« サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.1.1.迎春、白山比咩神社参拝)  | トップページ | 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、江戸後期)、阿波藩(德島)の能役者(斉藤十郎兵衛)と伝えられる謎の浮世絵師(主に歌舞伎の役者絵、相撲絵)、とは(2012.1.25) »

2012年1月11日 (水)

聖徳太子(しょうとくたいし、飛鳥時代)、日本書紀に記された推古天皇(女帝)の皇太子、聖徳太子(摂政)は、実在した人物、それとも創作された人物(実証的歴史学)なのか(2012.1.11)

   近年、飛鳥時代(あすかじだい)、日本書紀(にほんしょき)に記されていた、深く仏教に帰依(きえ)し、律令制国を治めたとされる聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)について、近代の実証的歴史学の積み重ねから、「聖徳太子はいなかった」との説が発表されています。 日本書紀(にほんしょき)は、日本最古の正史(六国史の第一)、舎人親王(とねりしんのう、676~735)らの撰で、奈良時代、720 年(養老4年)に完成しました。

 そこで、中学、高校の教科書でも学んだ、飛鳥時代の中心的な政治家、思想家、推古天皇の皇太子、摂政、聖徳太子(しょうとくたいし)について、改めて調べてみました。

○ 聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)の伝承

聖徳太子及び二皇子肖像画(奈良時代、御物、宮内庁、google画像)  

聖徳太子の肖像画(聖徳太子のこと、奈良観光ホームページ、藤原敞(本文・写真)、浦野英孝(管理)、奈良): http://urano.org/kankou/topics/taishi/index.html. 日本最古の肖像画で、中央が太子、向ってが嫡子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)、が弟の殖栗王(えぐりのおう)。推古天皇の時に来日した百済(くだら)の阿佐太子(あさたいし、生没年未詳)のと云われています。

 聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)は、父が第31代、用明天皇(ようめいてんのう、?~587)、母が穴穂部間人(あなほべのはしひと、?~621)皇后の間に生まれた7世紀の有力王族で、いずれも蘇我氏の血が濃く、蘇我・物部の争いでは、蘇我馬子(そがのうまこ)の陣営に第30代、敏達天皇(びだつてんおう、?~585)系王族と共に加わりました。聖徳太子(しょうとくたいし、飛鳥の扉): http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/shotokutaishi.htm.

 厩戸皇子(うまやどおうじ、厩戸王とも)の名前の由来は、厩(うまや)の前で生まれたとされることによるものです。幼いころから聡明(そうめい)で、7才の時に百済(くだら)から献上された経綸数百巻を読破したという。長じては、10人の人々の訴えを同時に聞いて、それぞれに正しい答えを返したというので、尊敬をこめて豊聡耳王子(とよとみみおうじ)とも呼びました。また、仏教の立場から徳を称える聖王・法王・法大王・法王大王・上宮太子などの称号がありました。のち、高句麗(こうくり)や百済(くだら)の知識人から帝王学を学び、天皇中心の中央集権国家が理想だと考えるようになりました。

 592年、有力豪族の蘇我馬子(そがのうまこ、?~626)の謀(はかりごと)によって第32代、崇峻天皇(すしゅんてんのう、?~592)が暗殺されると、馬子は姪(めい)の第33代、推古天皇(すいこてんのう、554~628、39才)を皇位につけました。

 593年(推古1年)、蘇我氏の血筋を引く聖徳太子(しょうとくたいし、20才)は、皇太子、摂政(せっしょう)となり、大臣(おおおみ)に就任した蘇我馬子(そがのうまこ))と共に、飛鳥(あすか)の豊浦宮(とゆらのみや)で史上初の女帝の政治を助けることになりました。 

 601年(推古9年)、飛鳥(あすか)から20kmほど離れた斑鳩宮(いかるがのみや)の造営に着手し、605年には斑鳩に遷居し、以後上宮王家一族の安定した基盤の地となりました。これは、蘇我馬子(そがのうまこ)との対立に疲れたためと考えられています。

