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2011年9月の9件の記事

2011年9月23日 (金)

秋分の日(2011年9月23日)、犀川の遊歩道の秋の野草、エノコログサ(ネコジャラシとも)、イタドリ、ヒガンバナ(マンジュシャゲとも)、コスモス、ススキ、オギ、アシ、フジバカマなど、花咲く風景

   秋分(しゅうぶん)は24節気のひとつ、彼岸(ひがん)の中日で、太陽が赤道上にあり、昼夜が等しく、以後、夜が長くなります。 この日を中心にして、仏教では彼岸会(ひがんえ)を行ない、祖先の霊を慰める法要を営むことになっています。

 彼岸会(ひがんえ)の起源はかなり古く、805年(延暦25年)の桓武天皇(737~806)の時代に、全国の国分寺で、春秋2回の彼岸の7日間(今年は、9月20日、彼岸入り、9月26日、彼岸明け)、金剛般若経(こんごうはんにゃきょう、一切法(いっさいほう、すべての存在)の空・無我であることを説いたもので、禅宗で重んずるお経)の読経をしたのが最初と言われています。

 今日、秋分の日(2011年9月23日)は、国民の祝日ですが、祖先をうやまい、亡(な)くなった人々をしのぶ日ということで、1948年(昭和23年)7月に制定されました。

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犀川の堤の風景(上 犀川と遊歩道(マンション10階からの眺め)、 犀川の遊歩道(マンションの南側の土手)、2011年(平成23年)9月23日(金)撮影)

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犀川の堤の野草(上 エノコログサ(狗尾草、ネコジャラシ(猫戯らし)とも、イネ科)、下 イタドリ(スイバ、スカンポとも、虎杖、タデ科)、2011年(平成23年)9月23日(金)撮影)

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犀川の堤の野草(上 ヒガンバナ(彼岸花、マンジュシャゲ(曼珠沙華)とも、ヒガンバナ科)、 下 コスモス(秋桜、キク科)、2011年(平成23年)9月23日(金)撮影)

 私は今日、2011年(平成23年)9月23日(金)、午後2~3時頃、天気がよかったので、犀川の土手の遊歩道を散策しながら、秋の野草、エノコログサ(ネコジャラシとも)、ヨモギ、イタドリ、ヒガンバナ(マンジュシャゲとも)、ツユクサ、コスモスなどの花を目につき次第、立ち止まりデジカメ写真(オリンパス、C-300ズーム)で撮影しました。

(参考文献) 新村出: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、三宝出版(1994); 高橋勝雄(写真・解説): 野草の名前、秋・冬、山と渓谷社(2003).

(追加画像) ○ 犀川堤防の遊歩道沿いの野草

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犀川の堤下の野草ススキ(薄、芒、イネ科)、2011年(平成23年)9月25日(日)撮影)

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犀川の堤上の野草オギ(荻、イネ科)、2011年(平成23年)9月25日(日)撮影)

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犀川の淵際の野草アシ、(葦、イネ科)、ヨシとも、2011年(平成23年)9月26日(月)撮影)

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犀川の堤上の野草フジバカマ(藤袴、キク科)、2011年(平成23年)9月27日(火)撮影)

2011年9月19日 (月)

金山穆詔(かなやまぼくしょう、もと高野山真言宗管長、金剛峯寺座主、大山、富山)、真宗王国、北陸地方の真言宗の偉大なる学僧、求道者、とは(2011.9.19)

   江戸時代のはじめ、金沢城の鉛瓦(なまりがわら)は、大山地区(富山)の長棟(ながと)、松倉(まつくら)、亀谷(かめがい)鉱山で産出したが使用されていたという。 

 そこで、私は、2006年(平成18年)8月4日(金)、大山地区にある長棟(ながと)鉛山と共に「越中七金山(えっちゅうななかなやま)」と呼ばれていた、松倉(まつくら)、亀谷(かめがい)、虎谷(とらたに)、川原波(かわらなみ)などの鉱山について調べるため、はじめて、マイカー(ファミリア1500CC)で、富山市大山歴史民俗資料館(亀谷、富山)を訪れました。 富山市大山歴史民俗資料館(ホームページ、亀谷、富山市、富山県): http://www.city.toyama.toyama.jp/kyoikuiinkai/ooyamakyouiku/rekishiminzokushiryo.html.

 その時、金山穆詔(かなやまぼくしょう、1876~1958)は、富山市大山地区生まれで、真言宗の偉大なる学僧、求道者、もと高野山金剛峯寺館長であったことを知り驚きました。北陸地方は浄土真宗の信者が多い真宗王国ですので、改めて、真言宗の高僧の秘められた人生、人物像などについて調べてみました。

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金山穆詔(かなやまぼくしょう、1876~1958、文珠寺高野山真言宗、大山、富山、google画像)

(解説) 金山穆詔(かなやまぼくしょう、1876~1958)は、富山県上新川郡大山村(旧大山町文殊寺)に金山忠吉の次男として出生、12才で大岩山日石寺真言密宗大本山、大岩、上市町、中新川郡、富山)に入門、大岩山(日石寺)春山一覚師の範子となり、13才で得度、僧名法龍となっておられます。

 高野山大学に2度学び、1905年(明治38年)、30才で高野山大学教授に就任、50年に及ぶ学究生活で真言密教の一代権威と言われました。1940年(昭和15年、65才)~1945年(昭和20年、70才)高野山大学学長の重責を果し、大学の独立を守りました。真言宗の理論を極め修行でも並ぶものがなく、1953年(昭和28年、78才)高野山真言宗管長、金剛峯寺座主に就任しました。

金山穆韶は、1924年(大正13年、49才)夏、四国霊場、21番札所、大龍寺(阿波、德島)で、空海(弘法大師)が修行したという「求問持法」の行に入りました。猛暑の中、7月12日から満願(まんがん)の8月30日までの50日間、お堂にこもったきりで、毎朝2時に起きて「虚空蔵菩薩」という仏様の名前を百万遍も称えつづけて、教えの真意を悟(さとる)行を、無事終えることができました。  また、「八千枚護摩法」という修行も生涯に3回、 1929年(昭和4年、54才)、1940年(昭和15年、65才)、1945年(昭和20年、70才)、積んだという。この修行は21日間毎日3回づつ不動明王の前で火をたいてお祈りする儀式で、その後、7日間の断食と護摩が加わる難行中の難行でした。 

 高野山では1913年(大正2年、38才)から1934年(昭和9年、59才)までの21年間、一日も欠かすことなく弘法大師の御廟(ごびょう)へ参拝され、生仏一体の境地に達されたという。1958年(昭和33年)6月11日、高野山天徳院で遷化(せんげ、83才)されましたが、一生涯肉食妻帯せず、行学(ぎょうがく)兼備、持戒(じかい)堅固の高徳(こうとく)であった。

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空海弘法大師真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

○ 空海弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15); http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b794-2.html

 私は、2001年(平成13年)8月頃、四国霊場、21番札所、大龍寺(大龍嶽、阿波、德島)を訪れたことがあります。マイカー(ファミリア1500CC)、ロープウエイにより、弟(悟)と二人で大龍寺を参拝した後、さらに大龍嶽の頂近くまで歩いて登ったところ、渓谷に向かって修行している空海の坐像が目につき、強く印象に残っています。

(参考文献) 富山歴史県歴史散歩研究会編(高井進 編集委員長): 富山県の歴史散歩(新版)、山川出版(1995); 前田英雄、藤田雅人、小松博幸編、著: 大山の先人を偲ぶ-大山歴史民俗資料のあらまし、富山市大山歴史民俗資料館(2005).

(参考資料) 企画展「金山穆詔師遺徳展」リスト(金山前官様の思いで、天徳院にて、伊藤弘子(75才)、年表、出陳品目、1991年(平成3年)12月13日~25日): http://www.reihokan.or.jp/tenrankai/exhibition/kikaku/kanayama.htm.

文珠寺(金城山宝珠院、高野山真言宗、上市町、富山): http://ww2.ctt.ne.jp/~houjuin/jin_cheng_shan_bao_shou_yuan/HOME.html.

大岩山日石寺(真言密宗大本山、上市町、富山):http://ooiwasan.com/home.html.

2011年9月15日 (木)

埋没林(魚津、富山)、完新世(沖積世、現世とも、地球の温暖な間氷期)、スギ(杉)の原生林の跡、入善(富山)沖の海底林、全国の埋没林(化石林含む)、ホタルイカ、とは(2011.9.15)

   津(うおづ、富山)は、片貝川と早月川の2つの河川にはさまれた扇状地、古くから海上交通の要所で、江戸期には新川(にいかわ)木綿や米の集散地であり、北洋漁業の基地としても発展してきました。

○ 魚津(富山)埋没林

 1930年(昭和5年)、魚津港(富山)の修築工事が開始されると、標高0メートル以下の地中から多数の樹根(じゅこん)が出土し、日本海側の地盤沈降の証拠として注目を集めました。樹痕は樹齢(じゅれい)が数百年を数えるものが、この時の工事だけでも200~300株も出土したと記録されています。

魚津埋没林博物館(ホームページ、魚津、富山):https://www.city.uozu.toyama.jp/nekkolnd/ .

