暑さでした。なお、暦の上では、晩夏、旧暦の小暑(7月7日)から立秋の前日(8月7日)までに当たります。

 そこで、犀川の示野中橋(しめのなかばし)近く、河川敷(桜田、金沢)に群生している野草、特にオギ(イネ科)の草刈り中、また、石川県で一番大きな手取川の川北大橋(かわきたおおはし、川北、石川)道路法面(のりめん)の草刈り後の風景をデジカメ写真で撮ってきました。

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犀川(さいがわ)の示野中橋(しめのなかばし)近く、河川敷での草刈り機によるオギの刈り取り中の風景(2011年7月9日撮影)

 わが家(桜田、金沢)から眺めた犀川(2級)河川敷には、緑濃い野草が繁茂し、特に人の背丈を越えるオギ(イネ科ススキ属)の群生が目立ってきました。数日前から、建設業者(金沢)らが草刈り機で大きな音を鳴り響かせながらオギを刈り取り始めました。が、オギなど野草は、刈り取られて裁断、あるいはそのまま放置されていました。が、その後、造園業者(金沢)らが堤防の端の方を肩掛けの草刈り機できれいに刈り取りされていました。

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川北大橋(かわきたおおはし、手取川近く)周辺の道路の法面(のりめん)、中央分離帯の草刈り後の風景 (2011年7月6日撮影)

 石川県で一番大きな手取川(てどりがわ、1級)に架かる川北大橋(かわきたおおはし)の料金所の東西の道路の法面(のりめん)にも各種の野草(イネ科のエノコログサなど、クズなどのつる類)、特にイネ科の雑草が繁茂していました。が、ここでは、道路管理会社(ハイウェー)のもと、造園業者(伊藤グリーンワークス)らによる肩掛けの草刈り機で刈り取られた野草は、すべて集めてゴミ捨て場に運ばれ、美しい姿となっていました。全体で13000平方メートルという広大な法面のようで、年2回の草刈りの予定だそうです。

(追加説明) ○ 日本各地で様々な街路樹(がいろじゅ)が植えられていて、郷土の風土に合った街路樹は、維持管理も有利なことが多いという。  街路樹(Wikipedia): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%97%E8%B7%AF%E6%A8%B9

 石川県街路樹等にはケヤキ、スダジイ、クロマツ、マテバシイ、ハナミズキ、ヤマボウシ、サクラ系(シダレザクラ、ヤマザクラ、ソメイヨシノ等)、モチノキ、トチノキ、シダレヤナギ、イチョウ、プラタナス、カクレミノ、ナツツバキ(ヒメシャラとも)、シラカシ、アラカシ、クロガネモチ、ネズミモチ、モチノキ、メタセコイヤ、アメリカフウ、イタヤカエデ、イロハモミジ、モッコク等が見られます。

 また、石川県低木等には、アジサイ、ボックスウッド、キンメツゲ、ツツジ系(ヒラド、サツキ、キリシマ等)、ハマヒサカキ、サザンカ、カンツバキ、レンギョウ、ハギ、アベリア、ヤマブキ、ウバメガシ、トベラ、ハクチョウゲ、ユキヤナギ等が見られます。

 街路樹低木等の植栽された周辺(街路、歩道、車道沿い)には、コバンソウ(イネ科、タワラムギとも、帰化植物)、スギナ(トクサ科)などの雑草が多く見られました。雑草除去には、抜根除草(手で抜き取る)、肩掛け除草(草刈り機で刈り取る)、除草剤の散布(草を枯死させる)、吹き付け(適当な草で緑化させて雑草の生育を抑制し、除草作業を軽減化する)、防草シート(除草後の土壌を生分解性のポリ乳酸繊維シートなどで覆う)などが用いられています。 庭木など手入れには、伐採(ばっさい)、剪定(せんてい)、草刈り、消毒、芝張りなどがあります。

 石川県地被類(グラウンドカバープランツとも)には、ササ類(クマザサ)、シバ類、マツバギク、シバザクラ、ヒペリカムコート、ヘデラ(アイビー)、タマリュウ(リュウノヒゲとも)、ヒメイワダレソウなどが見られます。

