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2012年12月18日 (火)

小堀遠州(大名、茶人、造園家)にまつわる歴史秘話、加賀3代藩主前田利常にあてた書状の発見、長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3字の筆跡、頼久寺(高梁市、岡山)の庭園、砂糖の道、とは(2011.3.14)

  江戸時代前期、近江小室藩(おうみこむろはん、滋賀)の初代藩主(1万余石)、茶道遠州流の祖、小堀遠州(こぼりえんしゅう、もと政一、1579~1647)が、加賀3代藩主、前田利常(まえだとしつね、1593~1658)にあてた書状を、2009年(平成21年)春頃、美術商男性(71才)が、骨董市(こっとういち、名古屋)で入手したという。1642年(寛永19年)から1646年(正保3年)の間に書かれたもので、10月6日付で、遠州から利常を指す「中納言様」あてになっていて、小堀の名があるほか、署名の花押(かおう)は、遠州が晩年に用いた型と一致し、真筆(しんぴつ)と確認されました。

○ 加賀3代藩主、前田利常にあてた書状

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小堀遠州から加賀3代藩主、前田年常あての書状、2009年(平成21年)春頃に発見(美術商、金沢)、2009年(平成21年)7月30日(木)、北陸中日新聞、朝刊より 

(解説) 書状(縦16cm、横64.5cm)の文面には、利常から、タカ狩りで捕らえられたツルを贈られたことに礼を述べ、新茶を披露する「口切りの茶事」で、そのツルを食用に使うと知らせています。続いて、江戸幕府3代将軍、徳川家光(とくがわいえみつ、1604~1651)が幕府の行事に出席することを記し、利常の正室、珠姫(たまひめ、1599~1622)は家光の姉にあたるので、弟の将軍の動向を知らせる意味もあり、遠州が将軍家と前田家の間で重要な役割を果たしていたことが分かるという。

 後半部分では、利常が室町時代の僧侶、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394~1481)の書を掛け軸にするよう遠州に頼んでいた親密さを示す内容という。また、遠州は、金沢城本丸の茶室の作庭を指示するなど前田家とのつながりの深さが推測されます。

○ 長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3文字の筆跡

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長生殿(ちょうせいでん、小掘遠州命名と筆跡による「長生殿」の三字、森八、金沢、google画像) 長生殿本舗森八(金沢、石川): http://www.mapple.net/spots/G01700036104.htm

加賀(金沢)の名菓の長生殿と主な原料の阿波(徳島)の和三盆にまつわる歴史伝承、砂糖、日本三大銘菓、和三盆の歴史、、とは(2009.6.9): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-3853.html

(解説)  森八(もりはち、金沢)は、1625年(寛永2年)菓子屋を創業、3代目八左衛門(町年寄役)は、藩主より江戸表に召され、約350年前、加賀3代藩主前田利常創意により、唐墨(からすみ、中国の墨)に似た長方形に作り上げ、小掘遠州命名筆跡による「長生殿」の三字篆書体、てんしょたい)を原型とする、名菓長生殿(ちょうせんでん)を世に生み出しました。 長生殿は、茶の湯の和菓子にも用いられ、和三盆(白砂糖)は徳島産、紅花は山形産、加賀米(もち米)は落雁粉、飴(あめ)などで作った「落雁(らくがん)」と呼ばれる高級和菓子ですが、ずっと同じ所の材料を用いながら、昔と変わらぬ製法で作っているという。 森八(金沢):http://www.morihachi.co.jp/

 前田年常は、幕府作事奉行でもあり、将軍茶道指南でもあった小堀遠州を取り立て、茶の湯の指導、美術工芸の育成、格調高い文物の収集にも力を入れました。

 ところで、德島(もと阿波)のサトウキビからの和三盆(白砂糖)の製法は、約210年余前、1798年(寛政10年)頃に確立したと言われています。となると、阿波の和三盆が入手できたのは、江戸末期に近く、德島11代藩主、蜂須賀治昭(はちすかはるあき、1758~1814)、加賀11代藩主、前田治脩(まえだはるなが、1745~1810)の頃(北前船?)と考えられますので、それまで(約140年間?)長生殿の原料の白砂糖は、長崎を経て中国から輸入した唐三盆(とうさんぼん、白砂糖)でも使っていたのだろうか?