(解説) 約1500~2000年前の温暖化地球の温暖な間氷期、沖積世、完新世!)にともなう海面の上昇などが原因で、海岸近くの森が水没し、片貝川の氾濫(はんらん)など、河川による堆積作用で地中に埋もれたことが判明しています。そこはスギ(杉)の原生林の跡で、出土する大型樹痕はスギ(杉)がほとんどで、根際の直径が3m、推定樹齢が数百年に及ぶ大木もあり、ハンノキ(榛の木)、カシ(樫)、ヤナギ(柳)、サクラ(桜)、トチ(栃)などが確認されています。

 完新世(かんしんせい、沖積世、現世とも)は地質時代名で、第四紀の最後の時期(1万年前~現在)です。1万年前頃に氷期から間氷期に変わり、その後は現在とほぼ同じ気候が続いています。現在の川、湖、海、砂漠などにおいて形成された堆積物で代表される時代で、人類の文化段階では、新石器時代以降に相当します。

 埋没林は、魚津港一帯のおもに波打ち際付近から内陸部の地中に埋蔵されています。埋蔵林が根を張った地盤は現在の海面より低い高さにあり、海面が変動したことを示しています。

 約3000年前の縄文時代の後期末の土器片が樹根の間から採集されており、かっては扇状地の末端にひろがっていた大森林のなかを縄文人たちが狩猟や採集にゆったりと歩いていたと想像されます。樹根のほか、樹幹、種子、花粉、昆虫類などが出土しており、植物は70種以上、昆虫は30種以上が確認されています。

 埋没林を今日まで1500年間ほど保存させたものは、魚津港一帯の豊富で良質な湧水の地下水(河川の伏流水、立山の雪解け水!)で、標高0m以下が常時水浸しになっていたため、腐(くさ)らずに残ったものと考えられています。

 魚津埋没林は、過去における海岸線の変化や当時の植生を知るうえで、貴重であることから、その包蔵地(ほうぞうち)が、1936年(昭和11年)に国の天然記念物に、さらに1955年(昭和30年)には特別天然記念物に指定されました。また、その指定地魚津埋没林博物館の敷地となっており、同館で埋没林の実物を観察することができます。

○ 入善(富山)沖海底林

 1980年(昭和55年)、黒部川の下流の扇状地、入善町(にゅうぜんまち、富山)の吉原(よしはら)沖で、北陸スキンダイビングクラブの人たちによって、海面下20~40mの海底の谷になったところから、多くの樹根(じゅこん、ハンノキ、ヤナギ、ヤマグワ、アオハダ、カエデ、コナラなど)が発見されました。

海底林入善沖、入善町、富山):. https://www.town.nyuzen.toyama.jp/bunka/shisetsu/shizen/o-kaiterin.html

 これは、8000~1万年ほど前、後氷期の海進で水没した海底林で、海底の湧水地点を中心に残存しており、木材の保存が海の中から湧出する地下水(黒部川の伏流水、立山の雪解け水!)と深い関係があることが分かりました。また、富山湾岸の四方沖、神通川河口付近でも同じような埋没林が発見されています。

 全国の埋没林(化石林含む)

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埋没林(まいぼつりん、化石林(かせきりん)含む、全国では約40ヶ所ほど、化石林(かせきりん)は、森林などの樹木が土砂などで埋まり、珪化木となった樹木林のことです、google画像) 

三瓶小豆原埋没林(さんべあずきはらまいぼつりん、三瓶、大日市、島根)http://nature-sanbe.jp/azukihara/(約4000年前の巨大地底林、直立状態で残存する幹の規模が際だっています)

地底の森ミュージアム(ちていのもりみゅうじあむ、仙台市富沢遺跡保存館、宮城県): http://inoues.net/museum/chitei_museum.html(富沢遺跡の埋没林は約2万前のもので、埋没林と旧石器が同時に発見されています)

化石林(かせきりん、桑島、白山市、石川): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8C%96%E7%9F%B3%E6%9E%97%E3%80%80%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1024&bih=584(約1億5000万年以前の手取川流域の日本最古の珪化木産地、天然記念物となっています). 手取川流域の珪化木産地(文化財選集、文化庁):http://www.weblio.jp/content/%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E7%8F%AA%E5%8C%96%E6%9C%A8%E7%94%A3%E5%9C%B0.

松任沖海底林(まっとうおきかいていりん、白山市、石川): http://www.city.hakusan.lg.jp/kyouiku/bunkazaihogo/contents_list/bunkazaitoppu/mishiteibunkazai/mattookikaiteirin.html(約8000年前のハンノキの株根です)

化石林公園(かせきりんこうえん、美濃加茂市、岐阜):http://www.h3.dion.ne.jp/~masaken/ootabasisyoukai.htm.(木曽川太田橋周辺では、中村累層中部地層から約1900万年前の珪化木が400本以上発見され、公園となっています)

化石林(かせきりん、甲西町、滋賀): 野洲川の河川敷では、約260万年まえの古琵琶湖層群から、立ち木の化石林が発見されています。

埋没林(画像、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E5%9F%8B%E6%B2%A1%E6%9E%97&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=geltTqOCMaPumAW_-sj_Dw&ved=0CDsQsAQ&biw=1024&bih=584.

 私は、これまでに、魚津埋没林博物館を何回か訪れる機会があり、埋没林を直接目にしましたが、いつもながら巨大な埋没林の樹根には驚かされました。また、立山の雪解け水が富山湾の水中からも湧き出しており、埋没林はその湧き水に守られ腐らず埋まっていたとのこと、自然の神秘を実感しました。

 また、私は、手取川流域の珪化木産地(石川郡白峰村桑島、のち石川県白山市女原)の化石壁下の手取川の河原に、手取ダム(ロックフィル型、着工/竣工、1969~1979年)の工事中に、マイカー(ファミリア1500CC)で何度か訪れたことがあり、そこで珪化木とかシダの化石を拾ったことがあります。

 ここは、多くの生物の化石(哺乳類のハクサノドン・アルカエウスの歯の形が残った下顎の骨、ヘビに似た姿の爬虫類「カガナイアス・ハクサンエンシス」の背骨や骨盤、古代動物「モンチリクタス・クワジマエンシス」の歯など)が出土する世界的な化石産地となっています。(北陸中日新聞(冨田章午):太古へ誘う桑島の化石、白山恐竜パーク、新種紹介の企画展、2017年(平成29年)8月13日(日)より)

桑島化石壁(桑島、白峰、石川郡、のち白山市、石川): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/hakusan/publish/sizen/sizen30.html.

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991); 富山歴史県歴史散歩研究会編(高井進 編集委員長): 富山県の歴史散歩(新版)、山川出版(1995); 魚津市教育委員会編(教育長 長島潔): 魚津の文化財、魚津教育委員会(2006).

(追加説明) ○ 埋没(まいぼつ)とは、広辞苑によれば、埋もれかくれること。埋もれて見えなくなること。

 埋没谷(まいぼつこく)は、平野の地下にある、沖積層(ちゅうせきそう)で埋めたてられた過去の谷です。もとは海面低下期に陸上で作られたもので、海面上昇により海面下に溺(おぼ)れ、その後沖積層(ちゅうせきそう)が堆積して平野となった、とあります。

 また、沖積層(ちゅうせきそう)については、①沖積世(ちゅうせきせい、完新世、沖積統とも、多くの沖積平野(ちゅうせきへいや、流水の堆積作用によって川筋に生じた平野)が形成された時代であるために、この名が生まれた。)に生成した地層、すなわち地質学上の最新の地層。 ②最後の氷河の最低温期(約2万年前)以後に、台地を刻む谷を埋めて堆積したやわらかで水を含んだ粘土、泥炭など、とあります。

○ 埋没土(まいぼつど)とは、新しい堆積物(飛砂、火山灰、氾濫(はんらん)土砂、山くずれ、地すべり堆積物、斜面堆積物、レス(黄土、おうど)、氷河堆積物、溶岩流など)に埋没した土壌です。土壌層位を完全または不完全に保存しますが、古土壌とは限りません。

○ 氷河時代(ひょうがじだい)とは、地球上の気候が非常に寒冷となる氷期(氷河時代の中で、地球上の気候が寒冷で、大陸の広範囲に氷床が拡大、前進する時期。最近の氷河時代である第四紀には、数十回の氷期があった)と、現在のような温暖な間氷期(氷河時代において、一時気候がやや温暖となり、氷河が高緯度地方まで後退した時期)とが何万年かの周期で繰り返される時代です。先カンブリア時代から現在までに少なくとも3度氷河時代が訪れました。最近の氷河時代は第四紀で、大陸上に氷床が急速に発達したり急速に衰退したりするのが特徴です。

○ 完新世(かんしんせい、沖積世、現世とも)は地質時代名で、第四紀の最後の時期です。洪積世の氷河が溶け去った後の時代で、現在に至っています。現在の川、湖、海、砂漠などにおいて形成された堆積物で代表される時代で、気候的条件派ほぼ現在と同様です。人類の文化段階では、新石器時代以降に相当しています。

○ ホタルイカ群遊海面(富山市水橋より魚津市にいたる海面、富山県)は、1922年(大正11年)、天然記念物に、さらに、1952年(昭和27年)3月29日、国の特別記念物に指定されました。 毎年、3月から6月上旬にかけて、産卵のために、ホタルイカのメスの親の大群が富山湾の沿岸、沖合い約1.3kmに押し寄せてきて、青色の神秘的な光を放ちます。 

 ホタルイカ(蛍烏賊)は、ホタルのように光を発するイカです。胴の長さは7cmくらい。オホーツク海および北海道、本州、朝鮮東岸の深いところにすんでいます。4~5月、産卵のために浅いところに集まってきます。富山湾の魚津と滑川付近の沖合に群集するホタルイカは有名です。発光するさまが見事なことから特別天然記念物に指定されています。市販のものは熱湯に一度通されているので、さっと湯をくぐらせるだけで調理できます。よく冷やして、カラシ酢味噌であえると非常にうまい。また、甘辛煮にすると、弁当などのおかずにピッタリ合います。吸い物にしても美味です。

 

2011年9月12日 (月)

駅伝制度(律令制)にまつわる歴史伝承、駅馬(五畿七道)と伝馬(郡)、駅路寺(阿波、德島)、駅伝競走(駅伝発祥の地、京都三条大橋~上野不忍池)、マラソン、とは(2011.9.12)

