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2012年12月13日 (木)

江戸城(東京)の惣構え(そうがまえ、総構とも)にまつわる歴史実話、渦郭式、四神相応、東照大権現、とは(2009.9.23)

  江戸幕府(えどばくふ)は、実質的には、徳川家康、1543年(天文11年)~1616年(元和2年)が、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに勝利した時、形式的には、1603年(慶長8年)、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した時に始まり、1605年(慶長8年)、秀忠、1579年(天正7年)~1632年(寛永9年)に将軍職を譲り、その後、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定、家茂、慶喜の15代、265年間、もしくは268年間続き、1867年(慶長3年)の大政奉還(たいせいほうかん)をもって終わっています。

 ところで、江戸城(えどじょう)は、12世紀初頭に江戸重継(えどしげつぐ)が、15世紀には太田道灌(おおたどうかん、資長、すけなが)が築城しています。その後、上杉氏北条氏を経て、家康は、秀吉から240万石に加増されたが、関八州(かんはっしゅう、武蔵、相模など6ヶ国)に国替えを命じられ、1590年(天正18年)8月1日、はじめて江戸入りました。江戸幕府が、8月1日を八朔(はっさく)と呼び、お祝いの年中行事と定めたのはこの故事に因んだものです。江戸という地名は、江(海や湖が陸に入り込んだ部分)の門戸ということで、陸地の先端を意味しています。その半島の丘陵に、本丸、二の丸、三の丸が縦一列に並んで築城されていました。

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徳川家康(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

 徳川家康(1543~1616)は、江戸幕府の威光を示すために、太田道灌が築いた城の大規模な改修(埋め立て造成)を行いました。藤堂高虎(とうどうたかとら)、1556年(弘治2年)~1630年(寛永7年)の基本設計によれば、江戸城の城郭、内郭(うちくるわ、内曲輪)は、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、西の丸下、的場、吹上、北、帯と、九つの郭(くるわ、曲輪)ができ、一番下の帯郭から本丸に向かって渦を巻いた、右渦巻き(うずまき)、螺旋(らせん)状、「の」字型となっています。

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幕末の江戸城(東京、Google画像検索)

(解説) この渦郭式(かていしき)、螺旋式(らせんしき)の城郭は、金沢城にも見られ、西洋建築影響とも考えられています。 1599年(慶長4年)、高山右近(たかやまうこん、もと高槻城主、キリシタン大名、前田利家の客将、26年在)が、金沢城の築城に関与しています。この頃は、ヨーロッパ(ルネサンス都市、イタリア)では螺旋状のデザインが大流行していました。この手法を高山右近、1552年?(天文21年?)~1615年(慶弔20年)が金沢城に、また藤堂高虎江戸城応用した可能性があります。

 また、江戸城の外郭(そとくるわ、外曲輪)は、外掘と隅田川、江戸湾に囲まれた内側で、台地や川など自然の地形を生かして、右螺旋状掘を掘削、それに五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)を組み合わせる惣構え(そうがまえ、総構とも)としました。 

 家光、1604年(慶長9年)~1651年(慶安4年)の代にも拡張、修築をが進められ、1635年(寛永12年)、「の」の字の渦巻きは、隅田川から江戸湊に通じ、1636年(寛永13年)、惣構え(そうがまえ、総構とも)が完成、また、1640年(寛永17年)、五層の天守閣を持つ江戸城が竣工しました。

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幕末の江戸の町並み鳥瞰図(ちょうかんず)、勝海舟、東京、Google画像検索)

  家康は、京の都(平安京)と同じように、江戸四神相応(しじんそうおう、中国の陰陽学の原理)、すなわち神獣に守られた都市、東は青龍(せいりゅう)が宿る川(大川、隅田川)、南は朱雀(すざく)が宿る平野、海(江戸湊)、西は白虎(びゃっこ)が宿る大道(東海道)、北は玄武(げんぶ)が宿る山(麹町台地)を配置しました。天海(てんかい、天台宗、南光坊天海、智楽院)、1536年?(天文5年?)~1643年(寛永20年)は、家康の命により、西の比叡山に並ぶ東の比叡山、東叡山寛永寺(かんえいじ、天台宗、徳川家(4、5、8、10、11、13、15代)の菩提寺)を、江戸城の鬼門(東北方向)の上野に建立しました。

