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2012年12月12日 (水)

空海(弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15)

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空海弘法大師、774~835、真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

(解説) 空海(弘法大師)、774~835年(宝亀5~承和2年)は、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(善通寺、香川)の豪族、佐伯(さえき)氏、直田公の父、安刀(あと)氏、玉依の母の三男として生れ、幼名は真魚(まお)と呼ばれていました。788年(延暦7年)、15才のとき都に出て、791年(延暦10年)、18才のとき大学に入学していますが、その頃は、桓武天皇が奈良の平城京を長岡京に遷都した7年後で、3年後の794年(延暦13年)に京都の平安京に2度目の遷都を行うなど、政情が非常に不安定な時期でした。

 貴族の子弟の教育機関である旧都、奈良の大学寮に18才で入学したものの中途退学し、一沙門から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を受け、20才で山岳修行僧の群れの中に身を投じたのですが、修行の道場は奈良や和歌山の山林(吉野の金峰山、紀州の高野山)から故郷の四国の山や海(阿波の大龍嶽の頂上と近くの洞窟、土佐の室戸御崎の洞窟、伊予の石槌山)に及んでいます。

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の写真: 大龍嶽の空海像大龍嶽、21番札所、大龍寺、徳島)                                  の写真: 室戸御崎の洞窟御厨人窟、24番札所、最御崎寺、高知)

舎心ヶ嶽(第21番札所、大龍寺奥の院、徳島): http://tadashimatunaga.web.fc2.com/88okunoin/okunoin_tokusima/18.htm#top.

御厨人窟(第24番札所、最御崎寺奥の院、高知): http://www.geocities.jp/hi_hotaka/life/shugyo/temple241.htm.

(解説) 空海は、797年(延暦16年)、24才のとき、儒教と道教と仏教を比較して、仏教の優位性を示した戯曲、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(官吏になるための難解な試験対策への解答、すなわち、大学入学での学習成果を披瀝した報告書、とも考えられています)、後に序文と後書きを加え、本文の誤謬を修正した「三教指帰(さんごうしいき)、上、中、下の3巻」(唐への留学の資格試験の審査参考資料として朝廷に提出したものとも考えられています。また、出家宣言とも考えられ、この下巻の中で、老いた両親への親孝行ができず、先だった二人の兄への思いに涙が止まらず、仕官も進退極まり、来る日も来る日も、嘆き悲しく、うろたえるばかりです、が、自分は仏道の道に進む、という強い出家の覚悟を仮名乞児(かめいこつじ、空海の化身)に代弁させたものとも考えられています)を著しています。空海の唐(中国)への留学に至る20~30才の頃の10年間の修行の様子は、これらの著書以外にはなく、今も多くの謎につつまれています。

 その後、804年(延暦23年)、31才のとき、第16次遣唐使船により入唐し(このとき、留学した最澄は正式な官僧なので問題はないのですが、一方空海は一介の私度僧の立場であり、朝廷への留学の推薦、留学僧資格試験、膨大な留学資金の支援などについて、謎が多い)、当時の世界都市であった長安に行き、青龍寺(せいりゅうじ)に住む恵果(けいか)と出会い、805年(延暦24年)、師からインドから伝わった本流の密教のすべての法を伝授されています。

 空海が日本に帰ったのは、806年(大同元年)、33才のときですが、当初20年間の留学期間をわずか2年に縮めての勅許による謎めく帰国でした。その後の空海の活躍は目覚ましいものがあり、宗教の世界ばかりでなく、文学、思想、また、社会事業家(満濃池の築堤、綜芸種智院の創設など)として花開いています。

 空海の巨大な謎を秘めた活躍のなかで忘れられないのは、紀伊国(和歌山)における高野山金剛峯寺創設(嵯峨天皇による高野山下賜)です。空海はこの山岳霊場を密教(大日如来を中心に、あらゆるものが共存共栄する、心を形に表した曼荼羅の世界)の修行道場として開いたのですが、ここはまた古代から水銀の採掘地でもあり、高野山の奥の院をはじめとするこの山の聖地一帯には、現在も水銀や金、銀、銅などの鉱石が埋蔵されていると言われています。高野山は、以前は丹生明神(にうみょうじん)が祀られ、丹生氏が支配していましたが、空海は、はじめ奥の院の洞窟、のちに近くに建てたお堂、お寺の中でも修行し、人生の最後は、もとの奥の院入定(にゅうじょう)したものとも考えられます。

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高野山奥の院高野山、金剛峯寺、空海の廟所、和歌山)  高野山奥の院(高野山内を巡る、YouTube、高野、和歌山): http://www.youtube.com/watch?v=gWoQGqI9V1U.

