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2011年10月 7日 (金)

長谷川等伯(はせがわとうはく、安土桃山・江戸初期の絵師)、能登の七尾から京の都へ、壮麗な金碧画から水墨画の世界へ、画風の変化をもたらした人生の出来事、とは(2011.10.7)

  安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610)は、能登半島・七尾の武士の家に生まれで、はじめは、30年余り、信春(しんしゅん)と名乗り、能登の地方画家として仏画を中心に肖像画など描きました。 のち京都に出て、独自の画風を創造して、御用絵師として隆盛を誇った狩野派に対抗する画業を築きました。その後、画風は水墨画の世界に傾倒していくのですが、そこには等伯の人生の大きな転機となる深い悲しみがありました。

 そこで、能登、七尾の片田舎から、30才半ばに京の都にのぼり、狩野派をおびやかすほどの活躍を見せた後、絵師、長谷川等伯の壮麗な金碧画(きんぺきが)から水墨画(すいぼくが)の世界へ、画風の変化をもたらした人生の出来事などについて、改めて調べてみました。

 長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610)は、安土桃山・江戸初期の画家。長谷川派の祖。初期の名あるいは号は信春(しんしゅん)。能登七尾の生れ(父は戦国大名能登畠山氏の家臣奥村氏、長谷川家の養子)。代々日蓮宗徒の養父、長谷川宗清(はせがわそうせい、1507~1571、染物屋)や雪舟等楊(せっしゅうとうよう、1420~1506?、室町後期の禅僧、画家)門弟の等春に画法を学び、仏画を主とするほか、肖像画などの地方画家として活躍しています。 14世紀に日像(にちぞう)が布教した羽咋法華(はくいほっけ)と七尾法華(ななをほっけ)が、能登七尾時代の等伯を支えています。

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長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610、33才本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗)、境内銅像:http://photozou.jp/photo/show/17077/302184上京区、京都、google画像) 名所旧跡めぐり本法寺、ほんぽうじ、上京区、京都): http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/honpo-ji.htm. 

(解説) 長谷川等伯人生の転機は、30才半ば、相次いで養父母が亡くなり、1571年(元亀2年)頃、妻と幼子を連れて能登から上洛(じょうらく、京都に出る)、法華信徒だったので、日蓮宗本山本法寺(ほんぽうじ、上京区、京都)に身を寄せました。 本法寺の日通上人(にっつうしょうにん)と親しく、同寺に寄進された「仏涅槃図(ぶつねはんず、重要文化財)」や「日通上人像」があります。

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桜図(さくらず、長谷川久藏(はせがわきゅうぞう、等伯の長男、25才)筆智積院(ちしゃくいん、真言宗国宝、京都) 智積院(ちしゃくいん、東山区、京都、google画像): http://www.chisan.or.jp/sohonzan/.

(解説)上洛後、等伯は堺商人や千利休とも親交を深め、権力との距離を縮めていきます。本法寺(日蓮宗)の日通上人や茶人千利休(せんのりきゅう、1522~1591)との交友の内に牧谿(もっけい、生没未詳、宋末元初の僧、水墨画家、中国)の中国宋元画や室町の水墨画にふれ、日本の水墨画に開眼して行きました。

 1582年(天正10年、44才)総見院、1589年(天正17年、51才)三玄院と、大徳寺塔頭に水墨障壁画を制作、頭角を現すようになり、その実力は評判を呼び、1591年(天正19年、53才)豊臣秀吉(1537~1598)の愛息、鶴松(3才で病没)の菩提(ぼだい)を弔うためにささげる菩提寺祥雲寺の金碧(きんぺき、緑青、群青、金泥を使った技法)障壁画の製作を依頼されるようになりました。そして、四季花木図襖絵(ふすまえ)を制作、等伯の長男、久藏による「桜図」を含め、一部は今も、真言宗智山派総本山の智積院(ちしゃくいん、東山区、京都)に残っています。 

 等伯(とうはく)の息子(久藏、宗宅、左近、宗也)はいずれも画家として活躍、東胤(とういん)、宗園(そうえん)らの弟子と共に長谷川派を形成しました。 親子で一世一代の仕事を成し遂げた翌年、等伯は息子、長男の久藏が26才で急死、悲しみと怒り、恨みに苦しみました(暗殺説が根強い)。 この時期から彼の画風は壮麗な金碧画(きんぺきが)から水墨画(すいぼくが)の世界へと傾倒していきます。

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松林図屏風(しょうりんずびょうぶ、長谷川等伯(50才代)筆東京国立博物館蔵国宝、東京、google画像) 制作年代は未詳ですが、等伯50才代の作と推定されています。1592年(文禄元年)、等伯が祥雲寺障壁画(現・智積院襖絵)を完成させた翌年、息子の久蔵が26才の若さで亡くなっており、その悲しみを背負った等伯が、人からの依頼ではなく自分自身のために描いたとも言われています。 松林図屏風(しょうりんずびょうぶ、東京国立博物館、東京): http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10471.

