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2012年12月15日 (土)

金沢城の大火事にまつわる歴史実話、火元(落雷、フェーン現象、火の不始末)、火消し(加賀鳶、破壊消防法)、とは(2010.3.24)

  江戸時代、藩政時代の金沢は火災が多く、金沢城も数多くの火事に見舞われ、1602年(慶長7年)から1859年(安政6年)まで約255年間に、1602年(慶長7年)、1631年(寛永8年)、1759年(宝暦8年)、1808年(文化5年)の四大火事を含む56件の火災が記録されています。これらは、冬における落雷、春先から初夏にかけてのフェーン現象、火の不始末などに起因しています。

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前田利長(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7

 1602年(慶長7年)10月、加賀藩主(2代)前田利長(まえだとしなが)、1562年(永禄5年)~1614年(慶長19年)の時、金沢城の天守閣に落雷があり炎上、本丸御殿も焼失し、以降は三階の櫓だけ建てられました。これは、一発雷(雪おこし、ブリ起こし)と呼ばれる冬の北陸の雷の仕業でした。その後の歴代藩主は平屋の二の丸御殿で過ごしています。

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金沢城天守の落雷焼失(徳川2代将軍、徳川秀忠の書状、徳川美術館蔵、2009年(平成21年)7月15日(水)、朝日新聞、朝刊)

(解説) 金沢城の落雷焼失は、100年以上後の伝承資料などで知られていましたが、最近、天守閣焼失の直後に記述された書状が発見され、確認されました。それは、1602年(慶長7年)11月15日、越前国北之庄(福井藩、67万石)初代藩主、結城秀康(ゆうきひでやす、家康の次男)、1574年(天正2年)~1607年(慶長12年)に宛てた、徳川2代将軍、徳川秀忠(家康の3男)、1579年(天正4年)~1632年(寛永9年)の書状です。越前の結城秀康が、加賀の前田藩の災難を、江戸の徳川秀忠にいち早く知らせ、安心させたことに対する礼状のようです。

 金沢に雷火があったことについて、早々にご報告いただき、かつ飛脚でもって(書状を)届けていただき、念のいったことで、大変うれしく思います。なお、(詳細については)大久保相模を通じて(ご報告して)下さい。11月15日 秀忠(花押) 結城秀康殿(徳川美術館による意訳より)

 1610年(慶長15年)、加賀藩主(3代)前田年常(まえだとしつね)、1594年(文禄2年)~1658年(万治元年)が名古屋城の普請(ふしん)手伝いを命ぜられた時、留守を任せた篠原一孝(しのはらかつたか)、1561年(永禄4年)~1616年(元和2年)は外堀を掘り、外総構(そうがまえ)を築造しました。

 1631年(寛永8年)4月14日、加賀藩主(3代)前田年常(まえだとしつね)の時、金沢城下の法船寺(ほうせんじ)から出火した火事は、またたく間に本丸辰巳櫓に飛び火(フェーン現象)、本丸はじめ城の中心部の大半が類焼しました。加賀藩は幕府の許可を得て、二の丸を拡充し、御殿など造営しましたが、本丸御殿は再建しませんでした。

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フェーン現象の模式図(3月~4月頃、北陸地域、google画像)

(解説) 北陸地域のフェーン現象は、3月から4月の頃、太平洋側の湿った空気が山岳(白山、立山など)にぶち当たり、雨を降らした後、山越えして下降し、日本海側に乾燥した熱風をもたらし、火災が起こりやすい状態になっています。

 寛永の大火で、防火の必要が高まり、加賀藩では、1632年(寛永9年)、板屋兵四郎(いたやへいしろう)、? ~1653年(承応2年)に犀川(さいがわ)から水を引く辰巳用水(たつみようすい)を造らせ、城内の掘も水堀となり、防火機能が高まり、その余水は城下町の用水として利用され、城下町の防火にも役立ちました。

