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2011年8月の7件の記事

2011年8月30日 (火)

残暑厳しい季節(2011年8月30日)、わが家(桜田、金沢)近くの街路樹で赤く果実が熟したヤマボウシ(山法師)、街路樹によじ登り花咲くノウゼンカズラ(凌霄花)の風景

    残暑(ざんしょ)とは、立秋(りっしゅう、新暦8月8日頃)後の暑さのことで、「暑さ寒さも彼岸(ひがん)まで」と言われるように、9月半ばまでは、まだ厳しい暑さを感じます。 朝夕は過ごしやすくなってきましたが、日中はまだ残暑が厳しいようです。 

 8月も終わりの頃(8月30日)、わが家(桜田、金沢)近くの街路樹で赤く果実が熟したヤマボウシ(山法師)、街路樹にまとわりついて咲くノウゼンカズラ(凌霄花)などが目についたので、それらの風景をデジカメ写真で撮りました。

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わが家近くの街路樹 赤く果実が熟したヤマボウシ山法師)、 街路樹によじ登り花咲くノウゼンカズラ凌霄花)、桜田、金沢、2011年(平成23年)8月30日撮影)  

 私は、ヤマボウシ(山法師、山桑とも)の熟した赤い実が食べられるということで、手にとって食べてみましたが、やわらかくて甘く、とてもおいしいものでした。果実には種子が1~5個ほど含まれていました。

 また、ノウゼンカズラ(凌霄花)は耐寒性落葉つる性木本(つるの長さ、3~6m)ですが、街路樹に枝から気根を出して吸着してよじ登り、枝の先にラッパ型のオレンジ色の花を横向きに咲かせている姿が目につきました。

(参考文献) 樋口清之: 生活歳時記(第2版)、三宝出版(1994); 主婦の友社編: 花木&庭木図鑑200,主婦の友社(2009).

 

2011年8月27日 (土)

大野弁吉(幕末の科学技術者、加賀、石川)、からくり師弁吉、平賀源内(讃岐、香川)、からくり儀右衛門(久留米、福岡)の技術にも匹敵、大野お台場公園のお台場、とは(2011.8.27)

  からくり(絡繰)とは、広辞苑によれば、「糸のしかけであやつって動かすこと。 また、その装置。転じて、一般に、しかけ。絡繰人形(からくりにんぎょう)と同じで、糸やゼンマイなどの仕掛け(しかけ)で、動くように造った人形」、とあります。

 江戸時代、加賀(石川)では、からくり人形の製作者、大野弁吉(おおのべんきち、1801~1870,中村屋弁吉とも)が有名で、北前船の豪商、銭屋五兵衛(ぜにやごへい、1773~1852)の有能なブレーン(助言者)でもありました。 

○ 大野弁吉中村屋弁吉とも、加賀、石川)

大野弁吉(おおのべんきち、中村屋弁吉とも、1801~1870、肖像写真、江戸後期、大野、金沢、石川)とからくり三番叟人形(さんばそうにんぎょう、座敷からくり、江戸後期  大野弁吉(写真、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%BC%81%E5%90%89+%E5%86%99%E7%9C%9F&hl=ja&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=EZBYTsf9G6TNmAWL15iQDA&ved=0CCUQsAQ&biw=1024&bih=591.

(解説) 大野弁吉(おおのべんきち、1801~1870,中村屋弁吉とも、加賀、石川)は、京都五条通り、羽子細工師の子として生まれ、幼少のころから非凡な才能をあらわすとともに、20才のころ長崎に出て、オランダ人から理化学、医学、天文、暦数、鉱山、写真、航海学を修得したという。その後、対馬から朝鮮に渡り、さらに紀伊の国などに赴(おもむ)いて、馬術や砲術、算術、暦学を究(きわ)めたという。やがて京都に帰り、中村屋八右衛門の長女うた(加賀国大野村生まれ)の婿(むこ)となり、1831年(天保2年)石川郡大野村(金沢市大野町)に移住し、1870年(明治3年)5月に没するまで、大野の地で居住しました。その墓は大野伝泉寺にあります。

 大野弁吉は、加賀の平賀源内(ひらがげんない、1729?~1779、讃岐、香川)とも呼ばれ、その技術は東芝の創業者で「からくり儀右衛門」と呼ばれた(初代)田中久重(たなかひさしげ、1799~1881,久留米、福岡)にも匹敵すると言われています、大野弁吉からくりの作品と諸資料は、金石(金沢)の北隣、大野お台場公園の北側にある石川県金沢港大野からくり記念館に展示されています。 一東、鶴寿軒と号し、木彫、ガラス細工、塗り物、蒔絵などのほか、からくり人形には優れた名作を多く残しました。 石川県金沢港大野からくり記念館(大野、金沢): http://www.ohno-karakuri.jp/

○ 平賀源内(讃岐、香川)、からくり儀右衛門田中久重とも、久留米、福岡) 

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平賀源内(ひらがげんない、1729?~1779、讃岐、香川)

(解説) 平賀源内(ひらがげんない、1729?~1779,讃岐、香川)は、江戸中期の科学者、戯作者(げさくしゃ)、浄瑠璃(じょうるり)作者で、名は国倫、号は鳩渓、戯号は風来山人、福内鬼外などです。高松藩(讃岐、香川)の小吏(しょうり)の家に生まれ、1752年(宝暦2年)に長崎に留学、1754年(宝暦4年)江戸に出て本草学(ほんそうがく)を学びました。物産会を開いて物類品隲(ぶつるいひんしつ)を著(あらわ)し、エレキテル、寒暖計、火浣布(かんかふ、石綿布)などを製し、鉱山発掘を計画し、油絵の洋風画も描きました。その間、致仕浪人し、学問のかたわら談義本や浄瑠璃を執筆しました。多才にして世にいれられず、晩年生活が荒れ、口論から人を殺傷(さっしょう)して獄死(ごくし)しました。 平賀源内記念館(志度、さぬき市、香川): http://ew.sanuki.ne.jp/gennai/

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からくり儀右衛門(からくりぎえもん)は、(初代)田中久重(たなかひさしげ、1799~1881、久留米、筑後、福岡)

(解説) からくり儀右衛門(からくりぎえもん)は、(初代)田中久重(たなかひさしげ、1799~1881、久留米、筑後、福岡)の異称(いしょう)で、(初代)幕末・明治初期の技術者です。久留米絣(くるめがすり)の織機を製作、また水仕掛けのからくり人形を作り、「からくり儀右衛門」と称しました。京都で蘭学を学び時計の製作などに従事、のち大砲や汽船の汽缶(きかん)を製作、維新後は東京新橋に田中工場を設立し、電信機械を製作しました。

