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2012年12月18日 (火)

相撲にまつわる歴史伝承、相撲の起源(豊作祈願の信仰、しめ綱を巻いてシコを踏む、塩を撒く)、力士のシコ(四股、醜)名、相撲取(節会相撲、勧進大相撲、上覧相撲)、とは(2010.9.9)

  古代相撲(すもう、角力、すまひとも)は豊作祈願の信仰から起こったという。相撲取は、しめ綱(締綱)を巻いてシコ(四股)を踏(ふ)みます。シコを踏むというのは、地力(じりき)を高める呪術(じゅじゅつ)です。ドシンドシンと土を踏むので、地面の力が震動して、よく物ができるというわけです。相撲は、また、村相撲をとって勝ったほうが豊作だ、という占(うらな)いでもありました。

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横綱奉納土俵入り羽黒山、第36代横綱(1941~1953)、シコを踏む羽黒山、横綱が足を踏み下ろす時、観客は「よいしょ!」と掛け声をかける、明治神宮、東京、google画像) 横綱羽黒山の奉納土俵入り(ハワイ大学、エンターテイメント資料): http://www.hawaii.edu/cjs/?page_id=269

(解説) 相撲取がしめ綱(締縄)を巻くのは、神に仕える姿で、相撲取は神の奉仕者です。を撒(ま)くのは、体を清める儀式です。相撲で「シコを踏む」の「シコ」を「四股」と書くのは、その動作をあらわすために、あとから当てた字で、もともと「醜(シコ)」と書きます。この醜(シコ)は、みにくいという意味ではなく、強いことを意味する言葉です。相撲で「シコを踏む」のは、取り組む前の準備運動であると同時に、一種の示威(しい)運動です。「踏む」というのは、足で土俵を踏むことではなく、相手を醜(シコ)、つまり強者と見なし、「相手の醜(シコ、強者)を踏み破る」ということです。

 また、相撲取の「シコ名」も、本来は「醜名」と書き、「四股名」は当て字です。これは、本名のほかに自分を強く見せようとするための別名で、相撲の場合は、「シコを踏む者の名」の意味で「醜名」という。また同時に、「アダ名」という本来の解釈から、相撲取の出身地や顔つき、クセや特技などからのものが多くありました。

 この「シコ名(醜名)」にも、時代によって流行があったようです。例えば、江戸時代の天明以前には、「××山」「○○嶽」と言ったものが多く、ついで、体の大きさを天然気象で表す「谷風」「雷電」と言ったものが流行しました。次にはやったのが、郷土ゆかりの山や川、名所を冠するもので、「常陸山」「小野川」「安芸ノ海」などです。戦後は、若乃花以来、「乃」をつける襲名(しゅうめい)が大流行し、大鵬が出てからは中国の史実から拾ったものが流行しています。 

○ 相撲の歴史

 712年、古事記には、建御雷神(たてみかづきのかみ)と建御名方神(たてみなかたのかみ)の二神が、力くらべをして国ゆずりが行われたとの記述があります。さらに、638年、垂仁天皇(すいにんてんのう、生没不明、第11代)の7年7月、出雲の住人、野見宿禰(のみのすくね)と大和の住人、当麻蹶速(たいまのけはや)が、天皇の命令によって相撲をとって、宿禰が勝ったと、720年、日本書紀に見えますが、これが一般にわが国の国技と言われている相撲(すもう)のはじめとされていますが、もとより信ずるに足りないものです。

 古代、奈良時代、聖武天皇(しょうむてんのう、701~756、第45代)の時、各地から相撲人(すまいびと、力士)が集められ、節会(せちえ)相撲が行われるようになり、のち300余年の間、宮中の儀式、相撲節会(すまいのせちえ)として続きました。平安時代、朝廷では相撲節(すまいのせち)として儀式化し、洗練され、京都や地方の寺社の相撲会(すまいえ)として広まりました。

 中世、鎌倉時代、寺社修復を名目とした勧進相撲(かんじんずもう)も発生しました。室町末期になると、相撲取の職業力士が生まれ、土俵も考案されました。

 近世、江戸時代、武士(大名、旗本)は屋敷内で、足軽などに相撲を取らせ観戦して楽しみ、庶民は江戸、京都などの街の四辻や広小路で辻相撲を楽しみましたが、のち群集となり、治安上禁止されました。が、木戸銭を取る勧進相撲が許可され、次第に恒常的に行われ、やがて相撲を業とする者たちの集団も生まれました。