   駅伝(えきでん、やくでんとも)は、古代から発達した交通制度でした。中国では、秦漢帝国以来、首都を中心に全国にわたって駅伝制度を施行し、唐から清末に及びました。

 駅の本字は「」と書き、馬を備えた宿場のことで、日本では「駅家うまや」と呼びました。緊急の通信のために使者が発せられると、駅の馬を乗り継ぎながら目的地に向かって走りました。の本字は「」と書き、車の字を含むように、宿場に備えたを利用して、目的地に向かいました。そして、急がない通信や、高官の旅行などに車を使いました。

 駅伝制度(律令制)、駅馬(五畿七道)、郡(伝馬)

 日本では、奈良・平安時代律令制(律は刑法、令は行政法など、基本法典とする中央集権国家統治)のもと,中国の唐制を手本にして、駅伝制を定めました。が、日本には広い道路が余りなく、駅も伝も共に馬に頼りましたので、駅馬(えきば)および伝馬(てんま)の制を定めました。

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五畿七道(ごきしちどう、律令制のもと、古代の行政区画、google画像) 古代の道と駅(大村の歴史、長崎):http://www6.ocn.ne.jp/~fukusige/ayumi/oomura-history/kodainomichi-eki.html

(解説) 駅制(えきせい)は、律令制大化改新後から奈良時代・平安初期までの約3世紀)のもと、大宝令によって全国的に体系化されました。そして、公用の旅行や緊急の通信のため、五畿七道(ごきしちどう)の駅路は、幅10数メートルから6mほどの直線的な道路網で、原則として30里(約16km)ごとにが、また渡し場には水駅(すいえき)が置かれました。そこには5~20頭の駅馬が配置されました。五畿は山城、大和、河内、和泉、摂津の畿内諸国をさし、七道は他の諸国を東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海道に区分したもので、ごとに京より各国府を通過する駅路を設置しました。

 には、2~10頭、駅馬が置かれ、駅使駅鈴(えきれい)を携行して駅馬を利用しました。駅家(うまや)、駅財政駅馬(えきば)、駅船(えきせん)、駅子(えきし)の管理、運用には、駅長(えきちょう)があたりました。駅子は駅馬による駅使の逓送(ていそう)、駅馬の飼育にあたりました、伝馬(てんま)は、公用の人荷輸送に使われた馬で、駅馬とは別に、各郡ごとに5頭ずつ置かれ、国司の赴任などに利用されました。

 しかしながら、駅馬、伝馬とも、10~11世紀、平安中期以降、律令政治が衰えるにつれ崩壊していきました。が、伝馬は、通信の施設というよりも、交通や運送の役割をになっていたので、後世になると運輸のための用語となり、現在でも伝馬船などの言葉が残っています。

○ 駅路寺(徳島藩祖、蜂須賀家政、阿波、德島)

 駅路(えきろ、うまやじとも)は、宿駅(しゅくえき)の設備のある道路のことです。 宿駅(しゅくえき)は、街道筋に、旅客を宿泊させ、または荷物の運搬に要する人馬などを継ぎ立てる設備のある所です。鎌倉時代以降に発達し、交通、経済上の地方的中心ともなり、江戸時代には宿場町として栄えました。

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長谷寺(はせでら、駅路寺、本堂、観音堂とも、もと方丈、大師堂、1985年(昭和60年)改築、撫養町、鳴門市、德島、google画像) 

(解説) 駅路寺(えきろじ)は、德島藩祖、蜂須賀家政(1558~1639)が1598年(慶長3年)6月12日、阿波の主要な4街道をゆく旅人(遍路、出家、侍、百姓など)の便を図るために、その街道沿いにある8寺院(真言宗)を宿泊施設として指定したもので、阿波独特の制度です。伊予街道の福生寺、長善寺、青色寺、土佐街道の梅谷寺、打越寺、円頓寺、川北街道の瑞雲寺のち安楽寺が安楽寺谷から移転合併)、淡路街道の長谷寺の各寺ですが、いずれも1日行程のところにあります。これらの寺には、堪忍分として10石が与えられ、訪れた旅人の接待、悪事を企てる者の宿泊の禁止、不穏な動きをする者があれば庄屋に報告することを命じられていました。この制度の目的は、その報告による藩内の一揆、徒党の取り締まり、また、戦時には陣屋として使用されるなど、重要な役割を担っていました。長谷寺(駅路寺、歴史、鳴門、德島): http://www2u.biglobe.ne.jp/~chokuma/history/historytop.htm 

○ 駅伝競走

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駅伝の碑(駅伝発祥の地、上野不忍池弁天堂近く、東京、google画像) 1917年(大正6年)、4月27日~29日、京都三条大橋~上野不忍池、23区、508kmを45時間半かけ、奠都(てんと)50周年を記念した駅伝競走が行われました。 駅伝の碑(駅伝発祥の地、三条大橋東詰北、東山区、京都): http://hamadayori.com/hass-col/sports/ekiden-kyoto.htm

(解説) 駅伝は、道路上で行われる長距離のリレー競走です。 数人で一チームを作り、各人が所定の区間(1区間最低2km、10区間以上)を走り、着順または総所要時間によって勝敗を決めるもので、駅伝競走(えきでんきょうそう)と呼ばれています。日本で特に発達したもので、外国ではあまり例をみない。奠都(てんと)50周年を記念して、1917年(大正6年)京都三条大橋~上野不忍池(しのばずのいけ)間で行われたのが最初です

 現在各地で盛んに行われており、東京~箱根間関東大学駅伝は有名です。 箱根駅伝(関東学生陸上競技連盟、読売新聞社): http://www.hakone-ekiden.jp/index.php

 私の郷里(松島、のち上板、板野、德島)では、戦後、秋の収穫も終わる10月、村のお祭りの頃、小学校、中学校、青年団の運動会がありました。青年団の運動会のハイライトは、地区(町内、字区)対抗マラソン大会でした。また、冬には、お正月の頃、県内の地区(市、郡区)対抗駅伝マラソン大会があり、多くの住民の応援もあり盛り上がりました。2011年(平成23年)1月7日には、第57回德島駅伝マラソン大会が盛大に開かれました。

 私が中学校(松島、のち上板)、高校(阿波)に通っていた頃は、冬休み後に毎年、耐寒マラソン大会がありました。どういうわけか、長距離には忍耐強いところがあり、いつも上位に入賞していたことを覚えています。

(参考文献) 下中邦彦: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記、p.45、駅・伝の起こり、三宝出版(1994); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999). 

(参考資料) 五畿七道(google画像検索):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=k2VbTZaxAYmHcfTUxeYM&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=3&ved=0CEAQsAQwAg&biw=1004&bih=606. 

(追加説明) ○ マラソン マラソンは陸上競技の一種目です。ギリシャ、アテネの北東、アッチカ東海岸でのマラトンの戦い(紀元前490年、第二ペルシャ戦争で、ミルチアデスが率いるアテネ軍がペルシャの大軍を撃破!)でのギリシャの勇士フェイデイピデスが戦場マラトンからアテネまで走り、戦勝を伝えて絶命したという逸話は有名で、これに因んだ競技がマラソンです。

 1896年(明治29年)の第1回オリンピック大会では、マラトン古戦場からアテネの競技場までのロードレース(のちの実測では36.750km)を行いましたが、1921年(大正10年)に第4回オリンピック大会(ロンドン大会)のときの距離、42.195kmを正式距離と決定しました。コースは片道、往復、環状など特に規定はありません。オリンピック大会の花とされ、また各地の恒例行事として行われ、ボストンマラソン、福岡国際マラソンなどは国際的にも有名です。福岡国際マラソン(日本陸上競技連盟、朝日新聞社): http://www.fukuoka-marathon.com/

○ マラソンコースの測り方: マラソンで走る距離、42.195km正式計測法は、日本陸上競技連盟の規則によれば、まず、公路の端から1m内側を測ります。歩道と車道の区別のあるところでは、その境界から1m車道内を測ります。

 また、道がカーブしている場合、最近はコースの計測は最短距離を測ることになっていて、カーブを見通せる最短距離、つまり直線で測ります。というのも、実際に選手がカーブを走る場合、最短距離の直線上を走るからです。

 こうした計測は、必ず50mの鋼鉄メジャーを使用します。しかし、50mメジャーで何回繰り返し、つぎたして計測しても誤差がでます。そこで、マラソンコースの許容誤差は、計測した距離の1万分の1となっています。というわけで、42.195kmの場合、41mまでの誤差ならいいわけです。

 そのほか、マラソンの計時は、「何時何分何秒」までで、あとは切り捨てます。というのは、距離の誤差と地形に変化があるからです。(樋口清之監修: 生活歳時記、p.667、マラソンコースの測り方、三宝出版(1994)より

 

2011年9月 8日 (木)

初秋、わが家近くの歩道沿いや公園で目にした花木、ムクゲ(木槿)、キョウチクトウ(夾竹桃)、サルスベリ(百日紅)、ムラサキシキブ(紫式部)、シモツケ(下野)、アべりア、ヤマブキ、とは(2011.9.8)

   今日(2011年9月8日)は、24節気の一つ、白露(はくろ、陰暦8月の節、秋分前の15日)です。白露(はくろ)とは、しらつゆのように見えるもやという意味で、暑さもようやく峠を越え、空の色も澄んで秋の気配がこくなる時節です。

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ムクゲ木槿、アオイ科、一重、八重咲き、白色、ピンク、淡紫色などの花をつけ、朝開き夜しぼむ一日花、7~9月花期、示野中町歩道沿い、金沢)

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キョウチクトウ夾竹桃、キョウチクトウ科、一重、八重咲き、葉が竹のように細長く、桃のような花が咲く、7~9月花期、玉鉾公園、金沢)