○ 小堀遠州(こぼりえんしゅう)

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小堀遠州像 (こぼりえんしゅうぞう、春屋宗園賛(部分)、しゅんおくそうえんさん、孤篷庵、こほうあん、縦102.0横32.0、google画像)

(解説) 小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579~1647)は、江戸初期の武将、茶人、造園家です。名は政一、通称作助。大有宗甫、狐篷庵(こほうあん)と号す。近江国(おうみのくに、滋賀)坂田郡小堀村(のち長浜市)に生まれ、豊臣秀吉(とよとみひでよし、1536~1598)、徳川家康(とくがわいえやす、1542~1616)に仕え、1608年(慶長13年)、遠江守(とおとうみのかみ、静岡)に任じられ、遠州(えんしゅう)と呼ばれ、江戸幕府の作事奉行(禁裏や二条城など)、国奉行はじめ、伏見奉行などの役職を歴任しました。

 土木、建築、造園に優れ、多くの名園や茶席を残しました。古田織部(ふるたおりべ、1544~1615、茶人、利休の高弟、美濃、岐阜)に茶を学び、遠州流の祖となり、徳川家光(とくがわいえみつ、1604~1651)の茶道師範をはじめ、多くの大名に茶を教えました。その茶の湯(遠州流)は、利休風のわび茶を基本にしながらも、東山時代(15世紀後半)以来の書院の茶を復活させて優雅な王朝文化の要素を取り入れ、「きれいさび」といわれる茶風を軸に、寛永(1624~1644)文化の中心として活躍しました。

 また、遠州七窯(えんしゅうなながま)を興し、中興名物の名でよばれる茶道具を残すなど、茶道における業績が最も高く評価されています。 遠州七窯(えんしゅうなながま)は、小堀遠州が指導し、好みの茶陶を焼かせた窯で、志戸呂(しとろ、静岡)、膳所(ぜぜ、滋賀)、朝日(あさひ、京都)、赤膚(あかはだ、奈良)、古曽部(こそべ、大阪)、上野(あがの、福岡)、高取(たかとり、福岡)の7窯で、古曽部を伊賀(いが、三重)とする説もあります。

 小堀遠州は、江戸初期、本職の徳川幕府官僚としては、城や寺院の建築に携わり、行政にも腕を振るいました。また、作庭の名人にして大茶人、書家(能筆)、歌人(和歌)、香道家として名をはせ、いけ花、造園、「遠州好み」といわれる茶室や茶道具など、多芸多才ぶりを遺憾なく発揮しました。

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頼久寺の庭園(らいきゅうじ、臨済宗高梁市、たかはしし、岡山、google画像) 小堀遠州が、備中兵乱後で備中松山城が荒廃していたため、仮住まいしていた頼久寺です。

(解説) 頼久寺の庭園(国の名勝)は、白砂を敷き詰めて海に見立て、鶴島亀島を浮かべ、後方にサツキを植えて大きく刈り込みを入れ、青い海の波がうねる様子(枯山水!)を表しています。 刈り込みの手法はその後、遠州の得意技となりました。 さらに、遠望する愛宕山の山容を取り込んだ借景が奥行きを醸し出す。心にくい演出となっています。 頼久寺(小京都、高梁市、岡山):http://blogs.yahoo.co.jp/kitayan_boy/50819461.html

 遠州の活躍の出発点とも言える地が、現在の高梁市(たかはしし、岡山)です。1600年(慶長5年)、徳川家康から備中(岡山)国奉行を命じられた父、正次に同行して来ましたが、4年後に父が亡くなると、備中国奉行を15年間務めました。備中松山城を整備する間、頼久寺を仮の館として政務にあたり、この寺の庭もつくりました。

 遠州は、備中国奉行と平行して、駿府城(静岡)の作事奉行もこなし、遠江守(とおとうみのかみ)を授かりまいた。遠州(えんしゅう)とも呼ばれる由縁です。この間、御陽成院御所、名護屋城天守、伏見城本丸などの造営や改修の監督役を務め、また、京都二条城二ノ丸庭園、南禅寺金地院庭園などの造園、石清水八幡宮(懸造り)の空中茶室(閑雲軒)も手がけ、将軍家の茶道指南役も務めました。 

 茶道史に詳しい熊倉功夫(くまくらいさお、1943~ 、国立民族学博物館名誉教授)によれば、「才能と深い教養が仕事を呼び、人脈を広げる。遠州の交友は、武士、公家、僧侶、町人と実に多彩」、多忙さは晩年まで続き、50才半ばの遠州が新春に友と交わした俳句が面白いという。 年こせば 大草伏(おおくたびれ)て ねの日かな 次々と舞い込む仕事に疲れて寝正月を決め込む!とのことです。

 私は、1969年(昭和44年)4月、金沢大学(理学部)につとめ始め、はじめて日本3名菓の一つ、長生殿を口にしたとき、これは ふるさと(引野、上板、阿波、德島)、和三盆の味だ! とすぐ分かりました。また、高校(阿波)の竹内秀夫先生(教頭、国語、柔道担当)が石川出身であることを思い出し、えも言われぬえにし(縁)を感じました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 本浄高治: 落雁和菓子とサイエンス、日本三名菓随一加賀の長生殿と阿波特産の和三盆、啓林(高理編、No.333)、p.5~8、啓林館(1999); 北陸中日新聞: 小堀遠州の書状を発見、利常あて親密な文面、幕府の動向知らせる、金沢の美術商入手、2009年(平成21年)7月30日(木)、朝刊より; 朝日新聞: 小堀遠州、庭は大海へ続いていた、歴ナビ、旅する日本史、ゆかりを訪ねて、2011年(平成23年)2月19日(土)、朝刊より.

