« サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.5.27.県道沿いの山法師) | トップページ | 植物の根(皮層の細胞間隙、通気組織!)、オオムギ〈大麦)、イネ〈水稲)、ススキ〈薄)、クマザサ(熊笹)、クズ(葛)、イタドリ(虎杖)の根の構造、とは(2012.6.13) »

2012年12月21日 (金)

名字(みょうじ、苗字とも)、名字の由来(古代、平安時代)、士族と平民の苗字(江戸時代、明治時代)、日本に多い名字(佐藤、鈴木、高橋)、本浄姓のルーツ、とは(2012.6.4)

   名字(みょうじ)とは、広辞苑によれば、①(代々伝わる)その家の名。姓。家名。古代では(うじ)の名、また、(かばね)とを併せた名。②同一の氏から分かれ出て、その住む地名などを取った家の名。平氏から出た千葉・三浦の類。苗字

○ 名字の由来(古代、平安時代)

 古代には、姓氏天皇が臣下に与えるものでした。そして、天皇の臣下であることが認められました。 古来の氏姓の中で生き残った四大姓の藤原、橘氏、、平氏なども天皇からの賜姓です。これらは、世に「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼ばれています。

 平安中期ころから、武士などがその居所(きょしょ)、名田(みょうでん、私有田)にちなんで(あざな、別称)をつくるようになり、地名にちなむさまざまな名字が生まれました。

 名字とは名田(みょうでん)のこと、つまり土地のことです。土地の小区分のことです。武士は土着した土地の名、つまり名字を名乗りにし、その土地を懸命に守りました。これを名字の地とも呼び、名字の由来となっています。

 平安末期から武士たちは源平藤橘にあやかり、その後裔(こうえい)と称するようになりました。当時の有力な姓氏を称するものが多く、まぎらわしくなったので、同姓の多い藤原氏などは国名の一字と藤を組み合わせて、加藤、佐藤、遠藤、近藤などと呼びました。

 ということで、名字は平安末期から勃興した武士の間から自然発生的に生まれたもので、現在、一生懸命などと書かれることが多いのですが、本来は一つの所領を命をかけて守るという意味で、一所懸命が正しい書き方です。名字苗字と書かれるようになったのは江戸時代で、「」の字は苗裔(びょうえい、末の血筋、遠い血統の子孫、末孫)の意味からです。

○ 士族と平民の名字(江戸時代、明治時代)

 江戸時代(1603~1868)には、苗字がほぼ固定してきました。 が、「苗字帯刀(みょうじたいとう)」によって武士と一部の庶民を除き、苗字を名乗ることは許されていませんでした。そして、公卿(くぎょう)・武家・神主・医者・庄屋・学者などの特権階級苗字(約1万種)はほぼ固定しました。

 先祖が武士で帰農したような家には苗字の伝えがあり、農民もほとんどが隠し苗字を持っていました。また、江戸の庶民はあらゆる階層ににわたって苗字をもっていて、私的には苗字を名乗ったが、公的には名乗らず、町人たちは、苗字の下に屋をつけ、屋号にしていました。

 そのため、1801年(享和元年)7月に幕府から、「百姓・町民が苗字を名乗り、ならびに帯刀したりするのは、その所の領主・地頭より許された者は別として、固く無用となすべきこと」という御触書(おふれがき)が出ています。

 明治維新後、1870年(明治3年)、新政府は「今後、平民に苗字の使用を許す」という平民苗字許可令を布告(ふこく)、平民も苗字の使用を許され、1871年(明治4年)、重ねて戸籍法を発布、苗字の登録をうながしました。これは、日本ではじめての戸籍で、壬申(じんしん)戸籍という。

 これは、当時の国民は新政府を信用していなかったこともあり、苗字をつけることで余分に課税されるのではないかと警戒し、苗字を名乗る者は少なかったという。

 1872年(明治5年)、すでに登録済みの苗字(約12万種)の変更を禁止、以後、特別な理由のないかぎり苗字を変更することは認められなくなり、その方針は現在まで続いています。