 (2代)田中久重(たなかひさしげ、1846~1905)は、初代の養子で、幼名、金子大吉です。田中工場を東京芝浦に移し、民間最大の機械工場(のちの芝浦製作所、東芝)に発展させました。 田中久重東芝未来科学館、川崎市、神奈川県): http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/toshiba_history/roots/hisashige/index_j.htm

 からくりは、遊戯(ゆうぎ)の中で生まれたオモチャですが、その時代の先端(せんたん)の科学技術が利用されています。その仕組みには、日本の職人の創意、工夫、技術、美しさへのこだわりが生きています。それらは、からくりを楽しむ人々の遊び心や好奇心を満たし、現代の人々にも脈々と受け継がれています。

 私は、からくり記念館(大野、金沢)には、これまで何度かマイカー(ファミリア1500)で訪れ、からくりの実演を見て、体験もし、その仕掛けの巧妙なことに驚いたことがあります。その時、からくり人形を動かすゼンマイに、クジラ(鯨)のヒゲが使われていたのが、強く印象に残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); からくり記念館(石川県金沢港大野)編: 展示図録、パンフレット、幕末の科学技術者、大野弁吉の世界(1996); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.210~212,米田茂、大野弁吉ーからくり人形の発明者ー、裳華房(1997).

○ 平安時代末、1157年(保元2年)、梁塵秘抄(りょうじんひしょう、今様歌謡集、後白河法皇編著)の中の言葉、「遊びやせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」(遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか、戯れをしようとして生まれてきたのだろうか、一心に遊んでいる子どもの声を聞くと、私の体まで自然に動き出してくることだよ。 植木朝子編、梁塵秘抄、角川ソフィア文庫、2009)には、江戸時代に花開いた日本文化が端的に表されているという。

 平和な江戸時代には、武士も庶民も我々が考える以上に遊び、生活を楽しんでいたという。その中からからくりも生まれました。(からくり記念館パンフレットより) 梁塵秘抄童心の歌遊びやせんとや生まれけむ ---、 つれづれの文庫、趣味の文書室): http://www.nextftp.com/y_misa/ryoujin/hisyo_06.html

○ 大野お台場公園  公園のお台場名の由来として、幕末期に外国船の来航に対する防御策として、徳川幕府の海防令により、1850年(嘉永3年)5月から、加賀藩が領有地の加賀、越中、能登の三州に火矢筒、大砲を備える17箇所の台場の築造に着手し、その中に大野お台場がありました。

 加賀藩の三州のお台場として、加賀(本吉、大野、寺中、宮腰、畝田)、能登(今浜、福浦、黒島、輪島、狼煙、正院、宇出津、曽良)、越中(氷見、伏木、方生津、生津)など17箇所に築造されたという。現在、本吉(美川)、大野、寺中(金石)復元して園となっています。(板垣英治:加賀藩の火薬 Ⅷ. 三州海岸の台場築造に関する調査・研究、日本海域研究 第44号別冊、p.23~38(2013).)加賀藩の火薬 Ⅸ. 17箇所の台場の規模と砲備の研究、日本海域研究 第44号別冊、p.39~55(2013).)

 台場(だいば、お台場とも)、江戸末期に黒船襲来に備え、海防に備えた大砲の砲台、品川台場(江戸、東京)、大野お台場(加賀、石川)、のち大野お台場公園、とは(2014.10.30):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/
2014/10/20141030-d9dd-1.html

○ 台場(だいば) 江戸末期に江戸湾(東京湾)品川沖に築かれた砲台品川台場お台場とも。黒船来襲に備えて1853年嘉永6年)から7砲台が築かれました。(下中邦彦編:小百科事典(初版)、平凡社(1973).)

2011年8月24日 (水)

回文(かいぶん、言葉遊び)、上から読んでも下から読んでも同音(和歌、俳句、和文、英文)、七福神宝船(初夢)と回文歌(ながきよの とをのねぶりの)、とは(2011.8.24)

   言葉遊びの一つ、回文(かいぶん)とは、上から読んでも下から読んでも同じ文章です。 日本には、昔から、「竹藪焼けた(たけやぶやけた)、竹屋が焼けた(たけやがやけた)」、「磨かぬ鏡(みがかぬかがみ)」、「私負けましたわ(わたしまけましたわ)」、「ダンスがすんだ(だんすがすんだ)」など、私が小学生の頃にもよく口ずさんだ回文があります。

 回文対は、上の句から読んでも下の句から読んでも同意の構成になる対句です。和歌、連歌、俳諧では、上から読んでも下から読んでも同音のものは、回文歌、回文連歌、回文俳諧と呼ばれています。 回文詩は、上から読んでも下から読んでも一詩をなすものです。 日本のことば遊び回文、日国フォーラム、日本国語大辞典): http://www.nikkoku.net/ezine/asobi/asb01_01.html

○ 回文歌、回文俳諧、回文

 最も有名な和歌は、室町時代、「長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな(ながきよの とをのねぶりの みな めざめ なみ のりぶねのおと のよきかな)」といったものです。この他にも、「草々の 名は知らぬらし 花守も 名は知らぬらし 花の咲く咲く(くさくさの なは しなぬらし はな もりも なは しなぬらし はな のさくさく)」、「桜木の 訪ひし 香りは 花の園 縄張り侵し 人の気楽さ(さくらきの とひし かおりは はな のその なは はりおかし ひと のきらくさ)」などが知られています。

 俳句では、「岸に咲く 色気も軽い 草にしき(きしにさく いろけもけろい くさにしき)」、「啄木鳥の 飛ぶや小薮と 軒つづき(きづつきの とぶやこやぶと のきつづき)」、「消ゆる子の 片目に見たか のこる雪(きゆるこの かたみにみたか のこるゆき)」、などが代表的なものです。

 最も長い回文は、江戸時代、1661年(寛文元年)、水車集(紙屋川水車集、第一、詞書)にある、「はれけき先の つま香を求めむ 色白い梅とも 岡松の木 咲きけれは(はれけきさきの つまかをもとめむ いろしろい むめとも をかまつ のき さきけれは) 」というもので、41文字もあります。 

 吉原の妓楼(ぎろう)大文字屋の主、村田市兵衛(1754~1828)は、狂名を加保茶元成(かぼちゃもとなり)といったが、ある人が放屁をした時、かたえの人が腹をかかえて笑い、これを回文の歌に詠めと注文すると、へ々々々々々々々々々々々々々々々々 へ々々々々々々々々々々々々々々々々、と詠んだという。(徳和歌後万歳集(とくわかごまんざいしゅう)より) 回文(鈴木棠三編、1412文、総合情報サービス): http://nobi.or.jp/i/kotoba/kaibun/index.html

