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2012年12月18日 (火)

立春、節分(2月3日、旧正月)と豆まき、追儺(ついな)の鬼、太陰暦(旧暦)と太陽暦(新暦)、とは(2011.2.1)

  立春(りっしゅん)は、節分の翌日2月4日頃にあたります。この日を年越しと考える風習があり、正月節、歳正月などともいう。八十八夜、二百十日、二百二十日などはこの日から起算します。

 立春は冬と春の分かれ目にあたります。この日の夜、社寺では悪魔を追い払い、春を迎える意味で、儺(ついな、鬼遣いとも)が行われます。立春の前夜または当日、社寺で行われる祭儀は、節分祭と言われています。

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節分祭古式追儺式、吉田神社、吉田山、左京区、京都、docoico.net、観光情報、google画像) 

 私は、1965年(昭和40年)頃、京都大学近く、北白川下別当町(左京区)で下宿(村井良治様方)していましたので、歩いて節分祭の吉田神社にお参りしたことがあります。火炉祭(古神札焼納神事)のとき目にした大きな火柱を今でもはっきり覚えています。火焔が天に昇ると、春が訪れる(立春)という。参拝者には、その炎が無病息災をもたらし、新春の幸運を授けると言われる。

 暦の上でこの日から春になるので、春立つ春くるなど、春の季語になっています。まだまだ寒さは厳しいのですが、日中は長くなり、野には草木が芽吹いてきます。春夏秋冬など、暦の上での季節の分け方は、太陰暦(旧暦、陰暦とも)に基づいているので、実際の季節感とは多少ずれています。

○ 節分と豆まき

 節分(せつぶん、旧正月とも)とは、季節の移り変わる時、すなわち、立春、立夏、立秋、立冬の4つの節の中の立春の前日をいい、太陰暦(旧暦)では元日から7日正月までの間、太陽暦(新暦)では2月3・4日、にあたります。この日、年男が、福は内、鬼は外、と唱えて豆をまく習慣があります。

 節分の日に自分の年よりひとつだけ多く豆を食べる習慣も、節分が年越しに行われたことを象徴しています。この日が太陽暦(新暦)にそのまま移されて、2月3日の節分という行事が始まりました。

 節分鬼打ちの起源は、奈良時代末、第42代文武天皇(683~707)の706年(慶雲3年)の頃、諸国に悪疫が流行したので、鬼儺(おにやらい、鬼払いとも)の儀式をしたのが始まりと言われています。

 また、一説には、第59代宇多天皇(867~931)の頃に、鞍馬山の奥の僧正谷に住んでいた鬼神が、都に乱入しようとしたので、3石3斗の豆を炒(い)って投げ、鬼の目をつぶしその災難から逃れたのが始まりとされています。これは、後代の人のこじつけ話ではないかという。

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追儺の鬼(ついなのおに、神に扮した追儺方相(ついなほうそう)が矛(ほこ)と楯(たて)をもって疫鬼を追っているところ(平安中期、惟宗允亮著、政事要略より)、google画像) 

(解説) 古来、大晦日(おおつごもり、おおみそか)の夜、宮中の年中行事の一つに、追儺(ついな)といって、悪鬼を払い疫病を除く儀式がありました。古く中国に始まり、わが国には7~8世紀、文武天皇の頃に伝来し、朝廷の年中行事となりました。これが後世、民間にも広まり、節分の夜豆をまいて禍を払う行事となりました。

 室町時代の頃、追儺と節分の豆まきが結びついたと言われています。鬼打豆と称し、炒(い)った豆をまいたり、東京の周辺では、この日の夕暮れ、柊(ひいらぎ)の枝に焼いたイワシの頭をさしたものを戸口に立てる習俗が見られます。 これは鬼が柊(ひいらぎ)のトゲで眼をさし、焼いたイワシの臭いに弱いとの俗信からくる追儺(ついな)の一種です。

 ということで、節分の豆まきは、新しい春、新しい年のために、豆をまいて、幽鬼を外に追い出し、新しい魂を再生産し、労働力を再生産しようという行事です。 また、大豆を煎(い)って節分の豆まきをするのですが、かっては、追儺会(つなえ)に五穀そのものを使っていました。いつしかダイズ(大豆)は、米作民族の間では神秘な力をもつとされ、呪術的に重視されてきたアズキ(小豆)と同じように考えられるようになったという。

 太陰暦(旧暦)と太陽暦(新暦)

 太陰暦(旧暦、太陰(月)の満ち欠けのみに基づく暦)では、1ヶ月を29日あるいは30日、1ヵ年を12ヶ月、1年を24節気に分け、節の前の日を節分と言いました。24節気の中でも立春は冬が終わり、春の始まる日として重要な意味をもっていました。また、太陰暦(旧暦)では、立春とお正月が非常に接近しており、この節気が特別な意味をもちはじめ、節分と言えば、この日を指すようになりました。

 太陽暦(新暦、太陽の運行に基づく暦)では、1年は365日、4年ごとに閏年(うるうどし)を置き、100年ごとに閏年を省き、また、400年ごとに閏日を省くことをやめました。現行のものは16世紀以来のグレゴリオ暦です。

 明治新政府は、1872年(明治5年)11月9日、旧来の太陰太陽暦法(太陰暦と太陽暦とを折衷した暦、すなわち、1ヶ月を月の満ち欠けを基礎に定め、1年をおおよそ太陽の運行に合わせて作成した暦)による天保暦を廃し、新しく太陽暦(新暦)の採用を決定し、太陰暦(陰暦)1872年(明治5年)12月3日1873年(明治6年)1月1日としました。 日本の暦法の変遷(かわうそ@暦): http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0060.htm

