明治政府は、1871年(明治4年)7月14日、中央集権化のため廃藩置県(はいはんちけん)の詔(みことのり)を発布しました。約300の藩を廃止したうえで、3府302県を設置し、知事・県令を派遣しました。
同年11月には3府72県にまで整理しました。加賀藩は金沢藩から金沢県となっていましたが、1872年(明治5年)2月、県庁が金沢から石川郡の美川に移された時、石川県と改名されました。その後、1年足らずで、翌年1月、県庁が金沢に復帰した後も、県名はそのまま継承され、現在に至っています。
そこで、改めて、石川の地名と県名の由来、初代知事・県令の内田清風(うちだまさかぜ、1815~1893、もと薩摩藩士)などについて調べました。
○ 石川の地名の由来
石川郡は、平安時代の初め、824年(弘仁14年)、加賀国が越前国より分立した年に、加賀郡の南半を割いて新たに設置されたものです。郡名の石川は、加賀志徴(かがしちょう)の著者、森田柿園(もりたしえん、平次とも、1823~1908)によると、石川郡古保村(現、金沢市古府町)は、古くは石川村といい、石川郡の郡府であったという。 さらに、この地の付近を流れる犀川の河床に礫が多いことから、川の名そのものが、昔、石川といい、それが村名になったものであろう、と推定しています。
石川県史の執筆者、日置謙(へきけん、1873~1946)によると、石川郡の名は、その郡境にあった比礫河(手取川)の河底の石礫磊々たる状況により名づけられたものという手取川説をとっています。河底の状況からすれば、手取川の方が石川の名にふさわしいのですが、金沢市古府町の古名、石川にもとづくとする加賀志徴の説も不合理には見えないという。
○ 石川(加賀)県名の由来
1867年(慶応3年)大政奉還、王政復古、1869年(明治2年)版籍奉還、明治維新により加賀藩は金沢藩となり、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で金沢藩は金沢県となりました。同年11月、大聖寺県を合併しました。明治政府は、中央集権の体制を確立するため、全国3府302県の統廃合を10年以上繰り返し進めました。


内田政風(1815~1893、石川県令(初代)、Google画像)
石川県庁知事室(1872年(明治5年)、美川町、石川郡、知事執務室の一部を復元・展示、google画像) 石川ルーツ交流館: http://www.hakusan-museum.jp/roots/
白山ミュージアムポータルサイト(ホームページ、白山市、石川): http://www.hakusan-museum.jp/.
(解説) 1872年(明治5年)5月2日、金沢は北に片寄りすぎということで、県庁を金沢から手取川口の美川(石川郡)に移し、県名も石川県と改めました。その原因は、薩摩(鹿児島)藩士で、金沢県大参事、新制参事(のち初代の石川権令、県令、県知事)となった内田政風(うちだまさかぜ、1815~1893)による金沢士族の中の不平不満を持つ人々への政治的圧力であったとも言われています。
同年9月、能登の七尾県を合併、同11月、白山麓18ヵ村を編入、さらに、翌年、1873年(明治6年)1月、金沢に県庁を復帰させましたが、県名はそのまま継承され、現在に至っています。
(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、裳華房(1997); 美川町文化振興課編: 美川町のあゆみ、」石川ルーツ交流感、美川町教育委員会(2002); 成美堂出版編集部編: 図解 幕末・維新、成美堂出版(2009); 石川県の歴史散歩編集委員会(編集代表、木越隆三): 石川県の歴史散歩(1版)、山川出版社(2010).

吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972)
(追加説明) ○ 古来、北陸(ほくりく)は、北陸地方およびそれ以北の日本海沿岸も含め、コシの国と総称し、これに越、高志、古志の字をあてました。が、飛鳥時代、701年(大宝元年)の令制(大宝律令)、国号制定のとき、都(みやこ、京都)からの遠近によって、越前(えちぜん、福井、能登、加賀、のち石川)、越中(えっちゅう、富山)、越後(えちご、新潟)の3つに分かれました。
○ 金沢城はもと真宗(一向宗)の本拠地、金沢御坊の跡地といわれ、ことに兼六園から金沢城址にかけての小立野台地は砂金層を大量に含み、戦国時代には流浪の金屋(かなや)たちが砂金を採掘し、金沢御坊成立の起因となりました。 このとき、兼六園の中の湧水、金城霊沢の沢水を利用して採金したので、「金堀沢」、「金洗沢」などと呼ばれ、金沢の名の起源となっています。
○ 石川県の呼称は、1872年(明治5年)2月ですが、前年7月の廃藩置県に続く11月の改置府県で、302県(旧藩名が多い!)が72県に改廃統合され、いわゆる明治維新を主導した薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)などに敵対する旧藩の名が県名から姿を消す一連の動きの中であったという。
また、石川(金沢)のように、県名と県庁の所在地名が異なる県として、岩手(盛岡)、宮城(仙台)、茨城(水戸)、栃木(宇都宮)、群馬(前橋)、山梨(甲府)、愛知(名古屋)、三重(津)、滋賀(大津)、兵庫(神戸)、島根(松江)、香川(高松)、愛媛(松山)、沖縄(那覇)、また北海道(札幌)などが現存しています。
○ 加賀(かが)の名の由来 加賀が越前よりわかれたのは平安時代の初期でした。
それまでの越前国の加賀郡は、のちの金沢市、松任市、石川、河北2郡を包括するものでした。金沢市と河北郡に加賀爪という地名がありますが、加賀の名の発祥地であるかは明らかでありません。
加賀(かが、石川)は、自然の力で「欠け」た土地の意味、波により多くの崖ができた、との説もあります。 が、諸国名義考、越登賀三州志、加賀志徴等に多くの諸説が紹介されていて、そのいずれも、加賀の名を明るい、かがやくの意味にとっています。
○ 能登(のと)の名の由来 能登が越前よりわかれたのは奈良時代の初期で、のち、中期に一時越中に併合されたことがあります。
その名義について諸説がありますが、国名風土記に、能門(のと)国は、西は越前、東は越中の間で、はるか海中にさし出した国で、北国上下往来の船は、この国の泊まり宿とする故に、能き門(よきかと)という意味で、能門国と号し、今は登の字に改めたのである、と記しています。
森田柿園(もりたしえん、1823~1908、郷土史家)著、能登志徴も、能登は内外の船が多く出入りする海門であるによって国名が生じたとして能門説をとっています。
能登のはじまりは、平安時代初期に編さんされた「続(しょく)日本記」では、越前国から羽咋、能登(後に鹿島)、鳳至、珠洲の4郡を割いて能登国が誕生したと書かれています。また、能登国の名は、能登郡に国府が置かれたことに由来しますが、「石動山縁起(せきどうさんえんぎ)」では、石動山をまもった方道(ほうどう)仙人が天に昇っていったという逸話にちなみ、「能(よ)く登る」ところということから名づけられたとも伝えられています。
2018年は、奈良時代、718年(養老2年)に能登国が生まれてから1300年の節目の年です。
〇 小松の地名の由来は、古代朝鮮に関係する港、高麗津との説があります。小松市矢崎町には、オンドル跡(朝鮮半島の渡来人が建てたとみられる大壁建物や床下暖房設備、渡来人の集会所?)が発見され、古代朝鮮からの渡来人の里であったことを裏づけていま す。
2005年(平成17年)8月22日に 石川県小松市矢崎町 の薬師遺跡で、L字形かまどを備えた飛鳥時代(7世紀半ば)の竪穴式住居跡(約36㎡)が出土した。L字形かまどは、オンドルの原初的な形とされています。
