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2011年8月 1日 (月)

西田幾多郎(石川出身の哲学者)、善の研究(西田哲学のルーツ)、京都学派の哲学(禅の東洋思想「無」と西洋哲学を融合)、とは(2011.8.1)

   哲学(てつがく)とは、「生きること」そのものに根ざした、最も身近な「問い」として始まった思索であるという。私は、2006年(平成18年)7月、はじめて西田幾多郎記念哲学館(宇ノ気、河北郡、のちかほく市、石川県)を訪ね、そのような考え方もあるものか!と感じ入ったことがあります。たとえば、「」については、「そこにもの(物)が、ある(有)、といえども、それを意識(自覚)しなければ、ない(無)、と同じである!」という。

 哲学という名のついたミュージアムは、哲学先進国の欧米を含めて、西田哲学館(設計、安藤忠雄氏)だけという。そこで、改めて、西田哲学の世界について調べてみました。西田幾多郎記念哲学館(内日角井、かほく市、石川県): http://www.nishidatetsugakukan.org/index.htm

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西田幾多郎(にしだきたろう、近代日本最初の独創的哲学を樹立、京都学派、google画像) 

(解説) 西田幾多郎(にしだきたろう、1870~1945)は、、宇ノ気・金沢(石川)で学び、壮年期はおもに金沢・京都で教鞭をとり、晩年には鎌倉(神奈川)で思索と執筆に明け暮れ、生きることがそのまま思索でもあるような人生であったという。

 哲学者。石川県生れ。京大教授。禅の宗教性と生の哲学やドイツ観念論の論理を思弁的に統合し「」の哲学を開拓。著「善の研究」「働くものから見るものへ」「自覚に於ける直感と反省」「無の自覚的限定」など。文化勲章。思弁とは、経験によることなく、ただ純粋な思考によって真理の認識に到達しようとすること。知的直観の意味をもつ場合もある。(広辞苑より)

 ○ 善の研究(西田哲学のルーツ)

 西田幾多郎、「禅の研究」の序文の中で、「私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない。いわゆる物質の世界というものは、これから考えられたものにすぎないという考えをもっていた。まだ高等学校の学生であったころ、金沢の街を歩きながら、夢みるごとく、このような考えにふけったことが思い出される。そのころの考えがこの書の基ともなったかと思う」、と書いています。これは、善の研究の根本思想である直感を自覚的に裏付けようとする「純粋経験」が金沢の第四高等学校の学生時代に芽生えていたことを示唆しています。 善の研究西田幾多郎、図書カード、青空文庫、電子図書館): http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card946.html

 善の研究」は、西田幾多郎処女作。1911年(明治44年)刊。金沢の第四高等学校で教鞭をとるかたわら、金沢市卯辰山にあった洗心庵雪門和尚に師事し、打座参禅に務めつつ、学生に講義した草稿をまとめたものです。この書の根本的な立場「純粋経験」は、ウイリアム・ジェームズの西洋哲学を借りながら、坐禅の東洋的精神体験を含んだもので、そこから実在・善・宗教の諸問題を論じる哲学であるという。 雪門和尚(洗心庵、卯辰山、金沢)と西田幾多郎(年代記): http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site42/kitaro21.htm

 西田は、善の研究以後、もっぱら東洋のの伝統的な考え方「」と西洋の哲学を対決させました。そして、東洋思想と西洋哲学との間に通路を開いたといわれる西田哲学の壮大な体系をつくりあげ「絶対無の自己限定」「絶対矛盾の自己同一」などで表現される独自の哲学を確立しました。というわけで、彼の哲学は、東西の思想の総合の上に独創的な哲学大系を樹立したもので、「西田哲学」と呼ばれています。

○ 京都学派の哲学(禅の東洋思想「無」と西洋哲学の融合)

 東京大学の文学部哲学科と京都大学文学部哲学科では、その学風に大きな違いがあったという。東京大学の哲学科には博学な学者がそろっていたが、彼らは西洋の哲学者、たとえばデカルト、カントの学説を正確に学び、それを翻訳したり紹介したりして、そのような偉大な哲学者について精密な研究書を書くことが哲学であると考えているようであったという。

 しかし京都大学の哲学科は違っていたという。京都大学文学部の初代の人事を行ったのは、初代文科大学長の狩野貞吉という奇人大学者であった。狩野は、アカデミックな東京大学文学部に対して、京都大学文学部に学歴にこだわらずすぐれた学者を集め、京都大学文学部を独創的な学問の発祥地にしようとする抱負をもっていました。

