« 揚浜塩田(珠洲、能登)、加賀藩の塩手前制度、揚浜式製塩、能登の塩士(製塩業者)を救った医師、藻寄行蔵(もよりこうぞう)、すず塩田村、とは(2013.4.23) | トップページ | 蟇目(ひきめ)の神事、鏑矢(かぶらや)が空中で音を発して飛び悪霊を退散させる! 二荒山神社(栃木県日光市)、若宮八幡宮(石川県白山市)、とは(2013.4.26) »

2013年4月24日 (水)

真脇遺跡(能都町、石川県)、縄文時代の祭祀の遺跡、環状木柱列(北陸特有のクリ木柱を環状に並べた遺跡)、環状列石(柱状または板状の石を環状に配置した遺跡)、火きり臼出土、古墳時代の雨の宮能登王墓、とは(2013.4.24)

 真脇遺跡(まわきいせき、能都町、石川県)は、三方を丘陵に囲まれた標高約4~12mの低湿地にあります。

 真脇遺跡(能登町、ホームページ): http://www.mawakiiseki.jp/index.html

 1982年(昭和57年)からの発掘調査で、縄文時代(2000~6000年前、紀元前数千年前の縄文時代前期から紀元前後の晩期)の長期安住型の大集落遺跡であることが分かりました。

 出土品は、土器、石器、装身具類、編物縄類、木製品、巨大な柱根、大量のイルカ骨など、極めて多彩でした。そして、1989年(平成元年)1月9日、指定史跡となりました。

 環状木柱列

001

環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ、真脇遺跡、.能都町、石川県、北陸中日新聞、2011.11.8.朝刊) 環状木柱列(真脇遺跡、能登町、石川県)

(解説)、縄文時代晩期(約2800年前)の復元工事が終了した環状木柱列です。この遺構が出土した場所に、地上高7mの本物のクリ木材を使用した、木柱10本が立てられました。

 長さ約8m、幅約80~100cmの半割のクリ木柱10本を、直径約7mの環状に配列してあります。海に面した南側には「門扉」として地上高3.5mの木柱4本も立てられました。この復元工事の完成式典が、2011年(平成23年)11月9日、能都町(石川県)で開かれました。 

 真脇遺跡では、1982年(昭和57年)と翌年の、はじめての発掘調査で木柱根が発見されました。その後、2011年(平成23年)11月には、建物の柱とみられる4本のアテ木柱根と21本のクリ木柱根が発見され、一部は過去に発掘された環状木柱列とほぼ同年代とも推定されました。

  このような環状木柱列は、北陸地方(富山、新潟など16遺跡)を中心に全国で20例発見されています。すべてクリが用いられていて、半割りのクリ木柱6~10本が環状に並べられてたものです。

 これは、北陸地方特有の縄文時代の遺構で、使用目的や上部構造は明らかにされていないようです。が、北陸(石川、富山、新潟など)は豪雪地帯なので、冬でも目につき、雪の量の目印にもなる高さが7mほどの高いクリの木柱を立てたとも推測されます。

 また、北日本(北海道、東北、中部など)に残る縄文、弥生時代の遺跡、環状列石のような、祖先や自然(春に豊作を祈り、秋には稔りに感謝!)の祭祀(さいし)などに使われた可能性があります。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 北陸中日新聞: 能都町の真脇遺跡、「環状木柱列」復元終わる、縄文期の姿あらわ、あす式典、2011年(平成23年)11月8日、朝刊; 北陸中日新聞: 真脇遺跡、あて7の環状木柱列か、能都町教委など 7本の柱根発見、2011年(平成23年)11月19日、朝刊; 石川県の歴史散歩編集委員会(編集代表、木越隆三): 石川県の歴史散歩(1版)、p.210~211、真脇遺跡、山川出版(2010).

(参考資料) ○ 環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)は、チカモリ遺跡(新保本町、金沢市)にも見られ、1987年(昭和62年)国指定史跡となっています。 チカモリ遺跡(ウィキぺディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%A2%E3%83%AA%E9%81%BA%E8%B7%A1

環状木柱列(google画像検索): http://www.google.co.jp/search?q=%E7%92%B0%E7%8A%B6%E6%9C%A8%E6%9F%B1%E5%88%97&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=QTF2UcDRCIqTiQfKgoBQ&ved=0CEgQsAQ&biw=1366&bih=588

○ 環状列石(かんじょうれっせき、ストーンサークルとも)は、わが国では北日本(北海道、東北、中部など)の縄文時代の後期・晩期に多く見られる。高さ1m前後の自然の柱状または板状の石を、多数環状に配置したもので、新石器時代から初期金属時代に祭祀・埋葬に関連してつくらました。

 インドのデカン高原、アッサム地方、シベリアのミヌシンスク、アジアに広く分布し、ヨーロッパではイギリスのストーンヘンジは有名です。太陽崇拝に関係がある宗教的遺構とされるが、墳墓に関係あるとも考えられます。(広辞苑、小百科辞典より)

○ 日本庭園の起源環状列石、環濠、前方後円墳、縄文・弥生・古墳時代、本浄高治編):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/194.html. 

