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2012年12月13日 (木)

加賀100万石藩祖前田利家が眠る野田山墓地、菩提寺の宝円寺、神として祀る尾山神社、とは(2009.7.29)

  古代、加賀と能登は、越前の国の北方地域の扱いでしたが、 奈良時代の中頃、757年(天平宝字元年)に能登の国が分離し、平安時代の初め、823年(弘仁14年)に、律令国家の最後の国として、加賀ができました。

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前田利家(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6

 加賀100万石初代藩主、前田利家(まえだとしいえ)、1537年(天文6年)~1599年(慶長4年)は、尾張荒子城主の父前田利昌(利春)、母竹野氏(長齢院)の四男として生まれました。天下統一をめざす織田信長に15才の時仕え、長槍(ながやり)の名手で、生涯40数回の戦いに参加、数々の武勲をあげました。

  織田信長(49才)が、1582年(天正10年)2月、本能寺の変で倒れた後、1583年(天正11年)4月、羽柴(豊臣)秀吉(46才)と越前の柴田勝家(63才)との賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いに、前田利家(46才)は、最終的には秀吉に仕える形(戦場で中立、のち勝家が与力の関係の解消を告げて北庄に退却、秀吉には和議の誘いに応じて降伏、北庄攻めの先鋒となる)で参加しました。1583年(天正11年)4月24日夕刻、勝家とお市の方(37才)は、北庄城の天守の中で自刃しました。織田信長、柴田勝家に仕えていた佐久間盛政(30才)は、1580年(天正8年)4月、金沢御堂(加賀一向宗の100年にわたる本拠地、大阪本願寺の別院、金沢坊舎)を攻略し、そこを尾山城にしていましたが、賤ヶ岳の戦いで撤退中、越前で捕らわれ、命を落としました。 

 前田利家は、1583年(天正11年)4月27日(新暦6月14日)、佐久間盛政の家臣から尾山城(のち金沢城)を接収(秀吉は28日金沢城に入城)、秀吉の勧めで居城を七尾から金沢に移し、加賀・能登・越中3ヶ国を治める100万石の大名への道を歩み始めました。金沢市では、その入城を祝う金沢百万石まつりが、1952年(昭和27年)以来、毎年6月に盛大に行われています。

 ところで、前田利家ふるさと、尾張荒子(あらこ)城主については、前田利久(嫡男、長兄)が1560年(永禄3年)、父の跡を継ぎましたが、1589年(永禄12年)、織田信長の命によって利家(弟)に家督を譲ったそうです。利家は、1583年(天正11年)に金沢城に入城後、兄の恩を思い、利久を金沢に迎えました。1587年(天正15年)に兄が亡くなると、金沢城の南約4㎞に位置する標高175mの野田山墓所とし、その最も高いところに埋葬しました。また、自分が亡くなると、兄の墓のすぐ下の位置に埋葬するよう遺言しました。

 前田利家は、1599年(慶長4年)閏(うるう)3月3日(63才)、豊臣秀吉の死から8ヶ月足らずで、大阪で病没しましたが、遺骸は長持ちに入れられて、3月4日に大阪を出て、約1ヶ月後の4月6日に金沢に着きました。4月8日には、宝円寺(ほうえんじ曹洞宗、金沢城石川門真向の地)で葬儀が盛大に執り行われました。導師は宝円寺2代和尚、象山除芸(しょうざんじょうん)が勤めました。

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野田山墓碑マップ(野田山、金沢)

  前田利家遺骸は、遺言通り、野田山の兄の利久のすぐ下の地に葬られ、その右隣に利家夫人(おまつ、芳春院)の墓、その右隣に加賀2代藩主前田利長の墓、その一段上、利久の右隣に利長夫人(織田信長の娘、永姫、玉泉院)の墓、また、利家の墓の一段下の左には、加賀3代藩主前田利常夫人(2代将軍徳川秀忠の娘、玉姫、天徳院)の墓、さらに一段下の左端に加賀3代藩主前田利常の墓が配置されていて、死去後も生前の身分に応じた丁重な扱いの配慮が感じられます。また、野田山墓地の入口近くに、1600年(慶長5年)加賀初代藩主前田利家の墓守寺(菩提寺)として、桃雲寺(野田宝円寺)が建立されています。