(参考資料) 小堀遠州(こぼりえんしゅう、google画像):  http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B0%8F%E5%A0%80%E9%81%A0%E5%B7%9E&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=fjN3TcTaNdCrceKp5YgF&ved=0CG4QsAQ&biw=1004&bih=567

枯山水(かれさんすい、伝統的な日本庭園): http://www.geocities.co.jp/sankyo_niwaishi/zen_gardens.html

枯山水(かれさんすい、京都、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9E%AF%E5%B1%B1%E6%B0%B4+%E4%BA%AC%E9%83%BD&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=OB1_TZDWIYG8cNGFleUG&ved=0CFIQsAQ&biw=1004&bih=567

竜安寺石庭(枯山水、幾何学的美しさ、西ヨーロッパの庭園で流行していた黄金分割手法が見られるという、小堀遠州作?、京都): http://ameblo.jp/matsu-niwa/entry-10370124021.html

(追加説明) 頼久寺(らいきゅうじ、臨済宗、高梁市、岡山)は、室町時代、足利尊氏が諸国に建立させた安国寺の一つ。小堀遠州作の庭園(枯山水!)は国の名勝に指定されています。生島裕道住職のによると、「庭園は明るく開放感があるでしょう。遠州の茶道にも通じます。例えば、茶碗を見るとよく分かります、戦国の動乱期から安定期に向かう時代の変化を、3人の茶人は体現しているようです」。  

 千利休(せんのりきゅう、1522~1591)が愛用した黒楽茶碗は、余分なデザインを排し、求道的な精神が感じられる。 千利休、茶碗google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91%E3%80%80%E8%8C%B6%E7%A2%97&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

その弟子、古田織部(ふるたおりべ、1544~1615)の茶碗は大胆にゆがみ強烈な個性を主張している。 古田織部、茶碗(google画像) http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8F%A4%E7%94%B0%E7%B9%94%E9%83%A8%E3%80%80%E8%8C%B6%E7%A2%97&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

織部を師とした小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579~1647)は、均整のとれた優美な白い茶碗を好んだとされる。小堀遠州、茶碗(google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B0%8F%E5%A0%80%E9%81%A0%E5%B7%9E%E3%80%80%E8%8C%B6%E7%A2%97&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1004&bih=567

(追加説明) ○ 長生殿(ちょうせいでん)は、中国、清代の戯曲。洪昇(こうしょう、1645~1706)の作。50幕。1679年(88年とも)なる。長恨歌、秋雨梧桐などに範をとり、玄宗皇帝と楊貴妃の愛情を、楊家一門の栄華や安祿山の反乱など、唐王朝の興亡を背景に描く。文辞の美麗なること清代随一の秀作とされ、桃花扇と並称される。(小百科事典より)

 日本3名菓、加賀の長生殿は、唐墨(からすみ、中国の墨)に似た長方形の最高級の茶菓子ですが、その頃は唐三盆(とうさんぼん、中国の高級白砂糖)を使っていたので ?、小堀遠州は、清代の戯曲、長生殿の思いを、名菓に寄せて命名したのだろうか? 遠州の筆跡、長生殿の3字の書体は、篆書体(てんしょたい、秦代より前に使用されていた書体、印鑑の書体)です。

○ 長生殿本舗 森八 店主敬白によれば、長生殿は往昔白色長方形に胡麻をふりかけしものなりしが後水尾帝(ごみずのおてい、第108代天皇、1596~1680)これを叡覧ましまして 「田の面に落つる雁のやう」と宣ひしより落雁と名付そめけり、其後年常卿(加賀藩前田家三代藩主)の創意により、唐墨の形にまなび、小堀遠州卿これに長生殿と題し給ふ、これ墨形長生殿の始となす。その後渦形、ねじ梅、糸巻、鱗鶴、末広、青海波など次々次に生まれ、雲上に召されしこと屡々なりしかばいつしか御所落雁とも称ふるに至れり

 そもそも長生殿は家伝の精粉と、昔ながらの製法になる高価にして無類極上なる四国の特産の純和三盆糖とをもて製し、彩るに本紅を用ひたれば、高尚優雅にして永く蓄蔵に耐へ、日本名菓の随一と感賞せらるること昔も今も変わることなし。ここに縁起と光栄とのあらましをしるし、猶いやましのご愛顧をねがひまつると

○ 砂糖の道  長崎から佐賀へ、そして小倉へと続く長崎街道は「シュガーロード」とも呼ばれています。砂糖の道です。スペイン、ポルトガル、中国などから渡ってきた砂糖や南蛮菓子が、この街道を通して全国に広まりました。(JAF Mate 2011 ④ 、ジャフメイト、おくにnavi 佐賀県、p.12、佐賀・吉野ヶ里、シュガーロード、より) 

 

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