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2012年12月 9日 (日)

金沢城の石川門と屋根の鉛瓦にまつわる歴史伝承、金沢城の歴史、逸話(利常と幕府、綱紀と幕府)の関係、とは(2009.5.30)

 兼六園の真向かいに見える金沢城の石川門は、城下町金沢のシンボルです。この石川門の白い薄い雪化粧を思わせる鉛瓦の屋根は、1665年(寛文5年)6月24日、金沢城の屋根の鉛瓦が文献(最も古い記録、国事雑抄、鉛瓦鋳造用の鉛を保管の町人より奉行に引き渡さしむ)に現れていることから、3代藩主前田利常(1594~1658)の頃から使用されていたと思われます。

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石川門の鉛瓦(金沢城、金沢、石川、2014年4月28日撮影)

金沢城公園(築城の知恵、石川門の鉛瓦、石川県): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/wisdom/page10.html.

(解説) 鉛瓦最初は灰黒色ですが、年を経るにつれて表面に鉛白(塩基性炭酸鉛)を生じて白くなり、見た目に美しい、まさにうっすらと雪をかぶった姿に見えます。これは、鉛の金属と空中の二酸化炭素と雨水の反応で生じるものです。石川門の屋根の軒下の鉛瓦の色をよく気をつけて見ますと、雨水の当たらないところは灰黒色の金属鉛のままであることが分かります。                                                               

 江戸城の天守閣も鉛瓦葺きであったことが、慶長見聞集に記録されています。それによりますと、「然者(しかれば)家康公興ぜられる江戸城の殿守(でんしゅ)は五重、鉛瓦(えんが)でふき給ふ、富士山にならび雲の嶺にそびえ、夏も雪かと見えて面白し」、と、「雪をかぶった富士山とならんで、もう一つ富士山が現れたような美しい景色」を伝えています。江戸城の5層の天守閣は、1657年(明暦3年)の大火で焼け落ちています。 

 現在の石川門は、もと三の丸の搦手門(からめてもん、裏門)、1788年(天明8年)に再建されたもので、1950年(昭和25年)国の重要文化財に指定されています。また、その鉛瓦は、1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)にかけて、解体修理の際に鋳直されたものです。なお、鉛瓦には少量の銅(0.06~0.08%)を添加し、強さや硬さ、耐酸性を高めてあるそうです。                  

 一説によれば、その昔加賀藩が、いざというときに備え、銃弾資材をこのような形で備蓄していたとか、鉛瓦の中に蓄財用の金銀が鋳込んであったとの言い伝えがありました

(解説) 加賀藩では1630年代(寛永年間)後半に越中(富山)から大量の鉛が貨幣鋳造のために加賀(金沢)に運び込まれています。とりわけ、飛騨の神岡鉱山の北、松倉、亀谷、長棟などの鉱山で鉛が多く産出されていました。                                                                                                                                                     金沢城は数多くの火災に見舞われています。1602年(慶長7年)から1859年(安政6年)までの凡そ255年間に、1602年(慶長7年)、1631年(寛永8年)、1759年(宝暦8年)、1808年(文化5年)の四大火災を含め56件の火災が記録されています。これらは、冬における落雷(雪おこし)、春先から初夏にかけてのフェーン現象火の不始末などに起因しています。

 近年の災害では、1881年(明治14年)1月金沢城内に駐屯していた陸軍歩兵第七連隊の失火で、石川門と三十間長屋を残して場内の建物すべてが焼失し、そのとき屋根の鉛が溶けて屋根から滝のように流れ落ち、建物内の品物を取り出すことが出来なかったといわれています。以上のことから、金沢城内の土壌と石垣の周辺は相当鉛で汚染されたと思います。

 金沢城の鉛瓦は、木材を瓦の形に作り(1枚の大きさは凡そ44~45cm×19~20cm)、その上に厚さ4.5~7.6mmの鉛板を銅釘で打ち付け、木の型に鉛板を押し当てて、木槌で叩いて作った加賀藩の梅鉢(うめばち)の家紋で飾った屋根瓦です。江戸時代に、建造物の全ての屋根に鉛をかぶせたのは加賀藩だけで、金沢城関係の諸建物と、かっては加賀藩が支配していた越中高岡の瑞龍寺(ずいりゅうじ、2代藩主前田利長(1562~1614)の菩提寺)にある仏殿ぐらいでした。 記録では、仏殿のために、鉛の御用があった最初は、1671年(寛文11年)5月の屋根葺き替え工事という。 瑞龍寺(ホームページ、高岡、富山): http://www.zuiryuji.jp/.                                                            

