« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2013年4月の13件の記事

2013年4月29日 (月)

地蔵(じぞう)、釈迦(しゃか)入滅後、56億7千万年たって、弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に出現するまで、現世にとどまって衆生(しゅじょう)を救う、杉森地蔵水(石川)、高地蔵(徳島)、背高地蔵、とは(2013.4.29)

 地蔵(じぞう)は、仏教の菩薩(ぼさつ)の中の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)のことで、右手錫杖(しゃくじょう)、左手宝珠(ほうじゅ)を持つのが普通です。

 釈迦(しゃか、一説には、前565~前」486年)入滅後、56億7千万年たって弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に出現するまでの間、現世にとどまって衆生(しゅじょう)を救うとされています。現在は、兜率天(とそつてん、六欲天の下から四番目の天)で待機中といわれています。

 中国では唐代から、日本では平安時代から、その信仰が盛んとなり、僧形の像が多く作られました。平安時代に末法思想が生まれ、地獄への恐怖が説かれるようになると、天台宗の僧侶や貴族などを中心に、徐々に信仰されるようになって行きました。

 地蔵は、長い期間、仏のいないこの世にあって、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の輪廻(りんね)に苦しむ衆生を仏の道に導き救済するものとされており、室町期より六道に一体ずつ配した六地蔵信仰が盛んとなりました。

 また、地蔵は、冥界(めいかい)と現実の境に立って冥界に行くものを救うとされる信仰から、道祖神庚申(こうしん)信仰などと習合し、民間に観音(かんのん)と並んで広く信仰され、村境に祀られました。

 子供の災厄(さいやく)を守護するとも信じられ、賽の河原(さいのかわら)の説話を生みました。鎌倉時代から江戸時代には、種々の民間説話習合して、延命地蔵、子安地蔵、勝軍地蔵など、さまざまの名をを冠した地蔵が生まれました。

F10004181_2

Photo_2

地蔵、杉森地蔵水(杉森、鳥越、白山市、石川)

○  白山(石川)のふもとに湧き出る名水、弘法池の水(釜清水)、白山霊水(白山比咩神社)、杉森地蔵水(杉森集落)と湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは:http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/96.html.

0011

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典(初版)、平凡社(1973);  新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 宗教民俗研究所編: ニッポン神さま図鑑、祥伝社(2000); 大島、佐藤、松崎、宮内、宮田編著: 図説 民俗探訪事典(1版19刷)、山川出版社(2005).

(追加資料) 高地蔵(たかじぞう) 高地蔵(たかじぞう)と高石垣の城構えの家は、河川の洪水への先人の心と生活の知恵という。 阿波(徳島)の吉野川流域は、江戸時代、洪水が多く発生し、お地蔵さんが水没するので、高い台座の上にお地蔵さんを据える、「高地蔵」が数多く造られました。

Photo_3

高地蔵(たかじぞう、東黒田、徳島、Google画像) 高地蔵は高さ4.19mもあり、手を合わせる人々を上から見下ろす姿から「うつむき地蔵さん」と呼ばれて親しまれています。

〇 高地蔵(とくしま市民遺産、徳島市): http://www.city.tokushima.tokushima.jp/kankou/simin_isan/18.html

 

〇 先人の心映す高地蔵の洪水ハザードマップ(松尾裕治): http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00550/1999/05-0126.pdf

高地蔵(たかじぞう)、 背高地蔵(せいたかじぞう)

〇 高地蔵(たかじぞう)のルーツとして、江戸時代阿波徳島)の吉野川流域は、台風や水害の洪水が多く発生しました。そのとき、村人は、お地蔵さんが、水に浸かったり、流されないよう、また、洪水の恐ろしさを忘れないように、お地蔵さんを高い台座の上に据える、「高地蔵」を数多く造りました。その中でも、東黒田(徳島市国府町)の高地蔵は、高さ4.19mもあり、手を合わせる人々を上から見下ろす姿から「うつむき地蔵さん」と呼ばれて親しまれています。1912年(大正元年)の洪水の時、蓮華座まで水が来たという。

 その他、総高4m近い延命地蔵の造立が、1843年(天保14年)石井町(名西郡)、1856年(安政3年)藍住町(板野郡)のほか、各地に見られます。高地蔵は吉野川を代表する洪水遺産の一つです。(とくしま地域政策研究所編、吉野川事典、農山漁村文化協会(1999)より

401

背高地蔵(せいたかじぞう、加須市、埼玉県、Google画像)

〇 背高地蔵(せいたかじぞう)については、江戸 時代、埼玉県加須市下埼で、1718年(享保3年)背の高い地蔵が造られ、「背高地蔵」と呼ばれます。 利根川の洪水にまつわる伝説があるという。また、埼玉県新座市大和田の背高地蔵は、道しるべとして立っています。

岩井(京都)脊高地蔵尊は、その側に右江戸左ぜんかう寺道と刻んだ自然石の道しるべが立っています。植木野町(群馬県太田市)背高地蔵は「地蔵様」名で現在も有名で道案内の役目を果たしている。また、道行く人達の信仰を集め無病息災、家内安全等の願い事を叶えてくれると語り継がれています。この他、背高地蔵(背長地蔵とも)は、南会津町福島県南会津郡)にも見られます。

背高地蔵(せいたかじぞう、Google画像検索): https://www.google.co.jp/search?q=%E8%83%8C%E9%AB%98%E5%9C%B0%E8%94%B5&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=9kIiVfH3O-HJmAWy-4DIAQ&ved=0CCMQsAQ&biw=1366&bih=588

(参考資料)

地蔵菩薩(じぞうぼさつ、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9. 

地蔵菩薩(じぞうぼさつ、google画像検索): http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&q=%E5%9C%B0%E8%94%B5&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&ei=VP59Ude0BsXwkAXTw4G4Bg&biw=1366&bih=588&sei=Vv59Ucz6G5DXkgWTzYGYDg

2013年4月27日 (土)

石敢当(いしがんとう)、辻やT字型道路の突き当りや屋敷の外に向け石敢当と刻んで建ててある悪魔よけの石碑、とは(2013.4.27)

 

 石敢当(いしがんとう、せきかんとう、とも)は、広辞苑によると、おもに沖縄や九州南部地方で、道路の突き当りや屋敷の外に向け石敢当の三字を刻んで建ててある石碑のことです。中国伝来の民俗で、悪魔よけの一種という。

 辻やT字型道路の突き当りは悪鬼が横行するところで、この石を立てることにより、屋敷内へ侵入する悪鬼を払いのけることができると信じられています。

 この言葉は、一説には、中国の五代の頃(907~960年)の武人の名前に由来し、この人は武勇に勝(すぐ)れたばかりでなく、平常凶事に逢うと、苦心努力してこれを吉事にかえ、危険を未然に防ぐ不思議な力をもっていたと言われました。

 そこで、後世、彼の名前を書いて立てておくと、一家または村の災難を防ぐことが出来るという信仰が生まれました。石敢当(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%95%A2%E7%95%B6

 中国(福建省、唐代)から日本に伝来したもので、石敢当は、沖縄本島とその周辺諸島に最も多く、九州地方(鹿児島、宮崎、大分、佐賀)にも広く分布しています。

 その他、四国地方(徳島、愛媛)、中国地方(山口、広島、兵庫、岡山)、近畿地方(京都、大阪、奈良、滋賀、和歌山)、関東地方(東京、神奈川、千葉、埼玉、栃木)、東北地方(秋田、山形、宮城、青森)、北海道(函館)など、全国29都道府県で確認されています。が、山陰地方、北陸地方、越後の日本海側には、どういうわけか全く見当たらないという。

石敢當と文化交渉ー奄美諸島を中心としてー(高橋誠一、PDF): http://www.icis.kansai-u.ac.jp/data/journal01-v1/journal01-15-takahashi.pdf

石敢当(google画像検索):http://www.google.co.jp/search?aq=hts&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&q=%E7%9F%B3%E6%95%A2%E5%BD%93&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&ei=fmp7UenIBcH0kQX77YGQBQ&biw=1366&bih=588&sei=hmp7UaTROMGzkgX_moDwBQ

 日本では普通、四角い石の柱の表面に、石敢当とだけ刻んだものが多く、かって村の入口や、道路の辻に建てて、魔除け、悪魔払いとされてきました。地蔵尊庚申碑似た性格のものと考えられます。大きさは一定しないが、大体高さ1m内外のものが多いようです。

0031_21

石敢当(せきかんとう、駅路寺瑞雲寺門前にあったもの、板野郡誌、引野、松島村、板野郡、徳島県)

(解説) 板野郡誌に、「松島村、のち上板町、瑞雲寺、のち安楽寺(六番)大門付近四つ辻に、石敢当なる建碑一個所あり、これは方除として造りしものと称すーーー云々」とあります。

 私の郷里(引野、上板町、徳島県)の、石敢当ですが、引野の古老の話では、戦時中頃までは、たしかに六番さん(四国6番札所、安楽寺)の入り口の処にありました。が、その後、道路工事か何かの折に取り除かれ、現在行方不明になっているとのことです。

(参考文献)児島光一: 上板昔読本、教育出版センター(1978); 新村出編:広辞苑(第四版)、岩波書店(1995); 大島、佐藤、松崎、宮内、宮田編著: 図説 民俗探訪事典(1版19刷)、山川出版社(2005).

