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2012年12月20日 (木)

神武天皇(じんむてんのう、初代)、神武東征(古事記・日本書紀)、日向(宮崎)から瀬戸内を経て熊野(和歌山・三重の南部)に上陸、大和(奈良)へ、熊野の神の毒気、とは(2012.3.5)

  神武天皇(じんむてんのう)は、古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)で初代天皇とされる伝説上の人物で、天下を治めるべき地を求めて、日向(ひゅうが、ひむかとも、宮崎)から大和(やまと、奈良)に東征(とうせい)し、橿原(かしはら)にを定めて即位したという。

 古事記・日本書紀記紀とも)は、681年(天武10年)、飛鳥時代、第40代天武天皇(631?~686)が編纂を命じた、現存する日本最古の歴史書です。 古事記は、奈良時代(710~794)、太安万侶(おおのやすまろ、?~723)編纂(へんさん)、現存する日本最古の歴史書ですが、神話、伝説、多数の歌謡を含み、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語っています。 日本書記は、奈良時代、舎人親王(とねりしんのう、676~735)らの撰、現存する日本最古の勅撰の正史ですが、神話、伝説、記録などを修飾の多い漢文で記述した歴史書です。

 古事記・日本書紀に記されている有名な「神武東征(じんむとうせい)の話をはじめ天皇の事績についても、史実というよりは伝説、あるいは文学として読まれることが多いようです。なかでも神武天皇は、高天原(たかまがはら)の神々をはじめ八百万(やおよろず)の神々が織りなすロマン溢れる日本神話と、実在の天皇が登場する日本の歴史の間に立つ重要な存在として記されています。

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神武天皇の東征経路(とうせいけいろ、古事記神武東征、google画像) 神武東征(じんむとうせい、江古田原・沼袋合戦、ホームページ、伊藤): http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/jinmu.htm

(解説) 神武天皇は九州の日向(ひゅうが、ひむかとも、宮崎)に生まれ、3人の兄とともに育ちました。生まれながらにして賢く、気性もしっかりとしていて、15才で皇太子になったという。そして、45才のときに、天下に君臨するにふさわしい東方の「美き地(よきくに)」である大和(やまと、奈良)に都をかまえるために、大軍を率いて日向を発ちました。これが天武東征(てんむとうせい)の始まりでした。

 皇軍は速吸之門(はやすいなと、豊予海峡)で会った椎根津彦(しいねつひこ)を水先案内人として、海路、宇佐(うさ、大分)や安芸(あき、広島)、吉備(きび、岡山)などに立ち寄り滞在したあと、難波(なにわ、大阪)に到着しました。そこから生駒山(いこまやま)を越えて大和(やまと、奈良)に入ろうとしたのですが、土豪の長髄彦(ながすねひこ)の抵抗にあい、大和入りを果たすことはできませんでした。

 また、この戦いで兄の五瀬命(いつせのみこと)が重傷を負いました。そこで皇軍は再び海に出て、紀伊半島を南へ迂回(うかい)し、ようやく熊野(くまの、和歌山・三重の南部)から上陸しました。しかし、その間に傷ついた五瀬命をはじめ3人の兄が相次いでなくなりました。熊野に上陸を果たした神日本盤余彦(かむやまといわれびこ、神武天皇)の軍勢も、熊野の神の攻撃で、毒気(あしきいき)に当たり、全軍が倒れてしまいました。

 古事記によれば、大熊が見え隠れした直後に倒れたという。熊野の神国つ神、つまりその土地の豪族や首領だったと考えられています。大熊とあるのは、熊野だから、大熊は強力な勢力という意味ではないかという。

 日本書紀によれば、神武の軍勢が紀国(きのくに)で名草戸畔(なくさとべ)を、また熊野の荒坂津(あらさかのつ)で丹敷戸畔(にしきとべ)を倒したと記しています。トベのトは戸、ベはメの音転、女のことで、熊野灘沿岸を抑えていた勢力の長が女族長だったのかも知れないという。

 また、丹敷戸畔(にしきとべ)といふ者を誅(ころ)す。時に、毒気(あしきいき)を吐(は)きて、と書いているので、丹敷戸畔(にしきとべ)との戦いで毒気(あしきいき)に当てられたとも読めます。

 熊野の神の毒気(あしきいき)正体については、水銀中毒か鉱山の排ガス(硫化水素?)ではないか、という説があります。熊野の研究家、酒井聡郎(さかいとしお)氏は、神武軍がわざわざ熊野に回った理由は、金、銀、銅、水銀などの金属資源にあったのではないか、といった指摘をしています。

  1400万年前に紀南地方で繰り広げられた火山活動の結果、那智(和歌山)から熊野(三重)にかけての沿岸部一帯は、銅、硫化鉄、金、銀などの鉱床に恵まれる地帯となりました。そして、紀南地方には、妙法鉱山、鉛山鉱山(かなやまこうざん)、南海鉱山、道湯川鉱山、三陽鉱山など鉱山がたくさんありました。

 紀和町(熊野、三重)にあった紀州鉱山と勝浦町(那智、和歌山)にあった妙法鉱山は、「北の紀州、南の妙法」と名高く、銅を中心に硫化鉄や少量の金銀を産出してきたという。紀州鉱山の銅は、東大寺の大仏鋳造にも用いられたそうです。紀州鉱山は、1978年(昭和53年)、妙法鉱山は1972年(昭和47年)にそれぞれ閉山されました。 

