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2012年6月の4件の記事

2012年6月18日 (月)

妖怪(ようかい、あらゆる自然の神と裏表の存在)、幽霊(ゆうれい、特定の人の亡霊の出現)、怪獣(鵺)と霊獣(白澤、龍)の姿、とは(2012.6.18)

   昔の人々は、この世にあるすべてのものに霊魂が宿る(アニミズム)とし、あらゆる自然に神の存在を認めていました。そして、その霊魂が荒れて怪異現象(かいいげんしょう)が起きると妖怪(ようかい)の仕業(しわざ)と考え、神としてまつり、鎮(しず)めました。 ということで、妖怪裏表の存在で、人知を越える力への畏怖(いふ)が、妖怪を生みました。

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○ 妖怪(ようかい)

妖怪(ようかい、グラフィック、前川明子、The Asahi Shimbun, 2011年(平成23年)8月8日)

{解説) 妖怪(ようかい)とは、恐ろしさをそそる人知では解明できない超自然的な怪奇な現象、または異様な物体。化物(ばけもの)。 御化け(おばけ)。変化(へんげ)。妖怪(ようかい)は、幽霊と違って、特定の人を選ばず特定の場所や時間に現れる化物(ばけもの)です。

 妖怪には、山の怪(山人、天狗)、海の怪(海坊主、船幽霊)、家の怪(座敷童子、納戸婆)、雪の怪(雪女)、火の怪(鬼火)、音の怪(山彦)、家を訪れる怪(一目小僧)、木の怪(沖縄のきじむん、木霊)、動物の怪(河童、鵺、ぬえ)、道の怪(そで引小僧、送り狼)など種類が多く、民俗学では信仰の普遍性が失われ零落(れいらく)した神々の姿という。 

日本の妖怪一覧(Wikipedia, ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A6%96%E6%80%AA%E4%B8%80%E8%A6%A7.

 鬼火(おにび)とは、湿地に小雨の降る闇夜などに燃え出て、空中に浮遊する青火です。燐化水素の燃焼との説もありますが、不明です。また、陰火、幽霊火(ゆうれいび)、狐火(きつねび)、火の玉などともいう。

  動物霊による憑依(ひょうい、霊などがのりうつること)は、神がかり霊寄せ(れいよせ)と同じ信仰に属しています。人間に憑(つ)くとされる動物霊は、キツネ(狐)・イヌガミ(犬神)・ヘビ(蛇)・サル(猿)・カッパ(河童)などです。 一般に、憑(つ)きものは、急速に財をなして成り上がったものへの制裁として考えられ、憑(つ)きものもちのレッテルを彼らに貼りつけることによって社会から隔離し、秩序を保とうとしたものと理解されています。

 このことに関し、私たちは日常の会話で、「今日はついている」、「ものにつかれたようにガムシャラに働く」などといった言い方をすることがあります。

 室町時代以前は、 怪異現象は人々の間で語り継がれ、やがて姿や名前を与えられて絵巻物などに登場しました。が、限られた人しか見られませんでした。このころ発達したお伽草子(おとぎぞうし、短編の挿絵入り物語)の中には、「天狗の内裏」「酒呑童子」「「藤袋草子」など、異類の物語と絵巻があります。 

日本の鬼の交流博物館(ホームページ、酒呑童子伝説含む、福知山市、京都府): http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/index.html.

 江戸時代、妖怪のキャラクター化、大衆化が進んでいます。江戸時代後期には、政権に不満を持つ庶民の代弁者として、浮世絵にも登場しました。 

怪異・妖怪伝承データベース(小松和彦監修、国際日本文化研究センター): http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB/index.html.

