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2011年10月の2件の記事

2011年10月20日 (木)

晩秋(2011年10月中旬から下旬のころ)、わが家のマンション近く、犀川べりの野草の群落と中州ぶちで落ちアユを待ち伏せするシラサギの群れ、サイカチ、ネムノキ、タチヤナギの風景(2011.10.28)

   晩秋(ばんしゅう)は、寒露(かんろ、2011年10月8日)から立冬(りっとう)の前日(2011年11月6日)まで、この頃になると、山野は晩秋の色彩が色濃くなり、朝晩は肌(はだ)寒さを感じ始めるようになります。寒露(かんろ)とは、晩秋から初冬にかけて野草に宿る露のことです。

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わが家のマンションからの眺め(犀川の岸辺には淡紫色の穂のアシ(ヨシとも)、河川敷の湿地には、おもに株立ちしない白い穂のオギと黄色い花のセイタカアワダチソウの群生、土手の乾燥地には大株立ちの白い穂のススキの群生、中州ぶちで落ちアユを待ち伏せすシラサギの群れ、桜田、金沢)

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犀川対岸からの眺め手前は犀川河川敷の野草の風景、背後はサーパスマンションの建物、 サーパス桜田町2番館、 わが家のサーパス桜田町1番館、桜田、金沢)

(解説) 犀川べりの河川敷の湿地には、おもに白い穂の株立ちしないオギが群生し、その近くにセイタカアワダチソウの黄色の花の群生、マント群落のツル植物のクズの葉の緑など、色とりどりモザイク状に入り混じり、美しい晩秋の風景を演出しています。中州ぶちには落ちアユを待ち伏せするシラサギの群れと、犀川の岸辺の湿地には、淡紫色の穂のヨシアシとも)の群落も見られます。また、土手の乾燥した地域には、大株立ちした白い穂のススキの群落も見られます。

 また、自然に生えた(どこからか種子が風、鳥の糞と共に飛んできたものか?)ツル植物のクズ(マメ科クズ属)が覆いかぶさったサイカチ(マメ科、サイカチ属)、ネムノキ(マメ科、ネムノキ属)のほか、水辺のタチヤナギ(ヤナギ科、ヤナギ属)、人が植えたと思われるムクゲ、ヤマボウシ、マツ、サクラの樹木なども見られました。

 私は10月中旬から下旬(2011年)にかけ、天気の良い日を見はからって、わが家のマンション近く、散策した犀川べりの野草の群落、中州ぶちで落ちアユを待ち伏せするシラサギの群れの風景などをデジカメで撮影しました。 このところ朝夕、肌(はだ)寒く感じられるようになってきました。 

(参考文献) 樋口清之: 生活歳時記、三宝出版(1994); 日本自然保護協会編: 指標生物、自然をみるものさし、平凡社(1994); 高橋勝雄: 山渓名前図鑑、野草の名前、秋・冬、山と渓谷社(2003).

(追加説明) ○ オギ(萩)は、イネ科ススキ属の多年草で、日本各地に分布、沼や川のほとり、湿った荒地などに群生します。ススキの小穂には長い針のような毛、芒(のぎ)がありますが、オギには小穂が多数つき、芒(のぎ)がつきません。オギの小穂につく毛は小穂の3~4倍と長い。ススキの毛は小穂と同じくらいの長さです。したがって、オギの花の集団は白く光る毛で美しく見えます。ススキは大株立ちになりますが、オギは株立ちしせず、根茎が横に伸び、ばらばらに生え、高さ2mにもなります。ススキより穂が多く垂れています。古くから屋根葺き材として知られていた草です。

○ ススキ(尾花)は、イネ科ススキ属の多年草で、日本各地の乾いた草原、荒地、道端などに大株立ちして自生しています。ススキは茎の上部で多数の枝に分かれ、すき間なく小穂が密生しています。秋には、背丈が1~2mにも育ち、穂をつけ、中秋の名月に月見だんごと並んだ姿は秋を象徴しています。風になびく穂が、けものの尾に見えることから、あきの七草では、尾花と言われています。昔は、ススキを刈って屋根を葺き、かやぶきの屋根にしたので、ススキのことをカヤと呼ぶこともあります。

○ アシ(葦、ヨシとも)は、イネ科ヨシ属の多年草で、日本各地の池沼や川岸や沢辺などの湿地に群生しています。ススキに似た円錐状につきます。1つの花(小穂)は淡紫色で、中に小花が2~4個あり、地下茎で増えます。また、若芽が食用に、茎(稈(かん)という)が簾(すだれ)に、根茎が薬用になりました。後世になって、アシは悪しに通じるので、ヨシ(良し)とも呼ばれています。

