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2012年9月の3件の記事

2012年9月15日 (土)

富樫氏(とがしし、加賀守護家、野市、のち野々市)、安宅の関跡(勧進帳、小松)、一向一揆(高尾城陥落、百姓の持ちたる国、金沢御堂の設置、のち金沢城へ)、とは(2012.9.15)

   富樫氏(とがしし)は、鎌倉末期、南北朝(1332~1392)・室町時代(1338~1573)の加賀守護家です。鎮守府将軍・藤原利仁流家国(生没年未詳)を始祖としています。 加賀守護職一覧冨樫氏一族): http://www.geocities.jp/yuujirou8/siro/Gallery-10-37-1-siyugo.html

 富樫荘(とがししょう、金沢市富樫町)を本拠に在庁官人として活躍し、代々富樫介を称しました。 鎌倉末期は有力在京御家人となり、1335年(建武2年)、冨樫高家(とがしたかいえ、生没年未詳)の代に守護職を得ますが、1574年(天正2年)、冨樫泰俊(とがしやすとし、?~1574)が一向一揆(いっこういっき、浄土真宗(一向宗)門徒が起こした一揆)に討たれて滅亡しました。

 安宅の関跡と勧進帳

 住吉神社(小松市安宅町)の背後の松林の砂丘には、安宅の関跡の石碑が立ち、江戸時代、歌舞伎劇、勧進帳(かんじんちょう)で有名な源義経、弁慶と冨樫左右衛門(冨樫泰家?)の銅像があります。 

 歌舞伎作者3世並木五甁(なみきごへい)作、1840年(天保11年)3月5日より江戸河原崎座で初演、追われる身の義経が、冨樫にとがめられるが、家来の弁慶らとともに東大寺勧進の山伏と称し、安宅の関を通過する苦心談を描いています。

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安宅の関跡(あたかのせきあと、勧進帳(かんじんちょう、銅像 左より 義経、弁慶、冨樫、安宅、小松、google画像) 安宅の関(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E3%81%AE%E9%96%A2

(解説) 1187年(文治3年)、源頼朝(1147~1199)の追求を逃れて、奥州平泉の藤原秀衡(?~1187)を頼って落ちのびる途中、山伏姿に身をやつした源義経(1159~1189)主従が、ここで冨樫左右衛門(冨樫泰家?)に見とがめられます。このとき、弁慶(?~1189)が勧進帳を読み上げた機転で危機を脱したという話はあまりにも有名です。義経紀素材にした謡曲安宅」や江戸時代末の歌舞伎勧進帳」の舞台です。

 加賀一向一揆に滅ぼされた富樫政親(12代、室町後期)の先祖は、鎌倉時代の加賀守護、富樫泰家ですが、江戸時代勧進帳(歌舞伎)の安宅の関守として、富樫左右衛門の名で登場しています。

 最近、清水郁夫氏(地方史家、安宅町、小松)によれば、源義経一行が安宅(小松、加賀)を通ったのは、1187年(文治3年)と言われているが、「如意宝珠御修法日記」の裏に記された鎌倉幕府の古文書中の「関東御教書安」には、幕府が、京都の治安維持を担う役職「篝屋守護人」だった富樫泰家から息子への所領(甲賀市、滋賀)の支配相続を認めたと言うことが記されているそうです。

 この御教書案には、正応3年との記載があり、西暦では1290年であり、史料に100年の開きがあり関守、富樫泰家は存在せず、別人ではないかと問題を提起されています。(2009年(平成21年)4月2日(木)、北陸中日新聞、朝刊より  勧進帳(google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&lr=&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&sa=1&q=%E5%8B%A7%E9%80%B2%E5%B8%B3&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2

 一向一揆と冨樫氏の滅亡

 富樫館跡(本町、野々市)から北と西へとのびる野々市町(のち野々市市)は、中世には、野市(ののいち)と書きました。加賀の守護大名富樫氏の守護所に近く流通の中心地として栄え、藩政期には城下町金沢に隣接する在郷町となりました。

 富樫氏が加賀の武士団の棟梁として頭角をあらわすのは鎌倉中期、加賀の守護となるのは南北朝の初期です。15世紀にはその権力が確固たるものになり、館もその頃に構えられたという。

