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2012年12月21日 (金)

石川(加賀、能登、金沢)県名の由来、県庁が一年足らず石川 郡の美川に移されたことによる、初代知事・県令は内田政風、とは(2012.11.8)

   明治政府は、1871年(明治4年)7月14日、中央集権化のため廃藩置県(はいはんちけん)の詔(みことのり)を発布しました。約300の藩を廃止したうえで、3府302県設置し、知事・県令を派遣しました。

 同年11月には3府72県にまで整理しました。加賀藩金沢藩から金沢県となっていましたが、1872年(明治5年)2月、県庁が金沢から石川郡の美川に移された時、石川県と改名されました。その後、1年足らずで、翌年1月県庁が金沢に復帰した後も、県名はそのまま継承され、現在に至っています。

 そこで、改めて、石川の地名と県名の由来初代知事・県令内田清風(うちだまさかぜ、1815~1893、もと薩摩藩士)などについて調べました。

○ 石川の地名の由来

 石川郡は、平安時代の初め、824年(弘仁14年)、加賀国が越前国より分立した年に、加賀郡の南半を割いて新たに設置されたものです。郡名石川は、加賀志徴(かがしちょう)の著者、森田柿園(もりたしえん、平次とも、1823~1908)によると、石川郡古保村(現、金沢市古府町)は、古くは石川村といい、石川郡の郡府であったという。 さらに、この地の付近を流れる犀川河床に礫が多いことから、川の名そのものが、昔、石川といい、それが村名になったものであろう、と推定しています。

 石川県史の執筆者、日置謙(へきけん、1873~1946)によると、石川郡は、その郡境にあった比礫河手取川)の河底の石礫磊々たる状況により名づけられたものという手取川説をとっています。河底の状況からすれば、手取川の方が石川の名にふさわしいのですが、金沢市古府町の古名、石川にもとづくとする加賀志徴の説も不合理には見えないという。

○ 石川(加賀)県名の由来 

 1867年(慶応3年)大政奉還、王政復古、1869年(明治2年)版籍奉還、明治維新により加賀藩金沢藩となり、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で金沢藩金沢県となりました。同年11月、大聖寺県合併しました。明治政府は、中央集権の体制を確立するため、全国3府302県の統廃合を10年以上繰り返し進めました。

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内田政風(1815~1893、石川県令(初代)、Google画像)

石川県庁知事室(1872年(明治5年)、美川町、石川郡、知事執務室の一部を復元・展示、google画像) 石川ルーツ交流館(ホームページ、美川、白山市、石川): http://www.city.hakusan.lg.jp/kyouiku/ishikawa-rutu/rootkuretakefile/ishikawaroots.jsp

(解説) 1872年(明治5年)5月2日、金沢は北に片寄りすぎということで、県庁金沢から手取川口の美川石川郡)に移し、県名石川県と改めました。その原因は、薩摩(鹿児島)藩士で、金沢県大参事、新制参事(のち初代の石川権令、県令県知事)となった内田政風(うちだまさかぜ、1815~1893)による金沢士族の中の不平不満を持つ人々への政治的圧力であったとも言われています。

 同年9月、能登七尾県合併、同11月、白山麓18ヵ村を編入、さらに、翌年、1873年(明治6年)1月、金沢県庁復帰させましたが、県名はそのまま継承され、現在に至っています。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、裳華房(1997); 美川町文化振興課編: 美川町のあゆみ、」石川ルーツ交流感、美川町教育委員会(2002); 成美堂出版編集部編: 図解 幕末・維新、成美堂出版(2009); 石川県の歴史散歩編集委員会(編集代表、木越隆三): 石川県の歴史散歩(1版)、山川出版社(2010).

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吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972)

(追加説明) ○ 古来、北陸(ほくりく)は、北陸地方およびそれ以北日本海沿岸も含め、コシの国と総称し、これに越、高志、古志の字をあてました。が、飛鳥時代、701年(大宝元年)の令制(大宝律令)、国号制定のとき、都(みやこ、京都)からの遠近によって、越前(えちぜん、福井、能登、加賀、のち石川)、越中(えっちゅう、富山)、越後(えちご、新潟)の3つに分かれました。

○ 金沢城はもと真宗(一向宗)の本拠地、金沢御坊の跡地といわれ、ことに兼六園から金沢城址にかけての小立野台地は砂金層を大量に含み、戦国時代には流浪の金屋(かなや)たちが砂金を採掘し、金沢御坊成立の起因となりました。  このとき、兼六園の中の湧水、金城霊沢沢水を利用して採金したので、「金堀沢」、「金洗沢」などと呼ばれ、金沢の名の起源となっています。

○ 石川県の呼称は、1872年(明治5年)2月ですが、前年7月の廃藩置県に続く11月の改置府県で、302県(旧藩名が多い!)が72県に改廃統合され、いわゆる明治維新を主導した薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)などに敵対する旧藩の名が県名から姿を消す一連の動きの中であったという。

 また、石川金沢)のように、県名と県庁の所在地名が異なる県として、岩手(盛岡)、宮城(仙台)、茨城(水戸)、栃木(宇都宮)、群馬(前橋)、山梨(甲府)、愛知(名古屋)、三重(津)、滋賀(大津)、兵庫(神戸)、島根(松江)、香川(高松)、愛媛(松山)、沖縄(那覇)、また北海道(札幌)などが現存しています。

○ 加賀(かが)の名の由来 加賀が越前よりわかれたのは平安時代の初期でした。

 それまでの越前国の加賀郡は、のちの金沢市、松任市、石川、河北2郡を包括するものでした。金沢市と河北郡に加賀爪という地名がありますが、加賀の名の発祥地であるかは明らかでありません。

 加賀(かが、石川)は、自然の力で「欠け」た土地の意味、波により多くの崖ができた、との説もあります。 が、諸国名義考、越登賀三州志、加賀志徴等に多くの諸説が紹介されていて、そのいずれも、加賀明るい、かがやくの意味にとっています。

○ 能登(のと)の名の由来 能登が越前よりわかれたのは奈良時代の初期で、のち、中期に一時越中に併合されたことがあります。

 その名義について諸説がありますが、国名風土記に、能門(のと)は、西は越前、東は越中の間で、はるか海中にさし出した国で、北国上下往来の船は、この国の泊まり宿とする故に、(よきかと)という意味で、能門国し、今は改めたのである、と記しています。

 森田柿園(もりたしえん、1823~1908、郷土史家)能登志徴も、能登は内外の船が多く出入りする海門であるによって国名が生じたとして能門説をとっています。

〇 小松の地名の由来は、古代朝鮮に関係する港、高麗津との説があります。小松市矢崎町には、オンドル跡(朝鮮半島の渡来人が建てたとみられる大壁建物や床下暖房設備、渡来人の集会所?)が発見され、古代朝鮮からの渡来人の里であったことを裏づけていま す。

 2005年(平成17年)8月22日に 石川県小松市矢崎町 の薬師遺跡で、L字形かまどを備えた飛鳥時代(7世紀半ば)の竪穴式住居跡(約36㎡)が出土した。L字形かまどは、オンドルの原初的な形とされています。

 

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