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2012年12月15日 (土)

撫養塩田(鳴門、徳島)の歴史技術、入浜式製塩と塩田争議、流下式製塩、イオン交換膜製塩、安土、桃山時代、1596年(慶長元年)の大地震による撫養沿岸の隆起、鳴門渦潮、とは(2010.3.4)

  江戸時代、文化年間(1804~1817年)、四国では、瀬戸内海沿岸の遠浅の砂浜に、阿波(徳島)から伊予(愛媛)にかけ、主要な入浜塩田が広がっていました。特に、讃岐(香川)の坂出塩田、阿波の撫養塩田、伊予の波止浜、多喜浜の塩田が有名でした。

 十州塩田(じつしゅうえんでん)と呼ばれていた播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、阿波、讃岐、伊予では、全国の製塩量の90%(400石)を生産していました。

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撫養塩田(板野郡、のち鳴門市)周辺の地図、(右上の島 高島、三ッ石など(旧鳴門)、右下の対岸 黒崎、桑島、斎田、立岩など(旧撫養)、google画像)

 阿波(徳島)の主な塩田(約530町歩)は、板野郡(のち鳴門市)の撫養塩田、名東郡(のち徳島市)の南斎田塩田、那珂郡(のち阿南市)の答島塩田でした。なかでも12ヵ村(大桑島、小桑島、高島、三ッ石、弁財天、北浜、立岩、南浜、斎田、黒崎、明神、小島田、のち鳴門市)は、塩方十二ヵ村、斎田浜(撫養塩田)と呼ばれ、阿波(徳島)の塩業の中核地となり、その産塩は斎田塩(さいたじお)として全国的に名が知られていました。大半の塩は、撫養(岡崎)港から塩廻船問屋を通じ、大阪と江戸を結ぶ南海路(大阪~太平洋岸~江戸)の樽廻船、菱垣廻船の交易により、大阪、江戸市場に積み出されていましたが、7割以上は江戸積みでした。

 撫養(むや)は、古くから四国の門戸として栄えた港町で、粟(阿波)の門(鳴門海峡)、牟夜(むや)とも呼ばれていました。撫養(岡崎)港は、阿波の玄関口でしたが、明治の中頃、海上交通が帆船から汽船の時代を迎えると、大型船には不便であり、小松島に新しく港湾が造られ、撫養の港としての活力は衰退しました。

 鳴門市は、1947年(昭和22年)3月、板野郡から分かれ、撫養町を中心に、里浦町、鳴門町(高島、三ツ石、土佐泊の3ヵ村が合併)、瀬戸町の4ヵ町が合併し、はじめは鳴南市、しかし、市名が住民に不評のため、3ヶ月後に鳴門市に改称して発足しました。その後、1955年(昭和30年)、大津村、翌年に北灘村、さらに1967年(42年)大麻町を合併して県下第2の都市となりました。

 海水からの製塩には、塩田を使って鹹水(かんすい、濃厚な塩水)を得る採鹹(さいかん、鹹水採取)、火力により鹹水を煮つめて塩を得る煎熬(せんごう、蒸発濃縮)の二つの過程があります。 鹹水は、古くは揚浜式(あげはましき)塩田、入浜式(いりはましき)塩田、また、現代(戦後)になって、流下式塩田、イオン交換膜による電解濃縮などにより得ました。煎熬は、古くは製塩土器、平釜、のち真空式や加圧式の蒸発缶により水分を蒸発させ、食塩の結晶を得ました。

 揚浜式塩田は、海水面より少し高い所を粘土で固め、その上に砂をまき、それに海水をかけ、その砂を集めます。それにまた海水をかけ、得られた濃い鹹水を煮つめる方法です。

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入浜塩田の風景、江戸時代初期~1955年(昭和30年)、(高島、三ツ石鳴門、阿波、徳島、google画像)