 地被類(ちひるい)とは、地表を低くおおう草木の植物の総称で、裸地の緑化や庭園の下草とされています。地被類(ちひるい、weblio辞典): http://www.weblio.jp/content/%E5%9C%B0%E8%A2%AB%E6%A4%8D%E7%89%A9

○ 百万貫の岩(手取川大洪水!)  大水害は、1934年(昭和9年)7月10日から11日にかけて加賀地方を襲った集中豪雨で手取川がはんらんしました。加賀地方一帯に被害が及び、死者97人を数える未曾有(みぞう)の水害となりました。支流の宮谷川からは土石流とともに大岩が3km離れた白峰の手取川まで流出しました。

 大岩は「百万貫の岩」と名付けられ、1995年(平成7年)の計測で高さ16m、重さ4839トン(129万貫)と判明、2001年(平成13年)に大洪水の象徴として石川県の天然記念物に指定されました。(2009年(平成21年)11月8日(日)北陸中日新聞、朝刊より) 

白峰百万貫の岩

白峰百万貫の岩(しらみねひゃくまんがんのいわ、白山市、石川): https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/siseki/ken3-17.html

2011年7月 6日 (水)

七夕(旧暦7月7日、その日の行事)、星祭りと乞巧奠(中国)、笹竹を立て、短冊に詩歌を書き、手習い事の上達を願う習俗、水浴びと先祖祭(日本)、とは(2011.7.6)

  七夕(たなばた)は、旧暦の7月7日、またはその日の行事のことで、中国では星祭り、銀河祭、日本では盆の先祖祭の準備日ともなっています。古く中国と日本の行事が複合(ふくごう、二つ以上のものが合わさって一つとなること)し、七夕の習俗ができあがったと考えられています。七夕の節句(しちせきのせっく)ともいう。

 一つは、中国の後漢(ごかん、25~220)の時代に始まったという、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)の星祭の伝説乞巧奠(きこうでん)の行事です。どちらも中国から伝わってきたもので、星祭りの方は、牽牛星と織女星が年に一度、天の川をはさんで出会うという恋物語の伝説です。乞巧奠(きこうでん)というのは、女子が手芸に巧みになるよう乞うという意味で、織女星を祭り、裁縫や習字などの上達を願う行事です。

 この中国伝来の行事と、これから発展した乞巧奠(きこうでん)の行事は、奈良時代に宮廷や貴族の間で取り入れられ、やがて民間に普及していきました。そして女子が裁縫の上達を祈る星祭りの行事として長く続きました。

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市中繁栄と七夕祭(名所江戸百景、浮世絵、安藤(歌川)広重(1797~1858)、江戸、google画像)

(解説) 笹竹を立て、短冊に詩歌を書いたり、手習い事の上達を願う習俗は、寺子屋が普及した江戸時代になってからです。江戸では6日の夕方、竹売りから笹竹を買い、色紙や短冊をつけて軒先に立てるしきたりでした。安藤(歌川)広重(あんどううたがわ)ひろしげ、1797~1858)が、七夕の江戸市街の浮世絵に、その風景を描いています。

 もう一つは、古くからの日本固有の七夕の民族行事です。7月の盆の先祖祭につながるもので、その前に穢(けがれ)を祓(はら)い清める行事と解釈できます。というのは、七夕の日には、水浴を大切な行事とした所が多い。たとえば、髪を洗ったり、子どもや牛、馬に水浴びをさせたり、盆行事の準備日として掃除をしたり、井戸をさらったりしました。水浴びを「ねむり流し」とか「ねぶた流し」とも言いました。

 青森の「ねぶた祭り」も、本来は穢(けがれ)を水に流す禊(みそぎ)の行事で、一種の七夕行事と考えられています。ねぶたねぷたとも)は眠たきのことで、睡魔を追い払う行事です。町をねり歩いた人形や灯籠は、川や海へ流しました。一般に6日の夕、笹を立て飾りつけをし、7日の朝(または8日)川や海へ流しました。これを「七夕流し」とか「七夕送り」と呼びました。青森のねぶた祭(オフィシャルサイト、青森):http://www.nebuta.or.jp/. 

