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2011年12月の4件の記事

2011年12月22日 (木)

出島(でじま、長崎)、鎖国中のオランダ人居住地、幕府認可の唯一の貿易地、西洋文化流入の窓口、諸藩からの長崎留学(加賀藩、高峰譲吉)、はじめての化学書(舎密開宗)、とは(2011.12.22)

   出島(でじま)は、江戸時代、長崎のオランダ人居住地。最初はポルトガル人を置くために、1634年(寛永11年)、幕府が長崎の町人25名に出資させ、1636年(寛政13年)、長崎港内を埋め立てた約4000坪(3924坪余)の扇形人工島で、カピタン部屋通詞(つうじ)部屋などがありました。が、1639年(寛永16年)、キリシタン(布教)禁制により、ポルトガル人を追放し、1641年(寛永18年)、空屋となった出島に、平戸にいたオランダ人を移住させました。

 鎖国中の長崎のオランダ人居住地、出島

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出島(でじま、扇形人工島、オランダ商館(1636~1859)、長崎、google画像) (よみがえ)る出島、(長崎市、ホームページ): http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/dejima/.

 1609年(慶長14年)、肥前平戸(長崎県北部)に置かれていたオランダ商館(オランダ東インド会社の日本商館)は、出島移転して、カピタン以下のオランダ人が生活し、毎年家賃銀55貫目を支払いました。役人を除き遊女以外の出入りは禁止され、オランダ人も無断で外に出ることは許されませんでした。

 以後、1855年(安政2年)の日蘭和親条約までオランダの対日貿易の一切を扱いました。オランダ商館(のちオランダ領事館)の館長は、甲比丹(カピタン)と呼び、在任期間は短く、1609年(慶長14年)~1856年(安政3年)の間に162代で2度以上再任した者もいました。オランダ風説書(ふうせつがき、海外のニュースなど、オランダ通詞翻訳したもの)を長崎奉行を通じて幕府差し出し、年1回江戸参府を行うなどを任務としました。1859年(安政6年)、オランダ商館閉鎖、1863年(文久3年)、長崎の外国人居留地に編入されました。

 出島は当時、小橋で長崎と連絡、鎖国中の幕府認可の唯一の貿易地であり、長崎は幕府の直轄地であり、鎖国中はオランダ、中国船が長崎に来港し、貿易が行われていました。江戸時代のはじめ、輸入していた主なものは、ベンガルやトンキン産の生糸輸出していた主な品はでした。江戸時代の中期以降は、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒(こしょう)、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、銅、樟脳(しょうのう)、陶磁器、漆(うるし)製品などが輸出されていました。 

 また、ここ出島西洋文化流入の唯一の窓口でした。 オランダ通詞(つうじ)は、江戸時代、オランダとの交易などの交渉に当たったオランダ語を話す日本側役人のことです。数は幕末で140人程、旧家を含め30数家の世襲(せしゅう)ではじめは日常会話を主としたが、次第に語学力をつけ、辞書を解し、諸科学に通じたり、商館の医師から医術を学ぶ者も出てきました。

 そして、オランダ、中国船を通じて海外の文化、情報がいち早く伝来本木良永(もときりょうえい、1735~1794、オランダ通詞、蘭学者、長崎)、志紫忠雄(しづきただお、1760~1806、稽古通詞、蘭学者、長崎)、西川如見(にしかわじょけん、1648~1724、天文・地理学者、長崎)ら多数の学者が輩出し、日本の学術、文化の各分野で先駆的役割を果たしました。

○ 開国後の諸藩からの長崎留学(加賀藩、高峰譲吉) 

