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2013年4月10日 (水)

自然災害と地名の言い伝え、日本各地の地震、津波、洪水と深く結びついた地名(名取、女川、小名浜、女場、女遊戸、波倉、釜石、気仙沼、鎌倉、芋川、妙見、加賀、灘、桜島、普賢岳、蛇抜、板野など)、とは(2013.4.10)

 日本の各地に過去の大災害の教訓と深く結びついた地名が残っています。楠原佑介(くすはら ゆうすけ、地名研究家、1941~)によると、東日本大震災(2011.3.11)の東北被災地にも過去の津波の痕跡を示す地名が少なくないという。

 名取市(なとりし、宮城県)の「な」は古語で土地を意味し、「とり」土地が削り取られたことを指し、その昔津波が地面を削り取った土地だとのことです。続日本記(しょくにほんぎ、697~791)によると、この地名はすでに奈良時代にあり、平安時代の貞観年間(867~876)に起きた大地震と津波は有名ですが、それ以前にも多くの災害があったのではと見ています。東日本大震災では津波で900人を超す犠牲者を出し、仙台空港が一時使用不能となりました。

○ 女川町(おながわまち、宮城県)、小名浜(おなはま、福島県いわき市)など、 「おな」が付いているところが、東日本大震災で被災地名になっています。これは、男波(おなみ)と呼ばれる高く打ち寄せる波のことを、「み」を省き、「おな」と呼んだ名残と推測されます。

 東日本大震災では、女場(おなば、宮城県南相馬市小高区)、女遊戸(おなつぺ、岩手県宮古市崎山)の両集落は、海岸沿いではないのですが、津波の被害を受けました。海のそばで、「おな」の付く地名は東北地方だけでも十ヵ所を超えるという。

○ 波倉(なみくら、福島県樽葉町)のとは、「刳(く)る」名刺化した語で、地面がえぐられたような地形に使われることが多いという。文字通り、波がえぐった土地というわけです。今回の東日本大震災では辛うじて損壊をまぬがrた福島第2原発も、津波の危険性は大きいことが推測されます。

○ その他、釜石(かまいし、岩手県)は、釜のようにえぐられた磯に由来し、気仙沼(けせんぬま、宮城県)は、津波によっても「消せない」との願望の意です。

 また、東海地震で危険が疑われる場所として鎌倉市(かまくらし、神奈川県)があり、「かま」とは、かまどや釜の由来でもあるように、穴のへこんだ状態のことです。記録が確かな13世紀の百年間だけでも7度の大きな地震、津波に襲われ、膨大な死者を出したことを語り継ぐ必要があります。

○ 芋川(いもかわ、新潟県)は、「埋もれる川」、中越地震に近い山古志村から南流、妙見(みょうけん、新潟県)は、損壊するという意味の「めげる」に由来し、中越地震で山崩れが発生、加賀(かが、石川県)は、自然の力で「欠け」た土地の意味、波により多くの崖(がけ)ができたとのこと、(なだ、兵庫県)は、地面が大きな力で「なでられる」、「なだれ」に由来、阪神大震災で被災、桜島(さくらじま、鹿児島県)は、噴火口が「裂(さ)ける」に由来、普賢岳(ふげんだけ、鹿児島県)は、「吹けぬ(噴火しない)ように」との願望の意です。

○ 蛇抜(じゃぬけ)の地名は、長野、岐阜、富山、長崎など各地にあり、水害の歴史と深く結びついています。笹本正治(ささもとしょうじ、歴史学者、信州大副学長、1951~)によると、かって蛇抜で多くの犠牲者が出た与川のある木曽地域では、花こう岩の白い地質があり、川を曲がりくねりながら抜けていく土砂は、白い大蛇に見えてもおかしくなく、ここから土石流蛇抜と呼ぶようになったと推測されます。

 東日本大震災という未曽有の大災害を受け、全国の自治体では各種のハザードマップを作成する動きが広まっている中、楠原氏は、「マップには大字(おおあざ)や小字だけでなく、確認できる限りの旧地名を盛り込み、古(いにしえ)の人々が未来にどのような警笛を鳴らしているのかを、考えて欲しい」と提言しています。

(参考文献) 北陸中日新聞: 地名から災害の歴史を学ぶべきだと話す楠原氏(東京都千代田区で)、研究家が著書で訴え、地名から災害史学んで、この地名が危ない(幻冬舎新書)今月下旬出版、2011年(平成23年)12月3日(土)朝刊; 北陸中日新聞: 生活、蛇抜、蛇の道、地名は災害教訓、2013年(平成25年)1月7日(月)朝刊.

(追加説明) ○ 阿波(のち徳島)藩の藍の生産地、板野(いたの)の地名は、(いた)は、傷む(いたむ)の語幹であり、河川などによる川岸の崩壊に由来するので、板野(いたの)は吉野川の氾濫によりできた平野を意味していると推測されます。

 1784年(天明4年)頃、阿波藍生産地の中心は、吉野川中・下流域の北方5郡(名東、名西、麻植、板野、阿波)、特に吉野川下流の板野郡の地域でした。この地域は、吉野川が毎年氾濫し(1800年代で16回)、上流から土砂が流出し、肥沃な平野を形成していました。

 俗説では、徳島藩が吉野川流域に堤防を築かなかったのは、流域の藍作を持続したいためとのことですが、史実は、藩には吉野川の完璧な治水工事を行う財源もなければ、労働力の確保も出来なかったのだと言われています。

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