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2012年1月の3件の記事

2012年1月25日 (水)

東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、江戸後期)、阿波藩(德島)の能役者(斉藤十郎兵衛)と伝えられる謎の浮世絵師(主に歌舞伎の役者絵、相撲絵)、とは(2012.1.25)

   江戸後期、寛政年間(1789~1801)の謎(なぞ)の浮世絵師東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、生没年未詳)は、1794年(寛政6年)5月~1975年(寛政7年)正月までの10ヵ月間、歌舞伎役者絵相撲絵145点余りを世に出し、こつぜんと姿を消しました。

 写楽は、江戸八丁堀地蔵橋に住み、德島藩主蜂須賀侯(はちすかこう)お抱え能役者、斉藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ、1820年(文政3年)3月7日没、58才)と伝えられています。写楽が32才の頃に描いたと思われる初期(1期)の役者絵には、似顔表現に強烈な個性描写が見られます。一方、写楽についての伝記的資料はほとんどなく、の浮世絵師と言われていました。

 当時、歌舞伎役者を描く役者絵といえば、全身像で背景に舞台を描くのが常識でした。が、写楽は、美人画で使われ始めた上半身像の大首絵(おおくびえ)で描き、背景には銀色に輝く黒雲母摺(くろきらずり、黒い雲母の粉末を、ニカワと混ぜ、絵の背景にこすりつけたもの)を採り入れました。これは、初期(1期)の役者絵ですが、劇中人物としての表情と役者自身の素顔の両面を強く描き出し、評判を得ました。

 1910年(明治43年)、ドイツの美術研究家、ユリウス・クルトは、著書「Sharaku」において、写楽を「レンブラント、ベラスケスと並ぶ肖像画家」と絶賛しました。以来、国内外での評判が高まりました。

 写楽の浮世絵は、版画を創作・出版する、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、1750~1797、江戸の本問屋)の版元から、はじめて28点が売り出されました。その頃は、版元では、下絵師、彫師、刷師らが分業で仕事を行い、すばやく大量に生産することができました。大首絵の成功後、2~4期、画風を上半身の大首絵から全身像へと変えながら、110点以上作品を出しました。

 が、役者絵の紙が、次第に小さく薄く品質が落ち、個性的な描写も消えて売れなくなりました。その原因として、約20業者の版元との競争により、費用を抑えて版数を増やし売り上げを増やそうとしたためとも考えられています。

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東洲斎写楽筆(とうしゅうさいしゃらく版画、三世大谷鬼次の奴江戸兵衛、東京国立博物館蔵、東京、google画像) 顔が写実的なのに比べ、手の描写がつたない(アンバランス!)、三世大谷鬼次の奴江戸兵衛東洲斎写楽筆、コレクション名品ギャラリー館蔵品、東京国立博物館、東京): http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10569.471.

(解説) 大田南畝(おおた なんぽ、1749~1823、文人、狂歌師、別号、蜀山人、しょくさんじん)がまとめた浮世絵師の名鑑、(浮世絵類考(うきよえるいこう、1844年(弘化元年)増補版)によれば、「あまりに真を画んとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず、一両年にして止む」と作風による不人気により(役者絵は役者を見た目よく描くものですが、写楽は、役者の骨張った輪郭や大きな鼻、老いた顔つきといった実像をあまりに真実に描こうとして、望ましくないように描いてしまった。例えば、女形の絵は、首が太く、いかつい顔つきから、男の女形の姿であることがよく見える!)、短期間で浮世絵の画壇を退くはめになったと伝えられています。写楽の項では、町名主・斉藤月岑(さいとうげっしん、1804~1878)が「俗称、斉藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ、1763~1820)」「阿波侯の能役者也」と明確に書き入れています。

 初期(1期)大判黒雲母摺(おおばんくろきらずり)28図が最も優れているという。 写楽「特別展」(2011年5~6月、1~4期作品解説、東京国立博物館):.http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=706.

 代表作に、大谷鬼次(おおたにおにじ)の奴江戸兵衛(やっこえどべえ)のほか、市川高麗蔵(いちかわこまぞう)の志賀大七(しがだいしち)、小佐川常世(おさがわつねよ)の桜木(さくらぎ)など、1794年(寛政6年)5月の狂言に取材した大首絵などがあります。

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東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、肉筆画四代松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪、国立コルフ・アジア美術館蔵、ギリシャgoogle画像)  肉筆画ギリシャで発見、注目される写楽論争(asahi. com. 2009年6月17日): http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200906170202.html.