 1853年(嘉永6年)、アメリカ海軍軍人、ペリー(1794~1858)が軍艦4隻で浦賀に入港してから5年後の1858年(安政5年)、軍艦7隻で江戸湾の内海に再来、また諸外国も通商貿易を求めて相次いで来航、幕府は、アメリカ(米国)、オランダ(蘭国)、ロシア(露国)、イギリス(英国)、フランス(仏国)など、5ヵ国修好通商条約を締結し開国しました。そして、翌年、1854年(安政元年)、長崎下田(1854年、伊豆)、函館(1854年、北海道)と共に、のち横浜(1859年、神奈川)、神戸(1867年、兵庫)、新潟(1868年)等が開港され、外国との自由貿易時代へ突入しました。

 長崎では、外国の商人の住む家や活動拠点となる場所を確保するため、幕府は急いで埋め立てや造成をはじめ、東山手、南山手、大浦、小曽根、梅ヶ崎、新地、出島地区一帯に外国人居留地が形成されていきました。そして居留地が廃止され、外国人が日本中に雑居できるようになるまでの約40年間、長崎は新しい時代の自由貿易港として繁栄していきました。 グラバー園(英国商人グラバー居宅跡、南山手町、長崎): http://www.glover-garden.jp/shiru.html. 長崎・グラバー園周辺旅行(オランダ坂からグラバー園さるく(ぶらぶら歩く!)、クチコミガイド、英国商人オルト居宅含む):http://4travel.jp/domestic/area/kyushu/nagasaki/nagasaki/nagasakieki/travelogue/10470501/.

 開国後、諸藩は人材育成のため、西洋文化流入地の長崎留学を進めました。加賀藩第1回長崎留学生に選抜され、七尾を経て海路、長崎に赴いた人物に、高峰譲吉(1854~1922)がいます。

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高峰譲吉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B0%E8%AD%B2%E5%90%89

 高峰譲吉(たかみねじょうきち、1854~1922)は、アドレナリン(牛の副腎から結晶として分離した副腎ホルモン)の発見、タカジアスターゼ(コウジ菌によってつくられる優れた消化酵素)を創製した化学者・企業家です。アドレナリンは血管収縮作用、止血作用をもち、また強心作用や喘息発作(ぜんそくほっさ)の治療効果など、人類に多くの恩恵をもたらしました。 譲吉は 高岡(富山)生まれで、2才のとき、加賀藩典医、高峰精一が住む金沢に移り、1862年(文久2年)9才で加賀の藩校明倫堂に入学、1865年(慶応元年)12才のとき、加賀藩より選抜され長崎に留学しています。

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長崎英語伝習所跡(ながさきえいごでんしゅうしょあと、幕末の英語通詞養成所、通詞や役人の子弟たちの英語教育を行いました、長崎、google画像) 英語伝習所(サンタクララ教会跡、のち立山奉行屋敷跡の一部に設立、県立美術館界隈、長崎): http://www.asahi-net.or.jp/~yj9m-nkmr/santa.htm.

(解説) 高峰譲吉が寄宿したのは、長崎在住の外国人家庭(ホームステイ!)、英国商人オルト(1840~1908)の居宅でした。 そこから宣教師フルベッキ(1830~1898,法学者、神学者、宣教師、オランダ)の洋学校(1858年(安政5年)長崎英語伝習所設立、のち英語所と改称、洋学校、語学所、済美館、広運館などと変遷し長崎英語学校となった、英語通詞養成学校)に通い英語を学びました。また、長崎では、西洋の文化、諸科学、医術などを見聞、その後の人生に大きな影響を受け、その後、京都、大阪と留学を重ね、高峰家代々続く医学ではなく、化学の道へ進む決心をしました。後半生30余年間のほとんどを米国で過ごした譲吉は常に「私は高岡で生まれ、金沢で育ち、七尾から長崎に出たから加越能三州わが故郷」と語っています。

高峰譲吉にみる日本人、金沢人(山野ゆきよしメルマガ、金沢):http://blog.goo.ne.jp/yamano4455/e/eaaf38e60a628209b1d55b579c8cdd06.  高峰譲吉博士顕彰会(金沢市ホームページ): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/39019/contents/index.html.

