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2013年3月 1日 (金)

阿波和三盆糖の里(徳島)の歴史伝承、熊野神社、丸山古墳、サトウキビと糖源公園(丸山徳弥彰徳碑、生田花世歌碑)、引野天神跡、共同墓地、本浄姓のルーツ、松島神社、土地制度、名字(苗字)、新制学校校歌、生田花世と瀬戸内寂聴、松岡康毅、中川虎之助(代議士)、砂糖の歴史、葬儀のしきたり、ふるさとの家、新制教育制度(2009.8.31)

  中世、平安時代、律令体制がゆるみ、特に荘園(しょうえん、貴族、寺社の私的な領有地)の増加は律令体制を根底から揺るがし、その管理者武士が次第に力をつけてきました。

 阿波和三盆糖の里(引野、上板町、德島)を中心とする地域は、平安時代、朝廷のご領地で、日置庄(ひのきしょう)と呼ばれた荘園で、1379年(天授5年)、紀州(和歌山)の熊野神宮(くまのじんぐう)に寄進され、その分霊を南海道(古代の道)を通って迎え、守護神とした、熊野神社(くまのじんじゃ)が、現地に建てられました。

 熊野信仰は、神道、仏教、民間信仰、修験道などを習合した、熊野三山(くまのさんざん、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への信仰です。中世後期には、山伏、比丘尼(びくに)、念仏聖(ねんぶつひじり)によって、熊野社(農林水産の神)が各地に勧進され、庶民信仰の裾野(すその)が拡大しました。

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熊野神社輪抜け(わぬけ)祭り、夏越の大祓(なごしのおおはらえ)、無病息災を祈り、茅の輪(ちのわ)をくぐる、引野、上板町、板野郡、徳島)

(解説) 中世、日置庄(南朝方、吉野の朝廷)は、南北朝時代にも、吉野方として勤王に尽くしたのですが、阿波に入ってきた足利氏の一族、細川氏(北朝方、京都の朝廷、室町幕府)の支配を受けるようになり、社領も縮小され、熊野庄(くまのしょう)と呼ぶようになり、日置庄の庄名も使われなくなり、ヒノキ(日置)がいつの間にか、ヒキノ(引野)に変わったと言われています。

 ところで、熊野神社の南近くの畑中に、掘を周囲にめぐらした県下最大の円墳があります。これが丸山古墳で、未発掘ですが、その昔この地方に有力な豪族が住んでいたと考えられます。飛鳥時代、豪族の多くは、現世利益の動機で仏教に帰依し、古墳に代わる権力と権威の象徴として、寺院(氏寺)を建立しました。

 阿波三盆糖の創始者丸山徳弥(俗称和田徳弥)は山伏(玉泉)であり、丸山の名は、この古墳の名に因んでつけたと言われています。徳弥は、熊野庄で、熊野権現(熊野神社)に奉仕する家の生まれです。今でも、和田、梅田の名字の家は、神職とつながりが深いようです。

 修験道や回峰行者と呼ばれる山岳宗教の修行者(山伏)は、荒行(燃える火の上を素足で駆け抜け、極寒に滝を浴び、ワラジで山を駆けめぐるなど)をこなす直前に五穀断ちを行いますが、この時の栄養素は、糖質や植物性脂質が多く、蛋白質は少なく、塩分はほぼゼロだそうです。

 脂質が燃えると二酸化炭素と水が生まれます。一方、蛋白質は窒素も出るので、これは尿として体外に出さないと、尿毒症になってしまいます。尿を出す必要がある蛋白質を減らし、代わりに脂質を蓄えれば、分解時に自然に水が体内で作られる理屈です。

 また、塩断ちに慣れると、塩や汗を体外に出さない体になります。しばらくであれば、外から水をとらなくても平気な体質に変わるそうです。1000年の伝統の知恵だと言われています。

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丸山古墳(高尾、土成町、のち阿波市、徳島)

(解説) 江戸時代、幕末から明治にかけ、阿波和三盆糖(あわさんぼんとう)は、全国の有名な和菓子に必ず使われていました。この和三盆糖は、1789年(寛政元年)~1800年(寛政12年)頃、引野村(引野、松島村、松島町、上板町、徳島)の丸山徳弥(山伏、玉泉)、1753年(宝暦3年)~1821年(文政10年)、により、はじめて作られたと言われています。

 1715年(正徳5年)及び1808年(文化5年)の引野村棟付帳によれば、徳弥一家は、代々醍醐派三宝系(真言宗当山派)の山伏(修験者)でした。山伏や虚無僧は、国内外への往来手形が容易に下付されたので、1776年(安永5年)、四国遍路(九州出身)より伝え聞いた甘蔗(かんしょ、サトウキビ)を日向(ひゅうが、宮崎)より入手、その後、栽培法、貯蔵法、製糖法(黒糖)を密かに調べ、さらに独自技術で三盆糖(白砂糖)を18年かけて作ったと言われています。

 丸山徳弥の和三盆糖製造の話は、地元の製糖業者の間に古くから伝わる伝承であって、確かな史料は何一つ残されていないようです。しかし、岡田家では、1801年(享和元年)、先祖が丸山徳弥から製糖法を伝授されたと伝えています。また、徳弥一族の菩提寺、四国遍路札所、6番安楽寺(真言宗、引野、上板町)には、1805年(文化2年)10月、弥蔵ほか一名の者が、徳弥に宛てた、次のような秘密厳守の誓書(神文)が現存しています。 仕渡一礼之事 一、白黒砂糖秘法伝授之儀一子相伝ニ仕、余人ヘ他言仕間敷候依敷而一礼如件 文化二年丑十月三日 弥蔵  丸山徳弥殿

 1960年(承和35年)3月、岡田広一氏(糖業、泉谷、上板)は、引野明神山(県畜産試験場、松島千本桜、北西約1km)の山麓(近くに中央構造線)に、糖源公園(とうげんこうえん)を開き、同業の有志と共に、徳弥の彰徳碑(しょうとくひ)を建立しています。碑の表面には丸山徳弥翁彰徳碑(三木武夫代議士書)、裏面には、徳弥の功績が詳しく述べられています。

 岡田製糖所は、糖源公園の東近くにあり、熟練した職人が今も、200年前の和三盆の手作りの伝統を守っています。また、昔の作業所は、資料館として、製糖の道具類、当時の写真などを展示しています。

 松島の千本桜は、岡田製糖所のすぐ東にあり、しゅばしょ(種馬所)とも呼ばれている徳島県立の畜産試験場にあり、構内には染井吉野が約900本、他品種の桜が約100本植えられています。 

 昔から桜まつり(4月)には、屋台の出店もあり、桜見物によく出かけました。1947年(昭和22年)4月に松島小学校に入学した頃、遠足があり、どういうわけか馬が暴走し、一人の友達が頭を馬に蹴られ(同級生の原田君、今も頭に傷跡?)大けがしたことを、今でもはっきり覚えています。 

○ 松島小学校(ホームページ、上板、徳島):http://e-school.e-tokushima.or.jp/kamiita/es/matsushima/html/htdocs/

 小学校卒業のころ、スローテンポの校歌(1.松の緑の緑の色がーーー)を歌ったことを覚えています。

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丸山徳弥翁彰徳碑三木武夫(代議士)書糖源公園、引野、上板町) 

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三木武夫(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%A4%AB

 また、すぐ近くには、松島村(泉谷、上板)出身の女流文学者(詩人、小説家)、生田花世(いくたはなよ)、1888年(明治21年)~1970年(昭和45年)、及び15才年下の早世(24才)した弟、満州郎の歌詩碑が建っています。花世の歌碑には、雲間ゆく 飛行機ゆ 我見下ろしぬ 父母生まれし 阿波の山河を、とふるさとの思いを詠っています。

