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2012年11月の17件の記事

2012年11月30日 (金)

三重(伊勢、津)名の由来、伊勢は五十瀬なり、五十鈴川より出づる名なり、とは(2012.11.30)

   三重(伊勢、津)といえば、伊勢神宮(皇祖神と五穀の神を祀る)、伊賀者(伊賀衆、忍者)、英虞湾(あごわん、真珠イカダ)、御木本幸吉(みきもとこうきち、1854~1954、養殖真珠の創始者)、鳥羽水族館などが思い浮かびます。そこで、改めて、三重(伊勢)名由来について調べてみました。

○ 三重(伊勢、津)名の由来

 三重(みえ、伊勢、津)の名は、もとの三重郡三重村(のち四日市市)が三重名称起源とされています。古事記に、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、三重に至った時、わが足は三重の勾(みえのまがり)のごとくして、いと疲れたり、といわれたのでその三重と名づけた、とあります。

 この話はいわゆる地名起源説話ですが、地名には道の曲がりにもとづく七曲(ななまがり)とか、九十九折(つずらおり)などがあるので、それと同型の地名ではないかという。

 (つ)については、昔、安濃津(あのつ)といったが、安濃されてだけになったのである。というのは、港の意味である。明人(中国)は日本の三津として、博多の津、坊の津、安濃津をあげたほど賑わった港であった。

 安濃名義については、吉田東伍は、明(中国)の武備志洞津と記されているように、もとここの港湾が洞穴(あな)の状にたとえられたことに由来する、と推論された。

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五十鈴川と御手洗場(いすずがわとみたらし、伊勢神宮皇大神宮(内宮)、伊勢市、三重県、google画像) 伊勢神宮(ホームページ、皇大神宮(内宮)、伊勢市、三重県): http://www.isejingu.or.jp/naiku/naiku.htm

(解説) 伊勢(いせ)の名義については、釈日本記および仙覚律師(せんがくりっし、1203~ ?、鎌倉時代初期の天台宗の僧、万葉学者)の万葉集註釈の引く伊勢風土記に、初代天皇、神武天皇(じんむてんのう、生没未詳)が天日別命(あまひわけのみこと)をして、この国の伊勢津彦(いせつひこのみこと)を征服された時、はよろしく国つ神をとって伊勢名づけよといわれたとある。

 日本書記通証によれば、山崎闇斎(やまざきあんさい、1619~1682、江戸時代前期の儒学者、神道家)は、伊勢五十瀬なり、五十鈴川(いすずがわ)より出づる名なり、と解し、また和訓栞にも、いせ五十瀬なりともいえり、川瀬の多きよりのなるべし、とあるが、これは藤原清輔(ふじわらのきよすけ、平安時代後期の公家、歌人)の奥儀抄を承けているものと見られる。また、瀬々であり、伊勢で、この海に臨んでいるので名づけられたという。

 伊勢神宮(いせじんぐう)は、伊勢市(三重県)にあり、皇大神宮(内宮、祭神、天照大神、皇祖神)と豊受神宮(外宮、祭神、豊受大神、五穀の神)を合わせて神宮という。第40代天武天皇(631?~686)の奈良朝以来、社殿20年ごとに造りかえる式年造替の制を残し、正殿の様式は唯一神明造(ゆいつしんめいづくり)と呼ばれています。

 私は、京都大学の近く、銀閣寺手前の下別当町(北白川、左京区、京都)で、経済学部の学生、下出敏幸君(三重県出身)と二人で、大工さんの村井良治宅(2階)で下宿していました。1969年(昭和44年)3月、下出君のご家族のお招きで三重県久居警察署、嬉野町豊田警察官駐在所におじゃまし、はじめて伊勢神宮を参拝、また真珠王と呼ばれた御木本幸吉の記念館を訪ねたことを懐かしく思い出します。 

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991).

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月28日 (水)

サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(イロハモミジ、2012.11.28.)

  サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題を、科学風土記(人文、社会、自然)として、四季折々、徒然なるままに紹介しています。 

 
 ブログ(タイトル、内容、解説、資料、画像など)は、時折修正してアレンジしたものもあります。 画像(デジカメ写真、検索画像など)は、マウスで左クイックすると拡大するものもあります。            T.HONJO  金沢 
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イロハモミジ(樹木公園、林業試験場、三宮町、白山市、石川県、2012.11.28.) 樹木公園石川県農林総合研究センター、白山市、石川県): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/ringyo/about/park.html

滋賀(近江)名の由来、淡水湖の琵琶湖を指す淡海が近江となる、とは(2012.11.28)

   滋賀(しが、近江)と言えば、 琵琶湖(小鮎、琵琶湖周航の歌、琵琶湖大橋)、瀬田川(瀬田川洗堰、瀬田の唐橋)、志賀の都(天智天皇、大津宮)、甲賀者(甲賀衆とも、忍者)、信楽焼(陶器)、穴太(穴生とも、石垣職人)、石山寺(真言宗、松尾芭蕉, 1644-1694、俳人、紫式部、生没年未詳、女房)、近江商人(三方よし)、最澄(767-822, 天台宗の開祖)、井伊直弼(1815-1860, 桜田門外の変)などが思い浮かびます。 

琵琶湖周航の歌(ホームページ、新旭町、高島市、滋賀県): http://www.city.takashima.shiga.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1134976319645&SiteID=0

 そこで、改めて、滋賀(近江)名由来について調べてみました。

○ 滋賀(近江)名の由来

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琵琶湖(びわこ、衛星写真、滋賀県、google画像)  琵琶湖(びわこ、滋賀県、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96

(解説) 近江(おうみ)については、神楽歌入文に、浅井家記録に、近江の国の風土記を引きていわく、淡海(あふみ)のは、淡海(あわうみ)をもって(な)となす、とあります。この説は一般に行われているもので、ここにいう淡海は、淡水の大湖(おおうみ)、琵琶湖を指し、琵琶湖より国名がつけられたという。

 近江は、和名抄の訓読みが知加津阿不三(ちかつあふみ)で、近淡海(ちかつあふみ)を二字としたものと解釈できます。近淡海は、遠淡海(遠江、浜名湖)に対しての語であって、都より距離が近いためです。

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大津宮跡(近江大津宮錦織遺跡、大津市、滋賀、google画像) 大津宮跡近江大津宮錦織遺跡、滋賀県観光情報、大津市、滋賀): http://www.biwako-visitors.jp/search/spot_around_971.html. 近江大津宮(天智天皇): http://www.bell.jp/pancho/travel/jinsin-no-ran/section01.htm#contents; 歴史探訪ブース(ホームページ、Don Pancho): http://www.bell.jp/pancho/.

(解説) 滋賀(しが)については、古書、和名抄に訓読みが同じ志賀(しが)のほか、斯我、志我、志何、思我、思賀などと書かれています。 県名については、大津以北の琵琶湖岸の地域が滋賀郡でそのをとったものという。

 寒川辰清(さむかわたつきよ、1697~1739、江戸中期の儒者、国学者)近江国輿地史略(おうみのくによちしりゃく)によると、飛鳥時代、第38代天智天皇(626~671の時、まず大津付近志賀都(大津宮とも)があって、のち志賀郡(滋賀郡とも?)と名づけられたいう。

 志賀(しが)の名義については、詳かでなく、大きな崖上、氷・樹氷・霧氷・霧の意、干拓・砂州の意などの諸説があるので、比叡山東側の断層崖下、琵琶湖岸の扇状地式三角州と関係のある語かも知れない。

 私は、琵琶湖の近くの高島(岡、新旭、滋賀)の親戚(叔父の川原林宅)に、1960年(昭和35年)頃、父親と一緒におじゃましたことがあります。家の近くの琵琶湖に注ぐ小さな川(水路)の河底が真っ黒になるほど、小鮎(コアユ)が遡上しているのを見たことがあります。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991).