 明治、昭和、現在では、新聞錦絵、紙芝居、マンガ、映画、テレビなど新しいメディアが生まれるたびに、妖怪ものは人気のコンテンツになって行きました。

 1908年(明治41年)、日本民俗学の父と称される柳田国男(1875~1962)は、遠野(秋田)出身で文学を志して上京中の佐々木喜善(1886~1933)の話を、主に市谷加賀町(東京)の自宅で聞き取る形で、遠野物語が生まれました。初版はわずか350部、妖怪を含む民間伝承、全部で119話が収められました。

 その世界には、河童、神隠し、山の神、ザシキワラシ、オシラサマ、マヨイガなど、人間以外のものと共存することで得られた豊かさがありました。が、柳田国男がこの世を去り、日本が高度経済成長期に入り、日本人は神を忘れ、妖怪を忌み、獣たちを遠ざけてきました。 

遠野の語り部、YuTube(遠野、秋田): http://www.youtube.com/watch?v=96rY_9SQEWE.

 現代の妖怪イメージは、1960年(昭和35年)代末の「ゲゲゲの鬼太郎」に代表される妖怪ブームです。「鬼太郎」の作者、水木しげるさん(1922~ 、鳥取)は、戦後の日本は電気の明るさで妖怪を消してきた」という。 水木しげる記念館(ホームページ、本町、境港市、鳥取県): http://mizuki.sakaiminato.net/.

 ということで、近年の大地震、大津波など、自然の猛威を目の当たりにして、遠野物語の妖怪たちは、私たちが失った大切なものは何かなど、現代人に生きるのに大切なメッセージを送ってきているという! 

○ 幽霊(ゆうれい)

 幽霊(ゆうれい)とは、広辞苑によれば、①死んだ人の魂。亡霊。②死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したたもの。亡者(もうじゃ)。 妖怪と共に化物の一種。死者の霊が生前の姿で出現する現象です。 幽霊(Wikipedia, ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E9%9C%8A.

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幽霊(ゆうれい、お菊番町皿屋敷、月岡芳年作、1890(明治23年)、google画像)

(解説) 日本の幽霊は、「四谷怪談(よつやかいだん、お岩の亡霊」「番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき、お菊の亡霊)「牡丹灯籠(ぼたんどうろう、お露の亡霊)」などの怪談に語られ、丑(うし)三つどき柳の影に髪をふり乱して両手をたれ、足がないのに草履(ぞうり)の音がする姿に類型化されました。

 西洋の幽霊は、生前の姿、骸骨(がいこつ)、頭のない人間、半透明な幻(まぼろし)として出現、ドアをノックし音楽や雷鳴を伴い、一番鶏が鳴くと消え失せました。

 中国では死霊を鬼と呼び、横死(おうし)したり供養(くよう)を忘れた死霊は、幽鬼(ゆうき)となって出現、また、経書、剣、桃などは、幽鬼退散に効力があるとされました。 

 私は、小さい子供のころ、どこともなく、郷里の四国霊場第6番札所、安楽寺(真言宗)の焼失前の本堂の北側(お地蔵さんの小さなお堂、墓地?)付近から、闇夜によく火の玉が出るとか、宮川内谷川の堤防の大きな老木と祠(ほこら)のある付近、闇夜にそこを通ったとき、人がタヌキ(狸)やキツネ(狐)に化かされることなど、地元の人からよく聞いたことがあります。現在の安楽寺の本堂は、1957年(昭和32年)火事で焼失、1963年(昭和38年)鉄筋コンクリート造りに再建されました。

 また、阿波狸合戦の「金長狸(きんちょうだぬき)」の活躍のほか、高知県には、昔から「シバテン(芝天狗とも」と呼ばれる相撲好きの河童に似た妖怪がいて、人がよく相撲にさそわれ、負かされるなど、聞いたことがあります。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973);  新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 大島、佐藤、松崎、宮内、宮田編著: 図説 民俗探訪事典(1版19刷)、山川出版社(2005); 宗教民族研究所編: ニッポン神さま図鑑、祥伝社(2003); 宮本常一: 絵巻物に見る日本庶民生活誌(26版)、p.210~212、百鬼夜行の世界、中央公論新社(2007); 北陸中日新聞: 日本民俗学の金字塔、遠野物語、著者、柳田国男、2010年(平成22年)7月4日(日)、朝刊より; 朝日新聞: 小川雪、はじめての妖怪、神様と裏表 江戸期にキャラ化、2011年(平成23年)8月8日(月)、朝刊より.