 そして哲学の教授に、東京大学の本科に比べると一段低くみられていた選科出身の西田幾多郎、東洋史学の教授に師範学校卒業で新聞記者をしていた内藤湖南を起用しました。また、英文学の教授に夏目漱石を、美学の教授に高山樗牛を迎えようとしたが、その計画は漱石の京都嫌い及び樗牛の早世によって実現不可能になったという。

 狩野はこのような破天荒な人事を行った後、文部省と対立し、職を辞して東京に戻り、書画や刀剣の鑑定によって生計を立てました。そしてその博学きわまりない学識にもかかわらず、ほとんど著書らしい著書を書かずに市井の隠者として一生を終えたという。

 なお、その頃の教授陣は、哲学が西田幾多郎、哲学史朝永三十郎、美学深田康算、西洋史坂口昂、日本史内田銀藏、心理学波多野精一、倫理学田辺元というそうそうたるメンバーでした。

 梅原猛は、わが国初めての東西思想を融合した独創的な哲学と高く評価された「西田哲学」こそは、真の哲学であると考え、1945年(昭和20年)4月8日、西田の学風の残る京都大学文学部哲学科に入学したという。

 西田幾多郎は、事に於いても卓抜な才能を発揮したという。西田は、東京大学で数学と哲学を学び東北大学の講師であった田辺元を哲学の助教授に、「古寺巡礼」や「日本古代文化」を書き、母校東大から異端視されていた和辻哲郎を倫理学の助教授に迎えました。そしてカント哲学の研究者であるとともに、後に文部大臣を務めた厳格な道徳の理想を説く天野貞祐を近世哲学史の助教授にしました。

 また天野の友人で、長い間ヨーロッパに滞在して西洋の哲学と文学を身につけた遊蕩児(ゆうとうじ)でもあった九鬼周造が日本に帰るや、近世哲学史を九鬼に担当させ、天野を和辻が東大に転任した後の倫理学教授にしました。九鬼はハイデッガーの講義も聴き、ドイツ語を十分解さなかったサルトルにハイデッガー哲学を教えたという噂(うわさ)さえあり、のちに「いきの構造」というみごとな日本文化論を書きました。そして西田の高弟でありフッサール、ハイデッガーに学んだ現象学者である山内得立を古代・中世の研究者に転向させ、古代哲学の教示に据えました。

 こうしていわゆる京都学派が勢揃いしたわけですが、京都学派は、西田という強烈な光を放つ太陽の如き哲学者の周囲に田辺、和辻、天野、九鬼、山内という、西田とは異なる光を発する哲学者がきら星の如く輝いていたという。西田の門下生には、法政大学の総長の谷川哲三、東京学芸大学長高坂正顕、評論家林達夫らがおり、わが国の思想界にはかりしれない影響を与えました。

 西田幾多郎は、著書「続思索と体験」の中で、自分の人生、「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたと云へば、それで私の伝記は尽きるのである」と、書いています。  

 西田幾多郎が思索しながら散策した琵琶湖疎水沿いの道は、「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれています。哲学の道(ホーム、京都おもしろスポット): http://kyoto.gp1st.com/350/ent156.html

 私は、1964年(昭和39年)4月頃、京都大学理学部(追分町、北白川、左京区)から東に歩いて5分ほど、銀閣寺の近く(下別当町、北白川、左京区)で下宿(村井良治様方)していたことがあり、「哲学の道」もすぐ近くにありましたので、疎水沿いの桜並木の下を、これが哲学の道か! と物思いにふけりながら、散策したことがあります。

(参考文献) 北陸人物誌(昭和編③)、四高の三太郎、西田幾多郎、四高の講義、善の研究、思想界に大衝撃、1965年(昭和40年)1月7日、北国新聞朝刊、より; 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999): グルーヴイ編; 石川県西田幾多郎記念哲学館ガイドブック、石川県西田幾多郎記念館(2002); 梅原猛: 思うままに、人類哲学についての覚書(二) 奇人狩野と独創西田、2010年(平成22年)11月1日(月)、北陸中日新聞夕刊、及び人類哲学についての覚書(三) 独創的哲学の萌芽、2010年(平成22年)11月8日(月)、北陸中日新聞夕刊、より. 