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サルスベリ百日紅、ミソハギ科、夏の暑い盛りから秋風の吹く頃まで、白色、ピンク、鮮紅色などの花が次々(百日!)咲く、幹の肌がはがれやすく、つるつるしている、7~10月花期、玉鉾公園、金沢)

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ムラサキシキブ紫式部、クマツヅラ科、夏、葉のつけ根に淡紫色、紫色、白色などの小さな漏斗状(ろうとじょう)の花を開き、秋には球形の白色、紫色などの実(液果)をつける、6~9月花期、示野町の歩道沿い、金沢)

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上半分の花 アベリア(別名、ハナツクバネウツギ花衝羽根空木、スイカズラ科、淡いピンクを帯びた釣り鐘状の花が、初夏から晩秋のころまで咲き続ける、花が散ったあとに残る茶色の萼(がく)も美しい、6~11月花期、示野町の歩道沿い金沢)、下半分の花 シモツケ(下野、別名 キシモツケ、木下野、コゴメザクラ小米桜、バラ科、夏、茎頭に白色やピンクの小さな花が固まって半球状に咲く、 5~8月花期、示野町の歩道沿い、金沢)

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ヤマブキ山吹、別名 オモカゲソウ(面影草)、バラ科、黄色、5弁の一重咲き種、4~8月花期、右端のピンク色の花はシモツケ(下野)、示野町の歩道沿い、金沢)

ヤマブキ(山吹、バラ科)は、しなやかな枝が山のわずかな風にも揺(ゆ)れる様子から「山振」が「山吹」になったと言われています。黄色の5弁の一重咲き種のヤマブキ、雄しべが花弁化したヤエヤマブキ、花が淡黄白色のシロバナヤマブキとがあります。

 初秋、わが家(桜田、金沢)近くを散策したとき、歩道沿いや公園で目にした花木、ムクゲ(木槿)、キョウチクトウ(夾竹桃)、サルスベリ(百日紅)、ムラサキシキブ(紫式部)、シモツケ(下野)、アべりア、ヤマブキなど、季節の変化を感じさせる花樹をデジカメ写真で撮影しました。 街の中の樹木は、人々にとって、美観、防火、防音、防塵、防風、治水など、多くの役割を演じているという。

 私は、わが家(桜田、金沢)近くの犀川べり、街中、公園など、天気がよいとよく散策しますが、公園の樹木、街路樹や歩道沿いの野草の花など、自然の姿の変化を目にすると、季節の移り変わりを実感します。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991): 樋口清之監修: 生活歳時記(新装改訂版)、三宝出版(1994); 主婦の友社編: 花木&庭木図鑑200,主婦の友社(2009).

2011年9月 7日 (水)

昔から伝わる遊び(子供の頃の体験)、囲碁の碁石遊び、将棋の駒遊び、バイゴマ(貝独楽)、メンコ(面子)、ビー玉(ガラス玉)、とは(2011.9.7)

    いろいろな昔から伝わる遊びの中で、囲碁の碁石遊び、将棋の駒遊びバイゴマ(貝独楽)、メンコ(面子)、ビー玉(ガラス玉)など、戦後の日本の国内で、広く楽しまれ、私が子供の頃に体験した遊びをいくつか、思い出しながら調べてみました。 

○ 囲碁の碁石遊び

 囲碁(いご、棋道とも)は、二人相対し、361の目を盛った盤上に交互に一つずつ黒、白の碁石を並べ、地を広く占めた方を勝ちとする遊技です。インド起源、中国起源の2説があり、奈良時代以前に唐(中国)から日本に伝来したという。

 五目並べ(ごもくならべ、連珠、れんじゅ、とも)は、碁盤上に黒白の碁石を交互に打って、縦横または斜めに五個を早く並べた方を勝ちとする遊技です。 五目並べ、連珠(コンピューター):http://www.5stone.net/jp/

 碁石並べ替え は、同数の白石と黒石を左右にまとめて配置し、これを何回か繰り返して白黒交互に並べ変えるゲ-ムです。 碁石並び替え遊び(呉清源、菅野礼司): http://www5a.biglobe.ne.jp/~tenti/member/m94sugano/stones_puzzle.html

○ 将棋の駒遊び

 将棋(しょうぎ、象棋、象戯とも)は、二人で将棋盤を挟(はさ)んで相対し、盤面に配置した駒を交互に動かして闘わせ、敵の王将を擒(とりこ)にした(詰めた)ものを勝ちとする遊技です。古代インドに起り(チャトランガ、双六の一種)、西に伝わってチェス(西洋将棋)、東に伝わって中国の将棋になり、わが国には、奈良~平安初期に、遣唐使や入唐僧などによって中国から伝来したという。大将棋、中将棋、小将棋などがあり、現今の将棋は小将棋に中将棋の飛車、角行を加えたものから発達しました。

 現存する将棋の最古の駒は、奈良の興福寺から出土した物とされているが、そのルーツは、邪馬台国の存在と同じように謎に包まれている。現在残る各国の将棋は、それぞれルールが異なる。日本の将棋の最も特徴的なルールは、取った駒を使えることです。チェスや中国象棋(シャンチー)は、それぞれ白と黒、赤と黒というように敵と味方で色が異なるが、駒を再利用できる将棋は違う。このルールがゲームとしての可能性を爆発的に広げ、奥行きを増す要因となった。実に意義深い「ガラパゴス的進化」を遂げたのだと思っている。(2017.7.24.羽生善治の一歩千金、「ガラパゴス的進化」の先に、朝日新聞より)

 将棋倒し(しょうぎだおし)は、将棋の駒を少しずつ間隔を置いて一行に並べ立て、一端の駒を押せば次々にすべての駒が倒れることです。転じて、一端が崩れるに従って全体が崩れ倒れることを言います。将棋倒し(google動画検索):http://www.google.co.jp/search?q=%E5%B0%86%E6%A3%8B%E5%80%92%E3%81%97&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivns&ei=4bp9TfHwJsG3cfiKkboG&start=10&sa=N

 ハサミ将棋(はさみしょうぎ)は、自分の二つの駒で、縦あるいは横で相手の駒をはさむと、その駒を取ることができます。 ハサミ将棋: http://www.asahi-net.or.jp/~gq9s-imi/hasami.htm

 丸将棋(まるしょうぎ): 盤上で駒をよく混ぜ、裏返したまま円く並べます。次に順番を決め、一枚ずつ取り、最後の駒を取った者から一つの駒を出します。次の者は同じ駒を出せたら出すのですが、出さなくてもよい。出せたら次に好きな駒を出します。最初に手持ちの駒が無くなった者が勝ちですが、歩で上がることは禁止されています。丸将棋(まるしょうぎ):http://www.asahi-net.or.jp/~RP9H-TKHS/shogi_28.htm

 ごいたは、能登町宇出津(石川)発祥の猟師の間で楽しまれてきたゲームで、王、飛、角、金、銀、馬、香など、将棋の駒を模したカードを32枚使用し、4人で遊びます。 ごいた(伝承娯楽、能登、石川):http://oyaji.boy.jp/goita/oyaji-goita.html. ごいた(能登、石川、google動画検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%94%E3%81%84%E3%81%9F&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivnsu&source=univ&tbs=vid:1&tbo=u&sa=X&ei=Mbl9TfnfM8vJcceCsLgG&ved=0CIMBEKsE

○  バイゴマ貝独楽、ベーゴマ、バイともは、(ばい)のにとかしたをつぎこんで作った独楽(こま)です。これに模してで作ったものもあります。

 バイ(貝)は、エゾバイ科の巻貝です。殻は堅牢で、殻長(高)7cmに達します。本州、四国、九州の沿海に産し、肉は食用となります。殻は、バイゴマ(ベーゴマとも)、貝笛などの玩具となります。広義にはエゾバイ科の巻貝のうち、漁業の対象となる中形、大形の種の総称で、貝独楽(バイゴマ)の略称(バイ)です。

  

 バイゴマの起源は、平安時代に、京都の周辺ではじまったと言われており、当時はバイ貝という貝ガラに砂や粘土をつめてそれを子供がヒモで廻したのが始まりと言われていまます。 ベーゴマバイゴマ、バイとも、google画像検索): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%9E&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=37V5TcTICIa8cIG5_bsE&ved=0CEcQsAQ&biw=1004&bih=567

 ベーゴマバイゴマ、バイとも、google動画検索):http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%9E&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=ivns&source=univ&tbs=vid:1&tbo=u&sa=X&ei=Grd5TeqyHoj6cNWB9cME&ved=0CFUQqwQ. 

 私は、京都で下宿(下別当町、北白川、左京区、村井方)していた時、秋に京都御所の公開があったので、何回か訪れ、宮中でバイゴマ遊びをしている御所人形を見たことがあります。金沢に来てから、近江町市場でバイ貝を見たとき、ハッ!とし、京都の御所人形のバイゴマ遊びを思い浮かべました。

○ メンコ(面子、ペッタ、メンとも)、ビー玉(ガラス玉とも) 

  

(解説) メンコ(面子、ぺった、メンとも)は、ボール紙などで作った円形または方形のもので表裏面の区別があり、表面には、特に子供が欲しがる絵が描かれていました。交互に相手の地上に置いたものに打ち当て、相手のを裏返せば勝ちとする遊びです。メンコ面子、ぺった、メンとも、google画像検索): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%93&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=TbV5TYffFo2ecYDQpb8E&ved=0CDoQsAQ&biw=1004&bih=567

 ビー玉(ガラス玉とも)遊びは私が小学生のころ、まず相手がビー玉を適当な位置に置き、続いて自分がビー玉を手に挟んで持ち、目でねらいを定めてぶつけ、当たるとその玉はもらえました。はずれると、引き続き、今度は相手の方が自分の玉をめがけてぶつけてくる番となります。当たると自分の負けで取られます。が、はずれると自分の番となり、どちらかが当たるまで繰り返して遊びました。遊び場所は、家の庭のほか、刈り取りの終わった田圃の中でもよく遊びました。

 私が小学生の頃は戦後でしたが、外で遊ぶことが多く、バイゴマ(貝独楽)、メンコ(面子)、ビー玉(ガラス玉)のほか、コママワシ(独楽回し)、クギ(釘)サシ、ウマノリ(馬乗り)、カンケリ(缶蹴り)、ナワトビ(縄跳び)、タケウマ(竹馬)、タケトンボ(竹とんぼ)、カミヒコウキ(紙飛行機)など、のちケンダマ(剣玉)、ダルマオトシ(達磨落とし)、マンゲキョウ(万華鏡)など、一人であるいは多くの友達と日の暮れるまで遊んでいたことを覚えています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991). 