 私が学んだ松島中学校歌花世作詞)は、

 その一東に鳴門西南に 高越山をのぞみ見る 阿北の台地その下に 大河吉野の流れゆく、とふるさとの風景を詠っています。

 その二ああ緑こき松島の 美しき名をもつ町の われら若人のぞみもち 学びの道にいそしまん、と若人が希望をもって学び、

 その三常磐ほこる若松の 幾千代かけて栄えんと われら学徒は諸共に この人の世につくすべし、と皆なと力を合わせ人の世に尽くし、緑の若松の永劫の繁栄に喩え(松は一年を通じて緑を保ち千年の齢を保つと言われています)、人の世がいつまでも栄えますように、との願いが込められているように感じました。

 1955年(昭和30年)、3ヵ町村(松島町、神宅村、高志村)合併により、松島町上板町となり、松島中学校は上板西中学校へ、また新校舎建築移転により上板中学校に統合されて現在に至っています。私は松島中学校の最後の卒業生となりました。(はじめ、卒業アルバムは上板西中学校、卒業証書も上板西中学校でしたが、のち卒業証書だけ松島中学校に取り替えられました。)

○ 上板中学校(ホームページ、上板、徳島): http://e-school.e-tokushima.or.jp/kamiita/jh/kamiita/html/htdocs/?page_id=69

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生田花世、弟、満州郎歌詩碑(糖源公園、引野、上板町)

 ところで、引野に天神前という地名がありますが、明治時代、松島村(松島町、上板町、板野郡)の神社が全部松島神社合祀されるまでは、この地に天神さん(引野天神)が祀られていました。

 その言い伝えによりますと、菅原道真(すがわらみちざね)が太宰府(だざいふ)に流される時、淡路から阿波に渡って、讃岐に出ようとして、道に迷って引野まで来て休んでいました。その時に、この土地の長老が道案内して、山越えで讃岐の三本松に出ることが出来たと言われています。後の人達は、菅公が休んだ時に腰を下ろした石跡に社を建て、天神さんをお祀りすることになったそうです。この話は、江戸時代の中頃、神社の由来を飾るために作られたものと考えられています。

 その天神さん跡には、昔の姿を彷彿させる手水鉢、灯籠などが現存しています。目の前に、ムク(椋の実の木)とエノミ(榎の実の木、エノキ)の大木があり、よじ登って熟した実を食べ、遊んだことが、懐かしく思い出されます。

 現在、天神(てんじん)信仰は、全国3953社(うち四国318社)、特に九州と沖縄(1658社)に多く、悲運のうちに没した道真公を慰霊し、雷雨の神、学問や和歌などの神様の性格を持っています。主な神社は、太宰府天満宮(太宰府、福岡)、北野天満宮(京都)です。

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引野天神跡(天神前、引野、上板町)

 また、この地域の特色として、天神さん(引野天神)の周辺には、名字(みょうじ、苗字)に本浄(ほんじょう)非常に多い(約20件)ことです。

 安楽寺(真言宗、菩提寺)の過去帳によれば、先祖が一番古い本浄家(天神前1番地の1)の元祖は、1676年(延宝4年)、私の家の元祖は、1770年(明和7年)に亡くなっています。最古の本浄家には鎧、兜、刀なども現存しており、先祖が武士で帰農した可能性があります。

 ところで、1638年(寛永15年)、江戸幕府は、キリシタン禁制のため、仏教徒(檀家)であることを寺院の住職に証明させ(寺請証文)、宗旨人別改帖(しゅうしにんべつあらためちょう)の提出を義務づけ(檀家制度)、1671年(寛文11年)、その作成を制度化(戸籍制度の機能を持つ)しました。

 その頃は、神仏習合、ご先祖さまは、名字をつけるのに、檀家寺の住職、聖、神社の神主、修験者(山伏)から助言を受け、またご先祖さまの信仰(はじめ南無阿弥陀仏!なんまいだ!浄土宗?浄土真宗?、のち南大師遍照金剛!真言宗に改宗?)の思いも込めて、本浄姓名字に決めたと考えられます。

 このことは、ほとんどの本浄家の墓が、共同墓地(一番古い本浄家が墓地を提供)に多いことからも、一族のつながり(分家、婚姻による親類縁者など)の強さが偲ばれます。最近は墓地が狭くなったので、各家代々の寄墓が目につきます。

 また、私の郷里(引野、松島、のち上板、德島)の本浄家過去帳によれば、本浄源藏(5代目)の倅(せがれ)、浪太郎は、1904年(明治37年)9月3日(旧7月24日)、日露戦争で亡くなっています(渤海湾近く?)。享年22才。自宅の床の間には、勲章をつけ羽織袴の肖像画がかけられていました。

 また、本浄家の墓地では、浪太郎さんのお墓は、本浄家の先祖のお墓の中でも特別大きなお墓であったので、子供の頃から強く印象に残っています。これは、戦死者は「英霊」として、先祖代々の墓とは独立した個人墓を建立することが重視されていたためです。

 日本で庶民が墓に墓石を立てるようになったのは江戸時代中期ごろからで、それ以前は土葬で遺体を土に埋め、小さな木を立てたり、河原の石を置くというものでした。

 現在のように墓石に家名を彫るようになったのは明治時代になってからです。これは火葬が普及し始めると共に、明治の民法が家を意識したことに関係しています。(北陸中日新聞朝刊:樹木葬、2012年10月21日(日)、サンデー版、大図解シリーズ、No.1066)

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共同墓地(天神前、引野、上板町)

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松島神社(引野天神合祀、鍛冶屋原、上板町、板野郡、徳島)

 松島の地名は、町村合併により、上板町が生まれる前の旧町名ですが、平安時代、吉野川の入江が山の近くまで入り、松の緑が水面に映る美しさが、日本三景の一つ、松島湾の景色と似ていたので、その名(もと松島郷、まつしまごう)がついたと伝えられています。

 松島神社は、1911年(明治44年)9月、明治新政府が村内各集落に散在する社を、一村一社に合祀するよう要請、1916年(大正5年)10月、社殿を新築し現在に至っています。 

 今年、2009年(平成21年)8月初旬、安楽寺畠田秀峰住職、裕峰副住職には、本浄家先祖の寄墓と供養のことでお世話になり、また秀峰住職とは、いつもながら2時間ほど歓談、四国遍路に関する資料もいただき、いろいろご教示いただきました。

(参考文献) 板野郡上板町教育会編: 郷土読本、上板町の姿、板野郡上板町第五区教育研究会(1958); 上板町誌資料調査会編: 上板町の伝説とわらべ歌、上板文化第一集、徳島県板野郡上板町教育委員会(1961); 児島光一: 上板昔読本、教育出版センター(1978)、 和三盆糖、藍ー歴史と製法の概要-、教育出版センター(1989); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 新版 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); 畠田秀峰(住職): 四国へんろ春秋(年表)、四国八十八ヶ所霊場六番、温泉山安楽寺(2000)、同(冊子)Ⅱ(2008); be on Sunday、Wonder in life、日曜ナントカ学(荒行こなす直前の五穀断ち): 朝日新聞、2007年(平成19年)1月14日(日).  

(参考資料) ○ 岡田製糖所: http://www.wasanbon.co.jp/wasanbon/; 

○ 四国霊場 六番安楽寺真言宗、公式ホームページ、上板、德島): http://www.shikoku6.or.jp/index2.html.; 

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畠田秀峰(四国六番安楽寺貫主; http://koosyoji.sakura.ne.jp/hatakeda.jpg人生は遍路なり): http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html徳島県遍路体験: http://ihcsacafe.ihcsa.or.jp/news/culture/henro/. 

