昔の庶民の教育機関として、平安時代の綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)、また、鎌倉・室町時代の僧侶(そうりょ)による寺院教育を起源とする、江戸時代の寺子屋(てらごや)などがよく知られています。
日本では、庶民の教育水準は、昔から、それなりに高かったと言われています。そこで、日本の庶民の教育水準を高めた起源と思われる、これらの教育機関について、改めて調べてみました。
○ 綜芸種智院
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)は、828年(天長5年)、空海(774~835)が京都に開設した私立学校です。 綜芸(しゅげい)は、三教(顕教・密教および儒教)、種智(しゅち)は、菩提心(ぼだいしん、密教で、悟りの根源的な心)をいう。

空海(弘法大師、774~835、真言宗、密教修験道 )
この学校は、空海が、身分上、大学・国学に入れなかった庶民の子弟のため、京都九条の藤原三守(785~840、公卿)の旧宅を買い受けて建てた、わが国最初の普通教育機関です。 そこでは、人々に仏教と儒教を教授しました。また、内外典も講じましたが、空海の死後まもなく廃校となりました。
○ 寺子屋
寺子屋(てらこや、寺小屋とも)は、江戸時代から明治初年の学制公布までに設けられた、庶民の子弟のための初級教育機関です。
徳川吉宗(徳川記念財団蔵、1684~1751、Google画像)
徳川吉宗(とくがわよしむね、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97.
(解説) 江戸時代の庶民の教育機関は寺子屋でした。都市と農村の商品経済の発展によって、庶民の間に学問に対する要求が高まったことにもよりますが、こうした社会の動きを敏感にとらえた第八代将軍徳川吉宗(1684~1751)の功績も大きいという。
吉宗は、庶民教化のために学問の奨励を行ない、そのために寺小屋は、急速に普及しました。寺子屋は、おもに、庶民の子弟を収容しましたが、武家の子弟向きのものもありました。その起源は、鎌倉・室町時代の寺院教育です。
教室は、寺院や神社、民間などの一室を借り、教師は武士・僧侶・神官・医師などが当たりました。生徒も10~13人程度の小規模なものでした。
教育内容は、手習いを通して、読み・書き・習字などを教えるものが多く、のちには算術(そろばん)も加えた基礎的なものでした。その後、寺小屋の普及にともなって、地理・歴史・教訓書などの教科書も多数出版されるようになりました。
寺子屋の教師は、ほとんどが男でしたが、まれに女の先生もいました。また、女生徒も少なくなく、女子教育も行われていました。
幕末の頃になると、寺子屋の数が急速に増加し、明治初年までの開設数は15000ほどになりました。庶民教育が庶民の手でなされるようになり、日常生活と生産活動に結びつくものとなりました。
というわけで、寺子屋を中心とする庶民教育の発展が、明治の初等教育の重要な基盤となりました。明治初期に生まれた人たちに、文字の読み書きの出来る人が多いのも、この寺子屋の伝統があったことに由来する、と考えられます。
(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 樋口清之監修: 生活歳時記(第2版)、p.197 寺子屋の歴史、三宝出版(1994).
(参考資料) 空海(弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b794-2.html.