« 阿波和三盆糖の里(徳島)の歴史伝承、熊野神社、丸山古墳、サトウキビと糖源公園(丸山徳弥彰徳碑、生田花世歌碑)、引野天神跡、共同墓地、本浄姓のルーツ、松島神社、土地制度、名字(苗字)、新制学校校歌、生田花世と瀬戸内寂聴、松岡康毅、中川虎之助(代議士)、砂糖の歴史、葬儀のしきたり、ふるさとの家、新制教育制度(2009.8.31) | トップページ | 阿讃山麓(阿波、徳島)の原始、古代遺跡、銅鐸(弥生後期)、古墳と墳墓(豪族の墓)、安楽寺(氏寺、菩提寺)、高速道路(サービス、遺跡)、ふるさとの歴史(2010.5.7) »

2013年3月 1日 (金)

阿波和三盆糖の里(引野、上板、徳島)、糖源公園(丸山徳弥碑)、高野池(溜池)、吉野川北岸用水、川瀨惣次郎(養蚕、農学博士)、旧制学校、父の囲碁、父母、ふるさとの家、砂糖の歴史(2010.4.22)

  阿波和三盆糖(あわわさんぼんとう)の栽培の起源については、江戸時代中期、阿讃山脈の南麓、引野村(ひきのむら、のち松島、上板、徳島)を通った日向(ひゅうが、宮崎)から来た遍路が、この村の修験者(山伏)、丸山徳弥(まるやまとくや)、1753年(宝暦3年)~1821年(文政10年)に、ここの土壌は砂糖黍(サトウキビ)がよく育つと教えたことに始まるという伝承があります。 

 現在では、阿波三盆塘は、日向産の砂糖(黒糖)とは違うので、阿讃山脈を越えた北麓、讃岐(さぬき、三本松、白鳥、津田、香川)の品種(竹塘)と製法(讃岐和三盆糖)が伝わってきたというのが、史実に近いと考えられています。 

和三盆(わさんぼん、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86.

 阿讃山麓の阿波(上板、土成など)、讃岐(三本松、白鳥、津田など)が甘蔗の適地として、またその適種についても薩摩(鹿児島)からのお遍路さんで、阿波の丸山徳弥はある修行僧、讃岐の向山周慶は関良介という薩摩人で四国遍路の途中急病になり助けてあげた人らにより教えられ、入手したとも言われています。

 阿波と讃岐の三盆糖、その原料の白下糖(糖蜜少なく結晶化)の作り方も、非常によく似ています。讃岐和三盆創案(糖蜜と色素の除去操作で、押し船は酒の糟絞りの工夫、研ぎ船は手水で米を研ぐ要領)は、第5代高松藩主松平頼恭(まつだいらよりたか、1711~1771)の命による、池田玄丈、平賀源内、向山周慶(さきやましゅうけい)の調査、研究の継承により、第8代藩主松平頼儀(1775~1829)の時、1790年(寛政2年)頃、1803年(享和3年)?、阿波和三盆より早く製法を完成と言われています。その頃、阿波の徳島藩は、第11代藩主蜂須賀治昭(1758~1814)の時代となっています。  松平頼恭(1711~1771、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E6%81%AD

 その頃、阿波の徳島藩は、第11代藩主 蜂須賀治昭(1758~1814)の時代となっています。

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蜂須賀治昭(1758~1814、第11代徳島藩主、阿波、徳島)

 また、江戸の中、後期(1800年代)の頃は、阿波と讃岐は、四国遍路や借耕牛(かりこうし、讃岐の呼び名)、米取り牛(こめとりうし、阿波の呼び名)、砂糖締牛(さとうしめうし、讃岐、阿波の呼び名)の利用など、また婚姻関係(讃岐男に阿波女! とか)も多く、阿讃山脈の近くの街道、峠を通じての交流、往来が盛んに行われていました。  

阿波街道詳説(三水会、琴平、香川):http://space.geocities.jp/mt9882axel/awakaidou.html

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丸山徳弥の功績碑三木武夫(代議士)書、、糖源公園、引野、上板、徳島) 