 明治新政府が、太陽暦を正式に採用したのは、開国に伴う諸外国との条約交渉があちらの日付(新暦、太陽暦)とこちらの日付(旧暦、太陰暦)が異なるとうまくいかない、あるいいは旅行のスケジュールが全然組めない、などが主たる理由という。それ以前に日本人に親しまれていた暦が太陰暦でした。これは、古来、日本人は農耕によって生活を営んできましたので、満月から数えて何日に目にこの作業をしようという具合に月の満ち欠けを農業労働の基準としていました。というわけで、農耕社会にとっては、太陰暦は都合の良い暦でした。

 明治新政府は、1876年(明治9年)、日曜日を休暇と定めました。当初は1日と6日の日を休日と定めていましたが、外国官署や商社との関係で日曜の扱いに不便を感じていました。また、陰暦を用いていたので、曜日と日が合いませんでした。そこで、1872年(明治5年)の太陽暦採用を経て、1876年(明治9年)のこの日、日曜は休日、土曜は12時より休暇とすることを決定しました。

 週休二日制については、日本では1980年(昭和55年)代頃から採用され始めたといわれ、1992年(平成4年)5月からは国家公務員の完全週休二日制、2002年(平成14年)度からは公立学校の完全週五日制が実施されています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 樋口清之: 日本の風俗 起源を知る楽しみ、大和書房(2002); 大島、佐藤、松崎、宮内、宮田(編著): 図説 民族探訪事典、山川出版社(2005).

(追加説明) ○ (おに)は、一般に悪鬼のイメージの方が強いのですが、民族芸能の中では、むしろ人々に幸運をもたらす善鬼の方が多い。それは、鬼が、神霊の変化した形として受け止められているからです。

 節分豆まきなどで、追い払われる鬼は追儺の鬼です。追儺は、中国の行事を模倣したもので、悪霊の化身である悪鬼を払い、厄払いの意味が根底に込められています。ところが、修正会(しゅしょうえ、正月に修する法要)や花祭りに登場する鬼をよく見ると、決して悪霊の化身のような存在ではなく、祭りの最中に出現し、1年間の災厄をすべて取り除き、幸運をもたらすことを約束してくれる存在となっています。

○ 鬼とは、中国では、怨みをもって死んだ人の霊魂が鬼だと言われています。古代、日本では、人を食う異形の怪物が鬼となっています。が、鬼の概念が中国から伝えられ、仏教の影響を受けてからは、餓鬼、厄鬼、地獄の赤鬼や青鬼、羅生門で渡辺綱に腕を切られた鬼、こぶとり爺の鬼などが出現しました。

 中国においては、鬼神であり、その姿も、不動・愛染・隆三世など、明王(みょうおう)と呼び、仏教の天部(てんぶ)の神の憤怒(ふんぬ)した形で、諸悪魔を降伏する諸尊ですが、邪鬼(じゃき)の影響を受けて、恐ろし気です。特に浄土教の普及により、地獄の中で、亡者(もうじゃ)をいためつける働きをしています。地獄の恐ろしい羅卒(らそつ)だということが、鬼のイメージを固定させました。

 また、は美男、美女に化け、音楽、双六、詩歌などに優れたものとして人間世界に現れます。 が、後に陰陽道の影響で、人身に、牛の角や虎の牙を持ち、裸で虎の皮のふんどしをした形をとっています。怪力で性質は荒い。

○  鬼門(きもん)は、陰陽道(おんみょうどう)では、鬼が出入りするといって万事に忌み嫌う方角で、艮(うしとら)、すなわち東北の方角(陰陽が転化する方角)のことで、鬼方ともいう。災難を避けるために鬼門の方角に神仏を祭るのが鬼門除け(きもんよけ、丑寅除けとも)です。

 平安時代、794年(延暦13年)、桓武天皇の命をうけて生まれた京の都、平安京は、中国渡来の思想(陰陽道)、四神相応(ししんそうおう)という東(青龍、鴨川)、西(白虎、山陰道)、南(朱雀、巨椋池)、北(玄武、船岡山)の守護神に守られた形勝の地でした。最大の鬼門封じには、比叡山、天台宗の総本山、延暦寺を配置しました。当時の人々は、比叡山そのものを鬼門封じの要(かなめ)とし、災いが生じると、ここで加持祈祷が行われました。また、比叡山の鎮守、日吉大社の神獣、(さる)も鬼門封じとして、都をより強固に守ったという。

○ オニのほか、大荷ということで、商家や運送業の人々にとっては、オニは外ではなく、オニは内という。

 改暦騒動とは、日本が太陽暦の採用を決定したのは1872年(明治5年)11月9日でした。そして、その年の12月3日をもって、1873年(明治6年)1月1日ときめました。ところがこのとき、こんな布告が出ました。「このたびの改暦については、本年12月1日、2日の両日を、いま11月30日、31日と定む」ーーーつまり太陰暦の11月29日までしかないので、それに余分の2日をくっつけて、12月をなくしてしまいました。たった2日でも12月があることになれば、政府は役人に12月分の給料を払わなければならなかったからです。(生活歳時記より)

○ 「曜日」の「」は「」を意味する言葉です。キリスト教団が、7日間をまとめて1週間とし、それぞれの日に、太陽と月、それに当時知られていた5つの惑星(火・水・木・金・土)の名を割りふると決めたのは、325年(日本は古墳時代!)、ニケヤ宗教会議です。それがキリスト経が伝わるより早く、シルクロードから唐(中国)を経て、日本に入ってきました。(生活歳時記より)

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