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(追加説明) ○  アニミズムとは、あらゆる事物や現象に霊魂、精霊が宿ると信ずることに基づく原始的宗教観念。animismは、ラテン語のanima(気息、霊魂)に由来。タイラー(1832~1917、進化論的人類学者、英国)の弟子マレット(1866~1943、人類学者、英国)によって、タイラーのアニミズム(宗教の原始的形態)を修正し、プレアニミズム(呪術と宗教の一元論)として唱えられました。

○ (ぬえ)は、平家物語などに見えます。その姿は、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に、声はトラツグミに似ていたという伝説上の怪獣です。(ぬえ、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%BA.

○ 白澤(はくたく、白沢とも)は、中国で、想像上の神獣の名。よく人語を話し、有徳な王者の治世に出現するという。 

 その姿は、諸説あり、牛のような体に人面、顎髭を蓄え、顔に3つ、胴体に6つの目、額に2本、胴体に4本の角を持つ姿で書き表されることが多い。また、獅子や竜のような体のものや虎の顔のものなどがあります。 白澤(はくたく、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%BE%A4.

○ 干支(えと)の「龍(竜とも)」、中国で3000年以上も昔から麒麟(きりん)や鳳凰(ほうおう)と並ぶ神獣霊獣とも)に数えられてきました。中国では、仏教渡来以前から崇拝され、国家建設や皇帝誕生などの瑞兆(ずいちょう)に用いられた結果、後漢の頃にそのイメージがほぼ固まりました。

 その姿は、頭がラクダ、角が鹿、目が鬼(またはウサギ)、耳は牛、項(うなじ)は蛇、腹は蜃(しん、大蛇に似た想像上の動物、ミズチの一種)、鱗(うろこ)はコイ、爪はタカ、手は虎と、9種の動物合体です。これにインド仏教に出てくる仏法守護の水神イメージ(水を治め天翔る聖獣!)が乗って日本に伝わり、古墳壁画にも描かれています。(たつ、りゅう、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C. (北陸中日新聞: ことしは辰年、竜の世界、サンデー版、大図解シリーズ、荒俣宏、造形に隠された暗号、2012年(平成24年)1月15日(日)朝刊より

2012年6月15日 (金)

サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.6.15.犀川堤防と民家の庭の紫陽花)

科学風土記(人文、社会、自然)

T. HONJO
金沢
 サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題を、科学風土記(人文、社会、自然)として、四季折々、徒然なるままに紹介しています。
 時折、説明、資料、画像など追加、修正し、タイトル、話題の内容などアレンジしたものもあります。 デジカメ写真 、google検索画像は、マウスで左クイックすると、写真や資料の画像が拡大するものもあります。
 興味: 生涯学習(ブログ作成!),サイエンス(科学、人文、社会、自然),歴史散歩(温故知新!),インターネット(IT検索),スクラップ(新聞、雑誌),囲碁(棋話、棋戦!)
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アジサイ(紫陽花、ユキノシタ科アジサイ属、上 額ぶち咲き型、犀川の堤防、 下 手まり咲き型 民家の庭、桜田、金沢、石川、2012年6月15日(金)撮影) 

2012年6月13日 (水)

植物の根(皮層の細胞間隙、通気組織!)、オオムギ〈大麦)、イネ〈水稲)、ススキ〈薄)、クマザサ(熊笹)、クズ(葛)、イタドリ(虎杖)の根の構造、とは(2012.6.13)