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三木武夫(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%A4%AB

(解説) 阿波三盆糖のふるさと、阿讃山脈の南麓の引野村の地域は、地質学的には、和泉砂岩(和泉層群)上の扇状地形で、礫質土壌からなる不毛地帯でした。そして、この地域には、甘薯(サツマイモ)、粟(あわ)、稗(ひえ)、コキビ、麦、大豆、綿など以外に適当な作物がなく、小規模な扇状地形の斜面の段々畑を耕作する零細農業が多く、貧しい暮らしをしていました。

 各々の農家には、飲み水の井戸、また、作物に水をやるため、畑や水田ごとに1~2個の野井戸(上総堀り、かずさぼり?)がありました。昔は、畑作、水田に必要な水を井戸から供給していた名残だと思います。

 現在でも、落ちると危険なので、コンクリのフタをかぶせた野井戸が目につきます。私が小学生の頃、近所の小さな子供(本浄清家)が知らぬ間に野井戸に落ちて亡くなり、浮き上がって見つかったという痛ましい事故を覚えています。

 江戸時代の中頃、この地域の土地が、甘蔗(サトウキビ)を作るのに適していること、すなわち、砂礫土は甘蔗の糖度を高めること、扇状地は排水によく、谷水、井戸水による潅漑にも恵まれていることなどから、製糖産業が急速に広がりました。 

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和三盆の里(遠方の高い山が阿讃山脈、 手前の低い山は台山公園、その麓の白い建物は岡田製糖所、糖源公園のすぐ下の里芋とサトウキビ畑より、引野、上板、徳島)

(解説) 引野村の北方、阿讃山脈に源を発する泉谷川(いずみたにがわ)を水源とする用水には、古来、泉谷上井用水、引野用水、七条・鍛冶屋原用水、山田用水、西原(神宮寺)用水の五筋の用水がありました。引野用水の開削は、1759年(宝暦9年)よりずっと以前であることは引野用水訴訟文から推察されますが、正確な年代については記録がなく不明です。 引野村の開発は、泉谷村より早く進められ、現在、泉谷地区の中に引野の地番のついた飛び地が所々にあるのもそれを証明しています。

 引野村伝承によれば、1776年(安政5年)、丸山徳弥は、延岡(日向、宮崎)の鼻ヶ島より国禁を犯して3節(ふし)のサトウキビを引野(阿波、徳島)に持ち帰り試作に成功、1792年(寛成4年)に再び日向に渡り、製糖法を秘かに修得して帰国、白下糖(のち三盆糖)の製造に成功し、板野郡、阿波郡(のち阿波市)に広めたと言われています。

 その約30年後、1819年(文政2年)の史料によれば、甘蔗作付総反数は110町を越え、砂糖生産高は約40万斤となっています。なかでも、板野、阿波の両郡は、全生産高の9割以上を占め、一大生産地となっています。 

 ところが、このサトウキビ栽培も、幕末開国以降の外国の砂糖の流入によって大きな打撃を受け、1868年(明治元年)、明治維新以降では、さらに日清戦争後、1895年(明治28年)、台湾領有による台湾産の砂糖の移入の追い打ちを受けました。こうした甘蔗作(糖業)の危機の打開策として、阿波では和三盆糖の生産に特化、つまり高品質化を選択しましたが、そうした努力も実を結ばず、1897年(明治30年)頃には急速に衰退していきました。

 私の実家(生家)のすぐ隣の東の畑ではサトウキビを栽培し、製糖所(影山家)で褐色のねば砂糖(黒砂糖)を作ってもらい、四角の大きな金属缶に保存し、家で使っていました。

 太平洋戦争が始まり、砂糖(台湾産)の供給が絶たれ、砂糖は配給制となり、戦後は配給制も打ち切られ、砂糖が不足してきたので、昔のサトウキビ栽培が復活したのではないかと思います。

 自宅のすぐ東の畑の一角に大きな穴(サトアナ)を掘り、サトウキビを保存し、次年度の作付けに使いました。また、戦後まもなく、私の家の近く(川瀨家)では、シメ小屋があり、牛を使ってサトウキビをシメていた(サトウ汁の採取)のを覚えています。