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空海弘法大師774~835真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

○ 空海弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15); http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b794-2.html

○ 空海(弘法大師)と書(風信帖、飛白書、雑体書)、五筆和尚、筆の誤り、筆を選ばず、とは(2009.11.13): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/41.html

○ 歴史民族資料館(上板、德島):http://www.townkamiita.jp/docs/2011020200040/

○ 阿波和三盆糖の里(引野、上板、徳島)、糖源公園(丸山徳弥碑)、高野池(溜池)、吉野川北岸用水、川瀨惣次郎(養蚕、農学博士)、旧制学校、父の囲碁、父母、ふるさとの家、砂糖の歴史(2010.4.22): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-c430.html

(追加説明) ○ 土地制度

 古墳時代、6世紀以前は、各々の豪族が土地と民衆を支配していました。飛鳥、白鳳時代、7世紀に入ると、官僚制度、地方制度、法令制度などの整備が徐々に進み、7世紀末から8世紀初頭には、律令制が成立しました。それに伴い、豪族の土地と民衆支配は否定され、班田収受や戸籍制度に基づき、中央政府(朝廷)による統一的な土地と民衆の支配が実現しました。これらの土地制度は、中国の唐の均田制を基に構築されました。

 日本荘園は、奈良時代、律令制のもと、農地の増加を図るため、墾田の私有を認めたことに始まります。平安時代、小規模な免税農地に基づく免田寄人型荘園が発達し、その後、摂関家、大寺社など権力者へ寄進する寄進地系荘園が主流を占めました。鎌倉時代、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始めました。室町時代、荘園は存続しましたが、中央貴族、寺社、武士、在地領主などの権利、義務が複雑に絡み、一方、村落(惣村)による自治が出現し、荘園は次第に解体への道を歩み始めました。戦国時代、戦国大名による一円支配が成立し、荘園の形骸化が益々進み、最終的に、豊臣秀吉の全国的な検地によって、荘園は解体しました。(Wikipedia、荘園より)

 江戸時代五人組(ごにんぐみ)制度は、領主名主、庄屋など)の命令により組織化された隣保制度で、争議など相互監視、年貢納入など連帯責任、法令伝達の徹底化、相互扶助など、封建的な統制が血縁的、地縁的な共同体の中で行われ、明治維新以後も残存し、太平洋戦争戦時体制下では、法制的には消滅していましたが、その性格は、隣組制度に受け継がれていました。

○ 天神さん

 天神とは本来天変地異を支配する神が天神であり、雷電鳴動はその神威である。非業の死をとげた人の怨霊が天に響いて雷電を起こすと考えられ、この天神と御霊神が結びついたわけである。

 ところで、菅原道真は左大臣藤原時平のねたみを受け太宰権帥に左遷され九州でわびしく没したのだが、ところがまもなく京都で雷電そのほか天変地異がしきりに起こった。人々は道真公のたたりであるといって恐れ、朝廷も慰霊に力をつくした。以後、天神は道真に独占されて、道真が生前すぐれた学者であったところから、天神はいつしか文道の太祖として祭られるようになった。また道真の命日である2月25日を主として、毎月25日参詣が行われる。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版、1994、より)

 菅原道真(57才)は、901年(昌泰4年、延喜元年)2月1日、藤原時平の策略により太宰府に左遷(流罪)され、2年後、悲運のうちに生涯を閉じています。道真が京の都から太宰府に流された時、立ち寄ったという伝説が各地にありますが、史実としては、京の都(平安京)から水上交通路(船、淀川)で河内(大坂)を通り、大坂(大阪)の玄関口、難波(大坂)の津へ、ここから瀬戸内海を西廻り海路(船)で明石(兵庫)、四国の坂出(香川)、今治(愛媛)に寄り、中国の周防(山口)を通り、九州の出入港地、博多(福岡)の津へ、そして太宰府(福岡)に陸路で着いたと考えられます。

○ 名字(苗字)

 名字名田(みょうでん)、つまり土地のこと、また、は、土地の小区分のことです。武士は、荘園管理者であり、平安時代の中頃、土着した土地の名、つまり名字を作るようになりました。そして、武士は一つの所領を、一所懸命、守りました。

 物事を真剣に行う、一生懸命(いっしょうけんめい)は、武士が主君から与えられた所領を命がけで守る、一所懸命、の誤用からできた言葉です。

 江戸時代に、名字苗字となり、苗字帯刀によって、武士と一部の庶民を除き、平民は苗字を名乗ることが(公式には)許されていませんでした。

 が、実際は、一般庶民でも苗字(檀家名、寺社への寄進者名、土地名など)を使っていたようです。平民苗字使用が許されたのは、1870年(明治3年)の平民苗字許可令、全ての国民が苗字を名乗るようになったのは、1875年(明治8年)の平民苗字必称義務令によるものです。

同姓同名事典(全国): http://www.douseidoumei.net/36/dou10.html. 同姓名分布、姓名ランキング(全国): http://www2.nipponsoft.co.jp/bldoko/index.asp

 名字(みょうじ、苗字とも)、名字の由来(古代、平安時代)、士族と平民の苗字(江戸時代、明治時代)、日本に多い名字(佐藤、鈴木、高橋)、本浄姓のルーツ、とは(2012.6.4): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/252.html

 阿波高校(ホームページ、徳島): http://awa-hs.tokushima-ec.ed.jp/

 生田花世(1888(明治21年)~1970(昭和45年)、作家)は、松島中学校(松島町、のち上板町、板野郡)の校歌とよく似た思いの阿波高等学校(柿原村、のち吉野町、阿波郡、阿波市)の校歌の歌詞を作っています。両校は、私の思い出深い出身校です。

 阿波高等学校歌(花世作詞)、 

 その一、 南空高く 雲をつき 堂々雄姿 そそりたつ  四国の鎮め 剣山や 高越の峯を仰ぎ見む、と学舎から眺める遠くの雄大な風景を詠っています。 

 その二国改まる日の本の 希望に映えて洋々と 吉野の大河 流れゆく 水の力をおもいみむ、と 戦後の日本が、力強く、希望に満ちて復興している姿を、吉野川の大河の力強い水の流れに喩えています。

 その三、 男の命つよさなり 女の道はやさしさよ 力をあわし この郷(さと)に 文化の華(はな)を たたえなむ、と昔から人のよさ(美徳)となっていた、男の人の力強さ、女の人のやさしさを生かし、共に力を合わせて、ふるさとの文化の華(はな)を咲かせますように、との願いが込められているような感じがしました。

 このれら歌詞は、上述の松島中学校の校歌と構成がよく似ています。 

 ところで、1994年(平成6年)3月6日(日)の朝日新聞(朝刊)によれば、阿波高等学校(岡本武文校長)で、校歌の三番の歌詞が男女の役割を固定化する内容のため好ましくないので、1日にあった今年の卒業式から二番までしか歌わないとの記事が出ていました。

 また、同校体育館の掲示板からも三番が消え、4月の新学期から使う生徒手帳や学校要覧でも削除する。三番の歌詞は同窓会館の額に残るだけとなり、卒業生からは、三番が一番いい歌だったのに、と残念がる声が出ている、とのことです。

 この歌詞は、戦後、男女共学となり、1951年(昭和26年)に当時の教頭が上京、県出身の作家として知名度の高かった生田花世、1888(明治21年)~1970(昭和45年)、に作詞を依頼、曲をつけ、校歌として長年歌われてきたものです。