   は、普通地下にあり、維管束(いかんそく、導管、どうかん、師管、しかん)、内皮(ないひ)、皮層(ひそう)、表皮(ひょうひ)、根毛(こんもう)、さらにこれらに繊維組織のような細胞壁(さいぼうへき)の丈夫な組織が加わり植物体を支えています。

 また、植物は導管(どうかん、木部とも)から水やそれに含まれる養分(無機塩類など)を吸収し、これを茎、葉の方へ送り、さらに葉で光合成によって作られた養分(でん粉、脂肪、タンパク質など)を師管(しかん)を通じて、各組織にふるい分けて運んでいます。

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オオムギ〈大麦)とイネ〈水稲)の根の構造(横断面、模式図) イネ〈稲)とムギ〈麦)の根の構造比較(横断面、模式図、佐賀県農業試験研究センター、佐賀)http://www.pref.saga.lg.jp/web/at-contents/shigoto/nogyo/kenkyu/ai/saibai/mugi/saibai.html

(解説)  イネ〈稲)は成長するにつれ、根の皮層細胞を構成する細胞と細胞との間に細胞間隙(さいぼうかんげき、通気組織!)が目立つようになります。これは、水草、蓮根と同じように、水中で根に空中の酸素を取り入れるため(呼吸作用!通気組織を発達させたものです。ムギ〈麦)の細胞間隙の発達は見られません。

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イネ〈水稲)、ススキ〈薄)、クマザサ(熊笹)の根の構造(横断面、顕微鏡写真、50~500倍)

〈解説) イネ〈水稲)、ススキ〈薄)、クマザサ(熊笹)は、いずれもイネ科の植物ですが、それら根の皮層細胞には、クマザサ<ススキ<イネの順に、大きな細胞間隙(通気組織!)ができているのが見られました。なかでも、イネとススキの根の構造がよく似ているのには驚きました。

 なお、イネの苗を植えた直後のころは、根にまったく細胞間隙がなく、非常にきれいな放射線状の形でしたが、大きく成長するにつれ、根の細胞間隙が現れ、次第に増大するようになったのが印象に残りました。

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ヘビノネゴザ(蛇の寝茣蓙)、イタドリ(虎杖)、クズ〈葛)の根の構造(横断面、顕微鏡写真、50~500倍)

〈解説) シダ植物のヘビノネゴザ(蛇の寝茣蓙、オシダ科)、イタドリ(虎杖、タデ科)、クズ〈葛、マメ科)の根の皮層細胞には、細胞間隙〈通気組織!)がはっきりと確認できませんでした。 また、シダ植物のヘビノネゴザの一つ一つの細胞の形が安定な正6角形状であることが印象に残りました。

 ところで、はしなやかですが、はしっかりしています。これは、草も木も細胞壁(さいぼうへき)を持ち、その成分はセルロースという細い繊維質とヘミセルロースリグニンという無定形の物質(マトリックス)とからできているためです。特に、にはリグニンが多く、木質部(もくしつぶ、細胞壁を固化して年輪を形成二酸化炭素の固定!)ができるのでかたいです。

 私は、1986年(昭和61年)6月頃、金沢城内キャンパスの金沢大学理学部に勤務していましたが、第10回金沢大学教職員組合余技展(金沢市立図書館附属展示ホール)が開催され、ススキ、ササ、シダ(ヘビノネゴザ)、スギナ、イタドリなどの植物の根(横断面)の大きな顕微鏡写真を、植物のミクロの世界Root Design)として出品したことがあります。恒例の余技展が、広く一般市民の方にも親しまれることを願ったことを覚えています。

〈参考文献) 岩瀬徹、大野啓二: 写真で見る 植物用語、全国農村教育協会(2004).

