内灘闘争の今昔、朝鮮戦争の頃の米軍砲弾の射撃指揮所(千鳥台)、第一着弾地観測所(宮坂)、第二着弾地観測所(西荒屋)などの建造物遺跡、基地の返還とその後の発展、とは(2014.9.27)
内灘(うちなだ)は、石川県河北郡の6村(向粟崎村、大根布村、宮坂村、黒津船地村、西荒屋村、室村)が合併した村(のち内灘町)で、金沢市に隣接しています。ここには、今も米軍砲弾の射撃指揮所(千鳥台)や着弾観測所(宮坂、西荒屋)などの建造物遺跡が残っています。先日(9月22日、24日、27日)、久しぶり、インターネットの地図を頼りに、マイカーで現地を訪ね、それらの遺跡をデジカメに収めました。https://www.facebook.com/honjo1003?fref=nf
米軍砲弾の射撃指揮所(千鳥台、内灘町、河北郡、石川県、2014年9月22日撮影) 現在は、海水浴場の監視棟ともなっています。また、ここから見える砂丘の右上の斜面、携帯アンテナタワーのところに宮坂の弾着地観測所跡があります。砂浜に砲座が置かれ、発射が繰り返されたという。
第一米軍砲弾の着弾観測所(宮坂、内灘町、河北郡、石川県、2014年9月24日撮影)
第二米軍砲弾の着弾観測所(西荒屋、内灘町、河北郡、石川県、2014年9月27日撮影)
(解説) 1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ調和条約において、日米安保条約が締結されました。1952年、(昭和27年)9月、米軍用地接収係が秘かに内灘砂丘地を視察、10日後、日本政府は内灘の砂丘地及び接岸海域の接収を決定、米軍の各種砲弾試射場に指定しました。ここで、米軍は日本から納入される武器の試射として、1日1千発に及ぶ砲撃を開始した。
これは、小松製作所(小松、石川)で、朝鮮戦争の特需砲弾が製造され、その試射場として内灘砂丘が接収されるというニュースでした。 村民は、「金は1年、土地は万年」を合言葉に、反対闘争が展開されました。 これは、日本さきがけの米軍基地反対闘争となりました。
1957年(昭和32年)返還後、試射場の補償事業として、公共施設や道路が建設されました。そして、砂丘地が開墾され、河北潟の干拓が進み、現在は金沢近郊の住宅地(ニュ-- タウン)としての光景もよく見られます。
(参考資料) ○ 内灘闘争(内灘砂丘、石川)にまつわる歴史実話、朝鮮戦争、米軍基地反対闘争、非行少女(映画)、とは(2010.1.25): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/57.html
○ 内灘闘争(花もわたしを知らない、ブログ、風と砂の館): http://orugodon.blog17.fc2.com/blog-entry-2013.html
○ 旧米軍試射場跡(SORA、ブログ、千鳥台、宮坂、内灘町): http://g4.cocolog-nifty.com/sora/2012/04/2012414-sat-eda.html