(解説) 入浜式塩田は、瀬戸内海沿岸に多く、海水が入江に流れて砂を運んで来ますが、潮が引くと、砂州の内側に干潟が出来ます。その干潟に日が当たると、砂についている海水の水分が蒸発し、濃い塩分が砂に残ります。それを掻き集めて、さらに海水をかけ、得られた濃い鹹水を煮つめる方法です。

 阿波(撫養)の本格的な入浜式製塩は、藩政期に始まっています。1597年(慶長2年)、淡路島の篠原孫左右衛門、1556年(弘治2年)~1625年(寛永2年)が撫養の竹島村(のち高島村)に塩田を築造し、民間主導によって開始されました。徳島藩も殖産政策の一環として製塩業を重視し、1599年(慶長4年)3月、播州赤穂の入浜式塩田の技術者、馬居七郎兵衛、?~1625年(寛永2年)、大谷五郎右衛門、?~1670年(寛文10年)を招き、夷山(えびすやま、蛭子山とも、大桑島、撫養)の麓に塩田を築造させました。ということで、ここ(蛭子山公園)は撫養塩田の発祥地と伝えられています。

 1608年(慶長13年)には、斎田、桑島、南浜、北浜、竹島(のち高島)、三ツ石、安芸神、立岩、弁財天、小島田の塩浜10ヵ村が成立し、1644年(正保元年)、桑島を大桑島と小桑島に分け、斎田から黒崎が分かれ、塩浜12ヵ村となりました。この斎田塩(さいたじお)は、江戸で赤穂塩(あかほじお)と並ぶ評価を受け、阿波藍と共に徳島藩の重要な特産品となりました。

 幕末から明治にかけて、塩は慢性的な生産過剰となりました。江戸時代から生産過剰による値崩れを防ぐため、瀬戸内沿岸十州の塩業者が十州塩田同盟を結び、休浜法による生産制限が行われていましたが、1886年(明治19年)に組織された十州塩田組合は、不同盟者が続出するなど結束が弱まりました。

 1905年(明治38年)、塩は専売制施行で政府の統制下に置かれ、また、製塩地も整理されましたが、大正期には輸入塩(日本の植民地、租借地の台湾、中国遼東半島の関東州など)との競争が起こり、高価格と生産過剰が相まって、塩業不況が続き、生産削減が相次ぎ、撫養でも賃下げ反対の争議が起きました。

1912年(明治45年)に鳴門塩田労働組合、1921年(大正10年)には、撫養塩田労働連合会が結成されました。1926年(大正15年)10月、政府が要請した、生産一割削減を受け入れた経営者側に撫養塩田労働組合が反発、激しい塩田争議に突入し、1927年(昭和2年)4月には、同労働組合高島支部が賃上げ闘争に立ち上がり、105日にわたる同盟罷業(ストライキ)を行いましたが、組合側の敗北に近い調停で終息しました。大正期、徳島県の塩田面積は460町歩前後で、全国の総面積の約7.9%、全国生産高の約7~9%を占めていました。

 1952年(昭和27年)から約5年の間に、採鹹の方法は、入浜式塩田から流下式塩田という能率のよい方法に変わり、また、煎熬法も平釜から真空式蒸発缶に切り替わりましたが、1967年(昭和42年)にイオン交換膜製塩法が導入されると、枝条架の流下式製塩も姿を消しました。現在では、1966年(昭和41年)に設立された、鳴門塩業株式会社(黒崎、撫養、鳴門)でイオン交換膜法による製塩が行われています。

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流下式塩田の風景、1950年(昭和20年)代後半~1971年(昭和46年)、(鳴門、徳島、google画像)

(解説) 流下式塩田では、まず粘土や塩化ビニルなどで作ったゆるやかな傾斜盤の表面に小砂利を敷きつめ、海水をこの上に数回流して太陽熱によって蒸発濃縮させます。次に枝条架という数メートルのやぐらに、1メートル間隔で、孟宗竹の枝を組んで作られた枝条(しじょう)を数段つるしたものを、風向きに直角に立て、海水を雨のように落下させ、風を利用して濃縮し、これを繰り返して塩分15~20%の濃縮塩水を得て製塩工場に送りました。

