« 阿波和三盆糖の里(引野、上板、徳島)、糖源公園(丸山徳弥碑)、高野池(溜池)、吉野川北岸用水、川瀨惣次郎(養蚕、農学博士)、旧制学校、父の囲碁、父母、ふるさとの家、砂糖の歴史(2010.4.22) | トップページ | 春、弥生(やよい、3月、旧暦2月)、東大寺修二会(本行、3月1日~満行、14日、おたいまつ)、お水送り(3月2日、若狭神宮寺)とお水取り(3月12日、奈良東大寺)、とは(2011.3.1) »

2013年3月 1日 (金)

阿讃山麓(阿波、徳島)の原始、古代遺跡、銅鐸(弥生後期)、古墳と墳墓(豪族の墓)、安楽寺(氏寺、菩提寺)、高速道路(サービス、遺跡)、ふるさとの歴史(2010.5.7)

  上板町(かみいたちょう)のを見上げると、高さ600mほどの山並みが続いています。手前は阿波(あわ、德島)、背後は讃岐(さぬき、香川)なので、地元では阿讃山脈(あさんさんみゃく)と呼ばれ親しまれています。

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阿讃山脈(あさんさんみゃく、山の斜面は比較的穏やかで30度前後の角度で高さ600mの山頂まで続いています、上板町、わがまち再発見読本、上板町、板野郡、德島県)  上板町(ホームページ):    http://www.townkamiita.jp/.

 弥生時代前期は、刃物として石器が使われ、中期になると朝鮮半島(百済、くだら)からがもたらされ、鉄器の生産が始まりました。後期には鉄器が全国的に普及し、石器のほとんどが姿を消しています。鉄器は工具から農具という展開を見せ、農耕に飛躍的な発展をもたらす一方、武器としても用いられました。

 青銅器も、鉄とほぼ同時期に日本に伝えられ、朝鮮半島(百済)から渡来した工人たちによって、国内での青銅器鋳造(ちゅうぞう)も始められました。しかし弥生時代後期になると、鉄製の武器が普及し柔弱な青銅は実用性を離れ、祭器や権力の象徴として発達しました。

 そして、青銅は稲作と共に渡来した新しい形の儀礼、宗教目的に用いられるようになり、平たく大きくなった銅剣(どうけん)や銅矛(どうほこ)、巨大化した銅鐸(どうたく)などの祭器が製造されるようになりました。

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銅鐸(どうたく、上板町立歴史民俗資料館の「むかし展」、上板、徳島、google画像)

(解説) 出土する銅鐸は、弥生時代の信仰として、稲作の豊穣を願った祭器であろうと解釈されてきました。生活圏を邪悪なものから守り、貴重な聖域を守護する役割を広く付託された祭器とも考えられています。

 水銀朱(すいぎんしゅ、辰砂、赤色の硫化水銀)は、首長層と呼ばれる集団内部の上位階層者たちの埋葬祭、墳墓祭祀に用いられたと考えられています。四国八十八ヶ所霊場21番札所、大龍寺(真言宗、徳島)の山裾谷あいを北側から昇る参道沿いの斜面の若杉山遺跡は、水銀朱の採掘遺跡としては全国唯一の事例です。若杉山遺跡での水銀朱の採掘は弥生時代終末に終わっていたようです。(若杉山遺跡、徳島県立埋蔵文化財総合センター、オフィシャルサイト、阿南、徳島):http://www.awakouko.info/modules/xpwiki/287.html.) 