(追加説明)○ 上板町 発足の経過

1869年(明治2年)6月17日 版籍奉還により、阿波藩が廃止され、徳島藩が置かれました。現在の上板町は、当時、板野郡の七条村、鍛冶屋原村、引野村、泉谷村、神宅村、西分村、椎本村、及び名西郡の瀬部村、高瀬村、高磯村、上六条村、下六条村、佐藤塚村、第十新田(第十村)の十四ヶ村に分かれていました。

1871年(明治4年)7月14日 廃藩置県により、徳島藩を廃し、徳島県が置かれました。徳島県には、従来の阿波と淡路が含まれていました。

1889年(明治22年) 町村制により、徳島県下は、一市(徳島市)、十郡、二町(撫養町、脇町)、百三十七ヶ村となりました。そして、七条ほか三村が合併して、松島村、西分ほか二村が合併して大山村、瀬部ほか五村は合併して、高志村となりました。

1947年(昭和22年)11月3日 松島村町制により、松島町となりました。

1955年(昭和30年)3月31日 板野郡松島町大山村、及び名西郡高志村の三ヶ町村が合併して、上板町が発足し、現在に至っています。

001_61

児島光一: 上板昔読本、教育出版センター(1978).

2013年4月26日 (金)

蟇目(ひきめ)の神事、鏑矢(かぶらや)が空中で音を発して飛び悪霊を退散させる! 二荒山神社(栃木県日光市)、若宮八幡宮(石川県白山市)、とは(2013.4.26)

 蟇目(ひきめ)の神事(しんじ)は、神社で行われる鏑矢(かぶらや)を射る行事です。蟇目(ひきめ)の名は、蕪(かぶら)の形に作った鏑矢(かぶらや)の(あな)が(ひきがえる)の似ているからという。

 鏑矢(かぶらや、なりかぶら、なりや、とも)は、の先に(かぶら)をつけたもので、空中を飛ぶ時、(かぶら)の数個の(あな)から風が入って音を発するので、悪霊の妖魔を降伏(ごうぶく)させる、と、しました。

鏑矢(かぶらや、google画像検索): 

http://www.google.co.jp/search?q=%E9%8F%91%E7%9F%A2&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=kMp5UcTKAqayiQfj2YCYBw&ved=0CD4QsAQ&biw=1366&bih=588

Mushasai1

蟇目式神事(ひきめしきしんじ、武i射祭とも、二荒山神社、日光市、栃木県、google画像)

武射祭蟇目式神事とも、二荒山神社、観光Fan、日光市、栃木県): http://kankoufan.com/contents/iteminfo.php?iid=1027

(解説) 二荒山神社(栃木県日光市)の蟇目式神事が有名で、2013年(平成25年)1月4日、本宮で祭式の後、中宮祠に至り、射場で赤城山方面(西南)の中禅寺湖面に向かって、鏑矢(かぶらや)、また、雁股(かりまた)の矢を放ち、一年間の無病息災を祈りました。

蟇目の儀武i射祭とも、奈良市平城宮跡、YouTube):http://www.youtube.com/watch?v=OFyRZ0hQxc0

○ 若宮八幡宮(石川県白山市)の蟇目神事

Hikime1

蟇目神事(ひきめしんじ、若宮八幡宮、白山市、石川県、google画像) ひき目神事(5月25日、我楽多家、石川の祭り、Yukihiro Ueno): http://homepage1.nifty.com/ueno/ishikawa/matsuri.html#hikime

(解説) 空へ矢を放って悪霊退散と招福を願う蟇目神事が、毎年5月25日、石川県白山市の若宮八幡宮であり、氏子らが一年の招福(家内安全、無病息災)を祈っています。

 柏木信勝宮司が白い衣とはかまの斎服で祝詞を奏上し、表鬼門(北東)と裏鬼門(南西)の空めがけて力強く矢を射ました。

 この神事は、鎌倉時代、日輪(太陽)に化けた白鳥を加賀の武士、山上新保介(やまがみしんぼのすけ)が将軍の命令で射落とし、褒美として若宮八幡宮の建立を許されたとされる故事に由来しています。また、5月26日には、神社近くの水田で、五穀豊穣を願うお田植え神事があります。

(参考文献)新村出編:広辞苑(第四版)、岩波書店(1995); 北陸中日新聞: 空めがけ悪霊退散、「蟇目神事」、2011年(平成23年)5月25日、夕刊.

 

2013年4月24日 (水)

真脇遺跡(能都町、石川県)、縄文時代の祭祀の遺跡、環状木柱列(北陸特有のクリ木柱を環状に並べた遺跡)、環状列石(柱状または板状の石を環状に配置した遺跡)、とは(2013.4.24)

 真脇遺跡(まわきいせき、能都町、石川県)は、三方を丘陵に囲まれた標高約4~12mの低湿地にあります。1982年(昭和57年)からの発掘調査で、縄文時代(2000~6000年前)の長期安住型集落遺跡であることが分かりました。出土品は、土器、石器、装身具類、編物縄類、木製品、巨大な柱根、大量のイルカ骨など、極めて多彩でした。そして、1989年(平成元年)1月9日、指定史跡となりました。

 環状木柱列

001

環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ、真脇遺跡、.能都町、石川県、北陸中日新聞、2011.11.8.朝刊) 環状木柱列(真脇遺跡、能登町、石川県): http://mawakiisekijoumonkan.soycms.net/about/mokuchu

(解説)、縄文時代晩期(約2800年前)の復元工事が終了した環状木柱列です。この遺構が出土した場所に、地上高7mの本物のクリ木材を使用した、木柱10本が立てられました。

 長さ約8m、幅約80~100cmの半割のクリ木柱10本を、直径約7mの環状に配列してあります。海に面した南側には「門扉」として地上高3.5mの木柱4本も立てられました。この復元工事の完成式典が、2011年(平成23年)11月9日、能都町(石川県)で開かれました。 

 真脇遺跡では、1982年(昭和57年)と翌年の、はじめての発掘調査で木柱根が発見されました。その後、2011年(平成23年)11月には、建物の柱とみられる4本のアテ木柱根と21本のクリ木柱根が発見され、一部は過去に発掘された環状木柱列とほぼ同年代とも推定されました。

  このような環状木柱列は、北陸地方(富山、新潟など16遺跡)を中心に全国で20例発見されています。すべてクリが用いられていて、半割りのクリ木柱6~10本が環状に並べられてたものです。

 これは、北陸地方特有の縄文時代の遺構で、使用目的や上部構造は明らかにされていないようです。が、北陸(石川、富山、新潟など)は豪雪地帯なので、冬でも目につき、雪の量の目印にもなる高さが7mほどの高いクリの木柱を立てたとも推測されます。

 また、北日本(北海道、東北、中部など)に残る縄文、弥生時代の遺跡、環状列石のような、祖先や自然(春に豊作を祈り、秋には稔りに感謝!)の祭祀(さいし)などに使われた可能性があります。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 北陸中日新聞: 能都町の真脇遺跡、「環状木柱列」復元終わる、縄文期の姿あらわ、あす式典、2011年(平成23年)11月8日、朝刊; 北陸中日新聞: 真脇遺跡、あて7の環状木柱列か、能都町教委など 7本の柱根発見、2011年(平成23年)11月19日、朝刊; 石川県の歴史散歩編集委員会(編集代表、木越隆三): 石川県の歴史散歩(1版)、p.210~211、真脇遺跡、山川出版(2010).

(参考資料) ○ 環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)は、チカモリ遺跡(新保本町、金沢市)にも見られ、1987年(昭和62年)国指定史跡となっています。 チカモリ遺跡(ウィキぺディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%A2%E3%83%AA%E9%81%BA%E8%B7%A1

環状木柱列(google画像検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E7%92%B0%E7%8A%B6%E6%9C%A8%E6%9F%B1%E5%88%97&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=QTF2UcDRCIqTiQfKgoBQ&ved=0CEgQsAQ&biw=1366&bih=588

○ 環状列石(かんじょうれっせき、ストーンサークルとも)は、わが国では北日本(北海道、東北、中部など)の縄文時代の後期・晩期に多く見られる。高さ1m前後の自然の柱状または板状の石を、多数環状に配置したもので、新石器時代から初期金属時代に祭祀・埋葬に関連してつくらました。

 インドのデカン高原、アッサム地方、シベリアのミヌシンスク、アジアに広く分布し、ヨーロッパではイギリスのストーンヘンジは有名です。太陽崇拝に関係がある宗教的遺構とされるが、墳墓に関係あるとも考えられます。(広辞苑、小百科辞典より)

○ 日本庭園の起源環状列石、環濠、前方後円墳、縄文・弥生・古墳時代、本浄高治編):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/194.html. 