○ セイタカアワダチソウ(背高泡立草)は、キク科アキノキリンソウ属の多年草で、北米が原産地。明治時代に観賞用として導入。戦後、空き地や道路脇、土手などに急速に増殖しました。小さな黄色の花、頭花は、花びら状の舌状花(ぜつじょうか)と花の中心部の筒状花(とうじょうか)とで構成され、頭花の背後には、総包片(そうほうへん)があります。花の集合、花序(かじょ)は、針葉樹形で先が鋭く尖(とが)っています。長楕円形の葉は、茎に互生し、多数が密生しています。一般に、黄色い小さな花が泡立つように見えます

○ クズ(葛、葛葛、くずかずら、とも)は、マメ科クズ属の多年草で、日本各地に分布し、道端、草やぶ、川の土手など草や木がある日当たりのよいところなら、どこにでも生えます。葉の脇から伸びた花柄(かへい)に多数の花が房状につきます。花弁は濃赤紫色です。葉は3小葉で構成され、小葉の形は菱形か楕円形です。太い根からクズ粉が採れます。太いつるが10mほど伸びます

○ シラサギ(白鷺はくろ、とも)は、コウノトリ目サギ科の鳥のうち、全身純白色、背に蓑毛(みのげ、サギの首に、みののようにみだれ垂れた羽根)がある種類の総称です。日本には、ダイサギ、チュウサギ、コサギなどがすみ、他に繁殖期以外のアマサギ(繁殖期では頭や胸がだいだい黄色)を含めることがあります。本州以南の低地の竹や松の林に集団で巣を作ります。チュウサギは冬南方へ去るが、コサギとダイサギには、冬日本に残る個体も多い。湿地や川でアメリカザリガニ、小魚など、おもに動物質を食べます

追加画像) ○ 犀川河川敷でクズに覆われたサイカチとネムノキ

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サイカチ

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ネムノキ

犀川の河川敷の樹木 クズ(マメ科クズ属)で覆われたサイカチ(マメ科サイカチ属)、  クズ(マメ科クズ属)で覆われたネムノキ(マメ科ネムノキ属)、桜田、金沢)

2011年10月 7日 (金)

長谷川等伯(はせがわとうはく、安土桃山・江戸初期の絵師)、能登の七尾から京の都へ、壮麗な金碧画から水墨画の世界へ、画風の変化をもたらした人生の出来事、とは(2011.10.7)

  安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610)は、能登半島・七尾の生まれで、はじめは、30年余り、信春(しんしゅん)と名乗り、能登の地方画家として仏画を中心に肖像画など描きました。 のち京都に出て、独自の画風を創造して、御用絵師として隆盛を誇った狩野派に対抗する画業を築きました。その後、画風は水墨画の世界に傾倒していくのですが、そこには等伯の人生の大きな転機となる深い悲しみがありました。

 そこで、能登、七尾の片田舎から、30才半ばに京の都にのぼり、狩野派をおびやかすほどの活躍を見せた後、絵師、長谷川等伯の壮麗な金碧画(きんぺきが)から水墨画(すいぼくが)の世界へ、画風の変化をもたらした人生の出来事などについて、改めて調べてみました。

 長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610)は、安土桃山・江戸初期の画家。長谷川派の祖。初期の名あるいは号は信春(しんしゅん)。能登七尾の生れ(父は戦国大名能登畠山氏の家臣奥村氏、長谷川家の養子)。代々日蓮宗徒の養父、長谷川宗清(はせがわそうせい、1507~1571、染物屋)や雪舟等楊(せっしゅうとうよう、1420~1506?、室町後期の禅僧、画家)門弟の等春に画法を学び、仏画を主とするほか、肖像画などの地方画家として活躍しています。 14世紀に日像(にちぞう)が布教した羽咋法華(はくいほっけ)と七尾法華(ななをほっけ)が、能登七尾時代の等伯を支えています。

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長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610、33才本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗)、境内銅像:http://photozou.jp/photo/show/17077/302184上京区、京都、google画像) 名所旧跡めぐり本法寺、ほんぽうじ、上京区、京都): http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/honpo-ji.htm. 