(追加説明)

〇 セルロースナノファイバー(CNF)、原料は竹、木

 セルロースナノファイバーは、植物の細胞壁を構成するセルロースを細かくした繊維です。太さは約10ナノメートル(ナノは10億分の一)で、パルプをほぐして作られます。プラスチックやゴムに混ぜると強度が上がり、熱による伸び縮みも小さくなります。2004年頃から研究が本格化し、米国や中国、北欧も開発に注力しています。

 この軽くて丈夫な新素材原料は、ですが、日本では、竹紙を作っていた製紙会社が、その生産を本格化させ、より有効に使えないかと、竹CNFの研究に取り組んでいます。竹以外のCNFでは、日本製紙は消臭効果を高めた大人用紙おむつ、三菱鉛筆はインクにCNFを混ぜてかすれにくく乾きやすいボールペンを開発しています。

 特に、については、放置された竹林による被害が深刻化しており、対策に悩む自治体も新たな活用法に期待を寄せています。というのは、放置竹林による被害は、特に関東以南で拡大しています。例えば、京都ではスギやヒノキが枯れる被害が発生、また、香川では台風時に土砂災害が起きています。(朝日新聞、2017年(平成29年)1月4日(水)朝刊より)

〇 竹の花

 農林水産省のホームページによると、竹類の開花周期は種類によって異なり、モウソウチクは67年、マダケは120年と推定されている。竹の花は、恐らく枯れる前兆。

農林水産省(ホームページ): http://www.maff.go.jp/竹の花(稲穂に似た房状、先端から雄しべが垂れている!)http://www.maff.go.jp/result.html?cx=015840603635610229114%3Ad5nyfxhiq78&ie=UTF-8&q=%E7%AB%B9%E3%81%AE%E8%8A%B1&sa=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&siteurl=www.maff.go.jp%2Findex.html&ref=&ss=8528j7386112j13#gsc.tab=0&gsc.q=%E7%AB%B9%E3%81%AE%E8%8A%B1&gsc.page=1

2012年6月 4日 (月)

名字(みょうじ、苗字とも)、名字の由来(古代、平安時代)、士族と平民の苗字(江戸時代、明治時代)、日本に多い名字(佐藤、鈴木、高橋)、本浄姓のルーツ、とは(2012.6.4)

   名字(みょうじ)とは、広辞苑によれば、①(代々伝わる)その家の名。姓。家名。古代では(うじ)の名、また、(かばね)とを併せた名。②同一の氏から分かれ出て、その住む地名などを取った家の名。平氏から出た千葉・三浦の類。苗字

○ 名字の由来(古代、平安時代)

 古代には、姓氏天皇が臣下に与えるものでした。そして、天皇の臣下であることが認められました。 古来の氏姓の中で生き残った四大姓の藤原、橘氏、、平氏なども天皇からの賜姓です。これらは、世に「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼ばれています。

 平安中期ころから、武士などがその居所(きょしょ)、名田(みょうでん、私有田)にちなんで(あざな、別称)をつくるようになり、地名にちなむさまざまな名字が生まれました。

 名字とは名田(みょうでん)のこと、つまり土地のことです。土地の小区分のことです。武士は土着した土地の名、つまり名字を名乗りにし、その土地を懸命に守りました。これを名字の地とも呼び、名字の由来となっています。

 平安末期から武士たちは源平藤橘にあやかり、その後裔(こうえい)と称するようになりました。当時の有力な姓氏を称するものが多く、まぎらわしくなったので、同姓の多い藤原氏などは国名の一字と藤を組み合わせて、加藤、佐藤、遠藤、近藤などと呼びました。

 ということで、名字は平安末期から勃興した武士の間から自然発生的に生まれたもので、現在、一生懸命などと書かれることが多いのですが、本来は一つの所領を命をかけて守るという意味で、一所懸命が正しい書き方です。名字苗字と書かれるようになったのは江戸時代で、「」の字は苗裔(びょうえい、末の血筋、遠い血統の子孫、末孫)の意味からです。

○ 士族と平民の名字(江戸時代、明治時代)