 また、銅鐸に朱を塗布する事例が見られ、朝鮮半島からの影響を受けて導入された可能性があります。弥生時代の終わりには、朱は塗布されておらず、弥生時代の銅鐸を用いた祭祀(土器棺墓)から古墳時代の埋葬祭(円墳、前方後円墳)へ急速に移行したと考えられています。

 四国八十八ヶ所霊場6番札所、安楽寺(あんらくじ、真言宗、上板町、徳島)の西方約200mの県道139号線沿いには、古墳時代、5世紀中葉から末期にかけて築造された、徳島県唯一の周濠をもつ円墳(えんふん)、丸山古墳(まるやまこふん、土成町、のち阿波市、徳島)があります。その直径は約30m、高さは約6mで、周濠の幅は約15mです。被葬者は阿波国造、粟凡直(あわのおおしのあたい)の直系ではないかと考えられています。(阿波市観光スポット(丸山古墳含む): http://shikoku-net.co.jp/tokushima/kankou/awashi/awashikankou.htm.)

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丸山古墳(まるやまこふん、円墳の周濠、、土成、阿波市、徳島、google画像)

 安楽寺谷墳墓群(あんらくじだにふんぼぐん)は、1991年(平成3年)、高速道路(徳島自動車道)の建設に伴う発掘調査により、阿波三盆糖の里の地域(引野、上板、徳島)で発見されました。そして、これらが3世紀頃の弥生時代末期の埋葬形態である土器棺墓、古墳時代前期の円墳(えんふん)、古墳時代後期の横穴式(よこあなしき)及び竪穴式(たてあなしき)の石室墓であることが確認されました。

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横穴式(よこあなしき)の石室墓(墳丘の上面にある竪穴式石室と違い、墳丘の側面から入る構造になっている埋葬施設、google画像)

(解説) 石室墓は、棺を納める玄室(げんしつ)、玄室までの通路となる羡道(せんどう)があり、埋葬後には羡道の入口部分を礫(れき)で閉じます。竪穴式石室と異なり、追葬ができます。徳島県では、古墳時代、6世紀前半頃に導入され、7世紀中頃まで用いられています。

 安楽寺谷墳墓群の1号墳は、墳丘約11mの円墳です。横穴式石室墓では、主体部として石室が2基確認され、石室内には刳抜式(くりぬきしき)木棺が納められていたと考えられています。副葬品として、1号室からは鉄剣(てっけん)、鉄鏃(てつやじり)が、2号室からは壺(つぼ)が出土しています。竪穴式石室墓では、墳丘、副葬品等は確認できなかったのですが、石室の東部からは壺が出土しています。 

 古墳は、当時の支配者であった豪族(首長)の墓ですが、3世紀(弥生時代)から8世紀の初め(飛鳥、白鳳時代)にかけて築造されています。これらは、朝鮮半島の百済(くだら)からの仏教伝来の影響によるものと考えられます。

 587年(用明天皇2年)、崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏(そがのうじ)が実権を握ると、仏教は朝廷に公認されることになり、以降7世紀前半にかけて、日本初の仏教文化である飛鳥文化が花開きました。聖徳太子(しょうとくたいし)、574年(敏達天皇3年)~622年(推古天皇30年)は、四天王寺、法隆寺の寺院を建立し、604年(推古天皇12年)、憲法第1条には仏教の精神が盛り込まれています。

 飛鳥(あすか)の語源については、朝鮮半島から飛んできた鳥、すなわち渡来人を意味しているとの説もあります。663年(天智天皇2年)、白村江(はくそんこう、はくすきのえとも)で唐(とう、中国)・新羅(しらぎ、朝鮮)軍と日本・百済(くだら、朝鮮)軍が戦い、百済を救援した日本軍は敗れ、百済は滅亡、その時、多数の百済人が日本に渡来(亡命)しました。 白村江の戦い(錦江近郊、韓国): http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm; 飛鳥京(奈良): http://www.asuka-tobira.com/asukakyo/asukakyo2.htm.)