 阿讃山脈の南麓、明神山(みょうじんやま)には、和三盆の里、糖源公園(とうげんこうえん)があり、そのすぐ西側(引野字宮ヶ谷)に、谷間を堰き止めて作ったと思われる、明神池(みょうじんいけ、下池)があります。

 上池には新池(しんけ)があり、両池共に明治初期に建設され、ゆりを備え、自然水を取水する明神池用水の水源となっています。これらの溜池(ためいけ)は、水田開発のために作られたと思われます。現在では、西光寺、出口ほか7地区の畑、果樹園に潅漑を行い、水稲栽培にも利用されています。

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高野池(こうやいけ、中央の鳥居形のものは池の水抜きのゆり、引野、上板、徳島)

(解説) 今でも多くの溜池高野池など)が山麓から平野にかけ、田畑の近くに残っています。これらは、水田開発が盛んであった江戸後期から明治初年にかけて作られたと伝えられています。

 私が小学生の頃は、そこで泳いだり、また、おじいさん(瀨尾のまごえはん)がゆりを抜いて池の水を下の田んぼに入れ終わった後、村の大人も子供も池の中の魚取り(フナ、鯉、ナマズ、ウナギなど)を楽しみました。田んぼにはタニシ、池にはカラスガイ(俗称ウマカイ)がたくさんいました。現在は手入れもされず、周りは草と木に覆われ自然のまま放置されています。

 一方、1877年(明治10年)頃から県外産の地藍やインド藍の進出におされ、阿波藍の先行きがにぶり始めると、水田化が必要となり、そのための吉野川治水と利水が当面の急務となりました。また、1897年(明治30年)代にドイツで開発された化学染料(インデイゴ・ピュア)が本格的に流入すると、藍作は急速な衰退を余儀なくされました。

 1897年(明治30年)後半から1912年(明治45年)の明治末期にかけ、藍作の中核地帯の吉野川下流域では、甘蔗(サトウキビ)の不振によって農村の疲弊は深刻化していきました。その結果、こうした事態の打開策として、特に水稲作への転換をはかることが緊急の課題となってきました。同時に、そのための農業用水開発が不可避となりました。

 まず、畑作(藍、甘蔗、煙草、豆類、陸稲、雑穀、いも類、綿など)を中心とした経営は水田(稲作)主体の経営へと転換していきました。また、残る畑作地でも、明治の終りには、製糸業の発展にうながされて、藍作から桑園(養蚕)へと転換が急速に進みました。

 1904年(明治37年)、旱魃(かんばつ)が引き金となり、吉野川から農業用水を引く計画が急速に具体化し始めました。また、1905年(明治38年)、日露戦争戦勝記念事業が行われることになり、吉野川の南岸(麻植郡森山村、牛島村、名西郡浦庄村、石井村、高原村の2郡5ヵ町村、13000町歩)には記念麻名(あさな)普通水利組合、北岸(板野郡一条村、松島、大山、松坂、栄、名西郡高志の2郡6村、1000町歩)には記念板名(いたな)普通水利組合が設立され、二大潅漑用水を建設されることが決定しました。

 日露戦勝を祝して、記念を冠した用水の工事は、1906年(明治39年)に着工されました。流路となる土地の地主や用水費の負担へ反発する反対者による妨害活動や取水のための築堤の難工事などを乗り越え、共に1908年(明治41年)に竣工、一部を除き受益地域への通水が開始され、1912年(大正元年)に完成しました。

 水源地は、柿島村(阿波郡、のち阿波市)に柿原堰(かきのはらぜき)を建築して取水しました。水路の長さは27.8km、総工費は23万5700円でした。この麻名用水、板名用水の完成に伴い水稲作付け面積が激増しました。一方、畑作物の藍、陸稲などは急速に姿を消しました。