 1759年(宝暦8年)4月10日、午後4時頃、加賀藩主(10代)前田重教(まえだしげみち)、1741年(寛保元年)~1786年(天明6年)の時、金沢泉寺町(のち寺町)からの火災は、折からの強い南風に煽(あお)られ(フェーン現象)、犀川を越えて金沢城の大半を焼き尽くす大火となりました。被災は1万戸を越え、米38万7千石を失いました。この火災は、城下からの出火により城内が焼失したので、御類焼と呼ばれました。

 加賀藩は、徳川幕府、9代将軍、徳川家重(とくがわいえしげ)、1711年(正徳元年)~1761年(宝暦11年)より金5万両を借り入れて一時の急をしのぎましたが、その復興は困難を極め、財政責任者の前田直躬(まえだなおみ)、1714年(正徳4年)~1774年(安永3年)も収集の見込みはないと辞職、年寄3人がその後を受け、家臣には借知の継続、領民には冥加金(みょうがきん、商工業者対象の税)を賦課しました。

 この劫火(ごうか)と呼ばれた大火は、さきに加賀騒動で処刑された大槻伝蔵(おおつきでんぞう)、1703年(元禄16年)~1748年(寛延元年)一味と見なされた、加賀藩主(6代)前田吉徳(まえだよしのり)、1690年(元禄3年)~1745年(延享2年)の3男、母は吉徳の側室真如院(しんよいん)、前田利和(まえだ としかず)、通称勢之佐(せいのすけ)、1734年(享保19年)~1759年(宝暦9年)の幽霊の仕業であるというデマまで飛び出しました。

 1808年(文化5年)1月15日、夕暮れ、加賀藩主(12代)前田斉広(まえだなりひろ)の時、金沢城は、二の丸御殿内で出火(火の不始末)、またたく間に御殿を焼失しましたが、翌年再建されています。加賀藩の財政困難な時期であったが、藩主は一切を領内の町在からの拠金に求め、冥加金という名目で、5000貫目を集めさせました。この再建では、宝暦以来欠けていた諸建物はほとんど復旧されました。

 このように、藩政時代の金沢は数多くの火災に見舞われ、1631年(寛永8年)の金沢城下、法船寺焼け以降、1635年(寛永12年)から1859年(安政6年)まで242年の間に、52回の大火の記録があります。平均43年毎に100軒以上の火事に見舞われており、1690年(元禄3年)には、3月16日、17日、24日と連続3日、各々900軒、6639軒、311軒と大量に焼けています。特に、3~4月に大火が多かったのは、北陸地方特有のフェーン現象に起因するものでした。

 さらに、コバ屋根の小さな家屋が、城下町特有の歪曲した小路や袋小路にぎっしり建て詰まっていたので、ちょっとしたボヤでも大事に至りました。

 というわけで、加賀藩主(3代)前田年常(まえだとしつね)が設けた辰巳用水も、加賀藩主(5代)前田綱紀(まえだつなのり)が整備した加賀鳶(かがとび)も、充分な効力は発揮できませんでした。(石川県史、石川県立図書館より) 

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加賀鳶(かがとび、 加賀鳶繰出之図(消防防災博物館、仮想)、  加賀鳶梯子登り(金沢市ホームページ、いいねっと金沢、金沢)、加賀、金沢、石川、google画像)

 江戸時代の消防法の基本は、破壊消防法であり、加賀鳶(かがとび)においても、鳶口(とびぐち)は火を消す道具ではなく、家を壊す道具でした。カケヤという大型の鎚(つち)も同じものでした。燃えだしたら仕方がないから、周りの家を壊して防火帯をつくるための道具でした。加賀鳶は、江戸時代、加賀藩が本郷(江戸)の藩邸に抱えていた火消し人夫でしたが、特権意識が強く、一般町の火消しとの対立が絶えなかったと言う。火事と喧嘩(けんか)は江戸の華(はな)と言われるほど、江戸では火災が頻繁に起こっていました。