○ 七福神宝船と回文歌

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七福神宝船絵(初夢用、江戸東京博物館蔵、東京、google画像) 江戸東京博物館(ホームページ、東京):http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/project/index.html

(解説) 宝船(たからぶね)は、正月の初夢を見るために枕の下に敷いた縁起物です。御宝(おたから)でもあり、多くは、米俵、宝貨を積んだ帆掛船、宝船の絵に七福神を描き、回文歌(かいぶんうた)、「ながきよの とをのねぶりの みな めざめ なみ のりぶねのおと のよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」などを書き添えました。この歌の出典は、室町時代、運歩色葉集(うんぽいろはしゅう、著者未詳)、1548年(天文17年)成立、という。  

 英文にも回文があり、その最も有名なのは、「ABLE WAS I ERE I SAW ELBA(訳は、エルバ島を見るまでは不可能ということを知らなかった)」 これは、ナポレオンの言葉をもじったものです。その他、「Madam, I'm Adam (マダム、私はマダムです)」は、よく知られている英文の回文です。

 私が中学生の頃、英語の授業で、英文、「To be to be ten made to be(トウ ビ トウ ビ テン メイド トウ ビ)」とはどういう意味か? との問題が出され、四苦八苦したことがあります。この文は、ローマ字読みすればよく、「トベ トベ テンマデ トベ(飛べ 飛べ 天まで 飛べ)」が名訳!との言葉遊びが正解であったことを思い出します。

 また、高校生の頃、世界で1番長い単語は何か?という問題が出され、正解は、「SMILES(スマイルズ)」!。 というのは、SとSの間か1マイル(1609.344メートル)もある、という言葉遊びでした。その後、長大単語を英語大辞典で調べたところ、 長大語は、floccinaucinihilipilification(フロクシノーシナイヒリピリフィケイション、訳、無意味だと見なすこと)で、この単語が世界で最も長いものと説明されていたことを覚えています。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記、p.57、七福神の由来、p.195、最も長い回文、三宝出版(1994).

(参考資料) 七福神の神使(神使の館): http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/01sinsi.html

(追加説明) 七福神(しちふくじん)とは、恵比寿(えびす、日本)、大黒(だいこく、インド)、毘沙門(びしゃもん、インド)、弁天(べんてん、インド)、布袋(ほてい、中国)、福禄寿(ふくろくじゅ、中国)、寿老人(じゅろうじん、中国)の七人の神様です。みな福の神様となっています。これら七福神は、神道、仏教、道教、バラモン教とりまぜての出身の神様です。この七人の神様が七福神として信仰されるようになったのは室町時代で、15世紀中頃には、七福神の装いをした七福盗賊が忍び入ることさえ喜ばれたという。

 七福神に扮した者が正月や小正月に家々を訪ねて祝言を唱えるのは、言葉にも魂があり、めでたい言葉を述べて祝福すれば、そのとおりの幸福が得られるという言霊信仰(ことだましんこう)から生まれた芸能です。

 

2011年8月18日 (木)

早口言葉(はやくちことば、言葉遊び)、早歌(はやうた)、口遊み(くちずさみ)、舌捩り(したもじり)、とは(2011.8.18)

   早口言葉(はやくちことば、早口そそりとも)は、同音が重複(ちょうふく、じゅうふくとも)して発音しにくい台詞(せりふ)、俗謡(民間のはやりうた、小唄、流行歌、俗曲、民謡など)を、誤らずに早口に言うことで、繰言葉(くりことば)ともいう。

 早歌(はやうた)は、神楽(かぐら)歌の後半にうたわれる拍子の早い、おかしみのある、歌曲です。はやりうた、小唄、そうかともいう。 口遊み(くちずさみ、くちすさみとも)は、文句や詩歌を小声で唱えることです。舌捩り(したもじり)は、言語遊技の一つで、発音しにくい語を続けて言わせるものです。

 ○ 早歌(はやうた)

 平安時代、雑芸(ぞうげい)と称する民間歌謡が宮中の神楽に取り入れられ、早歌(はやうた)となり、その名の通り、早いテンポで歌われたものと思われます。神慮を慰めるための滑稽な詞章となっています。

 本歌 ヤ、 あかがり(皹、あかぎれのこと)踏むな、 後(しり)なる子。 末歌 ヤ、 われも眼はあり。 先なる子。 本歌 ヤ、 女子(をみなご)の才(ざえ)は、 末歌 ヤ、 霜月師走の、かいこぼち。 本歌 ヤ、 ゆすりあげよ、そヽりあげん。 末歌 ヤ、そヽりあげよ、ゆすりあげん。 本歌 ヤ、これから行かば、 かれからゆかむ。 末歌 ヤ かれから行かば、 これからゆかむ。 早歌: 神楽歌(9世紀後半)、早歌「(本)安加加利(アカカリ)踏むな後(しり)なる子」、十巻、本和名抄(934年頃)二、「皹 (あかがり)漢書、注云皹〈音軍 阿加加利)手足裂也」、平家(13世紀前半)八、緒、日本国語大辞典(小学館)、より) 早歌(平安時代の歌謡): http://tukineko.pekori.jp/heian/yougo2/kayou/kayou.html#hayauta.

○ 口遊み(くちずさみ)

 明治時代?、擬声、擬態、擬音などによる早口の口遊み(くちずさみ)で、歌詞の中に、蛙が三ツで ミヒョコヒョコ、雁が三羽で ミガンガンなど、舌捩り(したもじり)によく似た箇所があります。 が、全体としては舌捩り(したもじり)ではないという。

狆(ちん)ワン 猫ニャア チュウ(鼠)、金魚に 放し亀。 牛モウモウ、 こま犬、 鈴カラリン。 蛙が三ツで、ミヒョコヒョコ、鳩ポッポに、立(たて)石 石灯籠、子どもが こけている。櫂(かい)突く 貝突く、布袋(ほてい)の どぶつに、つんぼ恵比寿、雁が三羽で ミガンミガン、花表(とりい)に お亀は 般若(はんにゃ)で、ヒウドンチャン、天神 西行(さいぎょ)に 子守に 相撲取(すもとり)ドッコイ、わいわい 天王 五重の塔、お馬がヒンヒンヒン。口遊み: 明治生まれの東京人なら大抵の人が知っている口遊みで、縁日の露店で並べられていた小物玩具などを羅列したものという、(私の明治、元高校教師、兵庫)、より): http://blog.goo.ne.jp/ryoyokota200608/m/200802.)