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イオン交換膜製塩法、1972年(昭和47年)以降、(鳴門、徳島、google画像)

(解説) イオン交換膜製塩法は、電解槽(でんかいそう、電気分解を行う装置)の両電極間に多数のイオン交換膜を並べ、海水の電気透析(イオン交換膜と電気を利用する膜分離)により濃い鹹水(3.5%の塩濃度の海水を18%濃度まで濃縮)とし、これの蒸発により食塩を得る方法です。わが国の食塩は、ほとんどこの方法により生産されています。陽極側から陰イオン交換膜、陽イオン交換膜の順で数百室に仕切り、一室おきに原料の鹹水を流して電解すると、中間の各室から18%NaCl(塩化ナトリウム、食塩)の濃い鹹水が得られます。これを多重効用蒸発缶(蒸発濃縮の効率を高める多段化蒸発缶)に移し、食塩を結晶化させました。 

 1972年(昭和47年)には、鳴門市内の塩田は全て廃止され、350年にわたる塩田による製塩の歴史の幕を閉じました。 その後、廃止塩田の転用や、転業の問題が大きな課題となりました。現在では、高島の塩田跡は、鳴門教育大学のキャンパス(1981年、昭和56年10月、開校)に生まれ変わっています。

 私の母(高子、小学校教諭)は、高島(撫養の対岸、のち鳴門)の製塩業者(中島家)の生まれですが、本浄家の養女として育てられました。毎年、お盆には里帰りしていました。私が小学校の頃、お盆に、母の実家に連れていって貰ったことがあります。その頃は、流下式塩田となっていて、竹の細枝で作った藁葺き状の屋根から海水がゆっくりと流れ落ちていたのを覚えています。太陽熱によって水分を蒸発させていたものと思います。

 また、高島は一つの島であり、昔は岡崎桟橋から高島渡舟場まで渡し船が出ていました。そこの小鳴門海峡には、小鳴門橋(441.4m、1961年、昭和36年7月、開通) 、それと平行して、徳島自動車の撫養橋(536m、1987年、昭和62年5月、暫定2車線、のち上り線、1998年4月、平成10年、下り線、開通)が架かっています。

 そこを通り抜けると鳴門海峡があり、淡路島の間には大鳴門橋(1629m、1985年、昭和60年、6月8日、開通)が架かり、さらに、淡路島と明石(神戸)の間には明石海峡があり、明石海峡大橋(3911m、1998年、平成10年、4月5日、開通)が架かり、鳴門から明石まで、神戸淡路鳴門自動車道が結ばれ、夢の架け橋となり、21世紀に向けて、撫養(鳴門)の新しい発展が始まっています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); 大木道則、大沢利昭、田中元治、千原秀昭編: 化学事典、東京化学同人(1996); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); とくしま地域政策研究所編: 吉野川事典、農文協(1999); 宮本常一: 塩の道、講談社学術文庫(2007). 

(参考資料) 鳴門塩業株式会社(黒崎、撫養、鳴門):http://www.naruen.co.jp/gaiyou01.htm

撫養塩田入浜式、流下式、鳴門、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%92%AB%E9%A4%8A%E5%A1%A9%E7%94%B0%E3%80%80%E5%85%A5%E6%B5%9C%E5%BC%8F%E3%80%80%E6%B5%81%E4%B8%8B%E5%BC%8F&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

高島塩田地帯の社会調査(富野敬邦、阿波学会研究紀要): http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/04/0406.htm

鳴門の風景(なつかしの写真館、鳴門市): http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/natsukashi/hukei.html