 江戸時代(1603~1868)には、苗字がほぼ固定してきました。 が、「苗字帯刀(みょうじたいとう)」によって武士と一部の庶民を除き、苗字を名乗ることは許されていませんでした。そして、公卿(くぎょう)・武家・神主・医者・庄屋・学者などの特権階級苗字(約1万種)はほぼ固定しました。

 先祖が武士で帰農したような家には苗字の伝えがあり、農民もほとんどが隠し苗字を持っていました。また、江戸の庶民はあらゆる階層ににわたって苗字をもっていて、私的には苗字を名乗ったが、公的には名乗らず、町人たちは、苗字の下に屋をつけ、屋号にしていました。

 そのため、1801年(享和元年)7月に幕府から、「百姓・町民が苗字を名乗り、ならびに帯刀したりするのは、その所の領主・地頭より許された者は別として、固く無用となすべきこと」という御触書(おふれがき)が出ています。

 明治維新後、1870年(明治3年)、新政府は「今後、平民に苗字の使用を許す」という平民苗字許可令を布告(ふこく)、平民も苗字の使用を許され、1871年(明治4年)、重ねて戸籍法を発布、苗字の登録をうながしました。これは、日本ではじめての戸籍で、壬申(じんしん)戸籍という。

 これは、当時の国民は新政府を信用していなかったこともあり、苗字をつけることで余分に課税されるのではないかと警戒し、苗字を名乗る者は少なかったという。

 1872年(明治5年)、すでに登録済みの苗字(約12万種)の変更を禁止、以後、特別な理由のないかぎり苗字を変更することは認められなくなり、その方針は現在まで続いています。

  それでもなお名字を届けない者がいるので、1875年(明治8年)には、「平民もかならず苗字を称し、不詳(ふしょう)の者は新たにつけるべし」と布告(ふこく、平民苗字必称義務令という)、平民はすべて苗字を名のることに定められました。

 当時の農民などには文字の読み書きができない人もいました。その時には、名主(なぬし)・庄屋などの有力者、学識のある神主・僧侶・医者などに相談し、また、役所の戸籍係に苗字をつけてもらった例も多いという。

 明治新政府理念は、士(士族、武士階級、苗字帯刀を許された者も含む)と農工商(平民、苗字を公式に名乗れなかった者)の身分を廃して、四民平等の世の中にすることでしたが、本音(ほんね)は、税制と兵制の確立でした。そのためにも、平民に苗字の使用を許可し、国民の戸籍をまず整備する必要がありました。

 日本に多い名字(佐藤、鈴木、高橋)

  日本では、現在約30万種の名字が登録されています。その中で特に多く使われているのは、①佐藤、鈴木で、この2つの名字で日本の人口の20%を占めているという。次いで日本に多い名字には、③高橋のほか、伊藤、渡辺、斉藤、田中、小林、佐々木、山本、中村、加藤などが10位以内に入るという。 

 佐藤は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと、生没年未詳、平安中期の武将、下野国、栃木県)より五世の後裔(こうえい)、藤原公清(ふじわらのきんきよ)が左右衛門尉(さえもんのじょう)となったので、その左をとって佐藤と名乗ったという。秀郷の子孫は関東各地から奥羽にまで広まり、大きな勢力を持ちました。そして、佐藤の後逸から首藤・後藤・尾藤・伊藤などが出ています。代表家紋は下がり藤。

 鈴木は、信仰心からつけた代表的な名字です。鈴木氏の祖は、古代から続いた熊野神社の神官の穂積(ほずみ)氏から出ています。刈り取った稲束を積んでおくのが穂積ですが、その束(たば)の中心に一本の棒(ぼう)を建てます。この棒は稲魂を招く神聖な依代(よりしろ)であり、豊作を祈る清々し木のことです。それがスズキと呼ばれ、後世に鈴木の文字が当てられるようになりました。

 熊野の神官の鈴木氏は各地に進出し、熊野神社の分祀(ぶんし)をつくりました。特に東日本に広く分布しています。明治新姓のさいに、農民たちがかねてから信仰し、あこがれていた鈴木の名字を選んだので、鈴木姓を名乗る家が多いという。代表家紋は稲。