 藩主前田家墓地(6万6000平方メートル)の下側には、家臣、町人、百姓、また、明治以降は一般市民の墓地ともなり、墓石の数5万余りの一大霊園地(約41万平方メートル)となっています。また、今もおやお彼岸になると、野田山墓地には多くの人々のお参り、また、キリコと呼ばれる灯籠(とうろう、南無阿弥陀仏名号)の飾りつけなど、信仰心の厚い先祖供養の姿が見られます。

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前田利家の墓(加賀初代藩主、野田山、金沢)

 江戸時代、前田利家はじめ一族は、土饅頭(どまんじゅう)の墳墓として埋葬されていました。前田家の祭祀が神式に改められたのは1874年明治7年)です。1877年(明治10年)5月には、「野田山ノ廟所ナル廟堂ヲ取除け、更ニ碑石及ビ鳥居ヲ建ラレ」となり、藩主の墓の入口には鳥居、その奥にはを築き、その前に石柱墓標が立てられました。

 これは、明治新政府が、1868年(慶応4年、明治元年)に出した神仏分離令(しんぶつぶんりれい)の影響を受けたと思われます。王政復古(おうせいふっこ、天皇親政)、祭政一致(さいせいいっち、神祇祭祀と政治一体化、近代天皇制国家)の理念に基づき、奈良時代以来の神仏習合(しんぶつしゅうごう)、神仏混淆(しんぶつこんこう)を禁止し、神社から仏教の排除を法令で定めました。このため、寺院の破壊、神社の合祀などが起こりました。

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加賀藩主の墳墓(松の木が乱立、野田山、金沢)

 私は野田山の麓(ふもと)の近く、平和町(1丁目、3丁目)の公務員宿舎で、1972年(昭和47年)から2003年(平成15年)まで住んでいましたが、野田山墓地は徒歩5分ほどの所にあり、よく散策しました。歴代藩主の土饅頭(どまんじゅう)の墳墓の上に実生(みしょう)の松の大木が何本も生えていて、伐採されているものもありましたが、藩主が松の姿に変わったと思われる、異様な感じがしました。

 また、野田の町の入り口から前田墓地に至る参道の排水路の両脇には、シダ植物ヘビノネゴザ(蛇の寝御座)が群生あるいは散生しているのを見つけ驚きました。ここの墓地では、塩素系の除草剤を使って墓地の除草をしていましたが、ヘビノネゴザはすぐに芽を出し生育するので、一般の雑草とは異なり、除草剤に対する耐性があると思いました。

 加賀2代藩主前田利長は、金沢城の鬼門(きもん、北東)にあたる卯辰山(うたつやま)八幡宮に父、利家を合祀(ごうし)しました(鬼門封じ)。明治維新、1871年(明治4年)7月の廃藩の後、1873年(明治6年)、旧藩の重臣達がこの社を金沢城の西側の金谷御殿(かなやごてん、金沢城の金谷出丸)に新社殿を造営して遷宮、社名を藩祖前田利家を祀る尾山神社(おやまじんじゃ)とし、1875年(明治8年)に3層の神門和中洋折衷方式)を完成させました。また、本殿の右手には、金谷神社(摂社)を造り、歴代藩主を祀っています。

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尾山神社(おやまじんじゃ、 本殿、金沢)

(解説) 尾山神社神門造営の発起人は長谷川準也(金沢製糸会社設立)、設計、造営工長津田吉之助、金沢医学館(のち金沢大学医学部)の教師をしていたオランダ人のホルトルマン、その前任のスロイスが指導したと言われています。初層の3連アーチの骨組みは完全に木造で、3層目ステンドグラス(5色のギヤマン)に灯された明かりが、ここから北西7kmの金石(かないわ)に出入りする船の燈台の代わりにもなりました。 市民には、文明開化の西洋かぶれと言われたそうですが、今では金沢市総鎮守(そうちんじゅ)的な役割を担っています。

(参考文献) 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 下郷稔: 兼六園の今昔 加賀百万石の庭、中日新聞社(1999); 図説前田利家編集委員会: 図説前田利家、尾山神社、北国新聞社、橋本確文堂(1999).