 相撲取りが、やはり昔の火消しでした。力が強いから、柱に縄をかけて一気に引っ張って家をつぶす役割を果たしました。講談で有名な、め組の喧嘩(けんか)などのように、昔の物語に相撲取りと火消しの喧嘩がよく描かれているが、それは両者の間に縄張り争いのような利害の対立があったことを示唆しています。(樋口清之、梅干しと日本刀、祥伝社黄金文庫より)

 明治時代、1872年(明治5年)、金沢城に陸軍兵舎が設置されましたが、1881年(明治14年)1月、金沢城内に駐屯していた陸軍歩兵第七連隊(のち第六旅団司令部、第九師団司令部)の失火で(火の不始末)、石川門と三十間長屋を残して城内の建物全てが焼失しました。その時、屋根の鉛瓦が溶けて屋根から滝のように流れ落ち、建物内の品物は取り出すことが出来なかったと言われています。

 昭和時代、1945年(昭和20年)8月、第二次世界大戦の敗戦後、旧陸軍が解体され、金沢城内の師団、旅団、連隊の軍用施設と城地は進駐軍(石川軍政体)の管轄を経て、1949年(昭和24年)以来、新制金沢大学(法文、教育、理学、教養)のキャンパスとして利用されました。その後、金沢大学の城内キャンパスは、学部の改組(法文は法学、文学、経済へ)、大学院(修士、博士)の整備により手狭となり、1996年(平成8年)、金沢市郊外、約4kmほど山手の角間の里山キャンパスに移転しました。

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金沢城公園の全体図(石川県ホームページ、いしかわ、石川、google画像)

 その跡地は県有地となり、1999年(平成11年)、金沢城の二の丸菱櫓、五十間長屋、橋爪門、橋爪門続櫓などが江戸後期の姿での復元事業が始められ、2001年(平成13年)に完成して金沢城公園となり、さらに整備が進み、一般県民に開放され現在に至っています。

(参考文献) 金沢大学金沢城学術調査委員会内「金沢城」編集委員編: 金沢城ーその自然と歴史ー、山越(1967); 森栄松: 金沢城、北国新聞社(1970); 若林喜三郎監修: 石川県の歴史、北国出版社(1970); 若林喜三郎編: 加賀能登の歴史、講談社(1978); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); .樋口清之: 完本、梅干しと日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社黄金文庫(2005); 金沢城研究調査室編: よみがえる金沢城、北興新聞社(2006).

(参考資料) 金沢城の変貌(金沢城再現、金沢城四大火災含む、石川新情報書府): http://shofu.pref.ishikawa.jp/inpaku/castle/history/henbou_07.htm

金沢城(日本の城、金沢、石川): http://www.uraken.net/museum/castle/shiro21.html

フェーン現象(google画像):http://images.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%8F%BE%E8%B1%A1&lr=&aql=&oq=&gs_rfai=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;;

加賀鳶(かがとび、google画像、金沢、石川): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8A%A0%E8%B3%80%E9%B3%B6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

消防防災博物館(加賀鳶含む、消防の歴史、仮想、google画像):http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R101&ac2=R10104&ac3=1979&Page=hpd_view

金沢城公園(金沢城址、google画像、金沢、石川): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E%E5%85%AC%E5%9C%92&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;

(追加説明) ○ フェーン現象は、フェーン(ドイツ、:Föhn)というアルプス山中で吹く局地風から名付けられた現象です。岡田武松(おかだたてまつ)、1874年(明治7年)~1956年(昭和31年)は、これを風炎と表しました。

○ 劫火(ごうか)は、仏教用語で、こうかとも読み、人の住む世界を焼き尽くして灰燼(かいじん)とする大火で、壊劫(えこう、四劫の第三)の時に起きると言う。四劫とは、世界の成立から破滅に至る四大期です。世界が成立する期間を成劫(じょうこう)、成立した世界が持続する期間を住劫(じゅうこう)、世界の壊滅するに至る期間を壊劫(えこう)、次の世界が成立するまでの何もない期間を空劫(くうこう)と言う。(新村出編、広辞苑、岩波書店より)

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