大湯環状列石 おおゆかんじょうれっせき

大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき、大湯ストーンサークル縄文時代、十和田、鹿角市、秋田、google画像) 大湯環状列石(文化遺産オンライン、文化庁):http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=137714

(解説)○ 縄文時代(じょうもんじだい、紀元前12000年~紀元前500年頃)、環状列石(ストーンサークル)は、石あるいはいくつかの石を組み合わせたもの(配石遺構、はいせきいこう)を環状に配置するもので、環の直径は約10~50mほどです。大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき、十和田、鹿角市、かづのし、秋田)は、単位となる配石遺構が墓群であることが明らかにされており、祖先や自然に対する「祭祀、さいし、まつり」の場であったと考えられています(小林達夫氏、1937~ 、考古学、より)。これらは、広い意味での庭園と見ることもできるという(小野健吉氏、1955~ 、日本庭園史、より)。

○ 弥生時代(やよいじだい、紀元前400年~300年)は、水田稲作を基盤とする社会が形成された時代です。弥生時代中期に造営された田和山遺跡(たわやまいせき、松江市、島根)は、集落では春に豊作を祈り、秋には稔りに感謝する「祭祀、さいし、まつり」の場と考えられています。

○ 北陸地方真脇遺跡、チカモリ遺跡、寺地遺跡などに縄文時代のウッド・サークルの遺構がある。ウッド・サークルは、縦半分に割ったクリの巨大な木柱十本ほどが断面を外側にしてサークル状に並べられたものである。それらの遺構にはサークル状の柱跡が無数に存在し、ウッド・サークルが何年かに一度立て替えらえていたことを示している。

 神の依り代であるが、古くなった柱には神が降臨しないと考える信仰によってウッド・サークルは何年かに一度は立て替えられたのであろう。

 諏訪御柱祭山出し里曳きの神事、また伊勢神宮出雲大社式年遷宮(神さまに、人間の世代交代が起こると考えられる、20年、あるいは60年ごとに、新しい宮へお遷りいただくことによって、神さまの魂は永遠に生き続けるという思想、世代交代を祝う、一種の生命甦りの儀式!)は、そのような伝統を継ぐものであろう。(北陸中日新聞: 梅原猛、 文化、思うままに、御遷宮について永遠に生きる神の魂、2013年(平成25年)3月25日(月)夕刊)

2013年4月23日 (火)

揚浜塩田(珠洲、能登)、加賀藩の塩手前制度、揚浜式製塩、能登の塩士(製塩業者)を救った医師、藻寄行蔵(もよりこうぞう)、すず塩田村、とは(2013.4.23)

 江戸初期、加賀藩は、3代藩主前田利常(1594~1658)の頃、能登の沿岸部領民の塩士(しおじ、製塩業者)に米を前貸与し、揚浜塩田(あげはまえんでん)で作った塩で返納させる、塩手前制度(しおてまえせいど、塩の専売制)を実施しました。

 揚浜(あげはま)は、塩田の一種で、満潮面より高い海浜の砂上に海水をまいて、天日により水分を蒸発させ塩をとります。一方、入浜(いりはま)は、満潮面より低い海岸に海水を流入して行う製塩法です。

塩田(えんでん、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E7%94%B0. 塩田の歴史(愛知県博物館): http://www.geocities.jp/shimizuke1955/304salt3.html

 能登製塩は、背後は山、日照時間が短いこと、湿度が高いこと、潮の干満の差が約20cmしかなく、その上波が荒いため、3月の塩田の修理点検から始まり、9月の翌年の塩を炊く薪(たきぎ)の準備をへて10月に終わりました。年間の生産高は、15~30万俵(1俵は50kg)でした。海水のくみ揚げや塩田への散布は、もっぱら人力に頼りました。

 1871年(明治4年)の廃藩置県で、塩士(しおじ、製塩業者)は塩の販路がなかったので、たちまち困窮しました。この危機を救ったのが、珠洲市上戸町生まれ、幕府の昌平黌(しょうへいこう)で学び、のち京都で医学を修めた医師、藻寄行蔵(もよりこうぞう、1820~1886)でした。また、能登国第12区長(現在の市長)を務めました。

 行蔵は、当時の七尾県を通して国とかけ合い、国から約52400円(現在の約6億円)の融資を得ました。さらに、製塩組合を結成するなどして業者の自立を助けました。

Photo
     珠洲市文化財に指定された能登塩田再興碑、珠洲市上戸町、2016.12.9 

 藻寄行蔵が亡くなった翌1887年(明治20年)、塩士(しおじ、製塩業者)たちは資金を出し合い、奥能登塩田再興碑を建てました。損傷が激しく、2013年7月~同11月修繕。

  戦後は、技術革新で塩の値段が暴落し、生産性の低い能登の揚浜塩田は、1959年(昭和34年)の第3次塩業整備で廃止となり、観光目的で2軒のみ残りましたが、専売公社による買い上げ価格が安く、2年後には角花(かくはな)家を残して廃業となりました。

 そして、1990年代には、珠洲市仁江(にえ)町で伝統の塩を守ってきた、角花家の1軒のみになっていました。これは、 角花家4代目の菊太郎さんが、戦時中、軍に塩づくりを命じられ、出征をまぬがれたので、「戦争で死んだ友のためにも、命ある限り塩をつくり続ける」、との信念によるものでした。

奥能登塩田村仁江町珠洲市、石川県):http://www.okunoto-endenmura.jp/index.html

揚浜式製塩(すず塩田村、円錐形の打桶に入れた海水を投網のように弧をえがいてまく、珠洲、能登、石川、google画像 )  能登半島の先端、珠洲市の仁江海岸では、2012年(平成24年)、揚浜塩田を営む角花家5代目、角花豊さん(64)は早朝、約100坪の塩田に約1300リットルの海水をまいていました。

道の駅 すず塩田村(のとねっと、石川): http://www.notohantou.net/shpc/0768872040.html

(解説)1995年(平成7年)4月、横道嘉弘さん(73)による市などによる呼びかけで、資料館を備えた「奥能登塩田村」が開村し、「すず塩田村」として道の駅に登録しました。1997年(平成9年)には、塩の専売制が廃止され、自然塩ブームもあって、次々と塩田が復活してきました。

 その後、揚浜式製塩業は10社以上となり、「道の駅すず塩田村」に受け継がれ、2008年(平成20年)、国の無形文化財に指定されました。

 揚浜式製塩は、きめ細かな砂を敷き詰めた塩田に、木や竹製の手桶を使って海水をまき、天日で水分を蒸発させます。塩分を含んだ砂は、集めて木枠で囲んだ中に入れ、さらに海水をかけて濾過(ろか)し、塩分濃度の高いかん水を集めて、大釜で煮詰める製塩法です。

 塩田用の砂取りから始まる、炎天下での過酷な労働が、哀愁をおびた「砂取節(すなとりぶし)」(県民俗)を生み出し、当地に伝わっています。 塩をとるとき 百日浜辺 沖のはせ船 見て暮らす

 天日塩には、食塩の主成分のナトリウムのほか、マグネシウムやカリウム、カルシウムなどミネラルがたっぷりと含まれていて、「甘みが感じられておいしい」という。この塩は漬物や梅干し用にもいいし、おかゆやおむすびにも合います。甘みの隠し味として使う人もいます。 奥能登揚げ浜塩(仁江町、珠洲、能登半島、石川): http://www.notostyle.biz/SHOP/fo01-001.html

 2010年(平成22年)、珠洲市に住むアメリカ人女性は、人の手で引き継がれた伝統の味を、その歴史と技法を併せて外国にも発信したい、という。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、日吉芳朗、p.48~50、能登の製塩、裳華房(1997); 石川県の歴史散歩編集委員会編:石川県の歴史散歩(1版)、山川出版社(2010); 北陸中日新聞: 翔ぶ 北陸発 世界行き、天然塩作り守り続け、石川県珠洲市 角花豊さん、太陽と風 判断が命、2010年(平成22年)7月30日、朝刊; 北陸中日新聞: 能登36景をめぐる旅、16景 揚げ浜塩田(珠洲市)、千枚田と並ぶシンボル、2012年(平成24年)8月15日、朝刊; 朝日新聞: 揚浜塩田(珠洲市)、一軒からの挑戦 能登活性化夢見て、海と人 信念の決勝、2012年(平成24年)9月18日、朝刊; 朝日新聞: 能登・塩士の窮状救った藻寄行蔵、功績の碑修復へ、来春、生家も農家民宿に、珠洲市が予算、2012年(平成24年)10月13日、朝刊.

(追加説明)○ 能登半島の製塩は、古墳時代の土器製塩に始まり、珠洲市三崎町の森腰浜遺跡などでは、底が棒状にとがった製塩土器が大量に出土しています。鉄釜使用の揚浜式製塩法が広まったのは、江戸時代初期とのことです。

2013年4月20日 (土)

巨大地震(活断層型、海溝型)、活断層研究(地道に発展50年)、地震学(基礎段階、予知の理想と現実に悩)む)、とは(2013.4.20)

 日本の内陸巨大地震は、比較的新しい時代に繰り返しずれ、将来もその可能性がある活断層によって起こるという。数百~数万年間隔で地震を起こし、地表に段差となって表れることもあります。 言葉自体は、1920年(大正9年)代から研究者が使っていました。

001_31

日本の活断層研究の歩み活断層研究、地道に発展50年、朝日新聞、2010年(平成22年)1月12日)

(解説) 1891年(明治24年)、濃尾地震根尾谷断層で、地表がずれる現象が確認されました。 その後、このような活断層の発見が相次ぎ、研究が開花したのは1960年(昭和35年)代になります。1995年(平成7年)、阪神大震災野島断層のほか、2004年(平成16年)、新潟県中越地震を引き起こしたのも活断層でした。

 活断層を見つける基本は、空撮写真を立体的に見て特徴的な地形を探す空中写真判読です。戦後に米軍や国土地理院が撮影した写真が入手しやすくなっていました。

 2011年(平成23年)3月、東日本大震災発生福島第1原発の事故(レベル7)のこともあり、各地の原子力発電所の地域で、活断層の現地調査が盛んに行われています。

 東京大学地震研究所で長年、活断層の研究と取り組んできた松田時彦(まつだときひこ、1931~ )東京大学名誉教授は、2009年(平成21年)11月、日本活断層学会で、「この15年、調査の量は増えたが、研究は足踏み。次の時代は、突破口を開く研究が出て欲しい」と講演しました。  

