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2012年12月14日 (金)

碁の名手(本因坊秀策)の耳赤の一手にまつわる歴史対局、耳赤の碁、秀策流、御城碁19連勝、とは(2009.10.29)

  人は、本因坊道策(4世)を前聖本因坊秀策(14世跡目)を後聖と呼んでいます。江戸も終わり頃、1846年(弘化3年)7月21日、碁聖と呼ばれた本因坊秀策が、18才(4段)の時、準名人位、49才(8段)の幻庵(井上因碩)に先番で対戦、耳赤の一手、により局勢を優勢に導き、三目勝(実際は二目勝)を収めたのは、昔から有名な話です。

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本因坊秀策(本因坊秀策囲碁記念館、因島、尾道、広島): http://honinbo.shusaku.in/shusaku.html

 本因坊秀策(ほんいんぼうしゅうさく)、1829年(文政12年)~1862年(文久2年)は、、因島(いんのしま、備後、外浦、広島)生まれ、俗称は桑原(父の実家は安田)、幼名は虎次郎、父輪三と母カメの次男です。秀策は母から碁を習い、6才の頃、尾道港の豪商橋本吉兵衛に碁の手ほどきを受け上達、神童(安芸小僧)の誉れ高く、父の主君である三原城主、浅野甲斐守忠敬に召し出されました。そこで、安田榮斎と名を改め、宝泉寺の住職葆真、儒者坂井虎山から碁や漢学の教えを受けています。

 1836年(天保7年)7才の時、尾道港に立ち寄った伊藤松次郎(のち松和)との対局でその碁才を認められ、松和の勧めで、翌年浅野家の家臣寺西右膳に伴われて東上、9才の時、本因坊丈和(12世)の門下に入りました。ある日、車坂下の道場に来て、秀策の碁を見た名人丈和は、是れ正に百五十年来の碁豪にして、我門風、之より大に揚らん、と喜んで言ったそうです。150年来とは、本因坊道策以来のという意味です。榮斎少年は11才で初段に入品、12才の時、師匠の本因坊丈策(13世)と本因坊秀和(13世跡目、のち14世)から1字ずつ採った、秀策の名、及び2段格の免状を与えられています。

 秀策の碁は、丈和の予見通り、大きな進歩を見せ、1846年(弘化3年)18才で4段となり、師の許しを得て、同年5月始めて帰省し、故郷に錦を飾りました。秀策耳赤の一手を打った幻庵との対局は、同年7月、帰東の途次、浪華(天王寺屋、大阪)の辻氏宅で行われました。その後、秀策は幻庵に、この対局も含め二子1局、定先4局(うち一局は優勢のまま打ち掛け)の5局を連勝、名声が大いに揚がりました。

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耳赤の碁上譜 1~64、

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下譜 1(100)~27(127)、27(127)が耳赤の一手

耳赤の碁上譜 1~64、 下譜 1(100)~27(127)、27(127)が耳赤の一手)

(解説) 黒①(17の四)、③(16の十七)、⑤(3の十六)と3線の小目の位置を変え、⑨(16の五)と4線に高くコスムのが、秀策流の堅実な先番必勝布石と言われているものです。 秀策は、碁の打ち方は時代と共に変化するかも知れんが、小目からコスむ形だけは変わるまい、と語ったそうです。現代布石の根本理念と余り変わらない先進性のある布石戦法と言われています。

 右下隅は、白⑩(14の十六)の大斜ガケから、大斜百変と言われている大型の定石の力戦となり、秀策を一挙に潰そうとの幻庵の気迫が、一手一手に感じられます。右下スミ劫含みの型は、黒不利と断定され、後世この定石型を修正させる、大きな影響を与えました。

 この碁の形勢は混沌、激闘を重ねて中盤戦も後半に入った時、幻庵は中央黒の4子の石の連絡を断って白26(126)を打った時、秀策は下辺4子の黒石を逃げるともなく、また助けるともなく、天元の脇に打った黒27(127)のが、耳赤の一手、と言われているものです。この手を秀策が打った時、幻庵の耳が赤くなり、これはその手に動揺し、自信を失った証拠である、との黒の勝ちを予言した、観戦医師の逸話があります。

 この一手は、Aのキキを見て上辺のモヨウを盛り上げ、下辺の4子の黒石に声援を送っています。また、左辺への打ち込みを見た八方にらみの位置となっていて、これから黒が主導権を握ることになります。