 三番の歌詞は、私には男女の役割を固定化する内容とも思えず、作詞した当人にその意味を聞いてみたいところです。

 京都大学の森毅名誉教授の話は、校歌は校舎に付属しとるもんやなく、在校生のためのもの。歌うか歌わんかはそこの人が決めればいい。しかし、人権がどうのこうの言うより、ダサイ、と言った方がよかったな。郷愁を覚える卒業生はそれぞれ歌ってもらえばいいでしょう、とのことです。

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 なお、校歌の完全版は、花世の自筆ではなく、15才年下で早世(24才)した弟、満州郎(詩人)の自筆となっていました。

 生田花世

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生田花世(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%B0%E8%8A%B1%E4%B8%96

 生田花世(いくたはなよ)は、1888年(明治21年)10月14日、徳島県板野郡泉谷村(現上板町泉谷)西崎家で生まれました。家は代々製糖(阿波三盆糖製造)を主業とする豪農でしたが、明治以降、安価な外塘の輸入増大により、また、父親が45才の若さで死去し、多額の借金を抱え、没落しました。西崎家の菩提寺は、糖源公園の北にある和泉寺(阿波西国33ヶ所、26番)です。

 花世は西崎安太郎の長女で4弟2妹がありました。父安太郎は明治38年より同42年まで松島村長に就任しました。父は漢学者でもあり、「菊花のような香り高い幸せとこの世を花の世とせよ」との祝意を込めて「花世」と命名しました。

 1908年(明治41年)、21才の時、3年奉職した小学校(半田、御所、引野)の教師を辞め、文学を志し上京しましたが、東京生活は、言葉で言い表せぬ苦労が多く、「食べることと貞操と」を、「反響、5号」に発表、社会を巻き込む貞操論争となるなど、屈辱的な体験もしています。

 1912年(大正元年)、25才、平塚雷鳥(ひらつからいてう、1886~1971)の主宰する新しい女性の文学集団、青鞜社(せいとうしゃ)に入社、以来、雑誌、青鞜に多くの作品を発表しました。青鞜は、伊藤野枝尾竹紅吉(一枝)らも集まり、女性の文芸雑誌から女性解放へ軸足を変え、母性保護を訴えるなど、近代日本女性史に一時期を画しました。 

 1914年(大正3年)3月5日、27才の時、河井酔茗(かわいすいめい、1874~1965、詩人、堺、大阪)の媒酌で生田春月(いくたしゅんげつ、1890~1930、米子、鳥取、22才)と結婚、貧しいながらも家庭をもって共に文芸活動に励みました。そして、「青鞜(せいとう)」8月号に「広がる愛」を発表、この時から生田花世筆名として使っています。それまでは、西崎花(16才、高等女学校3年生、雛祭りの記、才媛文集)、長曾我部菊子(小学校教師、産土神、女子文壇)などのペンネームで投稿しています。生田春月(いくたしゅんげつ、1890~1930):http://www.urban.ne.jp/home/festa/ikuta.htm#top; http://www.yonago-toshokan.jp/45/277.html.

 花世は日本初の女流文芸史も執筆。著書は、女流作家群像(行人社、昭和4年)、燃ゆる頭(中西書房、昭和4年)、一葉と時雨(潮文社、昭和18年)、源氏物語解説(生田源氏の会、昭和42年)、生田花世詩歌全集(木犀書房、昭和46年)ほか多数あります。

 1970年(昭和45年)10月、83才、生田源氏の会の会員たちにより、東京都八王子市の光照寺境内に花世の歌碑が建立され、除幕式に福島病院(心臓病で入院、上目黒、東京)から出席しました。同年12月8日、死去。 東京都八王子市絹ケ丘3-8-1 光照寺墓地 生田家墓域  ふるさとの 阿波の鳴門に 立ち出でて すくひ上げたる 白き砂はも  S.45.誕生日(10.14)。(松島村は後年上板町に合併)。(郷土「上板」が生んだ女流文学界の異彩、生田花世、上板町立歴史民俗資料館、より) 生田花世(wikipedia, ウイキペデイア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%B0%E8%8A%B1%E4%B8%96.

 青鞜(せいとう)は、1911年(明治44年)9月、女性の地位向上にに尽くした平塚雷鳥(ひらつからいてう、1886~1971)が呼びかけてできた日本初の女性のための文芸誌です。特に、女性の自立や母性の保護などをテーマに掲げています。1916年(大正5年)2月号まで52冊発行され、その後、無期休刊しました。花世が青鞜に書いた「恋愛及生活難に対して」という文章を読んだ詩人の生田春月が感動し、見ぬ恋をして二人は結婚する事になりました。二人のラブレターを青鞜に発表し、天下に公表した結婚でした。

○ 瀬戸内寂聴

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瀬戸内寂聴(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%AF%82%E8%81%B4

 1961年(昭和36年)、瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう、1922~ )は、「かの子撩乱(りょうらん)」を執筆するにあたり、岡本かの子(おかもとかのこ、1889~1939)と親しかった生田花世から、かの子について知る限りのことを、東京中野駅前の喫茶店で聞いていますが、花世の口は矢継ぎばやで阿波弁のなまりの強い話しぶりであったという。(北陸中日新聞、2011年(平成23年)11月30日(水)、12月1日(木)、夕刊より) 瀬戸内寂聴(wikipedia、ウイキペデイア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%AF%82%E8%81%B4.

德島県立文学書道館生田花世、瀬戸内寂聴の関連資料含む):http://www.bungakushodo.jp/.

曼陀羅山 寂庵(寂庵へようこそ、嵯峨野、京都):https://www.jakuan.jp/

○ 松岡康毅

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松岡安毅(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E5%BA%B7%E6%AF%85

 松岡康毅(まつおかやすたけ、1846~1923)は、德島県板野郡松島村(のち上板町)七条出身、官僚政治家です。1906年(明治39年)西園寺内閣の農商務大臣、のち男爵、1922年(大正11年)日本大学初代総長となりましたが、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の被災で亡くなりました。

 生田花世が上京していた明治の頃は、大臣として活躍していました。 松岡康毅(朝日日本歴史人物辞典): http://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E5%BA%B7%E6%AF%85; 関係文書(国立国会図書館所蔵):http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/matsuokayasutake1.php. 

 生田花世の短編秋の或る夕の事、の中に、上京後、途方に暮れていた時に助けてもらった同郷の1人の巡査の言葉として、「なほ困りゃ松岡さんが来てるゾ、と、このように同じ県から出て出世して大臣になっている人の名を言って笑った」と記されています。(桂冨士郎著:阿波文学散歩、p.154、生田花世、秋の或る夕の事、德島新聞社(1999)より)

○ 上板町

 上板町は、1889年(明治22年)の町村制施行によりできた、板野郡松島町、大山村、名西郡高志村など3ヶ町村が、1955年(昭和30年)3月31日、合併して発足、現在に至っています。上板町ホームページ(上板、徳島): http://www.townkamiita.jp/

 上板町(徳島)の北部山麓地帯、上板町引野は、阿讃山脈を越えた引田町(香川)に接しています。その地域は、阿讃山脈に源を発する泉谷川をはじめ、6河川からの土砂の流出による堆積層によって形成された扇状地で、地質は、中生層に属し、和泉砂岩(和泉層群)よりなり、土質は酸性度が強く、やせていて、粟、大豆、芋類以外は育ちにくかったのですが、砂礫土で排水がよく、溜池、井戸水、谷水なども利用できましたので、甘蔗(サトウキビ)栽培に適していました。