 日本では、1962年(昭和37年)、地震予知計画が提唱され、1965年(昭和40年)、地震予知研究計画がスタートしました。1995年(平成7年)、活断層型阪神大震災が起こり、1999年(平成11年)、地震予知のための新たな観測研究計画に衣替えしました。 地震を直前に予知することは難しいので、まず基礎研究を重視しようという趣旨でした。のち、2009年(平成21年)、火山噴火予知計画一本化されました。

 2011年(平成23年)、海溝型東日本大震災が起こり、マグニチュード(M)9の地震を想定できず、甚大な被害を出し、国などがこれまで取り組んできた対策を根底から見直す契機となりました。

 東日本大震災は、海側のプレート(岩板)が陸側のプレートにもぐり込む場所で起きる海溝型地震で、1923年(大正12年)、関東大震災もこのタイプの地震でした。将来、これと同じ海溝型の地震で、南海トラフ巨大地震の発生が懸念されています。 

 2000年(平成12年)以降も、未知の断層による比較的大きな地震が相次いでいます。が、今は観測データを蓄積し、地震予知の基礎的な理解をめざす段階で、予知という目標と地震学の実力差は極めて大きいという。

 例えば、活断層型の地震として、鳥取県西部地震(2000)、新潟県中越地震(2004)、岩手・宮城内陸地震(2008)、兵庫県・淡路島地震(2013)、また、海溝型地震として、十勝沖地震(2003)、福岡沖地震(2005)、能登半島地震(2007)、新潟県中越沖地震(2007)、東日本大震災(2011)など、いずれも予知できなかった地震です。

 普通の人が抱く地震予知のイメージは、いつ、どこで、どんな地震が発生するか、直前に警報を出す、といったことだろう。が、こんな予知は可能かどうかも分からないという。

 天災は忘れた頃にやってくる! 普段から、震災に対する備えを忘れないよう、心がけたいものです。

(参考文献) 朝日新聞: 活断層研究、地道に発展50年、地表のずれ探して備える(2010.1.12)朝刊; 北陸中日新聞:巨大地震、震災と日本(2011.6.26)朝刊; 朝日新聞: 科学、地震学 転換続いた130年、日本の地震学を変えた地震(2012.3.12)朝刊; 朝日新聞: 予知の理想tと現実に悩む、地震学 まだ基礎段階(2012.8.16)朝刊.

 

2013年4月19日 (金)

うたの旅人(song)、世界に一つだけの花(槙原敬之、オンリーワンの真意)、ヨイトマケの唄(美輪明弘、無償の愛がテーマ)、とは(2013.4.19)

 最近、朝日新聞「be」編集部が、「うたの旅人」で、世界に一つだけの花(槙原敬之、オンリーワンの真意)ヨイトマケの唄(美輪明弘、無償の愛がテーマ)など、かって大ヒットした歌の誕生にまつわる、秘められたエピソードを紹介しています。

 そこで、これらの歌をgoogle(検索)で調べ、本人のライブの歌をYuTube(動画)で聴いてみました。

 世界に一つだけの花

 花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた ひとそれぞれ好みはあるけれど 

 どれもみんなきれいだね この中でだれが一番だなんて 争うこともしないで バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている 

 それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?

 そうさ僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればよい(中略) 小さい花や大きい花 一つとして同じものはないから **繰り返し

 世界に一つだけの花(2003年、槙原敬之(まきはらのりゆき、1969~ 、作詞作曲、歌、YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=fYUr9qHUmFs&index=1&list=RDfYUr9qHUmFs .

(解説) SMAPの35枚目のシングルとして2003年(平成15年)3月に発売されました。前年発表のアルバム収録でしたが、僕が生きる道(略称、僕生き)のドラマ主題曲となり改めてシングル化となりました。

 槙原さんは歌詞の真意について、「自分に植えられている種を真剣に見つめて、きちんと水をやろう。そうすれば相手にもその種があることに気付くはず。競う相手は他人ではなくて自分自身だ」。この歌が生まれたのは、あの「覚せい剤事件」があったから、自分に大事なことを気づかせてくれた、と。 

 身延山大学名誉教授日蓮宗勧学院副院長の上田本昌(うえだほんしょう、1930~ )住職は、「自分が、この世に二度とない命を生きるかけがえのない存在と知れば、おのづと相手も大切だとわかるという歌でしょう」と言う。

○ ヨイトマケの唄

 父ちゃんのためなら エンヤコラ 母ちゃんのためならエンヤコラ もひとつおまけにエンヤコラ 

 今も聞こえる ヨイトマケの唄 今も聞こえる あの子守唄 工事現場のひるやすみ たばこふかして目を閉じりゃ 聞こえてくるよあの唄が 働く土方のあの唄が 貧しい土方のあの唄が

 子供の頃に小学校で ヨイトマケの子供 きたない子供と いじめぬかれて はやされて くやし涙にくれながら 泣いて帰った道すがら 母ちゃんの働くとこを見た 母ちゃんの働くとこを見た --- (中略) 

 何度か僕もグレかけたけど やくざな道はふまづにすんだ どんなきれいな唄よりも どんなきれいな声よりも 僕をはげまし慰めた 母ちゃんの唄こそ世界一 母ちゃんの唄こそ世界一 

 今も聞こえる ヨイトマケの唄 今も聞こえる あの子守唄 父ちゃんのためなら エンヤコラ 子供のためならエンヤコラ

 ヨイトマケの唄(2012年12月31日、NHKホール、美輪明弘(みわあきひろ、1935~ )作詞作曲、歌、YouTube): http://www.youtube.com/watch?v=qt70qMMSlhY

 美輪さんは曲のテーマを「無償の愛」だという。「衣食住が満たされた現代だけれど、心は渇いていて、多くの人が無償の愛を必要にしているように思える。紅白の舞台なら、離島や地球の裏側にまで、その尊さが伝えられると思った」。2012年(平成24年)の第63回NHK紅白歌合戦に77歳にして初出場した理由をそう語りました。

(解説) 美輪明宏さんが本名の丸山明宏を名乗っていた時代の1960年(昭和35年)頃に作られ、1965年(昭和40年)にレコードが発売されました。

 美輪さんは、ヨイトマケの唄を作ったのは、「貧しい人ほど、魂が美しい人が多い。そんな人々のプライドを励ます歌が必要だと思った」とのことです。自身と友人の体験が盛り込められているという。 

 美輪さんは長崎市に生まれ2歳で実母と死別しました。10歳で被爆。10代後半で銀座で歌い出した後も、貧血に悩み、被爆の後遺症だと思っていました。

 1950年(昭和25年)代の終わり、美輪さんは興行で炭鉱の集まる福岡県筑豊地方を訪れました。石炭の粉で黒ずんだ街でした。この時から美輪さんは人々の苦しみを見詰め、社会を風刺する歌を作り始めました。

 音楽プロデューサーの酒井正利さん(さかいまさとし、1938~ )は「美輪さんの歌は魂の叫び。複雑な生い立ち、長崎での原爆との遭遇、病とのたたかいなど、自身の人生体験から形作られた表情がある。それが人の心に響くのだろう」と話す。

 というわけで、これらの歌には二人のシンガーソングライターの秘められた人生経験が込められており、何か人の心に響くものを感じました。

(参考文献) 朝日新聞(うたの旅人、土曜版, song, be on Saturday): 槙原敬之作詞作曲「世界に一つだけの花」(2012.4.7); 美輪明弘「ヨイトマケの唄」(2013.3.16).

(参考資料)○ 歌の旅人(バックナンバー、朝日新聞 DIGITAL): http://www.asahi.com/shopping/column/tabibito/

2013年4月16日 (火)

碁盤(調教と儀式)、和牛(農耕)の碁盤乗り(調教)、皇族(五歳)の碁盤乗り(着袴の儀)、碁盤飛降り(深曾木の儀)、とは(2013.4.16)

 碁盤乗り(ごばんのり)とは、広辞苑によれば、「① 馬術の一。馬の四足をそろえて碁盤の上に立たせる技。② サーカスなどで、象・猛禽(もうきん)などを碁盤の上に四足をそろえて立たせる曲芸。」とあります。

 日本には、近代(大正時代)、農耕用和牛碁盤乗りさせる調教技術、また、古代(平安時代)、宮廷皇子着袴の儀碁盤乗り深曾木の儀碁盤飛降り伝統儀式がありました。

○ 牛の碁盤乗り(調教技術)

牛の碁盤乗り碁盤は約45cm四方、高さ30cmの木製台、碁盤の上に立つ黒毛和牛「ひなた」(雌、9歳)、体長約1.5m、体重約500キロ、google画像) 碁盤乗り(あぐりレター、中国四国農政局): http://www.maff.go.jp/chushi/mailm/magazine/backno/259-121205.html

(解説) 人が声をかけながら、牛の手綱を引き、前脚が碁盤と同じ木製台にゆっくり乗っかり、最後は4本の脚をそろえて立つように導きます。

 牛が四足をそろえて碁盤の上に乗る、「碁盤乗り」は、大正時代(1912~1925)に岡山県新見地方の人が農耕用調教するために考案した技術で、手綱の使い方や掛け声ひとつで伝わり方が変わるという。全国的に普及しましたが、転耕機の普及と共にすたれていました。