  一般に、古墳は、気候が温和で水に恵まれ米作に適した土地や平野や海を見下ろす景勝の台地に築造されています。こうした場所は、人が集まり集落の出来やすく、富と権力を握った豪族の発生も容易でした。

  豪族の多くは、現世利益的な動機で仏教に帰依し、古墳に代わる権威のシンボルとして、寺院(氏寺)を建立しました。仏像や仏画は主に渡来人によって制作されました。

 というわけで、讃岐山脈(引野、上板、徳島)の南麓には、古代の多くの古墳群(安楽寺谷、明神池など)、遺跡(天神山、出口、青谷、柿谷など)、柿谷窯跡、寺院跡(安楽寺、西光寺など)が分布していることから、3~8世紀の古墳時代、この地域には豪族など、有力な支配者が治めた農耕を営む古代集落があったと思われます。また、寺院は、この地域の集落を治めていた豪族の氏寺であったと考えられます。

 また、泉谷(上板町)には、795年(延歴14年)開基の和泉寺(経塚、阿波西国26番、真言宗)、大山(上板町)には、525年(古墳時代?)開基(西範僧都)の大山寺(番外霊場1番、真言宗)の寺院があります。(四国番外霊場(1~20番札所): http://lcymeeke.nobody.jp/bekkaku/1.html.) 

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安楽寺(あんらくじ、 安楽寺本堂、  本堂北側の安楽寺方丈は400年の歴史ある国登録有形文化財、上板、徳島、google画像) 

四国霊場 六番安楽寺真言宗、公式ホームページ、上板、德島): http://www.shikoku6.or.jp/index2.html. 

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畠田秀峰、四国六番安楽寺貫主: http://koosyoji.sakura.ne.jp/hatakeda.jpg人生は遍路なり: http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html; 徳島県遍路体験: http://ihcsacafe.ihcsa.or.jp/news/culture/henro/. 

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空海弘法大師774~835真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

○ 空海弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15); http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b794-2.html

○ 空海(弘法大師)と書(風信帖、飛白書、雑体書)、五筆和尚、筆の誤り、筆を選ばず、とは(2009.11.13): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/41.html

(解説) 私の家の菩提寺安楽寺(温泉山、瑠璃光院、真言宗)は、6番さんと呼ばれ、現在の位置から北西2kmの引野の安楽寺谷の山腹に寺院跡がありました。古記録には、安楽寺谷の周辺一帯は鉄サビ色の熱湯が湧き出していて、湯は諸病に特効あり、と記されていたという。戦国時代、土佐の長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)、1544年(天文13年)~1599年(慶長4年)の阿波侵攻の戦乱で、その兵火にかかり、堂宇、宝物、寺歴など全て焼失しました。 

 安楽寺は、江戸万治年期(1658~1660年)に現在の境内(もと駅路寺瑞雲寺)に移転合併されました。瑞雲寺(ずいうんじ)は、1598年(慶長3年)、徳島藩主蜂須賀家政が阿波国内を旅行する諸人の宿泊便宜のために、交通の要路に八ヶ寺を指定した駅路寺の1つでした。現在の安楽寺の本堂は、1957年(昭和32年)火事で焼失、1963年(昭和38年)鉄筋コンクリート造りに再建されました。

 現在では、安楽寺には立派な宿泊施設が完備されて、四季を問わず、四国八十八ヶ所巡拝者のために便宜が計られています。また、安楽寺谷の温泉については、1978年(昭和53年)、上板町が温泉開発のためボーリング調査を実施しましたが、温泉の湧出は見られなかったようです。今は、名残の直径1m余りの釜跡の北裏、安楽寺谷の上の山一帯はゴルフ場として開発され、人々の憩いの場となっています。そこには、かって私の家の山もあり、小学校の冬休みには父と下刈りに出かけたことがあり、時代の流れを痛感します。(御所カントリークラブ(安楽寺谷、上板、徳島)http://gosho-cc.com/.)

