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2013年4月23日 (火)

揚浜塩田(珠洲、能登)、加賀藩の塩手前制度、揚浜式製塩、能登の塩士(製塩業者)を救った医師、藻寄行蔵(もよりこうぞう)、すず塩田村、とは(2013.4.23)

 江戸初期、加賀藩は、3代藩主前田利常(1594~1658)の頃、能登の沿岸部領民の塩士(しおじ、製塩業者)に米を前貸与し、揚浜塩田(あげはまえんでん)で作った塩で返納させる、塩手前制度(しおてまえせいど、塩の専売制)を実施しました。

 揚浜(あげはま)は、塩田の一種で、満潮面より高い海浜の砂上に海水をまいて、天日により水分を蒸発させ塩をとります。一方、入浜(いりはま)は、満潮面より低い海岸に海水を流入して行う製塩法です。

塩田(えんでん、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E7%94%B0. 塩田の歴史(愛知県博物館): http://www.geocities.jp/shimizuke1955/304salt3.html

 能登製塩は、背後は山、日照時間が短いこと、湿度が高いこと、潮の干満の差が約20cmしかなく、その上波が荒いため、3月の塩田の修理点検から始まり、9月の翌年の塩を炊く薪(たきぎ)の準備をへて10月に終わりました。年間の生産高は、15~30万俵(1俵は50kg)でした。海水のくみ揚げや塩田への散布は、もっぱら人力に頼りました。

 1871年(明治4年)の廃藩置県で、塩士(しおじ、製塩業者)は塩の販路がなかったので、たちまち困窮しました。この危機を救ったのが、珠洲市上戸町生まれ、幕府の昌平黌(しょうへいこう)で学び、のち京都で医学を修めた医師、藻寄行蔵(もよりこうぞう、1820~1886)でした。また、能登国第12区長(現在の市長)を務めました。

 行蔵は、当時の七尾県を通して国とかけ合い、国から約52400円(現在の約6億円)の融資を得ました。さらに、製塩組合を結成するなどして業者の自立を助けました。

Photo
     珠洲市文化財に指定された能登塩田再興碑、珠洲市上戸町、2016.12.9 

 藻寄行蔵が亡くなった翌1887年(明治20年)、塩士(しおじ、製塩業者)たちは資金を出し合い、奥能登塩田再興碑を建てました。損傷が激しく、2013年7月~同11月修繕。

  戦後は、技術革新で塩の値段が暴落し、生産性の低い能登の揚浜塩田は、1959年(昭和34年)の第3次塩業整備で廃止となり、観光目的で2軒のみ残りましたが、専売公社による買い上げ価格が安く、2年後には角花(かくはな)家を残して廃業となりました。

 そして、1990年代には、珠洲市仁江(にえ)町で伝統の塩を守ってきた、角花家の1軒のみになっていました。これは、 角花家4代目の菊太郎さんが、戦時中、軍に塩づくりを命じられ、出征をまぬがれたので、「戦争で死んだ友のためにも、命ある限り塩をつくり続ける」、との信念によるものでした。

奥能登塩田村仁江町珠洲市、石川県):http://www.okunoto-endenmura.jp/index.html

揚浜式製塩(すず塩田村、円錐形の打桶に入れた海水を投網のように弧をえがいてまく、珠洲、能登、石川、google画像 )  能登半島の先端、珠洲市の仁江海岸では、2012年(平成24年)、揚浜塩田を営む角花家5代目、角花豊さん(64)は早朝、約100坪の塩田に約1300リットルの海水をまいていました。

道の駅 すず塩田村(のとねっと、石川): http://www.notohantou.net/shpc/0768872040.html

(解説)1995年(平成7年)4月、横道嘉弘さん(73)による市などによる呼びかけで、資料館を備えた「奥能登塩田村」が開村し、「すず塩田村」として道の駅に登録しました。1997年(平成9年)には、塩の専売制が廃止され、自然塩ブームもあって、次々と塩田が復活してきました。

 その後、揚浜式製塩業は10社以上となり、「道の駅すず塩田村」に受け継がれ、2008年(平成20年)、国の無形文化財に指定されました。

 揚浜式製塩は、きめ細かな砂を敷き詰めた塩田に、木や竹製の手桶を使って海水をまき、天日で水分を蒸発させます。塩分を含んだ砂は、集めて木枠で囲んだ中に入れ、さらに海水をかけて濾過(ろか)し、塩分濃度の高いかん水を集めて、大釜で煮詰める製塩法です。

 塩田用の砂取りから始まる、炎天下での過酷な労働が、哀愁をおびた「砂取節(すなとりぶし)」(県民俗)を生み出し、当地に伝わっています。 塩をとるとき 百日浜辺 沖のはせ船 見て暮らす

 天日塩には、食塩の主成分のナトリウムのほか、マグネシウムやカリウム、カルシウムなどミネラルがたっぷりと含まれていて、「甘みが感じられておいしい」という。この塩は漬物や梅干し用にもいいし、おかゆやおむすびにも合います。甘みの隠し味として使う人もいます。 奥能登揚げ浜塩(仁江町、珠洲、能登半島、石川): http://www.notostyle.biz/SHOP/fo01-001.html

 2010年(平成22年)、珠洲市に住むアメリカ人女性は、人の手で引き継がれた伝統の味を、その歴史と技法を併せて外国にも発信したい、という。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、日吉芳朗、p.48~50、能登の製塩、裳華房(1997); 石川県の歴史散歩編集委員会編:石川県の歴史散歩(1版)、山川出版社(2010); 北陸中日新聞: 翔ぶ 北陸発 世界行き、天然塩作り守り続け、石川県珠洲市 角花豊さん、太陽と風 判断が命、2010年(平成22年)7月30日、朝刊; 北陸中日新聞: 能登36景をめぐる旅、16景 揚げ浜塩田(珠洲市)、千枚田と並ぶシンボル、2012年(平成24年)8月15日、朝刊; 朝日新聞: 揚浜塩田(珠洲市)、一軒からの挑戦 能登活性化夢見て、海と人 信念の決勝、2012年(平成24年)9月18日、朝刊; 朝日新聞: 能登・塩士の窮状救った藻寄行蔵、功績の碑修復へ、来春、生家も農家民宿に、珠洲市が予算、2012年(平成24年)10月13日、朝刊.

(追加説明)○ 能登半島の製塩は、古墳時代の土器製塩に始まり、珠洲市三崎町の森腰浜遺跡などでは、底が棒状にとがった製塩土器が大量に出土しています。鉄釜使用の揚浜式製塩法が広まったのは、江戸時代初期とのことです。

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