(参考資料) 楽しい遊び(甲賀市教育委員会生涯学習課、滋賀): http://www.city.koka.shiga.jp/guide/education/mi-child/asobi.html

昔から伝わる遊びいろいろ: http://www5e.biglobe.ne.jp/~minineta/mukasiasobi.htm

昔のおもちゃアルバム http://www.omocha-album.com/

2011年9月 5日 (月)

五節供(のち五節句)にまつわる歴史伝承、人日(正月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)、農耕儀礼としての年中行事、とは(2011.9.5)

   節供(せっく)の(せつ)とは、特別な年中行事の行われる日のことです。仕事を休み神々にいろいろな食物を供(そな)え、人々も同じ食物を食べ、その供物(くもつ、お供え物)のことを節供(せっく、せちくとも)と言っていました。が、のち供物を神にまつる日、節日そのものを節句(せっく)と呼ぶようになりました。

 そして、江戸時代には、人日(じんじつ、正月7日)、上巳(じょうし、じょうみとも、3月3日)、端午(たんご、5月5日)、七夕(たなばた、7月7日)、重陽(ちょうよう、9月9日)などの式日、五節供(ごせっく、のち五節句)が農耕儀礼としての年中行事と定められました。 これは、中国唐代(618~907)の風習が日本へ伝えられたものです。

○ 正月七日(人日、じんじつ、七草、七日正月、七日節句

 中国では、元日から8日まで、鶏(にわとり)、狗(いぬ)、羊(ひつじ)、猪(いのしし)、牛、馬、人、穀(こく)を配し、その日にそれらのものを大切に扱う風習があり、7日を人日(じんじつ)とするのもここから来ています。この日には、七種菜羹(しちしゅさいのかん)という7種類の野菜の粥(かゆ)を食べ、無病を祈る風習がありました。

 日本でも人日を五節句の一つに数え、正月7日の朝、将軍以下が七草粥(ななくさがゆ)を食べるなど、公式の行事となっていました。春の七草(セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ)は、すべて薬草であり、邪気を払い万病を除くと言われていました。

 正月おせち料理というのは、普段は食べない、高カロリーの動物蛋白だとか、ゴボウや、コンニャクといった薬に近い野菜を食べて体力を整えました。(もち)は非常に高いカロリーの食品であり、中国から来た屠蘇(とそ)は、忍冬(にんどう)、甘草(かんぞう)、百合根(ゆりね)、桂皮(けいひ)、桔梗(ききょう)、茯苓(ぶくりょう)などの薬草が入っていて、これは血圧の低下や健胃、強心のための薬酒でした。屠蘇は葬(ほうむ)るという意味で、とは悪魔のこと、つまり屠蘇とは、悪魔を葬る酒という信仰を持たせた意味があります。

 正月料理の飲食で体力をつけ、のち正月7日の七草(ななくさ)、ナズナやハコベラなどの解毒(げどく)の強い薬草の粥(かゆ)を食べ、食べ過ぎや飲み過ぎなどによる胃腸の酷使を調整して、重労働の稲作農業の開始に備える意味がありました。

○ 三月三日(上巳、じょうし、じょうみ、元巳、げんし、桃の節句、雛祭)

 古代の中国では、3月の最初の巳(み)の日に水辺に出て災厄を祓(はら)う禊(みそぎ)の風習があり、それが日本に伝わり、古くから日本でも3月の初めに、禊(みそぎ)をして穢(けがれ)を祓(はら)う習慣がありました。その時、紙や土で小さな人形を作り、川や海に流したのですが、のち内裏雛(だいりびな)などを飾り、白酒、菱餅などを飾る雛祭りとして発展しました。

 江戸時代になると五節句の一つに定められ、稲作農業の開始を控えての重要な日で、仕事を休んで物忌みをしたり、禊(みそぎ)祓いをしたりすることがあり、そのため人の形をしたカタシロを川や海に流したと思われます。

 本来は、桃の種の中にある胚乳(はいにゅう)を食べる節句で、杏仁湯(きょうにんとう)を飲むという。これは血圧低下と強心健胃作用を持った薬で、これが後に、桃の花を活(い)ける風習になって残りました。 

○ 五月五日(端午、たんご、菖蒲の節句、あやめの節句、重五、ちょうご)

 端午(たんご)は、中国伝来の言葉で、端(たん)は初めという意味で、月のはじめの午(うま)の日のことです。また、中国では、午(ご)と5は同音であり、月と日の数が重なる日を祝日にする風習があったので、5月5日を端午として祝うようになりました。

 古く中国では、端午(たんご)に野に出て薬草を摘んだり、匂(にお)いの強い蓬(よもぎ)で作った人形を戸口にかけたり、菖蒲酒(しょうぶざけ)を飲んだりして、災厄を祓う行事が行われました。 また、ちまき)を食べるのは、中国の2000年以上前の風習で、楚の詩人、屈原(くつげん)が隠謀のために国を追われ、5月5日に水中に身を投じて死に、その霊を弔うため、姉が茅で巻いた餅(もち)を作って川に投げ入れたのが起源とされています。

 こうした習俗が平安時代日本に伝来し、貴族から次第に民間へと普及しました。菖蒲(しょうぶ)は、薬草(強壮解毒剤)で、邪気を避け、悪魔をはらい、疫病を除き、心身を清めるといわれ、また火災をも除くという古からの信仰があり、節句には匂(にお)いの強い蓬(よもぎ)と共に軒にさして、邪気をはらい、あるいは菖蒲の根と葉を浮かべた風呂に入り、粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べました。美女が水の霊にめとられて、菖蒲湯に入って災をまぬがれたという伝説もあります。粽(ちまき)には厄払いの意味も込められているという。

 一方、日本では、古くから5月を悪月(あしげつ)、物忌みの月とし、さつきいみと称して、田植えの頃、その主役をつとめる早乙女(さおとめ)が家にこもって身を清め、神を祭って田植えをするという行事がありました。このことから農耕を開始するにあたって、神を迎え祀(まつ)りました。田植えをする早乙女、つまり女性が穢(けがれ)を祓(はら)い身を清めたので、5月の節句はもとは女性の節句であり、田植え前の重要な日となっていました。

 ということで、5月の節句は、この日本古来のさつきいみの習俗と中国伝来の端午の節句が一緒になったものと考えられます。この端午の節句は、その底流には農耕儀礼としての年中行事があり、それは現在も残っています。やがて武家社会に入って、菖蒲尚武が同音の「しょうぶ」であることから、雛節句(ひなぜっく)と対象的に男子の節句となりました。そして、男児の出生、成長を祈り、立身出世するようにと鯉のぼりを立て、強さを意味する武者人形を飾る風習が、全国的に普及しました。

 1948年(昭和23年)、5月5日は、「こどもの日」が、国民の祝日として制定されました。子どもにとってすばらしい祝日であって欲しいものです。

  ○ 七月七日(七夕、たなばた、星祭り、銀河祭、ほおずきの節句)

 七夕(たなばた)の行事にはいくつかの流れがあり、古く中国と日本のいろいろな行事が重なり、それらが複合して七夕の習俗ができあがったと考えられています。

 一説には、中国の後漢(25~220)の時代に始まったという、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)の星祭の伝説乞巧奠(きこうでん)の行事です。どちらも中国から伝わってきたもので、星祭の方は、牽牛星と織女星が年に一度、天の川をはさんで出会うというロマンチックな伝説です。乞巧奠というのは、女子が手芸に巧みになるよう乞うという意味で、織女星を祭り、裁縫や習字などの上達を願う行事です。

 この中国伝来の行事と、これから発展した乞巧奠の行事は、奈良時代に宮廷や貴族の間で取り入れられ、やがて民間に普及しました。そして女子が裁縫の上達を祈る星祭の行事として長く続きました。

 笹竹を立て、短冊に詩歌を書いたり、手習い事の上達を願う習俗は、寺子屋が普及した江戸時代になってからです。江戸では6日の夕方、竹売りから笹竹を買い、色紙や短冊をつけて軒先に立てるしきたりがありました。

 もう一つの説は、古くからの日本固有の七夕の民族行事です。7月の盆の先祖祭につながるもので、その前に穢(けがれ)を祓(はら)い清める行事と解釈でき、七夕の日には、水浴を大切な行事とした所が多い。たとえば、髪を洗ったり、子どもや牛、馬に水浴びをさせたり、墓掃除をしたり、井戸をさらったりしました。水浴びを「ねむり流し」とか「ねぶた流し」とも言いました。

 青森の「ねぶた祭り」も、本来は穢(けがれ)を水に流す禊(みそぎ)の行事で、一種の七夕行事と考えられています。ねぶた(ねぷたとも)は眠たきのことで、睡魔を追い払う行事です。町をねり歩いた人形や灯籠は、川や海へ流しました。一般に6日の夕、笹を立て飾りつけをし、7日の朝(または8日)川や海へ流しました。これを「七夕流し」とか「七夕送り」と呼びました。