2012年11月24日 (土)

和歌山(紀伊)名の由来、築城地名(吹上峯、虎伏山、岡山、若山)から雅名の城名(和歌山)に改称、とは(2012.11.24)

   和歌山(わかやま、紀伊)といえば、和歌山城、高野山金剛峯寺(真言宗総本山)、白浜温泉、那智の滝、紀国屋文左衛門(?-1734、江戸中期の豪商)、徳川吉宗(1684~1751、紀州藩主、のち徳川第8代将軍)、南方熊楠(1867~1941、民俗学者、博物学者)、松下幸之助(1894~1989、実業家、パナソニック創業者)などが思い浮かびます。 そこで、改めて、和歌山(紀州)由来和歌山城などを調べてみました。

○ 和歌山(紀伊)名の由来

 紀伊(きい)の、木であって、韻事(いんじ)をそえて好字二字としたものだという。紀伊は、古来、森林繁茂の地として有名であったことは、日本書紀神話でも伝えられています。また、古語拾遺に、神武天皇橿原(かしはら)造営する時、天富命(あまのとみのみこと)をして手置帆負(ておきほをひ)・彦狭知(ひこさしり)の二神の孫をひきい、はじめて山の材を切って正殿造らせました。それで、その子孫は、紀伊国名草郡の御木(みき)、麁香(あらか)の鄕に住む、と記されています。

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和歌山城(わかやまじょう、御橋廊下(おはしろうか)、和歌山市観光協会、和歌山、google画像) 和歌山城(、和歌山市観光協会、和歌山): http://www.wakayamakanko.com/seeing/history1.html

(解説) 和歌山については、1585年(天正13年)、豊臣秀吉(1536~1598)が、紀ノ川の三角州の南側、海岸砂丘の北端、結晶片岩の突出する吹上峯岡山伏虎山とも)に和歌山城を築城して弟の豊臣秀長(1540~1591)に与えたのが、城下町和歌山のはじまりです。それ以前は、この地に、岡・吹上、鷺森(さぎもり)・和歌などの諸村があったといわれています。

 和歌山地名起源は、紀伊続風土記(紀伊藩纂集)には、和歌山ではなく、若山となっています。これは、従来の名の岡山(オカヤマ、ワカヤマと訓読みが似ている!)を、和歌の浦弱の浜、若の浦とも)のワカをとって、ワカ山と改めた(若山と書いた!)のであろうという。のち雅名和歌山と書くようになり、若山和歌山とが混用され、江戸元禄年中は、公的には若山の文字に統一され、明治になってから和歌山に改められたという。

 私は、1964年(昭和39年)8月、JR列車に乗り、1泊2日、はじめて、京都大学瀬戸臨海実験所(和歌山県西牟婁郡白浜町)を訪れたことがあります。 京都大学瀬戸臨海実験所(ホームページ、白浜、和歌山): http://www.seto.kyoto-u.ac.jp/. 

 その時、藤永太一郎教授(1919~ )の手ほどきを受けながら、硝酸銀による沈殿滴定法により、海水中の塩分濃度を調べ、また、時岡 隆助教授(1913~2001)のお話を聞きながら、海水中のプランクトンの何とも言えない奇妙な姿を光学顕微鏡で観察するなど、海洋化学と生物の臨海実習をしたのを覚えています。近くには露天の温泉があり、湯煙が立ち上がり、そこで売りに出されていた珍しい温泉卵を食べたことがあります。

 その後、金沢から何度かマイカーで白浜を訪れた時、家内(タカコ、尊子)の妹(アッチャン、あつ子)さん勤務のシーモアホテルで宿泊させていただき、高野山参りをしたことがあります。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 和歌山県高等学校社会科研究協会)編: 和歌山県の歴史散歩、山川出版社(1996); 永原慶二: 日本史辞典、岩波書店(1999).

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月22日 (木)

名水(湧水)、自然界の水の循環、液体の水の構造(水素結合、クラスター、おいしい水)、名水百選(環境省)、とは(2012.11.22)

   最近、家庭や企業にミネラルウォーターを届ける宅配ビジネスが広がっています。健康ブームに加え、東日本大震災夏の熱中症対策水の重要性再認識されたのも追い風になっているという。 日本宅配水協会(ホームページ、新宿、東京): http://www.jbwa.org/index.html

 そこで、改めて、名水(湧水)、自然界の水の循環、液体の水の構造(水素結合、クラスター、おいしい水)、名水百選(環境省)などについて調べてみました。

○ 自然界の水の循環

 宇宙から眺めた地球は青く、水の惑星と呼ばれています。地球上には約97%海水約3%淡水(南極や北極の水、河川水、湖沼水、地下水など)が存在しています。これらの太陽のエネルギーを受け、海洋や陸地の表面から蒸散して水蒸気となり、大気とともに地球上を移動し、やがてとなって地球表面に降ってきます。

 陸地に降ってきた大部分は、地下水となったり河川を通って、ふたたびへと帰っていきます。その一部は地表から直接蒸発するほか、植物にも吸収されたのち、蒸散して大気中にもどります。このような水の循環が起こることにより、植物は繁茂し、動物も繁栄することができます。

○ 液体の水の構造と性質(水素結合、クラスター、おいしい水)

 水分子は、2個水素原子1個酸素原子104.5°(度)の角度で結びついた方向性極性をもつ分子です。水分子の酸素はとなりの水分子の水素と強く引き合い、分子水素結合をつくって集まり、をつくります。は1気圧のもとで、氷、水、水蒸気という三つの状態(三態)の間で移り変わります。

 水の分子間の水素結合強いので、蒸発させるには1気圧のもとで、100℃という多くの熱が必要です。融解熱や比熱が大きく、氷が水に浮く、水の比重が4℃で最大であることなど、水の大きな特徴です。また、水分子極性をもっているので、水は多くの物質、特に極性のある物質をよく溶かす性質があります。

  松下和弘氏(日本電子株式会社)によれば、は単一の分子では存在できず、水分子の間に働く水素結合という力によってクラスター(かご状、ブドウの密集した房に似た状態)と呼ばれる最低5分子以上の動的な集団を形成し、この集団は不変ではなく、ピコ秒という極めて短い瞬間、絶えず大きな集団を作ったり壊したりしているという。そして、おいしい水健康によい水では、小さい水の集団の存在の割合が多いという。

 北條正司教授(高知大学理学部)によれば、一般の人々が賛同するおいしい水は、適度な濃度の各種化学成分を含み人体に調和する水体液中の成分組成とよく似ている水)であることは間違いなく、その他水の構造性が発達する氷構造に近づく)状態の場合という。

○ 名水百選(環境省)

 2008年(平成20年)6月環境省は、水環境保全の一層の推進を図ることを目的に、23年前の1985年(昭和60年)「名水百選」に加え、新たな名水として、「平成の名水百選」を選びました。 

名水百選(昭和60年度、環境省、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E6%B0%B4%E7%99%BE%E9%81%B8

平成の名水百選(平成20年、環境省、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%90%E3%81%AE%E5%90%8D%E6%B0%B4%E7%99%BE%E9%81%B8

 水質については、厚生省(のち厚生労働省)の定めた、おいしい水の要件があります。それによりますと、水をおいしくする成分は、水に溶けているミネラル(カルシウムイオンとマグネシウムイオンの含有量など、硬度10~100ppm、ppmは百万分率で100万の中の1の割合)や重炭酸イオン(水に溶け込んでいる二酸化炭素、3~30ppm)など、一方、水の味を悪くする成分は、鉄分(0.002ppm以下がよい)、水の消毒に使った残留塩素(0.4ppm以下がよい)などです。また、pHは6.0~7.5、水温は、10~15℃’(体温より20~25℃低い温度)が適温でした。(用語解説、各種イオン、硬度含む: http://unit.aist.go.jp/georesenv/gwrg/glossary.html.)

 石川県からは、白山美川伏流水群(白山市)、遣水観音霊水(やりみずかんのんれいすい、能美市)、桜生水(さくらしょうず、小松市)、藤瀬の水(七尾市)の4ヶ所が選ばれました。この選定は、7月の北海道洞爺湖(ほっかいどうとうやこ)サミットで環境問題が主要課題となるため、環境省が水の大切さを再認識してもらおうと、新たに選んだものです。環境省選定基準は、前回と同じ内容の評価で、水質にこだわらずに、清澄で、景観や保全活動がよければ、名水と判定したようです。

 白山のふもとの湧き水は、白山の残雪が、夏にも冷たい水を送り出し、おいしさを引き立てていると思います。湧き水は、一年中絶えることがなく、温度は15℃前後、水量は降水に多少の影響を受け、大雨の後は勢いよく出ていました。

(参考文献) 絈野義夫編著: 北陸の地質をめぐって(日曜の地学6)、菊地書館(1979); 松下和弘: TRACER、NMR分光法を用いた「おいしい水、健康によい水」の指標化について、Isotope News,9月号、p.12~14(1990);本浄高治: 名水をたずねて、自然人(1992); 石川化学教育研究会編: 科学風土記ー加賀・能登のサイエンス-、弘法池の水、裳華房(1997); 本浄高治: 科学風土記ー加賀・能登のサイエンス-、弘法池の水、金沢大学大学教育開放サンター紀要、p.73(1998); 日本地下水学会編: 続名水を科学する、石川県の名水水質、技報堂出版(1999); 蒲生優子: 名水に選ばれたおいしい水の水質と水源に関する研究(年末報告)、金沢大学理学部化学科分析化学研究室(2004); 北條政司: おいしい水と酒類の熟成現象、溶存成分の果たす役割、化学と工業、64巻7月号、p.536~537(2011); 北陸中日新聞: 水の宅配じわり、全国ブランドと顧客競争、石川に工場建設構想も、震災や健康ブーム、一般家庭が主な利用層、2012年(平成24年)11月21日(水)朝刊.