 2012年(平成24年)10月25~29日、第10回全国和牛能力共進会が長崎県で開催されました。10月26日、この伝統的な和牛碁盤乗りの高等調教技術は、16年前に復活させた岡山県立新見高校生岐阜県立賀茂農林高校生により披露されました。朝日新聞デジタル和牛碁盤乗り披露、岡山と岐阜の高校生、動画含む): http://www.asahi.com/national/update/1026/SEB201210260006.html

○ 皇室の皇子の碁盤乗り着袴の儀)と碁盤飛降り深曾木の儀

 平安時代、宮廷において、皇子が碁盤の上に乗る、「着袴(ちゃっこ)の儀」と碁盤の上から飛び降りる、「深曾木(ふかそぎ)の儀」がありました。皇族の皇子五歳に達したことを祝う儀式です。宮中で五歳を迎える皇族の健やかな成長を祈るもので、民間の七五三に当たる行事です。

事前の練習で深曽木の儀に臨む悠仁さま=赤坂東邸で2011年10月28日(宮内庁提供)

悠仁さまの着袴の儀、深曾木の儀(秋篠宮ご夫妻の長男、赤坂東邸、東京、2011年(平成23年)11月3日、google画像)  悠仁親王殿下、着袴の儀、深曾木の儀(りわりんの健康生活、ピグライフ): http://ameblo.jp/novausagi0116/entry-11067499373.html

(解説) 着袴(ちゃっこ、はかまをはくこと)の儀では、五歳に成長された皇子落滝津(おちたぎつ)と呼ばれる白袴を着用、東宮大夫(とうぐうだいぶ、御用掛とも)がそのを締めて着袴されます。

 つづいて、童形服姿(どうぎょうふくすがた、亀甲や菊の柄の衣装を重ね着)に差し替え、右手に扇、左手に小松二本と山橘の小枝を持ち、足つきの碁盤(高さ約27cm)の上に吉方の南に向かって乗り、御用掛が髪をくしでそろえ、毛の先の三か所を少し切り取ります。そして、青色の小石二個を足の指にはさみ、碁盤の上から飛降りるのが、深曾木(ふかそぎ、三歳の髪置ののち、五歳までの間に、髪を切りそろえること)の儀です。

 これらの儀式意味するところは、宮廷の皇子が「碁盤宇宙に見立てて大地降り立つ」という、王家の祝事を象徴する必須の祭りごとです。約八百年の歴史があり、現代の皇室にも連綿として受け継がれています。

(参考文献) 新村出: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991); 水口藤雄: 囲碁の文化誌(第2刷)、起源伝説からヒカルの碁まで、p.78~81、21 宮廷における囲碁の儀式、日本棋院(2002); 北陸中日新聞:着袴、深曾木の儀、悠仁さま成長祈る、2011年(平成23年)11月4日朝刊; 朝日新聞: 碁盤サイズにギュウっと、2012年(平成24年)9月15日朝刊.

2013年4月13日 (土)

放射性物質(セシウム137、ヨウ素131、ストロンチウム90、プルトニウム239など)、ウランの核分裂生成物(約80種)で、人体の内部被爆による悪影響を及ぼすもの、とは(2013.4.13)

  東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所事故では、セシウム137ヨウ素131は、共に大気中に放出された量が最も多く、放射性物質の大半を占めています。

 セシウム137ヨウ素131は、土や水などにくっつきやすく、空気中を漂っているときに雨が降ると、一緒に地表に落ち、長い間放射線を放出します。また、セシウム137は軽い原子なので、第1原発から約270キロ離れた長野県東部でも検出されています。

001_21

東京電力福島第一原子力発電所事故主な放射性物質と自然界への汚染の広がるイメージ、朝日新聞、2011年(平成23年)11月27日)

(解説) 事故直後は最初、希ガスのキセノン133半減期5.2日、β線)が放出されましたが、気体なので、水や土にくっつきにくく、空中に拡散し、土壌や食品からは検出されませんでした。

 注意を要する放射性物質は、人体に取り込まれ内部被爆の影響が大きいものです。特に、ヨウ素131半減期8.04日、β線)は、甲状腺、セシウム137同30.1年、γ線)は筋肉、ストロンチウム90同28.8年、β線)は骨というように、人体に蓄積されやすいところがあります。放射能をもつ原子核の数が半分になるまでの時間が半減期で、原子の数値は、原子核中の陽子の数と中性子の数の和で、質量数といいます。

 プルトニウム239半減期2万4千百年、α線)は、α(アルファ)の放射線を放出し、空中で4cm程度しか届かないのですが、半減期が長く、肺が吸い込むと放射線を生涯にわたり受け続け、がんにつながる恐れがあります。また、原発沿岸の海底土や敷地内の汚染水から魚が取り込み、その魚を食べて人が被爆する恐れもあり、詳しい調査が求められています。

(参考文献) 伊佐公男、内田高峰、関崎正夫、本浄高治、増田芳男、宮城陽(共著): 化学の目でみる物質の世界(第4版)、p.32~35、天然放射性元素、元素の人工変換、内田老鶴圃(2003); 朝日新聞: ニュースがわからん!ワイド、放射性物質 影響に違いはある? セシウムとヨウ素に注意 軽いから遠くまで飛ぶ、2011年(平成23年)11月27日朝刊.

(追加説明) ○ 原子力発電は、燃料のウラン235核分裂させ、生ずる熱で水蒸気をつくり、発電機を回して発電しています。

○ 天然産出するウランは、ほとんどウラン238ですが、0.7%のウラン235(質量数が235のウラン)が含まれています。このウラン235を濃縮して低速中性子を当てると、1個の原子核が分裂して、大きなエネルギーを放出し、約80種類放射性物質を生じ、この現象を核分裂といいます。このとき副生した中性子はさらに他のウラン235にぶつかって次の分裂を起こします。この繰り返しを連鎖反応(れんさはんのう)といい、制御棒(カドミウム、ホウ素など含む)、炭素棒や重水に中性子を吸収させて連鎖反応の速度を遅くしたのが原子炉です。

○ ウランなどが自然に放射線放出する性質を放射能といい、放射能をもった物質を放射性物質という。放射線には、物質を突き抜ける能力(透過力)の小さい順に、α線(アルファ線、ヘリウムの原子核の流れ)、β線(ベータ線、高速の電子の流れ)、γ線(ガンマ線、電磁波)の3種類があります。

○ 放射性物質で汚染された「指定廃棄物」は、福島第一原発の事故で出た放射性のセシウム137の濃度が1キロ当たり8千ベクレルを超える廃棄物です。法律で国が処分に責任を持つことになっています。 塵(ごみ)を焼いて出た灰や下水処理後の汚泥、乾燥した稲わらが中心で、セシウム137が濃縮されています。現在も指定廃棄物は増え続けており、地面を掘ってコンクリートで囲い、屋根もつけた施設内に埋めておくのですが、最終処分場の候補地は地元の猛反発で、不安定な「仮置き」となっています。(朝日新聞、2012年(平成24年)10月5日)

2013年4月12日 (金)

震災の遺物、各地に残る震災の石碑、津波を記録した古文書、妖怪による厄災の民話、大津波の痕跡(南海トラフ付近、三陸海岸、関東南部周辺)、とは(2013.4.12)

 東日本大震災大津波による被害をきっかけに、日本の各地に残る津波被害を刻んだ石碑古文書などに注目が集まっています。そして、昔から伝わる震災遺物などを防災に生かそうとする試みが、日本各地の自治体で始まっています。

 日本各地に残る震災の遺物(石碑、古文書など)

001_61_2

日本の各地に残る震災(大地震による津波被害)の記録(朝日新聞、2012. 2.17.朝刊)

① 大津波記念碑岩手県宮古市 1933年(昭和8年) 昭和三陸地震  住民が「此処より下に家を建てるな」の碑文を守り、東日本大震災で家への津波被害を免れました。

② サイカチの木千葉県館山市 1703年(元禄16年) 元禄地震  人々が登って津波を免れたとの言い伝えがあります。高さは約8mでした。(館山市提供)

③ 安政の大地震鎮めの碑愛知県豊橋市 1854年(安政元年) 安政南海地震  住民が災害防止を願って建立しました。墨の字が薄れたため住民が2008年に碑文を彫りました。(豊橋市提供)

④ 康暦碑(こうりゃくひ、徳島県美波市) 1361年(南朝、正平16年、 北朝、康安元年) 正平南海地震  太平記にも記されている地震です。津波の犠牲者とみられる60人分の人名が刻まれています。(美波町提供)

Hiro8j1

広八幡神社(ひろはちまんじんじゃ、広川町有田郡、和歌山県、google画像) 広八幡神社(楼門、舞殿、拝殿、本殿、瀬藤禎祥、古代史街道、紀ノ国編): http://kamnavi.jp/ki/nanki/hiro8man.htm

(解説) 1854年(安政元年)に発生した安政南海地震では、津波により339戸のうち125戸が流失しました。「稲むらの火」のモデル、浜口悟陵(はまぐちごりょう、1820-1885)が築いた広村堤防の南東約1.4キロ、小高い森を背に、楼門、舞殿、拝殿、本殿階段状に並ぶ広八幡神社(ひろはちまんじんじゃ) があります。江戸期の舞殿以外は、いずれも室町時代に作られた国の重文で、中世に1700戸を数えた広荘の総鎮守にふさわしい風格が見られます。