 603年(推古11年)、聖徳太子は、蘇我氏を牽制(けんせい)し、天皇の権威を高める政策として、冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定め、翌年には憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)を制定しました。

 607年(推古15年)、朝鮮問題の打開などを企画して、小野妹子(おののいもこ、生没年不詳)を第1回の遣隋使として中国に派遣しました。そして隋との対等の国交を開き、留学生・留学僧を送って大陸文化の導入に努めました。朝鮮半島では、伽耶(かや)諸国を滅ぼした新羅(しらぎ)に対し、第1回の遠征軍を派遣しました。

 620年(推古28年)、聖徳太子は蘇我馬子とともに天皇記(てんのうき)、国記(こっき)などを編纂、622年(推古30年)に死去しました。628年、第33代、推古天皇(すいこてんのう)が死去し、第34代、舒明天皇(じょめいてんのう、?~641)が即位しました。

 聖徳太子は、日本の伝統精神、仏教や儒教など、内外の学問に通じ、特に仏教に対しては深い理解と信仰を示し、その著作とされる、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」には独自の解釈がうかがわれ、法隆寺(ほうりゅうじ、斑鳩町、奈良)、中宮寺(ちゅうぐうじ、斑鳩町、奈良)、発起寺(ほっきじ、斑鳩町、奈良)、橘寺(たちばなでら、明日香村、奈良)、葛木寺(かつらぎでら、所在不明、奈良?)、広隆寺(こうりゅうじ、京都)、四天王寺(してんのうじ、大阪など7寺建立したといわれています。

 「和を以て貴しと為す」との教えや貧しい者への優しい眼差(まなざ)し、太子の言葉とされる世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)の無常観など、今も人の心を打つものがあります。

 聖徳太子に対する後世の強い信仰を示すものとして多くの太子伝絵伝、太子像などがあります。聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)は、聖徳太子の伝記を絵画化したもので、神話化された要素が多い。

 現存最古の作例は、平安時代、1069年(延久1年)、秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだとも、生没年未詳)が描いた旧法隆寺絵殿の障子絵(東京国立博物館蔵屏風)で、鎌倉時代以降、太子信仰や祖師絵伝絵巻制作の流行に伴って絵巻や掛幅が多く作られ、絵解きに使用されました。 

聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん、国宝・重要文化財、秦致貞東京国立博物館蔵): http://www.emuseum.jp/detail/100205?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=12&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=9&mode=detail&century=.

○ 聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)の非実在

 「聖徳太子はいなかった」との戦後歴史学の決定的な結論は、大山誠一(1944~ )中部大学教授の1996年(平成8年)からの「長屋王家木簡と金石分」「聖徳太子の誕生」「聖徳太子と日本人」などの一連の著書と論文、それに同教授グループの2003年(平成15年)の研究書「聖徳太子と真実」でした。 聖徳太子の非実在聖徳太子とは誰のことかシステムアーカイブ): http://www.systemicsarchive.com/ja/a/shotoku.html.

 それらによると、数多くの伝承や資料のうち、太子の偉大さを示す業績は、日本書紀が太子作として内容を記す「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」「三経義疎(さんぎょうのぎしょ)」の二つに限られるそうです。 

 このうち「十七条憲法」については、既に江戸後期の考証学者が太子作ではないと断定し、戦前に津田左右吉(つだそうきち、1873~1961)博士が内容、文体、使用言語から書記編集者たちの創作などと結論、早大を追われたのは有名とのことです。

 また、「三経義疎」については、仏教の注釈書で太子自筆とされる「法華義疎」も現存しますが、これらも敦煌学(とんこうがく)権威の藤枝晃(ふじえだあきら、1911~1998)京大教授によって、6世紀の中国製であることが論証されてしまったとのことです。