 私は、1973年(昭和48年)11月、はじめて長崎を訪れ、市内の観光バスで英国商人、グラバー邸を見学、当時の西洋の生活水準の高さを実感、オペラ「蝶々婦人」を想い、また、ツアーの途中、色彩豊かな中国風の寺院が目につき、異国情緒に富む街との印象が強く残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 石川化学教育研究会編:科学風土記ー加賀・能登のサイエンスー、中本義章、p.180~181、高峰譲吉ータカジアスターゼの生みの親ー、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史辞典、岩波書店(1999).

(参考資料) ○ 長崎の出島と外国人居留地、オランダと中国との貿易

長崎・出島(歴史と出会える御長崎、出島オランダ商館跡): http://isidatami.sakura.ne.jp/dezima_1.html.

長崎の外国人居留地と出島(幕末開港と長崎の古写真、長崎大学附属図書館): http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/kaso/chapt1.html.

長崎の外国人居留地(日本の古写真、1880年代、長崎):http://oldphotosjapan.com/ja/photos/380/gaigokujin_kyoryuchi.

長崎のおもしろい歴史(郷土史家、岩田祐作): http://www2.ocn.ne.jp/~oine/index.html.

長崎の中の中国散策(長崎新地中華街、長崎): http://www.nagasaki-chinatown.com/sansaku.html.

(追加説明) ○ 高峰譲吉(たかみねじょうきち、1854年(安政元年)~1922年(大正11年)、高岡、富山)は、加賀藩高岡町御馬出町(おんまだしまち)で、高峰精一・幸子の長子として生まれました。高峰家は代々医を業とし、譲吉出生の翌年、精一(28才)は加賀藩校・壯猶館(そうゆうかん)の館員に挙げられ、一家は金沢の安江町横町(やすえちょうよこちょう、現在武蔵町)に居を転じました。後に加賀藩典医ともなった精一とその家族の居宅は1872年(明治5年)までここにありました。そのことを示す「高峰譲吉博士住居跡」のパネルがスカイプラザビルの裏手の外壁に掲げられていますが、今その周辺は都市再開発で往時を偲ぶよすがもありません。譲吉は、1862年(文久2年)9才で加賀の藩校明倫堂に入学、1865年(慶応元年)12才のとき、加賀藩より選抜され長崎に留学しています。ーーー(中西孝、本浄高治: 高峰譲吉と桜井錠二の生い立ちの地めぐりー金沢年会の合間にどうぞー、日本化学会第51秋季年会プログラム、p.108~109(1985)より)

○ 長崎に遊学(留学とも、公費、自費)した人たち

 江戸時代、徳川幕府は鎖国政策を実施しましたが、例外として、オランダと中国に対し、日本で貿易することを許しました。ただし、中国との貿易は、中国が鎖国政策をとっていたため、中国の商人が貿易をするのを許すという変形的なものでした。 幕府は、貿易の窓口を長崎に限定したので、オランダや中国の文化や学問は長崎の窓口を通して日本全国へ伝えられました。キリスト教以外の書籍の輸入も認められましたが、書籍の知識に満足せず、蘭学・医学・兵学・本草学・科学・美術等の知識を習得するため、長崎へ赴く学究(遊学!)が跡を絶ちませんでした。

 平松勘治著「長崎遊学者事典」によれば、その数は1052人にのぼる。これらの遊学者たちは、長崎で習得した技術や知識を活かして自らの人生を切り開いて行きました。彼らの中には途中で挫折し、病に倒れる者もいましたが、全体的に見れば、彼らが日本の近代化を促進したと云っても過言ではありません。
長崎のおもしろい歴史郷土史家、岩田祐作): http://www2.ocn.ne.jp/~oine/yuugaku.html.より)