(追加説明) ○ 藻塩(もしお)は、海草(アマモ類、藻塩草)に潮水を注ぎかけて塩分を多く含ませ、これを薪(藻塩木)の火(藻塩火)で焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮つめて得られた塩です。古代、歌などに多く詠まれ、また、随筆にも引用されています。

○ 海水からの製塩は、日射が強く、降雨の少ない地中海、紅海、中国、西アジア、東南アジア、北アメリカ、中米、アフリカなどの沿岸で、太陽熱と風を利用し、塩田で順次海水を濃縮し、塩の結晶を得ていました。これは天日製塩と呼ばれていました。

 天然鹹水は、湖沼や地下の塩水で、中国では地下のものを塩井という井戸から汲み上げて利用していました。

 岩塩は、鉱物(塩化ナトリウム、不純物として、硫酸カルシウム、塩化カルシウム、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウムなど少量混在)として、米国、ドイツ、ソ連に広く産出します。鉱石のように採掘し、粉砕とふるい分けをしてそのまま利用するか、あるいは水を流し込んで濃塩水をつくったのち、これを煮つめて製塩しました。

○ 1585年(天正13年)、蜂須賀家政(阿波、徳島藩祖)が播州(兵庫)竜野(竜野市)から阿波(徳島県)に入国しました。そして、播州、淡路から製塩技術者を招き、1596年(慶長元年)の大地震によって隆起した撫養沿岸の干拓地の踏査、,開発に当たらせました

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蜂須賀家政(1558~1639、徳島藩祖、阿波、徳島)

 篠原孫左衛門もその一人で、1597年(慶長2年)、竹島村(のち高島村)の干潟を調査し、翌年塩浜の築造に着手しました。1607年(慶長12年)、塩田の検地が行われ、高島塩浜8町6反24歩(約8.5ha)、年貢として銀784匁1分9厘が定められ、孫左衛門は竹島村の庄屋に任命されました。以降、篠原家は代々庄屋を世襲し、製塩業に従事しました。(鳴門市史、上、岩村武勇、高島塩田の開拓と篠原家、1983、より)。

 安土、桃山時代1596年(慶長元年)の大地震は、1596年(慶長元年)7月13日(新暦9月5日)、近畿地方(山城、大和、摂津、河内、和泉)を襲ったM8の大地震です。京都と伏見の間は特に被害が大きく、京都の伏見城天守閣、石垣、方広寺の大仏も崩れました。この時、畿内に謎の降灰、降毛があり、伏見城の圧死者600人、豊臣秀吉も命からがら外に避難したと言う。 

 この2ヶ月後の9月4日、九州、大分の別府湾において、M7.0の慶長豊後大地震が発生し、大津波に襲われ、また瓜生島が海没し、死者700余名を出しました。

 この二つの地震の間に、四国の中央構造線断層帯も活動した可能性が高いと考えられています。この場合、九州北部から近畿西部にかけて、大きな断層がドミノ倒しのように、次々に活動したことになります。しかし、四国の中央構造線断層帯が、この時に活動したことを実証する記録は得られていないようです。

○ 大鳴門橋(おおなるときょう)と渦潮(うずしお) 瀬戸内海と紀伊水道の潮の干満により、幅が1.3kmと狭い鳴門海峡に1.5mもの落差ができ、ときに時速20kmとすさまじい勢いで潮が流れることにより、無数の渦が発生します。春と秋の大潮の時には、直径20m以上の大きな渦が現れ、その迫力は、観潮線により間近に味わうことができます。大鳴門橋は全長1829mの吊り橋で、渦潮をまたぐように架かっています。

 渦潮は現れたと思えば、すぐ消え、一つの渦の寿命はせいぜい数十秒、速さの違う潮流の波と波がぶつかり合って、ザバザバと音を立てる「鳴る瀬戸」という。そして、遊覧船の周囲は一面に白く泡立ちます。 渦の道(大鳴門橋遊歩道、450m、展望ガラス床から45m下の渦潮、エディ、徳島県): http://www.uzunomichi.jp/

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