 高尾城跡(のち北陸自動車道の土取場から石川県教育センターへ、高尾、金沢)は、室町期、冨樫氏が館から南東に4kmばかり離れた、標高約170mの「ジョウヤマ」と呼ばれた山頂に築いた山城でした。1467年(応仁元年)、応仁の乱によって深刻化した冨樫氏の内紛、そこにつけこむ加賀の武士団の抗争、生活を圧迫された農民の不満、それを巧みに利用した本願寺派の蓮如による土豪以下の農民の組織化、それらがあいまって、1488年(長享2年)6月、一向宗浄土真宗門徒武力蜂起となりました。

 無力の守護大名冨樫政親(とがしまさちか、1455~1488)は、「南無阿弥陀仏」のむしろの旗のもとに結集した数万人の一揆軍に高尾城攻め滅ぼされ、それから約1世紀(90余年)の間、加賀一国を支配した「百姓ノ持タル国」という日本史上に例をみない「加賀一揆国」の体制が続きました。のち、加賀支配の中心は次第に、北隣の寺内町(じないちょう)の尾山(おやま、のち金沢)に移っていきました。

 加賀一向一揆は、1546年(天文15年)の金沢御堂(かなざわみどう、のち尾山城、金沢城へ)の設置を契機に大坂本願寺の支配に服し、加賀の門徒たちは本願寺の直参であることを誇りにしました。 

 加賀の門徒は、1570~80(元亀元年~天正8年)、石山本願寺(浄土真宗本山、蓮如開創、石山御堂、大坂御坊、大坂本願寺とも、のち大坂城、大阪城へ)の織田信長(1534~1582)との合戦での奮戦ぶりも、そこが原点でした。石山合戦以後も北陸では真宗浄土真宗、一向宗とも)門徒がふえ、東・西両本願寺と近世の寺檀制度(じだんせいど)のもと真宗王国と呼ばれるほど信徒数が増加し、現在に至っています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991);石川県の歴史散歩研究会編(代表奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 石川県の歴史散歩編集委員会編(代表木越隆三): 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010).

(追加説明、話題)

〇 野々市市ふるさと歴史館

 商業施設が立ち並ぶ野々市市中心部の国道8号のすぐ横に、縄文時代の遺跡がたたずむ。63年前に地元の中学生が発見し、約1万点の土器や石器が出土した御経塚遺跡だ。隣接する野々市市ふるさと歴史館ではこのうち約300点が展示され、当時の生活や儀礼を現代に伝えている。

野々市ふるさと歴史館(ホームページ): http://www.city.nonoichi.lg.jp/bunka/furusatorekishikan.html

(朝日新聞:野々市市ふるさと歴史館、御経塚遺跡の出土品300点展示、館長中3時の大発見、2017年(平成29年)4月19日(水)より)

〇 勧進帳 歴史伝える本物

 勧進帳とは、仏教の僧侶が寄付を集める際に持ち歩き、寄付の趣旨や寄付をした人の名前、金額などを書いたもの。

 中でも東大寺が奈良時代、平安時代末期、江戸時代初期に大仏や大仏殿の復興のために寄付を募った際に作られた勧進帳は有名です。 また、歌舞伎の演目では弁慶が義経に忠義を尽くし、関所を突破するため白紙の勧進帳を読み上げるシーンが広く知られている。

 歌舞伎の名作「勧進帳」に登場する東大寺(奈良県)の勧進帳の実物が2017年6月7日、作品の舞台「安宅の関」がある安宅住吉神社(小松市安宅町)と、源義経が立ち寄ったとされる白山比咩神社(白山市三宮町)に奉納された。小松市高堂町の」九谷焼作家、北村隆さん(70)が保管していたもので、北村さんは「物語の世界だけでなく、本物があったんだという、歴史を伝える史料として大切に残っていってほしい」と願いを込めた。

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上 奉納した勧進帳について説明する北村隆さん(右から2人目)と森本公誠さん(右)、江戸時代初期の元禄期に大仏殿の復興のために使われたもののうち、表紙と巻末の部分。10数年前に奈良市の美術商から2セット買い、自宅で保管してきたもの。東大寺での鑑定と修復を経て贈られた。

下 奉納された江戸時代初期の勧進帳。右側には復興する大仏などの説明が、左側には東大寺のいわれが書かれている、いずれも小松市安宅町の安宅住吉神社で

(北陸中日新聞(太田博泰): 勧進帳 歴史伝える本物、義経ゆかりの2神社に奉納、九谷作家 北村さん、2017年(平成29年)6月8日(木)より)