 七夕の水に関する習俗は、日本固有のもので、中国のそれとは異なっています。たとえば、日本では、七夕の日は短冊が流れるほど雨の降るのがよいという地方もあります。これは雨を清めの雨と考え、七夕を祓(はらい)の行事の日と考えたからです。ところが、中国の牽牛星と織女星の伝説では、この夜、雨が降ると二人は会うことができないことになっています。

  (みそぎ)は、東南アジアの湿潤文化圏、星祭りは中国北部・中央アジアの乾燥文化圏の伝承で、その両方が見られるとする考えもあって非常に興味深いという。

 また、この日はナスやキュウリなどを供え、馬や牛をワラや真菰(まこも、イネ科の多年草)で作り、門口に立てたりしました。これは先祖の霊を馬や牛に乗せて迎えるという意味であったらしい。

 というわjけで、盆と七夕の関係は、ひと続きの行事として理解することができます。そして、盆の先祖祭としての意味が強くなってくると、七夕の方は星祭り的な意味を濃くしていきました

  現在、七夕の行事は、竹笹に願い事を書いた短冊をつるし、色紙で細工したものを飾りつけたりしています。また、青森の「ねぶた祭り」や秋田の「竿灯」も七夕祭の行事となっています。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 樋口清之監修: 暮らしのジャーナル、生活歳時記、三宝出版(1994); 日本史辞典、岩波書店(1999); 大島、佐藤、松崎、宮内、宮田著: 図説民俗探訪辞典、p.144~148、節供、山川出版社(2005).

(参考資料) 七夕(たなばた、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%83%E5%A4%95&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&biw=1024&bih=552&prmd=ivnse&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=K2IJTojhA-XymAX-8bWYAQ&ved=0CGAQsAQ

2011年7月 2日 (土)

雑節(ざつせつ)、半夏生(はんげしょう、2011年7月2日、半夏が生える頃)、半夏(はんげ、ドクダミ科、ハンゲショウ)、大祓(おおはらえ、6月30日、夏越の大祓、茅の輪祭)、とは

   雑節(ざつせつ)とは、1年間の季節の移り変わりをつかむために、補助的な意味の特別な暦日として、24節気、5節句のほかに、節分、初午(はつうま、稲荷社の祭り)、土用、盂蘭盆会(うらぼんえ)、彼岸、社日(しゃにち、土の神の祭り)、八十八夜、入梅、半夏生(はんげしょう)、三伏(さんぷく、全てによくない日)、中元、二百十日、二百二十日、酉の日(とりのひ、おおとり明神の祭り)、大祓(おおはらえ)などを設けたものです。 

 これは、主として生産生活や自然生活に照らし合わせてつくられており、特に農事と深い関係を持っています。そして、古くから庶民の生活に溶け込んで、年中行事、民俗行事となっているものも多いようです。

○ 半夏生(はんげしょう、72侯の一つ、雑節の中にも数えられる)

 半夏生は、夏至(げし)から11日目に当る日、太陽暦では7月2日頃で、この日までに田植は終わり、梅雨はこの時から明けるとされています。このとき、天から毒気が降りるとか、地が陰毒を含んで毒草を生じるなどの言い伝えがあり、野菜を食べること、竹林に入ること、種をまくことを忌(い)む風習がありました。

 この頃に、半夏(はんげ、ハンゲショウ、ドクダミ科)という多年性植物(毒草)が湿地に生え、小さな花を咲かせます。その花の近くの葉が白く変化する(化粧する!)ので、ハンゲショウ(半夏生、半化粧とも)と呼ばれています。この白く色変わりした葉は、花が終わった頃に、再び緑色になります

○ ハンゲショウ(半夏生、半化粧、カタシログサ(片白草)とも)

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ハンゲショウ(半夏生、金沢城公園、金沢、石川、google画像) ハンゲショウ(兼六園花便り、2011年7月2日、城森順子さん撮影、いいねっと金沢、金沢):http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11003/kenhana/H23/hana805.html

(解説) ハンゲショウは、ドクダミ科ハンゲショウ属の多年草で、本州、四国、九州、沖縄に分布、水辺や湿地など湿った場所に生えます。高さは約60cm~1m、葉は互生(ごせい)し、卵形に近いハート形をしています。夏、茎の上部に白色の葉を生じ、その脇から、長さ10~15cmのひも状の花穂(かすい)を垂(た)らしています。