2012年11月21日 (水)

高知(土佐)名の由来、高知城のある孤立丘陵(大高坂山、河内山、高智山)名から城下町(高智、高知)名へ、とは(2012.11.21)

   高知(こうち、土佐、とさといえば、幕末土佐藩主山内豊信(やまのうちとよしげ、容堂、1827~1872)が、1867年(慶応3年)、大政奉還(たいせいほうかん)という無血革命の推進役を果たし、1869年(明治2年)、版籍奉還(はんせきほうかん)を進んで行ったのが明治維新のときの歴史的な政治行動で、土佐藩は、1871年(明治4年)の廃藩置県(はいはんちけん)によって高知県となりました。

 また、人物として、坂本竜馬(1835-1867)、中岡慎太郎(1838-1867,幕末に薩長連合を成立させる)、紀貫之(?-945,土佐日記)、空海(774-835,室戸御崎の洞窟、仏道修行の御厨人窟)、ジョン万次郎(1827-1898,中浜万次郎とも、土佐漁民出身の幕臣)、、牧野富太郎(1862-1957,植物分類学者)、寺田寅彦(1878-1935,地球物理学者)を思い浮かべます。寅彦語録「天災は忘れたる頃来る」の警句は名言とされるものです。そこで、改めて、高知(土佐)名の由来について調べてみました。

  ○ 高知(土佐)名の由来

  全讃志は、土佐は山が多くて土田が狭いので土佐という、と記し、内山真龍(うちやままたつ、1740~1821、国学者)は、土佐の名は処嶮岨の略言であるとし、この国は通路の山がけわしい岩であるので、古事記に、土佐の国を建依別(たけよりわけ)という、そのは、岳・髙という山の意にるという。

 日本地理志料に、土佐の一の宮と呼ばれる髙賀茂大社の地が、海湾に臨み、東西から山が突出して島が翼(つばさ)を張ったようであるので門狭鄕(とさごう)といい、これが郡名となり、国名となったと説いているのは、かなり、うなずかれる説といえる。

 その他、国名については、風土記にいわく、神の御心の利勝(ときまさ)、古事記伝による言離(ことさく)の略、土佐幽考に、土佐の語は俊聡(とくさとき)など諸説があります。

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高知城(追手門、おうてもん、櫓門、入母屋造、背後に天守閣、高知、google画像) 高知城(こうちじょう、公式ホームページ、高知): http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/kochijou.html. 

(解説) 高知城のある孤立丘陵を、もと大高坂(おおたかさか)と呼んでいましたが、山内一豊(やまのうちかずとよ、1545~1605、初代土佐藩主)が長曽我部元親(ちょうそがべもとちか、1538~1599)のあとをうけて、1603年(慶長8年)、ここに築城したとき、河内(こうち)と名を改めたといわれる。それは鏡川と江の口川との間の川中島にあるからであろう。

 その後、河川がたびたび氾濫したので、1610年(慶長15年)、竹林寺(ちくりんじ、真言宗、31番札所)の僧・空鏡(くうきょう)に地鎮を行わせて、名を高智(こうち)と改めました。それは、竹林寺に安置する文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に因んだものだといわれる。城下町もまた高智(こうち)と呼ばれることになり、さらに高知(こうち)と書くようになった。

 私は、1983年(昭和58年)8月、金沢から郷里(徳島)にマイカー(マツダファミリア1500CCセダン)で帰省していた時、はじめて一人で、マイカーのドライブ旅行で高知を訪れたことがあります。そのコースは、8月18日(木、晴れ)は、引野(自宅)ー板野ー池田ー大歩危峡(徳島)ー龍河洞(高知)ー播磨屋橋ー高知城ー足摺岬(くろしお民宿泊)、翌日19日(金、晴れ)は、足摺岬ー竜串、見残ー大方ー久礼坂ー桂浜ー室戸岬(高知)ー海南町(徳島)ー引野(自宅)、総走行距離 790.3kmの思い出深い長距離ドライブ旅行でした。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); 高知県高等学校教育研究会歴史部会(監修山本 大)編: 高知県の歴史散歩、山川出版社(1992); 永原慶二: 日本史辞典、岩波書店(1999).

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(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月19日 (月)

香川(讃岐、高松)名の由来、さぬきとは小平野の多い狭野の国、水城の高松城(玉藻城とも)、とは(2012.11.19)

  香川(かがわ、讃岐、高松)といえば、金刀比羅宮、屋島源平合戦の古戦場、栗林公園、空海(弘法大師)の生まれ故郷、善通寺、満濃池、サヌカイト(讃岐岩、カンカン石)などを思い浮かべます。私の郷里(徳島)の北方、阿讃山脈(あさんさんみゃく)の峠を越えると香川(讃岐)に入ることができます。そこで、改めて、香川(讃岐、高松)名の由来について調べてみました。

 香川(かがわ)については、奈良時代、郡鄕制であったので、和名抄の中に香河郡香川鄕の地名として出ています。また、地方の神名五十香河彦の一部の香河(かがわ)から出たものと推論された説もあります。中山城山(なかやまじょうざん、1763~1837、江戸後期の儒者)の全讃志に、香川郡、北都の山奥に樺河(かがわ)という里あり、上古古木の樺ありて異香芬々(ふんふん)たり、其樹下より出る水かほりありて大河に落ちて、中央を流れて海に注ぐ郡中馥郁(ふくいく)として匂(にお)ひ渡れり、因って香河(かがわ)といへり、とあり、香川(かがわ)の字と結びつけた説が古くからありました。

○ 香川(讃岐、高松)名の由来

 奈良時代、万葉集に、玉藻(たまも)よし讃岐(さぬき)の国は、国がらか見れども飽(あ)かぬ、と詠われています。

 讃岐(さぬき)名の由来については、古事記伝に、古語拾遺(こごしゅうい)の記事の中に、手置帆負命(たおきほおひのみこと)の孫、矛竿(ほこさを)をつくる、その子孫、今分かれて讃岐に住み、毎年調庸(ちょうよう)の外、八百竿をたてまつる、の文を引き、讃岐の語竿調(さをのつぎ)の、あるいは竿木(さをのき)を約(つづ)めた言葉ではないかという。

 また、福家惣衛(ふけそうえ、1884~1971、大正、昭和期の教育者、郷土史家)は、さぬきとは狭野、小平野の多い地形を示す狭野国であろうという。その他、讃岐の語は、真麦(さむぎ、早麦とも)、狭貫(さぬき)、狭之城(さのき)などに由来する多くの説があります。

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高松城(たかまつじょう、玉藻城とも、旧東の丸の艮櫓(うしとらやぐら、南東、もと城の東北(うしとら)の隅にあったのを現在地に移築、海水を堀に引き入れた水城、高松、香川、google画像) 高松城(たかまつじょう、玉藻公園公式ウェブサイト、高松、香川): http://www.tamamokoen.com/

 高松(たかまつ)の地は、もと八輪島という(す)ので、香東川の堆積による三角州(さんかくす)の一部でした。1588年(天正16年)、生駒親正(いこまちかまさ、1526~1603、江戸初期の武将)がここに高松城玉藻城とも)を築城し、東方の山田郡高松(古高松とも)の嘉名(かめい)をとって名としたと伝えられています。

 和名抄に、山田郡高松鄕(のち高松市)があり、新修高松市史(高松市史編集室編)によると、当時、この地方に高い松の木がそびえ立っていて、朝日夕日に照らされた影の長さが6町(約654m)に及んだという。

 高松という地名は全国に数多く、その命名は、平凡な普通に見られる自然の松の木の景相に由来する場合が多く、たとえば人々の目印(めじるし)になるような松の大木があれば、それが地名になりやすいようです。

 1890年(明治23年)、高松に市制が敷かれ、次第に市域を拡げ、1988年(昭和63年)に瀬戸大橋が開通するまでは、宇高連絡船(岡山県宇野~香川県高松)が本州と四国を結び、高松四国玄関口でした。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); 香川県の歴史散歩編集委員会編: 香川県の歴史散歩、山川出版社(1996); 永原慶二: 日本史辞典、岩波書店(1999).