 高橋は、天と地を結ぶ高い階(きざはし)を意味しています。古式を尊ぶ神社では御柱を立てますが、これが高橋で神を招く神聖な場所でした。古代天皇の料理番ともいうべき膳臣(かしわでのおみ)から高橋朝臣なる者が出ています。高階、高椅、高箸なども同じです。代表家紋は竹笹。

  私たちの祖先の家名の由来を調べるには、江戸時代の先祖については、お寺(菩提寺、旦那寺など)の過去帳があります。

 その過去帳を、巧みに利用したのが徳川幕府で、1665年(寛文5年)、キリシタン禁制のために、全国の寺院に宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」を作成させ、各藩や代官所(だいかんじょ)に提出させました。これは徳川幕府の「住基台帳(住民基本台帳)」となっています。また、家の宗派が無理やり決まった家もあり、これが「寺檀制度(じだんせいど)」の基(もとい)になって、現在まで続いています。

 また、明治までの先祖については、1875年(明治8年)の戸籍謄本が役立つと思われます。

 私の名字「本浄(ほんじょう)」を検索しますと、233828571人中34人(徳島県25人、大阪府8人、石川1人)いて22977番目に多い姓でした。ふるさと引野、上板、徳島)には、今も本浄姓の家が20軒ほど集まっていますので、ここが本浄姓のルーツであることが分かりました。また、戦死者は「英霊」として、先祖代々の墓とは独立した個人墓として建立されることが重視されているようでした。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 鈴木亨: 名字から歴史を読む方法、河出書房新社(2000).

(参考資料) ○ 名字・苗字(みょうじ、語源由来事典): http://gogen-allguide.com/mi/myouji.html

 姓名分布&姓名ランキング (写録宝夢巣・名前・苗字・名字): http://www2.nipponsoft.co.jp/bldoko/. 

○ 同姓同名探しと名前ランキングhttp://namaeranking.com/?search=%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD&namae=%E5%90%8D%E5%AD%97

(追加説明) ○ 古代には、姓氏天皇が臣下に与えるものでした。そして、天皇の臣下であることが認められました。日本で最上位の者天皇で、天皇に姓を与える者はこの世にいないので、天皇は姓を持っていません。天皇の親族も姓を持たないので、皇族が皇籍を離れて臣籍に下るときには賜姓が行われました。藤原、源、平、橘などというのも天皇からの賜姓です。 

 天皇というのは称号であって名字ではありません。初代神武天皇から始まる古代天皇の死後に贈られた称号は、飛鳥時代になって、第33代推古天皇のころに制定されました。

○ 名字は、自然発生的につくられてきたので、最古の名字など分かりません。が、奈良時代、712年(和銅5年)に編纂された日本最古の歴史書、古事記の神々の名前が連なる中で、安曇(あずみ)が最初に出てくる人名で、連(むらじ)というのは敬称なので、この名が最も古い名字の記録という。

 安曇氏は福岡市東部を本拠にした古代豪族で、海産物の貢納や海上輸送を行い、戦時には海上軍事力として朝廷に奉仕した海人部(あまべ、部は職能などの集団)を統率して朝廷に使えました。その子孫安曇、渥美、熱海、天(あま)、海人(あま)海部(かいふ)などの名字は現在も残っています。

○ 平安中期の女流作家、源氏物語の著者、紫式部の名は、源氏物語の「紫の上」と父、藤原為時の官位「式部丞」による名という説が有力です。枕の草子の著者、清少納言の名については、「清」は本姓淸原の略、「少納言」は宮中での呼称で、律令制の太政官の判官という官位の名です。