○舌捩り(したもじり)

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外郎売り(ういろううり、二代目市川團十郎、google画像

(解説) 江戸時代、二代目市川団十郎(1688~1758)という名優が、外郎売りういろううり、薬売り)の宣伝に一肌ぬぎ、ういろう薬の評判が非常に高まったという。その口上は、早口言葉、舌捩りの集成でした。台詞(せりふ)は、「拙者親方と申すは、御立合の中(うち)に御存(ごぞんじ)のお方もござりませうが、お江戸を立(たつ)て二十里上方、ーーー、息せい引(ひつ)ぱり東方世界の薬の元〆(じめ)薬師如来も上覧(じょうらん)あれと、ホヽ敬(うやまつ)て、うゐらうはいらっしゃりませぬか」。

 最初にういろう薬の歴史と本舗を紹介します。次に薬効のいろいろ、特に口がよく廻るという奇効があると述べ、その実演に入る先に、音韻の基礎知識について、ちょっと学のあるところを示して煙に巻きます。ーーー、江戸から小田原まで二十里を、早口さながら、一濱千里(いっしゃせんり)に到着し、も一度透頂香のセールスで終わっています。 外郎売り(ういろううり、成田屋):http://www.naritaya.jp/naritaya/18/12.php. 外郎売り(ういろううり、薬売りの口上、舞台、演劇用語、シアターリーグ):http://www.moon-light.ne.jp/termi-nology/meaning/uirouri.htm.)

 明治時代、東京で口にした舌捩り(したもじり、標準語!)は、「なま麦 なま米 なま卵(なまむぎ なまごめ なまたまご」、隣の客は よく柿食う 客だ(となりのきゃくは よくかきくう きゃくだの類という。(おなじみの早口言葉ランキングgooランキング)、より):http://cache001.ranking.goo.ne.jp/crnk/ranking/999/tonguetwister/.)

 私には、これらの他に、いつの頃からか、東京特許許可局(とうきょうとっきょきょかきょく)、竹垣に竹立てかけた(たけがきにたけたてかけた)、青巻紙赤巻紙黄巻紙(あおまきがみあかまきがみきまきがみ)、蛙ぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ(かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこ)など、強く記憶に残っている早口言葉があります。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 鈴木棠三: ことば遊び、講談社(2009).

(参考資料)外郎売り(ういろううり、google動画): http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%96%E9%83%8E%E5%A3%B2&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivns&source=univ&tbs=vid:1&tbo=u&ei=qGZFTabnIdOJcMHv5PgN&sa=X&oi=video_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CFcQqwQwAw.

(追加説明) ○ 蝦蟇の膏(がまのあぶら)は、ガマの分泌液を膏剤に混ぜて練ったという軟膏です。昔から戦陣の膏薬(軍中膏)として用いられ、やけど、ひび、あかぎれ、切り傷等に効能があるといわれ、大道に人を集めて香具師(やし、野師とも)が口上面白く売ったという。(広辞苑より) 落語「ガマの油」(吟醸の館): http://ginjo.fc2web.com/149gamanoabura/gamanoabura.htm.

○ ちんどん屋は、人目につきやすい服装をし、太鼓・三味線・鉦(かね)・らっぱ・クラリネットなどを鳴らしながら、大道で広告・宣伝をする人。関西では「東西屋」「広目屋(ひろめや)」という。(広辞苑より)

2011年8月13日 (土)

夏の季節、2011年8月13日、わが家(桜田、金沢)近くを散策中に目にした花木(かぼく)、ムクゲ(木槿)、ナツツバキ(夏椿)、アジサイ(紫陽花)、ヤマボウシ(山法師)、とは

   (はな)とは、広辞苑によれば、「高等植物の有性生殖にかかわる器官の総体。その各要素は葉の変形である花葉(かよう)と、茎の変形である花軸(かじく)という、花が穂状(すいじょう、穂のような形)につく時、穂の中軸をなして花梗(かこう、複数の花をつける共通の柄)をつける枝から成る。

花被(かひ、葉の変形で花を保護する)は、萼(がく)と花冠(かかん)の総称、形と色とも多様で、合弁花(ごうべんか)と離弁花(りべんか)があり、全く花被(かひ)を欠く裸花(らか)もある。 雄蕊(おしべ)、雌蕊(めしべ)のそろった花を両性花、いずれか一方を欠くものを単性花という」、とあります。

 花の色は、ふつう可視光線(かしこうせん)の一部を(選択)吸収して残りを反射または透過するため生じます。可視光線は、波長が約3800~8100Å(オングストローム、10のマイナス10乗メートル、100億分の1 メートル)の単波長の光は順に紫、青、緑、黄、赤などの色(スペクトル色)を呈し、現実の光(白色光)は種々の波長の光を含み、物体に吸収された残りの光の混合の割合で目に見える色、余色(よしょく、補色とも)が決まります。例えば、赤い花は、青の光を吸収し、残りの光が目に赤く見えることになります。

 夏の季節、2011年8月、わが家(桜田、金沢)近くを散策中、目につき、印象に残った花木(かぼく、美しい花の咲く木)を、デジカメで写真撮影し、改めてそれら花樹(かじゅ)の特徴について調べて見ました。

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ムクゲ (木槿、アオイ科、別名ハチス、キハチス、耐寒性落葉低木、3~4m、示野町、金沢) 花期は7~9月、近縁種はスイフヨウ(酔芙蓉)、朝開き、夕方にしぼむ1日花で「槿花(きんか)1日の栄」と、栄華のはかなさがムクゲの花でたとえられています。

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ナツツバキ夏椿、ツバキ科、別名シャラノキ、耐寒性落葉高木、8~15m、桜田町、金沢) 花期は6~7月、近縁種はヒメシャラ(姫沙羅)、朝開いて夕方には落ちる一日花です。自然樹形が美しく、シンボルツリー(庭の一番目立つ所に植えられた木)などによく利用されています。

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アジサイ (紫陽花、ユキノシタ科、別名シチヘンゲ(七変化)、耐寒性落葉低木、1.5~2m、出雲町、金沢) 花期は6~7月、近縁種はカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)、 これはガクアジサイですが、一般にはこの花序全体が装飾花に変化した園芸種で、小花が固まって手まり状に咲く品種群をアジサイと呼んでいます。

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ヤマボウシ山法師、ミズキ科、別名ヤマグワ(山桑)、耐寒性落葉高木、5~10m、桜田町、金沢) 花期は5~6月、近縁種はハナミズキ(花水木、別名アメリカ山法師)、丸いつぼみを法師の坊主頭に、花びらのような白い総ほう片を頭巾(ずきん)に見立ててヤマボウシと呼んでいます。 

 私は、一日花であるムクゲとナツツバキの花が木の根元に落ち散り、次から次へとつぼみをつけて花開く姿を目にし、花の諺、花は根に鳥は故巣(ふるす)、「木に咲いた花は根もとに落ち散ってそのこやしとなり、空を飛ぶ鳥は巣にかえる。物はみなその本に帰るたとえ」を実感しました。

 また、韓国の国花は、ムクゲ(無窮花、木槿とも)です。散っては咲き、また散っては咲く生命力の強さを、韓国人の歴史と性格にたとえることが多いという。 

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 主婦の友社編: 花木&庭木図鑑200,主婦の友社(2009).