 地元に伝わる「50年から100年ごとに必ず津波がくる」という伝承の通り、何度も津波被害を受け、1707年(宝永4年)に起きた宝永地震による波高14mの津波では、850戸のうち700戸が流出し、その後、1854年(安政元年)、浜口悟陵が遭遇した安政南海地震では、339戸のうち125戸が流出しました。 

 神社境内は昔からの避難場所、勝海舟(かつかいしゅう、1823-1899)が浜口悟陵をたたえたも立っています。300m北西の線路脇には、宝永津波で舟が跳ね上がったという「ハチアガリ坂」があり、15世紀末の津波では波が楼門石段3段目まで来たという。

  また、民俗学の視点から、日本各地に残る伝承の多くは、先祖たちが、身に降り掛かる厄災河童(かっぱ)や天狗(てんぐ)の仕業と受け止め、語り継いできたことをうかがわせます。 これは、自然災害民俗学的見地から捉え直すことの重要性示唆しています。

○ 妖怪(河童、天狗、一つ目小僧など)の民話と災害(水害や飢饉、火事など)

 日本人は古来、自然との関係の中で命や心が育まれ、自然と人間との狭間(はざま)で神や妖怪を考えてきました。そして、私たちは人間と自然をつなぐ神々や妖怪が実在すると考えています。

 昔の震災を民俗学的見地から捉えると、柳田国男(やなぎたくにお、1875-1962)の「遠野物語」「一つ目小僧その他」「妖怪談義」の三つの著書では、河童、天狗、一つ目小僧などの妖怪、水害飢饉、火事などの災害深く結びついているという。

 例えば、濃尾平野に残る「やろか水」の伝承は教訓的です。これは、上流から聞こえる”やろか”という怪異な声を軽んじた人が死んでしまうという妖怪譚(ようかいたん、妖怪の話)です。やろか水(やろかみず、妖怪、ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AD%E3%82%AB%E6%B0%B4

 東日本大震災後、高台移転や防波堤の建設を通じ、人間と土地の結び付きが課題として浮上しましたが、日本人は妖怪譚を通じてこの関係を理解してきたのではないかという。

(参考文献) 朝日新聞: 新防災力、先人に学べ、国が提言、歴史学者も調査参加、石碑や古文書 被害想定作りに活用、「この下家建てるな」警鐘、津波重なった所に地蔵、2012年(平成24年)2月17日(金)朝刊; 朝日新聞: こころ、祈りに出あう おとなの遠足、広八幡神社、「必ずくる津波」に備えて、2011年(平成23年)4月26日(火)朝刊; 北陸中日新聞: 畑中、災害に民俗学の視点、妖怪が記憶継ぐ、「災害と妖怪 柳田国男と歩く日本の天変地異」(亜紀書房); 北陸中日新聞: 石井正己、津波と高台移転、ある民俗学者の視点、山口弥一郎(1902~2000)による津波調査、津浪と村(発行、1943)、津波常習地三陸海岸地域における集落の移動(学位、1960)、2012年(平成24年)10月夕刊.

(追加説明) ○ 地震津波に関する古文書(明応、慶長、安政の津波)

 1605年(慶長9年)2月の暮れ、南海トラフ動き大津波日本を襲ったのですが、伊豆半島の仁科の里(現・静岡県西伊豆町役場付近)も地震と津波に襲われ、近くの佐波神社(さわじんじゃ)も被害を受け、年明けに再建されたのですが、その再建記念の「棟札」に願栄という僧侶日本防災史上に残る文章を書いたのが残っています。

「戌午(1498)年の津波は寺川の大堰まで。またその後99年にして甲辰年12月16日(1605年)には垣ノ内の横縄手まで(津波が)入った。末世にその心得がありますように」

 この文章の調査、研究により、仁科という「地形津波計」で計った津波の大きさは、明応津波1498年、仁科の里を2キロ内陸まで浸水、津波は10mを超える高さ)>慶長津波1605年、海から1.4キロの地点まで浸水、標高約7.5m)>安政津波1854年、1キロ程度内陸まで浸水、標高4.5m)の順番であることを読み解くことできるという。

磯田道史(いそだみちふみ、1970~、歴史学者):備える歴史学、100年前の僧侶が残す、500年後に一度の津波へ警告、朝日新聞、2013年(平成25年)4月13日、朝刊)

○ 南海トラフ付近の大津波の痕跡 (6000年に15回、300~400年に1回

 国内最大級、江戸時代の宝永地震(1707年、M8.6)と同規模以上の巨大地震による大津波が、過去6000年で15回以上起きていた可能性があることが、岡村真特任教授(高知大学、地震地質学)の研究チームの調査で分かりました。

 研究チームは、自然にできた高さ6mの堤防に守られた蟹ケ池(かにがいけ、土佐市、高知県)で過去の堆積物を測定し、約2000年前から300~700年間程度の間隔で、東海、東南海、南海地震が連動した宝永地震を含む、5層の津波の痕跡を確認していました。

 その後さらに、池の底から約6mの深さまでパイプを突き刺し、堆積物を採取、放射性炭素(C14)を計り、最深部で6300~6390年のものと判明しました。津波で大量の海砂が流れ込み、平時の泥と積み重なってできる特有のしま模様が見つかりました。

 蟹が池には単独で発生した安政南海地震(1854年、M.8.4)、昭和南海地震(1946年、M8.0)の痕跡はほとんどないので、この池に残る津波の痕跡は、宝永地震と同じ連動型の巨大地震によるものと考えられる、とのことです。

 岡村氏のチームは、約2000年前の巨大地震による津波堆積物を、尾鷲市(三重県)、阿南市(徳島県)、須崎市(高知県)、佐伯市(大分県)などの池でも発見しており、現在、宝永地震から300年以上たち、次の南海地震が連動型の巨大地震になる可能性が高いと警笛を鳴らしています。

(大津波 6000年で15回、高知大、地質調査で可能性確認、朝日新聞、2013年(平成25年)1月30日、朝刊)

○ 三陸海岸の巨大津波の痕跡(6000年に6回、1000年に1回)

 巨大津波が約1000年に1回、三陸海岸を繰り返し襲っていた可能性を示す砂や石の堆積物を平川一臣特任教授(北海道大学)が見つけました。

 平川さんは、気仙沼市(宮城県)で、海岸付近の高さ1~5mほどの切り立った崖に津波で運ばれた6層の砂石の地層を発見、また、宮古市(岩手県)では、東日本大震災(2011年)の津波が32mまで達した地点の近くでも複数の地層を見つけました。

 切り立った崖の上に痕跡が残っていたことから、巨大津波と考えられ、地層に含まれる火山灰や土器から、6000年間で6回の津波が押し寄せたと推定しました。平安時代、869年の貞観津波を起こした地震は、仙台や石巻平野の堆積物の調査からM8.4と推定され、発見した地層の一部が該当するとみています。

(三陸 巨大津波 6000年で6回、北大教授発見、崖の上地層に跡、朝日新聞、2011年(平成23年)8月22日、朝刊)

○ 関東南部周辺の大津波の痕跡(2000年に5回、400年に1回)

 関東南部周辺を震源とするM8級の巨大地震「関東地震」が約2000~4000年に少なくとも5回起こっていることを示す津波堆積物を筑波大と東京大などのチームが、神奈川県の三浦半島で発見しました。震源は相模湾から延びる相模トラフ沿いと考えられています。

 チームは、三浦半島の南側にある江奈湾で、干拓や湿地から地層を採取、長さ3m前後の柱状の地層試料に、海から運ばれて堆積したとみられる砂や珪藻の化石などを含む厚さ約5~20cmの地層を計6層見つけました。

 一番上の層は関東大震災の津波で、残りの5層は約2000~4000年前に起きた地震の津波で運ばれたと推定されました。

 一般に、津波堆積物は、巨大地震による津波で残ることが多く、新しいほど浅いのですが、そこでは、2000年前より新しい地層はきれいに残っておらず、1923年の関東大震災以外のものは見つかりませんでした。

 ほかの場所で過去に見つかった地盤隆起の跡や、地震の繰り返す性質を合わせると、関東地震は、数百年おきに発生したと考えられるという。

(関東地震 2000年間に5回、東大・筑波大チーム、M8級 津波堆積物を発見、北陸中日新聞、2012年(平成24年)9月24日、朝刊)

○ その他、7世紀にも東海地震 として、静岡県磐田市の太田川河口から約2.5キロの元島遺跡、さらに500m上流の河川改修工事現場でも、最古の南海地震「白鳳地震」(648年)と同じころ、記録にはない東海地震が発生したことを示す津波堆積物を、藤原治主任研究員(産業技術研究所、つくば市、茨城県)らが確認しています。(北陸中日新聞、2012.8.21、朝刊)

 また、琵琶湖平安期に津波か として、平安時代末期の1185(元暦2)年8月、滋賀や京都に甚大な被害をもたらしたM7超の大地震で、琵琶湖に津波が起きた可能性があることが分かりました。考古学の調査員が琵琶湖北端の滋賀県長浜市にある塩津港遺跡の神社跡発掘調査から、地震による津波が神社を襲ったと分析しました。(北陸中日新聞、2012.12.24、朝刊)

2013年4月10日 (水)