 四国から長崎に遊学した人物として、平賀源内(ひらがげんない、1728~1779、本草(薬物学)・物産家、戯作者、高松藩、香川)、青地林宗(あおちりんしゅう、1775~1883、蘭学者、医者、松山藩、愛媛)、美馬順三(みまじゅんぞう、1795~1825、蘭方医、シーボルトの鳴滝塾頭、阿波藩、德島)、高良斉(こうりょうさい、1799~1846、医者、蘭学者、シーボルト門弟、阿波藩、德島)、二宮敬作(にのみやけいさく、1804~1862、蘭学者、医者、シーボルト門弟、宇和島藩、愛媛)、長井長義(ながいながよし、1845~1929、薬学者、医学、化学を学び、のち薬学に進む、エフェドリン(喘息薬)発見、阿波藩、德島)らが活躍しています。(特集 科学風土記ー沖縄から北海道までー、本浄高治: 四国の偉人とサイエンス、化学教育、44巻1号、p.12~13(1996)より)

○ わが国最初の本格的な化学書舎密開宗(せいみかいそう)」は、ラボアジェの化学革命の報告書、Traite elementaire de Chemie(1789年)を骨格としたヘンリーの著書An Epitome of Chemistry(1801年)がもとになっています。これをトロムスドルフが注を加えてドイツ語訳し、さらにイペイがChemie voor Beginnende Liefhebbers(1803年)の題名でオランダ語訳したのを宇田川榕菴(うだがわようあん、1798~1846、日本)が日本語訳(1837~1847)したもので、原著出版から実に50年も後になっていました。

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宇田川榕菴(津山洋学資料館、岡山): http://www.tsuyama-yougaku.jp/udagawayouan.html

 宇田川榕菴(うだがわようあん、1798~1846)は、美濃大垣(岐阜)の藩医、江沢養樹の長男として江戸日本橋の呉服橋門外で生まれました。13才のとき宇田川榛斎(玄真)の養子となり、代々津山藩(岡山)江戸詰医師の名門、宇田川家の第3世を継ぎました。本草学、植物学を経て化学に入り、この分野における元祖となりました。 わが国最初の体系的化学書「舎密開宗」は代表的な翻訳大書で、内編18巻、外編3巻からなり、1837年(天保8年)から1847年(弘化4年)にかけて刊行されました。最終刊は津山藩(岡山)江戸鍛治橋邸での死去(1846年)後と推定されますが、医学、本草学、砲術などに大きな影響を及ぼしました。享年49才でしたが、徳川幕府の命による蘭書(オランダ書)の翻訳、著作に対するたゆまぬ努力は、等身大に積み上げられるほどの稿本からも想像できます。(伊佐、内田、関崎、本浄、増田、宮城共著:化学の目でみる物質の世界、p.6~7、化学の語源、内田老鶴圃(1995)より

○ 18世紀に西洋に生まれた物質を取り扱う新しい学問としての化学が日本に紹介されたのは、幕末の蘭学者、宇田川 榕菴により、1837年(天保8年)から刊行された「舎密開宗(せいみかいそう)」によってであった。舎密とはオランダ語の化学の意のchemieの音訳「せいみ」と読む。

 この書籍は、榕菴が少なくとも数十冊に及ぶ他の蘭書も参考にして化学の概念を理解し、多くの日本語の化学用語を造語(酸素、水素、窒素などの元素名、還元、吸着、結合、原料、試薬、常温、昇華、成分、測定、沈澱、醗酵、漂白、物性などの化学用語など)するなど、自らの見識も織りこんだ独自の系統的な化学入門書である。

 この日本の化学の出発点となった最重要な貴重な資料が、武田科学振興財団(大阪) 杏雨書屋に保管、所蔵されている。これら資料は、2010年(平成22年)に創設された日本化学会の化学遺産第1号として認定された。(芝哲夫: 認定化学遺産 第001号 杏雨書屋蔵 宇田川榕菴化学関係資料、化学と工業、63巻、7号、p.556~557(2010)、より) 杏雨書屋(武田科学振興財団、大阪): http://www.takeda-sci.or.jp/business/kyou.html. 化学遺産第1号杏雨書屋蔵 宇田川榕菴化学関係資料、日本化学会、東京): http://www.chemistry.or.jp/archives/isan001.html.