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月18日 (日)

愛媛(伊予、松山)名の由来、古事記に伊予国を愛比売という、是すなわち湯姫なり、とは(2012.11.18)

   愛媛(えいめ、伊予)の県庁、有名な道後温泉(どうごおんせん)は、松山(まつやま)にあります。松山については、1603年(慶長8年)、加藤嘉明(1563~1631)が孤立丘陵である勝山の頂上に築城し、松山城と称し、これをとりまく城下町が発達しました。勝山には、松・杉・檜などの常緑樹が多く、松山嘉名でもあり、松の繁る山という植物景相の上から名づけられたという。 そこで、改めて、愛媛(伊予、松山)名の由来について調べてみました。

○ 愛媛(伊予)名の由来 

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愛比売命(えひめのみこと、伊豫豆比古命神社椿神社とも、居相(いあい)町、松山、愛媛、google画像 ) 愛比売命(えひめのみこと、伊豫豆比古命神社椿神社とも、松山、愛媛): http://www.tubaki.or.jp/002/002_00_00.php

(解説) 愛媛(えひめ)のは、古事記に、伊予二名(ふたな)、この島は身一つにして(おもて)四つあり、面ごとに名あり、伊予の国を愛比売(えひめ)という、とあるに由来しています。 

  この面四つあり、と書かれているのは、四国における讃岐(さぬき、香川)国の飯依比古(いいよりひこ)と伊予(いよ、愛媛)国の愛比売(えひめ)、土佐(とさ、高知)国の建依別(たけよりわけ)と阿波(あわ、徳島)国の大宜都比売(おおげつひめ)の男女二神ずつがそれぞれ一対となって二ならびを形成しているという。二名島の名称は、二つの特質をもった地域、すなわち北四国南四国の相異なった姿をを象徴的に示していると思われます。

 本居宣長(もとおりのりなが、1730~1801、江戸中後期の国学者)は、兄弟の女子を兄比売・弟比売という例が多いので、この国は女子の始めの意で兄比売といったのか、また、吉(よき)を愛(え)という例も多く、愛はよろしい意であるかもしれぬ、と解釈し、神話を地名起源として肯定しました。

 松岡静雄(まつおかしずお、1878~1936、明治-昭和前期の軍人、言語学者、民族学者)は、は湯の転で、古来、有名な温泉があったので国の名となったもの、伊予のも同じである、と温泉説をとられました。この説はおそらく内山真竜(うちやままたつ、1740~1821、江戸中後期の国学者)の国号考の説を承けたものと思われます。国号考に、古事記伊予国を愛比売というすなわち湯姫なり、と興味ある説が見られます。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); 愛媛県高等学校教育研究会社会部会編: 愛媛県の歴史散歩、山川出版社(1994); 永原慶二: 日本史辞典、岩波書店(1999).

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月17日 (土)

徳島(阿波)名の由来、阿波国は粟国の意で、祖神はオオゲツヒメ(大宣都比売、五穀神)、とは(2012.11.17)

  徳島(とくしま)というは、もと、猪山(いのやま)の東方、吉野川の三角州の一つの島の名でしたが、嘉名ということで、城と城下町の名になったと言われています。吉野川の河口付近の中州(三角州)上に位置する徳島市内には、島の名が付く町名(徳島、寺島、出来島、福島など)が多いようです。 

 徳島藩は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政(1558~1639)が、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある渭山城(いのやまじょう、津城とも、のち徳島城)に入城してから、城下町として発展しました。渭山は、その形が猪(いのしし)が伏している姿に似ているので、猪ノ山(いのやま)と言っていたのを、渭山(いのやま)の字が好いということで、猪山を渭山に改めたと言われています。そこで、改めて、徳島県古名阿波の由来について調べてみました。

 ○ 阿波(粟とも)の名の由来

 阿波の国という徳島県の呼び名は、(あわ)がこの地で豊富に育てられていたのに由来するとされています。稲作に不適当な土地でも収穫することができる雑穀が、古代から人々の食を支えていました。

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オオゲツヒメ大宣都比売、上一宮大粟神社の掛け軸、作者・制作年不明、神山、徳島、google画像) オオゲツヒメ大宣都比売、阿波歴史民族研究会のブログ、徳島): http://blogs.yahoo.co.jp/aska_hayashi/4273297.html

(解説)上一宮大粟神社(かみいちにみやおおあわじんじゃ、神山町、名西郡、徳島県)に、オオゲツヒメ大宣都比売)という神様が祀(まつ)られています。日本最古の歴史書、古事記に登場し、穀物起源神として知られる大地母神です。次のようなオオゲツヒメ神話は、古事記上巻の不思議な挿話(そうわ)で、五穀の起源とされています。 

 天空の高天原(たかまがはら)を追放された神様スサノオ(須佐之男)が、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求めると、この女神は鼻や口、尻(しり)から出した食物を料理して差し出しました。スサノオは汚(きたな)らしいと怒り、彼女を斬り殺します。すると、オオゲツヒメから(かいこ)、から(いね)、から(あわ)、から小豆(あずき)、陰部からから大豆(だいず)が生まれました。 

上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ、71歳のホームページ、徳島): http://kangawa.life.coocan.jp/is2/newpage42.html; http://kangawa.life.coocan.jp/is2/

 古事記に詳しい詩人の蜂飼耳(はちかいみみ、1974~ )さんによると、この神話には、生きることの秘密が書き込まれている、と話す。女神が殺されて、身体から人間にとって有用な、生きていくために必要な農産物が生じる。このことは、自分たちが食べることや農作業の営みに対する畏怖(いふ)の気持ち、収穫への願い、不作への恐怖など起源の痛みが表されている。ということで、五穀神話には、生きていることをとらえる感覚が凝縮されているという。

 なお、神山町域は、古くは大粟山(おおあわやま)といい、その史料上の初見は、平安時代、1146年(久安2年)とされています。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); とくしま地域政策研究所編: 吉野川事典、農山漁村文化協会(1999); 徳島県の歴史散歩編集委員会編(高橋啓監修): 徳島県の歴史散歩、山川出版社(2009); 北陸中日新聞: 現代に生きる神話 1 五穀の起源、古事記1300年、石井敬、2012年(平成24年)1月4日(水)、夕刊.

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月15日 (木)

東京(江戸)名の由来、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた江戸の町、とは(2012.11.15)

   東京は、東方にある都の意で、1868年(慶応4年/明治元年)7月、江戸幕府の所在地であった江戸東京改称江戸城皇居となり京都から遷都しました。 そこで、改めて、東京江戸由来、江戸の町の風水(四神相応)などについて調べてみました。

○ 東京(江戸)名の由来

 江戸は、かなり古く、平安時代末に江戸氏がいて、中世、豊島郡と荏原郡との境界付近に江戸鄕がありました。 江戸名義については、東京市史稿に、江の門戸の意、江所すなわち江に臨む所の意、江の湊の意など諸説があります。が、地形の上から考えて、入江に注ぐ河川の河口部に名づけられたものと思われます。 江戸幕府以前の江戸(江戸東京探訪シリーズ): http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/tanbou/edo/edo_Pre_1.html#top

 幕政が崩壊して、王政復古になると、江戸は、東京と名を改められ、第122代明治天皇(1852~1912)の親臨を見ることになりました。改名趣旨は、次の1868年(明治元年)の(みことのり)によって知ることができます。

 朕今万機を親裁し、億兆を綏墲(すいぶ)す、江戸は東国第一の大鎮、四方幅輳の地、宜く親臨以て見るべし、因て自今江戸を称して東京とせん、是朕の海内一家東西同視する所以なり、衆庶此意を体せよ。

 江戸は、従来の宮城の地(皇居、御所)の京都から見て東方にあることから、の意味で東京と名づけられました。東京名称は、中国の後漢、隋、唐、五代の時代にも、また、渤海、遼、金など、その例は歴史上にも多く見られます。

○ 四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた江戸の町

 東京江戸)は、かっての武蔵の一部と下総(しもうさ)の一部にあたり、中世(1192~1573、鎌倉、室町時代)は、武蔵七党の江戸重継(生没未詳)一族が支配していました。1457年(長禄元年)には太田道灌(1432~1486、室町時代の武将)が江戸城を築きました。