 阿讃山脈の山麓を東西に走る大きな地層が、阪神大震災で有名な活断層の一つ、中央構造線です。この地層は、関東の長野県の諏訪湖から、紀伊半島、四国の阿讃の山並みを経て、西南日本を縦断、九州の熊本県八代に伸びる大断層です。明治の初期、ドイツから日本に来たナウマン(東京大学、地質学教室、初代教授)が、日本の各地を歩いて調査、1885年(明治18年)、中央構造線と命名、その地質構造を明らかにしました。

○ 中川虎之助

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中川虎之助(八重島・石垣島開墾、徳島県立博物館): http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/mnews/No60.pdf

 中川虎之助(なかがわとらのすけ)、1859年(安政6年)~1926年(昭和元年)は、徳島県板野郡神宅村(現上板町神宅)にて中川家の3男として出生。家は代々製糖、酒造、藍作を業とする旧家であった。

 1868年(明治元年) 明治維新により開国、外国から白砂糖が入るようになり、日本の製糖は奄美大島と沖縄県の黒砂糖のみとなってきました。

 1877年(明治10年)頃から、近代的な機械式製糖法によっる安価な外国産砂糖の輸入量が次第に増大し、日本の旧来の伝統的和式製糖法によって砂糖を生産する国内の業者は大きな打撃を受け、経営不振が続き、没落して行きました。

 1881年(明治14年)、第2回内国勧業博覧会(東京)で、中川家出品の「阿波和三盆」が品質優秀、「有効一等賞」を受賞、虎之助は功労者として表彰されました。この時出品されていた沖縄産の大きな甘薯(かんしょ)が目にとまり、和三盆製造研究のため、沖縄本島、八重山群島(石垣島)での甘薯栽培を調査しました。 

 1894年(明治27年)、石垣島の名蔵地区を開墾して和三盆製造に取りかかりました。栽培から製糖まで一貫生産し、糖度が高く、安価な原料によって砂糖を大量生産して、輸入増に対抗するつもりでした。

 しかし、3年後、1897年(明治30年)11月、翌年6月の2回、大型台風が石垣島を直撃し、1899年(明治32年)操業中止となり、1902年(明治35年)解散しました。しかし、製糖技術は現地の人達に受け継がれ、今日の石垣市の基幹産業、糖業の礎となりました。

 その後、虎之助は、石垣島の工場で使用していたボイラーを台湾の製糖業者に売却するため台湾に渡りましたが、台湾総督、児玉源太郎、民政長官、後藤新平から、台湾での精糖工場経営を助言されました。

 1890年代末~1900年代始め、日清戦争に勝利、日本領となった台湾に近代的製糖工場が相次いで設立されました。

 1901年(明治34年)、虎之助は中川製糖所を台湾で設立しましたが、日本に機械製糖品の安価な外国塘の輸入量が急増、日本国内の和式製糖業者も衰退の一途をたどり、また、再度操業停止に追い込まれました。

 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に立候補し当選、1915年(大正4年9までの7年間、代議士として国政に参加、砂糖税の改正(輸入砂糖の税率を上げる提案)などで大いに国内糖業界のために尽力し、砂糖代議士という異名を取りました。

 その後、虎之助は郷里の神宅(かんやけ、のち上板)に帰り、村の土地が柿と桃の栽培に適していることに着目し栽培に取り組み、その地域は現在も柿と桃の名産地となっています。

 1990年(平成2年)5月、石垣市の郷土史家、西表信氏が中川虎之助伝執筆のため中川家を訪れ、同年11月、中川家から虎之助が石垣島開拓に使用した農機具を石垣市へ寄贈したことを契機として、石垣市と上板町の友好の機運が高まっていきました。1995年(平成7年)には、両自治体が友好都市に関する「新書」の交換、1996年(平成8年)には石垣市長が上板町を訪問するなど、着実に交流が進みました。 

 1999年(平成11年)7月17日(土)~22日(木)の6日間、徳島県板野郡上板町にあるテーマセンター「技の館」において、「第1回石垣島・上板町観光物産友好交流フェア」が開催されました。砂糖が取り持つ縁で、1500キロ離れた沖縄県石垣島市との観光物産交流フェアが同所で実現しました。(alic、独立行政法人農畜産業振興機構、砂糖類ホームページ、国内情報、地域だより、大坂事務所、砂糖がつなぐ夢の架け橋1500キロ!1999年9月より)

 上板町と石垣市は、2000年(平成12年)に「ゆかりのまち」として提携、文化交流が始まりました。徳島県上板町の文化交流使節団が、2006年(平成18年)1月18日午後、上板町制50周年、石垣市とのゆかりまち提携5周年の節目に、名蔵小中学校(照屋千鶴子校長)を訪れ、自作の紙芝居「中川虎之助」を公演しました。文化交流には、上板町の板東宏教育長、さわらび読書会など9人が参加、上板町を紹介するとともに、紙芝居を披露し、相互理解と親善を深めました。(八重山毎日新聞、2006年1月19日、より) 石垣市(ホームページ、沖縄):http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/.

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伊藤汎監修砂糖の文化誌ー日本人と砂糖ー、八坂書房(2008)、渡辺信一郎著、江戸の庶民が拓いた食文化、三樹書房(1996) より)

○ 砂糖の歴史

 江戸時代、鎖国を行った1639年(寛永16年)以降は、日本砂糖輸入は、中国や東南アジアからの「唐舟」とオランダ舟によるもので、江戸中期頃までは、砂糖の主な輸入先は、ベトナム、タイ、台湾、インドネシア、中国などでした。

 江戸時代の百科事典、「和漢三才圓會」、1713年(正徳3年)には、白砂糖、氷砂糖、黒砂糖、石蜜とあって、全て外国から渡来し、長崎を経て全国に広められると述べられ、日本での産地は記されていません。このことから、江戸中期には、砂糖は全て舶来品であり、また貴重品であった事が分かります。

 白糖の上品を三盆と言い、また唐来品であったので「唐三盆」と言う。白糖を精製した上等のものをなぜ「三盆」の字を当てたかについては、「守貞漫稿」、1853年(嘉永6年)28編には、支那よりは三種白糖を持来る。上品三盆本と云う。上白下品太白と云う、と記されていることから、中国からの舶来品であるので、唐、その時に白糖の上等、中等、下等の三種の砂糖が入来したため、三種の内の最高級という意味で、「三盆」と言われました。

 サトウキビによる砂糖生産は、ヨーロッパ世界が新大陸に進出し、植民地を拡大するに伴い、産業革命から20世紀に至る科学技術の発展により、大規模な砂糖産業に成長しました。その生産地には、新大陸(キューバ、ブラジル、コロンビア)、アジア(インド、インドネシア、フィリピン、タイ、パキスタン、台湾)、南アフリカ共和国、アメリカ合衆国(ハワイ、テキサス、ルイジアナ、フロリダ)、オーストラリアなどがあります。

 インド仏教典に砂糖やサトウキビに関する記述があり、砂糖の英語名、Sugarの語源が、古代インドの言語、サンスクリット語で、サトウキビという意味のSarkara(サッカラ)に由来ということで、砂糖始まりインドと言われています。

○ 江戸時代1600年代、日本のサトウキビ栽培は、1610年(慶長15年)、儀間真常(ぎましんじょう、沖縄)、直川智(すなおかわち、奄美大島)により、中国福建省から相次いで琉球(沖縄)、奄美大島へ、シネンセ種(中国細茎種)のサトウキビの導入と共に始められたと言う。

 徳川吉宗の奨励策に支援されて日本本土各地に普及し、高品質和糖の原料とされたのもこの種という。

 サトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。

 それは、外国産(オランダの金平糖(コンペイトウ)、中国の唐三盆など)の長崎での輸入の砂糖が高価だったためです。

 琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。

 1869年(明治2年)、沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的多く、株の再生も中庸で、黒糖原料としての美味しさと栄養性、フラクトオリゴ糖が多いなどの長所を持ち、香川、德島では和三盆の原料として今も用いられています