(追加説明) ○ 京都の四季を楽しむ庭、法然院(左京)、宝鏡寺(上京)、西行庵(東山)などでは、に咲く花木には、キョウチクトウ、ノウゼンカズラ、また、に咲く草花にはミヤマヨメナ、に咲く草花には、キキョウ、ナデシコ、リンドウ、秋/冬に咲く草花には、スイセン、ホトトギス、ツワブキ、ミズヒキ、シュウメイギクなどが見られるという。 宝鏡寺庭園(京都観光、京都): http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=7000087

京都庭園の四季(春夏秋冬、京都社寺庭園の季節の花と紅葉情報、京都観光情報、京都): http://www.new-kyoto.com/. 京都府立植物園(植物園花ごよみ、半木町、下鴨、左京区、京都): http://www.pref.kyoto.jp/plant/11900008.html. 

○ はその美しさの背後に、地球上に誕生してからの約1億3000万年の長い歴史がある。現在の地球上にある野生の花の数、言葉を換えれば、花という生殖器官を持つ植物、つまり顕花植物(けんかしょくぶつ)の数は知られているだけで25万種といわれている。

 花は基本的に、その色、形、開花の時期など、すべてが異なっている。 野生の花のほとんどすべては、それぞれの環境にもっとも適応し、生き延びてきた結果の姿なのだ。花の色は、おおまかには、白、黄、赤、青、紫、黒、そして緑に分けている。

 花の色の主要色素は、アントシアニンフラボノイドと呼ばれる物質の仲間で、赤から紫、青色、黒色を発現し、500種以上)とカロテノイド(黄色を発現し、600種ほど)である。また、花の緑の色素にはクロロフィル、多くの白い花には、フラボノイドの仲間の色素が含まれている。(岩村司: 花はふしぎ、講談社(2008)、より)

2011年8月 8日 (月)

お経にまつわる歴史伝承、般若心経(はんにゃしんぎょう)、光明真言(こうみょうしんごん)、舎利礼文(しゃりらいもん)、ありがとう、とは(2011.8.8)  

  お(きょう)は、仏の説いた教法を文章にまとめたものです。律・論の三種を合わせて三藏(さんぞう、経蔵・律蔵・論蔵)という。そして、唐(中国)の頃、この三蔵の仏教聖典(大般若波羅蜜多経、600巻)をした(訳経僧)は、玄奘(げんじよう、602~664)で、玄奘三藏(げんじようさんぞう)あるいは三藏法師(さんぞうほうし)などの尊称で呼ばれています。その中の最も代表的な聖典が、摩訶般若波羅蜜多心経(大品般若、鳩魔羅什(くまらじゅう)の、27巻)です。

 私の郷里(上板、德島)の菩提寺は、四国霊場八十八ヶ所札所、六番安楽寺(真言宗)です。いつの頃からか、葬式、法要のときのおじゅっさん(お坊さんとも)の読経(どきょう)、唱和、法話、父母からの伝聞から、般若心経(はんやしんぎょう)、光明真言(こうみょうしんごん)、舎利礼文(しゃりらいもん)など、ありがたいお経ということで、何も考えずに(無心!)唱えていました。そこで、改めて、それらの経文について調べてみました。

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○ 般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう、経題)

(解説) 般若心経(はんにゃしんぎょう)は、仏典の一つで、1巻からなり、漢訳に諸説ありますが、最も流布(るふ)しているのは、中国、唐の玄奘三藏(げんじょうさんぞう)訳の262字からなり、般若経の心髄を簡潔に説く心経です。般若(はんにゃ)は、パーリ語のパンニャの音写で、真実の知恵のことですが、これは実体をもたない(くう)なるものであることを明らかにしています。この(くう)は(む)と並んで般若心経の根本的な思想で、インド人の発見した(ぜろ)に類似した概念で、起元前後から約100年間に成立したと考えられています。

 玄奘訳では、経題はただ「般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)」となっており、「仏説摩訶(ぶっせつまか)」の文字はありません。「仏説」という言葉が加えられたのは、「般若心経」が通常の仏典と異なり、「如是我聞(にょぜがもん、私はこの様にお釈迦様の説法を聞きましたの意)」で始まらないことが関連しています。あくまで釈迦が説いた教えであることを強調するために「仏が説いた」という言葉が加えられたという。 般若心経(四国遍路と一等三角点探訪): http://homepage2.nifty.com/sangaku/ftp/henro/hannyasingyou.htm

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 

 求道者である観音菩薩は、深遠な知恵の完成をめざして、その実践をしていたとき、すべての存在を構成している五つの要素がみな実体のないものであることを認識し、いっさいの苦悩やわざわいを超越することができた。

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是  

 我が弟子であるシャーリプトラよ、物質的現象は実体のないものにことならず、実体のないものは物質的現象にことならない。物質的現象はまさに実体のないものであり、実体のないものはまさに物質的現象である。そして、物質的現象とともに、すべての存在を構成している他の四つの要素である人間の感覚も、イメージも、こころの働きも、さらに知識も、物質的現象の場合とまったく同じなのである。

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 

 シャリープトラよ、いっさいの存在するものは実体のないことを特徴としており、生じることもなく、滅することもなく、汚れることもなく、清まることもなく、増えることもなく、減ることもない。このため、実体のない状態においては、物質的現象もなく、感覚もなく、イメージもなく、こころの働きもなく、知識もない。また、目や耳や鼻や舌やからだや思いといったものもなく、それが対称とする形も音も香りも味も、触ったり、思ったりすることのできる対象もない。さらに、目で見える世界も、意識の世界もない。そして、迷いもなく、迷いが尽きることもない。また、老いることも死ぬこともなく、老いることや死ぬことが尽きることもない。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを滅することも、苦しみを滅するための方法もない。