 この花は小さく、余りにも地味なので、昆虫を誘うことができない。そこで、花に近い葉の半分ほどを白変(半化粧!)させて昆虫たちを引き寄せようとしました。昆虫に目立たない花の花粉の受け渡しをさせるために、花の近くの葉が白色になるという。というのは、白く色変わりした葉は、花が終わった頃に、再び緑色になるからです

 また、漢方薬半夏(はんげ)は、カラスビシャク(サトイモ科、ハンゲ属)の多年草で、その根茎の外皮を除いて水洗し乾燥したもので、無臭で強いえぐみ(あくが強くて、舌に不快を感じる味)があります。鎮吐(ちんと)作用があり、胃内停水(いないていすい、胃の中に過剰の体液が貯留した状態)、悪阻(おそ、つわり)、急性胃炎、神経性嘔吐(おうと)に用いるという。 カラスビシャク(烏柄杓、山野草・高山植物、Atsushi Yamamoto): http://www.hana300.com/karabi.html

 大祓(おおはらえ、夏越の大祓、茅の輪祭)

 古来、6月と12月の晦日(つごもり、30日と31日)に、宮中で万民の罪と穢(けが)れを祓(はら)った神事で、現在も宮中はじめ全国各地の神社で行われています。

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夏越の大祓(なごしのおおはらえ、身をはらい清め、無病息災を祈り、茅(ち)の輪をくぐる参拝客、兼六園近くの石浦神社、金沢、google画像) 茅の輪くぐり(ちのわくぐり、石浦神社、金沢、北国新聞): http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20110701103.htm

(解説) 大祓(おおはらえ)は、6月と12月末日に行われる祓(はらい)の行事です。人々の犯した罪や穢(けが)れを、除き去るために行われる祓(はらい)で、6月の祓(はらい)を夏越(なごし)の大祓(おおはらえ)、12月のそれを年越(としこし)の大祓(おおはらえ)という。6月の大祓の詞(おおはらえのことば)は、「水無月(みなづき)の夏越の祓(なごしのはらえ)する人は千歳(ちとせ)の齢(よわい)(の)ぶというなり」(平安時代、延喜式、えんぎしき、第八巻より)

 夏越(なごし)の大祓(おおはらえ)では、氏子が神社の社前で茅(ち)の輪をくぐって穢(けが)れを払い、無病息災を祈る、茅の輪(ちのわ、チガヤで作られた大きな輪)くぐりの行事が行われます。

 私の郷里(引野、上板、德島)では、戦後、6番さん(安楽寺)の近くの熊野神社では、茅の輪くぐり(ちのわくぐり)を輪抜け(わぬけ)と呼び、そのお祭りでは露天商とお参りの人々で賑(にぎ)わっていたことを覚えています。

(参考文献) 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記、p.379、半夏生、p.797、大祓、p.861、雑節、 三宝出版(1994); 高橋勝雄(写真、解説): 野草の名前、夏、p.257、ハンゲショウ、山と渓谷社(2003).

2011年7月 1日 (金)

氷室の節句(六月朔日、2011年7月1日)、江戸の加賀藩邸の氷室の氷を徳川将軍に献上、氷室開き(金沢)、とは

   江戸時代、徳川幕府が幕藩体制の中で、六月朔日(さくじつ、ついたち)、(旧暦6月1日、新暦7月1日)を氷室(ひむろ)の日氷室の節句とし、庶民を含めた年中行事が行われていました。 

 東都歳時記(江戸風俗、斉藤月岑、さいとうげっしん、1804~1878、1838年(天保9年)発行)には、「六月朔日氷室御祝儀(賜氷の節)加州候御藩邸に氷室ありて今日氷献上あり。町屋にても、旧年寒水を以て製したる餅を食して、これに比(な)らふ。」、と記載されています。これは、「毎年旧暦6月1日を賜氷節として江戸の加賀藩邸の氷室の氷を徳川将軍に献上するならわしがあり、また庶民の間では、氷の代わりに,寒ざらしの餅(もち)、つまり氷餅(こおりもち)を食べた。」、ということです。

 東都歳時記(六月朔日、賜氷の節含む、知るを楽しむ、お氷さまと冨士参り、中島満、NHKテキスト): http://www.manabook.jp/nhk-koorinohanasi.htm