 また、化学という言葉を書名に使った日本初の本として、日本学士院(東京)」に所蔵されている、蘭学者、川本幸民(かわもとこうみん、1810~1871)が翻訳した「化学新書」も、2011年(平成23年)、日本化学会の化学遺産として認定されました。所蔵図書・資料(その他、川本幸民関係資料、日本学士院、東京):http://www.japan-acad.go.jp/japanese/about/material.html.

○ コメント 椿博雄(tsubaki_01@ray.ocn.ne.jp, 2012/03/31) : 長崎出島の坪数は長崎奉行高橋清相著崎陽群談によると3924坪。ここにメッセージがある。易の陰陽学からとり三千世界二十四節気九星は人の世の吉凶を表す。となる。陽は貿易の発展を願う末広。陰は尻すぼまりで伝染病(邪気)、阿片による治療法(邪法)をくいとめた。

Quarantineと欧州では言う。検疫居留地。その扇は貿易の発展を願う末広、伝染病(邪気)阿片による治療法(邪法)の進入を食い止めた。易の陰陽学から取った。長崎奉行高橋清相著崎陽群談によると3924坪とある。これは三千世界二十四節気九星は人の世の吉凶をあらわすとなる。

同上 (2012/04/03):  オランダ東イ出島インド株式会社の払ったお家賃は年銀55貫目。出島宿賃という。年一回カピタン江戸参府の折直接持参した。大奥お女中の豪華絢爛な着物のお金はここから出ていた。女性のご機嫌を取った利口なビジネスだった。

〇 ご教示ありがとうございました。 本浄高治

2011年12月17日 (土)

冬の季節(2011年12月17日)、今年初めての金沢市内、犀川の河川敷と周辺の雪景色

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金沢市内の雪景色(桜田、金沢、2011年12月17日撮影)

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犀川の河川敷の雪景色(桜田、金沢、2011年12月17日撮影) 

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犀川周辺の雪景色煙突倉庫精練、犀川中州の積雪、右端は示野中橋、背後に石川県農業会館、近くに北陸自動車道西インター、桜田、金沢、2011年12月26日撮影)

 冬至、(12月22日(木)、24節気の一つ、日南至とも)には、昼が1年中で1番短く、夜が1番長くなります。 この日から一陽来復(いちようらいふく)、冬が去り春が来る! 徐々に日足はのびていきます。 

 私は12月17日(日)朝の7時ころ、今年(2011年)初めて降雪が見られましたので、さっそく、玄関前から金沢市内、ベランダから犀川の曲水及び河川敷の雪景色をデジカメ写真で撮影しました。

2011年12月10日 (土)

仲冬(2011年12月上旬から下旬のころ)、犀川東北部の金沢市内、サクラ(桜)の紅葉と落葉、東南部河川敷のオギ(荻)の枯れ草、遠望する白山の雪景色(2011.12.10)

  仲冬(ちゅうとう)とは、大雪(12月7日)から小寒の前日(1月4日)まで。 大雪(たいせつ)は、もう山の峰々は積雪に覆われているので、大雪という。平地も北風が吹きすさんで、いよいよ冬将軍が感じられる。小寒(しょうかん)は、寒気がまだ最高までいかないという意味ですが、すでに本格的な冬の季節で、寒風と降雪に悩まされる。

 仲冬のころの冬景色として、犀川の東北部の金沢市内と遊歩道沿い、土手のサクラ(桜)の紅葉と落葉、東南部の金沢市内、河川敷の白い穂のオギ(荻)の枯れ草、遠望する冠雪した白山の雪景色などデジカメで撮りました。

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犀川の東北部の金沢市内、犀川土手のサクラ(桜)の落葉、背後は卯辰山

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犀川の東南部の金沢市内、河川敷の白い穂オギ(荻)の枯れ草、背後は野田山

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犀川の東南部の金沢市内、背後は冠雪した美しい白山の雪景色

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犀川の東北部の遊歩道、犀川土手のサクラ(桜)の落葉、河川敷の白い穂オギ(荻)の枯れ草、背後はサーパスマンション