自然災害と地名の言い伝え、日本各地の地震、津波、洪水と深く結びついた地名(名取、女川、小名浜、女場、女遊戸、波倉、釜石、気仙沼、鎌倉、芋川、妙見、加賀、灘、桜島、普賢岳、蛇抜、板野など)、とは(2013.4.10)

 日本の各地に過去の大災害の教訓と深く結びついた地名が残っています。楠原佑介(くすはら ゆうすけ、地名研究家、1941~)によると、東日本大震災(2011.3.11)の東北被災地にも過去の津波の痕跡を示す地名が少なくないという。

 名取市(なとりし、宮城県)の「な」は古語で土地を意味し、「とり」土地が削り取られたことを指し、その昔津波が地面を削り取った土地だとのことです。続日本記(しょくにほんぎ、697~791)によると、この地名はすでに奈良時代にあり、平安時代の貞観年間(867~876)に起きた大地震と津波は有名ですが、それ以前にも多くの災害があったのではと見ています。東日本大震災では津波で900人を超す犠牲者を出し、仙台空港が一時使用不能となりました。

○ 女川町(おながわまち、宮城県)、小名浜(おなはま、福島県いわき市)など、 「おな」が付いているところが、東日本大震災で被災地名になっています。これは、男波(おなみ)と呼ばれる高く打ち寄せる波のことを、「み」を省き、「おな」と呼んだ名残と推測されます。

 東日本大震災では、女場(おなば、宮城県南相馬市小高区)、女遊戸(おなつぺ、岩手県宮古市崎山)の両集落は、海岸沿いではないのですが、津波の被害を受けました。海のそばで、「おな」の付く地名は東北地方だけでも十ヵ所を超えるという。

○ 波倉(なみくら、福島県樽葉町)のとは、「刳(く)る」名刺化した語で、地面がえぐられたような地形に使われることが多いという。文字通り、波がえぐった土地というわけです。今回の東日本大震災では辛うじて損壊をまぬがrた福島第2原発も、津波の危険性は大きいことが推測されます。

○ その他、釜石(かまいし、岩手県)は、釜のようにえぐられた磯に由来し、気仙沼(けせんぬま、宮城県)は、津波によっても「消せない」との願望の意です。

 また、東海地震で危険が疑われる場所として鎌倉市(かまくらし、神奈川県)があり、「かま」とは、かまどや釜の由来でもあるように、穴のへこんだ状態のことです。記録が確かな13世紀の百年間だけでも7度の大きな地震、津波に襲われ、膨大な死者を出したことを語り継ぐ必要があります。

○ 芋川(いもかわ、新潟県)は、「埋もれる川」、中越地震に近い山古志村から南流、妙見(みょうけん、新潟県)は、損壊するという意味の「めげる」に由来し、中越地震で山崩れが発生、加賀(かが、石川県)は、自然の力で「欠け」た土地の意味、波により多くの崖(がけ)ができたとのこと、(なだ、兵庫県)は、地面が大きな力で「なでられる」、「なだれ」に由来、阪神大震災で被災、桜島(さくらじま、鹿児島県)は、噴火口が「裂(さ)ける」に由来、普賢岳(ふげんだけ、鹿児島県)は、「吹けぬ(噴火しない)ように」との願望の意です。

○ 蛇抜(じゃぬけ)の地名は、長野、岐阜、富山、長崎など各地にあり、水害の歴史と深く結びついています。笹本正治(ささもとしょうじ、歴史学者、信州大副学長、1951~)によると、かって蛇抜で多くの犠牲者が出た与川のある木曽地域では、花こう岩の白い地質があり、川を曲がりくねりながら抜けていく土砂は、白い大蛇に見えてもおかしくなく、ここから土石流蛇抜と呼ぶようになったと推測されます。

 東日本大震災という未曽有の大災害を受け、全国の自治体では各種のハザードマップを作成する動きが広まっている中、楠原氏は、「マップには大字(おおあざ)や小字だけでなく、確認できる限りの旧地名を盛り込み、古(いにしえ)の人々が未来にどのような警笛を鳴らしているのかを、考えて欲しい」と提言しています。

(参考文献) 北陸中日新聞: 地名から災害の歴史を学ぶべきだと話す楠原氏(東京都千代田区で)、研究家が著書で訴え、地名から災害史学んで、この地名が危ない(幻冬舎新書)今月下旬出版、2011年(平成23年)12月3日(土)朝刊; 北陸中日新聞: 生活、蛇抜、蛇の道、地名は災害教訓、2013年(平成25年)1月7日(月)朝刊.

(追加説明) ○ 阿波(のち徳島)藩の藍の生産地、板野(いたの)の地名は、(いた)は、傷む(いたむ)の語幹であり、河川などによる川岸の崩壊に由来するので、板野(いたの)は吉野川の氾濫によりできた平野を意味していると推測されます。

 1784年(天明4年)頃、阿波藍生産地の中心は、吉野川中・下流域の北方5郡(名東、名西、麻植、板野、阿波)、特に吉野川下流の板野郡の地域でした。この地域は、吉野川が毎年氾濫し(1800年代で16回)、上流から土砂が流出し、肥沃な平野を形成していました。

 俗説では、徳島藩が吉野川流域に堤防を築かなかったのは、流域の藍作を持続したいためとのことですが、史実は、藩には吉野川の完璧な治水工事を行う財源もなければ、労働力の確保も出来なかったのだと言われています。

2013年4月 4日 (木)

春、わが家(桜田、金沢)近く犀川土手の満開の桜の景色(2013.4.4)

P4040030

P4040033

P4040029

P4040035_2

P4040037

P4040041

P4040044_2

P4040038_2

P4040045

犀川土手の景色満開の桜桜田、金沢、2013年(平成25年)4月4日撮影)

(追加画像)

P4060002

P4060005

P4060013

犀川土手の景色満開の桜桜田、金沢、2013年(平成25年)4月5日撮影)

2013年4月 1日 (月)

日本の国花(サクラ、桜)、ソメイヨシノ(染井吉野)、犀川沿いと兼六園の桜、さくらさくら(文部省唱歌)、吉野千本桜、とは(2010.4.10)

  古来、日本の国花(こっか)と言えば、サクラ(桜)キク(菊)を指しました。日本各地で最も多い桜は、ソメイヨシノ(染井吉野)です。この桜は、葉の出ぬ先に花が開き、つぼみは初め淡紅色ですが、次第に白色に変わります。成長は早く、木の寿命は短い(60年?)と言われています。ソメイヨシノは、1代雑種なので実を結ばず、その後は接ぎ木(つぎき)で増やされ、クローン種として、全国に広がりました。かってはヤマザクラ(山桜)、ヒガンザクラ(彼岸桜)、オオシマザクラ(大島桜)など自生が多く、寿命も長い(数百年?)ものでした。

 は、バラ科サクラ属の落葉高木または低木の総称です。サクラ属は亜科とされることもあります。中国大陸、ヒマラヤ、台湾にも数種ありますが、日本に最も野生種が多く(11種)、特に、江戸時代には、多数の品種が交配により育成され、今日では、鑑賞を目的とした園芸品種は、300種を超えると言われています。

 は、ヤマザクラ(山桜、シロヤマザクラ、白山桜とも、関東以南の山地に自生する)、ソメイヨシノ(染井吉野、エドヒガンとオオシマザクラの交配雑種)、サトザクラ(里桜、オオシマザクラから園芸的に作られた変種、イエザクラ、家桜とも、伊豆半島に自生あり)、ヒガンザクラ(彼岸桜、コヒガン、アケボノヒガンとも、エドヒガンの俗称、本州から九州の山中、特に中西部に多く自生する)などが普通ですが、天然記念物も多いようです。

Images2_3

Images1_9  

犀川沿いのヤマザクラ(山桜、白山桜とも、 犀川土手の桜と中洲の景色、 犀川土手の桜、桜田、金沢、石川) 最近、近くの犀川右岸堤防で、花びらが白いオオシマザクラ50本の植樹式がありました。(2010年(平成22年)4月10日撮影)

(解説) 江戸末期、東京近郊の染井村(のち東京豊島区駒込付近)の植木職人ソメイヨシノを育成し、ヨシノザクラ(吉野桜)として売り出しましたが、吉野山(奈良県)のヤマザクラ(山桜)であること、また、後に藤野寄命(ふじのきめい)、1848年(嘉永元年)~1926年(大正15年)による上野公園(東京)のの調査から別種のものであることが分かり、1891年(明治24年)、ソメイヨシノ(染井吉野)命名され、1900年(明治33年)、牧野富太郎(まきのとみたろう)、1862年(文久2年)~1957年(昭和32年)の尽力で、日本園芸会雑誌、第92号に掲載されました。ソメイヨシノは、エドヒガン(江戸彼岸、ヒガンザクラとは別種、ウバヒガン、アズマヒガンとも、本州以南や中国大陸一部に自生する)とオオシマザクラ(大島桜、サトザクラの変種、伊豆七島に自生する)の1代雑種(交配種)という説が有力です。

 は、白色、淡紅色から濃紅色五弁花を開くものが多いのですが、緑化して黄緑色となったウコン、鬱金、ギョイコウ、御衣黄)も知られています。この紅色は、アントシアニン系色素シアニジンであり、カーネーションの花と同じ色素です。

 花びらには、一重咲(ソメイヨシノ、カンザクラ、寒桜)、八重咲菊咲(兼六園菊桜)、二段咲があり、また種子から数年で開花するワカキノサクラ(稚木の桜、幼型)の品種もあります。