 江戸時代の仏教統制政策は、1615年(元和元年)の寺院法度ですが、1637年(寛永14年)のキリシタンによる島原の乱がもとで、1638年(寛永15年)に檀家制度ができました。 これは、民衆の一人一人がキリシタンではなく、仏教徒(檀家)であることを寺院の住職に証明させ(請負証文)、宗旨人別改張の提出を義務づけました。宗門改帳の作業は、寛文年間(1661~1672年)に始まっています。

 当時はどの村にもお寺がなく、お寺を5倍に増やす必要があり、阿弥陀堂、地蔵庵もお寺に昇格させ、半僧半俗の聖がそのまま僧侶となり、住職になりました。そして、檀家制度の定着により、日本人全体の家々の宗旨が固定することになりました。 

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上板サービスエリア徳島自動車道、上り線、上板→徳島、上板、徳島、google画像)

 徳島自動車道は、徳島IC(徳島市、徳島)を起点とし、川之江東JCT(四国中央市、愛媛)に至る全長95.3kmの高速道路で、1994年(平成6年)に開通しました。1991年(平成3年)、高速道の建設に伴う遺跡調査により、安楽寺谷墳墓群をはじめ多くの古墳、遺跡が発見されました。現在、阿讃山脈の南麓、阿波三盆糖の里、明神山の糖源公園の北側(裏山)には、徳島自動車道の上板パーキングエリアが設置され、さらに、北方、裏山にはゴルフ場(御所カントリークラブ)まで開発され、昔の面影はほとんど見られなくなっています。

 また、高松自動車道は、鳴門IC(鳴門市、徳島)から坂出IC(坂出市、香川)を経由し川之江JCT(四国中央市、愛媛)に至る全長124.2kmの高速道路で、1987年(昭和62年)~2003年(平成15年)に開通しました。

大代古墳トンネル高松自動車道、鳴門、徳島、google画像)

(解説) 高松高速道の建設に伴う遺跡調査で、鳴門IC西側で、全長が約54mの前方後円墳、大代古墳(おおしろこふん)が発見されました。そして、この史跡価値の高い古墳を現地保存するため、道路構造を切り土構造からトンネル構造へ変更し、小さな土かぶり地山(12~14m)に3車線大断面めがねトンネルを貫く大代古墳トンネル(77m)としました。

 この高松自動車道が鳴門(小鳴門橋、大鳴門橋)、神戸淡路(明石海峡大橋)の自動車道と直結し、京阪神方面への交通が便利となり、徳島はじめ、四国の経済、社会の発展が期待されています。

(参考文献) 森甚一郎、石川重平、河野幸夫: 上板町の石造文化について、郷土研究会発表紀要、第27号(1981); 徳島県立埋蔵文化センター: 徳島県埋蔵文化センター調査報告第13集「安楽寺谷墳墓群」ほか(1995); 野島博之(監修)、成美堂出版部編: 図解日本史、成美堂出版(2009).

(参考資料) 遺跡調査(遺跡ウオーカーβ、引野、上板町、徳島): http://www.isekiwalker.com/pref/%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E7%9C%8C/19

安楽寺谷墳墓群(引野、上板町、徳島): http://awakouko.info/modules/xpwiki/186.html

上板町歴史民俗資料館(引野、上板町、徳島): http://www.townkamiita.jp/docs/2011020200040/

すえドンのフォト日記(上板町立歴史民俗資料館の「むかし展」): http://sueyasumas.exblog.jp/10141214/

土成丸山古墳(徳島県立埋蔵文化センター、阿波市、徳島): http://awakouko.info/modules/xpwiki/274.html

徳島自動車道(起点 徳島県徳島市~ 終点 愛媛県四国中央市、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

上板サービスエリア(下り、上板町、徳島): http://www.w-holdings.co.jp/sapa/index.php?institution_id=2494

徳島県埋蔵文化財センター(ホームページ、大代古墳含む、板野、徳島):http://www.tokushima-maibun.net/toppage/top.htm