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四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた江戸の町四神相応、日建協、東京、google画像) 東京の礎となった江戸の町四神相応、東京といふもの、小笠原稔、日建協ホームページ、東京): http://homepage1.nifty.com/nikkenkyo/4joho/757tokyo&saka/757tokyo&saka.htm

(解説) 1590年(天正18年)入国した徳川家康(1542~1616、江戸幕府初代将軍)は、京の都(平安京)と同じように、江戸四神相応(しじんそうおう、中国の陰陽学の原理)、すなわち神獣に守られた都市青龍(せいりゅう)が宿る川(大川、隅田川)、朱雀(すざく)が宿る平野、海(江戸湊)、西白虎(びゃっこ)が宿る大道(東海道)、玄武(げんぶ)が宿る山(麹町台地)を配置しました。

 天海(てんかい、天台宗、南光坊天海、智楽院)、1536年?(天文5年?)~1643年(寛永20年)は、家康の命により、西の比叡山に並ぶ東の比叡山、東叡山寛永寺(かんえいじ、天台宗、徳川家(4、5、8、10、11、13、15代)の菩提寺)を、江戸城の鬼門(東北方向)の上野に建立しました。

 江戸は、現在の東京都中心部の旧名ですが、江戸時代(1603~1868)、265年にわたり、将軍徳川氏の城下町で幕府政治の中心地となりました。

 1868年(慶応4年/明治元年)江戸東京と改称、同年7月東京府が開設されました。1889年(明治22年)の市制・町村制により、15区を市域とする東京市が成立しましたが、市制特例により府知事市長ね、市役所は開設されませんでした。1943年(昭和18年)、首都一元化をめざし、東京都制が制定され、府・市を廃止し、35区からなる東京都が成立しました。 

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源(第1刷)、古今書院(1972); 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1993); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 高森明勅: 歴代天皇事典(第1版)、PHP研究所(2006); 歴史探訪倶楽部: 歴史地図本 大江戸探訪、大和書房(2008).

2012年11月14日 (水)

大阪(難波宮)名の由来、古代難波宮へ三度の遷都! 、難波から浪速、浪花へ、また小坂、大坂から大阪への名称変更、とは(2012.11.14)

   大阪(おおさか、大坂とも)は、大阪湾の北東岸、淀川の河口付近に位置していますが、古称、難波(なにわ)、室町時代には小坂(おさか)・大坂(おさかと短く発音)といい、明治初期以降は大阪(おおさか)に統一されました。

 そこで、改めて、大阪難波宮由来難波から浪速、浪花へ、また大坂、小坂から大阪への名称変更などについて調べてみました。

○ 大阪(難波宮)名の由来

 大阪は、もと難波(なにわ)と呼ばれていました。日本書紀には、初代神武天皇(生没不詳)の軍が難波(なにわ)の(さき、海に突き出た先端、崎とも)に進んできた時、潮(なみ)がはなはだ速いのに出あったので、浪速(なみはや)のと名づけられた。また、浪花(なみはな)ともいう、そして、難波(なにわ)というのは、それが訛(なま)ったものと記してあります。

 1498年(明応7年)の蓮如上人に、摂州東成郡生玉ノ庄内大坂とあり、また、三上参次(みかみさんじ、1865~1939、日本史学者)によると、厳助往生記や義演准后日記には、小坂と記してあるところが多いと言うことで、当時、大坂・小坂の両様の字が混用され、ともにおさかと短く発音されていたという。

 おさかの語は、南方から延びてくる上野台地の一部に名づけられた地形にもとずく名称であることに疑いない。江戸時代には、大坂を主に、大阪の字もまれに使用され、明治初年の公文書にも坂・の両様の字が混用されていました。全国的に大坂大阪に改まったのは1877年(明治10年)前後だという。

○ 古代難波宮へ三度の遷都

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 古く、第16代仁徳天皇(生没未詳、?~427?、新羅、百済の朝貢)は難波高津宮を、第36代孝徳天皇(596~654、大化の改新)は長柄豊碕宮を造営されまた第45代聖武天皇(701~756、国分寺の建立、東大寺の大仏造営)の時にも、一時難波への遷都がありました。 

難波宮(なにわのみや、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E5%AE%AE

AR難波宮(利用ガイド、大坂歴史博物館、大手前、中央区、大阪): http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2012/arnaniwanomiya.html

 幾多の変遷を経て、明応(1492~1501)年間、蓮如(れんにょ、1415~1499、真宗の中興の祖)が生玉(いくだま)の荘に石山御坊(石山本願寺を置いてから寺内町として栄えました。中世(1192~1573、鎌倉、室町時代)には自治港市、が栄え、近世の天正(1573~1592、安土桃山時代)年間には、豊臣秀吉(1536~1598、武将)による大阪城築城城下町整備が行われ、商業都市として発展しました。古代以来、水上交通の用地として、運河も多く、水の都の呼び名もあります。

 1889年(明治22年)、大阪市制が施行されましたが、東京・京都とともに市制特例が1898年(明治31年)まで施かれ、府知事が市長を兼ねることになりました。当初市域は東・西・南・北の4区でしたが、1889年(明治22年)には24区となり、1997年(平成9年)、大阪の人口248万人となりました。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源(第1刷)、古今書院(1972); 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1993); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 高森明勅: 歴代天皇事典(第1版)、PHP研究所(2006).

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月12日 (月)

奈良(平城京)名の由来、あをに(青丹)よし奈良の都、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた平城京、とは(2012.11.12)

   奈良(なら)は、元明天皇(661~721、げんめいてんのう、女帝)が、707年(慶雲4年)に藤原京(奈良)で即位後、710年(和銅3年)3月、藤原京から平城京(奈良盆地の南部)へ遷都されてから約70年が、奈良時代となっています。 そこで、改めて、奈良(平城京)の由来について調べてみました。

 奈良平城京)の名称については、 荻生徂徠(おぎゅうそらい、1666~1728、江戸中期の儒者)は、ナラ平城と書けるは、ナラス心にて読めるなるべし、という。

 柳田国男(やなぎだくにお、1875~1962、民俗学者)は、山中少しく平らな所を、ナル・ナロと呼ぶから、ナラス)という意味であって、奈良平城の字をあてるのも同じであるとされた。また、柳田国男の弟である松岡静雄(まつおかしずお、1878~1936、海軍軍人、言語学者、民族学者)は、ナラ韓国語国家の意味である、と解された。

 村山修一(むらやましゅういち、1914~2010、歴史学者)は、ナラの語の意味はともかくとして、平城の字をあてるのは、710年(和銅3年)3月、第43代元明天皇(げんめいてんのう、661~721、女帝)による藤原京から平城京への遷都における(みことのり)の内容から考えて、永遠の太平の基となるべき都城を呼ぶのにふさわしい名称であったとされています。 ということで、平城京読みは、ならのみやこであったと考えられています。

○ あおに(青丹)よし 奈良の都は咲く花の にほふがごとく 今盛りなり (青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有)

 万葉集(まんようしゅう)の中にに、あおに(青丹)よし  奈良(寧楽、なら)の都(京師、みやこ)は 咲く花の 薫(にお)ふがごとく  今盛りなり、という和歌があります。 この歌は、小野老(おののおゆ、?~737)が大宰府(九州)へ赴任していた時、奈良の都を懐かしんで詠んだと言われています。

  あおによし(青丹よし)は奈良(なら)、国内(くぬち)の枕詞(まくらことば)ですが、従来は特別な意味を持たず、次の語句への口調をよくする言葉です。 一方、あお(青、岩緑青)、(赤、)に色の意味を持たせ、青と赤に彩られた奈良の都(平城京)の建物の美しい景色を称えた歌としての解釈もあります。

 奈良顔料青丹(青黒い土、岩緑青、いわろくしょう)を産出したことが秘府本万葉集に見えるが、事実か伝説の記録か不明とのことです。一説に、あおによしならに続けたのは、顔料にするために青丹(あおに、岩緑青の古名)を馴熟(なら)すによるという。 

○ 四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた平城京

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平城京(奈良の都、四神相応の図、日経BP社、奈良、google画像) 平城京(四神相応、平城遷都1300年歴史の旅、L-Cruise、日経BP社、奈良): http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/lcs/20100412/1031474/?P=7 