(解説) 日本各地に水銀を意味するの名のつく地名(丹生、丹波など)が残っていますが、これはその地域で水銀鉱石(朱色の硫化第二水銀、辰砂)や、赤色顔料(丹朱)を産出していた証拠です。来世での再生を願って遺体を保存するミイラ作りにも水銀は必須で、日本でも縄文の古墳でも朱の水銀鉱石は重用され、古代から戦国時代に至るまで、そうした鉱物資源の採掘、製錬の秘密を握り、鉱業に従事する山の民を指導したのは山岳宗教者でした。水銀の神をまつる丹生神社の分布高野山伊勢周辺の中央構造線上に多く分布): http://www.geocities.jp/tyuou59/nibujnnjyabunnpu.html

 空海は、その山岳宗教者の間で若き日を過ごしたものと思われます。このことは、四国八十八ヶ所の約半数の霊場が、著名な銅及び水銀を産出する鉱山が存在する地質の中央構造線の外側に分布することとも深いつながりがあると考えられ、空海の密教山相ラインと呼ばれています。

 空海は、835年(承和2年)、62才のとき、高野山奥の院の裏側の洞窟の中で入定し、永遠の命の本源に帰って行きました。その86年後、921年(延喜21年)、第59代醍醐天皇は、夢枕に立つ空海の徳を称え、弘法大師の称号を下賜されました。

  私は、2001年(平成13年)8月頃、四国霊場、21番札所、大龍寺(大龍嶽、阿波、德島)を訪れたことがあります。マイカー(ファミリア1500CC)、ロープウエイにより、弟(悟)と二人で大龍寺を参拝した後、さらに大龍嶽の頂近くまで歩いて登ったところ、渓谷に向かって修行している空海の坐像が目につき、強く印象に残っています。

 また、それまでに、室戸御崎の洞窟(御厨人窟)と24番札所、最御崎寺(高知)には、弟(悟)と一度、高野山奥の院(高野山、空海の廟所、和歌山)には、家内(尊子)と数回訪れ参拝したことがあります。

(参考文献) 高木訷元、岡村圭真編: 日本の名僧、空海、密教の聖者、吉川弘文館(2003).; 佐藤任、堀井順次、本城清一、柚木伸一、若尾五雄: 真言密教と古代金属文化、東方出版(1991).; 大森崇編: 密教の本、驚くべき秘儀・修法の世界、大日本印刷株式会社(1992). ; 増田秀光編: 空海の本、密教最大の聖者の実像と伝説を探る、大日本印刷株式会社(2006).

(参考資料) ○ 弘法大師と高野山(高野山真言宗、総本山金剛峰寺): http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/about/kobodaishi_koya/index.html

○ 四国遍路の歴史

空海(弘法大師)(google 画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%A9%BA%E6%B5%B7%EF%BC%88%E5%BC%98%E6%B3%95%E5%A4%A7%E5%B8%AB%EF%BC%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi.

四国遍路の歴史(德島県立博物館): http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/henro2.htm

四国遍路の展示物(香川県立博物館): http://www.geocities.jp/miyukiso7/minitenhon.htm

人生は遍路なり畠田秀峰、四国六番安楽寺貫主): http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html 

(追加説明) ○ 空海(弘法大師)と二人づれの四国遍路、同行二人(どうぎょうにん)の信仰は、捨身の行(しゃしんのぎょう)の一つ、土中入定(どちゅうにゅうじょう)にあると考えられています。空海(弘法大師)は、835年(承和2年)1月に五穀を断ち始め、3月10には水も断ち、それから7日後には、高野山の奥の院の岩窟に入られました。

 お弟子達は、空海の指示に従い、その岩窟の入口に自然石を積み、その口を塞(ふさ)ぎました。これは、石小詰(いしこづめ)という葬法です。自然石の隙間(すきま)から空気が通り、空海の御真言の読教が聞こえていましたが、3月21日には、いくらその岩窟に耳を近づけても聞こえなくなりました。空海(弘法大師、62才)は、生死を越えた修行によって、永遠の生命と一つになって行きました。その後、どこからともなく、お四国でお大師さまに出会ったとの噂(うわさ)を耳にするようになりました

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(参考文献) 畠田秀峰(住職): 四国へんろ春秋 Ⅱ、四国八十八ヶ所霊場六番、温泉山安楽寺(2008)、