(解説) 2008年(平成20年)夏、アドリア海に浮かぶギリシャのコルフ島のギリシャ国立コルフ・アジア美術館(20世紀初頭にギリシャ人の外交官が集めた日本美術品7000点余りを収蔵)で、それまで調査されずに埋もれていた東洲斎写楽筆の扇に描かれた浮世絵肉筆画が発見されました。 また、三重県津市の石水博物館にも、1934年(昭和9年)に発見され、本物の写楽のものか不明な扇の浮世絵肉筆画が保存されていました。そこで、美術の専門家が、現存する写楽の版画の浮世絵と二つの肉筆画の絵の線の模様、筆使いなどを詳細に解析した結果、全く同じで、全て写楽の作品であると確認されました。

 これらの絵の線の模様、筆使いは、その当時の有名絵師(10名)の個性とも異なるものでした。また、扇の浮世絵の肉筆画は、1800年(寛政12年)に描かれたもので、版元の蔦屋重三郎は、3年前の1797年(寛政9年)に亡くなっていることから、東洲斎写楽は阿波藩の能役者、斉藤十郎兵衛であることが、確認されました東洲斎写楽の菩提寺法光寺(ほうこうじ、浄土真宗、越谷、埼玉)の過去帳には、斉藤十郎兵衛、58才没、と記されています。写楽と法光寺: http://homepage3.nifty.com/shirakobato-network/famous/sharaku.html.

 また、写楽は、武士扱いの能役者と浮世絵師という立場、名前を隠さねばならない時代背景がありました。名前の「さい とう じゅう ろ べえ」の「さい(斎) とう(藤) じゅう(十)」の名字を逆に読むと「とう(東) じゅう(洲) さい(斎)が、うつすのを(写) たのしむ(楽)」と隠し名前が読み取れるという。自らの足跡を後世に残したい気持ちがあったのだろうか?

 私は、2011年(平成23年)5月14日(土)、NHK番組、歴史秘話 写楽 謎の絵師についての放送を見たことがあります。東洲斎写楽という筆名の浮世絵の肉筆画の発見による写楽謎ときのドキュメント(記録映像)が強く印象に残っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991);  永原慶二監修: 岩波 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 北陸中日新聞: 浮世絵師 東州斎写楽、浮世絵とは?江戸期の庶民文化、正体は? 阿波藩の能役者説、魅力は?人間の内面描く線、なぜ消えた? 封建制が 活動阻む、2011年(平成23年)4月4日(月)、朝刊より; 朝日新聞(井上英樹): 文化の扉、はじめての写楽、役者のリアル描いた「一発屋」、活動は寛政年間の十ヶ月、役者の大首絵で真に迫る、外国人に評価されて脚光、2011年(平成23年)4月25日(月)朝刊より.

(参考資料) ボストン美術館と浮世絵浮世絵名品展、名古屋、ボストン): http://ukiyoe.exhn.jp/history/index.html 

特別展写楽」(2011年5~6月、東京国立博物館、東京): http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=706. 

東洲斎写楽筆、(大判黒雲母摺(おおばんくろきらずり)28図、三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛、哀感にじむアンバランスな魅力、浅野秀剛、アート・アーカイブ探求、2009年10月): http://artscape.jp/study/art-achive/1209401_1982.html.

東州斎写楽 浮世絵(google画像検索): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%B1%E6%B4%B2%E6%96%8E%E5%86%99%E6%A5%BD%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1024&bih=584.

(追加説明) ○ 写楽の作品は、制作期順に、1期: 役者大首絵28枚(寛政6年5月取材)、2期: 二人役者絵など38枚(同7、8月取材)、3期: 大首絵など64枚(同11月、閏(うるう)11月取材、4期: 役者絵など12枚(寛政7年1月取材)に分けられます。

 特徴は、人物造形のデフォルメ(特徴を誇張、強調して表現)とよくいわれるが、東京国立博物館の田沢裕賀さんは「写楽の特長は、ほとんどの絵師が描く定型的な線描を避けた独特の線にある。それによって役を演じている役者自身だけでなく、役柄が持つ人間ドラマまで描き出している」と指摘しています。

 こうした表現は、2期までは顕著ですが、3、4期となると急速に薄れていく。2期の線が力強く躍動感に満ちているのに対し、3期は線をたくさん描き込んでいるのに迫力が見られない。これが、写楽が一人でないとする説を後押しする一因になっています。また、価格のことか、紙が次第に小さく薄くなっています。