 幻庵もまた同年の後、備後尾道(広島)に遊び、橋本氏の邸にて、人の問いに、秀策の碁品は秀逸なり。今年齢漸く18才にして、已に上手(7段)の地位に及べり。以て将来を卜知すべきなり、と答えています。秀策は、1848年(嘉永元年)、20才で6段に進んでいます。

 秀策は、1849年(嘉永2年)21才、6段の時、本因坊秀和(14世)の跡目となり、御城碁初出仕、1852年(嘉永5年)、上手(7段)に昇進13年間19連勝(黒番9勝、白番10勝)は前人未踏の快挙でした。1862年(文久2年)、江戸でコレラが大流行、本因坊家でも多くの患者が出たので、秀策は、秀和が止めるのも聴かず、終始看病していたが、自らも感染、医薬効なく、34才の若さで病死したと伝えられています。秀策は、囲碁に強いばかりでなく、両親に孝養をを尽くし、人情に篤い人柄は、誰からも愛されたと言われています。 

 この年、1862年(文久2年)より、200年の歴史ある御城碁も廃止となりました、時勢は鎖国から開国へ、また、攘夷から倒幕へと激動の時代が始まり、1867年(慶応3年)10月14日、徳川慶喜は大政奉還を奏上、同年、12月9日、京都御所内において、王政復古の大号令(小御所会議)が発せられ、江戸幕府は滅亡、1868年(明治元年治と改元(一世一元の制)、明治維新となっています。

 1871年(明治4年)、家元家禄は打ち切りとなり、碁界は厳しい現実に直面します。その後、1879年(明治12年)4月、本因坊秀甫(18世)中心に方円社が創設され、囲棋新報(毎月の手合い5局選んで秀甫評を掲載)を刊行、また、1924年(大正13年)、碁界合同の日本棋院が創立され、現在に至っています。

(参考文献) 青木新平: 碁石の微笑、六月社(1956); 安永一: 囲碁名勝負物語、時事通信社(1972); 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955);福井正明: 囲碁古典名局選集 全三巻、秀麗秀策、日本棋院(1992); 水口藤雄: 囲碁の文化誌、起源伝説からヒカルの碁まで、日本棋院、第2刷(2002). 

(参考資料) 本因坊秀策囲碁記念館(因島、広島): http://honinbo.shusaku.in/

(追加説明) ○ 歴代本因坊は、本因坊算砂(1世)、本因坊算悦(2世)、本因坊道悦(3世)、本因坊道策(4世)、本因坊道的(4世跡目)、本因坊策元(4世跡目)、本因坊道知(5世)、本因坊知伯(6世)、本因坊秀伯(7世)、本因坊伯元(8世)、本因坊察元(9世)、本因坊烈元(10世)、本因坊元丈(11世)、本因坊丈和(12世)、本因坊丈策(13世)、本因坊秀和(14世)、本因坊秀策(14世跡目)、

 江戸幕府滅亡により、秀悦(15世)の時から家元家禄が打ち切りとなっています。

本因坊秀悦(15世)、本因坊秀元(16世)、本因坊秀栄(17世)、本因坊秀甫(18世)、本因坊秀栄(19世)、本因坊秀元(20世)、本因坊秀哉(21世)

(参考資料) 日本棋院(市ヶ谷、千代田区、東京): http://www.nihonkiin.or.jp/

(追加説明) ○ 現在の日本のルール、コミ碁については、互先(たがいせん)の場合、先手(黒)が後手(白)に対して6目半のハンデ(コミ出し)を負います。江戸時代、基本的にコミというものはありませんでした。

 その歴史は、黒番の勝率が高いという理由で徐々に改められました。1939年(昭和14年)、本因坊戦で初めて4目半のコミを採用 、1974年(昭和49年) まだ黒が有利なため、コミを5目半に改め、さらに、2002年(平成14年)、まだ 黒が有利ということで、また国際棋戦との整合性のため、タイトル戦ごとに順次コミを6目半に改め始めました 。

 ということで、正式の棋戦では、2004年(平成16年)から、コミは完全に6目半に改定されています。

 史上初のコミ碁は、1837年(天保8年)12月、土屋秀和、竹川弥三郎(先番5目コミ)対太田雄蔵、服部正徹局(打ち掛け)の連碁と言われています。(日本棋院編: 日本棋院創立80周年記念、囲碁雑学手帳、月刊碁ワールド1月号付録(2005)より) 

 

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