大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき、大湯ストーンサークル縄文時代、十和田、鹿角市、秋田、google画像) 大湯環状列石(文化遺産オンライン、文化庁):http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=137714

(解説)○ 縄文時代(じょうもんじだい、紀元前12000年~紀元前500年頃)、環状列石(ストーンサークル)は、石あるいはいくつかの石を組み合わせたもの(配石遺構、はいせきいこう)を環状に配置するもので、環の直径は約10~50mほどです。大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき、十和田、鹿角市、かづのし、秋田)は、単位となる配石遺構が墓群であることが明らかにされており、祖先や自然に対する「祭祀、さいし、まつり」の場であったと考えられています(小林達夫氏、1937~ 、考古学、より)。これらは、広い意味での庭園と見ることもできるという(小野健吉氏、1955~ 、日本庭園史、より)。

○ 弥生時代(やよいじだい、紀元前400年~300年)は、水田稲作を基盤とする社会が形成された時代です。弥生時代中期に造営された田和山遺跡(たわやまいせき、松江市、島根)は、集落では春に豊作を祈り、秋には稔りに感謝する「祭祀、さいし、まつり」の場と考えられています。

○ 北陸地方真脇遺跡、チカモリ遺跡、寺地遺跡などに縄文時代のウッド・サークルの遺構がある。ウッド・サークルは、縦半分に割ったクリの巨大な木柱十本ほどが断面を外側にしてサークル状に並べられたものである。それらの遺構にはサークル状の柱跡が無数に存在し、ウッド・サークルが何年かに一度立て替えらえていたことを示している。

 神の依り代であるが、古くなった柱には神が降臨しないと考える信仰によってウッド・サークルは何年かに一度は立て替えられたのであろう。

 諏訪御柱祭山出し里曳きの神事、また伊勢神宮出雲大社式年遷宮(神さまに、人間の世代交代が起こると考えられる、20年、あるいは60年ごとに、新しい宮へお遷りいただくことによって、神さまの魂は永遠に生き続けるという思想、世代交代を祝う、一種の生命甦りの儀式!)は、そのような伝統を継ぐものであろう。(北陸中日新聞: 梅原猛、 文化、思うままに、御遷宮について永遠に生きる神の魂、2013年(平成25年)3月25日(月)夕刊)

〇 古墳時代の王 パネルで紹介 雨の宮能登王墓の館

 雨の宮能登王墓の館(中能登町): http://www.town.nakanoto.ishikawa.jp/webapps/www/section/detail.jsp?id=290

 昨年12月に中能登町の雨の宮古墳群が「いしかわ歴史遺産」に認定されたことを受けて、雨の宮能登王墓の館(西馬場)で21日から、古墳時代に能登を支配した王族を紹介するパネルが展示される。

 能登地方最大の穀倉地帯だった一帯では稲作文化が栄え、弥生時代に村が誕生し、王は権威を示すために古墳を造った。雨の宮古墳では、4世紀後半に周辺を支配したとされる王の墓をはじめ計36の墓が確認されている。(北陸中日新聞、2018,2.16)

〇 本州最古か 火きり臼出土 縄文時代に木で発火 裏付け 石川県・能登 真脇遺跡跡に3300年前の板 (朝日新聞デジタル): https://www.asahi.com/articles/ASL2R41Y2L2RPJLB00C.html

 北陸最大級の縄文時代の遺跡として知られる石川県能登町の真脇(まわき)遺跡(国史跡)で、火おこしに使われたとみられる約3300年前の板「火きり臼(うす)」がみつかった。真脇遺跡発掘調査団と町教委によれば、本州で出土した火きり臼では最古とみられ、縄文時代に木を使って火をおこす技術があったことを裏付ける重要な資料として注目される。

 調査団は2009年度〜15年度、遺跡内の約400平方メートルを発掘調査した。その後の洗浄や分析作業を通じて、このうちの板状のスギ材が火きり臼であることが分った。スギ材は長さ39.1㎝、最大幅5.5㎝、厚さ1.8㎝。裏表にそれぞれ直径1.5㎝程度のくぼみがあり、その一つに炭化した痕跡が残っていた。

 想定される火おこしの仕組みは、「摩擦式」と呼ばれる方式だ。火きり臼のくぼみ部分に「火きり杵(きね)」と呼ばれる木の棒を立てて、手で棒をぐるぐると回転させる。木と木をこすり合わせることで摩擦が起こり、その摩擦熱で木くずを発火させ、火種を作ったとみられる。ただ、今回の調査では火きり杵はみつかっていない。(朝日新聞、2018.3.24)

« 揚浜塩田(珠洲、能登)、加賀藩の塩手前制度、揚浜式製塩、能登の塩士(製塩業者)を救った医師、藻寄行蔵(もよりこうぞう)、すず塩田村、とは(2013.4.23) | トップページ | 蟇目(ひきめ)の神事、鏑矢(かぶらや)が空中で音を発して飛び悪霊を退散させる! 二荒山神社(栃木県日光市)、若宮八幡宮(石川県白山市)、とは(2013.4.26) »

● のと、かが(四季折々、能登半島、白山市、能美市、小松市、石川県)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 揚浜塩田(珠洲、能登)、加賀藩の塩手前制度、揚浜式製塩、能登の塩士(製塩業者)を救った医師、藻寄行蔵(もよりこうぞう)、すず塩田村、とは(2013.4.23) | トップページ | 蟇目(ひきめ)の神事、鏑矢(かぶらや)が空中で音を発して飛び悪霊を退散させる! 二荒山神社(栃木県日光市)、若宮八幡宮(石川県白山市)、とは(2013.4.26) »

2018年9月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