 七夕の水に関する習俗は、日本固有のもので、中国のそれとは異なっています。たとえば、七夕の日は短冊が流れるほど雨の降るのがよいという地方もあります。これは雨を清めの雨と考え、七夕を祓(はらい)の行事の日と考えたからです。ところが中国の牽牛星と織女星の伝説では、この夜、雨が降ると二人は会うことができないことになっています。 雨や禊(みそぎ)は、東南アジアの湿潤文化圏、星祭りは中国北部・中央アジアの乾燥文化圏の伝承で、その両方が見られるとする考えもあって非常に興味深いという。

 また、江戸時代、この日に、ほおずき市が開かれ、ほおずきの根(堕胎の薬、子供を堕ろす薬!)を服用する節句でもあったという。これは、農作業から考えると、7月7日前後に女性が妊娠していると、ちょうど秋の取り入れの頃、妊娠3、4ヶ月目となり、一番苦しい時期となります。その母体を保護するために、7月7日の節句にほおずきの根を服用して、早いうちに流産させておく、母体保護のための節句だったという。 当時の中条流秘伝(ちゅうじょうりゅうひでん)、今日でいう堕胎(だたい)は、ほおずきの根を服用し、その煎汁(せんじゅう)で子宮口を洗滌(せんでき)する方法でした。

 現在、七夕の行事は、竹笹に願い事を書いた短冊をつるし、色紙で細工したものを飾りつけたりしています。また、青森の「ねぶた祭り」や秋田の「竿灯」も七夕祭の行事となっています。

 ○ 九月九日(重陽、ちょうよう、菊の節句、九月の節句)

 重陽(ちょうよう)は、易(えき)でいう陽数の9が重なる意味でめでたい日とされ、中国では邪気を払い長寿を願って菊酒を飲んだり、グミ(グミ科、低木)の枝を頭にさして災いを防ぐことが行われました。これが日本に伝わって、平安朝の初めに宮中の儀式に取り入れられました。

 江戸時代では五節句の中で最も公的な性質を備えていました。武家では菊の花を酒にひたして飲み、民家では栗飯を食べる習わしがありました。菊の花を煎じて飲みましたが、この花には鉄分が多く、強壮、造血作用があります。、民間では収穫を祝う行事も多く、初穂を神仏に供える所もありました。

 というわけで、江戸時代、公式的に法制化された五節句は、祭りによる休養、食生活に薬草を取り入れ病気予防の食餌療法など、農民の健康を保持するための稲作農耕に沿った年中行事とも考えられます。1873年(明治6年)、五節句の制度は廃止されました。 が、今でも民間行事として定着しています。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 樋口清之監修: 暮らしのジャーナル、生活歳時記、三宝出版(1994); 日本史辞典、岩波書店(1999); 樋口清之: 梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、p.127、五節句は農業スケジュールに合わせて作られた、p.129、五節句の飲食物は、すべて薬品、祥伝社(2005); 大島、佐藤、松崎、宮内、宮田著: 図説民俗探訪辞典、p.144~148、節供、山川出版社(2005).

(追加説明) ○ 春祭り(播種、田植前)と秋祭り(収穫後)は、おもに農村で多く見られます。元来、氏神祭りは春2月(または4月)と秋11月に行われていました。春秋の祭りは、稲作の始めと終わりに際し、祈願、報恩の意を表したものです。春来た神が再臨して、田におりてくるのを迎え、また山に帰るのを送るのが秋祭りです。近年では、秋祭りは10月に行うところが多くなりました。(樋口清之監修: 暮らしのジャーナル、生活歳時記、p.618、秋祭(あきまつり)、三宝出版(1994)より)

2011年9月 3日 (土)

木村栄(きむらひさし、天文学者、石川)、金沢ふるさと偉人館、極運動(地球の自転軸の変動)によらない緯度の変化(Z項)の発見、とは(2011.9.3)

   金沢ふるさと偉人館は、1993年(平成5年)に高峰譲吉(たかみねじょうきち、1854~1922、タカジアスターゼの創製、アドレナリンの発見、化学者、企業家、高岡(富山)生まれ)、三宅雪嶺(みやけせつれい、1860~1945、哲学者、評論家、金沢生まれ)、木村栄(きむらひさし、1870~1943、天文学者、Z項を発見、金沢生まれ)、藤岡作太郎(ふじおかさくたろう、1870~1910、国文学者、金沢生まれ)、鈴木大拙(すずきだいせつ、1870~1966、仏教学者、金沢生まれ)という5人の偉人を展示して開館しました。 

 現在は、金沢ゆかりの「近代日本を支えた偉人たち」として、さまざまな分野の国際的で国家的な業績をあげた人々を加え、20人の偉人の常設展示を行っています。金沢ふるさと偉人館(ホームページ、下本多町、金沢):http://www.kanazawa-museum.jp/ijin/

 そこで、天文学において、Z項の発見で有名な、第1回文化勲章受章者、金沢ゆかりの偉人、木村栄(きむらひさし、1870~1943、天文学者、石川)について、改めて調べて見ました。

木村栄肖像写真

木村栄(きむらひさし、1870~1943,天文学者、金沢、石川、google画像) 木村栄(きむらひさし、金沢出身の天文学者、学者・医者、いわてゆかりの人々、みずさわ浪漫、奥州市、岩手): http://www.bing.com/images/search?q=%e6%9c%a8%e6%9d%91%e6%a0%84&view=detail&id=E8398FAE5E9BE91483010B25AE123D30468C9AEF&first=0&qpvt=%e6%9c%a8%e6%9d%91%e6%a0%84&FORM=IDFRIR

(解説) 木村栄(きむらひさし、1870~1943,天文学者、石川)は、金沢生まれ、東大星学科卒、理学博士(Z項論文)。国際共同緯度観測事業の一環として、1899年(明治32年)に新設された岩手県水沢の緯度観測所の所長を、1941年(昭和16年)まで42年間つとめました。 木村記念館(水沢、奥州市、岩手):http://www.iwatabi.net/morioka/ousyuu/kimura.html. 国立天文台水沢(Z項発見にまつわる動画): http://www.miz.nao.ac.jp/content/news/announce/20110805-182

 ところで、地球の緯度変化の大部分は、地球の自転軸の移動(地表で言えば極の移動)によって起こります。1889年(明治22年)、ドイツのキューストナーとアメリカのチャンドラーが、ほとんど同時に、それぞれ違った方法で、地球の自転軸が周期的に変動していることを証明しました。その動きは微小なもので、当時の天体観測器具ではとても実証できませんでした。

 そこで、世界の天文学会の大問題となり、同一緯度(北緯39度8分)に位置する6ヶ所、日本 、ソ連、イタリアでは1ヶ所、アメリカでは3ヶ所、同時に万国共同緯度観測をする事業が実施されました。が、世界の天文学者は緯度変化の理論値と観測値の誤差に大いに悩まされ、なかでも、木村栄の観測値が非常に精度(せいど)が悪いと指摘されました。

 その原因を調べた結果、1902年(明治35年)、木村は極運動(地球の自転軸の変動)に起因しない緯度変化(Z項)があることを発見しました。そして、1902年(明治35年)、緯度変化に関する、ポッダム共同観測所中央局の責任者、カール・アルブレント提出の緯度変化の計算式に、新しい項(Z項、木村項とも)を付加するすることを提唱し、世界的に認められました。 アルブレントは、観測データから地球の極の移動をはじき出すのに、X(エクス)とY(ワイ)の2つの未知数を使って方程式を作っていましが、木村はもう一つ、Z(ゼット)という未知数を方程式に加えなければならないことを指摘しました。

 木村は、Z項発見の時のことを次のように語っています。「何しろあの時は緯度観測といふ日本ではじめての国際事業を引き受けたものですから、私たちには大責任があるわけで、私もあれについては非常に心配しました。或る日、例によって、テニスをやって、そのまゝオフィスへ入ってテーブルの抽斗(ひきだし)をちょっと開けた。その瞬間にドイツの学界から来た書類が見えたのです。それをヒョッと見てゐると、すべての観測の平均の上に1年の週期のものがあるといふことがチラリと見つかった」(科学朝日、創刊第1号、1941年11月号、Z項とメートル法、より)

 ところで、地球の自転軸は、形状軸(南北軸)とは完全に一致せず、一定の周期で形状軸(南北軸)の周囲を移動します。その公式は Δφ = X cos λ + Y sin λ と表されていました。この時、平均北極の位置を原点とし、経度0°(0度、X軸)と西経90°(90度、Y軸)の方向に測った実際の北極の座標を(X, Y)とすれば、西経λ°(ラムダ度)の地点で実測される緯度変化の値、Δφ(デルタ ファイ)は、Δφ = X cos λ(X コサイン ラムダ) + Y sin λ(Y サイン ラムダ)で表されます。

 木村は この式にZを加え、Δφ = X cos λ + Y sin λ + Z と修正して認められました。 木村栄のZ項の書簡(測地学資料の紹介、測地学100年、国立科学博物館): http://research.kahaku.go.jp/rikou/geod100/siryou2.htm. 