無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 

 知恵もなく、体得すべきものもない。体得すべきものがないので、求道者は、知恵の完成によって、こころに障害がなくなる。こころに障害がないから、恐れもなく、正しく見ることを妨げる迷いを離れて、永遠の平和を極めるのだ。現在、過去、未来にわたる三世の仏たちは、知恵を完成することによって、このうえない完全な悟りを体得している。

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 

 それゆえに、以下のことを理解すべきである。知恵の完成は真言(マントラ)であり、偉大な悟りの真言であり、このうえないすばらしい真言であり、他に比べることのできない真言である。いっさいの苦しみを取り除く、真実なるものであり、虚しいものではない。知恵の完成は、真言を説く。その真言とは、「羯諦(ぎゃてい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)」(この部分は呪文! 意味は、往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ、と。岩波文庫、般若心経より)である。これこそが、完璧な悟りに至るための真髄である。

 空海(弘法大師、774~835、真言宗開祖)は、注釈般若心経秘鍵」において、その特徴を「簡にして要なり、約にして深し」とまとめています。この経文は短いものだが、釈迦の教えの要点をしっかりと押さえてあり、少ない文字数で深い教えを説いているという。そして、仏教のすべての教えが含み込まれた「般若心経」を唱え、学ぶならば、あらゆる苦が取り除かれ、悟りを得たうえに、神秘的な神通力をもつことができるとしています。

 私は、小さい子供の頃、母親が京都の成安女子学園に在学中、毎日、般若心経を唱えていたことを聞いたことがあります。私には、般若心経は、葬式、法要での読経、お坊さんとの唱和と説教で、ありがたい呪文のような経文の思いがありました。 

○ 光明真言(こうみょうしんごん)

おん(唵) あぼきゃ(阿謨伽) べいろしゃのう(尾慮左曩) まかぼだらまに(摩訶毌捺囉麽坭) 

はんどま(鉢納麼) じんばら(人嚩攞) はらばりたや(鉢囉韈哆野) うん(吽) 

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光明真言(こうみょうしんごん、真言宗、金剛院、google画像) 光明真言(真言宗豊山派、金剛院、東京): http://www.kongohin.or.jp/recite.html

(解説) み仏(ほとけ)の光明(こうみょう)に一切(いっさい)がつつまるるをおもえ  密教で唱える真言の一つで、これを誦(とな)えれば一切の罪業を除くという。 土砂加持(どしゃかじ)は、密教の修法の一つで、光明真言で土砂を加持することです。この土砂を死体や墓所にまくと、死者の罪障を除くことができるという。

 私には、この梵字(ぼんじ)の経文は、呪文(じゅもん)のような感じがして、意味はよく分からないまま、いつの頃からか丸暗記しています。梵字は梵語、すなわちサンスクリット(インド・イラン語派)を記すのに用いる文字で、字体は種々ありますが、わが国では主として悉曇(しったん、梵字の音を表記する母体となる字)文字を用いてきました。

○ 舎利礼文(しゃりらいもん)

一心頂礼(いっしんちょうらい)、万徳円満(まんとくえんまん)、釈迦如来(しゃーかーにょーらい)、

心身舎利(しんじんしゃーり)、本地法身(ほんじほっしん)、法界塔婆(ほうかいとうば)、我等礼敬(がー

とうらいきょう)、為我現身(いーがーげんしん)、入我我入(にゅうがーがーにゅう)、仏加持己(ぶっかーじ

ーこ)、我証菩提(がーしょうぼーだい)、以仏神力(いーぶつじんりき)、利益衆生(りーやくしゅうじょう)、

発菩提心(ほつぼーだいしん)、修菩薩行(しゅうぼーさつぎょう)、同入円寂(どうにゅうえんじゃく)、平等

大智(びょうどうだいち)、今将頂礼(こんじょうちょうらい)

(解説) 精霊しょうりょう)の供養(くよう)に良(よ)し  一般に、葬儀、枕経、回向用の読誦教典のひとつとして用いられています。

 私は、小さい子供の頃、「舎利礼文」を父親から教えられたのですが、はじめの経文、「一心 頂礼(いっしんちょうらい)を、「一銭 頂戴(いっせんちょうだい)」と、長いこと間違えて覚えていました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 四国六番安楽寺、弘法大師講本部: 弘法大師講聖典、弘法大師御入定千百五十年御遠忌記念出版(1983); 新村出: 広辞苑、岩波書店(1991); 島田裕巳: 般若心経、262文字のことばの力、仏教の真髄から、日本人の心を読み解く、日文新書(2010).

(参考資料) 般若心経、光明真言(真言宗、金剛院、東京): http://www.kongohin.or.jp/recite.html

舎利礼文(真言宗、法楽寺、大阪): http://horakuji.hello-net.info/BuddhaSasana/Vajrayana/zaike/shariraimon.htm

舎利礼文(曹洞宗、東海地区教化センター、名古屋): http://soto-tokai.net/ok_kyo03.html

(追加説明) 「ありがとう」ということ この言葉は、もちろんアリガタシの連用形アリガタクの音便の形から出たもので、感謝する意で「ありがとう」と言うのは、「ありがとうございます」の「ございます」を省略したものである。アリガタシは古くは「難有し」と書かれた。つまり、この語の本来の意味は、有(あ)ることが難(むずか)しい、世にまれである、という意であったのだ。

 ところで、世にきわめてまれなことは、神仏の力実現されることが多い。いわゆる奇跡が起る。霊験あらたかである。そういうときに、神仏の前で「ありがたし」と手を合わせておがむ。このアリガタシは、本来、そういう奇跡を起した神仏の徳をたたえるわけだが、同時に神仏に感謝する気持ちが心底から湧き上がってくる。

 こうした「ありがとう」の本来の意味をたどってゆくと、「ありがとう」という言葉、神仏に対して使う最上の敬語なのである。(樋口清之: 生活歳時記、p.139、「ありがとう」ということ、三宝出版(1994)、より)

2011年8月 1日 (月)

西田幾多郎(石川出身の哲学者)、善の研究(西田哲学のルーツ)、京都学派の哲学(禅の東洋思想「無」と西洋哲学を融合)、とは(2011.8.1)