 法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の碑文には、623年、厩戸王(うまやとおう、聖徳太子、しょうとくたいし、とも)の冥福(めいふく)を祈って一族・諸臣らが発願(ほつがん)し、鞍作鳥(くらつくりのとり、止利仏師、とりぶっし、とも、生没年未詳)につくらせたとあります。北魏(ほくぎ)様式の代表的な仏像(金銅像)です。

 その結果、法隆寺金堂釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)や薬師如来像(やくしにょらいぞう)、中宮寺天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)も、その光背の銘文研究や使用されている暦の検証から太子の時代より後世の作であることが明らかになってきました。

 国語・国文学、美術・建築史、宗教史からも聖徳太子の実在は次々と否定され史実として認められるのは、第31代、用明天皇の実子または親族に厩戸王が実在し、斑鳩寺(法隆寺)を建てたことぐらいとのことです。

 ということで聖徳太子が日本書紀によって創作され、後世に捏造(ねつぞう)が加えられたとの結論が学界の大勢になりました。 大山誠一教授の説くところ、そのいずれもに重大な役割を果たしたのが、女帝の第41代、持統天皇(じとうてんのう、645~702)の側近の藤原不比等(ふじわらのふひと、659~720)で、また、長屋王(ながやのおおきみ、?~729)や唐留学帰りの僧・道慈(どうじ、?~744)が関与、多くの渡来人が動員されたとのことです。

 日本書紀は、720年(養老4年)完成の最古の正史で、その編纂(へんさん)過程に律令(りつりょう)体制の中央集権国家が形成されました。隋・唐の統一と東アジアの太動乱、それによる大化の改新(たいかのかいしん、645年、大化1年)や壬申の乱(じんしんのらん、672年)を経て、古代社会の「倭の大王」は「日本の天皇」へ変わったとされています。

 このような大変革の時代の日本書紀の任務は、誕生した天皇の歴史的正統性と権威の構築でした。それが、高天原ー天孫降臨ー初代、神武天皇(じんむてんのう、生没年未詳)ー現天皇と連なる万世一系の思想と論理、中国皇帝にも比肩できる聖天子、聖徳太子の権威の創作など、日本書記は政治的意図が込められた歴史書とのことです。

 日本書紀で展開された思想と論理は、1300年後の現代にまで引き継がれ、戦後の1946年(昭和21年)とその翌年に制定された現行の日本国憲法と皇室典範は、皇位は世襲で、皇統に属する男系の男子がこれを継承する、と定めています。

 私には、聖徳太子は、中学、高校の教科書の中の知識しかなく、「聖徳太子は創作された人物で、実在しなかった」との近代の実証的歴史学の結論には、お札の中の肖像画の姿が印象深く、少なからず驚きました。

 (参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 福井県立若狭歴史民俗資料館編: 福井県立若狭歴史民俗資料館 常設展示図録(1997); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 成美堂出版編集部編: 図解日本史、成美堂出版(2006); 北陸中日新聞社説: 書き換わる聖徳太子像、週のはじめに考える、2008年(平成20年)2月10日(日)朝刊; 成美堂出版編集部編: 図解日本史、成美堂出版(2006); 詳説日本史図録編集委員会編: 山川 詳説日本史図録(第藩)、山川出版社(2009).

« サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.1.1.迎春、白山比咩神社参拝)  | トップページ | 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、江戸後期)、阿波藩(德島)の能役者(斉藤十郎兵衛)と伝えられる謎の浮世絵師(主に歌舞伎の役者絵、相撲絵)、とは(2012.1.25) »

● 人物(卑弥呼、神武天皇、聖徳太子、土御門上皇、義仲、武蔵、島津斉彬、五百羅漢、法然、仁清、世阿弥、富樫、弁吉、秋声、犀星)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.1.1.迎春、白山比咩神社参拝)  | トップページ | 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、江戸後期)、阿波藩(德島)の能役者(斉藤十郎兵衛)と伝えられる謎の浮世絵師(主に歌舞伎の役者絵、相撲絵)、とは(2012.1.25) »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