(解説) 長谷川等伯は、長男の久藏の死を境に、深く仏門に帰依しました。日本の水墨画で最高峰とされる「松林図屏風(しょうりんづびょうぶ)」も、息子の死を背負って描いたとも言われています。松林に立ちこめる霧を描き込まずに表した幽玄の世界、それは仏と向き合い、苦しみを乗り越えた絵画の境地を具現化(具体的に、また実際に表わすこと)しているという。また、このような立ちこめる霧の中の影絵のような松林の景色は今でも、能登の羽咋(はくい)、七尾の海岸沿いでよく似た景色が見られることから、都から遠く離れたふるさとの思いも込めて描かれているような感じもします。

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仏涅槃像(ぶつねはんぞう、長谷川等伯(61才)筆 、本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗)蔵 、重要文化財、京都、google画像)仏涅槃図は、父以上の才能を期待されていた子、久藏の七回忌に本法寺に寄進されています。 仏涅槃図(ぶつねはんず、本法寺、京都): http://www.kujhoji.or.jp/get.kouwa/newpage5.8.htm.

(解説) 仏涅槃図(ぶつねはんず)は、釈迦(しゃか)の死を嘆き悲しむ弟子や動物たちを描いた、高さ10m、幅6mの大作です。裏面には、日蓮とともに、亡き妻と長男の久藏の名が記されています。「釈迦ほどの人物でも、死という自然の摂理からは逃れられない。悲しみこそ分け合いなさい」。そのようなメッセージを込めたとされています。

 等伯は、慶長年間にも、1599年(慶長4年、61才)妙心寺隣華院、大徳寺真珠庵、1602年(慶長7年、64才)南禅寺天授庵など障壁画の制作に従事、旺盛な活動を続けました。そして、法眼(ほうげん、日本の僧位の一つ、中世・近世では、法印、法橋と同じく、僧以外の儒者、仏師、連歌師、医師、画家などにも与えられました)に(じょ、宮中からさずけられた)。 代表作には、「水墨画の松林図屏風」(東京国立博物館蔵、国宝)、「智積院障壁画、金碧画の楓図(かえでず)」(智積院蔵、国宝)、日通が筆録した日本最初の画論「等伯画説」などがあります。

 1610年(慶長15年)、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)の要請により、長谷川宗宅(次男)を伴い江戸へ下向、旅の途中で発病し、江戸到着後2日目に亡くなりました。享年72才。法名は厳浄院等伯日妙居士、遺骨は本法寺(上京区、京都)に葬られたと言われているが、その墓は定かでないという。

 私は、2010年(平成22年)3月10日(水)、NHK番組、歴史秘話 長谷川等伯を見たことがあります。その中で、松林図屏風絵とよく似た景色が今も、等伯のふるさと、能登の羽咋(はくい)、七尾の海岸沿いで見られることが、強く印象に残っています。  

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991);  永原慶二監修: 岩波 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 石川県の歴史散歩編集委員会編(編集代表、木越隆三): 石川県の歴史散歩、p.177、長谷川 等伯と七尾美術館、山川出版社(2010); 朝日新聞(文・山内深沙子、写真・高橋一徳): 歴ナビ、旅する日本史、ゆかりを訪ねて、35 長谷川等伯、喪失の闇を抜けて、2010年(平成22年)7月3日(土)、朝刊より.

(参考資料) 長谷川等伯筆の肖像画(はせがわとうはく、1539~1610、七尾、能登、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E7%AD%89%E4%BC%AF%E3%80%80%E8%82%96%E5%83%8F%E3%81%8C&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1024&bih=584.

 等伯の絵画を所蔵する京都のゆかりの寺院には、本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗、上京区、京都、仏涅槃図所蔵): http://eishouzan.honpouji.nichiren-shu.jp/. 智積院(ちしゃくいん、真言宗、東山区、京都、金碧画の楓図(かえでず)、息子・久藏の桜図など所蔵):http://www.chisan.or.jp/sohonzan/keidai/syuzoko.html. のほか、 隣華院(りんかいん、臨済宗、右京区、京都、水墨画、山水図襖(ふすま)所蔵): http://www.rinkain.com/info/.  妙蓮寺(みょうれんじ、法華宗、上京区、京都、金碧画、松桜図、次男宗宅の吉野桜図所蔵): http://www.eonet.ne.jp/~myorenji/index.html.  大徳寺本坊(だいとくじほんぼう、臨済宗、北区、京都、千利休が増築、寄進した三門に等伯壁画): http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/、などあります。

(追加説明) ○ 長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610)には、謎の一時期があります。能登の七尾から京の都に上洛した1571年(元亀2年)以降の約10年間、おそらく大坂の堺に居住していたと推測されるのに、今もって証拠がありません。堺在住を推測する理由の一つは、堺に茶人千利休との付き合いが深いこと、二つには等伯の再婚した妻が堺の商人の娘であったという事実です。

 等伯が画家として名を売るのは、利休の口添えで、豊臣秀吉の長子鶴松(つるまつ)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う襖絵(ふすまえ)の製作だったことも重要なことです。一方、高山右近(別名、南坊、等伯など) も千利休との交際や外国人宣教師らとの交流で堺との関係は深い。(北国新聞社編: 加賀百万石異聞、髙山右近、p.68~71、二人の等伯、北国新聞社(2003)より)

○ 等伯没後400年で「達磨図」を切手に、七尾ロータリークラブが作りました。図柄は同市の龍門寺が所有する「達磨図」を選びました。長谷川等伯の達磨図(七尾商工会議所観光委員会、七尾、石川): http://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/big/1.html.(朝日新聞、2010年(平成22年)5月23日(日)、朝刊より) 長谷川等伯の絵画作品と所蔵美術館: http://www2u.biglobe.ne.jp/~fisheye/artist/nihonga/tohaku.html.

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