紀州鉱山(気ままに鉱山・炭坑めぐり、妙法鉱山含む): http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/kisyuu01.html

  また、日本地質学会の会員であった、後誠介(うしろせいすけ)氏によれば、毒気(あしきいき)は鉱毒ではないかという説は興味深いという。金属資源の確保は古代の豪族にとって重要事項だったので、それをめぐる争いも当然あったでしょうと語っています。神武軍は資源をめぐって地元部族と戦い、毒ガス攻撃を受けたとすると、神武がわざわざ熊野をめざしたわけも説明できるという 

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八咫烏(やたがらす、神武東征、那智大社、和歌山、google画像)  八咫烏(やたがらす、google画像検索): https://www.google.co.jp/search?q=%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F&hl=ja&rlz=1T4GGLG_jaJP443JP443&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=7QdCT8zbMKvImAXvv9HHBw&ved=0CEwQsAQ&biw=1366&bih=586. 

(解説) 熊野(三重)での天皇の危難を救ったのが霊剣韴霊(ふつのみたま)と八咫烏(やたがらす)でした。韴霊(ふつのみたま)は地元の高倉下(たかくらした)という人物が霊夢で天照大神(あまてらすおおみかみ)から授けられた剣であり、高倉下が神武天皇に奉じました。すると、倒れていた全軍は突然目を覚まし敵を倒したという。

 韴霊(ふつのみたま)は天理(奈良)の石上神宮(いそのかみじんぐう)の祭神となりました。実際は、高倉下(たかくらじ)率いる物部(もののべ)の軍勢が駆けつけ、形勢を逆転させ、その戦いの後に、高倉下が物部氏の刀剣を神武天皇に献上したことではないかという。 

 ところが、大和(奈良)を目指そうにも険しい山のなかには道もなく、一行は進むことも退くこともできず迷ってしまいました。すると、その夜、今度は天皇が霊夢を見て、天照大神(あまてらすおおみかみ)から道案内のための八咫烏(やたがらす)を与えられました。

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神武天皇一羽の金色の鵄(とび)、(神武東征月岡芳利(つきおかよしとし、1839~1892)、google画像) 神武東征(じんむとうせい、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81

(解説) 皇軍は、八咫烏(やたがらす)の導きで無事大和(奈良)の宇陀(うだ)に出ることができ、その後、大和の土豪を平定し、最後に強敵の長髄彦と激戦を交わしました。皇軍が苦戦していると、一羽の金色の(とび)が飛来し、天皇の矢の先に止まりました。鵄(とび)は光り輝き、その威力によって皇軍は長髄彦の軍勢を打ち破ることができたという。

 こうして神武天皇は、いくつもの危難を乗り越えてついに大和(やまと、奈良)を平定しました。そして畝傍山(うねびやま)の麓(ふもと)の橿原(かしはら)に宮殿(橿原宮)を建て、初代天皇として即位しました。「日本書紀」によると、天皇が即位した年は辛酉(かのとのとり)の年の1月1日で、紀元前660年とされています。

 日本書紀の紀年に従って、明治以降、この年を紀元元年としました。畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)はその陵墓としています。

 私は、1980年(昭和45年)8月11日(月)、マイカー(マツダ・サバンナ、4ドアセダン、オートマティック)で、家内(尊子)とはじめて熊野那智大社、那智の滝を訪れたあと新宮で宿泊、翌日、十津川に沿った国道168号線の山越えの途中、谷瀬の吊橋に立ち寄り、奈良まで縦走、奈良公園、猿沢の池を散策、興福寺を参拝したことがあります。道路が狭くて起伏に富み、山また山の中を走ったことが強く印象に残っています。

(参考文献) 永原慶二監修: 日本史事典(第1刷)、岩波書店(1999); 高森明勅監修: 歴代天皇事典、PHP文庫(2006); 朝日新聞: 熊野・大和 幻現行、 「海(あま)」から「天(あま)へ、熊野の神、「毒気(あしきいき)」の陰に資源争奪戦、2008年(平成20年)10月21日(火)、朝刊、より; 瓜生中: 知っておきたい日本の神話(第6版)、角川学芸出版(2009).

(参考資料) 高天原遙拝所(たかまがはらようはいしょ、宮崎観光写真、高千穂、宮崎): http://www.pmiyazaki.com/takachiho/takamagahara.htm

橿原神宮(かしはらじんぐう、橿原、奈良): http://www.naranet.co.jp/kashiharajingu/

(追加説明) ○ 神武天皇(じんむてんおう、生没年未詳)は、記紀伝承によれば、初代(第一代)皇で、名は神日本盤余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と呼ばれています。高天原(たかまがはら)から降臨(こうりん)した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫で、祖父、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は海幸・山幸神話の山幸彦といわれ、その父は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で、天岩屋神話で知られる皇祖神、天照大神(あまてらすおおみかみ、天照大御神とも)の孫にあたります。父、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第4子で、母は玉依り姫命(たまよりひめのみこと、海神の娘)です。

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