 私は、わが家(桜、金沢)近くの犀川堤防の遊歩道を散策し、金沢東北部の金沢市内、土手のサクラ(桜)の紅葉と落葉、金沢東南部の金沢市内、背後の卯辰山、犀川の遊歩道、犀川河川敷の白い穂のオギ(荻)の枯れ草、背後の金沢市内と野田山、遠望する冠雪した白山の雪景色、金沢東北部の犀川遊歩道沿いの落葉したサクラ(桜)並木、白い穂のオギ(荻)の枯れ草、背後にサーパスマンションなどの冬景色を眺めながら、四季の移り変わる姿をデジカメで撮影しました。

(参考文献) 新村出: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、三宝出版(1994).

2011年12月 1日 (木)

魏志倭人伝(三国志、中国)に記された倭国の女王(卑弥呼)、邪馬台国は近畿地方なのか、九州地方なのか、カミ(神)、日本にゆかりの地名、とは(2011.12.1)

    原始から古代弥生時代の終わり頃、中国の魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記されていた倭国(わこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)、邪馬台国(やまたいこく)について、いろいろな文献や遺跡による解明が試みられています。が、現在でも、邪馬台国の位置については、近畿地方あるいは九州地方か、はっきり分かっていないという。そこで、倭国(わこく)の中の邪馬台国(やまたいこく)とその国の女王、卑弥呼(ひみこ)について、改めて調べてみました。

 ところで、弥生時代になると、農耕(稲作)が発達し、農作物(米)という財産(貯蔵)に基づく貧富の差が生じ、次第に人々を指導する有力者(豪族!)が現れ、階級社会と財産をめぐる戦争が始まりました。住居も、外敵に備え、周囲を濠(ほり)と柵(さく)で囲った、環濠集落(かんごうしゅうらく)が九州北部地方近畿地方に見られるようになりました。

 また、瀬戸内海を臨む高台には、情報を知らせる狼煙台(のろしだい)、けわしい山上に住居を構える高地性集落(こうちせいしゅうらく)も出現しています。その後、地域の諸勢力(豪族!)の戦争、政治的な統合により(くに)が生まれました。 

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)とは、3世紀に中国の西晋(せいしん)の陳寿(ちんじゅ)が編纂(へんさん)した三国志のうちの魏書東夷伝(ぎしょとういでん)倭人条の通称です。紀元後2世紀には大乱があり、邪馬台国卑弥呼が約30ヶ国に共立されたと記されています。卑弥呼は抗争していた狗奴国(くなこく、邪馬台国に敵対していた倭のもう一つの国、諸国の盟主)との戦いを有利に進めるため、(ぎ)が朝鮮半島に設置した帯方郡(たいほうぐん)との間に交渉をもち、239年(景初3年)には親魏倭王(しんぎわおう)の称号を得ました。

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魏志倭人伝(ぎしわじんでん、三国志、陳寿(ちんじゅ)編、西晋、中国、google画像) 魏志倭人伝(ぎしわじんでん、現代語訳、中野邦雄、弥生ミュージアム、国営吉野ヶ里歴史公園、佐賀): http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/index.html.

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)より古い、後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)には、紀元2世紀後半、原始から古代、弥生時代の終わり頃、「倭国大いに乱れ更相攻伐(こもごもあいこうばつ)して暦年主(れきねんぬし)なし」と記されています。

 さらに古い、日本の記述がある漢書地理誌(かんじょちりし)には、紀元前1世紀頃の日本が(わ)と呼ばれ、100国ほどの小国に分裂し、後漢、漢王朝の楽浪郡(らくろうぐん)に倭国王、帥升(すいしょう)らが朝貢し、奴隷160人を献上したと記されています。

○ 女王卑弥呼(ひみこ、ひめことも、?~247頃)と邪馬台国(やまたいこく)