 加賀藩は、旧暦6月1日(新暦7月1日)頃、氷室から凍った雪を切り出し(氷室開き)、桐の二重造りの長持ちに収め、八人の飛脚(八人肩)により、遠く江戸の加賀藩邸に昼夜をついで急送(4~5日?)したという。加賀藩の江戸本郷上屋敷(心字池の東北岸)には、加賀から送られてきた氷雪の保存のための氷室があり、その氷は、徳川将軍に献上すると共に家臣にも分け与え、夏に雪を食べて風流を楽しんだと伝えられています。

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氷室跡(ひむろあと、兼六園、金沢、google画像) 金沢散歩(金沢九十九景): http://www2s.biglobe.ne.jp/~west_v/kokei-wt.htm.

(解説) 兼六園山崎山の裏にある凹地(おうち)が、氷室跡(ひむろあと)です。冬に降り積もった雪を凹地に投げ込み、藁(わら)で覆い、雪を固く締まった雪氷として貯えたそうです。この氷室跡は、兼六園が一般市民に開放された、明治以降から昭和の半ばにかけて、庶民の氷室として使われていました。藩政時代、1839年(天保10年)の氷室の位置は、絵図では谷とだけ説明されています。

 一方、金沢城内には、加賀2代藩主前田利長(まえだとしなが、1562~1614)の正妻(永姫、織田信長の4女、1574~1632)が居住していた玉泉院丸(ぎょくせんいんまる)に、加賀5代藩主前田綱紀(まえだつなのり、1643~1721)がつくらせた玉泉院丸氷室がありました。この氷室は、穴蔵を掘り、その周囲を戸室石で囲い、その中に冬に雪を詰めた木箱を入れ、その外回りにも雪を詰めて夏まで貯えていました。この管理は、城中露地(茶庭)の管理人、手木足軽(てこあしがる)に守らせていたそうです。というわけで、兼六園事務所長を退任された下郷稔氏によれば、江戸の徳川将軍に献上した氷室の氷は、兼六園のものではなく、この玉泉院丸の氷室の氷ではないかとのことです。

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氷室開き(ひむろびらき、湯涌温泉、マップル 観光ガイド提供写真、金沢、google画像)

 金沢の奥座敷、湯涌温泉(ゆわくおんせん)の地域では、氷室小屋に大寒の雪が詰め込まれ(氷室の仕込み)、2011年(平成23年)6月26日(日)、第26回氷室開き(氷室の氷の切り出し)が行われました。氷室開き(日テレニュース、湯涌温泉、金沢): http://www.news24.jp/articles/2011/06/26/07185246.html

 現在、金沢では、7月1日を「氷室の日」とし、金沢市とその周辺では、氷を模したと言われる氷室饅頭(ひむろまんじゅう、紅白、あん入り蒸し饅頭)を食べて無病息災を祈る習慣が残っています。

(参考文献) 朝倉治彦校注: 東洋文庫177、東都歳時記2、p.74、平凡社(1987); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999);下郷稔: 兼六園歳時記、p、38-39,藩政時代にあったのか、兼六園の氷室、能登印刷出版部(1993); 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、橋本確文堂(1997); 竹井巌: 金沢の氷室と雪氷利用、北陸大学紀要、28号、p.49~62(2004).

(参考資料) 氷室開き(google画像): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B0%B7%E5%AE%A4%E9%96%8B%E3%81%8D&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1024&bih=591

(追加説明) 奈良時代、冬に氷を納め夏まで貯蔵する施設があり、氷室(ひむろ)と呼ばれていました。日本書紀の闘鶏(つげ)氷室の氷貢納起源説話、長屋王家の都祁氷室(つげひむろ、氷室の管理職)関係の木簡(もっかん)によれば、氷室は径と深さは約3mのすり鉢状の坑(あな)で、茅(かや)等を敷き氷を積み草で覆ったもので、製氷池を伴ったものです。

 平安時代、延喜式によれば、元日節会で氷室の氷の厚さを計って奏上し、新年の作柄を報告(氷様奏、ひのためしのそう)、4~9月には、山城、大和、河内、近江、丹波の10ヶ所21室の氷を天皇に献上しました。氷室は、一般的に近代初期まで各地で利用され、遺跡も発掘されています。

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