2012年9月14日 (金)

サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.9.14.鰯雲を遠望)

T. HONJO
金沢
 概要: サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題、科学風土記(人文、社会、自然)として、四折々、徒然なるままに紹介しています。 
 ブログ(タイトル、内容、解説、資料、画像など)は、時折修正してアレンジしたものもあります。 画像(デジカ
写真 、検索画像など)は、マウス左クイックすると拡大するものもあります。
 興味: 生涯学習(ブログ作成!),サイエンス(科学、人文、社会、自然),歴史散歩(風土、文化、温故知新!),インターネット(情報、画像、検索 !),スクラップ(新聞、雑誌),囲碁(棋話、対局!)
四季折々の風景:
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鰯雲(いわしぐも、巻積雲、鯖雲、鱗雲、羊雲とも、秋に多い、桜田、金沢、石川、2012年9月14日)
(参考資料) ○ 四季折々の雲の形(春の霞・夏の雲の峰・秋の鰯雲・冬の凍雲など)、飛行機雲、地震雲、とは(2010.10.10): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/132.html
 

2012年9月 8日 (土)

燃える氷と呼ばれる天然ガス、高圧・低温な深海底や永久凍土地帯に存在するメタンハイドレート、とは(2012.9.8)

   将来の天然ガス資源として注目されているものに、メタンハイドレートがあります。これを資源として利用するため、国家プロジェクトとして、海底のメタンハイドレート層から天然ンガスを取り出す方法についての研究が進んでいます。そこで、その現状について調べてみました。

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メタンハイドレート(燃える氷、左上 分子構造、google画像) メタンハイドレート(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88

 (解説) メタンハイドレートは、水の分子がかご状に配列してできた空間の中に、メタンの分子が取り込まれたシャーベット状の物質で、見かけは氷に似ています。 これを1気圧の室温に置いておくと、表面にある水分子のかご状の配列がくずれてメタン分子が飛び出します。このとき着火すると、燃えるメタン分子の熱エネルギーで、次つぎに水分子のかご状の配列がくずれてメタン分子が飛び出し、まるで氷が燃えるように燃え続けます。 

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メタンハイドレートの分布図(日本周辺海域、(独)石油天然ガス・金属鉱物資源機構他、2000、google画像)   メタンハイドレートの開発(エネルギー源の石油依存低減、新エネルギー、最近の取組、資源エネルギー庁、経済産業省: http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/2006EnergyHTML/html/i1240000.html

(解説) メタンハイドレートは、陸上では永久凍土地帯(えいきゅうとうどちたい)に、海洋では高圧・低温な深海底、大陸の縁辺部(えんぺいぶ)に存在します。日本近海でも、オホーツク海をはじめとした北海道周辺や、本州の静岡県から高知県の沖にある南海トラフと呼ばれる地域の海底に広く分布しています。

 地球の深部から発生する深層(しんそう)ガスや堆積(たいせき)した有機物から発生した天然ガスが、海水などの水分と反応し、メタンハイドレートができると考えられています。

 メタンハイドレートとその下に閉じ込められているガス総量は、日本の天然ガス消費量の130年分以上と推定され、将来の天然ガス資源として期待されています。

 が、うまく採掘できず、メタンガスが大気中に漏れることになると、メタンは二酸化炭素よりもはるかに大きな温室効果をもつことから、地球の温暖化に影響を与えるかも知れないという懸念もあります。

現在、まだメタンハイドレート採掘方法は確立されておらず、太平洋沖を中心に調査や実験が行われています。また、この調査や開発を日本海側でも進めようと、新潟、京都、秋田など日本海沿岸の10府県が、2012年(平成24年)9月8日、「海洋エネルギー資源開発促進日本海連合」を設立しました。

(参考文献) 日本化学会編: 化学ってそういうこと! 夢が広がる分子の世界(第1版)、p.86~87、石油に代わる燃える氷ってなあに? 資源として期待されるメタンハイドレート、化学同人(2003); 太田次郎、山崎和夫編: 高等学校 新編 理科総合A 改訂版、物質とエネルギーの探求、p.110 サイエンスBOX メタンハイドレート、啓林館(2005).

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