○ 世界遺産 高野山空海の聖地 紀伊山地の霊場と参詣道、2007年(平成19年)9月20日(木)、NHK放送によれば、

 弘法大師、空海は、24才の時、出家の宣言書(三教指帰)を書き、その後、修行の場を紀伊の山に開きました。

 町石道(ちょういしみち)には、町石と呼ばれる道標(みちしるべ)が1丁ごとに立っています。高野山に詣でる人々が迷わないためです。巡礼者は町石を仏と見なし、参拝しながら歩きます。町石道を歩いて20km、標高800mの山頂に空海の開いた真言密教の霊場が現れます。平安時代の初めに建てられた大伽藍(だいがらん)、鮮やかな朱色(しゅいろ)の塔は、真言密教の根本大塔で、空海の開いた真言密教の教義を表した空間です。大日如来(だいにちにょらい)は宇宙の根本原理を示す最も重要な仏です。

 奥の院の空海廟、空海はここに眠っています。この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける。そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。835年のことです。

 空海の死後、高野山は200年以上にわたって荒廃します。平安中期に立ち上がったのは、空海の徳を慕った他宗派の僧たちでした。国宝、仏涅槃像(ぶつねはんぞう)、復興にあたった僧たちが絵師に描かせたのは、真言密教の大日如来ではなく、全ての仏教徒に受け入れられる釈迦如来(しゃかにょらい)でした。

 釈迦の臨終に接して慟哭(どうこく)、嗚咽(おえつ)する弟子たち、復興にあたって僧たちは、この仏画を中心に法会を開き、資金を集めたと言われています。

 幅広い信仰を集めるようになった高野山には、さまざまな宝物(ほうぶつ)が納められました。八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)、鎌倉時代に活躍した仏師(ぶっし)、運慶(うんけい)とその弟子たちの作とされています。豊かな肉体表現と凛々(りり)しい表情、生き生きとした目には水晶が入っています。

 国宝、阿弥陀衆生来迎図(あみだしゅじょうらいこうず)、人が死ぬ時には阿弥陀如来が迎えに来てくれるという、浄土信仰(じょうどしんこう)に基づいて描かれた傑作です。もとは比叡山の秘宝でしたが、織田信長の焼き討ちの時に持ち出され、それを入手した豊臣秀吉が高野山に奉納したと言われています。

 空海の眠る奥の院への参道には、無数の墓石が立ち並び、中には公家や大名の墓もあります。無縁仏となった墓碑や地蔵が積まれた巨大な塚、聖地高野山の空海の膝元(ひざもと)で永遠の眠りにつきたい、そう願った無数の人々の思いの結晶です。

○ 1157年(保元2年)、梁塵秘抄(りょうじんひしょう、今様歌謡集、後白河法皇編著)の中に、「はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろずの仏に 疎(うと)まれて 後生(ごしょう) わが身をいかにせん」と、全ての仏たちに見放された人々の切ない歌があります。法然上人は、そのような人々も念仏により阿弥陀如来によって救われる(浄土信仰!)という(五木寛之、親鸞(激動編、229~231)、2011年(平成23年)8月23日~25日、北陸中日新聞、朝刊より)。 

 梁塵秘抄(法文歌、はかなきこの世を過ぐすとて ---、名句に学ぶ死生観): http://www.geocities.jp/yccfh851/newpage24.html. はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに 万(よろづ)の仏に疎まれて 後生わが身をいかにせん(はかないこの世を生きていこうとして、海や山で生き物を捕らえているうちに、多くの仏に遠ざけられてしまった。来世の自分の身をどうしたらよいのだろうか。 この歌では、救いとなるべき阿弥柁の誓いにふれていないため、より深い悲しみがあふれ、切実な嘆きが伝わってこよう。植木朝子、梁塵秘抄、角川ソフィア文庫、2009)

○ 四国霊場八十八ヶ所の奥の院(もと洞窟、のち、小屋、お堂、お寺へ)にお参りすると、本当の四国遍路の意味が分かると言われています。

四国霊場、奥の院物語(四十八ヶ所を紹、川東和夫): http://www.fmkagawa.co.jp/staff/ohenro/okunoin0.htm

 四国遍路の始まりは、四国の辺路修行で、空海(弘法大師)もその道を辿り、後に空海の跡を慕った修行者が辺路修行を行い、さらに一般の人もお参りするようになり、辺路(地の果て、海と陸との境)が遍路になったと言われています。(参考文献) 五来重: 四国遍路の寺、上、下、角川学芸出版(2009). 