(解説) 長谷川等伯人生の転機は、30才半ば、相次いで養父母が亡くなり、1571年(元亀2年)頃、妻と幼子を連れて能登から上洛(じょうらく、京都に出る)、法華信徒だったので、日蓮宗本山本法寺(ほんぽうじ、上京区、京都)に身を寄せました。 本法寺の日通上人(にっつうしょうにん)と親しく、同寺に寄進された「仏涅槃図(ぶつねはんず、重要文化財)」や「日通上人像」があります。

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桜図(さくらず、長谷川久藏(はせがわきゅうぞう、等伯の長男、25才)筆智積院(ちしゃくいん、真言宗国宝、京都) 智積院(ちしゃくいん、東山区、京都、google画像): http://www.chisan.or.jp/sohonzan/.

(解説)上洛後、等伯は堺商人や千利休とも親交を深め、権力との距離を縮めていきます。本法寺(日蓮宗)の日通上人や茶人千利休(せんのりきゅう、1522~1591)との交友の内に牧谿(もっけい、生没未詳、宋末元初の僧、水墨画家、中国)の中国宋元画や室町の水墨画にふれ、日本の水墨画に開眼して行きました。

 1582年(天正10年、44才)総見院、1589年(天正17年、51才)三玄院と、大徳寺塔頭に水墨障壁画を制作、頭角を現すようになり、その実力は評判を呼び、1591年(天正19年、53才)豊臣秀吉(1537~1598)の愛息、鶴松(3才で病没)の菩提(ぼだい)を弔うためにささげる菩提寺祥雲寺の金碧(きんぺき、緑青、群青、金泥を使った技法)障壁画の製作を依頼されるようになりました。そして、四季花木図襖絵(ふすまえ)を制作、等伯の長男、久藏による「桜図」を含め、一部は今も、真言宗智山派総本山の智積院(ちしゃくいん、東山区、京都)に残っています。 

 等伯(とうはく)の息子(久藏、宗宅、左近、宗也)はいずれも画家として活躍、東胤(とういん)、宗園(そうえん)らの弟子と共に長谷川派を形成しました。 親子で一世一代の仕事を成し遂げた翌年、等伯は息子、長男の久藏が26才で急死、悲しみと怒り、恨みに苦しみました(暗殺説が根強い)。 この時期から彼の画風は壮麗な金碧画(きんぺきが)から水墨画(すいぼくが)の世界へと傾倒していきます。

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松林図屏風(しょうりんずびょうぶ、長谷川等伯(50才代)筆東京国立博物館蔵国宝、東京、google画像) 制作年代は未詳ですが、等伯50才代の作と推定されています。1592年(文禄元年)、等伯が祥雲寺障壁画(現・智積院襖絵)を完成させた翌年、息子の久蔵が26才の若さで亡くなっており、その悲しみを背負った等伯が、人からの依頼ではなく自分自身のために描いたとも言われています。 松林図屏風(しょうりんずびょうぶ、東京国立博物館、東京): http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10471.

(解説) 長谷川等伯は、長男の久藏の死を境に、深く仏門に帰依しました。日本の水墨画で最高峰とされる「松林図屏風(しょうりんづびょうぶ)」も、息子の死を背負って描いたとも言われています。松林に立ちこめる霧を描き込まずに表した幽玄の世界、それは仏と向き合い、苦しみを乗り越えた絵画の境地を具現化(具体的に、また実際に表わすこと)しているという。また、このような立ちこめる霧の中の影絵のような松林の景色は今でも、能登の羽咋(はくい)、七尾の海岸沿いでよく似た景色が見られることから、都から遠く離れたふるさとの思いも込めて描かれているような感じもします。

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仏涅槃像(ぶつねはんぞう、長谷川等伯(61才)筆 、本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗)蔵 、重要文化財、京都、google画像)仏涅槃図は、父以上の才能を期待されていた子、久藏の七回忌に本法寺に寄進されています。 仏涅槃図(ぶつねはんず、本法寺、京都): http://www.kujhoji.or.jp/get.kouwa/newpage5.8.htm.