 このZ項は、観測地点の気象変化や重力変化に起因する緯度変化の補正値として、各地の観測値の誤差などが正しく説明できるようになり、木村項と呼ばれるようになりました。が、実際の原因の詳細は不明で、Z項発見から70年後に、章動(しょうどう、月や太陽の引力のために地球の自転軸が周期的に動揺する現象)の半年周期項のずれに基づくもので、極運動(地球の自転軸の変動)によらない緯度の1年周期の変動成分であることが若生康二郎(緯度観測所)によって解明されました。もともと章動は地球を剛体と見なして導かれたが,実際の地球は流体核をもつ弾性体であるため,その違いが現れたことが分かりました。地震学によって地球内部の理解が進むまで、さらに歳月を待たねばなりませんでした。現在では、地球深部の謎(地球の中心部の核、その廻りのマントル、核とマントルの相互作用、太陽、月、他天体の影響など)を解明する研究も進められています。

 木村は、その後も25年間、1日も欠かさ緯度の観測を続け、1918年(大正7年)には国際天文学会の緯度変化委員会委員長に就任し、また、1922年(大正11年)~1936年(昭和11年)、岩手県の水沢に置かれた緯度変化の国際中央局の局長を勤めました。1937年(昭和12年)には第1回の文化勲章を受章しました。金沢ふるさと偉人館には、主な展示品として、天頂儀、自筆ノートなどがあります。

私は、金沢ふるさと偉人館が設立されて間もなく、高峰譲吉博士にまつわる講演会と展示会が開催されるということで、はじめてそこを訪れ、その後何回か足を運び、金沢ゆかりの偉人から多くのことを学びました。

(参考文献) 北陸人物誌: 明治編(52)、木村栄、天文学の金字塔、ソロバン片手に、木村「Z項」を発見、読売新聞(昭和39年、1964年、7月10日、朝刊より); 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991): 石川化学教育研究会編; 科学風土記ー加賀・能登のサイエンス-、p.187~188、上乗秀雄、木村栄ー星を見つめてZ項を発見ー、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 金沢ふるさと偉人館パンフレット: 近代日本を支えた偉人たち(2010).

(追加説明) ○ 現在、金沢ふるさと偉人館には、近代日本を支えた20人の偉人を選び、日本近代科学の創始者たちとして、高峰譲吉(1854~1922、化学者、企業家、タカジアスターゼ(コウジ菌のジアスターゼを使った消化不良や胃腸病に効く新薬で、タカは高峰の高からとったもの)、アドレナリン(血圧や止血作用のある副じん皮質ホルモン)の生みの親)、桜井錠二(1858~1939、化学者、日本人最初の化学の教授、桜井・池田沸点測定法の考案)、藤井健次郎(1866~1952、植物形態学、細胞遺伝学の研究に寄与、日本遺伝学の祖)、木村栄(1870~1943、天文学者、Z項を発見)、創造的技術に挑んだ人たちとして、八田與一(1886~1942、土木技師、台湾に東洋一のダムと長大な潅漑水路を完成)、飯盛里安(1886~1982、化学者、わが国の放射化学の育ての親)、

 日本の真と善を見つめた人びととして、小野太三郎(1840~1912、社会福祉活動家)、三宅雪嶺(1860~1945、思想家、評論家)、明治3年(1870年)の奇跡として、藤岡作太郎(1870~1910、国文学者)、西田幾多郎(1870~1945、哲学者)、鈴木大拙(1870~1966、仏教学者)、井上友一(1871~1919、国務官僚、東京府知事)、山本良吉(1871~1942、教育者)、安宅彌吉(1873~1949、総合商社安宅産業の創始者)、美と自然を愛した人びととして、北方心泉(1850~1905、真宗大谷派僧侶)、細野燕台(1872~1961、文人、茶人)、中西梧堂(1895~1934、自然保護者、詩人)、 近代美の巨匠たちとして、松田権六(1896~1986、近代漆芸と伝統工芸の巨匠)、谷口吉郎(1904~1979、日本近代建築の巨匠)、蓮田修吾郞(1915~2010、金属造型作家)という偉人の常設展示をしています。

○ 地球の自転軸が周期的に変動することは、18世紀の数学者オイラーによって理論的に示されていましたが、非常に微小であるために観測されるまでに100年以上かかりました。しかし、1891年(明治24年)チャンドラーが報告した周期はオイラーの予言の305日より長い427日で、理由は地球が剛体ではなく、弾性体であることでした。

 国際測地学協会の条約に基づく国際緯度観測事業(ILS)の観測所として水沢観測所(岩手)は創設されました。幾何学的配置の広がりの必要性から、同一緯度(北緯39度8分)に位置する水沢(日本)、カルロフォルテ(イタリア)、ゲサスバーグ、シンシナティ、ユカイア(米国)、チャルジュイ(ロシア)の6点で観測が開始されました。

 木村栄によるZ項の発見、極運動(地球の自転軸の変動)に起因しない緯度変化については、70年後、若生康二郎(緯度観測所)により、その主な原因は、半年周章動のずれ(地球の中心の流体核の共鳴効果!)であると証明して解決されました。Z項とは(コトバンク、法則の辞典): http://kotobank.jp/word/Z%E9%A0%85

 地球は、1日1回、10年1日のごとく自転しているように見えます。が、細かく見ると、自転速度と自転軸の向きの両方とも変動しています。しかも、その様相は、地球中心核から超高層大気まで、地球の各層の構造やその中での物質の運動を反映し、複雑きわまりないものでした。

 地球歳差(さいさ、月、太陽、惑星の引力の影響で、地球自転軸の方向がすりこぎのように変わる円錐運動)、章動(しょうどう、月や太陽の引力のために地球の自転軸が周期的に動揺する現象)、極運動(地球の自転軸の変動)、自転速度など、地球回転の変化は、地球上の気象や海洋、地震や地殻変動、大陸移動、地球内部の変動(地球の中心核とマントルの相互作用!)などに深くかかわっています。(真鍋盛二(国立天文台水沢観測センター長): 北緯39度8分の100年、Z項からVERA計画まで、科学朝日、p.104~108、1996、3月、より)

2011年9月 1日 (木)

文学賞(世界、日本)にまつわる歴史実話、ノーベル賞(文学賞含む6部門、アルフレッド・ノーベル創設)、菊池寛(文芸春秋社長)が創設した芥川賞(芥川龍之介)、直木賞(直木三十五)、とは(2011.9.1)

   近年、しばしば話題となる人の名のつく文学賞は、特に、世界ではノーベル文学賞、日本では、菊池寛(文芸春秋社長)が創設した芥川賞、直木賞などが有名です。そこで、これらの賞について、改めて調べて見ました。

○ ノーベル賞(文学賞含む6部門、1896~)

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A. B. Nobel (1833~1896、 google画像)

(解説) アルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel、1833~1896)は、スウェーデンの化学技術者です。ストックホルム生れ、ペテルブルグで教育を受け、爆薬・魚雷を製造していた父の家業を助けました。のち米国で機械工学を学び、1866年(慶応2年)ダイナマイトを、次いで無煙火薬を発明しました。世界各地に爆薬工場を経営し、1886年(明治19年)ノーベル・ダイナマイト・トラストを創立しました。この間2人の兄とともにバクー油田の開発にも成功し、ノーベル家はヨーロッパ最大級の富豪となりました。遺志によりスウエーデン王立科学アカデミーに寄附された遺産を基金としてノーベル賞が設立されました。

 ノーベル賞は、ノーベルの遺言により、人類の福祉に最も具体的に貢献した人々に授与(confer the greatest benefit on mankind)するため1896年(明治29年)設けられた国際的な賞です。基金168万ポンドで、毎年その利息をもって物理学、化学、生理・医学、文学、平和5部門に最も功績のあった人々に贈ります。  1901年(明治34年)第1回の授賞が行われ、1969年(昭和44年)経済学賞新設、以後毎年、ノーベル財団が、国籍、人種、宗教を問わず授与してきました。 ノーベル財団(スウェーデン): http://nobelprize.org/

 受賞者の選定には、物理学賞、化学賞、経済学賞はスウェーデン王立科学アカデミー、生理・医学賞はストックホルムのカロリン医学研究所、文学賞はスウェーデン・アカデミー、平和賞はノルーウェー国会が選んだ5人委員会などが当たっています。受賞式は毎年12月10日(ノーベルの忌日)で、受賞者にはノーベルの遺産の利子による賞金(経済学賞はスウェーデン銀行の創設した基金による)、金メダル、賞状が贈られます。 日本人ノーベル受賞者の軌跡(毎日新聞社):http://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/

ノーベル文学賞は、日本については、1968年(昭和43年)、川端康成が、「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」などの作品で、日本人の心の本質を繊細に表現する卓越した叙述に対して(for his narrative mastership, which with sensisivity expresses the  essence of the Japanese mind)、 

 また、1994年(平成6年)、大江健三郎が、「万延元年のフットボール」などの作品で、詩的な言葉を用いて現世と神話の凝縮した世界を創造し、現代人の当惑する苦悩を描いたことに対して(poetic force creates an imagined world where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today)、授賞しています。

 ノーベル賞の授賞記念講演では、川端康成は、「美しい日本の私」、大江健三郎は、「あいまいな日本の私」というタイトルで講演しています。

 私は、金沢大学理学部(化学科)に在職中、過去に2回(1995年度、2001年度)ほど、ノーベル財団からの依頼で、ノーベル化学賞の候補者を推薦したことがあります。その時の選考基準は、化学の分野における新しい発見(discovery)及び新しい分野への改良、発展など(improvemennt)が重要なポイントであったと記憶しています。 

○ 芥川賞(あくたがわしょう、1935~)

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芥川龍之介(1892-1927, google画像)

(解説) 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ、1892~1927)は、小説家、俳号は餓鬼、号は澄江堂主人、東京生れ、東大英文科卒です。東大在学中の1915年(大正4年)に帝国文学発表の「羅生門」は注目されず、1916年(大正5年)、第4次「新思潮」創刊号の「」が夏目漱石に称賛され、「芋粥」「手巾(ハンケチ)」で新進理知派の作家の地位を確立しました。その間、菊池寛、久米正雄らと第3次・第4次「新思潮」を刊行しました。