  それでもなお名字を届けない者がいるので、1875年(明治8年)には、「平民もかならず苗字を称し、不詳(ふしょう)の者は新たにつけるべし」と布告(ふこく、平民苗字必称義務令という)、平民はすべて苗字を名のることに定められました。

 当時の農民などには文字の読み書きができない人もいました。その時には、名主(なぬし)・庄屋などの有力者、学識のある神主・僧侶・医者などに相談し、また、役所の戸籍係に苗字をつけてもらった例も多いという。

 明治新政府理念は、士(士族、武士階級、苗字帯刀を許された者も含む)と農工商(平民、苗字を公式に名乗れなかった者)の身分を廃して、四民平等の世の中にすることでしたが、本音(ほんね)は、税制と兵制の確立でした。そのためにも、平民に苗字の使用を許可し、国民の戸籍をまず整備する必要がありました。

 日本に多い名字(佐藤、鈴木、高橋)

  日本では、現在約30万種の名字が登録されています。その中で特に多く使われているのは、①佐藤、鈴木で、この2つの名字で日本の人口の20%を占めているという。次いで日本に多い名字には、③高橋のほか、伊藤、渡辺、斉藤、田中、小林、佐々木、山本、中村、加藤などが10位以内に入るという。 

 佐藤は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと、生没年未詳、平安中期の武将、下野国、栃木県)より五世の後裔(こうえい)、藤原公清(ふじわらのきんきよ)が左右衛門尉(さえもんのじょう)となったので、その左をとって佐藤と名乗ったという。秀郷の子孫は関東各地から奥羽にまで広まり、大きな勢力を持ちました。そして、佐藤の後逸から首藤・後藤・尾藤・伊藤などが出ています。代表家紋は下がり藤。

 鈴木は、信仰心からつけた代表的な名字です。鈴木氏の祖は、古代から続いた熊野神社の神官の穂積(ほずみ)氏から出ています。刈り取った稲束を積んでおくのが穂積ですが、その束(たば)の中心に一本の棒(ぼう)を建てます。この棒は稲魂を招く神聖な依代(よりしろ)であり、豊作を祈る清々し木のことです。それがスズキと呼ばれ、後世に鈴木の文字が当てられるようになりました。

 熊野の神官の鈴木氏は各地に進出し、熊野神社の分祀(ぶんし)をつくりました。特に東日本に広く分布しています。明治新姓のさいに、農民たちがかねてから信仰し、あこがれていた鈴木の名字を選んだので、鈴木姓を名乗る家が多いという。代表家紋は稲。

 高橋は、天と地を結ぶ高い階(きざはし)を意味しています。古式を尊ぶ神社では御柱を立てますが、これが高橋で神を招く神聖な場所でした。古代天皇の料理番ともいうべき膳臣(かしわでのおみ)から高橋朝臣なる者が出ています。高階、高椅、高箸なども同じです。代表家紋は竹笹。

  私たちの祖先の家名の由来を調べるには、江戸時代の先祖については、お寺(菩提寺、旦那寺など)の過去帳があります。

 その過去帳を、巧みに利用したのが徳川幕府で、1665年(寛文5年)、キリシタン禁制のために、全国の寺院に宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」を作成させ、各藩や代官所(だいかんじょ)に提出させました。これは徳川幕府の「住基台帳(住民基本台帳)」となっています。また、家の宗派が無理やり決まった家もあり、これが「寺檀制度(じだんせいど)」の基(もとい)になって、現在まで続いています。

 また、明治までの先祖については、1875年(明治8年)の戸籍謄本が役立つと思われます。

 私の名字「本浄(ほんじょう)」を検索しますと、233828571人中34人(徳島県25人、大阪府8人、石川1人)いて22977番目に多い姓でした。ふるさと引野、上板、徳島)には、今も本浄姓の家が20軒ほど集まっていますので、ここが本浄姓のルーツであることが分かりました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973); 新村出: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 鈴木亨: 名字から歴史を読む方法、河出書房新社(2000).