(参考資料) 前田利家(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

温故収録: 金沢市立玉川図書館近世史料館; 野田山墓地金沢市編: 金沢市文化財紀要200,金沢埋蔵文化財センター(2003); 野田山の墓碑をたずねて: http://www17.ocn.ne.jp/~hrc/dentou/nodayama.htm ; 野田山墓地(前田家墓地)(金沢の総合情報、きまっし金沢): http://kimassi.net/nodaboti/nodaboti.html ; 尾山神社(金沢の総合情報、きまっし金沢: http://kimassi.net/oyamajinja/oyamajinja.html

(追加説明)○ 1575年(天正3年)、織田信長の北国軍団長、柴田勝家の配下、その一員として越前(府中、武生)の3万3000石の大名となっていた前田利家(41才)は、1581年(天正9年)に能登一国の23万3000石を与えられ、小丸山(標高30m、所口、ところぐち、七尾)に城を築き、1582年(天正10年)、越中の魚津城(うおづじょう)の越後の上杉勢を攻略中、1582年(天正10年)、本能寺の変で主君信長を失いました。

 前田利家は、1581年(天正9年)、越前から能登に移り、小丸山七尾)に城を構え、また、1582年(天正10年)、城の近くに越前の寺と同じ名の宝円寺を建立し、大透和尚を招き開祖としています。それから2年後、1583年(天正11年)に金沢城に入った利家は、七尾の寺は長齢寺(ちょうれいじ)と改名し、再び金沢城の東南に、石川門と相対する山門を持つ寺を建立し、大透和尚が住職を勤める、前田家の菩提寺宝円寺としました。

 この宝円寺という名のお寺は、利家が信長から3万3000石を賜り、越前(府中、武生)に城を構えていた頃、城の近くの高瀬村にに宝円寺曹洞宗、そうどうしゅう)というお寺があり、その寺に父母の位牌(いはい)を移し、命日には必ずお参りしたそうです。寺の和尚は大透圭除(だいとうけいじょ)でした。

 前田利家が1583年(天正11年)に金沢城に入城後まもなく、金沢城の真向かいの平坦な土地(のち千歳台、ちとせだい、兼六園)に、菩提寺宝円寺(ほうえんじ)など二つのお寺が建立されています。 この宝円寺は、建立されてから30年後の1620年(元和6年)、その地を奥村伊豫、横山右近など7人の老臣の屋敷とするため、現在の宝町移転されています。1万1千坪の宏大な敷地で建立された宝円寺は、1868年(明治元年)1月28日に全焼し、現在の寺院は假堂として建立されたものです。

 菩提寺については、2代藩主前田利長(としなが)は、瑞龍寺(高岡、富山)ですが、3代藩主前田利常(としつね)、6代藩主前田吉徳(よしのり)、8代藩主前田重熙(しげひろ)、10代藩主前田重教(しげみち)、11代藩主前田治脩(はるなが)は、初代藩主前田利家と同じ宝円寺(金沢、石川)となっています。

 一方、天徳院(小立野、金沢)を菩提寺として、そこの墓地に 葬られていた4代藩主前田光高(みつたか)、5代藩主前田綱紀(つなのり)、7代藩主前田宗辰(むねとき)、9代藩主前田重靖(しげのぶ)、12代藩主前田斉泰(なりなが)はじめ一族の12基の墓は、1952年昭和27年)、野田山墓地改葬されています。