 以後、歴史小説「地獄変」「薮の中」「枯野抄」、切支丹もの「奉教人の死」、現代小説「秋」、明治もの「舞踏会」、童話「蜘蛛の糸」「杜子春」など様々な作品を発表しました。「戯作三昧(げさくざんまい)」で芸術至上に傾き、「一塊の土」など写実的作品もありますが、晩年は「玄鶴山房」「河童(かっぱ)」など沈鬱な作風に傾斜、神経衰弱と健康悪化、社会主義台頭への思想的動揺もあり、1927年(昭和2年)7月24日未明、ぼんやりした不安から田端の自宅で睡眠薬自殺をしました。遺稿に「歯車」「或阿呆の一生」など、全集、24巻があります。

 芥川賞(あくたがわしょう)は、芥川龍之介の名を記念して、1935年(昭和10年)、文芸春秋社長菊池寛の創設した純文学賞です。作品は、新潮、すばる、文学界、群像、文藝といった文藝雑誌に載った250~300作から選ばれます。

 1945~1948年の空白を挟んで継続中で、1938年(昭和13年)から日本文学振興会が継承、毎年春秋2回授賞しています。新聞・雑誌に掲載された無名または新進作家の純文学的創作、戯曲に授与する文学賞で、文壇への登竜門となっています。 日本文学振興会(文芸春秋社ビル内、東京): http://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/index.html

 第1回は石川達三が蒼氓(そうぼう)で授賞、その後、石川淳、井上靖、吉行淳之介、大江健三郎らが授賞しています。火野葦平の「糞尿譚」、1937年(昭和12年)上半期授賞が日中戦争に敏感に反応した授賞であったように、選考には時代状況が投影しています。石原慎太郎の「太陽の季節」の授賞、1955年(昭和30年)上半期は情報化の進展と連動し、文学の大衆化、文壇崩壊を促進。純文学概念が変質し、直木賞との境界が曖昧になってきているという。 芥川賞受賞者一覧(1935~2010、文芸春秋社): http://www.bunshun.co.jp/award/akutagawa/list1.htm

 2011年(平成23年)3月12日(土)、朝日新聞、朝刊、私が愛した芥川賞作家beランキングによれば、活字離れ、文学離れが言われる中、149人を数える歴代芥川賞作家を、朝日新聞の無料会員サイト「アスパラグラフ」2月にアンケイトを実施したところ、①松本清張、②遠藤周作、③村上龍、④井上靖、⑤北杜夫、⑥宮本輝、⑦大江健三郎、⑧田辺聖子、⑨安部公房、⑩石川達三、⑪庄司薫、⑫開高健、⑬石原慎太郎、⑭綿矢りさ、であったという。

○ 直木賞(なおきしょう、1935~)

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直木三十五(1891-1934, google画像)

 直木三十五(なおきさんじゅうご、1891~1934)は、小説家、脚本家、映画監督も、本名は植村宗一、初め三十一と称、大阪市生れ、早大を中退しています。雑誌、主潮、人間を経て、文芸春秋にゴシップ記事を執筆、週刊朝日に「由比根元大殺紀」を連載、大阪毎日、東京日日の両新聞に「南国太平記」を書いて作家的地位を固め、時代小説の可能性を追求、真実な描写に力点をおいた「荒木又右衛門」ほかを発表、大衆文学の内容と品位を高めました。全集21巻があります。

 直木三十五全集(p版)第12巻、黄門廻国記、改造社(1933)は、月形龍之介の主演映画、水戸黄門原作にもなりました。

 直木賞(なおきしょう)は、芥川賞と同時に、直木三十五の名を記念して、1935年(昭和10年)、文芸春秋社長菊池寛の創設した大衆文学賞です。作品は主に単行本が対象です。

 1945~1948年の空白を挟んで継続中で、1938年(昭和13年)から日本文学振興会が継承、毎年春秋2回授賞しています。新聞・雑誌に発表された無名あるいは新進作家の大衆文芸作品にに授与する文学賞で、芥川賞とともに作家の登竜門となっています

 第1回は川口松太郎が「鶴八鶴次郎」その他で授賞、その後、海音寺潮五郎、井伏鱒二、司馬遼太郎らが授賞しています。読者の拡大と文学の大衆化によって、有力な新人は芥川賞よりも本賞に吸収される傾向が生じているという。 直木賞受賞者一覧(1935~2010、文芸春秋社): http://www.bunshun.co.jp/award/naoki/list1.htm

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菊池寛(1888~1948, google画像)  菊池寛記念館(高松、香川):http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/646.html. 菊池寛賞(文藝春秋、千代田区、東京): http://www.bunshun.co.jp/award/kikuchi/

 芥川賞直木賞は、両者の名を記念して、文芸春秋社長菊池寛の創設した文学賞です。1910年(明治43年)、菊池寛(22才)が第一高等学校に入学したとき、同級生に芥川龍之介(18才)がいました。その後、1923年(大正12年)、菊池寛(35才)が文芸春秋を創刊したとき、芥川龍之介(31才)は「侏儒の言葉」を巻頭連載して協力しています。 

 また、直木三十五は、脚本家としてのデビュー作が、菊池寛の有名な小説「恩讐の彼方に」でした。これは、江戸時代の伝説、旅人が厳しい崖に難儀するのを見かねた禅海和尚が、30年かけて掘り進め、ついに開通させた隧道「青の洞門」(山国川沿い、中津市、大分県)の逸話です。(北陸中日新聞: 旅 中津市 大分県 洞門、黒田官兵衛 伝説息づく、2013年(平成25年)3月15日(金)夕刊)

 菊池寛は、芥川龍之介が、1927年(昭和2年)35才で自殺、また直木三十五は、1934年(昭和9年)43才、腹膜炎で死去、と親友の早世が続いたのを惜しみ、両者の名を記念した賞を作って、後に続く若い無名の作家の支援と育成に夢をかけたのだろうか? 菊池寛は、1948年(昭和23年)60才で狭心症のため急逝しています。

 私は、1963年(昭和38年)頃、伊藤整(1905~1969,北海道)、遠藤周作(1923~1996,東京)、大江健三郎(1935~ 、愛媛)という顔ぶれの有名な作家を迎えて、愛媛県県民文化会館(ひめぎんホール)で文化講演会が開かれるというので、聞きに行ったことがあります。

 講演の内容についてはよく覚えていないのですが、まず最初に伊藤整氏、次いで遠藤周作氏が講演、自分はぐうたらだが、大江健三郎氏は優秀な作家であるとほめていたこと、その後の大江健三郎氏は早口でとつとつと喋っておられたのが印象に残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 大木、大沢、田中、千原編: 化学事典、東京化学同人(1994); B. S. SCHLESSINGER, J. H. SCHLESSINGER:  The Who's Who of Nobel Prize Winners 1901-1995, Third Edition, ORYX PRESS(1996); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); ダイソー文学シリーズ: 12、芥川龍之介Ⅲ、23、菊池寛、大創出版(2010).

(追加説明) ○ ノーベルと文学賞  ノーベルは、生まれつき病弱で、孤独と夢想を愛する少年だった。彼は早くから文学にあこがれ、18才のとき「謎」という自伝的な長詩を書いた。人生を悲観した暗い詩である。やがて外国に遊学、主にパリでイギリス文学を熱心に勉強した。

 そんな文学青年が、後年、火薬王になったのは、発明狂だった父がロシアで機雷の製造に成功し、それを手伝うことになって、火薬に興味をもったからである。そして、雷管とダイナマイトを発明して、世界各国に火薬工場を造り、40才にして世界的な企業家になった。

 だが、生涯、独身で社交ぎらいだった彼は、多忙な実務に疲れて、憂うつにになると、奇妙な著作にふけった。「明るいアフリカにて」「姉妹たち」などの小説、戯曲「ネメンス」など。こうした若いころの文学への愛着が捨てきれず、その思いがノーベル賞に文学部門を加えることになったのである。(樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、p.685、ノーベルと文学賞、三宝出版(1994).より)

○ ダイナマイトは、ニトログリセリン等の液状硝酸エステル(主剤)を6%以上含有する爆破薬です。1866年ノーベルが鋭敏なニトログリセリンをケイ藻土に吸収させて安全に使用できるようにしたケイ藻土ダイナマイト)に始まります。次いでノーベルは、ケイ藻土の代わりにニトロセルロースを用いてゲル化することを発見しました。その後、ニトログリセリンゲルに可燃物、酸化剤等を適当な割合に混合したものを使用しています。

 ニトログリセリン(硫酸ー硝酸混合物とグリセリンを冷却下に混合して製造、三硝化グリセリンとも、ダイナマイトの原料のほか、狭心症の特効薬!)は、強力な爆発力をもちますが、衝撃や摩擦に非常に敏感なため、ノーベルはこれをケイ藻土に吸収させ、比較的良好であったので、ノーベルの発明以来約100年間、産業爆薬の王者の位置を占めてきました。しかし、近年になって価格や安全の面で優れている硝安油剤爆薬(アンホ爆薬、ANFO)や含水爆薬(スラリー爆薬)にとって代わられつつあります。 

○ 菊池寛(きくちかん、1888~1948)は、小説家、劇作家、本名はひろし、香川県生れ、京大卒です。在学中に一高同級生の芥川龍之介、久米正雄らが創刊した第3・4次「新思潮」に参加、卒業後「忠直卿行状紀」「恩讐の彼方に」など、理知的な心理分析と主題の明快さを特徴とする小説を発表しました。「藤十郎の恋」「父帰る」上演も評判となり、新聞小説「真珠婦人」では多くの読者を獲得しました。

 1923年(大正12年)1月、菊池寛(35才)は、文芸春秋社開設し、雑誌「文芸春秋」を創刊しました。1928年(昭和3年、40才)5月、文芸春秋社が株式会社となり、取締役社長に就任しました。また、1936年(昭和11年、48才)、日本文芸家協会初代会長に就任しました。芥川賞直木賞は、両者の名を記念して、文芸春秋社長菊池寛の創設した文学賞です。東京市会議員、大映社長なども務めました。全集、24巻(1993~1995)が刊行されています。

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