 読谷村は、沖縄中部で、1945年(昭和20年)4月1日、太平洋戦争の沖縄戦で米軍が最初に上陸した沖縄本島の地です。森山良子「さとうきび畑」、作詞作曲、寺島尚彦(1930~2004)でもよく知られたところです。

 平和を祈る歌(沖縄・沖縄本島)、サトウキビ畑(米国占領下で生まれた平和を祈る歌、寺島尚彦、作詞作曲)、とは: http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-7d44.html

 黒糖(黒砂糖)は、純度75~86%。サトウキビのしぼり汁をあく抜きしながら濃縮して(130℃でひたすら煮詰める!)かためたものです。黒色をして糖蜜(ブドウ糖や果糖がたくさん含まれている)を含んでいて、これを分離すると白砂糖となるので、分蜜糖ともいう。砂糖の結晶は無色透明で、白く見えるのは光が乱反射するためです。

 黒糖には、カリウム、カルシウム、鉄などが5~6%含まれ、また、抗酸化作用が注目されるポリフェノールに、美白効果があるといわれるアルブチンなどもそのまま残っています。

 黒褐色の独自の色は、様々な成分が混じっているのと加熱による変色のせいだという。白い砂糖にはない香ばしさは加熱で生まれ、コクの元は豊富なアミノ酸です。

 沖縄県黒砂糖協同組合(那覇市)によると、沖縄本島産や石垣島産の黒糖はなく、沖縄で黒糖を作っているのは、波照間島、多良間島、西表島、伊平家島、栗国島、小浜島、与那国島の計7離島だけだという。他の島のサトウキビは主に粗糖にされ、精製して上白糖などの白い砂糖になるそうです。

 黒砂糖白砂糖栄養分については、ショ糖は黒砂糖では80%ほど、白砂糖(グラニュー糖)では100%で、両者の間に約20%の差があるが、黒砂糖にはショ糖のほにブドウ糖、果糖などが含まれているため、エネルギーには余り差がありません。黒砂糖にはほかにも、カルシウム、カリウム、マグネシウムなどのミネラル、さらに、ビタミンB群やナイアシンなどのビタミン類が含まれていて栄養豊富です。伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008)より)

 薩摩藩主島津氏は、奄美大島を支配、琉球をも半ば支配し、当時、砂糖は高価な食べ物で、大きな利益があがりました。薩摩藩は砂糖を藩の専売とし、砂糖を財源にすることで、幕府に対抗できるほどの財力を蓄え(富国!)ました。この藩が、明治維新中心になったのは、ここにも遠因があったという。砂糖は甘味料、調味料として重要ですが、その防腐効果を利用して、砂糖漬、練ようかん、お菓子の金平糖(こんぺいとう)などもつくられます。また、疲労回復の効果もありますが、過度に食べると胃腸を害し、骨格の成長を阻害するという。

○ 阿波和三盆糖 

  阿波和三盆糖は、1789年(寛政元年)~1800年(寛政12年)頃、引野村(引野、松島村、松島町、上板町、徳島)の丸山徳弥山伏、玉泉)、1753年(宝暦3年)~1821年(文政10年)、により、はじめて作られたと言われています。

 山伏(やまぶし、山臥)は、修験道(しゅげんどう、原始以来の山岳信仰、道教、仏教など融合、神仏習合の民衆宗教)に基づき、山野を行場とする呪術(じゅじゅつ)宗教者で、奈良時代、山林修行による呪術力の獲得、独自の儀礼による治病、各種の祈祷に従事、役小角(えんのおづぬ)が始祖とされています。

 熊野、吉野をはじめ、出羽三山、白山、四国石鎚山、九州英彦山(ひこさん)などの霊山を拠点とし、加持祈祷や呪符の配付、霊場への案内などによって、中世及び近世を通じ、民衆宗教家として大きな位置を占めました。聖護院を本山とする天台宗本山派と醍醐三宝院を本山とする真言宗当山派に分かれています。明治維新以後、神仏分離令により、修験道は廃止となりましたが、戦後再び独自の活動を行っています。

 1830年(天保元年)~1832年(天保3年)、大阪廻送された白糖産地別生産量は、讃岐61.5%、阿波23.9%、和泉12.5%、紀伊1.5%、伊予0.2%、備前、備中、備後各々0.1%となっています。

 また、阿波の産地として、1819年(文政2年)頃の生産量は、板野58.1%、阿波34.1%、那賀3.4%、麻植2.3%、名西2.1%、美馬0.1%で、板野と阿波の両郡で全生産量の90%以上を占めていました。

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川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より)

○ 葬儀のしきたり

 は、一般に死者は、棺桶(かんおけ)、あるいは甕(かめ)に納め、墓地の地中に深く土葬していました。明治時代(1868~1911年)になって、伝染病で死亡した場合には、必ず死体を火葬にしなければならなくなりました。ところが、明治時代の末頃から、一般の普通の死亡者も次第に火葬にする傾向が増えてきました。

 松島村(のち上板町)では、1897年(明治30年)7月22日、引野字東原の北約100mの松林の中に火葬場を建設し、許可を得て、この目的に使用しました。ここの一帯はもとはうっそうとした松林で、土地の人々は大林と呼び、南入口には大きな墓地があり、付近には民家は一軒もなく昼間でも寂しい場所でした。

 大正時代(1912~1925年)も半ばを過ぎ去った頃からは、土葬はほとんどなくなったので、村では1913年(大正2年)6月、従来の火葬場を増改築して時代の要請に応えました。

 その後、1935年(昭和10年)12月、農林省四国種馬所徳島出張所(のち徳島県畜産試験場、畜産研究所(上板、徳島):http://www.pref.tokushima.jp/tafftsc/chikuken/outline/ )、松島千本桜)が火葬場の地に開設されることになり、移転を余儀なくされ、1936年(昭和11年)8月、七条字西原に移転し、近代的な火葬炉を二基持つ新火葬場が建設され、使用されるようになりました。私が学んだ松島中学校は、松林のこの火葬場の数百メートルほど西方にあったのですが、火葬の際の煙が風に乗って校舎に届いた時には、何ともいえない臭いがしたことを覚えています。

 それから30年後、時代の変遷と共に、施設は老朽化し、その他諸種の要因により、1968年(昭和43年)4月、その使用を禁止し、同年5月1日から吉野町(のち阿波市)、8月1日から鴨島町(のち吉野川市)に対し、火葬場使用に対する事務を委託し、その後、両町の火葬場を使用しました。現在では、吉野川市斎場(鴨島町中央火葬場、吉野川市、徳島)の火葬場を使用しています。(児島光一著、上板昔読本、教育出版センター(1981)より)

○ 葬式のやり方今昔 日本で葬制ができたのは孝徳天皇の大化2年(646)で、当時は土葬であった。それ以前には、死体を甕(かめ)におさめたり、石棺におさめ、さまざまな貴重品とともに埋葬したりした。現在も大阪、奈良地方に残る古墳群が当時の埋葬文化をしのばせる。 天武天皇の4年(675)に元興寺の道昭という人を、遺言により火葬したのが、火葬の初めだが、火葬はそもそも仏式に限られていた。その遺骨はおもに壺におさめて埋葬したようだが、山野にまき散らすことも多かったらしい。「万葉集」の挽歌にも「清き山辺にまけば散りぬる」とある。