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吉野川北岸用水記念誌(吉野川の南岸から阿讃山麓、北岸用水を遠望、1989年、平成元年、国営吉野川北岸農業水利事業完工式、吉野川北岸土地改良区、三好市、東みよし町、美馬市、つるぎ町、阿波市吉野川市、上板町、板野町、徳島) 吉野川北岸用水水土里ネット): http://yoshihoku.jp/

(解説) 明治以来の吉野川北岸農家の悲願であった北岸用水事業は、1939年(昭和14年)の大旱魃、四国の戦後復興事業の中核となった吉野川総合開発計画など、様々な紆余曲折を経て、1967年(昭和42年)10月、吉野川北岸用水の計画基本構想樹立となりました。そして、1972年(昭和47年)3月、北岸用水計画が決定、11月11日、国営吉野川北岸農業水利事業起工式が挙行され、池田ダムからの吉野川北岸用水取水口の着工が始まり、1989年(平成元年)、その事業の完工に至りました。

 現在、北岸用水は、水田用水改良、また、水源施設のない畑、果樹園(柿、桃、梅、、ミカン、ブドウなど)に潅漑を行い、畑地農業の振興を図り、さらに、阿讃山麓に農地開発を行い、八朔(はっさく)、桃園など造成し、地域農業の発展を支援しています。 

(参考文献) 立石恵嗣、小笠髪史、佐藤正志: 阿波三盆糖の歴史的研究、郷土研究発表会紀要第27号(1981); 三好昭一郎、松本博、佐藤正志: 徳島県の百年、山川出版社(1992); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、農文協(1999); 上板町北岸用水土地改良区編: 上板町北岸用水土地改良区20年史、渡部印刷所(2007).

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(財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、農文協(1999).

(参考資料) ○ 上板町ホームページ(上板、徳島): http://www.townkamiita.jp/

○ 岡田製糖所(和三盆、上板、徳島): http://www.wasanbon.co.jp/wasanbon/

○ 吉野川北岸用水(吉野川北岸土地改良区、三好市、東みよし町、美馬市、つるぎ町、阿波市吉野川市、上板町、板野町、徳島): http://yoshihoku.jp/; 

○ 吉野川ダム総合管理事務所(徳島、愛媛、高知、国土交通省):http://www.skr.mlit.go.jp/yoshino/dam/y_yoshinogawa.html .

○ 阿波和三盆糖の里(徳島)の歴史伝承、熊野神社、丸山古墳、サトウキビと糖源公園(丸山徳弥彰徳碑、生田花世歌碑)、引野天神跡、共同墓地、本浄姓のルーツ、松島神社、土地制度、名字(苗字)、新制学校校歌、生田花世と瀬戸内寂聴、松岡康毅、中川虎之助(代議士)、砂糖の歴史、葬儀のしきたり、ふるさとの家、新制教育制度(2009.8.31): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-c3cf.html

(追加説明) 時の流れで、明治の終りには、製糸業の発展にうながされて、藍作から桑園(養蚕)へと転換が急速に進みました。

○ 川瀨惣次郎

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川瀬惣次郎桑から紙、大阪毎日新聞): http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00211803&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 養蚕の研究については、引野(松島村、のち上板町)生まれの農学博士、川瀨惣次郎(かわせそうじろう)、1885年(明治18年)~1943年(昭和18年)が名高い人物です。

 専門は養蚕学で、蚕の生理状態桑の繊維化(桑の木から紙を作る)の研究が有名です。1931年(昭和6年)7月10日の大阪毎日新聞には、桑から紙、幹もそのままで見事に成功した、年産2億円は可能、川瀨惣次郎博士のお手柄、との大きな記事が掲載されています。

 川瀨惣次郎は、脇町中学(のち脇町高等学校)の途中から東京に転じ、第一高等学校を2番で入学、第一高等学校、東京帝国大学農学部農芸学部を首席で卒業したと伝えられています。その後、長野の上田高等蚕糸専門学校教授、その間フランスに留学、1919年(大正8年)農学博士、東京帝国大学農学部農芸化学教室の教授となりました。また、1932年(昭和7年)~1934年(昭和9年)、日本農芸化学会副会長を務めました。(徳島県立脇町高等学校、ホームページ: http://wakimachi-hs.tokushima-ec.ed.jp/、学校案内、沿革より) 