   哲学(てつがく)とは、「生きること」そのものに根ざした、最も身近な「問い」として始まった思索であるという。私は、2006年(平成18年)7月、はじめて西田幾多郎記念哲学館(宇ノ気、河北郡、のちかほく市、石川県)を訪ね、そのような考え方もあるものか!と感じ入ったことがあります。たとえば、「」については、「そこにもの(物)が、ある(有)、といえども、それを意識(自覚)しなければ、ない(無)、と同じである!」という。

 哲学という名のついたミュージアムは、哲学先進国の欧米を含めて、西田哲学館(設計、安藤忠雄氏)だけという。そこで、改めて、西田哲学の世界について調べてみました。西田幾多郎記念哲学館(内日角井、かほく市、石川県): http://www.nishidatetsugakukan.org/index.htm

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西田幾多郎(にしだきたろう、近代日本最初の独創的哲学を樹立、京都学派、google画像) 

(解説) 西田幾多郎(にしだきたろう、1870~1945)は、、宇ノ気・金沢(石川)で学び、壮年期はおもに金沢・京都で教鞭をとり、晩年には鎌倉(神奈川)で思索と執筆に明け暮れ、生きることがそのまま思索でもあるような人生であったという。

 哲学者。石川県生れ。京大教授。禅の宗教性と生の哲学やドイツ観念論の論理を思弁的に統合し「」の哲学を開拓。著「善の研究」「働くものから見るものへ」「自覚に於ける直感と反省」「無の自覚的限定」など。文化勲章。思弁とは、経験によることなく、ただ純粋な思考によって真理の認識に到達しようとすること。知的直観の意味をもつ場合もある。(広辞苑より)

 ○ 善の研究(西田哲学のルーツ)

 西田幾多郎、「禅の研究」の序文の中で、「私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない。いわゆる物質の世界というものは、これから考えられたものにすぎないという考えをもっていた。まだ高等学校の学生であったころ、金沢の街を歩きながら、夢みるごとく、このような考えにふけったことが思い出される。そのころの考えがこの書の基ともなったかと思う」、と書いています。これは、善の研究の根本思想である直感を自覚的に裏付けようとする「純粋経験」が金沢の第四高等学校の学生時代に芽生えていたことを示唆しています。 善の研究西田幾多郎、図書カード、青空文庫、電子図書館): http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/card946.html

 善の研究」は、西田幾多郎処女作。1911年(明治44年)刊。金沢の第四高等学校で教鞭をとるかたわら、金沢市卯辰山にあった洗心庵雪門和尚に師事し、打座参禅に務めつつ、学生に講義した草稿をまとめたものです。この書の根本的な立場「純粋経験」は、ウイリアム・ジェームズの西洋哲学を借りながら、坐禅の東洋的精神体験を含んだもので、そこから実在・善・宗教の諸問題を論じる哲学であるという。 雪門和尚(洗心庵、卯辰山、金沢)と西田幾多郎(年代記): http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site42/kitaro21.htm

 西田は、善の研究以後、もっぱら東洋のの伝統的な考え方「」と西洋の哲学を対決させました。そして、東洋思想と西洋哲学との間に通路を開いたといわれる西田哲学の壮大な体系をつくりあげ「絶対無の自己限定」「絶対矛盾の自己同一」などで表現される独自の哲学を確立しました。というわけで、彼の哲学は、東西の思想の総合の上に独創的な哲学大系を樹立したもので、「西田哲学」と呼ばれています。

○ 京都学派の哲学(禅の東洋思想「無」と西洋哲学の融合)

 東京大学の文学部哲学科と京都大学文学部哲学科では、その学風に大きな違いがあったという。東京大学の哲学科には博学な学者がそろっていたが、彼らは西洋の哲学者、たとえばデカルト、カントの学説を正確に学び、それを翻訳したり紹介したりして、そのような偉大な哲学者について精密な研究書を書くことが哲学であると考えているようであったという。

 しかし京都大学の哲学科は違っていたという。京都大学文学部の初代の人事を行ったのは、初代文科大学長の狩野貞吉という奇人大学者であった。狩野は、アカデミックな東京大学文学部に対して、京都大学文学部に学歴にこだわらずすぐれた学者を集め、京都大学文学部を独創的な学問の発祥地にしようとする抱負をもっていました。

 そして哲学の教授に、東京大学の本科に比べると一段低くみられていた選科出身の西田幾多郎、東洋史学の教授に師範学校卒業で新聞記者をしていた内藤湖南を起用しました。また、英文学の教授に夏目漱石を、美学の教授に高山樗牛を迎えようとしたが、その計画は漱石の京都嫌い及び樗牛の早世によって実現不可能になったという。

 狩野はこのような破天荒な人事を行った後、文部省と対立し、職を辞して東京に戻り、書画や刀剣の鑑定によって生計を立てました。そしてその博学きわまりない学識にもかかわらず、ほとんど著書らしい著書を書かずに市井の隠者として一生を終えたという。

 なお、その頃の教授陣は、哲学が西田幾多郎、哲学史朝永三十郎、美学深田康算、西洋史坂口昂、日本史内田銀藏、心理学波多野精一、倫理学田辺元というそうそうたるメンバーでした。

 梅原猛は、わが国初めての東西思想を融合した独創的な哲学と高く評価された「西田哲学」こそは、真の哲学であると考え、1945年(昭和20年)4月8日、西田の学風の残る京都大学文学部哲学科に入学したという。

 西田幾多郎は、事に於いても卓抜な才能を発揮したという。西田は、東京大学で数学と哲学を学び東北大学の講師であった田辺元を哲学の助教授に、「古寺巡礼」や「日本古代文化」を書き、母校東大から異端視されていた和辻哲郎を倫理学の助教授に迎えました。そしてカント哲学の研究者であるとともに、後に文部大臣を務めた厳格な道徳の理想を説く天野貞祐を近世哲学史の助教授にしました。

 また天野の友人で、長い間ヨーロッパに滞在して西洋の哲学と文学を身につけた遊蕩児(ゆうとうじ)でもあった九鬼周造が日本に帰るや、近世哲学史を九鬼に担当させ、天野を和辻が東大に転任した後の倫理学教授にしました。九鬼はハイデッガーの講義も聴き、ドイツ語を十分解さなかったサルトルにハイデッガー哲学を教えたという噂(うわさ)さえあり、のちに「いきの構造」というみごとな日本文化論を書きました。そして西田の高弟でありフッサール、ハイデッガーに学んだ現象学者である山内得立を古代・中世の研究者に転向させ、古代哲学の教示に据えました。