 どうして屋根に鉛を使うことを考えついたのでしょうか?古来多くの説があり、その理由として次の①~⑤のようなことが考えられています。①美観装飾、②凍害防止、③銃弾防御と銃弾資材の備蓄、④蓄財、⑤貨幣鋳造の過剰鉛の転用などです(金銀は鉛と容易に合金をつくりますが、鉛は昔から灰吹法による金銀の精練にも使われています)が、①と②はもっともな理由ですが、③、④となると、徳川幕府による加賀藩のお取りつぶしに備えたことが考えられます。

 ということで、①の説とか、1665年(寛文5年)3月13日、徳川幕府による金銀売買禁止に、また1667年(寛文7年)各藩の貨幣鋳造禁止により、鉛による金と銀の地金造り(灰吹法)が出来なくなったこと、丁度その頃の1665年(寛文5年)6月24日、金沢城の屋根の鉛瓦が文献(最も古い記録、国事雑抄、鉛瓦鋳造用の鉛を保管の町人より奉行に引き渡さしむの記事)に現れていることから、過剰の鉛を鉛瓦に転用した⑤の説最も可能性が大きいのではないかと思います。

(参考文献) 三浦浄心: 慶長見聞集 10巻 写本(1614、慶長19年); 鶴田久作: 雑史集、「慶長見聞集、10巻之1、江戸町瓦ぶきの事」、国民文庫刊行会(1912); 金沢大学金沢城学術調査委員会内「金沢城」編集委員編: 金沢城ーその自然と歴史-、山越(1967); 森栄松: 金沢城、北国出版社(1970); 平井聖: 屋根の歴史、p.154~159、鉛瓦葺、東洋経済新聞社(1973); 喜内敏編: 日本城郭史研究叢書 第五巻、「金沢城と前田氏領内の諸城」、p.145~222、金沢城の鉛瓦、名著出版(1985). 

(参考資料) ○ 金沢城と兼六園の歴史(石川県): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/japanese/history.html

○ 金沢城(google画像検索):  http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

(追加説明) ○ 利常と幕府 

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前田利常(1594~1658、肖像画、那谷寺 所蔵、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8

 前田家伝統の保身策として、利常は長子光高の夫人に3代将軍家光の養女(徳川頼房の娘大姫)を迎え入れています。その後も、利常は帰国せずにずっと江戸におり、鼻毛をのばしてアホ殿様のまねをしていたという話が伝えられています。なお、利常は、2代将軍秀忠の娘球姫を夫人として迎えています(政略結婚!)。

 3代藩主利常は、幕府対策のせいか、47歳の若さで1639年(寛永16年)、病気を理由に、長子光高に封を譲り、小松城隠居しました。そして、その機会に、次子利次、末子利治をそれぞれ富山藩・大聖寺藩に分封し、東西の支藩としました。(若林喜三郎監修: 石川県の歴史(2版)、p.127~128、利常と幕府、北国出版社(1972).)

○ 綱紀と幕府 

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前田綱紀(1643~1724、国史肖像大成、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%B6%B1%E7%B4%80

 第5代藩主前田綱紀(まえだつなのり、松雲公、1643~1724)は、3歳のとき父を亡くし、祖父利常の後見のもと藩主になりました。のち、祖父利常の保身幕府対策の手ほどきを受けたのか、第5代将軍綱吉の頃、江戸在府中は、一年中、鼻水をたらし、いつも袖口は鼻水で、てかてかと光っていたとか、鼻毛も長く伸ばし、口もポカンと開けたままであったとか、また、登城のとき玄関から大広敷まで抜身の刀を600m引きずり畳表を切ったなどアホ殿様のまねをしていたという話が伝えられています。(樋口清之: 逆・日本史(第8刷)、武士の時代編、江戸→戦国→鎌倉、p.161~164、なぜ、名君。前田綱紀は鼻水をたらしていたのか、祥伝社黄金文庫(2007).

○ 酸性雨による鉛瓦の汚染とシダ植物、ヘビノネゴザによる鉛汚染の浄化について

金沢城石川門の鉛瓦とシダ植物ヘビノネゴザ(蛇の寝御座)、土壌とヘビノネゴザ組織内の鉛の分布状態、自然環境の鉛汚染と浄化、とは(2009.5.30): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-03f2.html

○ 石川の地名と県名の由来について

石川(加賀、能登、金沢)県名の由来、県庁が一年足らず石川 郡の美川に移されたことによる、初代知事・県令は内田政風、とは(2012.11.8): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/294.html

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