 川瀨博士の生家は、安楽寺の近く、東方の農家で、息子さんは父と板西農蚕学校の同級生で、家業の農業を継いでいました。川瀨のけんやんと呼んでいましたが、時たま私の家に来て父と甲高い声で談笑していたのを覚えています。

  明治時代の末期、1910年(明治43年)、養蚕業、製糸業の近代化のために、日本最初の蚕糸専門学校として、上田蚕糸専門学校(うえださんしせんもんがっこう、のち上田繊維専門学校、信州大学繊維学部)が設置されました。創立時は、本科(修業年限3年)、養蚕科、製糸科の2科でした。川瀬博士は上田高等蚕糸専門学校の教授を務めました。

○ 徳島県では、1906年(明治39年)、養蚕学校の設立が認可され、1913年(大正2年)、板野郡立養蚕学校、実科女学校付設、1923年(大正12年)徳島県立板西農蚕学校、同校付設実業女学校、2年後、徳島県立板西高等実業女学校(のち統合、徳島県立板野高等学校)が設置されています。(徳島県立板野高等学校、ホームページ: http://itano-hs.tokushima-ec.ed.jp/index.php?action=pages_view_main、学校紹介、沿革より)

 また、徳島県では、農業後継者や農村地域の指導者の養成、 また、新たに就農を希望する方や農業者等の研修を行い、徳島県の農業の振興に寄与することを目的として、1927年(昭和2年)に徳島県農業技術員養成所がはじめて農事試験場に併設されました。現在では、徳島県立農林水産総合技術支援センター農業大学校へと発展しています。(農業大学校(沿革、徳島):http://www.tonodai.ac.jp/、また徳島県農事試験場(沿革、徳島): http://www.pref.tokushima.jp/tafftsc/nouken/outline/徳島県農林水産総合技術支援センター(ホームページ、徳島): http://www.pref.tokushima.jp/tafftsc/より)

○ 私の父は、板西農蚕学校、農業技術員養成所で学び、農事試験場に農技手として勤務し、県下の農業指導を行い、単身赴任で木頭村にまで指導に出かけていたようです。その功績に対し、徳島新聞社から授与された感謝状が自宅に飾ってあったのを覚えています。また、自宅に多くの農業関係の分厚い専門書があったのが、強く印象に残っています。

 また、父の趣味のミノルタのカメラ、ハーモニカ、木刀(のち真剣)などが家にありました。また、父の趣味囲碁(田舎初段?)は農事試験場に勤務していた頃に覚えたのだと思います。板西農蚕学校の同窓生で、中学校の教師をしていた近くの友人(瀨尾貞雄、川城輝明の両氏)と3人で、川城家の庭にムシロを敷き、夏に一晩中碁を打ったことを聞いたことがあります。また1960年(昭和35年)の頃、最強のプロ棋士として、呉清原九段のこと、徳島新聞に打碁がよく載っていた佐藤五段(?、地方棋士)のことをよく口にしていました。

 私の生家(徳島)の壁掛けに、親父が横書きで墨書した、人自腹気心、の四文字が飾ってありました。人の字は非常に大きく、自の字は少し小さく、腹の字は普通の大きさで横に寝かせてあり、気の字は大きく、乙のところを右に伸ばし、心が小さめに配置されていました。

 人は大きく、自分は小さく、腹を立てずに、気を長く、心静かに、とのことでしたが、この言葉は、剣道一家(新開家、刑務官、利三郎、長男、清、あと武蔵、高志、のち上板、徳島)に生まれた親父(農業技手、利三郎、次男、利治、本浄家養子、あと高治、松島、のち上板、徳島)から教えてもらいました。そのルーツが鞍馬流の剣道の道歌であることは、インターネットで調べてはじめて知りました。父は身長が150cm台で低かったので、剣道では抜き胴とか小手が得意であったようです。家には木刀(のち真剣)がありました。武術道歌(五十雀俗謡集): http://sakusabe.exblog.jp/658434/; 道歌(剣道):http://www.ne.jp/asahi/y.yoda/walser/douka.htm