 写楽の正体は斉藤十郎兵衛であることがほぼ確実ですが、なぜ活動期が10ヶ月と短かった理由については、時代背景も一因と考えられています。当時は寛政の改革が行われ、幕府の財政の安定を目指して、緊縮財政と風紀取り締まり実施されていました。

 斉藤十郎兵衛は能役者ですが、武士階級でした。一方、写楽が題材としているのは歌舞伎役者で、武士が役者と交流していることが発覚すれば、厳しい処分が下される恐れがありました。写楽が評判になったことで、幕府から目をつけられるのを避けるために、早めに浮世絵の世界から手を引いたことが考えられています。(北陸中日新聞: 浮世絵師 東州斎写楽、浮世絵とは?江戸期の庶民文化、正体は? 阿波藩の能役者説、魅力は?人間の内面描く線、なぜ消えた? 封建制が 活動阻む、2011年(平成23年)4月4日(月)、朝刊より)

 

2012年1月11日 (水)

聖徳太子(しょうとくたいし、飛鳥時代)、日本書紀に記された推古天皇(女帝)の皇太子、聖徳太子(摂政)は、実在した人物、それとも創作された人物(実証的歴史学)なのか(2012.1.11)

   近年、飛鳥時代(あすかじだい)、日本書紀(にほんしょき)に記されていた、深く仏教に帰依(きえ)し、律令制国を治めたとされる聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)について、近代の実証的歴史学の積み重ねから、「聖徳太子はいなかった」との説が発表されています。 日本書紀(にほんしょき)は、日本最古の正史(六国史の第一)、舎人親王(とねりしんのう、676~735)らの撰で、奈良時代、720 年(養老4年)に完成しました。

 そこで、中学、高校の教科書でも学んだ、飛鳥時代の中心的な政治家、思想家、推古天皇の皇太子、摂政、聖徳太子(しょうとくたいし)について、改めて調べてみました。

○ 聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)の伝承

聖徳太子及び二皇子肖像画(奈良時代、御物、宮内庁、google画像)  

聖徳太子の肖像画(聖徳太子のこと、奈良観光ホームページ、藤原敞(本文・写真)、浦野英孝(管理)、奈良): http://urano.org/kankou/topics/taishi/index.html. 日本最古の肖像画で、中央が太子、向ってが嫡子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)、が弟の殖栗王(えぐりのおう)。推古天皇の時に来日した百済(くだら)の阿佐太子(あさたいし、生没年未詳)のと云われています。

 聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)は、父が第31代、用明天皇(ようめいてんのう、?~587)、母が穴穂部間人(あなほべのはしひと、?~621)皇后の間に生まれた7世紀の有力王族で、いずれも蘇我氏の血が濃く、蘇我・物部の争いでは、蘇我馬子(そがのうまこ)の陣営に第30代、敏達天皇(びだつてんおう、?~585)系王族と共に加わりました。聖徳太子(しょうとくたいし、飛鳥の扉): http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/shotokutaishi.htm.

 厩戸皇子(うまやどおうじ、厩戸王とも)の名前の由来は、厩(うまや)の前で生まれたとされることによるものです。幼いころから聡明(そうめい)で、7才の時に百済(くだら)から献上された経綸数百巻を読破したという。長じては、10人の人々の訴えを同時に聞いて、それぞれに正しい答えを返したというので、尊敬をこめて豊聡耳王子(とよとみみおうじ)とも呼びました。また、仏教の立場から徳を称える聖王・法王・法大王・法王大王・上宮太子などの称号がありました。のち、高句麗(こうくり)や百済(くだら)の知識人から帝王学を学び、天皇中心の中央集権国家が理想だと考えるようになりました。

 592年、有力豪族の蘇我馬子(そがのうまこ、?~626)の謀(はかりごと)によって第32代、崇峻天皇(すしゅんてんのう、?~592)が暗殺されると、馬子は姪(めい)の第33代、推古天皇(すいこてんのう、554~628、39才)を皇位につけました。

 593年(推古1年)、蘇我氏の血筋を引く聖徳太子(しょうとくたいし、20才)は、皇太子、摂政(せっしょう)となり、大臣(おおおみ)に就任した蘇我馬子(そがのうまこ))と共に、飛鳥(あすか)の豊浦宮(とゆらのみや)で史上初の女帝の政治を助けることになりました。 