 四国ネット(SHIKOKU-NET、四国政経塾): http://shikoku-net.co.jp/

(追加説明) 時の流れ

○ 弥生、古墳時代、古代人は天災を受けやすい谷口扇状地(たにぐちせんじょうち)には絶対住みませんでした。この危険な土地にどうしても集落を作らねばならなかった時には、私たちの祖先は、まず集落の周りに掘(濠、ほり)を掘りました。もし、鉄砲水が出ても山崩れが起きても、その掘にエネルギーを吸収させ、周りに分散させてしまおうと考えました。

 つまり、谷口扇状地に住まなければならない要請が、集落の周りに池をめぐらせた、環濠集落(かんごうしゅうらく)を生みました。これが防衛手段となることが分かり、日本独自の周囲に掘をめぐらす城郭築城法へと発展していったと考えられます。(樋口清之、梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社黄金文庫(2005)より)

○ 奈良時代、聖武天皇(在位724~749年)は、741年(天平13年)、天下の泰平、国家の安穏、五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上、万民の豊楽を祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建しました。そして、奈良の東大寺は総国分寺としました。

○ 平安時代、真言宗の開祖、空海(くうかい、弘法大師)、774年(宝亀5年)~835年(承和2年)には、十大弟子がいますが、その五人が四国の出身です。四国に詳しいお弟子さん達が空海のアドバイスを受けながら、四国の路を踏まれました。これがお大師さまと同行二人の四国遍路の最初であると考えられ、空海42才、四国霊場の開創説がそれを今に伝えています。 

 しかし、空海が42才の頃は、京都で密教の布教に務めており、42才の厄年の時に四国八十八ヶ所が開創されたという説は俗説とも言われています。この頃は、京都で勧縁疎の著述、密教経論の書写依頼、真言宗がまだ一般に知られず確立されていない状態のため、お弟子さんによる地方への普及などに力を入れていました。

 空海は43才の時、高野山を修禅の地として乞い、嵯峨天皇(さがてんのう)、786年(延暦5年)~842年(承和9年)から開創が勅許され、45才の時、高野山に登り、禅院を経営しています。

 五輪塔墓は、平安時代の中期頃から造られはじめ、各時代を貫いて現在まで生き続けています。日本独自の墓で、下方から四角(地)、円(水)、三角(火)、半円(風)、団(如意宝珠形、空)の五輪を積み上げた形で、インドで発達した密教の教え、宇宙を象徴する五大要素をかたどったものです。

○ 江戸時代四国遍路(八十八ヶ所)の1番の霊山寺から始まる札所の番号付けの根拠として、1687年(貞享4年)、真念(しんねん、生没不明、頭陀聖、ずだひじり、遍路門付)が四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)を執筆し、はじめて札所に番号を打ち、、四国遍路の霊験や功徳にまつわる伝承をまとめて出版、また遍路の便を図るために、遍礼屋、善根宿の開設と普及、標石の設置などを行いました。

 八十八ヶ寺の中には、真言宗系以外のお寺が八ヶ寺(11、15、33、43、76、78、82、87番など)ほどあり、そこにも大師堂があり、不思議な感じがしますが、お寺の改宗もあったと伝えられています。1番霊山寺の開祖は行基(ぎょうき、法相宗)、668年(天智天皇7年)~749年(天平21年)ですが、本尊は釈迦如来、宗派は高野山真言宗となっています。

 この霊山寺は大麻山(おおあさやま、海抜536m)から下りてきたと推定されています。というのは、その山の中腹に大麻比古神社(阿波一宮)があって、ここを奥の院とすることは、江戸時代の初期は神仏習合が残っており、もと霊山寺が大麻比古神社の境内にあった寺であり、そこから1km下って現在地に移ったのだろうということです。また、ここが第1番となったのは、信仰上の問題より、本土より四国に渡るには、鳴門市の撫養(むや)が最も便利だったからです。また、御詠歌は、霊山の釈迦の御前に巡り来て、万の罪も消え失せにけりと、四国遍路は、罪を消すため、減罪のための遍路であることを、歌っています。(五来重、四国遍路の寺、下、角川ソフィア文庫(2009)より)  