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)によれば、3世紀の前半期の倭国の中心的な国であった、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)は、太陽の霊威を身に着けた女性を意味する首長の称号で、「鬼道(きどう)に仕え、よく衆を惑わす」とあり、巫女(みこ)的性格をもつ女酋(じょしゅう)と考えられています。

 卑弥呼は、紀元後2世紀末頃、倭国の争乱の末に諸国の首長たちに共立されて王となりました。そして邪馬台国に都し、楼観・城柵を備えた宮室を居処とし、鬼道と呼ばれる呪術行為をもって統治に当たり、倭国の約30ヶ国が女王の統治下にあり、弟が政治を補佐し、結婚せず、人前に姿を見せることは少なかったという。 

 また、卑弥呼は抗争していた狗奴国(くなこく、男の王、卑弥弓呼、伊勢湾沿岸、諸国の盟主)との戦いを有利に進めるため、中国で後漢(ごかん)王朝が滅び、魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)の三国時代になると、魏(ぎ)が朝鮮半島に設置した帯方郡(たいほうぐん)との間に交渉をもち、239年(景初3年)には、(ぎ)に使者、難升米(なしめ)を遣わして、帝より親魏倭王(しんぎわおう)の称号を与えられ、金印銅鏡100枚などを授かったという。

 紀元2世紀後半、弥生時代後期、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)より古い、後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)に記されている、光武帝(こうぶてい)から授かったという「金印」は、江戸時代、1784年(天明4年)、博多湾の志賀島(しかのしま)で農民によって偶然発見されました。

 ということで、三国志、魏志倭人伝(さんごくし、ぎしわじんでん)に記されている、卑弥呼(ひみこ)に授けられた「金印」が見つかれば、邪馬台国(やまたいこく)の位置が分かるのではないか、と期待されています。

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金印(きんいん、国宝、志賀島、福岡、google画像) 金印(きんいん、志賀島出土、福岡市博物館、福岡):http://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr2.html. 金印つまみの部分はがかたどられ、押印の部分は「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と刻まれています。 金印(きんいん、邪馬台国大研究ホームページ、東京国立博物館): http://inoues.net/tokyo_museum/heiseikan17.html.

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銅鏡、三角縁神獣鏡((さんかくぶちしんじゅうきょう、google画像) 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう、邪馬台国の会): http://yamatai.cside.com/tousennsetu/sinnzyuukyou.htm.

 邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)は、245年と247年、狗奴国(くなこく)との戦争に際し、魏から黄幢や檄を送られて支持されましたが、その最中に死没、径百余歩(約150m)もある墳墓に葬られ、100余人が殉死、のち、男王が立ったが治まらず、13才の娘、壱与(いよ、台与、とよ、とも)を王としてようやく国中が治まったという。

 邪馬台国(やまたいこく)の所在地について近畿か九州かの論争があるのは、中国の歴史書、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の一節にしかその位置の記述がなく、そこに書かれた邪馬台国にいたる行程は、記述どおりの距離と方向に進むと、日本列島をつき抜けて南洋上に出てしまうことに起因しています。 邪馬台国を行く(筑紫研):http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai00.htm. 

 近畿説については、日本書紀が卑弥呼を神功皇后(じんぐうこうごう)と見なしてから、鎌倉時代に邪馬台国は大和政権とする説が出され、大和(やまと、奈良県)にあったとされた。その後、魏志倭人伝の不弥国(ふみこく、福岡県宇美町、飯塚市付近か?)の南にあるとの記述を、東の誤りと解釈し、邪馬台と大和の音の一致、3世紀の大型墳丘墓や大規模集落遺跡の存在などを根拠としました。

 また、卑弥呼が魏の王から賜ったとする銅鏡、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が近畿の前方後円墳や円墳から多く出土していると考えています。

 一方、九州説については、江戸時代になって、国学者の本居宣長(もとおりのりなが)らが九州説を主張しました。その後、魏志倭人伝の不弥国(ふみこく、福岡県宇美町、飯塚市付近?)の南にあるとの記述を、伊都国(いとこく、福岡県前原市付近?)の南にあると解釈しました。

 また、近年の考古学の発見によれば、3世紀の北九州は、吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)など繁栄していたとされ、近畿で出土する卑弥呼が賜ったとする銅鏡、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は国産であると考えています。吉野ヶ里歴史公園(よしのがりれきしこうえん、神埼市、佐賀): http://www.yoshinogari.jp/.