(解説) 奈良(なら)は古く那羅平城寧楽乃楽などの字も当てられるが、意味するところは、平らにならされた地という。ここは三方を山に囲まれながら南に開けており、中国の都城建設の条件である四神相応(ししんそうおう)、すなわち東西南北守護神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた形勝でありました。

 東守護神は、人工的掘削した河川で、清い水流の象徴である青龍(せいりゅう)、西守護神は、難波(なにわ)へと続く道で、都にこもった邪気を逃がす道が求められた白虎(びゃっこ)、守護神は、今も残る五徳池(ごとくいけ)で、川が注ぎ込む池が求められた朱雀(すざく)、守護神は、平城山(ならやま)で、竜脈とよばれる気の流れの発進地である丘陵が求められた、亀と蛇の化身の玄武(げんぶ)に見立てられていました。

 元明天皇は、平城なら)の地、四禽(しきん、四神の信仰、四神相応!)、(と)に(かな)い、三山鎮(さんざんしずめ)を作(な)し、亀筮(きぜい、亀の甲を焼いて占うこと)ならび従う、と(みことのり)で表明しました。

 平城京(中国)の都、長安手本に造営されました。奈良は、碁盤のように整然と区画され、東西は約4km、南北は約5kmの広さがありました。 

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源(第1刷)、古今書院(1972); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史辞典(第1刷)、岩波書店(1999); 高森明勅: 歴代天皇事典(第1版)、PHP研究所(2006); 歴史探訪研究会編: 歴史地図本 古代日本を訪ねる 奈良 飛鳥(第2刷)、大和書房(2008).

2012年11月10日 (土)

京都(平安京)名の由来、一般に京(きょう)または都(みやこ)と呼ばれ、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られていた! とは(2012.11.10)

  京都(きょうと)は、桓武天皇(737~806)が、781年(天応1年)に平城京(奈良)で即位後、784年(延暦3年)には長岡京(京都盆地の西部)へ遷都、のち10年後の794年(延暦13年)には、平安京(京都)に二度目の遷都をされて以来、明治維新に至るまで1074年におよぶ首都でした。そこで、改めて、京都(平安京)の由来について調べてみました。

 明治政府は、1868年(慶応4年、明治1年)7月、江戸東京と改め、東京府を設置し、1869年(明治2年)、明治天皇(1852~1912)が東京滞在中は太政官を東京に移すことを決め、事実上の遷都がなされました。

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桓武天皇(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87. 平安神宮(ホームページ、京都):http://www.heianjingu.or.jp/06/0101.html. 

 京都は、桓武天皇により山城の地に新たな都が築かれた時、平安京(へいあんきょう)と呼ばれていましたが、これは遷都の詔(みことのり)の中に、民衆が新都を讃美して、このように唱(とな)えたとあります。これは天皇と国家の永遠の平和を祈願するものです。ここは、一般に(きょう)または(みやこ)と呼ばれていました。11世紀末からは、平安京にかわる都の地名として、京都が使用されるようになりました。

 は、本来、丘を意味する語ですが、君主の居城のある土地をいい、は、民衆が集まり住んでいる地を、また天子の宮城の所在地を指します。(くん)読みでは、ともにミヤコですが、ミヤコは宮のある所の意です。それ故、京・都・京都の語は、天子の宮城の地を指す語と思われます。

 日本書紀によると、わが国は、紀元前660年、初代神武天皇(生没不詳)即位による大和の統一国家が成立して以来、常に天皇のもとに国として永く続いてきたので、京・都・京都といえば、それはただちに首都そのものを指しました。 明治維新で首都が東京遷都された後、京都は一時西京と呼ばれたことがありますが、のち公式京都の呼称が定められました。

 桓武天皇の命をうけ、新たな都の平安京が築かれた山城の地のは、水陸の地の利にすぐれ、中国渡来の思想、四神相応(ししんそうおう)という東西南北守護神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた形勝の地でありました。

 守護神は、鴨川で、清い水流の象徴である青龍(せいりゅう)、西守護神は、山陰道で、都にこもった邪気を逃がす道が求められた白虎(びゃっこ)、守護神は、かって鴨川と桂川の合流点近くに広がっていた巨椋池(おぐらいけ)で、川が注ぎ込む池が求められた朱雀(すざく)、守護神は、船岡山(ふなおかやま)で、竜脈とよばれる気の流れの発進地である丘陵が求められた、亀と蛇の合体である玄武(げんぶ)に見立てられていました。

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京の風水(観光・京都おもしろ宣言、都を守る風水の目四神相応、目崎英和教授(南山大、環境学)、京都新聞、2006年1月29日):http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/omoshiro/shikake17_01.php

 平安京(中国)の都、長安手本に造営されました。は、碁盤のように整然と区画され、東西は約4.5km、南北は約5.2kmの広さがありました。 

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 永原慶二監修: 日本史辞典、岩波書店(1999); 高森明勅監修: 歴代天皇事典、PHP研究所(2006); 上田正昭監修、井上満郎著: 古代の三都を歩く、平安京の風景、文英堂(2006); 歴史探訪研究会編: 歴史地図本 知って訪ねる 京都、大和書房(2008). 

(追加説明) 古事記日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。記紀には、天上の高天原(たかまがはら)から地上に降臨(こうりん)し、天皇家の先祖となる天つ神(あまつかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国つ神(くにつかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の支配権を譲られた話をはじめ、天皇家を中心とする日本統一の由来が書かれています。神社の多くは、記紀に登場する神々を祀っています。

2012年11月 8日 (木)

石川(加賀、能登、金沢)県名の由来、県庁が一年足らず石川 郡の美川に移されたことによる、初代知事・県令は内田政風、とは(2012.11.8)

   明治政府は、1871年(明治4年)7月14日、中央集権化のため廃藩置県(はいはんちけん)の詔(みことのり)を発布しました。約300の藩を廃止したうえで、3府302県設置し、知事・県令を派遣しました。

 同年11月には3府72県にまで整理しました。加賀藩金沢藩から金沢県となっていましたが、1872年(明治5年)2月、県庁が金沢から石川郡の美川に移された時、石川県と改名されました。その後、1年足らずで、翌年1月県庁が金沢に復帰した後も、県名はそのまま継承され、現在に至っています。

 そこで、改めて、石川の地名と県名の由来初代知事・県令内田清風(うちだまさかぜ、1815~1893、もと薩摩藩士)などについて調べました。

○ 石川の地名の由来

 石川郡は、平安時代の初め、824年(弘仁14年)、加賀国が越前国より分立した年に、加賀郡の南半を割いて新たに設置されたものです。郡名石川は、加賀志徴(かがしちょう)の著者、森田柿園(もりたしえん、平次とも、1823~1908)によると、石川郡古保村(現、金沢市古府町)は、古くは石川村といい、石川郡の郡府であったという。 さらに、この地の付近を流れる犀川河床に礫が多いことから、川の名そのものが、昔、石川といい、それが村名になったものであろう、と推定しています。

 石川県史の執筆者、日置謙(へきけん、1873~1946)によると、石川郡は、その郡境にあった比礫河手取川)の河底の石礫磊々たる状況により名づけられたものという手取川説をとっています。河底の状況からすれば、手取川の方が石川の名にふさわしいのですが、金沢市古府町の古名、石川にもとづくとする加賀志徴の説も不合理には見えないという。

○ 石川(加賀)県名の由来 

 1867年(慶応3年)大政奉還、王政復古、1869年(明治2年)版籍奉還、明治維新により加賀藩金沢藩となり、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で金沢藩金沢県となりました。同年11月、大聖寺県合併しました。明治政府は、中央集権の体制を確立するため、全国3府302県の統廃合を10年以上繰り返し進めました。

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内田政風(1815~1893、石川県令(初代)、Google画像)

石川県庁知事室(1872年(明治5年)、美川町、石川郡、知事執務室の一部を復元・展示、google画像) 石川ルーツ交流館(ホームページ、美川、白山市、石川): http://www.city.hakusan.lg.jp/kyouiku/ishikawa-rutu/rootkuretakefile/ishikawaroots.jsp

(解説) 1872年(明治5年)5月2日、金沢は北に片寄りすぎということで、県庁金沢から手取川口の美川石川郡)に移し、県名石川県と改めました。その原因は、薩摩(鹿児島)藩士で、金沢県大参事、新制参事(のち初代の石川権令、県令県知事)となった内田政風(うちだまさかぜ、1815~1893)による金沢士族の中の不平不満を持つ人々への政治的圧力であったとも言われています。

 同年9月、能登七尾県合併、同11月、白山麓18ヵ村を編入、さらに、翌年、1873年(明治6年)1月、金沢県庁復帰させましたが、県名はそのまま継承され、現在に至っています。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、裳華房(1997); 美川町文化振興課編: 美川町のあゆみ、」石川ルーツ交流感、美川町教育委員会(2002); 成美堂出版編集部編: 図解 幕末・維新、成美堂出版(2009); 石川県の歴史散歩編集委員会(編集代表、木越隆三): 石川県の歴史散歩(1版)、山川出版社(2010).