Images_3

兼六園の菊桜兼六園、金沢、本多郁夫氏撮影、google画像)

(解説) 兼六園(金沢)の最も有名な桜は、兼六園菊桜と名付けられた遅咲き八重桜です。球状の花を付け、その花びらの数は約260枚にもなることから菊桜と名付けられました。花は開花時に濃い紅色をしていますが、次第に淡くなり満開の時には薄白くなります。

 木材は、均質で、器具材、造船材などとし、また、古来、版木に最適とされています。樹皮はタバコ入れなどの細工物となるほか、これから咳止薬(桜皮仁)が作られています。

 食材として、八重咲の品種の花を塩漬したものは、熱湯に入れて祝事に飲用し、オオシマザクラの葉は桜餅を包むのに使います。この香りは、葉に含まれていたクマリン配糖体が壊れ、クマリンがでjきて芳香を放つからです。クマリンは和菓子に桜の香りをつけるのに用いられています。サクランボは、同じサクラ属の果樹、桜桃(おうとう)のことで、果実は食用にします。 

 日本代表的として、江戸時代から、「桜」がよく知られていますが、作詞者も作曲家も不明です。江戸時代末期の箏(そう、琴、こと)の手ほどき曲と考えられています。明治初期、音楽取調掛(文部省)が「俗曲」を改良する一環として、「咲いた桜」を音楽教育用に編曲、1888年(明治21年)出版の『箏曲集』の中に「」として掲載しました。

Images_5

さくら(桜、江戸時代、箏曲、作詞者、作曲家、不明、google画像)

(解説) 「咲いた桜」の歌詞は、さいた桜 花見て戻る 吉野は桜 龍田は紅葉 唐崎の松 常磐(ときわ)常磐 深みどり。

 「」の歌詞は、 桜、さくら 弥生の空は 見渡すかぎり 霞(かすみ)か雲か にほひぞいづる いざやいざや 見にゆかん。

 「さくらさくら」の歌詞は、 さくらさくら 野山も里も 見渡すかぎり かすみか雲か 朝日ににおう さくら さくら 花ざかり。

 歌詞旋律は、時代変化し、親世代は「弥生の空は」と歌うところを、子の世代は「野山も里も」と歌います。最後の終わりの方も、人によって違っています。1941年(昭和16年)、国定教科書『うたの本 下』に収める際に再び歌詞が変わり、題名も「さくらさくら」となりました。現在は、学習指導要領により「さくらさくら」が小学4年の歌唱共通教材として教科書に載っています。 

○ 日本の懐かしい童謡、唱歌など、(歌詞と視聴、ごんべ007の雑学村): http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

Images1_12

吉野千本桜(吉野山、一目千本、吉水神社境内、吉野町、奈良、google画像)

 ヨシノザクラ(吉野桜)は、ソメイヨイノ(染井吉野)ではなく、吉野山にあるヤマザクラ(山桜、約3万本!)です。吉野山は、奈良県中部、大峰山脈の北側の一支脈で、かっては、後醍醐天皇(第96代)、1288年(正応元年)~1339年(延元4年、暦応2年)以後4代にわたる南朝の所在地で史跡に富み、古来桜の名所、修験道の根本道場の地でした。(吉水神社(よしみずじんじゃ、もと吉水院、世界遺産、南朝皇居、修験道場):http://www.yoshimizu-shrine.com/.) 

 一目千本(ひとめせんぼん)とは、一目で千本の桜が見えるという、吉野山観桜の絶好の場所です。桜は、4ヵ所に分かれて密集し、口の千本または(しも)の千本、中の千本、上(かみ)の千本、奥の千本などと呼ばれ壮観です。

 郷里(もと松島村、上板町、徳島)にも、松島千本桜の名で知られる桜の名所があります。住民には、しゅばしょ(種馬所)と呼ばれている県立の畜産試験場ですが、その周辺と場内にはソメイヨシノ(染井吉野)が約900本と品種の異なる桜が約100本植えられていて、桜の季節には花見客で賑わっています。松島の千本桜(上板町、徳島):http://list.tabiiro.jp/203753.html

 昔の村には、どの土地でも立派な桜が、小高い丘の上など、いつも見える場所にありました。人々は桜を目安に畑仕事をしました。には神も人間も虫も桜に集まり、桜の前では、神も人もいっしょに舞い、遊ぶ、そうした「神遊び」が「花見(はなみ)」だと言う。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 石川化学教育研究会編: 科学風土記ー加賀・能登のサイエンスー、p.107、板垣英治、兼六園の桜、裳華房(1997); 伊藤千寿(文)、松本敏之(写真): be on Saturday、不思議な花の謎を追う、日本古謡「桜」、うた(song)の旅人、2009年(平成21年)4月11日(土)、朝日新聞、朝刊より.

(参考資料) 兼六園花便り(兼六園、城森順子氏撮影):http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11003/kenhana/index.html

兼六園の菊桜(石川の植物、本多郁夫氏撮影):http://www48.tok2.com/home/mizubasyou/kenrokuenkikuzakura.htm

吉野千本桜(吉野山、吉野町、奈良、google画像):http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%90%89%E9%87%8E%E5%8D%83%E6%9C%AC%E6%A1%9C&um=1&ie=UTF-8&ei=QVezS5bTEoqTkAXjkqyDBA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4    &ved=0CB4QsAQwAw.

(追加説明) ○ 桜の名所といえば、まず奈良の吉野山、京都の嵐山をあげるべきだろう。吉野山、嵐山ともに1000年をこえる老木がある。また、謡曲「桜川」で有名な桜川(茨城県)、霞間谷(かまがたに、岐阜県)、小金井(東京都)、上野(同上)、榴ガ岡(つつじがおか、仙台市)、室(おむろ、京都市仁和寺)が代表的である。明治以降の植樹では、木曽川提(愛知県)、荒川提(東京都)が有名であり、井之頭公園(東京都)、村山・山口貯水池(同上)などのように新しく知られるように生ったところもある。

 桜の名木としては、奈良の八重桜(奈良市知足院境内)、白子(しろこ)不断桜(三重県白子町子安観音境内)が有名。白子の不断桜は、盛夏をのぞき、年中花をつける。巨木では山梨県の山高神代桜が日本一である。。(樋口清之監修: 生活歳時記、p.193、三宝出版(1994)より)

○ 花見(はなみ)については、古代、桜ではなくであったという。を賞する習慣は、平安時代に起った。当時はもっぱら貴族の行楽で、酒を飲みながら詩歌をうたった。庶民の行楽となったのは、元禄以降のこと。秀吉醍醐の花見は有名。昔、農村においては、花見は農作に先立って守らねばならぬ春の儀礼の一つで、これを花見正月ともいった。(樋口清之監修: 生活歳時記、p.204、三宝出版(1994)より)

〇 サクラの来た道ヒマラヤザクラ(染郷正孝、東京農業大学、特別寄稿、J.HTSJ,Vol.45,No.191,p.1-5(電熱 2006年4月):http://www.htsj.or.jp/dennetsu/denpdf/Prof_Somego.pdf

 ヒマラヤザクラの染色体を調べると、日本のサクラと同数(16個)の安定した野生種で、交雑実験やつぎ木の親和性も遺伝的に日本種と近縁であることが確認された。が、ヒマラヤザクラは日本のサクラに比べて、花の構造はもろいのに花びらが全く散らない矛盾や、枝は風に弱く折れやすい性質などが注目され、また、花からは朝露のようにポタポタと蜜を落とすという。なお、ジュウガツザクラやフユザクラの品種の存在は、遺伝子で言う「先祖返り」という現象とも言及されています。

〇 シダレザクラ(枝垂れ桜) 植物の話 あれこれ シダレばやり: http://home.interlink.or.jp/~hidebo/sidarebayari.html

 学者の話では「枝垂れるのは、遺伝子の配列が1つ違っただけだと思う」とのことです。

〇 枝垂れの原因
 樹木の枝が上に向かって伸びるのは、枝の先端部でオーキシンという植物ホルモンが伸長成長させ、ジベレリンというホルモンが肥大成長させることで生じます。が、何らかの原因で枝の上側にジベレリンが作用せず、肥大成長できずに枝が重力に抗しきれなくなり
枝垂れるそうです。
(文献)
(1)みんなのひろば(日本植物生理学会):https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=486
(2)Botanical Artsalon:http://botanicalartsalon.com/index.php?QBlog-20140307-3

〇 花筏(はないかだ)の由来

 花筏については、広辞苑によると、花が散って水面に浮かび流れるのを筏に見立てていう語。室町時代の閑吟集に、奈良の 吉野の川の花筏とあり、これが由来のようです。

吉野川の花筏

浮かれてこがれ候(そろ)よの
浮かれてこがれ候よの

 これは、恋歌みたいです。 閑吟集は、日本語大辞典(朝倉書店)によると、編者 未詳、東海地方に隠棲した詩歌に通じた文人または僧侶か。室町時代、1518(永正15年)8月成立。

 閑はミヤビヤカ、ホノカの訓。雅やかに静かに歌謡を吟誦する小歌集の意とみられる。春、夏、冬、恋の順に配列しながらも、各部立の中に恋歌が含まれているのが特長である。 室町時代の庶民の息吹が反映している、室町時代語の特徴を示す語列が多く搭載されている。 

« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