 仏教の普及とともに公家、武家をはじめ、庶民に広まった。特に江戸時代の初め、キリスト経禁令で宗門改めの制が設けられたため、一般に檀那寺を決めている檀徒の証明が必要だったから、仏式による葬式が圧倒的になった。それでも神道は根強く、徳川家康なども神式による葬儀だった。

 ところで、日本には古くから村民の交際倫理として葬式組という相互扶助の仕組みがある。人が死ぬと世話役の指揮により、この葬式組が組織され、死を告げに行く知らせの使い、諸道具をそろえる役、炊事の手伝いをする役、穴掘りの役などを分担する。この形式が現在の葬儀に引き継がれているわけだ。(樋口清之(監修): 生活歳時記、p.173,葬式のやり方今昔、三宝出版(1994)より)

○ 古来の葬儀では、「(さかき)」や「(しきみ)」を飾っていました。(さかき)は、「古事記」に記されているように奈良時代の頃から認識され、主に神道の葬儀で使用されていました。一方、(しきみ)は主に仏教の葬儀の中で使用されることが多いようです。一説には、奈良時代の天平の頃、鑑真和尚(がんじんおしょう)が日本に持ち込んだとも、また唐招提寺に樒を供えたともいわれています。樒も一年を通じて葉が茂っている常緑樹です。(2011年(平成23年)3月9日(水)、古来の葬儀、季節を彩る花物語、北陸中日新聞、夕刊より)

 樒(しきみ)はモクレン科の常緑小高木です。山地に自生し、また墓地などに植えます。高さ3m、葉は平滑、春、葉のつけ根に黄白色の花を開きます。花弁は細く多数、全体に香気があり、仏前に供え、また葉と樹皮を乾かして粉末とし、抹香または線香を作ります。実は甘いが猛毒で「悪しき実」が名の由来という。シキビ、コウシバ、コウノキ、木蜜、仏前草ともいう。

 (さかき)はツバキ科の常緑小高木です。葉は厚い革質、深緑色で光沢があり、5~6月頃、葉のつけ根に白色の細花を開きます。古来神木として枝葉は神に供えられています。

○ 年忌供養(ねんきくよう) 死後7日ごとに供養し、四十九日の中陰があけたあとは、一周忌・三周忌以下、七年・十三年・十七年・二十三年・二十七年・三十五年・四十九年と年忌がある。そして最終の年忌を機会として個々の仏に対する供養を終える。(神葬の場合もほぼ同様の年ごとに神葬祭を行なう)。

 最終年忌を弔(とむら)い上げと称するが、七年忌で終える所もあれば、四十九年忌・六十六年忌までする所もある。弔い上げには他の年忌と異なった行事を行い、それまで仏壇に納めていた位牌を、焼き捨てたり墓の中に納めたりする。なお、弔い上げが終わると、仏は神さまになると一般に信じられている。

 仏壇(ぶつだん)が庶民のあいだに広がるのは江戸時代の中期以後のことで、先祖や近親者の御霊(みたま)のしずまる場所として位牌を安置するための厨子(ずし)である。

(大島、佐藤、松崎、宮内、宮田編: 図説 民俗探訪辞典(1版19刷)、p.189~190、年忌供養、仏壇と位牌、山川出版(2005)より)

○ 私の生家

 私の生家(徳島)は、明神山の糖源公園の南を歩いて下り、10分ほどのところですが、祖父(本浄家養子、訓導、紋蔵、神宅村、安芸家出身、跡取りの浪太郎日露戦争戦死)が植えたのか、本宅(向き)のすぐ隣の畑には、西に柿、西南に桃がありました。今も名残りの柿、大きな夏みかんの古木(南)があります。家の裏()は、竹、椿、椋(むく)で覆われ、には樫とヤマモモの大木がありましたが、伐採や枯死により、現在は名残の椿が垣根となっています。

 (本浄家養子、農業技手、利治、高志村、新開家出身)は、私が小学校の頃は、農事試験場に勤務、木頭村(のち那賀町、那賀)までも農業指導で出かけ(単身赴任、のち退職)、農業しながら、柿、桃、ミカン、茶などの栽培、果樹の剪定(せんてい)をしていたのを覚えています。(きとうむら、木頭村、ブログホームページ: http://www.kitomura.jp/

 また、家のすぐ隣の東の畑ではサトウキビを栽培し、製糖所(影山)で褐色のねば砂糖(黒砂糖)を作ってもらい、四角の大きな金属缶に保存し、家で使っていました。太平洋戦争が始まり、砂糖(台湾産)の供給が絶たれ、砂糖は配給制となり、戦後は配給制も打ち切られ、砂糖が不足してきたので、昔のサトウキビ栽培が復活したのではないかと思います。自宅のすぐ東の畑の一角に大きな穴(サトアナ)を掘り、サトウキビを保存し、次年度の作付けに使いました。また、戦後まもなく、私の家の近く(川瀨家)では、シメ小屋があり、牛を使ってサトウキビをシメていた(サトウ汁の採取)のを覚えています。

 私が小学校の頃、近くの山にはアカマツ林が多く、秋にはマッタケが沢山採れ、臭いをかぐのも嫌なほど、焼きマッタケを食べたことがあります。この村の山は、ほとんどがアカマツ林で、その他、コナラ、ウバメガシ、ニセアカシア、竹林など全て代償植生であり、それは、江戸時代より製糖が盛んであったため、燃料材の伐採とアカマツの植林がが繰り返して行われたこと、また山火事が度重なったこと(地元の人々は竹筒に水を入れて、山火事の消火にあたったという?)が考えられています。しかし現在ではアカマツ林の手入れもされず、自然まかせで、マッタケも生えなくなっているようです。(阿波学会研究紀要、郷土研究発表会紀要、第27号、総合学術調査報告、上板町、1981年3月より) 阿波学会研究紀要(上板町): http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/klist_right6.htm

○ 私の郷里(引野、松島、のち上板、德島)の本浄家過去帳によれば、本浄源藏(5代目)の倅(せがれ)、浪太郎は、1904年(明治37年)9月3日(旧7月24日)、日露戦争で亡くなっています(渤海湾近く?)。享年22才。自宅の床の間には、勲章をつけ羽織袴の肖像画がかけられていました。本浄家の墓地では、浪太郎さんのお墓は、本浄家の先祖のお墓の中でも特別大きなお墓であったので、子供の頃から強く印象に残っています。これは、戦死者は「英霊」として、先祖代々の墓とは独立した個人墓を建立することが重視されていたためです。

○ 私の郷里は、阿讃山麓の農村地域にあり、草葺屋根(麦ワラ屋根)の家の周囲は屋敷林で囲まれていました。その樹種は、おもに母屋の裏()は、ムク(椋、ニレ科)、ツバキ(椿、ツバキ科)、タケ(イネ科、タケ亜科、またはタケ科、真竹)が多く、にはマキ(羅漢槙、イヌマキの変種)の垣根、カシ(樫、ブナ科)、エノキ(榎、ニレ科)、ヤマモモ(山桃、ヤマモモ科)、西にはマキ(羅漢槙、イヌマキの変種)の垣根、柿(富有柿、カキノキ科)畑、南はミカン(夏蜜柑、ミカン科)、ビワ(田中枇杷、バラ科)などに囲まれていました。

 また、本宅の西には納屋、牛小屋、鶏小屋、表玄関のの方には広い庭があり、見晴らしがよかったことを覚えています。そして、庭のの端にはツルベ井戸、西の端には瓦屋根の外便所と風呂場を備えた建物がありました。