○ 私の母は、板西実業女学校、京都成安女子学院で学び、小学校教諭として、神宅小学校、東光小学校(神宅村、のち上板町)、松島小学校(松島町のち上板町)に、転勤もありましたが、自宅から自転車で勤務していました。自宅には、女学校の演習時間に作ったと思われる富士山と湖に浮かぶ帆掛け船のきれいな刺繍画が飾ってあったのを覚えています。また、家には、音楽の勉強か、趣味で購入したと思われるケース(袋)に母のネーム入りのバイオリンがありました。(京都成安学園: http://www.seian.ac.jp/other/seiangakuen/

 私の母(高子、小学校教諭)は、高島(撫養の対岸、のち鳴門)の製塩業者(中島家)の生まれですが、本浄家の養女として育てられました。毎年、お盆には里帰りしていました。私が小学校の頃、お盆に、母の実家に連れていって貰ったことがあります。その頃は、流下式塩田となっていて、竹の細枝で作った藁葺き状の屋根から海水がゆっくりと流れ落ちていたのを覚えています。太陽熱によって水分を蒸発させていたものと思います。

 また、高島は一つの島であり、昔は岡崎桟橋から高島渡舟場まで渡し船が出ていました。そこの小鳴門海峡には、小鳴門橋(441.4m、1961年、昭和36年7月、開通) 、それと平行して、徳島自動車の撫養橋(536m、1987年、昭和62年5月、暫定2車線、のち上り線、1998年4月、平成10年、下り線、開通)が架かっています。

 ○ 私の郷里(引野、上板、德島)のは、阿讃山麓の農村地域にあり、草葺屋根(麦ワラ屋根)の家の周囲は屋敷林で囲まれていました。その樹種は、おもに母屋の裏()は、ムク(椋、ニレ科)、ツバキ(椿、ツバキ科)、タケ(イネ科、タケ亜科、またはタケ科、真竹)が多く、にはマキ(羅漢槙、イヌマキの変種)の垣根、カシ(樫、ブナ科)、エノキ(榎、ニレ科)、ヤマモモ(山桃、ヤマモモ科)、西にはマキ(羅漢槙、イヌマキの変種)の垣根、柿(富有柿、カキノキ科)畑、南はミカン(夏蜜柑、ミカン科)、ビワ(田中枇杷、バラ科)などに囲まれていました。また、本宅の西には納屋、牛小屋、鶏小屋、表玄関のの方には広い庭があり、見晴らしがよかったことを覚えています。そして、庭のの端にはツルベ井戸、西の端には瓦屋根の外便所と風呂場を備えた建物がありました。

 家は草葺屋根(麦ワラ屋根、のち赤色トタンを被せる)で、家の周囲を囲む屋敷林は、おもに夏の台風(東南風)、冬の風(北西風)から家を守る防風林と思われます。

 昔は屋敷神(やしきがみ、地主神)が、家の守護神として、屋敷内や付属地にまつられました。地方により、内神、氏神、荒神とも。祖霊信仰に由来すると考えられるが、稲荷、八幡、熊野、明神(神明とも)、秋葉、祇園などの神が勧進され、それらが祭神とされるに至りました。

 屋敷林は、防風林だけが目的ではなく、カシ(樫)防火にも役立つとされ、竹林地震のときの駆け込み場であり、堤防土留め強化に植えられたこともあるという。

 ○ 2002年(平成14年)頃までは、私の実家の屋敷の周辺は、樹木、竹薮、果樹など屋敷林で囲まれていました。草葺屋根(麦ワラ屋根)の母屋の側(裏)は竹薮(真竹)、大きなエノキ(榎木)、ムクノキ(椋の木)、ツバキ(椿)、ウメ(梅)、小ビワ、ユスランベ、側は大きなカシノキ(樫の木)、ムクノキ(椋の木)、サクラ(桜、ソメイヨシノ)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、東南に大きなヤマモモ(山桃の木、老木となり台風で倒壊)、また、大きな渋柿の木(上部が台風で折れる)、一方、母屋の側(表)は大きな夏ミカン、大きなタナカビワ(老木となり台風で倒壊)、スダチ、キンカン、インドヤシ、南西に大きなクスノキ(楠木)、ウメバガシ(外トイレの背後)、西側にはモモ(桃)と柿(甘ガキ、フユウ)畑、その下はクサイチゴ、小ビワ、サクランボ(桜桃)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、西北に大きなクリ(栗)の木があり、自然豊かな姿でした。 