 家康は、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣、1615年(元和元年5月)の翌年、1616年(元和2年)4月17日、駿府(静岡)の城で死去(75才)、遺言は、遺体は駿府の久能山(くのうざん)に埋葬、葬礼は江戸の増上寺(ぞうじょうじ、浄土宗、徳川家(2、6、7、9、12、14代)の菩提寺、裏鬼門(南西方向)、)で行い、一周忌後は日光に小さな堂を建て、灌頂(かんじょう)、それを関東八州の鎮守(ちんじゅ)とし、京都には南禅寺(なんぜんじ、臨済宗)の金地院(こんちいん、塔頭)に小さな堂を建て、所司代(しょしだい、幕府の侍所の頭人の代官、朝廷、天皇、西国の監視、治安維持)はじめ武士達が参拝すべし、とのことでした。

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日光東照宮 陽明門、 徳川家康廟(墓所)、日光、栃木、Google画像検索)

 家康は、遺言通り、秀吉の如く、吉田神道(よしだしんとう)によって明神(みょうじん、神主仏従)として祀(まつ)られるはずでした。 ところが、天海が、家康が自分にだけ語った遺言があると言って、家康山王一実神道(さんのういちじつしんとう)によって権現(ごんげん、仏主神従)として祀られるべきで、子孫の断絶した豊臣氏(豊国大明神)の例にならったならば徳川氏は末永く繁栄出来ないと主張しました。将軍(2代)秀忠は、僧、崇伝(すうでん、臨済宗、金地院崇伝、以心崇伝)、1569年(永禄12年)~1633年(寛永10年)らの強い反対がありましたが、天海の意見に従い、家康東照大権現として祀ることにしました。家康の葬儀は、天海だけが家康から聞いたという遺言によって行われましたが、また、天海は、将軍(3代)家光に上申(じょうしん)して、家康の遺志をはるかに超えるような、壮大で華麗な日光東照宮を建立、徳川幕府の威光を天下に示し、幕藩体制を末永く安定させました。そして、東照宮の名称は、京の都の西の朝廷に対して、東の幕府の威光を示すものと言われています。 

 1868年(慶応4年)4月、江戸城は無血開城、9月8日に改元され明治元年となり、10月、明治天皇は東京に行幸、西の丸の仮御殿に入りました。江戸城は東京城と改称され、翌年の3月28日、東京遷都(とうきょうせんと、城中に太政官府設置、遷都の詔勅なし)に伴って皇城(こうじょう)、1889年(明治22年)、明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)、1945年(昭和20年)5月の太平洋戦争による空襲で明治宮殿は焼失、1948年(昭和23年)、皇居(こうきょ)と改称、1968年(昭和43年)11月、昭和宮殿が落成、今日に至っています。

(参考文献) 東京都歴史教育研究会編: 東京都の歴史散歩、下町、上、山川出版社(1988); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999);樋口清之: 完本、梅干しと日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社(2000); 竹内誠監修、市川寛明編: 地図、グラフ、図解でみる、一目でわかる、江戸時代、小学館(2004); 宮元健次: 名城の由来、そこで何が起きたのか、光文社新書(2006); 歴史探訪倶楽部編: 歴史地図本、知る 味わう 愉しむ、大江戸探訪、大和書房(2008); 梅原猛: 日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009).

(参考資料) 徳川家康(google画像);http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

江戸城(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E3%80%80&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

江戸城、城郭、惣構え(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E3%80%80%E5%9F%8E%E9%83%AD%E3%80%80%E6%83%A3%E6%A7%8B%E3%81%88&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi ;

幕末の江戸(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E6%B1%9F%E6%88%B8&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

日光東照宮(徳川家康(初代)、墓所、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%97%A5%E5%85%89%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

輪王寺(徳川家光(3代)、墓所、google画像): http://www.rinnoji.or.jp/keidai/taiyuin/oku.html

(追加説明) 徳川家康は、関ヶ原の戦い後、1603年(慶長8年)3月21日、京都の二条城にて、朝廷より征夷大将軍の宣下(せんげ)を受けました。

 徳川家康は、1617年(元和3年)、後水尾(ごみずのお)天皇から、東照大権現(とうしょうだいごんげん)の直諡号(ちょくしごう)を下賜(かし)されました。1616年(元和2年)に75才で死去した家康は、久能山(くのうざん)に埋葬され、翌年、日光に改葬(かいそう)されました。その後、社(やしろ)は、直諡号より、東照宮と呼ばれるようになりました。

 ところで、江戸城の天守閣(てんしゅかく)は、1657年(明暦3年)、江戸史上で最大の明暦の大火(本郷丸山町本妙寺で施餓鬼に焼いた振袖が大火の原因であったため、振袖火事とも呼ばれています)で焼失、また、金沢城の天守閣は、1602年(慶長7年)落雷で焼失、その後は、どちらの天守閣も再建されませんでした。

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