(追加説明) ○ 西田幾多郎(にしだきたろう、1870~1945)は、宇ノ気(うのけ、石川県)生れの哲学者。1890年(明治23年)20才、第四高等中学校中退、入学したとき、二級上に鈴木大拙がいました。1891年(明治24年)21才、東京帝国大学文科大学哲学科選科に入り、その頃は、もっぱら鎌倉の円覚寺(臨済宗、鎌倉五山の第二位)、建長寺(臨済宗、鎌倉五山の第一位)などで参禅、1894年(明治27年)24才、同大学を修了、帰郷しました。

 1895年(明治28年)25才、石川県尋常中学校七尾分校教諭、1896年(明治29年)26才、第四高校講師、1897年(明治30年)27才、山口高校教務嘱託を経て、1899~1909年(明治32年~明治42年)29~39才、第四高等学校教授となり、この頃は、金沢市卯辰山にあった洗心庵雪門和尚に師事し、熱心に打座・参禅、禅道を深めました。「寸心」という雅号も、同和尚から与えられたものです。そして、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という「純粋経験」「直接経験」及び「絶対矛盾的自己同一」など、のちの彼の根本思想になるものについて思索を深めました。

 1909年(明治42年)39才、学習院大学教授、1910年(明治43年)40才、招かれて京都帝国大学文科大学助教授となり、京都に移住しました。1911年(明治44年)41才、「善の研究」を発表し、1913年(大正2年)43才京都帝国大学文科大学教授となり、文学博士の学位をうけました。東洋的精神性の自覚を基礎に、西洋哲学を積極的に摂取し、東西思想の内面的統一を求めて、独特の「西田哲学」を樹立し、後継者の田辺元らと京都学派を形成しました。

 1928年(昭和3年)58才、京大を停年退職後、1933年(昭和8年)63才、鎌倉に居を移し、夏と冬は鎌倉で、春と秋は京都で過ごすようになりました。生涯で30回住むところを変え、鎌倉でも17年間に4度引っ越しましたが、ついには七里ヶ濱に近い場所に居を落ち着け、最後までそこで思索と学究の日々を送りました。1940年(昭和15年)70才、文化勲章を受章し、1945年(昭和20年)6月7日、終戦の直前、鎌倉姥ヶ谷の山荘で病没しました。享年75才。著書には、「自覚に於ける直観と反省」「働くものから見るものへ」「哲学の根本問題」、全集18巻などあります。

○ 鈴木大拙

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鈴木大拙(すずきだいせつ、1870~1966、金沢ふるさと偉人館、金沢、石川): http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/exhibit/11suzuki.html鈴木大拙館(金沢、石川):http://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/

 鈴木大拙は、仏教学者・思想家。石川県の人。学習院・大谷大学教授。禅研究者として知られ、アメリカで活躍。著「禅と日本文化」「禅思想史研究」(武士道や絵画、茶道、能などの魅力ある日本文化創ったのは禅仏教である!)のほか英文の著作も多い。文化勲章。(広辞苑より) 

 西田幾多郎鈴木大拙無二の親友であり、西田自身も坐禅の体験をもち、処女作にして西田哲学の名を長く日本の社会に残した「善の研究」は、禅寺での坐禅体験を西洋哲学によって論理化したものであるとさえ云われています。

○ 禅の究極は「」になることという。「」は、膨れた風船の中にいる自分を創造してみると分かりやすい。執着しない、自由な心になることをいう。禅の世界では、人を「本来無一物」と定義しています。その心は、本来はすべてのものが「」であり、私たち人間も本来何も持っていないことを意味する。しかし、人はこの世にあふれる物に目や心を奪われ、執着するため、心が曇り、不満や悩みが生まれる。つまり、曇りのない晴れた心を持ち、執着心を捨てなさい、という教えだ。(禅の世界、「坐禅(ざぜん)とは」、2010年(平成22年)11月7日(日)、北陸中日新聞、朝刊より

○ 平安末期から鎌倉時代、日本に二つの禅宗の宗派、臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗(そうどうしゅう)がありました。臨済宗(りんざいしゅう)は、栄西が宋で学び日本で広めました。生まれつき備わっている人間性(仏性)を座禅によって目覚めさせ、人生を豊かにすることを目的とする。政治の新興勢力である武士が禅宗に接近し、栄西亡き後、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が北条時頼の信頼を得て飛躍的な発展を遂げました。一方、曹洞宗(そうどうしゅう)を開いた道元は、栄西の系譜で臨済禅を学んだが、政治権力との接近を望まず、座禅に打ち込むため、1244年(寛元2年)に越前に永平寺を開きました。ひたすら座禅に生き、自分の中の仏性を見出し、この姿こそ仏だと信じることを目指します。(日本の仏教、2004年(平成16年)10月31日(日)、北陸中日新聞、朝刊より

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