 尾山神社神門設計を指導したホルトルマンは、兼六園の金沢神社の手水舎の水も分析し、その水は少し鉄分を含むが名水であると、神社の水のいわれの立て札に出ています。また、卯辰山の通称、フタワレ地内に行くと、一隅に一つのお墓があります。これは、ホルトルマンが、在任中の1879年(明治12年)に、猖獗(しょうけつ)を極めたコレラで3人の愛児を失い、この地に葬ったという悲しいお話が伝えられています。 

○ 前田利長

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前田利長(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7

 加賀の2代藩主前田利長(1562~1614)は、1599年(慶長4年)閏(うるう)3月3日、初代藩主前田利家(63才)死去後、即日、豊臣政権の五大老に列しました。利家は遺言の中で、利長は3年間は大坂に留まり、加賀には下ってはならぬと言い残していたのですが、徳川家康の勧めで、8月末に、金沢に帰りました。

 利長ら四大老が帰国すると、9月7日、伏見の家康は大坂に赴きました。その夜、増田長盛が家康を訪ね、浅野長政、土方雄久らが利長と共謀して、家康暗殺を企てていると密告しました。そこで、家康は、小松城の丹羽長重らに利長追討(加賀征伐)を密命しました。

 利長は、越中で放鷹中に、宇喜多秀家(義弟)の使者から、自分が讒言(ざんげん)されたことを聞き、早速、横山長知を大坂に派遣して家康に弁明し、母親の芳春院(まつ)を人質として江戸に送ることを約しました。この年、利長は権中納言を辞して恭順の意を示し、一方、高山右近の力を借りて、金沢城に惣構(そうがまえ)の掘を造り、万一に備えました。

 翌1600年(慶長5年)5月、前田家のため母を捨てよ、と伝言して、芳春院は大名妻子の最初の人質として、伏見から江戸に向かいました。その後、利長は、家康の命に従い、会津の上杉景勝討伐、7月、石田三成挙兵の関ヶ原の戦に向け、弟利政(能登領主)と共に軍を西に向けました。利長は、8月3日、石田方の大聖寺城の山口宗永を討ち、越前に進み金沢に引き返す時、小松城の丹羽長重に急襲される、浅井畷の合戦がありました。金沢に戻った利長は、家康に美濃への出兵を命じられましたが、利政は動きませんでした。利長が、人質として利常(弟)を小松城に送り、長重と和し、西上の途についたときには、既に関ヶ原の戦は終っていました。

 利政は、家康の命に従わなかったので、10月17日、能登(22万5000石)を没収され、山口宗永、丹羽長重の旧領と共に、利長に与えられました。かくして、利長は、加越能三ヶ国(120万石余り)の大大名となり、利常(9才)を跡継ぎとし、徳川秀忠の次女、珠姫(3才)と婚約させ、その4年後、百万石の家督を譲り、高岡(越中)で隠居しました。大坂の役では、利常が徳川軍として参戦、冬の陣の真田丸の攻防戦で大敗しましたが、夏の陣の河内口、天王寺・岡山の戦では、大きな軍功をあげました。その後、前田家は、明治維新までの約270年、加賀藩主(14代まで)として、加越能三ヶ国に君臨しました。

○ 前田家家紋梅鉢(うめばち)なのは、菅原道真の後裔(こうえい)とのことです。

○ 江戸時代に金沢城に水を引いた辰巳用水石管が富山県砺波市庄川町で産出した金屋石緑色凝灰岩)であることを紹介する立て札が、2013年4月18日(木)、金沢市兼六町の金沢神社内板屋神社遥拝所に立てられました。

 加賀3代藩主前田利常のとき、辰巳用水がつくられ、兼六園から金沢城への導水に木管が使われていました。のち、江戸時代後期に木管の腐食のため石管に取り替えられ、戸室山(金沢市)の戸室石が使われていたのですが、1843年(天保14年)以降の金沢城修復の際に、辰巳用水を引く水路に金屋石が使われたという。(北陸中日新聞:辰巳用水の石管は金屋石、金沢神社に紹介立て札、2013年4月19日(金)、朝刊)

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