 601年(推古9年)、飛鳥(あすか)から20kmほど離れた斑鳩宮(いかるがのみや)の造営に着手し、605年には斑鳩に遷居し、以後上宮王家一族の安定した基盤の地となりました。これは、蘇我馬子(そがのうまこ)との対立に疲れたためと考えられています。

 603年(推古11年)、聖徳太子は、蘇我氏を牽制(けんせい)し、天皇の権威を高める政策として、冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定め、翌年には憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)を制定しました。

 607年(推古15年)、朝鮮問題の打開などを企画して、小野妹子(おののいもこ、生没年不詳)を第1回の遣隋使として中国に派遣しました。そして隋との対等の国交を開き、留学生・留学僧を送って大陸文化の導入に努めました。朝鮮半島では、伽耶(かや)諸国を滅ぼした新羅(しらぎ)に対し、第1回の遠征軍を派遣しました。

 620年(推古28年)、聖徳太子は蘇我馬子とともに天皇記(てんのうき)、国記(こっき)などを編纂、622年(推古30年)に死去しました。628年、第33代、推古天皇(すいこてんのう)が死去し、第34代、舒明天皇(じょめいてんのう、?~641)が即位しました。

 聖徳太子は、日本の伝統精神、仏教や儒教など、内外の学問に通じ、特に仏教に対しては深い理解と信仰を示し、その著作とされる、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」には独自の解釈がうかがわれ、法隆寺(ほうりゅうじ、斑鳩町、奈良)、中宮寺(ちゅうぐうじ、斑鳩町、奈良)、発起寺(ほっきじ、斑鳩町、奈良)、橘寺(たちばなでら、明日香村、奈良)、葛木寺(かつらぎでら、所在不明、奈良?)、広隆寺(こうりゅうじ、京都)、四天王寺(してんのうじ、大阪など7寺建立したといわれています。

 「和を以て貴しと為す」との教えや貧しい者への優しい眼差(まなざ)し、太子の言葉とされる世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)の無常観など、今も人の心を打つものがあります。

 聖徳太子に対する後世の強い信仰を示すものとして多くの太子伝絵伝、太子像などがあります。聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)は、聖徳太子の伝記を絵画化したもので、神話化された要素が多い。

 現存最古の作例は、平安時代、1069年(延久1年)、秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだとも、生没年未詳)が描いた旧法隆寺絵殿の障子絵(東京国立博物館蔵屏風)で、鎌倉時代以降、太子信仰や祖師絵伝絵巻制作の流行に伴って絵巻や掛幅が多く作られ、絵解きに使用されました。 

聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん、国宝・重要文化財、秦致貞東京国立博物館蔵): http://www.emuseum.jp/detail/100205?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=12&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=9&mode=detail&century=.

○ 聖徳太子(しょうとくたいし、574~622)の非実在

 「聖徳太子はいなかった」との戦後歴史学の決定的な結論は、大山誠一(1944~ )中部大学教授の1996年(平成8年)からの「長屋王家木簡と金石分」「聖徳太子の誕生」「聖徳太子と日本人」などの一連の著書と論文、それに同教授グループの2003年(平成15年)の研究書「聖徳太子と真実」でした。 聖徳太子の非実在聖徳太子とは誰のことかシステムアーカイブ): http://www.systemicsarchive.com/ja/a/shotoku.html.

 それらによると、数多くの伝承や資料のうち、太子の偉大さを示す業績は、日本書紀が太子作として内容を記す「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」「三経義疎(さんぎょうのぎしょ)」の二つに限られるそうです。 

 このうち「十七条憲法」については、既に江戸後期の考証学者が太子作ではないと断定し、戦前に津田左右吉(つだそうきち、1873~1961)博士が内容、文体、使用言語から書記編集者たちの創作などと結論、早大を追われたのは有名とのことです。

 また、「三経義疎」については、仏教の注釈書で太子自筆とされる「法華義疎」も現存しますが、これらも敦煌学(とんこうがく)権威の藤枝晃(ふじえだあきら、1911~1998)京大教授によって、6世紀の中国製であることが論証されてしまったとのことです。

 法隆寺金堂釈迦三尊像の光背の碑文には、623年、厩戸王(うまやとおう、聖徳太子、しょうとくたいし、とも)の冥福(めいふく)を祈って一族・諸臣らが発願(ほつがん)し、鞍作鳥(くらつくりのとり、止利仏師、とりぶっし、とも、生没年未詳)につくらせたとあります。北魏(ほくぎ)様式の代表的な仏像(金銅像)です。