 これらの樹木も、2003年(平成15年)、母屋を新築した時、ほとんど伐採したので、現在、昔の面影が少し残っている程度で、家の周辺は見違えるほど明るく、見通しも良くなっています。また、屋敷の周辺の畑の畦(あぜ)には、の木が植えてありましたが、現在もその名残の姿を見ることができます。 

 私が小学生の戦後まもなくの頃は、自宅(引野、松島、のち上板、德島)近くの東、西北の畑では陸稲、大麦、小麦、粟(あわ)、タカキビ、コキビ、トウモロコシ(ナンバ)のほか、サトウキビ、サツマイモ、サトイモ、ジャガイモ、タマネギ、ネブカ、ワケギ、ラッキョウ、大根、カブラ、菜の花(アブラナ、ナタネ)、ゴマ、フキ、ゴボウ、ニンジン、コンニャク玉、白菜、キャベツ(玉菜)、ホウレンソウ、春菊(シュンギク)、アカジソ、アオジソ、ニラ、ショウガ、ミュウガ、パセリ、落花生(ソコマメ)、カボチャ、大豆、ソラマメ、エンドウ、アズキ、ササゲ、インゲンマメ、枝豆(アゼマメ)、トウガラシ、ピーマン、トマト、キュウリ、スイカ、キンウリ、マクワウリ、カンピョウ、クサイチゴ(フウユウ柿の木の下の周辺)、ウド、タバコ、ワタ(綿花)、桑、茶、柿、桃などを栽培していました。

 また、近くの西の田畑では水稲と大麦の二毛作、遠くの南の田では湿地であり水稲のみを栽培していました。梅雨前の4~5月頃、水田で綱(つな)を張り、長方形の木枠(きわく)などを使い、手で苗を植えていました。が、しばしば水田のヒル(蛭)が足に吸いつき、取り除くと真っ赤に出血したことがありました。

 水田では、田の草を手で、あるいは手押しの草取り機、八反ずり(田すりとも)などで取り除き、水の管理(溜池と用水、野井戸、バケツつき鎖の滑車、のちポンプつき発動機など)、稲刈り、ハデかけ(乾燥)、リヤカーによる稲束の自宅の庭への運搬などの手伝いをしました。 

 麦の脱穀作業については、1929年(昭和4年)頃から石油発動機と脱穀機を泉谷の農家25人が講(発起人、かん医者、林久雄、吉田芳太郎氏)によって購入、泉谷地区のほか、引野、鍛治屋原、七条など各地域にも出張して脱穀(発動機講!)していました。(児島光一:上板昔読本、発動機講、資料、吉田武男、p.147~153、教育出版センター(1979)より) 

 また、戦後の麦と米の脱穀作業は、発動機講と同じように、順番に各家を回り、地域ごと(隣組)の協同作業で行われていました。私の家では、作業後、自宅の黄色に熟して甘い大きなタナカビワ、小ビワなどみんなで一緒に食べていたのを覚えています。

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郷里(天神前、引野、上板、德島)にマイカー(ファミリア1500CC)で帰省、2009年(平成21年)8月4日撮影)

○ 砂糖の歴史

 江戸時代、1600年代、日本のサトウキビ栽培は、1610年(慶長15年)、直川智(すなおかわち、奄美大島)、1623年(元和9年)、儀間真常(ぎましんじょう、沖縄)、により、中国福建省から相次いでシネンセ種(中国細茎種)のサトウキビが導入されました。