(追加資料)
〇 加賀国府解明 手がかりに 石部神社 かわらけ大量出土 小松市埋蔵センター 「総社説強める根拠」
小松市国府地区の石部(いそべ)神社境内(古府町)で、11~12世紀の土師器(はじき)の破片が出土した。地区には、かって加賀国の国府があり、神社は加賀国の神社の祭神を集めて祭った総社と推定されている。市埋蔵文化財センターは「土師器は総社を裏付ける重要な史料になり得る。加賀国府の解明につながる手掛かり」として、引き続き調査を続ける。
石部神社は、国府南にあるとして府南社(ふなんしゃ)と呼ばれたと伝えられている。境内がある丘陵はフナンヤマといわれる。「府南社は加賀国総社」と書かれた文献はあるが、当時の社殿跡など確かな史料は見つかっていない。
加賀国府調査のため、市埋文センターは昨年十~十一月、現在の社殿西側の境内を発掘。三カ所で土師器が出土した。うち二カ所で十一~十二世紀の皿の破片、一カ所では十五~十七世紀の皿の破片が見つかった。出土総数は千数百で、全て土師器の破片。
直径約十センチの土師器の小皿は「かわらけ」といわれ、祭礼でお神酒を注ぐなどして使われたとされる。神聖な祭礼では、一度使ったかわらけは捨てるため、かわらけが大量に出るのは、多くの祭礼が行われる総社の特徴という。
上 大量のかわらけが出土した場所を見学する地域住民ら 下 境内から出土した土師器の片、いずれも小松市古府町で
https://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20190326/CK2019032602000042.html
石部神社の創建時期は不明だが、延喜式神名帳には記載があり、八二三年の加賀立国以前とされる。総社の制度ができた十一世紀以前の出土品はないため、市埋文センターは「今回の土師器は、神社と総社を結び付ける有力な根拠になる」という。発掘場所一帯は当時平坦だったとも分かった。建物跡も見つかっていないが、かつての社殿が立っていた可能性も強まった。
国府地区では、昭和四十年ごろ、耕地整理が行われたが、加賀国府の正確な位置などは明らかになっていない。市埋文センターは二〇一九年度も境内を発掘し、総社があったとされる敷地の範囲などを調べる。宮田明主幹は「石部神社の古代の姿を描けるようにしたい」と話している。一七年度には加賀国分寺と関わりの深い立明寺町の窯跡で、窯の一部が見つかっている。一九年度は窯跡も再び調査し、国府の実態に迫る。(北陸中日新聞、2019.3.26)
(追加資料)
〇 2003年(平成15年)県庁駅西移転 都心の空洞化は杞憂(きゆう)に 2019.4.16(北陸中日新聞)
2003年(平成15年)1月、石川県庁が金沢市広阪から鞍月に移転した。1924年(大正13年)に建てられた旧庁舎(現しいのき迎賓館)が老朽化したためで、移転は「金沢駅西を副都心に」という構想の核に位置づけられた。総事業費は726億円に上り、職員約3000人の大移動となった。
完成した新県庁、2002年(平成14年)12月20日、金沢市鞍月で、本社ヘリ「あさづる」から
前知事の中西陽一氏(故人)が「移転」を初めて口にしたのは1992年(平成4年)2月県議会。駅西の区画整理事業を中心になって進めていた県議の金原博さん(89)は1991年(平成3年)の夏、知事室に呼ばれて相談されたことを思い出す。「それまでは現地で建てかえると言っていたから驚いたが、発展のためと思いすぐに協力を決めた」
地権者の反発、周辺住民の反対運動もあったが、1999年(平成11年)11月から3年余で新庁舎は完成。開庁直前の二日間の一般公開には3万4千人が訪れ、19階の展望ロビーへのエレベーター前には80分待ちの行列ができた。
金沢駅から延びる50m道路沿いに商業施設が増えている。北麓新幹線効果もあり、心配された金沢中心部の空洞化は起きていない。(北陸中日新聞、2019.4.16)