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吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972)

(追加説明) ○ 古来、北陸(ほくりく)は、北陸地方およびそれ以北日本海沿岸も含め、コシの国と総称し、これに越、高志、古志の字をあてました。が、飛鳥時代、701年(大宝元年)の令制(大宝律令)、国号制定のとき、都(みやこ、京都)からの遠近によって、越前(えちぜん、福井、能登、加賀、のち石川)、越中(えっちゅう、富山)、越後(えちご、新潟)の3つに分かれました。

○ 金沢城はもと真宗(一向宗)の本拠地、金沢御坊の跡地といわれ、ことに兼六園から金沢城址にかけての小立野台地は砂金層を大量に含み、戦国時代には流浪の金屋(かなや)たちが砂金を採掘し、金沢御坊成立の起因となりました。  このとき、兼六園の中の湧水、金城霊沢沢水を利用して採金したので、「金堀沢」、「金洗沢」などと呼ばれ、金沢の名の起源となっています。

○ 石川県の呼称は、1872年(明治5年)2月ですが、前年7月の廃藩置県に続く11月の改置府県で、302県(旧藩名が多い!)が72県に改廃統合され、いわゆる明治維新を主導した薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)などに敵対する旧藩の名が県名から姿を消す一連の動きの中であったという。

 また、石川金沢)のように、県名と県庁の所在地名が異なる県として、岩手(盛岡)、宮城(仙台)、茨城(水戸)、栃木(宇都宮)、群馬(前橋)、山梨(甲府)、愛知(名古屋)、三重(津)、滋賀(大津)、兵庫(神戸)、島根(松江)、香川(高松)、愛媛(松山)、沖縄(那覇)、また北海道(札幌)などが現存しています。

○ 加賀(かが)の名の由来 加賀が越前よりわかれたのは平安時代の初期でした。

 それまでの越前国の加賀郡は、のちの金沢市、松任市、石川、河北2郡を包括するものでした。金沢市と河北郡に加賀爪という地名がありますが、加賀の名の発祥地であるかは明らかでありません。

 加賀(かが、石川)は、自然の力で「欠け」た土地の意味、波により多くの崖ができた、との説もあります。 が、諸国名義考、越登賀三州志、加賀志徴等に多くの諸説が紹介されていて、そのいずれも、加賀明るい、かがやくの意味にとっています。

○ 能登(のと)の名の由来 能登が越前よりわかれたのは奈良時代の初期で、のち、中期に一時越中に併合されたことがあります。

 その名義について諸説がありますが、国名風土記に、能門(のと)は、西は越前、東は越中の間で、はるか海中にさし出した国で、北国上下往来の船は、この国の泊まり宿とする故に、(よきかと)という意味で、能門国し、今は改めたのである、と記しています。

 森田柿園(もりたしえん、1823~1908、郷土史家)能登志徴も、能登は内外の船が多く出入りする海門であるによって国名が生じたとして能門説をとっています。

〇 小松の地名の由来は、古代朝鮮に関係する港、高麗津との説があります。小松市矢崎町には、オンドル跡(朝鮮半島の渡来人が建てたとみられる大壁建物や床下暖房設備、渡来人の集会所?)が発見され、古代朝鮮からの渡来人の里であったことを裏づけていま す。

 2005年(平成17年)8月22日に 石川県小松市矢崎町 の薬師遺跡で、L字形かまどを備えた飛鳥時代(7世紀半ば)の竪穴式住居跡(約36㎡)が出土した。L字形かまどは、オンドルの原初的な形とされています。

 

2012年11月 5日 (月)

サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.11.5.白山を遠望)

 サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題を、科学風土記(人文、社会、自然)として、四季折々、徒然なるままに紹介しています。   

 ブログ(タイトル、内容、解説、資料、画像など)は、時折修正してアレンジしたものもあります。 画像(デジカメ写真、検索画像など)は、マウスで左クイックすると拡大するものもあります。         T.HONJO  金沢 
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白山連峰(はくさんれんぽう、中央山頂部は御前峰(2702m)・大汝峰(2680m)・剣が峰(2677m)から構成、桜田、金沢、石川、2012年11月5日)  
       

富山(越中)県名の由来、起源は富山鄕(外山鄕とも)ほか、立山山麓で国内初の氷河の発見、逆さ地図、,とは(2012.11.5)

   富山と言えば、立山(日本三名山)と雷鳥富山湾アマエビ、ホタルイカ埋没林(海底化石林)、富山売薬(配置家庭薬、先用後利)と反魂胆(腹痛薬)など思い浮かべます。 そこで、改めて、富山(越中)県名由来、氷河発見(立山山麓)などについて調べてみました。

○ 富山(越中)県名の由来

 富山(とやま)の県名は、はじめて室町時代中期の1430年(永享2年)、室町幕府第6代将軍、足利義教(1394~1441)の書状に地名として見られるという。金山久一氏は、富山城の起源において、富山起源富山鄕外山鄕とも)であったとしています。

 富山名義については、私は北アルプス立山連峰など、めるの意と思っていました。が、古谷常蔵氏は、神宿山(かみとめるやま)の意であるという説や、アイヌ語沼・河を意味するという説をあげています。 

 富山(越中)は、江戸時代(1603~1868)、加賀前田藩(藩祖、前田利家、1538~1599)の支藩でしたが、越中国が完全に前田支配となったのは1595年(文禄4年)、加賀藩第2代前田利長(1562~1614)の頃です。さらに、利長は関ヶ原の功により加越能(加賀、越中、能登)3ヵ国、120万石の大名となりました。

 利長は、1605年(慶長10年)、守山城(守護所、高岡、富山)から富山城(隠居城、富山)に移りましたが、1609年(慶長14年)、富山城の主要な建物を焼失したため、高岡城(隠居城、高岡、富山)に入城しました。

 加賀藩第3代前田利常(1594~1658)は金沢城(金沢、石川)に移り、高岡城を廃城としました。1639年(嘉永16年)6月、利常小松城(隠居城、小松、石川)に移り、嫡子光髙金沢城(金沢、石川)、加賀藩100万石をつがせたとき、次子利次富山藩10万石、三子利治大聖寺藩7万石を与え支藩(御三家!)としました。

 その時、富山藩富山城(富山)を修復して藩庁とし、1871年(明治4年)7月、廃藩置県により富山県となりました。同年11月、旧加賀藩領の砺波群と新川郡を併せて新川県となり、1872年(明治5年)9月、射水郡も編入して越中が一つの県となり、1876年(明治9年)4月に石川県に合併されます。 が、1883年(明治16年)5月、越中4郡を再び分ける分県運動により富山県を設置、現在の富山県の領域が確定しました。

富山城(越中、富山): http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/toyama.htm

○ 立山山麓で氷河の発見

御前沢雪渓の氷体状況  高精度GPSにより、氷体の移動量を観測

立山(たてやま、雄山の東面、左 御前沢雪渓の氷体状況、右 高精度GPSにより、氷体の移動量を観測、富山、google画像)

立山の雪(とやま雪の文化、氷河の発見!含む、 富山県): http://www.pref.toyama.jp/sections/1711/yuki/tateyama/tateyama.html

 2009年(平成21年)9月、立山(たてやま)の雄山(3003m)の東面御前沢(ごぜんざわ)雪渓で長さ700m、幅200m、厚さ30mに達する日本最大級の氷体がアイスレーダ(電波で氷の内部をスキャンする機材)探査により発見されました。これは、国内初の現存する氷河可能性があるという。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 富山県歴史散歩研究会編(編集長 高井進): 富山県の歴史散歩、山川出版社(1995).