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 我等が修行せし様は、忍恥袈裟(にんにくけさ)をば肩に掛け、又笈(おい)を負ひ、衣は何時となく潮垂(た)れて、四国の邊路(へじ)をぞ常に踏む。(1157年(保元2年)、梁塵秘抄、後白河法皇編著、四国八十八ヶ所霊場六番、安楽寺住職、畠田秀峰、四国へんろ春秋(2000)、より)

お遍路のススメ(友の講、梁塵秘抄の解説含む):http://maenaem.com/henro/sp.htm

○ 江戸時代四国遍路(八十八ヶ所)の1番の霊山寺から始まる札所の番号付けの根拠として、1687年(貞享4年)、真念(しんねん、生没不明、頭陀聖、ずだひじり、遍路門付)が四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)を執筆し、はじめて札所に番号を打ち、、四国遍路の霊験や功徳にまつわる伝承をまとめて出版、また遍路の便を図るために、遍礼屋、善根宿の開設と普及、標石の設置などを行いました。

 八十八ヶ寺の中には、真言宗系以外のお寺が八ヶ寺(11、15、33、43、76、78、82、87番など)ほどあり、そこにも大師堂があり、不思議な感じがしますが、お寺の改宗もあったと伝えられています。1番霊山寺の開祖は行基(ぎょうき、法相宗)、668年(天智天皇7年)~749年(天平21年)ですが、本尊は釈迦如来、宗派は高野山真言宗となっています。

 この霊山寺は大麻山(おおあさやま、海抜536m)から下りてきたと推定されています。というのは、その山の中腹に大麻比古神社(阿波一宮)があって、ここを奥の院とすることは、江戸時代の初期は神仏習合が残っており、もと霊山寺が大麻比古神社の境内にあった寺であり、そこから1km下って現在地に移ったのだろうということです。また、ここが第1番となったのは、信仰上の問題より、本土より四国に渡るには、鳴門市の撫養(むや)が最も便利だったからです。また、御詠歌は、霊山の釈迦の御前に巡り来て、万の罪も消え失せにけりと、四国遍路は、罪を消すため、減罪のための遍路であることを、歌っています。(五来重、四国遍路の寺、下、角川ソフィア文庫(2009)より)

○ 最澄と空海の生き方について、次のような解説があります。最澄と空海は同時代の人である。最澄が神護景雲元年(767)生れ、空海は7年後の宝亀5年(774)の生れである。二人の生きた時代は、平城京から長岡京、さらに平安京へと三度も遷都するような、律令体制の動揺期であった。

 延暦23年(804)、桓武天皇の命を受けて、最澄・空海ともに遣唐使の一行に参加することとなり、空海は第一船で、最澄は第二船でそれぞれ入唐した。最澄は明州に着き、天台山に入った。最澄の天台山入りの目的は、入唐前からいだいていた天台の信仰を天台山で確かめることにあった。空海は長安京に入って西明寺に留まり、のち青竜寺において真言密教の権威・恵果の指導を受けた。空海の持ち帰った経論は、216部451巻という。

国清寺(最澄、留学、天台山、中国): http://www.kosaiji.org/pilgrim/china/kokusei.htm

青龍寺(空海、留学、西安、中国): http://www.arachina.com/attrations/xian/qingls/index.html

 最澄は翌年帰国し、天台宗を開き、勅願を得て、叡山の草堂を延暦寺とし、経王護国寺を与えられ真言道場とした。空海は2年後に帰朝し、弘仁2年(816)、高野山に金剛峰寺を建てた。この年、弟子の去就をめぐる争いから最澄と空海は親交を絶った。

 両者は、平安仏教の開創者として、また双璧として、しばしば生き方が比較される。最澄は死ぬまで、仏教の旧勢力である南都仏教と争った。逆に空海は思想的に弾力性に富み、ことをあらだてずに生きた人であった。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版、p.117、1994、より)

○ 空海は、815年(弘仁6年)3月、42才、勧縁疏を著し、東国の弟子に遣わし、新請来の密教経論の書写流布と如法の修行を依頼し、また、秋には西国(筑紫)にも密教経論の書写を依頼しています。816年(弘仁7年)6月19日、43才、高野山を修禅の道場の地として乞い、7月8日、高野山開創が勅許されました。821年(弘仁12年)5月27日、48才、讃岐国、満濃池の築池別当に補せられました。

 822年(弘仁13年)、49才、東大寺潅頂道場が創設され、空海に修法が命じられました。この年に最澄(56才)が比叡山寺中道院にて入寂。823年(弘仁14年)1月19日、50才、東寺(京都)が永く空海に給頂され、東寺に真言宗僧50人を住せしめました。

 828年(天長5年)、55才、綜芸種智院(庶民のための私立学校)を創設。830年(天長7年)、57才、十住心論、10巻を撰述。832年(天長9年)8月23日、59才、高野山にて万燈万華の法会を修す。835年(承和年)2月30日、62才、金剛峯寺定額寺となし、同年、3月21日、高野山にて入定しました。

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