 封建時代後期、江戸時代には、石柱墓が盛んに造られるようになりました。単純な形式と輪部に基づく角石柱形の墓標は、五輪塔墓を単純化ししたものとも考えらています。

 駅路寺(えきろじ)は、德島藩祖、蜂須賀家政が1598年(慶長3年)6月12日、阿波の主要な4街道をゆく旅人(遍路、出家、侍、百姓など)の便を図るために、その街道沿いにある8寺院(真言宗)を宿泊施設として指定したもので、阿波独特の制度です。伊予街道の福生寺、長善寺、青色寺、土佐街道の梅谷寺、打越寺、円頓寺、川北街道の瑞雲寺(のち安楽寺が安楽寺谷から移転合併)、淡路街道の長谷寺の各寺ですが、いずれも1日行程のところにあります。これらの寺には、堪忍分として10石が与えられ、訪れた旅人の接待、悪事を企てる者の宿泊の禁止、不穏な動きをする者があれば庄屋に報告することを命じられていました。この制度の目的は、その報告による藩内の一揆、徒党の取り締まり、また、戦時には陣屋として使用されるなど、重要な役割を担っていました。 長谷寺(駅路寺、歴史、鳴門、德島):http://www2u.biglobe.ne.jp/~chokuma/history/historytop.htm

○ 明治時代、1868年(慶応4年)3月、維新政府は、祭政一致の方針に基づき、神仏習合(奈良時代に始まる神社に付属して置かれた寺院、神宮寺、平安時代に始まる神仏同体とする本地垂迹説など、神の信仰と仏教の信仰とを折衷して融合調和すること)を廃止する神仏分離(しんぶつぶんり)を発令しました。そして、神社の別当(寺の長官)、社僧(仏事を修した僧)に還俗(げんぞく、再び俗人にかえること)を命じ、権現などの仏語を神号に用いることや、神社での仏像、仏具の使用を禁止しました。

 神仏分離令は、奈良時代以来の神仏習合、神仏混淆を禁止し、神社からの仏教色の排除を命じたものです。この法令は、近世の儒学、国学の復古思想や廃仏思想の高まりを背景とするため、神職、国学者、地方官の間で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、仏教排斥運動)の行動が激化し、多くの寺院が破壊されました。

○ ふるさとの歴史

 松島村(のち松島町、上板町、徳島)の鉄道の交通機関としては、1923年(大正12年)2月15日、阿波軌道が池の谷から分岐して、鍛冶屋原(かじやばら)まで汽車が往復するようになりました。この頃、吉野川には鉄橋がなく、吉成駅の次には、堤防のすぐ下に中原という駅があって、ここから吉野川を横断して、南の堤防の水門をくぐり、新町橋まで巡航船の連絡がありました。

 1928年(昭和3年)12月18日、現在の吉野川鉄橋が完成し、出水時にも、徳島への道は安全に確保されました。阿波軌道鍛冶屋原線は、1933年(昭和8年)7月に国鉄が買収し、1935年(昭和10年)3月20日には高徳線(徳島ー高松)が開通し、吉野川は、汽車に乗り鉄橋で渡れるようになりました。

 ところが、1941年(昭和16年)12月、第二次世界大戦に突入した時、鍛冶屋原線は、軍需用鉄鋼材料として、その線路を供出することになり、1943年(昭和18年)10月末に運転を休止しました。そして、代替輸送機関として、同年11月1日、国鉄鍛冶屋原自動車区が開設され、鍛冶屋原ー板西(のち板野)に国鉄バスが運行されるようになりました。