(追加説明) ○ 古来、北陸(ほくりく)は、北陸地方およびそれ以北日本海沿岸も含め、コシの国と総称し、これに越、高志、古志の字をあてました。が、飛鳥時代、701年(大宝元年)の令制(大宝律令)、国号制定のとき、都(みやこ、京都)からの遠近によって、越前(えちぜん、福井、能登、加賀、のち石川)、越中(えっちゅう、富山)、越後(えちご、新潟)の3つに分かれました。

○ 逆さ地図

逆さ地図キッズ日本海学富山市): http://www.nihonkaigaku.org/kids/about/index.html

環日本海・東アジア諸国図(通称:逆さ地図、富山県)http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1510/kj00000275.html

 1994年(平成6年)、富山県が作成した地図で、従来の視点を変えて、北と南を逆さにし、大陸から日本を見た地図としています。日本海において、中国、ロシア、北朝鮮、韓国等の対岸諸国に対し、日本の重心が富山県沖の日本海にあることを強調したという。

 日本海が大きな湖のように見え、昔から頻繁な文化、経済の交流があったこと、また、政治、軍事の複雑な問題も存在することが想像されます。

2012年11月 3日 (土)

香住(かすみ、香住鄕に由来、香美町、兵庫)、香住ガニ(紅ズワイガニ)、松葉ガニ(ズワイガニ)、ハタハタ(燭魚)、お国自慢、古代動物の足跡化石発見、とは(2012.11.3)

   最近、ちちんぷいぷい(MBSテレビ、毎日放送)の番組で、香住ガニ紅ズワイガニ)の料理、 会席 カニ刺しなど、香住(かすみ)の旅荘佐小(さこ)を舞台にして、テレビ生放送がありました。

 私の妹の息子の活躍ぶりが紹介されたのですが、残念ながら、このテレビ放送は、金沢では見られませんでした。そこで、改めて、香住お国自慢などについて調べてみました。香住お国自慢(香住観光協会、香住、兵庫): http://www.kasumi-kanko.com/

 また、2003年(平成15年)9月12日までに、香住町内の海岸の地層(豊岡層、推定1600万~1900万年前)、断層の最下部の砂岩・泥岩互層の2ヵ所(海岸沿いの岩場)で、1700万~1800万年前(新生代第3紀中新生)の大型哺乳類(ほにゅうるい、ゾウ類、サイ類、二種類のシカ類など)と鳥類(ツル類、サギ類など)計6種類、全国最多の足跡化石が、安野敏勝教諭(高志高校、56才)によって発見されました。これは、太古多くの動物がこの地域で共存していたことを裏付けています。 古代動物の足跡化石発見(産経新聞、2003年9月13日): http://www.nararika.com/renraku/03renraku/03nie/030913kaseki.htm

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旅荘、佐小(さこ、下浜、香住、香美町、兵庫、google画像) 旅荘、佐小(さこ)ログ(香住ガニ料理、香住、香美町、兵庫):  http://blog.livedoor.jp/kenchin1125/; ちちんぷいぷい(公式ホームページ): http://www.mbs.jp/puipui/ 同取材(佐小ブログ)http://blog.livedoor.jp/kenchin1125/archives/51879377.html. 

○ 香住(香美町、兵庫)

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香住湾かすみわんファミリーイン今子浦からの眺め今子浦の入江香住香美町、兵庫、2012年4月14日) 今子浦の入江は、香住と柴山の中間に位置し、白石島と黒島に囲まれ箱庭のような美しさです。

(解説) 香住(かすみ)は、兵庫県北部。かっては城崎(きのさき)郡の町。町名は和名称(わみょうしょう、倭名類衆鈔の略称、源順著、平安時代)の香住鄕に由来しています。日本海に面し、山陰本線が通じています。中心集落は県有数の漁業基地で、水産加工が盛んです。 香美町(かみちょう)は、2005年(平成17年)4月1日、三方郡美方町村岡町と城崎郡香住町3町合併して誕生しました。

 香住のお国自慢として、山陰本線の余部鉄橋(あまるべてっきょう)と西端の余部崎灯台(高さ、規模など日本一)、円山応挙(まるやまおうきょ、1733~1795、江戸中期の画家、丹波の人)の孔雀の図など襖絵が有名で、その他掛軸、衝立など168点など多数蔵する太乗寺(だいじょうじ、応挙寺とも、真言宗、行基創建)、三川権現社(日本三太権現の一つ)、香住ガニ(紅ズワイガニ)、松葉ガニ(ズワイガニ)、ハタハタ(燭魚、底曳網漁で漁獲)などがあり、香住海岸但馬御火浦(たじまみほのうら)など海岸一帯は山陰海岸国立公園に属します。面積は、137.02平方キロ。人口は、15568人(1970)でしたが、現在、19045人(2012)。

香美町(かみちょう、ホームページ、香住、兵庫): http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/toppage/0000000000000/APM03000.html

○ ベニズワイガニ(紅ズワイ蟹)

ベニズワイガニ(紅ズワイ蟹、雄、google画像) ベニズワイガニ(市場魚介類図鑑、ぼうずコンニャクサイト): http://www.zukan-bouz.com/kani/kumoganika/benizuwaigani.html

(解説) 甲殻類クモガニ科のカニ。 脚(あし)や鉗(はさみ)がやや細く、体色は茶褐色のズワイガニとは異なり、茹(ゆ)でないのに全体が紅褐色なのでこの名があります。日本海の深海域に多産し、食用となります。

○ ズワイガニ(ズワイ蟹)

ズワイガニ(ズワイ蟹、雄、google画像) ズワイガニ(市場魚介類図鑑、ぼうずコンニャクサイト): http://www.zukan-bouz.com/kani/kumoganika/zuwaigani.html

(解説) 甲殻類クモガニ科のカニ。エチゼンガニ、また島根・鳥取地方でマツバガニという。雄は甲長12cm、甲幅13cmほど。雌は小形で雄の1/2以下の大きさ、セイコガニまたはコウバクガニの別名があります。

 甲形は丸みのある三角形で、あまり硬くない。体色は茶褐色、表面に疣(いぼ)状突起があり、幅約13cm、脚を拡げると50cmに達します。脚は長く丈夫で、肉は美味(おい)しい。

 寒海の食用ガニで、北米、アラスカに面したベーリング海、アレウト諸島から日本海に分布し、70~300mの海底にすむ。カニ刺網、機船底引網で漁獲され、富山、石川、福井、鳥取などが主産地。茹(ゆで)ガニ、かん詰などとし、美味しく、旬(しゅん)は冬季です。

○ ハタハタ(鰰、鱩、燭魚)

ハタハタ(鰰、鱩、燭魚、google画像) ハタハタ(市場魚介類図鑑、ぼうずコンニャクサイト): http://www.zukan-bouz.com/suzuki/wanigisuamoku/hatahata.html 

(解説) ハタハタ科の海産の硬骨魚。地方名はカタハ、シロハタ、ハタなど。口は大きく体には鱗(うろこ)がない。背部は黄白色で、褐色の流紋がある。体長15cm内外です。

 北洋から東北地方の太平洋沿岸、北日本のやや深海、普通水深150~400mの砂泥底にすむ。初冬(11~12月)の産卵期には水深2mぐらいの海藻の多い沿岸に群遊するときに漁獲します。その季節に雷鳴があるので、この名があり、またカミナリウオともいう。

 秋田県、山形県の名産ですが、山陰地方でも多量にとれます。煮付、塩焼、酒粕(かす)漬、干物などにします。また、 「しょっつるなべ」の材料とし、また卵は「ぶりこ」と呼ばれ、賞味できます。

   香住(かすみ)、余部(あまるべ)といえば、私の妹(長女、みえちゃん、美恵子)が香住の中学校の教師として勤めていたとき、ご縁があって、同じ勤務先の教師(川端政明さん)と結婚したところです。そのため、1970年(昭和45年)3月、はじめて香住に、両親と妹(次女、はるよさん、治代)は郷里(徳島)から、私は勤務先(金沢)から出かけ、大和屋旅館に宿泊、川端家の自宅での結婚式に出席したことを覚えています。

 最近では、2007年(平成19年)11月、民宿・川端屋から旅荘・佐小(主 川端 顕)へのオープン、また2008年(平成20年)3月29日(土)、けんちゃん(次男、顕)、2012年(平成24年)4月14日(土)、あけみちゃん(長女、明美)の結婚式がファミリーイン今子浦(香住)であり、一人であるいは家内(尊子)とお祝いで訪れました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991).

(追加説明) ちちんぷいぷいは、幼児が体を痛くしたとき、なでさすって、すかしなだめるのにいう語。ちちんぷいぷい御代(ごよ)のおん宝。 一説に「智仁武勇は御世のおん宝」という。(広辞苑より)

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