(参考資料) ○ 名字・苗字(みょうじ、語源由来事典): http://gogen-allguide.com/mi/myouji.html

 姓名分布&姓名ランキング (写録宝夢巣・名前・苗字・名字): http://www2.nipponsoft.co.jp/bldoko/. 

○ 同姓同名探しと名前ランキングhttp://namaeranking.com/?search=%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD&namae=%E5%90%8D%E5%AD%97

(追加説明) ○ 古代には、姓氏天皇が臣下に与えるものでした。そして、天皇の臣下であることが認められました。日本で最上位の者天皇で、天皇に姓を与える者はこの世にいないので、天皇は姓を持っていません。天皇の親族も姓を持たないので、皇族が皇籍を離れて臣籍に下るときには賜姓が行われました。藤原、源、平、橘などというのも天皇からの賜姓です。 

 天皇というのは称号であって名字ではありません。初代神武天皇から始まる古代天皇の死後に贈られた称号は、飛鳥時代になって、第33代推古天皇のころに制定されました。

○ 名字は、自然発生的につくられてきたので、最古の名字など分かりません。が、奈良時代、712年(和銅5年)に編纂された日本最古の歴史書、古事記の神々の名前が連なる中で、安曇(あずみ)が最初に出てくる人名で、連(むらじ)というのは敬称なので、この名が最も古い名字の記録という。

 安曇氏は福岡市東部を本拠にした古代豪族で、海産物の貢納や海上輸送を行い、戦時には海上軍事力として朝廷に奉仕した海人部(あまべ、部は職能などの集団)を統率して朝廷に使えました。その子孫安曇、渥美、熱海、天(あま)、海人(あま)海部(かいふ)などの名字は現在も残っています。

○ 平安中期の女流作家、源氏物語の著者、紫式部の名は、源氏物語の「紫の上」と父、藤原為時の官位「式部丞」による名という説が有力です。枕の草子の著者、清少納言の名については、「清」は本姓淸原の略、「少納言」は宮中での呼称で、律令制の太政官の判官という官位の名です。

○ 質問 コメント 鹿ちゃん (Shigaself@yahoo.co.jp, 2012/06/11) : 志賀という名字はどこから来たものですか。 志賀の島もあるし、滋賀県に琵琶湖にも志賀があるし、能登にも志賀町がある。 ちなみに、姫路藩士族の末裔と親父から聞かされ、過去帳を調査すると先祖は江戸時代初期にまで遡りました。

○ 回答 T. HONJO (本浄高治、hon1003@384.jp, 2012/06/12) : 志賀は琵琶湖南西岸一帯の古称。(広辞苑より)古書に、志賀・志我、志何、思賀などとも書かれている。大津の付近は、飛鳥時代、第38代天智天皇(626~671)の志賀の都のあった著名の地である。志賀の名義については詳らかでなく、比叡山東側の断層崖下、琵琶湖岸の扇状地式三角州と関係のある語かもしれぬ。(吉崎正松:都道府県名と国名の起源、p.41,滋賀、志賀(和名抄の訓)、古今書院(1972)より)

« サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.5.27.県道沿いの山法師) | トップページ | 植物の根(皮層の細胞間隙、通気組織!)、オオムギ〈大麦)、イネ〈水稲)、ススキ〈薄)、クマザサ(熊笹)、クズ(葛)、イタドリ(虎杖)の根の構造、とは(2012.6.13) »

● 名字(苗字)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2012.5.27.県道沿いの山法師) | トップページ | 植物の根(皮層の細胞間隙、通気組織!)、オオムギ〈大麦)、イネ〈水稲)、ススキ〈薄)、クマザサ(熊笹)、クズ(葛)、イタドリ(虎杖)の根の構造、とは(2012.6.13) »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