 戦後、地元民の強い願望で、1947年(昭和22年)7月15日、鍛冶屋原線が復活しました。1953年(昭和28年)7月には松島タクシーが開業、さらに1955年(昭和30年)代になると、自家用車が次第に普及し始めました。それに従い、鍛冶屋原線の利用客はがた減りの状態となり、お客を運んで100円の収入を得るのに、488円の経費を必要とする全国的にも代表的な赤字路線となり、廃止も止むを得ない状態にまで追い込まれました。

 そして、1972年(昭和47年)1月15日を最後に、開設以来50年間、地域の人々に親しまれてきた鍛冶屋原線は淋しくその姿を消しました。(児島光一著、上板昔読本、教育出版センター(1979)より、すえドンのフォト日記(1972年廃線、国鉄鍛冶屋原線):http://sueyasumas.exblog.jp/10145402/.)

○ 1964年(昭和39年)頃、鍛冶屋原線は、鍛冶屋原発でしたが、徳島に行く時は直接、または、高松発の高徳線に板野で乗り換え、また、高松(香川)に行く時は、徳島発の高德線に板野で乗り換えました。ここから松山(愛媛)に行く時は、予讃線に乗り換え、また京都に行く時は、宇高連絡船に乗り、岡山を経由して京都に行きました。また、貨物列車は梅小路(京都)終着でした。

 私の小学校の修学旅行は、高松方面で、鍛冶屋原発、板野で乗り換え、高徳線で高松に行きました。中学校の修学旅行は、大阪、京都、奈良の方面で、また、高等学校の修学旅行は、鎌倉、東京、長野の方面で、鍛冶屋原発、徳島経由で小松島へ、小松島港から船泊で天保山港へ、そこから列車で目的地に行きました。

○ 「阿波の国」という徳島県の呼び名は、粟(あわ)がこの地で豊富に育てられていたことに由来するとされる。稲作に不適な土地でも収穫することのできた雑穀が、古代から人々の食を支えていた。

 徳島市からバスで1時間ほど山あいに入った温泉街・神山(かみやま)町。その小高い山にある上一宮大粟(かみいちのみやおおあわ)神社に、オオゲツヒメという神様が祀(まつ)られている。日本最古の歴史書「古事記」に登場し、「穀物起源神」として知られる大地母神だ。(2012年(平成24年)1月4日(水)、北陸中日新聞、夕刊より)

○ 長崎県南島原市教育委員会は、島原の乱(1637~38年)後にほぼ無人化した島原半島に、現在の徳島県から多くの人が移住してきたことを示唆する文書を見つけたと発表しました。

 昨年度、口之津歴史民俗資料館(同市)の収蔵品を調査。紙を二つ折りした15頁の文書「南蛮流医薬書」(1627年)をめくった際、全ての紙の裏側にも何らかな記述があることを偶然見つけた。

 調べると、徳島県阿波市と周辺にあった村の土地調査の結果を取りまとめた検地帳阿波郡新開見付之帳(しんかいみつけのちょう)」だったことが分かった。南蛮流医薬書は南島原市の「七條家」に受け継がれ、同館に寄贈されていました。

 市教委によると、七條家はもともと阿波市周辺の大地主だったが、先祖が移住したという伝承があり、徳島県内に同名の地名があることなどから、文書は七條家の先祖が移住時に携えた物と判断。田畑の広さや生産高を記録した検地帳は先祖の庄屋が保管したもので、更新に伴い不要になり、一族の医療従事者が裏紙として使い医薬書をしたためたと推定しています。

 乱では領民ら約3万7千人が犠牲になり、江戸幕府が42年と43年に出した移住命令で、九州各地や香川県・小豆島などから移住があったとされています。だが乱の引責や失政で島原藩主の交代が続いたことで当時の記録が残らず、移住の歴史は伝承や後世に書かれた文献などで伝えられてきました。

 市教委は、「新資料は農民だけでなく医学などの知識人も計画的に移住させた可能性を示すものでもある。研究を進め、展示などを通して南島原の成り立ちを伝えていきたい」とした。(北陸中日新聞、2017年5月11日(木)朝刊より)

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