○ 質問 コメント 鹿ちゃん (Shigaself@yahoo.co.jp, 2012/06/11) : 志賀という名字はどこから来たものですか。 志賀の島もあるし、滋賀県に琵琶湖にも志賀があるし、能登にも志賀町がある。 ちなみに、姫路藩士族の末裔と親父から聞かされ、過去帳を調査すると先祖は江戸時代初期にまで遡りました。

○ 回答 T. HONJO (本浄高治、hon1003@384.jp, 2012/06/12) : 志賀は琵琶湖南西岸一帯の古称。(広辞苑より)古書に、志賀・志我、志何、思賀などとも書かれている。大津の付近は、飛鳥時代、第38代天智天皇(626~671)の志賀の都のあった著名の地である。志賀の名義については詳らかでなく、比叡山東側の断層崖下、琵琶湖岸の扇状地式三角州と関係のある語かもしれぬ。(吉崎正松:都道府県名と国名の起源、p.41,滋賀、志賀(和名抄の訓)、古今書院(1972)より)

(追加説明)

 本浄姓のルーツ、資料                            2017.8.7

① 姓名分布&姓名ランキング (写録宝夢巣・名前・苗字・名字): http://www2.nipponsoft.co.jp/bldoko/. 

 姓「本浄(ほんじょう)」を検索しますと、全国233828571人中34人(徳島県25人、大阪府8人、石川1人)いて、22977番目に多い姓でした。また、徳島県では、上板町15人、徳島市4人、阿波市4人、藍住町2人ですが、以前に、上板町引野天神前の地域に、本浄姓の家が20軒ほど集まっていますので、ここが本浄姓のルーツであると思われます。

 上板町誌資料調査会によると、引野は、平安時代のころには、朝廷のご領地で、日置庄(ひのきしょう)と言われていました。それは今の引野を中心とする一帯の地方でした。のち細川氏支配を受け,熊野庄と呼ぶようになり、日置庄の庄名が使われなくなり、ヒノキ(日置)はいつも間にかヒキノ(引野)に名が変わったもののようです。

② 本浄姓と共同墓地

 天神さん(現在公会堂)の地域に、以前に本浄姓が約20件ほどあった頃、安楽寺(真言宗、菩提寺)の過去帳によると、上板町引野天神前で最古の本浄家(清、義人、天神前1番地の1)の元祖は、1676年(延宝4年)に亡くなっています。ここの家には鎧、兜、刀なども現存しており、先祖が武士で帰農した可能性があります。

 江戸幕府は、1638年(寛永15年)、キリシタン禁制のため、仏教徒(檀家)であることを寺院の住職に証明させ(寺請証文)、1665年(寛文5年)に全国の寺院に宗門人別帳、さらに、宗旨人別改帖の提出を義務づけ(檀家制度)、1671年(寛文11年)、その作成を制度化し、各藩や代官所に提出させました。

 その頃は、神仏習合、ご先祖さまは、名字をつけるのに、檀家寺の住職、神社の神主、名主など有識者から助言を受け、またご先祖さまの信仰、南無阿弥陀仏!なんまいだ!浄土宗?浄土真宗?、のち南無大師遍照金剛!真言宗に改宗?などの思い?もあり、本浄姓を名乗ったと思われます。

 このことは、ほとんどの本浄家の墓が、最古の本浄家から提供された墓地(天神前公会堂から山の方に歩いて行くと、徳島自動車道の手前にあります!)に建立されていることからも、一族のつながり(分家、婚姻による親類縁者など)の強さが偲ばれます。最近は墓地が狭くなり、各家代々の寄墓が目につきます。                                              

〇 京都(伏見)の本浄寺は真宗大谷派、金沢の本浄寺は、真宗大谷派(金沢市須崎町)、浄土真宗本願寺派(金沢市泉、七尾市中島町)、また、京都(上京区)の浄土院は浄土宗、石川県(白山市安𠮷町)の浄土寺は真宗大谷派となっています。

〇 お寺一覧(納骨堂info):http://www.nokotsudo.info/list/index.html

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