 製糖技術は、二本車と三つ鍋による二転子三鍋法、のち首里の真喜屋実清(まきやじっせい)が三つ車の三転子法に改良、また、圧搾機(あっさくき、砂糖車とも)は木製から石製、明治期から鉄製に改良し、これらを牛馬によって回しました。(民族探訪事典、山川出版社(2005)、p.324、砂糖づくり、より)

 徳川吉宗の奨励策に支援されて日本本土各地に普及し、高品質和糖の原料とされたのもこの種という。

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徳川吉宗像(徳川記念財団蔵、Google画像) 徳川吉宗(とくがわよしむね、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

 サトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。

 それは、外国産(オランダの金平糖(コンペイトウ)、中国の唐三盆など)の長崎での輸入の砂糖が高価だったためです

 琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。

 明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。(川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より)

 1869年(明治2年)、沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的多く、株の再生も中庸で、黒糖原料としての美味しさと栄養性、フラクトオリゴ糖が多いなどの長所を持ち、香川、德島では和三盆の原料として今も用いられています

 読谷村は、沖縄中部で、1945年(昭和20年)4月1日、太平洋戦争の沖縄戦で米軍が最初に上陸した沖縄本島の地です。森山良子「さとうきび畑」、作詞作曲、寺島尚彦(1930~2004)でもよく知られたところです。

 平和を祈る歌(沖縄・沖縄本島)、サトウキビ畑(米国占領下で生まれた平和を祈る歌、寺島尚彦、作詞作曲)、とは: http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-7d44.html

 黒糖(黒砂糖)は、純度75~86%。サトウキビのしぼり汁をあく抜きしながら濃縮して(130℃でひたすら煮詰める!)かためたものです。黒色をして糖蜜(ブドウ糖や果糖がたくさん含まれている)を含んでいて、これを分離すると白砂糖となるので、分蜜糖ともいう。砂糖の結晶は無色透明で、白く見えるのは光が乱反射するためです。

 黒糖には、カリウム、カルシウム、鉄などが5~6%含まれ、また、抗酸化作用が注目されるポリフェノールに、美白効果があるといわれるアルブチンなどもそのまま残っています。

 黒褐色の独自の色は、様々な成分が混じっているのと加熱による変色のせいだという。白い砂糖にはない香ばしさは加熱で生まれ、コクの元は豊富なアミノ酸です。

 沖縄県黒砂糖協同組合(那覇市)によると、沖縄本島産や石垣島産の黒糖はなく、沖縄で黒糖を作っているのは、波照間島、多良間島、西表島、伊平家島、栗国島、小浜島、与那国島の計7離島だけだという。他の島のサトウキビは主に粗糖にされ、精製して上白糖などの白い砂糖になるそうです。

 黒砂糖白砂糖栄養分については、ショ糖は黒砂糖では80%ほど、白砂糖(グラニュー糖)では100%で、両者の間に約20%の差があるが、黒砂糖にはショ糖のほにブドウ糖、果糖などが含まれているため、エネルギーには余り差がありません。黒砂糖にはほかにも、カルシウム、カリウム、マグネシウムなどのミネラル、さらに、ビタミンB群やナイアシンなどのビタミン類が含まれていて栄養豊富です。伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008)より)

 薩摩藩主島津氏は、奄美大島を支配、琉球をも半ば支配し、当時、砂糖は高価な食べ物で、大きな利益があがりました。薩摩藩は砂糖を藩の専売とし、砂糖を財源にすることで、幕府に対抗できるほどの財力を蓄え(富国!)ました。この藩が、明治維新中心になったのは、ここにも遠因があったという。砂糖は甘味料、調味料として重要ですが、その防腐効果を利用して、砂糖漬、練ようかん、お菓子の金平糖(こんぺいとう)などもつくられます。また、疲労回復の効果もありますが、過度に食べると胃腸を害し、骨格の成長を阻害するという。

○  1947年(昭和22年)3月31日 教育基本法、学校教育法公布(6・3・3・4制を規定)。4月1日 国民学校廃止、小・中学校の6・3制発足。5月3日 日本国憲法施行。(吉田内閣)

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