 最近、2011年(平成23年)1月20日(金)、桜井市教育委員会(奈良)は、邪馬台国の最有力候補地とされ「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される大型建物跡(3世紀前半)が見つかった桜井市(奈良)纒向遺跡(まきむくいせき)で、祭祀(さいし)の際に供えたと見られるタイなどの魚の骨、シカなどの動物や鳥の骨が見つかったと発表しました。(2011年(平成23年)1月22日(土)、北陸中日新聞、朝刊、より) 

 纒向遺跡(まきむくいせき、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=imvnsl&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=h8LMTpmXOen9mAXkgsjODQ

 また、鯖江市教育委員会(福井)は、鯖江市(福井)などにまたがる弁財天山(120m)の山頂に、弥生時代後期(1~2世紀初頭)の北陸最古の高地性環濠集落(こうちせいかんごうしゅうらく)とみられる遺構が見つかったと発表しました。弁財天山の尾根一帯は、30以上の墳墓や古墳が分布する市史跡「弁財天古墳群」の一角です。(2011年(平成23年)11月24日(木)、北陸中日新聞、朝刊、より)

弁財天古墳群(べんざいてんこふんぐん、鯖江市教育委員会、福井): http://www3.city.sabae.fukui.jp/vod/takara/6/bunkazai/87.html.

 ということで、邪馬台国の所在地については、近畿説、九州説の2説が後世へと引き継がれ、現在に至っています。

 私は、京都か東京の国立博物館で志賀島で発見された金印の展示を見たことがありますが、拡大鏡を通して見るほど意外に小さな金印であったことが強く印象に残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 福井県立若狭歴史民俗資料館編: 福井県立若狭歴史民俗資料館 常設展示図録(1997); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 成美堂出版編集部編: 図解日本史、成美堂出版(2006); 詳説日本史図録編集委員会編: 山川 詳説日本史図録(第藩)、山川出版社(2009).

(追加説明) ○ 人々は古代から、人知を越えたものを創案し、カミ神)と呼びました。そのカミ(神)が「古代国家の成立に関係している」と、広瀬和雄(ひろせかずお、1947~ )歴史民俗博物館教授が提唱しています。

 「自然神のカミ(神)は弥生時代に豊作を保障するものとして登場し、やがて亡き首長(王)がカミ(神)とされるようになった。そのカミ(神)の座所として、前方後円墳がつくられるようになった」と、近著「カミ(神)観念と古代国家」(角川学芸出版)で述べています。 

 大和政権が運営した、3世紀に完成する前方後円墳の後円部は、方形と円形の二つの区画から成っています。古来、中国で大地は人の住む世界方形で表しています。「亡き首長が眠っているのがその方形の区画の部分で、前首長がカミ(神)になった空間である円形で、ここでカミ(神)に昇華した」と考えています。(2011年(平成23年)1月23日(日)、遺跡にみる「カミと国家」、朝日新聞、朝刊、より

○ 日本の地名 わが国には2000年近く前の地名が今も生きています。「魏志倭人伝」に出てくる対馬、一支(壱岐)、末廬(松浦)、伊都(糸島)などの地名が今日、日常に使用されています。また「魏志倭人伝」には、対馬、奴(な)、不弥(うみ)の国の副長官を卑奴母離(ひなもり)と呼ぶことがあります。それは地名として後世に残っています。「和名抄」には越後国頸城(くびき)郡に夷守郷(ひなもり)郡があります。(谷川健一著、日本の地名(第9刷)、p.218、「いと小さき」地名、岩波新書(1998)より

 

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