 ところで、相撲取が職業化したのは、1624年(寛永元年)で、元祖は明石志賀之助(あかししがのすけ、生没未詳、初代横綱)です。江戸四谷塩町の笹寺の境内で、寄(よ)せ相撲と言って、晴天6日、諸国相撲を公開したのがはじめてで、有料勧進相撲が許されたのは、1684年(貞享元年)3月からです。以後、毎年3月に深川八幡宮境内で興業するようになりました。 (横綱を名のった関取(横綱伝):  http://tsubotaa.la.coocan.jp/yokoduna/yoko1.html.) 石川県出身の横綱には、阿武松(おうのまつ)、第6代横綱(1828~1835)、輪島(わじま)、第54代横綱(1973~1981)の二人がいます。

 1744年(延享元年)、江戸、京都、大坂の三都で四季に一度ずつの四季勧進大相撲の開催が幕府に公認されました。三都の年寄、頭取を師匠とする相撲取や各地の相撲取が合同で大興行を行うもので、1778年(安永7年)3月、江戸の大相撲の場合、番付に記された相撲取の数は158人にのぼりました。

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第11代将軍、徳川家斉の上覧相撲第4代横綱、谷風を賜り、これを手に「敬い奏げて四方に振り回し」舞って見せたのが現在の弓取式の始まりという、1791年(寛政3年)6月、江戸城吹上、google画像) (上覧相撲(すもうの歴史ナビ、google画像): http://sports.geocities.jp/sumou_caffe/index.html,)

(解説) 江戸名物と言われた回向院(えこういん)境内の大相撲がはじまったのは、1789年(寛政3年)4月です。この回向院の大相撲の興業日数10日でした。1791年(寛政3年)には、第11代将軍、徳川家斉(とくがわいえなり、1773~1841)による上覧相撲が催され(6回挙行)、第4代横綱、谷風、第5代横綱、小野川両横綱のほか強豪、大関雷電も江戸城吹上庭の土俵に上がり、大力士の活躍が人気を呼びました。(上覧相撲(相撲錦絵ネット、2004、google画像): http://www.sumo-nishikie.net/champion.php.)

 近代、明治時代、一時衰えましたが、高砂浦五郎(たかさごうらごろう、1838~1900,初代、前頭筆頭)らが改革を進め、1889年(明治22年)、相撲会所を合議制の東京大角力協会に改組し、明治後期には、人気力士として第20代横綱梅ヶ谷、第19代横綱、常陸山が現れました。年一回の相撲も二回(1月場所、5月場所)となり、回向院の大相撲も1909年(明治42年)1月場所で終わりました。

 そして、相撲も競技化が進み、1909年(明治42年)5月、両国の国技館の開設を機に、国技としての今日の相撲の基礎が確立しました。大正時代、1925年(大正14年)相撲道の隆盛と経営の安定を期し(財)大日本相撲協会に改組、1927年(昭和2年)大坂大角力協会を統合し、1958年(昭和33年)日本相撲協会と改称しました。

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双葉山、横綱土俵入り立波三羽烏、左より 太刀持ち 大関名寄岩、 横綱(第35代)双葉山、 露払い 大関(のち第36代横綱)羽黒山、1930年(昭和10年)初期、google画像)  立波三羽烏(エピソード、北国博物館、名寄市、北海道): http://www.city.nayoro.lg.jp/www/contents/1250051159980/index.html

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第35代横綱、双葉山(立浪部屋)の69連勝は、1939年(昭和14年)1月場所、4日目、西前頭3枚目安芸ノ海(出羽海部屋、のち第37代横綱)に敗れました(1939年(昭和14年)1月15日、読売新聞、google画像) 

(解説) 昭和時代、1928年(昭和3年)ラジオ放送が始まり、1936年(昭和11年)から第35代横綱、双葉山の活躍で黄金時代を迎えました。また、戦後は、1953年(昭和28年)5月からのテレビ中継など、観賞スポーツとして発展しました。現在、本場所は年6回、各15日間(幕下以下の取組は7日間)ですが、この日取りになったのは、第2次大戦後のことです。

 私が小学生の頃、相撲はラジオ放送でした。が、大相撲の地方巡業もあり、松島小学校(松島村、のち上板町、德島)の校庭の土俵で、力士の稽古相撲、第38代横綱照國の土俵入りなど見たのを覚えています。

(参考文献) 下中邦彦(監修): 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 暮らしのジャーナル、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 生活歳時記、樋口清之: 梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社黄金文庫(2005).

(参考資料) 日本相撲協会(公式サイト): http://www.sumo.or.jp/

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