 その結果、法隆寺金堂釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)や薬師如来像(やくしにょらいぞう)、中宮寺天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)も、その光背の銘文研究や使用されている暦の検証から太子の時代より後世の作であることが明らかになってきました。

 国語・国文学、美術・建築史、宗教史からも聖徳太子の実在は次々と否定され史実として認められるのは、第31代、用明天皇の実子または親族に厩戸王が実在し、斑鳩寺(法隆寺)を建てたことぐらいとのことです。

 ということで聖徳太子が日本書紀によって創作され、後世に捏造(ねつぞう)が加えられたとの結論が学界の大勢になりました。 大山誠一教授の説くところ、そのいずれもに重大な役割を果たしたのが、女帝の第41代、持統天皇(じとうてんのう、645~702)の側近の藤原不比等(ふじわらのふひと、659~720)で、また、長屋王(ながやのおおきみ、?~729)や唐留学帰りの僧・道慈(どうじ、?~744)が関与、多くの渡来人が動員されたとのことです。

 日本書紀は、720年(養老4年)完成の最古の正史で、その編纂(へんさん)過程に律令(りつりょう)体制の中央集権国家が形成されました。隋・唐の統一と東アジアの太動乱、それによる大化の改新(たいかのかいしん、645年、大化1年)や壬申の乱(じんしんのらん、672年)を経て、古代社会の「倭の大王」は「日本の天皇」へ変わったとされています。

 このような大変革の時代の日本書紀の任務は、誕生した天皇の歴史的正統性と権威の構築でした。それが、高天原ー天孫降臨ー初代、神武天皇(じんむてんのう、生没年未詳)ー現天皇と連なる万世一系の思想と論理、中国皇帝にも比肩できる聖天子、聖徳太子の権威の創作など、日本書記は政治的意図が込められた歴史書とのことです。

 日本書紀で展開された思想と論理は、1300年後の現代にまで引き継がれ、戦後の1946年(昭和21年)とその翌年に制定された現行の日本国憲法と皇室典範は、皇位は世襲で、皇統に属する男系の男子がこれを継承する、と定めています。

 私には、聖徳太子は、中学、高校の教科書の中の知識しかなく、「聖徳太子は創作された人物で、実在しなかった」との近代の実証的歴史学の結論には、お札の中の肖像画の姿が印象深く、少なからず驚きました。

 (参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 福井県立若狭歴史民俗資料館編: 福井県立若狭歴史民俗資料館 常設展示図録(1997); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 成美堂出版編集部編: 図解日本史、成美堂出版(2006); 北陸中日新聞社説: 書き換わる聖徳太子像、週のはじめに考える、2008年(平成20年)2月10日(日)朝刊; 成美堂出版編集部編: 図解日本史、成美堂出版(2006); 詳説日本史図録編集委員会編: 山川 詳説日本史図録(第藩)、山川出版社(2009).

2012年1月 1日 (日)

サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.1.1.迎春、白山比咩神社参拝) 

迎 春  

謹んで新春のお慶びを申し上げます                       

  2012年(平成24年) 元旦 

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感謝と祈願! 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ、神社の本殿(ほんでん)、屋根入母屋造(いりもやづくり)、左右は阿吽(あうん)の獅子(しし、狛犬、こまいぬ)、鶴来、白山市、石川)  

○ 迎春(げいしゅん)とは、新春を迎えること。新春(しんしゅん)とは、(しんねんをことほいでいう)新年。はつはる。ことほぐ(寿ぐ、言祝ぐ)とは、(上代は清音)ことばで祝福する。はつはる(初春)とは、春のはじめ。新春。新年。

元旦(がんたん)とは元日の朝。元朝。また、元日。1月1日。1年の計は元日にあり。がんじつ(元日)とは、年の初めの日。正月の第1日。(広辞苑、岩波書店より)

○ 新年(しんねん)とは、年の初めをいう。あらたまの年、新春、新歳ともいう。陰暦では新年と春がほとんどいっしょだったので、春といえば新年のことであった。今でも「今朝の春」「明けの春」などといって、新年の意をあらわす習慣が残っている。 新しき年・改まる年・年明く・年立つ・年頭。

 人間は、どんな逆境や、悲境にあっても、最後の一瞬まで、希望と夢を忘れてはならない。活力に溢れて生きんとする者は、無条件に新年を祝い、新年には絶大な夢を託す。(生活歳時記、三宝出版より)

(参考文献) 新村出: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、三宝出版(1994).

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