 こうしていわゆる京都学派が勢揃いしたわけですが、京都学派は、西田という強烈な光を放つ太陽の如き哲学者の周囲に田辺、和辻、天野、九鬼、山内という、西田とは異なる光を発する哲学者がきら星の如く輝いていたという。西田の門下生には、法政大学の総長の谷川哲三、東京学芸大学長高坂正顕、評論家林達夫らがおり、わが国の思想界にはかりしれない影響を与えました。

 西田幾多郎は、著書「続思索と体験」の中で、自分の人生、「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたと云へば、それで私の伝記は尽きるのである」と、書いています。  

 西田幾多郎が思索しながら散策した琵琶湖疎水沿いの道は、「哲学の道」と呼ばれ、日本の道百選にも選ばれています。哲学の道(ホーム、京都おもしろスポット): http://kyoto.gp1st.com/350/ent156.html

 私は、1964年(昭和39年)4月頃、京都大学理学部(追分町、北白川、左京区)から東に歩いて5分ほど、銀閣寺の近く(下別当町、北白川、左京区)で下宿(村井良治様方)していたことがあり、「哲学の道」もすぐ近くにありましたので、疎水沿いの桜並木の下を、これが哲学の道か! と物思いにふけりながら、散策したことがあります。

(参考文献) 北陸人物誌(昭和編③)、四高の三太郎、西田幾多郎、四高の講義、善の研究、思想界に大衝撃、1965年(昭和40年)1月7日、北国新聞朝刊、より; 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二: 日本史事典、岩波書店(1999): グルーヴイ編; 石川県西田幾多郎記念哲学館ガイドブック、石川県西田幾多郎記念館(2002); 梅原猛: 思うままに、人類哲学についての覚書(二) 奇人狩野と独創西田、2010年(平成22年)11月1日(月)、北陸中日新聞夕刊、及び人類哲学についての覚書(三) 独創的哲学の萌芽、2010年(平成22年)11月8日(月)、北陸中日新聞夕刊、より. 

(追加説明) ○ 西田幾多郎(にしだきたろう、1870~1945)は、宇ノ気(うのけ、石川県)生れの哲学者。1890年(明治23年)20才、第四高等中学校中退、入学したとき、二級上に鈴木大拙がいました。1891年(明治24年)21才、東京帝国大学文科大学哲学科選科に入り、その頃は、もっぱら鎌倉の円覚寺(臨済宗、鎌倉五山の第二位)、建長寺(臨済宗、鎌倉五山の第一位)などで参禅、1894年(明治27年)24才、同大学を修了、帰郷しました。

 1895年(明治28年)25才、石川県尋常中学校七尾分校教諭、1896年(明治29年)26才、第四高校講師、1897年(明治30年)27才、山口高校教務嘱託を経て、1899~1909年(明治32年~明治42年)29~39才、第四高等学校教授となり、この頃は、金沢市卯辰山にあった洗心庵雪門和尚に師事し、熱心に打座・参禅、禅道を深めました。「寸心」という雅号も、同和尚から与えられたものです。そして、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という「純粋経験」「直接経験」及び「絶対矛盾的自己同一」など、のちの彼の根本思想になるものについて思索を深めました。

 1909年(明治42年)39才、学習院大学教授、1910年(明治43年)40才、招かれて京都帝国大学文科大学助教授となり、京都に移住しました。1911年(明治44年)41才、「善の研究」を発表し、1913年(大正2年)43才京都帝国大学文科大学教授となり、文学博士の学位をうけました。東洋的精神性の自覚を基礎に、西洋哲学を積極的に摂取し、東西思想の内面的統一を求めて、独特の「西田哲学」を樹立し、後継者の田辺元らと京都学派を形成しました。

 1928年(昭和3年)58才、京大を停年退職後、1933年(昭和8年)63才、鎌倉に居を移し、夏と冬は鎌倉で、春と秋は京都で過ごすようになりました。生涯で30回住むところを変え、鎌倉でも17年間に4度引っ越しましたが、ついには七里ヶ濱に近い場所に居を落ち着け、最後までそこで思索と学究の日々を送りました。1940年(昭和15年)70才、文化勲章を受章し、1945年(昭和20年)6月7日、終戦の直前、鎌倉姥ヶ谷の山荘で病没しました。享年75才。著書には、「自覚に於ける直観と反省」「働くものから見るものへ」「哲学の根本問題」、全集18巻などあります。

○ 鈴木大拙

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鈴木大拙(すずきだいせつ、1870~1966、金沢ふるさと偉人館、金沢、石川): http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/exhibit/11suzuki.html鈴木大拙館(金沢、石川):http://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/

 鈴木大拙は、仏教学者・思想家。石川県の人。学習院・大谷大学教授。禅研究者として知られ、アメリカで活躍。著「禅と日本文化」「禅思想史研究」(武士道や絵画、茶道、能などの魅力ある日本文化創ったのは禅仏教である!)のほか英文の著作も多い。文化勲章。(広辞苑より) 

 西田幾多郎鈴木大拙無二の親友であり、西田自身も坐禅の体験をもち、処女作にして西田哲学の名を長く日本の社会に残した「善の研究」は、禅寺での坐禅体験を西洋哲学によって論理化したものであるとさえ云われています。

○ 禅の究極は「」になることという。「」は、膨れた風船の中にいる自分を創造してみると分かりやすい。執着しない、自由な心になることをいう。禅の世界では、人を「本来無一物」と定義しています。その心は、本来はすべてのものが「」であり、私たち人間も本来何も持っていないことを意味する。しかし、人はこの世にあふれる物に目や心を奪われ、執着するため、心が曇り、不満や悩みが生まれる。つまり、曇りのない晴れた心を持ち、執着心を捨てなさい、という教えだ。(禅の世界、「坐禅(ざぜん)とは」、2010年(平成22年)11月7日(日)、北陸中日新聞、朝刊より

○ 平安末期から鎌倉時代、日本に二つの禅宗の宗派、臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗(そうどうしゅう)がありました。臨済宗(りんざいしゅう)は、栄西が宋で学び日本で広めました。生まれつき備わっている人間性(仏性)を座禅によって目覚めさせ、人生を豊かにすることを目的とする。政治の新興勢力である武士が禅宗に接近し、栄西亡き後、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が北条時頼の信頼を得て飛躍的な発展を遂げました。一方、曹洞宗(そうどうしゅう)を開いた道元は、栄西の系譜で臨済禅を学んだが、政治権力との接近を望まず、座禅に打ち込むため、1244年(寛元2年)に越前に永平寺を開きました。ひたすら座禅に生き、自分の中の仏性を見出し、この姿こそ仏だと信じることを目指します。(日本の仏教、2004年(平成16年)10月31日(日)、北陸中日新聞、朝刊より

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