(解説) 仏涅槃図(ぶつねはんず)は、釈迦(しゃか)の死を嘆き悲しむ弟子や動物たちを描いた、高さ10m、幅6mの大作です。裏面には、日蓮とともに、亡き妻と長男の久藏の名が記されています。「釈迦ほどの人物でも、死という自然の摂理からは逃れられない。悲しみこそ分け合いなさい」。そのようなメッセージを込めたとされています。

 等伯は、慶長年間にも、1599年(慶長4年、61才)妙心寺隣華院、大徳寺真珠庵、1602年(慶長7年、64才)南禅寺天授庵など障壁画の制作に従事、旺盛な活動を続けました。そして、法眼(ほうげん、日本の僧位の一つ、中世・近世では、法印、法橋と同じく、僧以外の儒者、仏師、連歌師、医師、画家などにも与えられました)に(じょ、宮中からさずけられた)。 代表作には、「水墨画の松林図屏風」(東京国立博物館蔵、国宝)、「智積院障壁画、金碧画の楓図(かえでず)」(智積院蔵、国宝)、日通が筆録した日本最初の画論「等伯画説」などがあります。

 1610年(慶長15年)、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)の要請により、長谷川宗宅(次男)を伴い江戸へ下向、旅の途中で発病し、江戸到着後2日目に亡くなりました。享年72才。法名は厳浄院等伯日妙居士、遺骨は本法寺(上京区、京都)に葬られたと言われているが、その墓は定かでないという。

 私は、2010年(平成22年)3月10日(水)、NHK番組、歴史秘話 長谷川等伯を見たことがあります。その中で、松林図屏風絵とよく似た景色が今も、等伯のふるさと、能登の羽咋(はくい)、七尾の海岸沿いで見られることが、強く印象に残っています。  

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991);  永原慶二監修: 岩波 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 石川県の歴史散歩編集委員会編(編集代表、木越隆三): 石川県の歴史散歩、p.177、長谷川 等伯と七尾美術館、山川出版社(2010); 朝日新聞(文・山内深沙子、写真・高橋一徳): 歴ナビ、旅する日本史、ゆかりを訪ねて、35 長谷川等伯、喪失の闇を抜けて、2010年(平成22年)7月3日(土)、朝刊より.

(参考資料) 長谷川等伯筆の肖像画(はせがわとうはく、1539~1610、七尾、能登、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E7%AD%89%E4%BC%AF%E3%80%80%E8%82%96%E5%83%8F%E3%81%8C&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1024&bih=584.

 等伯の絵画を所蔵する京都のゆかりの寺院には、本法寺(ほんぽうじ、日蓮宗、上京区、京都、仏涅槃図所蔵): http://eishouzan.honpouji.nichiren-shu.jp/. 智積院(ちしゃくいん、真言宗、東山区、京都、金碧画の楓図(かえでず)、息子・久藏の桜図など所蔵):http://www.chisan.or.jp/sohonzan/keidai/syuzoko.html. のほか、 隣華院(りんかいん、臨済宗、右京区、京都、水墨画、山水図襖(ふすま)所蔵): http://www.rinkain.com/info/.  妙蓮寺(みょうれんじ、法華宗、上京区、京都、金碧画、松桜図、次男宗宅の吉野桜図所蔵): http://www.eonet.ne.jp/~myorenji/index.html.  大徳寺本坊(だいとくじほんぼう、臨済宗、北区、京都、千利休が増築、寄進した三門に等伯壁画): http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/、などあります。

(追加説明) ○ 長谷川等伯(はせがわとうはく、1539~1610)には、謎の一時期があります。能登の七尾から京の都に上洛した1571年(元亀2年)以降の約10年間、おそらく大坂の堺に居住していたと推測されるのに、今もって証拠がありません。堺在住を推測する理由の一つは、堺に茶人千利休との付き合いが深いこと、二つには等伯の再婚した妻が堺の商人の娘であったという事実です。

 等伯が画家として名を売るのは、利休の口添えで、豊臣秀吉の長子鶴松(つるまつ)の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う襖絵(ふすまえ)の製作だったことも重要なことです。一方、高山右近(別名、南坊、等伯など) も千利休との交際や外国人宣教師らとの交流で堺との関係は深い。(北国新聞社編: 加賀百万石異聞、髙山右近、p.68~71、二人の等伯、北国新聞社(2003)より)

○ 等伯没後400年で「達磨図」を切手に、七尾ロータリークラブが作りました。図柄は同市の龍門寺が所有する「達磨図」を選びました。長谷川等伯の達磨図(七尾商工会議所観光委員会、七尾、石川): http://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/big/1.html.(朝日新聞、2010年(平成22年)5月23日(日)、朝刊より) 長谷川等伯の絵画作品と所蔵美術館: http://www2u.biglobe.ne.jp/~fisheye/artist/nihonga/tohaku.html.

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