 家は草葺屋根(麦ワラ屋根、のち赤色トタンを被せる)で、家の周囲を囲む屋敷林は、おもに夏の台風(東南風)、冬の風(北西風)から家を守る防風林と思われます。 

 昔は屋敷神(やしきがみ、地主神)が、家の守護神として、屋敷内や付属地にまつられました。地方により、内神、氏神、荒神とも。祖霊信仰に由来すると考えられるが、稲荷、八幡、熊野、明神(神明とも)、秋葉、祇園などの神が勧進され、それらが祭神とされるに至りました。

 屋敷林は、防風林だけが目的ではなく、カシ(樫)防火にも役立つとされ、竹林地震のときの駆け込み場であり、堤防土留め強化に植えられたこともあるという。

○ 私の故郷周辺は、樹木、竹薮、果樹など屋敷林で囲まれていました。草葺屋根(麦ワラ屋根)の母屋の側(裏)は竹薮(真竹)、大きなエノキ(榎木)、ムクノキ(椋の木)、ツバキ(椿)、ウメ(梅)、小ビワ、ユスランベ、側は大きなカシノキ(樫の木)、ムクノキ(椋の木)、サクラ(桜、ソメイヨシノ)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、東南に大きなヤマモモ(山桃の木、老木となり台風で倒壊)、また、大きな渋柿の木(上部が台風で折れる)がありました。

 一方、母屋の側(表)は大きな夏ミカン、大きなタナカビワ(老木となり台風で倒壊)、スダチ、キンカン、インドヤシ、南西側に大きなクスノキ(楠木)、ウメバガシ(外トイレの背後)、西側にはモモ(桃)と柿(甘ガキ、フユウ)畑、その下はクサイチゴ、小ビワ、サクランボ(桜桃)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、西北に大きなクリ(栗)の木があり、自然豊かな姿でした。  

 これらの樹木も、母屋を新築した時、ほとんど伐採したので、現在、昔の面影が少し残っている程度で、家の周辺は見違えるほど明るく、見通しも良くなっています。また、屋敷の周辺の畑の畦(あぜ)には、の木が植えてありましたが、現在もその名残の姿を見ることができます。 

 私が小学生の戦後まもなくの頃は、自宅(引野、松島、のち上板、德島)近くの西北では陸稲、大麦、小麦、粟(あわ)、タカキビ、コキビ、トウモロコシ(ナンバ)のほか、サトウキビ、サツマイモ、サトイモ、ジャガイモ、タマネギ、ネブカ、ワケギ、ラッキョウ、大根、カブラ、菜の花(アブラナ、ナタネ)、ゴマ、フキ、ゴボウ、ニンジン、コンニャク玉、白菜、キャベツ(玉菜)、ホウレンソウ、春菊(シュンギク)、アカジソ、アオジソ、ニラ、ショウガ、ミュウガ、パセリ、落花生(ソコマメ)、カボチャ、大豆、ソラマメ、エンドウ、アズキ、ササゲ、インゲンマメ、枝豆(アゼマメ)、トウガラシ、ピーマン、トマト、キュウリ、スイカ、キンウリ、マクワウリ、カンピョウ、クサイチゴ(フウユウ柿の木の下の周辺)、ウド、タバコ、ワタ(綿花)、桑、茶、柿、桃などを栽培していました。

 また、近くの西の田畑では水稲と大麦の二毛作、遠くのの田では湿地であり水稲のみを栽培していました。梅雨前の4~5月頃、水田で綱(つな)を張り、長方形の木枠(きわく)などを使い、手で苗を植えていました。が、しばしば水田のヒル(蛭)が足に吸いつき、取り除くと真っ赤に出血したことがありました。

 水田では、田の草を手で、あるいは手押しの草取り機、八反ずり(田すりとも)などで取り除き、水の管理(溜池と用水、野井戸、バケツつき鎖の滑車、のちポンプつき発動機など)、稲刈り、ハデかけ(乾燥)、リヤカーによる稲束の自宅の庭への運搬などの手伝いをしました。 

  麦(裸麦、小麦)の脱穀と選別作業については、1929年(昭和4年)頃からトバタ石油発動機と脱穀機を泉谷の農家25人が講(発起人、かん医者林久雄、吉田芳太郎氏)によって購入、泉谷地区のほか、引野、鍛治屋原、七条など各地域にも出張して脱穀、選別(発動機講!)していました。(児島光一:上板昔読本、発動機講、資料、吉田武男、p.147~153、教育出版センター(1979)より) 

 また、戦後の麦と米の脱穀作業は、各農家では、かなばし(すごいて穂を落とす)、からさお(たたいて麦粒をたたき落とす)、とおし(麦粒と穂のかすを分ける)、とおみ(麦粒からいがを飛ばして選別精製する)など、昔ながらの重労働でしたが、次第に戦前の発動機講と同じように、発動機と脱穀機が順番に各家を回り、地域ごと(隣組)の協同作業で脱穀選別が行われていました。

 私の家では、作業後、自宅の黄色に熟して甘い大きなタナカビワ、小ビワなどみんなで一緒に食べていたのを覚えています。タナカ(田中)ビワは、原産地は中国で、 長崎から東京に持ち帰り播種選抜した植物学者、田中芳男の名に因むものです。

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郷里(天神前、引野、上板、德島)にマイカー(ファミリア1500CC)で帰省、2009年(平成21年)8月4日撮影 

○ 新制教育制度

1946年(昭和21年)11月3日 日本国憲法公布(47年5月3日施行)。(吉田内閣)

1947年(昭和22年)3月31日 教育基本法、学校教育法公布(6・3・3・4制を規定)。4月1日 国民学校廃止、小・中学校の6・3制発足。5月3日 日本国憲法施行。(吉田内閣)

1948年(昭和23年)4月1日 新制高等学校発足(旧制高校廃止)。4月1日 新制女子大学発足。9月18日 全日本学生自治会連合(全学連)結成大会。(芦田内閣)

1949年(昭和23年)4月23日 GHQ(連合国軍総司令部)が1ドル=360円の単一為替レート設定を発表。25日 実施。5月31日 新制国立大学69校設置。(吉田内閣) 

1953年(昭和27年)4月1日 12国立大学に新制大学院設置。(吉田内閣)

戦後史年表 1926ー2006、朝日新聞社(2007)、より) 

〇 阿波国(徳島)支配の歴史

 飛鳥時代  616年(大化2年) 朝廷、阿波国設置、大化改新(645年)の7年のち,土地と人はすべて朝廷(国・天皇)のものとし,農民には口分田(くぶんでん)を貸し与えると言うきまりができました。

 奈良時代  中央集権的な律令体制国造)朝廷により任じられ地方を治める。日本の荘園は、朝廷が奈良時代、律令制下で農地増加を図るために有力者が新たに開墾した土地の私有墾田私有)を認めたことに始まる。

 荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。荘園ができるまでは,日本の農地はすべて朝廷が持っていました。

 平安時代 王朝国家体制国司、受領)、平安時代荘園には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ免税のために寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。

 王朝国家体制の下では、国家から荘園の土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していった。

 平安時代には地方の有力者が次々と武士になり,その一部は都で貴族につかえて屋敷を守ったり,ボディーガードをしていました。

 鎌倉時代 守護(軍事指揮官・行政官、武家の職制)、地頭(荘園で、租税徴収・軍役・守護に当たった管理者、のち領主) 佐々木氏、小笠原氏

 室町時代 南北朝 細川氏一族、のち 守護、地頭(武家の職制、領主)、川氏、三好氏、松永氏

 安土桃山時代 身分統制令、大閤検地、刀狩、兵農分離、長宗我部氏のち 蜂須賀氏

 江戸時代 武家藷法度、親藩、譜代、外様、身分制度、士・農・工・商、一国一城令、大名の官僚化、蜂須賀氏

 

 

 

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